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GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

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    橋の下のフローリア第一幕 「王宮」編 110111213第二幕 「放浪」編 11011第一幕 「王宮」編 1



     月下に花が咲いた。

     舞台に見入る多くの者たちは、そう思って息を飲んだ。

     廊下を足早に進むある男も、賑やかなはずのホールが水を打ったように静まり返っていることに気づき、いつもは見向きもせず通り過ぎる場所で足を止めた。

     人々が視線を注ぐ先。意匠に曲線が多く用いられた装飾の舞台。

     数名ぽっちの楽団を隅に置き、一人の女が真ん中に立っていた。

     爪先立ちでピンと伸びた背筋に、天と正面に向かってのばされた腕。彼女はまるでロウ人形であるかのように、指先までピタリと動きを止めている。

     こんなに注視されているのだから何者かと思ったら、ただの踊り子か。

     忙しい男は、足を止めさせられたことをいらだちつつ思う。

     宮殿で暮らす貴族たちに演技を見せに来た芸者。目元をベールのような布で覆っていて顔はよく見えないが、さほど身分の高い女ではあるまい。

     有力貴族に気に入られたのか、あるいは体でも使ったのか。音に合わせてフラフラと動いているだけで金になるというのだから、気楽なものだ。

     男は侮蔑するようにそう心の中で皮肉ったが、音楽が始まり動き出した彼女を見て、その考えが間違いであることがすぐに分かった。

     男は、子供の頃に泉で見た、水辺で遊ぶ美しい小鳥を思い出した。

     いつもは大酒を食らってばかりのあのデブの貴族たちも、今ばかりは、初めてオートマタ(からくり人形)を見る子供のように、半口を開けて彼女の舞いに見入っている。

     舞台を広く動き回るも音はせず、まるで踏まれる床のことを気遣っているようにさえ見えた。

     しなやかなその体の動きは身軽な子猫のよう。軽やかに跳ねる姿は、重力から解き放たれたかのようだった。

     彼女が優雅に腕を払う。少し遅れて、薄手の衣装の腕飾りが、風を受けてふわりとついてくる。

     すらりと伸びた四肢を透ける布が覆っていて、筋肉の動きが読めない。だから彼女が次にどんな動きを披露するのか予想がつかず、期待感が増した。

     彼女の舞台に見入ってしまっていたということに男が気がついたのは、しばらく経ってからだった。

     彼女が優雅に一礼し、夢から覚めたような顔をした観衆たちが思い出したかのように拍手をしはじめ、その音で我に返った。

     表情らしい表情も浮かべぬまま、何を考えているか分からない冷たい目をした男は、そのまま無言でその場を去った。

     宵闇を華やかなオレンジが照らす夜。天井をガラスに切り抜かれたホールの空からは、月や星さえもが、彼女の舞台を見に来ていた。

     顔を覆うベールの下からわずかに覗く、彼女の薔薇色の唇は、三日月型に妖艶に曲げられていた。






     昼の宮殿は人が少ない。

     腰まである長さの、色素の薄いブラウンの髪を背中に流した女は、辺りをさりげなく見回しながら歩き、そう思った。

     夜の舞台上とはすっかり姿を変え、何層もフレアが重なったスカートに襟ぐりの広いトップスをあわせている。

     深い碧(みどり)色をした彼女の瞳が左右をうかがう。

     ここで暮らす多くの者たちは、まだそれぞれの部屋で過ごしているのだろう。

     貴族様たちは毎晩酒宴で忙しいものね、と女は心の中で毒づく。

     この国では、形骸的な頂点である王の地位を血縁者が代々世襲し、生まれで区分された身分である「貴族」らが、王の委任を受けるという形で政治の全てを行う。

     王宮の敷地内にあるこの一番豪華で大きな宮殿は、貴族たちが暮らし、政治を行う場所。政の中心地。

     一応、そのようなていになっているが、多くの国民たちはこの宮殿をそのようなものとして見ていない。

     堕落と怠惰の園。

     自分たちの裁量で国民たちから巻き上げた税金で、食い飲み遊ぶ貴族たち。総国民の五パーセントにも満たない者たちが、伝統ある血筋とやらを武器に、多くの人々にその暮らしを支えさせている。

     重税に苦しむ国民たちにとって、この宮殿はそんな貴族たちの奢侈の象徴だった。

     周りの外壁を一周するのに半日かかりそうな広さ。贅を尽くした重厚なデザインと、華美な装飾品。天井や壁面などあらゆる場所に描かれた華やかな壁画。いくつも吊るされたガラスのシャンデリア。

     国民一人が一生に稼ぐ全ての金をかけても買えないような宝石が、絵画が、調度品が、あらゆる場所に当たり前のように置かれている。

     女の歩く廊下に敷き詰められた絨毯は分厚く、足音を吸い込む。

     大人の背丈の三倍の高さはありそうな大きな窓ガラスからは、一つの葉の自由も許さず整形され、刈り込まれている木々が見える。窓ガラスの縁に沿う緩やかな金の曲線が、昼の高い日差しを浴びてキラリと光っていた。

     珍しく、宮殿の召使以外の姿を見つけた。

     丁度こちらの方向に歩いてくるもじゃもじゃした髪の毛のその男は、魔法の下手くそな魔女が、練習で熊を人間に変えてみたような容姿をしていた。

     その大柄な中年男性貴族は彼女の傍までくると、じぃと顔を見た。

    「見ない顔だなぁ。召使ではないし……。一体何者だ?」

     いぶかしげなその言葉に、彼女は目を細め、薔薇色の唇を緩やかに曲げて微笑んでみせる。

    「宮殿への出入りを特別に許されております、町の踊り子でございます」

     夜の舞台でのように、しなやかな腕と指先の動きで優雅に一礼した。

     スカートのすそを摘まみ、細く長い脚を覆うブーツの爪先を床に滑らせる。

     男は「ああ!」と、彼女の動きですぐにピンときたようだ。

     そしてその毛むくじゃらの手で彼女の白い手を取ると、指先にじゅっと口付けた。

     手を離さぬまま、視線は彼女を見上げ、熱く語る。

    「毎晩、ホールに君の舞台を見に行っているよ。ベールの下はそんなに美しい顔をしていたんだね」

     そして男は彼女にこう耳打ちする。

    「今夜、舞台が終わったら私の部屋に来ないかい。君の踊りの感想をたっぷり伝えたいんだ」

     彼女は黙ったまま、ずっと変わらぬ微笑を口元にたたえ、はいともいいえともつかない妖艶な眼差しを向けていた。

     ここで強引に迫るような真似は、男女の駆け引きでは無粋だ。

     男もニヤリと微笑んでみせると、手を離し、彼女に熱い視線を送ってその場を去った。

     女は去り行く男の背中に、また優雅に深く頭を下げてみせたが、その下を向いた顔は微塵も笑ってはいなかった。

     舌打ちが出そうになるのを何とかこらえ、男がキスした指先を服で何度も拭う。

     彼女は先を急いだ。

     向かう先は、ある重要な役職に就く有力貴族の執務室。

     人目がないか注意を払いつつ、密かに入手した合鍵で扉を開ける。

     室内に入り込むと彼女はすぐに机や棚をあさり、中の書類や書簡を探し出す。

     しなやかな指先が素早く紙をめくる。視線が文字列をなめらかになぞり、すぐに行を移る。

     この部屋には彼女しかいないけれど、誰かが見ていたのならば、彼女がただの踊り子ではないことは一目で分かっただろう。

     彼女が沢山の書類を見ていると、最新の政治計画のひとつのある項目が目に留まった。

     どうやら貴族たちはまた、国民の税負担を増やすつもりらしい。

     この王宮を中心とする「王都」。それを取り囲む城下の「市街」。そしてその華やかな周りに、カビが生えるように暗く広がる「貧民街」。

     王都に住まうは貴族。市街に住まうは、規定の税を納められる市民階級。そして貧民街には、税など納められるわけもない貧乏人、病人、孤児らがいた。

     更に書類を読み進めると、とんでもない計画が提案されていた。


     貧民街のスリグループの掃討作戦。誰かが貴族の財布に手を出したか何かで、それを名目に、なんと貧民街に火を放つというのだ。

     あそこに住まざるをえない人々の多くは、国の失政により家族を失った子供たちだ。

     火をつけるなどとんでもないことをする前に、やるべきことはもっとあるはず。

     それに、貧民街の奥深くでは、寝たきりの病人や老人たちも暮らしている。

     ただひっそりと死を待つだけの彼らさえも、燃やし尽くしてしまおうというのか。

     彼女の表情は険しい。

     教えないと。そして、阻止しないと。

     そう思った刹那、扉の外に気配を感じ、彼女は机の下に身を隠した。ドクンと跳ねる鼓動を抑えて息をひそめ、まるで自分の耳が扉についているかのごとく、全神経を廊下の方にやる。

     分厚い絨毯が足音を吸収していてほとんど聞こえないが、彼女の今までの経験と鋭い勘で、扉の傍から気配が去ったことを察知する。

     時間的に、そろそろ貴族たちが活動しはじめているのかもしれない。

     彼女は書類を元に戻し、十分に注意した上で部屋を抜け出した。

     何事もなかったかのように、先ほどと同じ微笑みをたたえ、しなやかに足を進める。

     向かいから貴族の女性がやってきたので、彼女はまた深く一礼した。

     貴族の女性は、関わりたくもない卑しいものを見下す目で彼女を一瞥する。分厚い羽の扇で隠した口元で、どんな聞くに堪えない暴言をこぼしているかは、聞き取りたくもなかった。

     彼女は心底不快に感じたが、同時に仕方のないことだとも思う。

     本来なら自分は、この王宮に立ち入ることのできるような立場の者ではないのだから。

     この王宮において、貴族以外は人間ではない。愛玩用の犬猫や、畜生と同じだ。

     そして彼女は、貧民街の生まれである。







     彼女は王宮の裏出口で、痩せた少年に小さなメモ書きを預けた。

     緑の茂るこの小さな中庭には、いつも人気がない。

     背の高い木々が城壁に落とす濃い影の中で、気をつけて帰るように言う。

     その時。

    「貧民街のガキに食い残しをくれてやるな」

     遠くから急に男の声がして、彼女は立ち上がって宮殿の方を振り返った。

     かなり上背のある若い貴族の男が、宮殿の回廊からこちらに鋭い視線を向けている。

     整髪油で後ろに撫で付けられた、白みがかったシルバーブロンドの髪に、右目の眼窩には鎖のついた銀のモノクル(片眼鏡)がはめられている。その奥には青みがかった灰色の瞳が。

     職務中なのか、白い手袋をはめた手には大量の書類が抱えられていた。

    「この王宮から出るものは、ゴミの一つであろうと全て貴族のものだ。王宮の周りで乞食をされても迷惑だ」

     温度を持たない声。

     とらえられたら凍り付いてしまいそうな冷酷な眼差し。人を上から見下すことに慣れている目だ。

     その男の態度は、逆らう者には容赦しない、と物語っていた。

     男に声をかけられたのとほぼ同時に、彼女が手紙を託した少年は風のように走り去った。勿論、男を睨みつけることを忘れずに。その信じられない足の速さは、捕まれば命を取られるまでタコ殴りにされるスリの恐怖から培われたものだ。

     別に、宮殿の残飯を分け与えていたわけではない。

     しかし、身分が絶対のこの場所で、そんな言い訳を出来る相手でもないだろう。

     がたいの良い男の身体を覆う立派な上着の左胸部分には、歩くと音がするほど多くの勲章が飾られていた。ここではその種類と数がものを言うのだ。

     彼女は深く一礼をする。

    「大変失礼いたしました」

     彼女は大人だから、あの少年のように睨みつけたりなんてしない。

     どんなに不愉快な相手にだって、腹の立つ相手にだって、頭を下げたり微笑んでみせたりできる。

     男はなんの言葉も返さぬまま、言いたいことだけ言い、足早にその場を去った。彼の革靴が奏でる足音は、時を知らせる鐘の音のように狂いがない。

     彼女は頭を上げて彼の背を見た。

     彼女は自分の舞台を見に来る貴族の顔のほとんどを記憶していたが、あの男の顔は覚えがない。

     ろくに手もつけずに棄ててしまわれる宮殿のごちそう。ゴミと認識しているものでさえも、人に分け与えるつもりはないのか。お偉い貴族様の考えていることは分からないし、分かりたくもない。胸糞が悪い。

     彼女は本音が表情に出てしまわぬよう気をつけつつ、気持ちを静めようと一度深く呼吸した。

     木々の葉の隙間からこぼされる光をちらりちらりとその身に受けながら、彼女は自分の子供の頃を思い出す。

     両手からはいつもゴミの匂いがしていた。何度洗ったって落ちやしない、しみついた匂い。

     ゴミをあさって手に入れたわずかな食べ物も、持っていると襲われ奪われた。だから、得たものはその場で貪り食った。

     貧民街の暗い路地裏では、服を二枚持つものが、服を一枚しか持たない者に殴り殺されていた。

     犬猫と食料を争う。

     馬車が荷崩れして転がった作物に無我夢中で群がって、馬車を引く御者に靴の先で頭を蹴られたことがあった。その時頭皮がめくれた傷は、髪で隠れた中に今も痛々しく残っている。

     彼女に転機が訪れたのは、いつものように市街の細い路地でゴミあさりをしていた、ある時。

     見知らぬ大人の男性に声をかけられた。

    「おい、そこの残飯あさりの子供。私に笑ってみせろ。そうしたら飯をやる」

     貴族ではない。けれど確かな威圧感のある壮年の男性に、彼女の周りにいた子供たちは転がるように駆けて逃げ出した。

     しかし、彼女は逃げなかった。

     凍りついた表情筋をありったけの力で動かして、男を見て笑ってみせた。

     それはとても笑顔と呼べるような代物ではなかったが、男は満足したのか彼女にこう言った。

    「そうだ、それでいい。プライドなんてものがいくらあったって、腹は膨らまない。どんなに憎い相手にだって、媚びへつらって見せろ。自分を殺して残忍に、目的の為には手段を選ばず狡猾に。いかなる犠牲を払っても、耐え忍び、虎視眈々と準備して牙を磨き、最後に寝首をかき切った者の勝利だ」

     当時、彼女は満足に人と会話ができるほど言葉を理解できていなかったのだが、その男の存在感に、差し出された手を吸い込まれるように取っていた。

     それから彼女はスパイとして育てられた。

     男は、理不尽な貴族政治の打倒を画策する市民組織のリーダーだった。

     市民階級であっても、一部上位の知識階級でなければ、貴族と渡り合えるような十分な読み書きの能力を持ってはいなかった。

     貧民街の子供ならばその無学さは尚更だった。教育を受けるどころか生まれた頃から家族を持たず、最低限の言葉以外満足に話すことが出来ない者も多かったし、彼女もそんな一人だった。

     彼女に人間らしい生活を与え、化粧を施し、香水をふり、髪を整え、綺麗な服に身を包ませると、花のように可憐な美しさを持っていることが分かった。

     リーダーは彼女に、貴族と話せるだけの言葉と知識、礼儀と教養を教え込み、文字を教え、踊り子としての技術を身につけさせた。

     彼女は組織の大人たちとの関わりの中で、優雅に微笑む練習もした。一つ笑顔ととっても色々な種類があって、無邪気に笑うだけでなく、誘うように妖しく笑めるようにもなった。

     彼女は飲み込みが早く、身体能力にも優れており、演技の才能もあった。だんだん町で有名になり、その評判を耳にした貴族らにより、公演のため王宮に出入りすることが特例で許された。

     彼女が知る限り、それまで組織には彼女のような少女はおらず、年若い者といえば使い走りの少年が数人いたくらい。

     貧民街の少女を拾ってみたのも、きっと試しにだったか、もしくは気まぐれだったのかもしれない。

     彼女を拾ったリーダーは、流行り病で妻と娘を若くして亡くしていたし、組織には事情のある大人が多かった。だからか皆、彼女に何かを重ねていたのか、それなりに優しくしてくれていた。

     そして彼女も、もし家族というものを自分が持っていたのなら、きっと父親というのはリーダーのような存在だったのかな、とこっそり思っていた。

     だからこそ、例え身や心を削られるような任務であろうと、与えてもらった様々なことに報いれるのならば何でもする。そう固く心に決めていた。

     物心ついた頃から独りきりだった彼女には名前がなかった。

     貧民街の裏路地では、他の子供らから「橋の下」と呼ばれていた。いつも、ドブ川に架かる橋の下で眠るからだ。

     リーダーは彼女に相応しい名前をつけた。

     フローリア。

     私は、フローリア。

     そして彼女は、宮殿の回廊に足を進めた自分を怪しげに観察する存在に、まだ気がついていなかった。







     今宵もまた、ホールで酒宴が開かれていた。

     味が分かっているのかいないのか、分厚い肉を年代物の高価なワインで押し込む人々。

     その様は食事というよりもあらゆるものを吸い込んでいるかのようで、人の生まれながらの罪の一つに数えられるとされる「強欲」という言葉がよく似合った。

     肉にフォークをつき立てた白豚のような中年の貴族の男が、食事をしながら、その上座の傍に控えるように立つ背の高い若い貴族の男にこう言う。

    「非常に心苦しいことだが……。財政は火の車だ。優れた政策を執り行うためにはもっと金が必要だ。税収を上げざるをえない。非常に心苦しいことだが……」

     所々耳障りなクチャクチャという咀嚼音が挟まれたが、男は顔色一つ変えず、「は」と承知の言葉だけ発した。

     指示を受けた男はすぐにその場を離れようとしたが、赤ら顔をした周りの貴族たちにこう声をかけられた。

    「お前はやらないのか?」

     酒をぐいと差し出され、勧められるも、男は手をのばさない。

    「勤勉なのもいいことだけど、経験豊富な人々の意見も聞かないとダメなんだぞ」

     「経験豊富な人々」の「勉強会」の様子を、男はカミソリのような鋭利な眼差しで見つめる。

     するとその時、場の空気がさっと変わった。

     音楽が始まった。ホールに賑やかさをそえる楽団に、これまでだったら居ることすら気づいていなかったのだが、今は違う。

     皆の食事する手が止まりだし、舞台袖から出てくるであろう存在に胸を高鳴らせる。

     男はそのタイミングを見計らい、足早にその場を後にした。

     彼の去りゆく背を一瞥したあと、酒を勧めていた貴族の男は小声で言う。

    「……酒も飯も興味がない、そしてこの素晴らしい舞いの魅力も理解できない。あの男は人の感情が分からないんじゃないか?」

     その不満げな言葉に、上座の太った中年の男は含むように笑った。

    「そうさ。あの男には感情がない。どんな残酷な作戦も、指示すれば冷徹に計画し、実行する。人が死んでも殺されてもなんとも思わない人間に、この舞台の素晴らしさが分かると思うかね」

     そしてワインをゴブゴブと喉に流してから言葉を続ける。

    「あの光のない目で見られると、自分がまだ人間的で、優しい存在であると自覚できるよ」

     隣でククククと笑う男の妻も、目を細めてこう言う。

    「どんな残忍な作戦でもやりきる冷血な男……。だから皆、あの男のことを『冷酷者(ルシュレヒタ)』と呼ぶのよ」

     給仕の召使たちにより、周囲の燭台の灯りが一斉に落とされる。照らされるは舞台だけとなり、月明かりの優しい光がフロア全体を包み込む。

     廊下を歩いていても、男はあの踊り子が舞台に出てきたのが分かった。

     皆が同時に息を飲むから、嫌でも気づくのだ。

     舞台から遠く離れた場所だったが、男はちらりとそちらに視線を向け、足を止めた。

     奏でられる音楽は古典の名曲、悲恋を歌った曲だ。

     踊り子はいつもの通り目元をベールのような薄い布で覆っていて、表情が分からない。

     それでも、いや、見えないからこそ、彼女の舞う姿は様々な状況を表現してみえた。

     初めての恋に少女が心躍らすさまに見え、少女の想いを許さぬ大人たちに見え、悲しみのまま命を落とした恋人を追い、身を投げるように見えた。

     セリフや歌が一つもなくとも、曲の見せ場のシーンでは涙を拭っている観客もいた。

     男はまた、しばらくして周囲の拍手の音と共に、その場を去った。

     男はこの宮殿の現在の最高権力者の執務室に向かった。その部屋に自由な出入りを許されている人間はそう多くない。

     人々がホールに集い、すっかり静かになった廊下を進む。点々と灯りがともされ、大きな窓から月光が注ぎ込まれているため、日中ほどとはいかないまでも十分に明るい。

     目的の室内に入り、机上の燭台に火をともすと、豪華にしつらえられた部屋がその姿を浮かび上がらせる。宝石のあしらわれた高価な調度品、背の高い本棚。踏みつける絨毯には意匠の凝らされた柄が編まれ、男の腰周りよりも太い口をした花瓶には大輪の花が生けられていた。

     男はそれらには目もくれず、棚から書類を引き出す。そして諸外国からの書簡に目を通す。

     返信内容の基本的な指示だけ受けると、あとは文面を作成するのは彼の仕事だ。

     彼はあらゆる近隣諸国の言語に精通していたし、公的な書面には国ごとにより様々な形式や決まりがあり、それらをきちんと理解していた。そして綺麗な文字を早く書くこともできた。

     一般的な市民より抜きん出て読み書きができたため、幼い頃に城に入り、簡単な事務などを手伝っていた。

     そして彼は優れた頭脳と機転による数々の功績をたたえられ、市民の出でありながら、多くの貴族らと同じように胸に沢山の勲章をぶら下げるようになった。その数の多さでは、どんな名のある血筋の貴族にも引けを取らないだろう。

     今では恐らく、彼が貴族の生まれでないことを知っている者の方が少ないかもしれない。

     有能なこの男を取り立てた権力者たちは、彼を傍に置き、あらゆる作戦を指示し、実行に移させた。

     どんな残酷な作戦でも顔色一つ変えずに完璧に遂行させる彼を、周囲は「冷酷者」を意味する言葉「ルシュレヒタ」の異名で呼ぶようになった。

     締め切った部屋に、遠くからかすかに音楽が聞こえてくる。切なくも美しい旋律。

     男は、自分が知らない曲だったので、きっと今の町の流行りの歌か何かなんだろうと察した。

     おもむろに窓を開けると、ふわりとした夜風にのって音が流れ込んできた。

     男は視線だけで、窓から下の景色を見つめた。宮殿の最上階に当たるこのフロアからだと、少し離れた所にあるホールの明かりが見える。きっとあの踊り子が舞台で舞っているのだろう。

     見下ろす彼の目に、何か感情が宿っているようには見えない。彼にとって目は、情景を写し取り情報を読み取るためのもの。ただそれだけ。そこから何かが発せられることはない。

     男は目を伏せて曲を聴こうとしたが、すぐにやめた。

     自分は、美しい音楽に聞き入っている場合ではない。

     やらねばならないことがある。

     彼から喜怒哀楽は感じられない。怒りや不安の感情を押さえるには、他の感情も全て封印するしかない。ポジティブな感情だけ表出するなんて器用なことは、出来なかった。

     彼からそういったもの引き出すにはきっと、何重もの包装を開け、何層もの箱を開き、厳重な鍵を解錠しなければならないだろう。

     そして冷酷者(ルシュレヒタ)は今日も手を動かす。






     情報を探っていく中で、フローリアは知った。

     冷たい目をしたあの男。人々に「冷酷者(ルシュレヒタ)」と呼ばれるその男が、貧民街のスリグループの掃討作戦の指揮を執っているそうだ。

     話を聞くと皆が口を揃えて言う。あの男は、指示されたことはそれが例えどんな残酷な行為でもやり遂げる、と。過去に彼が実行した計画のいくつかを聞き出せたが、それはとても信じられない、信じがたいものだった。

     こんなことを指示する人間が一番おかしいのは決まっている。しかし、それを顔色一つ変えず実行に移せる人間も、十分に恐ろしいと感じる。

     いつもの夜の公演を終えた彼女は、宮殿を出たと見せかけて、真夜中に再度忍び込んでいた。背の高い大きな窓から差し込む月明かりを避け、暗闇を選んで歩く。

     入り口に大柄な門番が居たけれど、艶かしいウインク一つですり抜けた。

     宮殿の中心部には行政に関連する執務室や会議室が多く入り、そこから色々な建物に繋がっている。彼女が踊る舞台があるホールも、サロンも、書庫も、宝物庫も。

     そしてそこからまた細く枝が伸びるようにして、個人の部屋が並ぶ大きな建物がいくつも続く。千を超えるその室数は、一つの建物に入りきることは到底不可能で、階級ごと、または権力の強さや各勢力の対立関係を考慮した場所に、それぞれの部屋が割り振られていた。

     フローリアが足を進めるその先は、宮殿の中心部から大分離れた場所にあった。会議室の並びを抜け、ホールを横目に見送り、細長い回廊を通る。廊下の灯はほとんど落とされていて、月光に見放された場所は不安になるほど真っ暗だった。たどり着いた建物全体に、シンと静寂がなだれこんでいる。

     目的の建物の最上階。絶対に間違えぬよう階段から室数を一つ一つ数え、あの男の部屋を訪ねた。勿論、約束も予告もなく。

     彼女は扉を三度、小さくノックした。

     少し間があってから、扉が細く開かれる。

     光の宿らぬ目をした男は、探るような視線を向けてくる。

    「入れていただいてもよろしいでしょうか?」

     彼女は薔薇色の口紅が引かれた唇を動かして、用意しておいたセリフをなぞる。

     細められた彼女の目は、自分が部屋の入り口に立っているこんなところを誰かに見られたら、あなたが困るんじゃないの? と語っていた。

     いつもは整髪油で後ろに撫で付けられた男の髪も、真夜中の今ばかりはくたりと前に落ちている。少し湿った髪の毛先が、モノクルを外した目の前をちらついていた。

     何を考えているか読めない無表情で、男は彼女一人が通れるだけの隙間を開けた。

     計画通り。彼女は色っぽく微笑み、部屋の中に体を滑り込ませた。

     が、しかし。

     男は彼女を、テーブルの上の蝋燭だけが灯った薄暗い室内に入れると、その一歩から先を進ませなかった。

     背後すぐで扉が閉まりきり、前方を男の体に塞がれ、そこからわずかも身動きが取れずフローリアは体をすくめる。

     予想外の展開に彼をちらと見上げると、恐ろしいとさえ思えるほど冷たい目をした男が、自分を視線だけで見下ろしていた。蝋燭のほのかな明かりも、彼が背負う形になっているから、彼女から見る彼の顔には大きく影が落ちていた。

    「何が目的だ」

     フローリアはイレギュラーな反応に焦りを覚えた。しかしそれを顔に出すことはない。媚びるように笑んでみせる。

    「お疲れではないかと思いまして」

     だが、自分のペースには全く持っていけない。

     男はナイフのように尖った言葉を彼女に浴びせる。

    「貴様は個人の部屋にまで舞いを見せに来るんだな。まさかそれ以上のこともして回っているのか? 下卑た女め」

     彼女はスパイとして、自分の感じる感情の一切を押し殺し、微笑みを崩さない。

    「……冷酷者(ルシュレヒタ)様のご想像のままに」

     その言葉に何の反応も示さず、男は彼女に詰問する。

    「それで、なけなしの自分の持てるもの全てを差し出してでも、貴様は何を望もうとしている」

     男が何かを手にしているわけでもないのに、下手なことを口にしたら、そのまま切り裂かれてしまいそうだとさえ思った。フローリアは、今感じているこれが「恐怖」というものなんだと理解した。

     表情に微笑みを保てていたか分からない。彼女は刃物の切っ先を喉元に向けられているような気持ちで、固いつばを飲み込む。

     声が強張る。これは嘘や遠回しな言葉を使ってもしょうがないだろう、と思った。

    「貧民街に火を放つのは、どうかおやめください」

    「……なぜ」

     少し思考するような間をおいて、男は再度問うた。

     彼女は自分のまつげが震えそうになるのを感じていた。思考の読めない彼の暗い目と見つめ合うのが苦しくて、目を逸らしてこう続ける。

    「あんな者たちでも、いなくなれば税収が下がるかもしれませんし、貧民街から市街に汚い人々が出てきたら、市街に赴く機会のある貴族の方々もきっと不快な――」

    「違う」

     彼女が何とか並べようとした言葉をさえぎり、男は彼女のあごを片手で引いて強引に自分の方に向け、強制的に自分の目と見つめ合わせた。

     男は自分の顔を彼女に寄せ、至近距離でこう迫る。

    「貴様がなぜ、わざわざ自分の身を差し出してまでそんなことを願うのか訊いてる」

     自分の流れに持っていけない、どころじゃない。圧倒的なまでの彼の流れから逃れられない。

     彼女は表情をボロボロに剥がされながらも、歯が震えないように必死で噛み締めながら、

    「……貧民街の人たちを、殺さないで」

     とだけ、何とか声を震えさせずに言えた。

     男は黙ったまま彼女の目を見ていた。そしてほんのわずかに眉をひそめる。

    「踊り子。名前は」

     なぜ今、そんなことを訊くのかと不思議に思いつつ、この質問に答えない権利など自分には無いのだと分かっている。

     彼女は自分の大事な名前を口にした。

    「……フローリア」

     男は彼女の小さなあごを片手で拘束したまま、少し考えるように目を細めると、こうつぶやいた。

    「フローリア……。そうか、お前、あの時の貧民街の拾われ娘か」

     彼の言葉に、フローリアはすぐ目の前の彼の顔を凝視した。






     フローリアが目を見張ったのを見て、男は彼女から体を離した。そのまま彼女の背後の扉の錠をガチャリとかけると、何も言わず部屋の奥へ向かった。

     フローリアは何が起こったのか全く分からず、しばらく目をしばたかせたままだった。彼の今の言葉は、一体。

     ここで突っ立っていても背後の扉は施錠されているし、彼の背に続かざるをえない。

     この恐ろしい男の部屋に招かれるなど、猛獣が大きく口を開いた中に飛び込んで行くのと同じ。

     フローリアは胸元に両手を重ね、一度静かに呼吸をしてから、意を決して足を踏み出した。

     男は小さめのテーブルの上の蝋燭以外に、棚にある燭台にも火を灯した。

     真夜中の部屋は薄明るく照らされる。

     盗み見る限り、男の広い部屋から、性格やその人の色といったものは全く感じられなかった。好みや思い出も分からない、個性のない、そこに暮らす人間のことを何も語らぬ部屋だった。

     大きなベッドにはシーツに波が寄っていて、きっと彼は就寝直前だったのだろうと分かった。

     居場所なくそこに立ち尽くす彼女は、彼の姿を目で追う。ゆったりとした長いガウンに身を包んだ男は、棚から酒のボトルをつかみ出すと、ガラス製のアイスペール(氷入れ)から二つのグラスに氷を入れ、テーブルに置いた。

     男はテーブルに添えられた椅子の一つに腰掛け、酒を注いだ。

     もう一つのグラスが置かれた位置と余った椅子からして、フローリアは自分がそこに座るべきなのだろうと察した。

     彼女は遠慮がちに椅子を引くと、身を小さくしたまま浅く腰掛ける。

     男はそんな緊張した様子の彼女には目をくれず、酒を一口飲んで、部屋の壁よりもっと遠くを見つめるようにして、こうつぶやいた。

    「何もかもが懐かしい。クルデリヒの奴は相変わらずなのか?」

     クルデリヒ。それは彼女を貧民街から拾い、彼女に名を与えた、組織のリーダーの名前だった。

     この男がなぜその名を知っているのか。彼女は自分の想定をはるかに超えた事態に何も喋れない。

     小さなテーブルに対しハの字に置かれた二つの椅子は、真っすぐ座ると互いの視線は交わらないのだけれど、ちらりちらりと横目に彼を見る。

    「この名を口にするのも何年ぶりのことか」

     男は彼女の返事を待たず、言葉を続けた。

    「お前のことは覚えてる。俺がこの王宮に入る直前のことだったから、ほんのわずかな期間だったけれど。貧民街から、読み書きも分からない、まともに話すこともできない汚い子供を拾ってきて、スパイに育て上げるなんて、クルデリヒは何を考えているんだと思っていた」

     スパイ、という単語にドキッとする。

     彼女は今、自分がどんな表情を浮かべたらいいのか、どんな態度をしていたらいいのか全く判断がつかないままだった。

     男は彼女に視線をやった。それは優しいものでも暖かいものでもなかったけれど、先程よりは余程柔らかいものだった。

    「ただ、まあ……今のお前を見ていると、クルデリヒの考えもそう間違ってはいなかったんだろうと思う」

     男はもう一度酒を口にした。

     フローリアは決心して、まごつきながらも彼にこう質問した。

    「どうしてそんなことを知ってるの? 私のこととか、クルデリヒのこととか……。上の方の貴族の人たちは、そんなことまで全部知ってるの?」

     敬語はやめた。何となく、今の彼に対して使うのがおかしいような気がしたから。男もそれを特に指摘したりしなかった。

     その代わり返ってきた一言は、驚きの色がほとんどにじんでいない「まさか」だった。

    「そんなことあるわけがない。俺がそれを知っているのは、俺もお前と同じ立場の人間だからだ」

     フローリアの口から漏れるはずだった「え?」が、彼の眼差しに押し戻される。

     彼がじっと自分を見ている。さっきと違って怖いとは思わなかったけれど、その瞳は底のない泉のように深かった。

    「俺は、今のお前よりももっともっと若い頃からこの王宮に入り込み、ずっと長いことここにいる」

     彼女が視線を逸らした先に、いつもの職務中の彼の上着がかかっているのが目に入った。胸元に数々の立派な勲章が飾られている。ここでの立場はこれがものを言う。

     彼女は彼に、恐る恐るこう訊いた。

    「でも、私、ここに同じようなスパイの人がいるなんて知らされてなかったわ。クルデリヒも言ってなかった」

     男がグラスを軽く傾けて、氷が音を立てる。

    「それは……俺が組織を裏切ったと思われているから、だろうな」

    「裏切った……?」

     不穏な言葉に反射的に身構えてしまう。

    「俺は裏切ったつもりなんてない。俺の志は、この王宮に初めて足を踏み入れた時から何ら変わってない。この理不尽でおかしな政治体制を打ち倒し、市民のための国を作る」

     彼が嘘をついているようには全く思えなかったのだが、腑に落ちないことがあって、フローリアは尋ねた。

    「でも、あなたは残酷な計画を沢山実行したと聞いたわ」

     男は少し間を置き、うなずく。

    「その通りだ。ただ、目先の小さな事象を阻止したとて、根本はどうにもならない。この先にもっと酷い政策が行われると分かっているのに、そこで正体が露見してしまったり、姿をくらまさなければならない状況になるわけにはいかない」

     闇を見据える男の顔つきは険しい。

    「俺はのし上がるだけのし上がって、いつか政治そのものをひっくり返す。本当に止めなければならない、とんでもない計画の実行を阻止できるように」

     彼の言葉を聞いても、彼女は安易にうなずくことはできなかった。責めるような言葉が口をついてしまう。

    「だからといって……。あなたの実行した計画のせいで被害を受けた人たちは、確かにいるのよ」

    「じゃあ、その人々だけを助けて、後からもっと被害を受けるであろう別の人々は見捨てたらよかったのか? 今だって、指示される数々の酷い計画を、より最小被害で済むように計算し、どうにもならなければ代替案を出すよう努めている。俺がここから居なくなれば、暴走した政治はもっと酷いことになる」

     フローリアは視線を太股の上の小さな拳にやって、黙っている。

     男は、目力で気圧せば、彼女を無理にうなずかせることもできた。

     だが、男は口に酒を含み、喉に押し流すと、静かにこう言った。

    「……まあ、クルデリヒも納得しなかったからな。お前が不満に思うのは、予想の範囲内だ」

     彼の言葉ににじんだほんのわずかな寂しさに、彼女は質問を変えた。

    「……あなたはクルデリヒや組織のみんなに裏切ったと思われてる。それでもあなたがスパイとして頑張り続けるのはどうしてなの?」

     彼は問い返す。

    「お前こそ、どうしてそこまで身を尽くす? 読み、話せ、人並みの生活が出来る人間になった。組織から離れ、こんな身を削るような真似を続けなくてもいいはずだ」

     彼の問いに、彼女は真っすぐな瞳で答えた。

    「貧民街から拾ってくれたクルデリヒや、私をまともな人間にしてくれた組織の人たちのためよ。国を倒すとか市民の政治を行うとか、難しいことは正直あまりよく分からないの。でも私は、少なくとも私の周りの人たちに、不幸せな気持ちになってほしいとは思わない」

     口には出さないけれど、家族のように思っている集団。組織が何かを望むのなら、みんなのために、みんなの力になりたい。

     男は彼女の言葉を聞いて、こう返した。

    「じゃあ、俺もそうだ。会ったことも見たこともない人々のために、曖昧な正義感や義務感で動けるほど俺は出来た人間じゃない。顔を思い出せる全ての人々のために。例え相手がこちらを見切っていようとも、最後まで志を貫く。俺は、今の時代がひっくり返った後の覚悟も決めている」

     彼の言葉に迷いはない。

     でも。

     フローリアは、それでいいの? とも思う。

     あなたが志を全うした時、全てが終わった時、新しい世界には、新しい時代には、あなたを笑顔で迎えてくれる人たちはいないのに。

     その時ふと、彼の口から、彼女の聞き覚えのある言葉がこぼれてきた。

    「……『自分を殺して残忍に、目的の為には手段を選ばず狡猾に。いかなる犠牲を払っても、耐え忍び、虎視眈々と準備して牙を磨き、最後に寝首をかき切った者の勝利だ』」

    「クルデリヒの口癖ね?」

     男はうなずく。

     これをそらで言えるなんて、ここまで話していて別に疑っていたわけではないけれど、彼は本当に組織の人間だったんだなと思う。

    「ねえ。あなたはどうして組織にいた……組織にいるの?」

     自分は裏切ったつもりはない、と言う彼に気を遣って、言葉の終わりを訂正する。

     男は特に気にするような様子も見せず淡々と答えた。

    「よくある話だ。元々市民階級だったが、子供の頃に流行り病で両親が亡くなり、路頭に迷っていたところを組織に拾われた。両親が知識階級だったから、俺は昔から人並み以上の読み書きや、学問の基本的なことは出来た。それからスパイとして事務手伝いから王宮に入り、ここまできた」

     事務手伝いからここまでのし上がった結果得た、この広い部屋で、同じく得た酒を囲む二人。

     フローリアはまた尋ねた。

    「どうして裏切ったと思われてしまったの? それと、どうして裏切ったと思われたことが分かったの?」

    「俺が酷い計画を進んで実行していると思われているからだろう。クルデリヒが阻止して欲しかった計画も、俺は阻止をしなかった。俺は細かいことを組織の連中に説明したかったが、この立場を危ぶませず伝える手段がなかった。短時間の密会で簡潔に伝えることは難しいし、使いの子供に細かいことを書いた書簡を持たせるのは危険が大きい」

     男は酒をあおる。

    「そのうち使いが来なくなり、代わりに俺を殺そうとするスパイが王宮に送り込まれた」

     驚いて目を丸くするフローリアに、男はその暗い瞳を向ける。

     フローリアは思わずどもってしまいながら、慌てて胸の前で両手を振った。

    「わっ、私はそんなことするようになんて言われてないわよ。そもそも、あなたみたいな人がここにいるなんてことも、全然知らなかったんだもの」

     言葉を重ねるほどになぜか嘘っぽさが増してしまい、フローリアはこの状況を打開できるような言葉を必死で探した。

     だが。

     男は「ふ」と少しだけ小さく笑い、皮肉めいた表情を見せた。

    「お前のような小娘に殺せると思われるほど、俺が過小評価されているとは思いたくないな」

     フローリアが初めて見た、男の表情らしい表情だった。

     でも、よく考えたら自分がバカにされたのだと分かって、ちょっとだけムッとした。さっきまでとは事情が違う。立場が同じだと分かったのだから、遠慮する必要はない。

    「あなた、いくつ?」

     今まで聞いた話から察するに、自分より年上であることは間違いなさそうだが、見た目を観察するとそう大きく年が離れているようには思えない。

     大体五、六歳くらい上だろうか、と当たりをつけつつ尋ねてみた。

     男はあごに手をやり宙を見やると、さらりととんでもないことを言い出した。

    「実年齢はいくつだったかな。子供の頃から体がでかかったし、ここに入る時に年齢を大分上にごまかして、以来ずっとそれで過ごすように心がけていたら、忘れた」

     驚くのを通り越して、フローリアは引いてしまう。自分の年齢を忘れてしまう人がいるなんて、頓着がないにしてもほどがある。

     ぎょっとする彼女に構わず、男は突然、こんなことを口にした。

    「……お前の舞台、少しだけだが、見たよ。スパイとして忍び込むためだけにあそこまで仕上げたのなら、大した技術力と表現力だ」

     一応、見ていたのか。フローリアは何となく気恥ずかしくて、自然と視線を逸らしてしまう。声が少しこもり、小さくなる。

    「……割と好きなのよ、ああいうの」

     いつもは下心丸出しで大げさに褒め称えられるか、極端にけなされるかで、こういう風に自然に褒められることはほとんどなかった。

     しかも、この男がまさかこんな風に言うとは全く予想しておらず、どうしたらいいか分からなくて、目の前の酒の入ったグラスを初めて手に取った。

     そして、カハッ、と盛大にむせる。

    「つ、強いわ、これ……」

     喉が焼けるよう。一体何が入っているの、とでも言いたげな視線をグラスに向ける。

     男は呆れたように、

    「そんなに一気に飲むからだろ……」

     と口にした。

     テーブルの上の蝋燭はだらだら汗をかき、随分とその背丈を縮めていた。

     薄く細かい模様の入った壁紙に、二人の影が映し出されている。

     星も眠る真夜中。この部屋だけが時間の流れから切り取られたかのような、静かで、不思議と穏やかな時間は過ぎる。

     そして。

     火は消される。

     彼女を部屋から送り出す時、男は扉を開ける前に、最後に壁際でこう言った。

    「もう二度と、俺に接触するんじゃない」

     彼女は男の顔を見上げ、その言葉の意味を少し考えてから、間を置いてゆっくりうなずいた。

     窓から部屋に注がれる強い月光で、互いの表情が分かるくらいには明るい。

     そして、彼女も彼に最後の質問をする。

    「最後に、冷酷者(ルシュレヒタ)なんて通り名じゃなくて、あなたの本当の名前を教えて。それまで忘れたなんてことはないでしょう?」

     彼を見上げる、月明かりの溶け込んだ丸い二つの瞳。

     まあ、自分以外に一人くらい、本当の名を覚えている奴がいてもいいか。そう思って彼は、もう何年も口にしていなかった名前を口にする。

    「シュツァーハイト、だ」

     彼女はいつものようなよそ行きの笑顔でなく、うっすらとだけ微笑みをたたえた。

    「そう。おやすみ、シュツァーハイト。お酒をごちそうさま」

     別れの言葉の代わりにそう残して、彼女は扉を開け、暗闇に姿を消した。

     自分の本当の名前が呼ばれるのを久々に聞いて、シュツァーハイトはとても自分のことのようには思えず、まるで他人の会話をどこかで聞いているようだと思った。






     フローリアは不穏な動きを感じていた。

     王宮からではない。組織側からだ。

     伝達の手紙を届けてくれる少年が言うには、組織に続々と味方が増えているらしい。また、反政府組織はクルデリヒがリーダーを務めるところ以外にも、大小様々あるのだが、最近その勢力が一つの大きなものにまとまりつつあるそうだ。

     もっと細かなことを聴きたかったけれど、少年のつたない説明では限界があった。

     何より不安だったのは、使いの少年が気づくくらい大きな変化があるらしいというのに、クルデリヒから送られる伝達の手紙には「特に変化はなし」とつづられていることだった。

     細かく説明するだけの余裕と時間が今は無いのか。それとも、この簡単なメモ書きで簡潔に伝えられるような事柄ではないのか。

     フローリアは、読みきるとすぐにその紙を燃やした。

     王宮の裏出口に通じる中庭をあとにし、回廊を歩く。

     すると、向かう先から誰かがこちらに歩いてくるのが分かった。二人の男性貴族だ。

     前を歩く男は、禿げ上がった頭を光らせ、一体中に何を入れているのだろうと思えるくらい腹が飛び出ている。きっと採寸する服職人も苦労しているに違いない。

     そしてその少し後ろに従うように歩くは、いつかの夜ぶりに見るシュツァーハイトだった。

     冷酷者(ルシュレヒタ)の名の通り、モノクル越しの片目に冷徹な眼差しを覗かせ、髪はしっかりと後ろに撫で付けられている。歩くたび胸の勲章が音を立てる。

     前を歩く男はフローリアの存在を認めると、少し駆け足になって彼女に近づいた。

     同時に彼女は深く頭を下げ、優雅な仕草で一礼してみせる。

     男は抱きつかんほどの勢いで彼女のなめらかな手を取り、誘うような眼差しを彼女に向ける。それは笑えてしまうほど全く様になっていなかったのだが、本人はいたってまじめなようで、彼女のほっそりした指先にぶじゅりと熱く口付ける。

     舌先が少し肌に触れたような気がして、フローリアは自分の演技力と忍耐力が試されていると思った。

    「昨晩の舞いも素晴らしかったよ。いつか私のためだけに、可憐な君の美しい全てを見せておくれ」

     彼女は目を細め、唇をゆるやかに曲げてみせる。

     男の後ろに控えて足を止めているシュツァーハイトは、いつもの通り顔色一つ変えない。

     それもそう。あの晩二人は、彼女が彼の部屋を出た地点で、知りもしない他人になった。お互い達成したい志が、任務があるからこそ。二人につながりがあるなどと周囲に感付かれたら、立場が危うくなるかもしれない。

     二人にとって一番安全な策が、他人に戻ることだった。

     男が名残惜しそうに彼女の柔らかな温もりを手放し、足を進めると、シュツァーハイトも黙ってそれに続いた。

     二人の姿を見送る彼女はしばらく頭を下げていたが、突然近くから女の声がして、反射的に頭を上げた。

    「随分他人行儀じゃないかい」

     背後に立っていたのは、貴族の女。どこの有力貴族の妻だろうか、身にまとったドレスは周囲のどの者よりも金がかかっていることが分かったし、口元を隠す羽の扇も一段と大きく豪勢なデザインだった。

     ただ、それらは正直、その女の見た目にはそぐわぬものだった。あと彼女が十、いや二十若ければ、下界に降り立った女神のように似合っていたことだろう。

     しかし、今のこの、去りゆくなけなしの若さにすがりつくような格好が、彼女の本来の魅力を殺していた。

     それよりも。

     気になるのは、女の意味深長なセリフである。

     合点のいかない様子のフローリアに、女は嗤うように言ってやった。

    「アンタ。いつかの晩、あの冷酷者(ルシュレヒタ)の部屋に行ってたろう?」

     とっさに反応してしまわぬよう動きを抑え込んだことにより、「えっ?」となるべきだった表情が遅れて、逆に不自然になってしまった。フローリアはそれを強く後悔した。

     これでは認めてしまっているようなものだ。

     貴族の女は、大きな扇で隠した口元をニヤリと歪ませる。

    「若さと女を武器に、下賎な女が何をしてたんだか」

     見られていたのか。

     シュツァーハイトが自分と同じ立場の人間だと分かった今となっては、自分の軽率さをただ悔やんだ。

     あの夜、自分が部屋を訪ねているところを人に見られたら困るでしょう、と圧をかけて、強引に中に入ろうとした。

     結果的にそれは成功したのだが、まさか本当に誰かに見られていたなんて。

     彼女は動揺を悟られないよう、どうとでも取れるように「そうですね」と薄く微笑んでみせた。

     貴族の女はなお言う。

    「裏出口で汚い外の子供を手なずけて、何をしているのか知らないけど……」

     まさかそれまで見られていたとは。

     そしてフローリアは、その時ふいに思い出した。初めてシュツァーハイトに会った時、中庭で「ガキに食い残しをくれてやるな」と声をかけられたのだ。

     彼は、フローリアを観察するこの貴族の女の存在に気づいていたのかもしれない。きっと、だからあの時あんな言葉をかけたのだろう。

     この貴族の女の目は、まるで蛇のようだと思った。絡みつかれたら二度と離してもらえない、そんな雰囲気がした。シュツァーハイトも、この女の陰湿さをよく分かっていたに違いない。

     そして女はフローリアを視界の真ん中にとらえ、笑っていない目でこう言う。

    「私はアンタを殺したいほど憎んでるわ」

     市街では女の観客やファンも少なくはなかったが、この王宮の女たちの多くに良く思われていないことは重々分かっていた。

     特に、いい年をした男たちを次々骨抜きにしているのだから、女として見られなくなりつつあるその妻たちにとっては、不愉快極まりないだろう。

     女はフローリアに陰湿な言葉の数々を浴びせられるだけ浴びせると、フンと居なくなった。

     フローリアは思う。

     そろそろここを抜け出す頃合かもしれない。

     クルデリヒにも直接色々なことを聞きたい。

     スリグループの掃討作戦で貧民街に火がつけられるかもしれないということは、手紙で一応伝えはした。シュツァーハイトは、火をつけるというのは出来る限り回避する方向に持っていきたい、と言っていたけれど、万一のことがあっては困るし、その対策の相談もしたい。

     しかし、彼女の判断は遅れた。






     シュツァーハイトは、現在自分の補佐する有力貴族の男が、ここ数日妙に気を落としていることに気がついていた。

     自分から何かを問うことは絶対にしないが、周囲との会話に聞き耳を立てておく。

     会議室を出た男に付き従い、共に廊下を進む。その時一組の貴族夫婦とすれ違った。

    「やあ、浮かない顔をしてどうしたんだ」

     夫婦の夫の方が、男に労わるように声をかける。

     男は辛そうに首を振り、深くため息をついてみせた。

    「昨日も、一昨日も、いつもの舞台が公演されなかったんだ……。それは暗くもなるよ。あの美しい舞いを見るのが、私の数少ない生きがいだったのに。今日もやらないっていうんだから、踊り子は怪我か病気でもしたのだろうか。心配だ……」

     そう苦しげに、うなるように男は言った。

     シュツァーハイトは彼女が舞台を休んでいることなど知りもしなかった。一昨日からということは、今日で三日目。もしや、スパイ活動を引き上げ組織に帰ったのだろうか。

     無表情の仮面の下でそんなことを淡々と考えていたが、夫婦の妻の方が口にした言葉に、思考は止まった。

    「あら、ご存知なくって? あの踊り子の女、スパイの疑いで捕まりましたのよ。今頃は王宮の地下牢ですわ」

     男は「そんな馬鹿な!」と、役者も顔負けの身振り手振りで信じられない気持ちを表現していたが、口元を大きな扇で隠した貴族の妻は、なぜか視線をシュツァーハイトにやっていた。

     この女がなぜ執拗に自分を見つめてくるのか分からなかったが、シュツァーハイトはこの情報を自分の中に入れないように努めた。

     もし彼女がスパイとしてこのまま殺されるようなことになったとしても、自分は決して関わってはならない。これまで気が遠くなるほどの長きをかけて築き上げた全てのものが、水の泡になってしまう。

     互いの志を遂げるために。そのために二人は他人になった。

     しかし、貴族の女はいやらしくその蛇のような目を細め、シュツァーハイトにとんでもないことを訊く。

    「……ご自分には関係ないような顔をされているけれど、冷酷者(ルシュレヒタ)様はいつかの晩、あの女めとお楽しみだったのではないの? 随分冷たいんですのね」

     シュツァーハイトはちらりと貴族の女に視線をやる。

     その夫はおかしげに笑ってみせた。

    「この冷酷者(ルシュレヒタ)が? 女と? はは、そんなわけがないだろう。この男はきっと、どれだけの美女にどんな手段を使って迫られようと、全くなびかない堅物だからな」

     それを聞く貴族の女の目は、蛇のようにシュツァーハイトをとらえている。何かを匂わせるようにこう言った。

    「そう……。じゃあ、長いことお部屋で、二人で何のお話をしていたんでしょうね」

     そうだ、覚えている。この女は、以前自分の誘いを断り恥をかかせたシュツァーハイトのことを恨んでいるのだ。夫のいる身でなんという逆恨みを。

     以前、中庭でフローリアのことを隠れて観察していたのを見かけたこともある。王宮中の男たちを虜にする、若い女の踊り子を妬ましく思うがゆえだろうが、恐らくフローリアを投獄したのもこの女の差し金だろう。

     注意深く行動していたであろうフローリアをスパイだと見抜いたのは凄まじい観察力だとは思うが、どれだけ彼女を付け回していたのか考えると、その執念は恐ろしい。

     スパイ容疑でとらえられた女。その女と密会していた男。自分が周囲にどのように疑われるか、相当な馬鹿でない限りすぐに分かるだろう。

    「もし本当に踊り子がこの男の部屋に行っていたとしたら、二人で一晩中トランプでもしていたんじゃないか」

     まぁおかしい、と貴族の女は夫の下らない冗談に大げさに肩を揺らしてみせる。

     彼女の投獄にひどくショックを受けていた有力貴族の男は、今度はシュツァーハイトを「信じられない」という目で凝視してくる。

    「冷酷者(ルシュレヒタ)……まさか本当に?!」

     シュツァーハイトは、普段から自分の感情が顔に出にくいことをこれほど感謝したことはない。

     意図しない表情が浮かんでしまうから、ではなく。どんな顔をしてこの言葉を言えばいいか分からなかったから。

    「私も、男ですから」

     そう口にしてみたけれど、事態が好転するような説得力はほとんど得られなかった。

     それからしばらく。

     彼の立場は次第に悪くなっていった。

     あの貴族の女があることないことを、サロンや大食堂、いたるところで喋るものだから、あらぬ噂が様々な尾ひれをつけて一人歩きしていた。

     立場のある貴族の妻だ。周りもそう適当には扱えない。

     シュツァーハイトはいらだっていたが、怒っても仕方がないと自分に言い聞かせていた。そんなことをしたって冷静さを欠くだけ。怒って事態が解決するのなら、状況が良い方向に向かうなら、いくらでも怒る。

     それに、自分に隙や落ち度があったのも事実、と考えたが、自分の正体を知らなかったとはいえ、フローリアが軽率な行動をしさえしなければ良かったのでは、とも思う。

     でも不思議と、フローリアが訪ねてこなかったら良かったのに、とは思わなかった。

     もう他人となった関係だけれど、あの夜はもう何年も久しぶりに、まともに人と話した気がしたから。その記憶もなかったことにしたいとは思わなかった。

     牢につながれる彼女のことを少しだけ考えて、すぐに頭から消した。

     他人に構う余裕はない。自分のことを第一に考えるべきだ。

     しかし、彼のそんな懸念も、些細な杞憂と化すこととなった。

     歴史の波は、ちっぽけな人間ひとりなど個体差もつかぬほど、あっという間に飲み込む。

     革命の時は来た。






     まだ日も昇らぬ早朝のことだった。

     王宮で眠る貴族のうちの何人かは、空気がおかしいことに気づき、目を覚ました。遠く窓の向こうがほの明るい。こんな時間に、まるで祭りでも行われているかのような熱気が弾けている。その圧は、敏感な者ならすぐに気づくものだった。

     ただそれがなんなのかは分からず、市街で火事か何かでもあったのかと、無関心に再び眠る者もいた。

     しかし、その熱気は一切収まりはせず、勢力を増させ、そのまま王宮の武器庫を襲撃した。

     その時になると、流石にのうのうと寝ている貴族は一人もおらず、事態を把握しようと誰もが慌てていた。

     大声で召使らを呼ぶも、誰もかけつけない。

     王宮で働く召使たちはみな、不穏な空気を察知し逃げていた。

     ダン、と強い振動と大きな音がする。人々の活気ある声も聞こえてくる。

     窓を覗いた貴族たちは、眼下の景色に我が目を疑った。

     民衆が城門を破壊しようとしている。人々の手には武器が握られ、それは農耕器具や包丁だけではなく、国の所有する銃や爆薬などもあった。

     城門を破り、人々が宮殿を襲撃するのは時間の問題。

     貴族らは半狂乱になって、自らの所有する財宝をかき集め、鞄や袋に詰め込み出す。そんな重いものを誰かが抱えられるというのか分からない、金塊や美術品を無我夢中でつっこんでいる。

     多くの貴族たちと同じく異変に気づいたシュツァーハイトは、室内にわずかにある、自分の形跡を残してしまいそうなものを全て燃やした。

     そして勲章の沢山つけられた上着など意味のないものには目もくれず、動きやすい身軽な格好に身を包んだ。見た目だけでは貴族と悟られぬよう簡素な服で、物などもほとんど何も持たず。

     彼の行動は早かった。革命を予測できていたわけでは全くない。予想外のことにかなり衝撃を受けてはいたが、取り乱しても逃げ遅れるだけだ。

     廊下に出たシュツァーハイトの眼前には、間抜けな地獄絵図のような光景が広がっていた。

     貴婦人たちの服の多くは一人で着ることができないデザインになっている。背中にボタンがあったりコルセットの編み上げがあったり、誰かに着せてもらうことを想定した作りだ。

     しかし召使も逃げ、みなが自分のためだけに動こうとしている今、服すらまともに着替えられていない女たちが、叫び散らして右往左往している。

     中には、ありったけの宝石や装飾品を服の中に詰め込み、髪の中にまで突っ込んで、窓から逃げようとする無様な姿もあった。

     髪を下ろし、いつものモノクルもつけていない彼だったが、シュツァーハイトがそこにいると気づいた年配の男性貴族がこう指示を出す。

    「お、おお、冷酷者(ルシュレヒタ)! 私の荷を運べ! 馬を用意し一刻も早くここから逃げ出させろ! お前を今より上の階級に昇進させることを約束するぞ!」

     シュツァーハイトはその話の一切を無視し、言葉が終わる前に、つかまれた腕を振り払った。背後から「この、裏切り者!」と自分をなじる声がする。なんとでも言え、と思った。

     シュツァーハイトは階段を駆け下る。

     たまに人にぶつかり、ぶつかられ、自分に命令しすがりつく者を振り払いながら。

     シュツァーハイトの顔色はいつもと変わらぬものだったけれど、胸中は焦る気持ちを抑え切れなかった。

     反政府組織主導のもと、革命が起こされたのだろう。組織がどれだけの間、虎視眈々と計画し、水面下で動いていたのかは分からない。

     崩れる時は、驚くくらいあっと言う間だ。

     彼の心は複雑だった。自分でも理解が出来ないくらいに混乱していた。

     今までこれだけ耐え忍んできた自分。積み上げたものはどうなる?

     いや、こうして市民たちによる革命が起こり、理不尽な貴族政治を打ち倒せるのだから、新しい時代が始められるのかもしれないのだから、歓迎すべきことなんだろう。意図せずであっても、自分の志が完遂されるのだから、良いことなんだろう。

     なのに。

     心の中はザワザワとして穏やかでない。

     自分は今、民衆たちに倒される側にいる。

     そんなことは前から分かっていたはず。

     いつかこの立場を利用するために、そのためにひたすら出世した。周囲から「冷酷者(ルシュレヒタ)」の異名をうけるほどの行為に、手を染めることもあった。

     覚悟はしていたはずだ。

     裏切り者とされている自分は、組織には戻れない。市民に戻ることもできない。

     ならば、いち早く逃げなくては、多くの貴族たちと同じく殺されるだけだ。

     混乱する気持ちを抱いたまま、彼は宮殿内の隠し出口に向かう。王宮の建物の構造は物置の一つにいたるまで、彼の頭の中に全て整理されている。

     だが、その時ふと思い出した。

     地下牢につながれたフローリア。

     牢に入れられているくらいなのだから、襲撃してきた民衆も、彼女が確実に被害者であることが分かるだろう。

     しかし。主導する反政府組織のリーダーたちの言葉も届かぬほど暴徒化した民衆が、貴族を楽しませていた踊り子だということで、彼女をその場で殺してしまうかもしれない。

     それに、もしこのまま宮殿に火がつけられたりしたら、彼女はそのまま焼け死ぬ。

     もう他人となった人間が焼け死ぬことくらいなんだというのだ、と冷静に自分に言い聞かせようとした己に、シュツァーハイトは鳥肌が立つくらい驚いた。

     人間が焼け死ぬことくらい?

     今、自分がどう思考したのか。

     もう貴族の立場を全て捨てたはずの自分。冷酷者(ルシュレヒタ)でなくなったはずの自分。

     それなのに。

     シュツァーハイトの足は止まり、いつかの夜、震える瞳で自分に「貧民街の人たちを殺さないで」と訴えてきたフローリアのことを思い出した。

    ――あなたは残酷な計画を沢山実行したと聞いたわ。

    ――目の前の小さな事象を阻止したとしてどうなる。

     目の前の小さな事象? 必死に生きる人々の生活を奪うことが、小さな事象?

    ――被害を受けた人たちは、確かにいるのよ。

    ――より最小被害で済むように計算し、どうにもならなければ代替案を出すよう努めている。

     最小被害? 三人死ぬところを一人死ぬ、だったら、それでいいとでも、俺は本気で思っていたのか?

    ――貧民街に火をつけるのは、出来る限り回避したい。

     出来る限り回避?

     フローリアは言った。貧民街の奥には、体の動かない老人や病人たちも沢山暮らしているのよ、と。

    ――俺は、今の時代がひっくり返った後の覚悟を決めてる。

     笑わせる。時代がひっくり返ろうとしている今、自分は我先に逃げ出している。

     見た目こそ取り乱してみせていないだけで、あの無様な貴族たちとなんら変わらないではないか。

     これまで自分が行ってきた数々の行為への罰も受けず、まさか「スパイとして目的を果たすためだからしょうがなかったんだ」とでも言えば許してもらえると、心のどこかでそんな甘いことを考えていたのではないだろうか。

     頭が混乱する。

     でも。確かな思い、それは。

     このまま殺されたくない。死にたくない。

     そのためには一秒でも早く、少しでも遠く、安全な場所に逃げなければ。

     しかし。

     バクバクと心臓が早鐘を打つ。シュツァーハイトは拳を握り、眉根を寄せて考える。

     そして。

     踵を返し地下牢へ向かった。

     さっさと鍵を開けて、彼女を出してやるだけ。ほんの少しの時間だ。そうしたらすぐに逃げたらいい。

     もう、自分の冷酷な判断で人を死なせたくはない。




    10

     人気のない宮殿の離れの地下にある、暗く湿った地下牢。石の素材がむき出しの壁に、鉄格子がはめられている。

     見張りの人間はとっくに逃げ出している。

     階段を駆け下ったシュツァーハイトは、隠し棚から鍵を探し出すと、声を張り上げた。

    「フローリア! どこにいる!」

     牢はそう数があるわけではない。それでも一列ずつ探していくのは時間がかかりすぎたし、陽の差さぬこの暗い場所で目視のみで探すのは効率が悪すぎた。

     返事はない。

     その代わり、カン、カン、と何かがぶつけられる規則的な金属音が聞こえてきた。

     音を頼りに、火をつけた燭台を手に、牢の端の列の奥まで足を進める。するとそこには、鉄格子をつかんで寄りかかるようにして、なんとか身を起こしているフローリアの姿があった。

     手にした錆びた水差しを鉄格子にぶつけ、なんとか彼の声に応えるよう音を出していたようだ。

     彼を見上げた彼女の表情は弱々しく、満足な飲み食いが出来ず体が衰弱しているのが分かった。彼女の白い肌に残る痛々しいアザで、彼女が悲鳴を上げすぎて声が枯れ、もう大きな声が出せなかったのだと理解した。

     シュツァーハイトはすぐに牢を開けると、彼女へのいたわりの言葉を一つもかけぬままに、「早く出ろ」と急かす。

     フローリアは壁をつたい、ふらつく足でなんとか立ち上がると、何度か辛そうに咳払いをしたあと、かすれた声で彼に尋ねる。

    「外が騒がしいわ……。一体、何があったの?」

     彼がモノクルもつけず、いつもと違う髪形と、シンプルな服装をしているのも不思議で、彼女は不安そうな目でそう訊いた。

     彼は足を止め、振り返る。

     口ぶりからして、彼女は襲撃が行われることを組織から知らされていなかったのだろう。それは彼女が捕まってしまったからなのか。それとも元々知らせるつもりはなく、ギリギリまで王宮の情報を探らせる駒として襲撃の情報は伝えられず、彼女は組織から切り捨てられてしまったからなのか。シュツァーハイトには判断がつかなかった。

    「……民衆たちの暴動が起きて、王宮が襲撃されている。宮殿に入り込まれるのも時間の問題だ」

     シュツァーハイトの説明に、フローリアの口から「嘘……」と頼りなく言葉がこぼれる。

    「……やはり、知らされてなかったのか」

    「ええ……」

     目を見開いた彼女は、かすれた声を絞り出した。

     ともすればこのままふらりと倒れてしまいそうだったので、彼は柄にもなく、説得力を持たないセリフを口にした。

    「もしかしたら……クルデリヒや組織の連中にとっても予定外の決行だったのかもしれないな。人々の勢いが手に負えなかったとか」

     彼が本当にそんなことを思っているわけない、と分かっていたけれど、フローリアは浅くうなずいた。

     シュツァーハイトの先導で、二人は宮殿を走る。

     雲ひとつない空に昇り出した朝日は、革命を後押しするかのように輝き、宮殿を照らす。二人以外の気配がない廊下に、まぶしい日差しが注ぎ込む。

     ワアワアと、人々の言葉にならない獣のような大声が、外からこだましている。

     フローリアには気力も体力もほとんど残されていなかったが、この状況では自分の体に極限まで鞭を打つしかない。まずは一刻も早く王宮を抜け出さなければ。

     それと、フローリアにはどうしても気になっている事があった。上がった息で、枯れた声で、それでも彼に、走りながらこう尋ねる。

    「ねえ、どうして私を助けにきてくれたの?」

     あの時から二人は他人になって、スパイとしてつかまったとしてもそれはもう仕方のないことだと、お互い淡白にとらえていたはずなのに。他人なんだから、それはもう見捨てるという行為にさえ数えられないはずなのに。

     彼は返事をすることも、振り向くこともなかった。

     答える気がないのなら、しつこく訊いても仕方ない。フローリアは、今の彼が考えていることが全く分からなかった。

     そして思考は中断させられる。

     目の前に現れた、殺気だった人々。興奮して目を血走らせ、これまでの不満とこの非日常、血と火薬の匂いに理性が飛びかけていた。

     ついに城門が破壊され、人々が王宮内になだれ込んできたのだ。

     殺される。

     二人は同時にそう思った。

     動かねばと思うのに、足はすくんで、息すら上手にできなくなる。

     体が先に動いたのは、シュツァーハイトの方だった。

    「近づいたらこの女を殺す」

     背後からフローリアの細い腕をひねり上げ、片腕で彼女の首を拘束する。

     フローリアはとっさに「カッ……」と声を上げてしまったが、彼が自分を本気で押さえつけているわけでないことはすぐに分かった。首元を絞めつけてみせる腕には、ほとんど力が入っていない。

    「市民の間で評判の踊り子と言うから宮殿にとらえてみたが、つまらん女だった。だが、俺の盾くらいにはなるだろう」

     シュツァーハイトの言葉に、民衆の敵意が彼一人に集中する。

     フローリアは理解した。彼は自分を人質に見立て、ここを逃げ去るつもりなのだと。このセリフを聞けば、貴族のために王宮に出入りしていた踊り子とはいえ、一応は民衆側の人間、と見てもらえるだろう。

     だが。

     その目論みは、彼の背後から忍び寄った別の人々によって、あえなく潰えることとなった。

     フローリアの体に、背後からダン!と、痺れるような強い衝撃が伝わったかと思うと、力をなくしたシュツァーハイトの体が、自分に寄りかかるように後ろから重く覆いかぶさってきた。

     首をひねって視界の端にとらえた彼の横顔に、額から赤い汁が伝いだす。

     息を飲み、とっさに声が出せなかった。この両目にとらえるものが、現実のものであるとは思えない。

     彼女があげた悲鳴は、周囲の人々の爆発するような雄叫びによって、完全にかき消された。

     人々は脱力したシュツァーハイトの体をフローリアから引き剥がすと、彼女を強引に脇に追いやり、有り余る憎しみと怒りをもって、彼に暴力を浴びせた。

     フローリアが痛んだ喉から搾り出す声も、今は誰にも届かない。

    「みんなやめて! 違うのよ、彼を放して!」

     自分一人の力では、どうにもならない。自分の弱い声と細い腕じゃ、どうにもできない。

     それでも、彼女は悲鳴混じりに叫んでいた。

    「シュツァーハイト!!」

     彼は意識を失う寸前に、自分の名前が呼ばれたのを聞いた。冷酷者(ルシュレヒタ)じゃない、本当の名前。

     仰向けに倒れる体、暗くなる視界。

     ああ、この宮殿はこんな天井をしていたのか、と初めて知った。





    11

     日が天頂に昇った昼頃。

     騒ぎの中、フローリアはなんとか組織の元に戻った。

     市街の中心の広場に、作戦司令本部にあたる場所が臨時に設営されている。人は忙しなく出入りし、興奮した一般民衆と、緊張で額に汗を浮かべている首脳陣の対比が印象的だった。

     これから一体どうなってしまうのだろう、と不安げに、家の中や広場の隅から遠巻きに見守る女子供の姿もあった。

     フローリアの体には、もう市街の石畳を蹴って走れるような力は残されていなかった。でも、休んでいる暇などない。ふらりふらりとよたつきながら、なんとかたどりつく。

     この襲撃の指揮を執る、組織のリーダーであるクルデリヒは、彼女が姿を現した時、少し驚いたような表情をみせた。

     だが、今はそんな些細なことを気にしている場合ではない。

     彼女は必死に訴えた。

     民衆に捕らえられたシュツァーハイトを解放して、と。

     最高指令席に座するクルデリヒは、髭に覆われた輪郭を指先でなぞると、低い声でその名を懐かしそうに呼んだ。

    「シュツァーハイト……。あれに会ったのか」

     しかし、クルデリヒの目は厳しくフローリアをとらえる。

    「あれはもう、何年も前から我々と連絡を取らなくなった。奴は拾われた恩を踏みにじり、王宮の生活に浸かる中で、貴族に迎合してしまったのだ。もう我々の組織の人間ではない」

     クルデリヒの言葉は、フローリアが初めて出会った時と同じように威圧感があり、恩人として慕っているとはいえ「怖い」と思ってしまう。

     それでもフローリアは、両手に小さな拳を作って食い下がる。

    「彼はずっと機会をうかがっていたのよ。『自分を殺して残忍に、目的の為には手段を選ばず狡猾に。いかなる犠牲を払っても、耐え忍び、虎視眈々と準備して牙を磨き、最後に寝首をかき切った者の勝利だ』って、クルデリヒもいつも言っているじゃない」

     そう言う彼女にクルデリヒはギロリと視線をやった。

     周りは騒がしく、出入りする人々も多いというのに、まるでここには二人しか居ないような感覚さえ覚えた。

    「では、この長い年月、あれは我々組織に一体何をしてくれたというんだ?」

     フローリアは言葉を返せない。彼が一人でどれだけ活動していたとしても、組織に直接の利益になるようなものではない。

    「あれが今まで数々の残酷な計画を実行してきたことはよく知っている。罪なき庶民から財産を巻き上げ、都合の悪い者の家に火を放ち、国に異を唱えた者は投獄する……」

     クルデリヒが続ける言葉に間違いはなく、それらは自分が王宮にスパイとして忍び込んで知ったことでもある。

     指示されたこととはいえ、計画し実行したのは確かに彼。なんと弁護しても、例え程度の軽いものにしようと努力していたと言っても、それを証明できるものは何もない。

     それに程度はどうあれ、彼が実行したという事実は変えることは出来ない。

    「どうせ、この襲撃が起きて、我が身の可愛さに安全を保障して欲しくて、『自分は裏切ってはなかったんだ』と都合よく詭弁を弄しているだけだろう」

     確かにクルデリヒの言う通りで、反論の余地は一つもない。普通に考えたらそういう風になる。

     でも。

    「クルデリヒ……。私がこの数日間、連絡が取れなかったことは知っているわよね? スパイの嫌疑をかけられて地下牢に捕らえられていたのよ」

     フローリアはぎゅっと胸の前で拳を握った。

    「私は襲撃が行われるなんてこと知らなかった。この大規模な行動、二日三日前に決まるようなことじゃないでしょう? 今日の早朝に王宮が襲撃されて、私は貴族たちを楽しませていた踊り子として殺されそうになった。牢にそのまま捕らえられていたなら、間違いなくその場で殺されていたわ」

     言葉が責めるような響きを持ってしまう。フローリアは震えそうになる瞳をまっすぐクルデリヒに向けた。

    「あの時、わざわざ牢から出しにきてくれたのも、機転を利かせて私を逃がしてくれたのも、全部シュツァーハイトが一人でしてくれたことなのよ? それでも彼は裏切り者だというの? 彼を見捨てろというの?」

     そう言いきると、クルデリヒの返事を待った。

     けれど、彼の口から出てきたのはこの質問への答えではなかった。

    「フローリア。名も持たぬ『橋の下』だったお前を拾ってここまで育てた。私の言うことならなんでもやると、組織の恩に報いると言っていただろう。いつからそんな反抗的なことが言えるようになったんだ」

     他人以下のように冷めた視線がフローリアを圧倒し、とんでもない言葉が吐き出される。

    「『目的の為には手段を選ばず狡猾に。いかなる犠牲を払っても』。そうだ、私はいつもこう言っている。襲撃直前まで王宮の情報を得られるようにするため、この襲撃前にお前を呼び戻すつもりはなかったし、知らせるつもりもなかった。私はお前という『手段』を使い、お前という『犠牲』を払ったのだ」

     頼りなく開いた口から「え……?」とこぼれる。

     彼の言葉に、めまいがするような感覚がした。平衡感覚がおかしくなって、一歩後ろに足を出す。

     私は、クルデリヒにとっての、手段?

     あの宮殿の夜の会話が思い出された。

    ――お前こそ、どうしてそこまで身を尽くす? 組織から離れ、こんな身を削るような真似を続けなくてもいいはずだ。

    ――貧民街から拾ってくれたクルデリヒや、私をまともな人間にしてくれた組織の人たちのためよ。

     家族のように思っていた。組織が何かを望むのなら、みんなのために、みんなの力になりたいと思っていた。

     もし家族というものを自分が持っていたのなら、きっと父親というのはクルデリヒのような存在だったのかな、とこっそりそう思っていた。

     だから、例え身や心を削られるような任務であろうと、与えてもらった様々なことに報いれるのならば何でもする。そう固く心に決めていた。

     でも、クルデルヒたちは、そうは思っていなかった。

     フローリアは想起する。

     組織に見放されたシュツァーハイトが、それでも志を貫き通すと言った時。

     それでいいの? と思った。

     あなたが志を全うした時、全てが終わった時、新しい世界には、新しい時代には、あなたを笑顔で迎えてくれる人たちはいないのに。それでもいいというの? と。

     彼を上から心配できるような立場などでは、全然なかったというのに。

     新しく迎えようとしている時代に、自分を笑顔で迎えてくれる人など、私にだって居なかった。全部、自分の勘違いだった。

     言葉が発せられないまま立ち尽くすフローリアに、クルデリヒは静かに言った。

    「……でも、お前が無事に帰ってこられたことは良かったと思っているよ。これは本当だ」

     きっと、その言葉には嘘はないんだと思う。本当に。

     だけど、その前に言葉にだって、嘘なんて一つもないんだと思う。

     フローリアは、ギリギリのところで声を震わせず、「はい」とうなずいてみせた。

     微笑む練習を沢山してきて本当に良かった。さもなくば、涙をこぼしてしまいそうだったから。

     周りの者たちに次々話しかけられ、あちらこちらに指示を出すクルデリヒをじっと見つめる。

     フローリアは色々なことを考えていた。

     拾われた時のこと。名前をもらった時のこと。読み書きを教えてもらった時のこと。

     言葉を覚えて、自分の思う気持ちや感情に名前がつけられるようになった。思考が整理できるようになった。もやもやした不安にも立ち向かえるようになった。何より、人と深く意思疎通ができるようになった。自分の名前を呼んでもらえることがこんなに嬉しいなんて思いもしなかった。

     踊りを覚えた時のこと。スパイとして王宮に入り込んだ時のこと。

     練習はもちろんとても厳しかったけれど、できないことができていくのは達成感があり、それが評価されることは嬉しかった。それまで全然知らなかった音楽も沢山覚えて、好きな曲もいっぱいできた。

     組織のスパイとして、大変なことや辛いこと、やりたくないけれどやらなければならないことだって思い出せばきりがないくらいあったけれど、これまでの生き方を後悔したことはない。

     それから、これからのことを考える。

     そして。

     フローリアはその場で深くおじぎをした。

     クルデリヒは、会話はもう終わり、という合図だと思っただろう。

     違う。

     これは、これまでの感謝と、別れの挨拶と、これからやろうとしている行為への謝罪。

     ありがとう。さようなら。ごめんなさい。

     本当の父親のように思っていました。

     自分に全てを与えてくれた人の顔を名残惜しく眺めたあと、背を向け、司令本部を出た。

     その眼差しには強く光が宿り、足は目的のために進んでいた。

     私一人でも、シュツァーハイトを助けに行く。




    12

     王宮からそう遠くはない場所に、レンガ造りの背の高い建物がある。外壁の表面を固める漆喰は、長きに渡る劣化で変色し、雨だれのあとが濃くしみこんでいた。

     フローリアはその建物の一階に、なんでもない顔をして足を踏み入れる。

     入り口の見張りに立っていたのは、顔見知りの男性だった。名前も知らないような関係だが、あちらはこちらを知っているようだ。

    「おお、王宮でのスパイ活動を終えて戻ってきてたのか。お疲れ」

     中枢の詳しい事情には通じていなさそうだ。フローリアは「ありがとう」と、ニコリと笑顔をみせる。

     そして尋ねた。

    「クルデリヒの使いで来たんだけど。この牢には宮殿でつかまえた貴族たちをとらえてるんでしょう?」

    「そうだよ。お貴族様たちが俺たち民衆をぶち込んでた牢獄に、まさか自分たちが入れられるなんて。いい気味だよな」

     皮肉って笑う男に、同調するように微笑んでみせる。

    「ある貴族から情報を聞き出すように言われてきたの。背の高い、若い男が連れて来られた思うんだけど、どこに収監されてるかしら? 確か、頭から血を流していたはず」

     そう説明すると、男はすぐに思い当たったようだ。

    「ああ。腕の骨を折られてた奴だろ?」

     ドキッとしたが、表情には出さずうなずいた。

    「一番上の階の端だよ。下の階ほどうるせえ奴、上の階ほど静かな奴が入れられてんだ。ぎゃあぎゃあ騒ぐ奴は上まで連れてくのは手間だし、気絶してたりもう死にそうな奴とかは、適当にふん縛ってぽいっと投げとくだけでいいからな」

     フローリアは「へえ、そうなの」と相槌を打ってから、教えてくれたことに礼を言った。

    「それにしても、君も大変だな。疲れて見えるし、そんなに声も枯れてるのに、やること続きなんだな」

    「私たちの国の一番大事な時ですもの。今頑張らずにいつ頑張るのよ」

     そう気丈に言ってみせると、男は「そうだよな」と同意した。

     フローリアは一階からゆっくり階段をのぼる。そして男から姿が見えなくなってからは、足音を立てぬよう気をつけつつ駆け上がった。

     確かにあの男の説明する通り、二階からは騒がしい声に満ちていた。

    「出せ! ここから出せ! 無礼者!」

     と半狂乱な声もすれば、ワンワンと子供のように声を上げて泣く声もあり、

    「命だけは助けてくれ、金ならいくらでも払おう」

     と懇願する悲鳴もあった。

     だが、それらの声も次第に聞こえなくなる。他の階はちらほら見張りの姿もあったのだが、上の階に行くにつれ人は減っていった。そして最上階には一人も見張りの姿がなかった。

     理由は簡単だ。最上階に入れられた者たちは、例え牢に鍵がかかっていなくとも逃げ出すことなんて出来ないほど、衰弱しきった怪我人ばかりだから。

     フローリアは、その場に漂う死の近い空気に戦慄しつつ、カツン、と一歩通路に足を踏み出した。

     鉄格子のはめられた牢にはほとんど人の姿がない、と思ったけれど、それは違った。

     多くの収監者が、薄暗い牢の床にへばりつくように倒れているから、居ないように見えるだけ。

     フロアに反響する彼女の足音に反応する気配も、物音も、何もない。

     時折、牢の中からヒューヒューと、破れた袋に空気が吹き込まれるような呼吸音が聞こえた。助けを求める声が言葉にならず、うめくような声がする。

     最上階の一番端。

     男の言う通りの牢の前で、フローリアは足を止めた。黙って持ち出してきた鍵で、その部屋の扉を開ける。

     光の届かぬ牢獄に、ボロ雑巾のように捨てられていた。床に四肢を投げ出した彼は、呼吸で胸が大きく上下していなければ、死んでいるように見えただろう。

    「シュツァーハイト……。私よ、フローリアよ。目を覚まして」

     声が響いてしまうので、なるべく小さな声で、彼の耳元に何度も話しかける。

     腕が折られていると聞いたので肩を叩けず、軽く頬を打つ。

     するとフローリアの手に、何かがべたついた。

     暗くてよく見えないが、血の跡だろう。それでも彼女はそのままそれを繰り返し、名を呼ぶ。

     シュツァーハイトは、遠く自分を呼ぶ声に、意識がこの世に戻る。

     「冷酷者(ルシュレヒタ)」じゃない。子供の頃のように、自分の本当の名前が何度も何度も呼ばれている。

     薄くまぶたを開けた時、暗くて何も見えなかった。

     でも、ああ、生きてる、と思った。そして、人はそんなに簡単に死なないし、死ねることもないのだなと、他人事のようにそう思った。

    「シュツァーハイト、分かる? 私よ」

     聞こえてくる声に、分かる、と答えようとしたが、殴られた衝撃で口の中が腫れていて、すぐにはうまく動かせなかった。血の味も感じる。歯で切った箇所もあるのだろう。

     言葉にならない声が漏れ、それからかすれたたどたどしい声で「フロ……リア」と彼女の名前をなぞった。

     意識が浮かび上がってきたせいで、体中にズキズキと痛みをひどく感じる。呼吸をするだけで全身がきしむように痛い。まるで立ちくらみがずっと続いているかのように、頭がぐるぐる回っているような感じがして、気持ち悪い。

     皮膚表面も火で炙られているかのような、焼けるような痛みを感じる。特に左腕は、この痛みが収まるのならば切り捨ててしまいたいと思えるほどだった。

     苦しい、助けてくれ、と大声が出たのならば叫んでいただろう。

     そして、痛みで覚醒してきた意識の中ぼんやり思う。どうして彼女がここにいるのだろう。

     フローリアはシュツァーハイトの意識が戻ったことを確認すると、彼を急かす。

    「ゆっくりしてはいられないの。立てる?」

     互いの顔がほとんど見えないほど暗いため、彼女の表情は分からない。それでも彼女の声から焦りを感じる。

     立って歩くなんてとても出来ない、と思ったが、出来なければここでゴミのように死ぬだけだ。

     シュツァーハイトは、今頑張ってくれたならもう一生頑張らなくてもいいから、と自分の体に無茶な注文をつけ、彼女の手を借りてなんとか体を起こす。ドッドッと、体全体に血が巡っていくのを感じる。

     かすれた吐息まじりの声をあげ、彼女の肩を支えにかろうじて立ち上がれた。

     全身の打撲や傷で、身体が思うように動かせない。それでも、左腕に震動が伝わらぬよう努めながら牢を出、足を引きずるように通路を進む。

     格子のはめられた通路の窓から、光が入ってくる。

     フローリアは明るい場所で彼の姿を見て、

    「ひどい……」

     と一言だけ漏らし、辛そうに顔をゆがませた。

     このまま階段を下ると、途中の見張りの人間に気づかれてしまうかもしれない。それに、一階出入り口にはあの男がいる。自分が男性一人を力ずくで抑え込めるとは到底思えなかったし、大怪我を負っている彼と共に走り抜けるなんて絶対に無理だと思った。

     どうしよう、と悩んでいると、それを察したシュツァーハイトは切れ切れになりつつこう言った。

    「この牢獄には、抜け道に通じる、隠し通路がある」

     そして彼女に支えられながらなんとか一つ階を下り、次の階へ向かう途中のある場所で壁を強く押すよう指示した。

     言われるがままフローリアがそうすると、壁は一つ分奥へ行き、脇にスライドさせられた。かなり古い作りだったし、とても重かったので、疲弊しきっている彼女が一人で行うのはかなり大変だった。けれど、弱音を吐いたとて、今の自分を助けられるのは自分しかいない。

     現れた隠し通路から続く螺旋階段を下る。狭い道だったので彼の体を支えようもなく、小さな声で「あともう少し頑張って」と繰り返した。

     急かしたくはなかったけれど、もし見張りが気づき追っ手がきたら、二人は終わりだ。

     シュツァーハイトは歯を食いしばり階段を下っていった。

     痛みが行き過ぎて朦朧としてくる中、彼女の言葉にこう思う。あともう少し、でどうなるというんだろう、と。

     行く当てなどない。安全な場所などない。全ての行動に「とりあえず」がつく。

     螺旋階段を下りきった先、地下通路を歩き、王宮の裏出口に出る。人目に気をつけながら、二人はその場を出来るだけ早く離れるよう歩いた。

     そして、彼がもう歩けないと倒れた場所で、わずかばかりの休憩をとることにした。

     そこは開けた原っぱで、市街地や王宮方面には背の高い雑草や木々が生い茂っていたので、頭を低くするよう気をつけていれば、とりあえず遠目から発見されることはなさそうだった。





    13

     傍に小川があったので、フローリアは自分の服の一部を繊維方向に裂いてちぎり、水で濡らした。

     荒い呼吸をする彼の顔の血を拭い、体中に出来たあざを冷やす。それだけでも、小川と彼のもとを何十往復したか分からない。

     しかし、血の跡は完全にはきれいにならなかったし、あざを冷やすのなんて気休め程度にしかならなかった。

     それに、後頭部を強く殴られた際に開いた傷口や全身にある傷は、今はどうすることもできなかった。

     彼の指示を受けながら、左腕に添え木をした。また服の一部をちぎり、腕を吊るせるように三角状にする。

     彼の方が大怪我をしていることは確かだが、早朝に牢から出られたばかりのフローリアもかなり衰弱していた。

     仰向けに寝転がる彼に水を飲ませ、自分も水を飲むと、太い木の幹に背を預けた。彼と同じように横になりたかったが、二人でそうしてしまうと、周囲から近づく気配に気づけない。

     ずっと会話をする余裕もなかった二人だったが、呼吸の落ち着いてきたシュツァーハイトが、おもむろに口を開いた。

    「……戻らないのか?」

     彼の言葉に、フローリアは寂しそうに小さく笑った。

    「戻れないわよ、今更。私があなたを牢から逃がしたのなんて、きっとすぐに発覚するわ。組織は裏切る者には死を与える。あなたもよく分かってるでしょう?」

     シュツァーハイトは言葉を返さなかった。

     嘘みたいに澄んだ青空の下に広がる草原は、皮肉なくらい爽やかな風が吹いていて、汗ばむ彼の額を冷やしていく。

     フローリアは葉が触れ合うさざなみのような音を聞きながら、彼に尋ねた。

    「……ねえ、もう一度訊かせて。どうしてあなたは、あの時私を牢まで助けにきたの? そうしなかったらあなたは今頃、こんな目に遭わずに逃げられてたかもしれないのに」

     彼女の静かな言葉に、彼も尋ね返す。

    「お前だって、どうして俺を助けに来た。そのまま見捨ててしまえば、組織を裏切らずに済んだろう」

    「……あなたを見捨ててのうのうと生きていられるか自問したら、無理だった」

     フローリアはしばらく言葉を探してから、そう言った。

    「家族のようだと、父親のようだと思っていたのは、私だけだったの。……私は『手段』の一つだってはっきり言われたわ。だから、王宮に潜入していた私に襲撃が近づいていることは知らされてなかった。家族なんかじゃない。私、駒の一つとして、とっくに切り捨てられてたのよ」

     悲しげな笑顔をうっすら浮かべると、彼女は視線を落とし、風にそよぐ背の低い草たちをながめた。

    「前に、『あなたはどうして一人きりでも頑張り続けてるの?』って訊いたでしょう? 私、あなたは一人きりだけど、自分には組織の仲間や恩人のクルデリヒがいるから頑張れてる、って勝手に思ってたの。あなたのことを心のどこかで哀れんでたんだと思うわ」

     風が彼女の前髪をふわりと浮かし、フローリアは自嘲するようにつぶやいた。

    「同じような立場だったのにね……」

     シュツァーハイトは黙って目を閉じ、彼女が吐露するのを聴いていた。

    「あなたと私が似たようなものだって分かって、私は思ったの。私一人くらい、あなたを助けてあげてもいいじゃないって。あなたを助けることで、私は自分自身も助けてあげたかったのかもしれない」

     彼女の告白を聴いて、シュツァーハイトは力なく「ふ」と笑った。

    「俺はお前に可哀想だと思われていたわけか……」

     彼の低い声が、おかしげにセリフを吐き出す。

     そして、彼は言った。

    「俺はただ、行く場所も帰る場所もなかっただけだよ」

     薄くまぶたを開いた彼の視界に飛び込む、まぶしい青空。風の中に緑の匂いを感じた。

     今日、王宮が襲撃されたなんて、投獄されて脱獄したなんて、悪い冗談だと思えるくらいに穏やかな場所だった。

    「いつかこのおかしな世界をひっくり返すとか。その時の覚悟は出来てるとか。聞こえのいいことを言っていたけれど、いざそうなったら、全然そんなことはなかった。自分がやってきたことへの責任を取る度胸もなく、ただうろたえた」

     彼の目は、空より遠くを見ていた。

    「意思疎通が上手くいかなかったことと、意見の不一致で組織に見放され、その後の俺は、まるで高い塔の上ではしごを外されたようだった。戻ることはできない、でも、汚い貴族たちには絶対に迎合したくない。俺はきっと、自分が、いつか国のために、志を完遂するためにと牙を磨くスパイだと思い続けることによって、手を汚す自分を弁護していただけなんだ」

     彼女もまた、彼の言葉を静かに聴いていた。こうして二人で話していると、あの宮殿での夜を思い出す。その時とは全く、場所も、立場も、二人の状況も違うけれど。

    「俺は、お前とは違う。本当にただの裏切り者なんだ。見下している汚い貴族連中と何ら変わりないんだ」

     そう吐き出すと、辛そうに目を伏せた。

    「情けをかけてもらえるような人間なんかじゃないのに、馬鹿だな、お前……」

     フローリアのいる場所からでは彼の顔は見えなかったけれど、もしかしたら泣いているのかもしれない、と思った。

     言葉を返すのが相応しいとは思えなかったので、二人はただ黙っていた。考えることもなかった。ただ、黙っていた。それでも時はあっという間に過ぎてしまう。

     市街の方から、ドン、ドンと大砲の音が聞こえてくる。人の発するものとは思えない悲鳴と絶叫が、遠くこだましている。

     風に乗って焦げ臭い匂いがしてきた。

     それらに追い立てられるように、二人はまた歩き出した。

     草原を渡りきり、山岳地帯を遠く左手に、日のあるうちに林を突っ切る。

     追っ手がかかっているかもしれない、という焦りと恐怖から、二人は少しでも遠く王都を離れたかった。

     彼は大怪我をろくに手当ても出来ぬままだったし、左腕も負傷していたので、彼女の手を借りても早く歩くことはできなかった。小休憩を挟みながら、少しでも遠くへ。

     そして、二人が遠く王都を見渡せる小高い丘に差し掛かったとき、空には星がまたたいていた。

     しかし、空は明るい。

    「王宮が燃えてる……」

     シュツァーハイトの体を支えながら、フローリアはぽつりとつぶやいた。

     燃え上がる宮殿の火が、夜空を焼いている。

     闇夜に雲を作り出そうとしているかのような大量の煙が、王都を包み込んでいた。

     世界はこんなに簡単に崩れ去ってしまうものなのか。二人は何も言うことができなかった。

     二人があの夜を過ごした部屋も、彼の沢山の勲章も、彼女が踊った舞台も、みな、炎の中で塵と化す。

     これからどうしよう、と口にすることもためらわれた。自分たちに「これから」なんて未来はない。

     シュツァーハイトは考える。

     今の俺は一体、何者なんだろう。

     とっくの昔にスパイではなくなった。貴族でもなくなった。市民に戻ることもできなかった。帰るところも、行くところもない。

     シュツァーハイトは、隣で自分の体の支えにしているフローリアに視線をやった。

     フローリアは考える。

     私が今までやってきたことは何だったんだろう。

     全く何のためにもならなかったなんてことはないだろう。こうして革命が起き、市民のための国が作られようとしている今に至るまでには、自分の活動の結果もあるに違いない。

     でも。

     全てが変わろうとしているこの世界で。新しく始まろうとするこの時代で。共に生きたいと思っていた人たちを、理由はともあれ、裏切ってしまった。もう、一緒にはいられないと分かってしまったから。

     私は昔、橋の下にいて、名前をもらって、人らしい暮らしを得て、化粧をして、踊りを覚えた。

     これからの私は、次はどこに行ったらいいの。何をしたらいいの。

     フローリアは、隣で体を支えるシュツァーハイトをちらりと見上げた。

     視線が交わって、二人は何か言葉を待った。

     きっと、お互い何かを許してほしいんだと思う。そして、何かをしろと、誰かに言ってほしいんだと思う。

     でも、二人はもう、チリやゴミの一つさえも出てこないほどに空っぽだった。たった一片の言葉すらこぼれない。

     確かなことは、もうこの国にはいられないということ。

     ゆくゆくは臨時政府になるであろう組織を裏切った者。処刑されるべき旧体制の立場の者。

     二人はここを離れ、当てもなくさまよい続けなければならない。どこに逃げたら終わる、なんてものはない。つかまれば、死へ続く道しかない。

     この革命は一体なんのために起こったのだろう。

     自分たちが起こそうとしていたこれは、自分たちに与えることなく、ただ奪っていった。新しい時代を迎える人々の中に、自分たちは含まれていなかった。

     燃える母国を見つめながら、二人の流浪者は、これ以上何も言葉を交わせなかった。




    第二幕 「放浪」編 1

     二人は夜通し歩き、明け方に林の外れで野宿をした。

     野宿といっても、火を焚く手段もなかったし、体を覆えるような布もなかった。ただ地面の上に寝転がって眠っただけ。

     固い地面で体は痛いし、さえぎるもののない屋外では気が休まらないしで、とても疲れていたというのにフローリアはほとんど眠ることが出来なかった。

     だがシュツァーハイトは、どこであろうと身を横たえると、数秒のうちで気を失うように眠り、彼女が起こすまで死んだように動かなかった。

     彼は元々口数が少ない方だが、どんどん言葉数が減っていった。彼の意識が混濁しはじめているのが、隣で支えるフローリアにもよく分かった。

     王都より東に進み、国を脱出すると、国境沿いの町に一晩の宿を借りた。

     途中、国内にも宿のある町や民家はあったのだが、旧体制側も新体制側も革命で混乱しているうちに、国境を突破したかった。だから休む間もなく足を進めた。

     それに、ボロボロに負傷している彼の姿を人々に見られたら、命からがら王都から逃げ出してきた元貴族だと感付かれてしまうかもしれない。人目は極力避けたかった。

     だから宿を借りた時も、フローリアが一人分の部屋を取り、一階の窓から彼を招き入れた。

     隣国であろうと革命の波は確かにここにも届いている。わずかも気を抜くことはできなかった。

     国境沿いなのでなるべくすぐに動くつもりだったのだが、彼の具合は日に日に悪くなっていった。

     ひどく痛めつけられた体を、ろくにまともな手当てもできないまま酷使し続けたため、彼はひどい高熱を出し、意識が朦朧としていた。

     彼はたまに虚ろながら目を覚ましたが、ほぼ丸三日寝たきりだった。

     フローリアはその町で、彼を看る合い間にたまに町に出て、情報を集めた。人々の会話に耳をすまし、旅人を装い町人と話す。

     王宮の襲撃を指揮した革命組織は、そのまま暫定的な臨時政府となったらしい。

     旧勢力のなけなしの抵抗も終わり、新体制に向けて動き出しているという。

     臨時政府となった組織を裏切った自分。旧体制の象徴的立場である元貴族の彼。臨時政府から手配書が出、追っ手がかけたれたり他国に捜索を依頼されるのも、そう遠くはない未来の話だと思った。

     着の身着のままで逃げてきたフローリアは、自分の服を安いものに買い換えたり、装飾品などを売ったりすることで金を作った。

     踊り子をしていた時の小物なんかは、本当はそこそこの値段がしたのだが、事態が事態だ。こちらもすぐに金を工面したくて焦っていたし、はした金で買い叩かれた。

     それでも、金を得られないよりはましだった。

     宿代を工面し、彼の看病に必要な最低限のものを揃えた。包帯。清潔な布。解熱剤。痛み止め。食事だってとらないといけない。

     唯一の救いは、片言ではあったが言葉が通じたことだった。

     人々の言葉も、母国の言葉のなまりが強くなったと感じるくらいで、たまに分からない言い回しや言葉もあったけれど、基本的に問題なく聞き取ることができた。

     だが、文字はほとんど読めなかった。同じ文字を使っているはずなのに、羅列が異なっていたり、文法の考え方が違ったり。そういう時はひたすら口で尋ねるしかなかった。

     夜は宿の部屋の床で寝た。

     一人用の部屋なのでベッドは一つしかないし、ソファなんて豪華なものはこの宿にはない。

     民家からゴミに出されるところだった使い古されたタオルケットを譲ってもらい、それをかけて寝た。

     フローリアは、否が応でも、自分が「橋の下」だった頃のことを思い出させられた。

     そして何度も自分に言い聞かせた。

     大丈夫。大丈夫。生きていける。

     こんなことくらい、耐えられる。

     シュツァーハイトは、彼が水以外のものをなんとか口にできるようになった頃、うっすら覚醒した意識の中で、「ここを離れよう」と言った。

     フローリアは、大丈夫なの、と訊きそうになったけれど、その問いかけが意味を持たないものであることはすぐに分かったので、やめた。

     国境沿いの町に長居するのは危険だ。

     できるだけ早く、遠く、母国から距離を取りたかった。






     次の町までは距離があった。

     宿などはないし、あったとしてもなけなしの金は底を尽きかけている。二人は何度か、火を焚いて野宿をした。

     彼の薬代やら、自分の食事代やら。なるべく金をかけないようにと思っても、どうしても削れないところはある。

     前の町で譲り受けたタオルケットがあったので、それを敷いたりかけたりして横になった。

     眠るのは交互にしなければならない。二人で寝入ってしまえば人の迫る気配に気づけない。夜盗に襲われてしまうかもしれないし、大して持てるものもないが盗みを働かれるかもしれない。

     大怪我を負っている彼はすぐには動けないし、抵抗もできない。だから不穏な気配を少しでも感じたら、夜中であろうと何度も場所を移動した。

     フローリアもひどく疲れていたが、彼の体のことを考えると、番を代わってもらうために彼を起こすのはためらわれた。でも、自分だって休まなければ身が持たない。自分まで倒れてしまったら、もうどこにも逃げられなくなる。

     別に、彼と「一緒に逃げよう」とか約束したわけではないし、彼に「連れていってくれ」と頼まれたわけでもない。

     満足に動けない彼の面倒をみるのは、大変だし金もかかる。

     彼を連れる義務などない。自分が逃げそびれてしまうかもしれないし、金も尽きるかもしれない。二人で駄目になるくらいなら、彼を置いていくという選択だって、現実的な判断の一つだ。

     でも、そもそも彼は、自分を地下牢から助けたせいでこんな目に遭ったのだ。

     具合が悪くてそれどころじゃないだけなのかもしれないけれど、そのことを彼に責められたことは一度もない。

     せめて、彼の怪我が治るまでは一緒にいよう。こんなことが代償になるのかは分からないが、せめてものお詫びとして。

     それに、この状態で彼を見捨てていけるほど、人でなしではない。

     助けられる手段がないのと、助けられる手があって差し伸べないのとは全然違う。

     彼の体がまともに動くようになったら。

     そのあとは、どうしようか。

     明日すらどうなるか分からないというのに、その先のことなど到底考えられなかった。

     野外で過ごす長い夜をいつも、フローリアは火を見つめながら、ぼうっとしていた。考えてもどうしようもないことばかりで不安になる。それなのに考えてしまうから、考えないように努力した。傍らの彼は死んだように眠っている。

     どれだけ辛くても、不安でも、諦めるという選択肢は選べない。この道をリタイヤする権利すら、自分にはない。





     ようやく次の町にたどり着き、フローリアはそこで一日働いて、宿に泊まる金を作った。

     それなりに活気ある町だったので、流れ者でもその日限りの仕事をちょこちょこ見つけられた。彼女の話す言葉はこの国では片言だったし、文字はほとんど読めなかったけれど、持ち前の愛想と適応力、訓練された人当たりのよさで、なんとか働くことができた。

     何がどこで役に立つかなんて分からないな、と彼女は思った。

     そして例のごとく宿では一人分の部屋を取り、あとからこっそり彼を中に入れた。

     昼間は仕事を見つけて働きに出ていたので、夜にはへとへとになっていた。肉体的な疲労は勿論だが、異国の地の慣れない環境や耳慣れない言葉も、彼女を精神的に疲弊させていた。

     彼女がここまで走り通しで、それでも体調を崩さずにいられたのは、ギリギリまで張りつめられた緊張感とプレッシャーゆえだろう。

     そんな彼女の様子を察してか、幾分か体調がましになってきたシュツァーハイトは、一つしかないベッドだが、狭いけれど隣に寝たらいいと提案した。

     彼はほとんど寝たきりだったのでどいてやることは出来なかったが、疲れきった彼女が毎晩固い床で寝息を立てているのは、いくらなんでも忍びなかった。

     男の人と一緒のベッドで寝るなんて、という気持ちなんかよりも、圧倒的な疲労感の方が勝っていた。彼女は遠慮がちに、落ちそうなくらいベッドの端で横になると、彼に背を向け、身を小さくして丸まり、すぐに眠りに落ちた。

     彼女とベッドを共有するようになってから、シュツァーハイトは夜中に何度か目が覚めることがあった。

     彼は体が大きい方だし、一人用のベッドに大人二人で寝るため、やはり狭い。たまに自由が利く方の片足をベッドの端から落としてやったりしていた。

     しばらく経ったある日の真夜中。時間も分からない夜の闇の中で、シュツァーハイトは久しぶりに自力で体を起こした。

     ガラスのない窓から差し込む淡い月光が室内を照らしていて、彼は初めて、自分はこういう部屋にいたのかと知った。眠っているか天井を見ているかだったので、ここがどんな所で、どういう土地なのかもほとんど分からなかった。

     国を出てから今までのこのしばらくの期間のことを、彼はほとんど覚えていなかった。

     ひたすら熱と痛みに苦しみ、先の見えない暗闇の中で、癒されない渇きにうめいていたように思う。

     彼は自分の左腕に確かめるように触れ、様子を見ながら少し動かしてみたりした。どうやら変な折れ方はしていないようだ。痛みはするが熱は取れたし、もしかしたらヒビが入っているだけかもしれない。

     また、後頭部を強打された傷口は、幸い膿むことなく、今はかさぶたになっているようだ。初めは疼痛がひどく何も考えられぬほどだったが、随分よくなってきている。

     全身の打撲や、服の下にまで及ぶ皮膚表面の怪我は、動かすとかなり痛みはするものの、しばらく耐えれば治ってくれそうな様子だ。

     ボロボロの体を酷使したことによる発熱も、大分ましになったと思う。

     ベッド脇のサイドテーブルに水が入ったコップがあったので、久々に自分一人で水を飲んでみた。物をつかむ力が低下している自覚があったので、ゆっくり行動するように心がけた。だが、水を口にした時、角度と勢いに対応できず、一度ごふっとむせた。

     コップを戻してから、口周りを手の甲で拭う。

     サイドテーブルの奥にある、解熱剤の袋が目に入った。

     あれの値段がいくらするのか、シュツァーハイトには大体分かる。そしてそんな物を買えるほどの金を、あの状態で国を出た彼女が持っているはずがないことも分かっている。

     それから、彼女の持ち物や装飾品が次第に減っているのも、ぼんやりとした意識の中ながらなんとなく気がついていた。

     こいつはどうして俺を捨てていかないんだろうか。

     彼女は自分を助けて、組織を裏切り、国から追われることになった。

     もしあのまま組織にいれば、功労者として新しい政府の人間になれたかもしれないのに。

     隣に眠る彼女をちらりと見つめた。規則正しい寝息に、肩が小さく上下している。背中を向けられているので顔は見えない。シーツの上に長い髪をたゆたわす彼女はぐっすり眠っていて、日々の疲労と、毎晩橋の下で眠っていたという幼少期の過酷な生活を物語っていた。

     牢を逃げ出した直後の草原で、彼女は「あなたを見捨ててのうのうと生きていられるか自問したら、無理だった」と言っていた。

     でもそれは、牢を抜け出すまでの話だと思っていた。

     もし逆の立場だったら、自分は彼女を置いていったかもしれない。いや、置いていったと思う。

     自分がこんな体になったのは、完全なる自業自得。今まで自分がしてきたことの報い。これまでの行為への罰を受けてこうなったのだ。

     勝手にこんな重傷を負ったやつに構っていたら、自分が追っ手につかまってしまうかもしれないのに、わざわざ面倒を見るなんて。

     シュツァーハイトには、彼女の考えていることが分からなかった。

     なぜだろう。もしや、彼女は自分に復讐をしようとして機会をうかがってでもいるのだろうか。

     そんなことを考えてから、そんなわけはないな、と思った。そんなことのために今、こんなに苦労するくらいなら、普通は見捨てる道を選ぶだろう。ややこしい復讐など画策せずとも、捨て置けばきっとそのままのたれ死ぬ。

     それにいくら彼女が元スパイとはいえ、これまでのことを見ていると、自分相手にそんな器用なことができるとは思えなかった。

     彼女の考えていることは分からないが、自分にとってこの状況は好都合であることに変わりはない。彼女が自分の傍にいるうちに、早いところ体を治し、一人で活動できるようにしなければ。

     彼は自分の掌を見つめ、握ってみた。力はあまり入らないが、きちんと動く。

     顔を上げると、月の光が染み込んだ部屋は青く光っている。

     フクロウの鳴く声がする。

     カーテンもガラスもない窓。硬くて小さいベッド。しみとひびの多い、薄い壁。黒い変色だらけの木の板が張られた床。細かく傷が入っている角の丸いテーブルと、脚の長さが違うがたつきそうな椅子。部屋に充満する、かびたようなほこりの匂い。

     シュツァーハイトは、現実逃避をしたいわけではないけれど、自分が今一体どこにいるのか、分からなくなった。








     前の町にはかなり長居してしまったので、二人は母国から距離をとる足を急がせた。

     だが、その分落ち着いて休めたおかげか、シュツァーハイトは熱も下がり、腕と体の痛み以外はかなり回復をみせていた。

     左腕はいまだ布で吊っていたけれど、一人で歩くことができるようになった。体中にあるあざや傷は、服で覆ってしまえば分からなかった。

     しばらく野宿を繰り返し、前の町より大分離れた場所に着いた。

     小さな村で、そこには宿屋がなかった。

     フローリアは、寂れた小さな売店をその日だけ手伝わせてもらっていたのだが、店主の親切なおばあさんが、彼女が泊まるところがないというのを聞き、うちに泊まったらいいと誘ってくれた。

     彼女は少し迷ってこう答えた。

    「ありがとう。でも、村の外れで待たせてる、連れの男性がいるんです。彼は怪我をしているので、傍にいないわけにはいかないし……」

     するとおばあさんは、

    「その彼も一緒に来たらいいよ。怪我人なんだろう? かわいそうじゃないかい」

     と優しくそう言ってくれた。

     世の中にはこんなに親切な人もいるんだな、とフローリアはクルデリヒに拾われた時のことを重ねて、ありがたく思った。

     家はお世辞にも「広い」という言葉には縁がなかったが、小ぎれいだったし、こぢんまりとしていて温かみがある、いかにも田舎の一軒家という感じだった。

     ただで世話になるわけにはいかないので、フローリアは家事を手伝い、料理や掃除などをこなした。おばあさんは「店まで手伝ってもらったのに、悪いねえ」と繰り返していたが、フローリアは「いえ、ご飯までいただいたんだもの。このくらいさせて下さい」とにこやかに返していた。

     おばあさんは息子夫婦を亡くしており、忘れ形見の孫息子と二人で細々暮らしているという。

     その子供は利発そうな顔つきをしており、数多く揃えられた本を何度も繰り返し読んだりして、簡単な学問の心得もあるようだった。食事を終えた居間で、紙に向かって文字の練習か何かをしている。

     おばあさんいわく、

    「わたしなんて結局、この年になっても文字がまったく読めないからね……。この子には立派になってほしくて、お金を出して勉強の先生に見てもらったりしてるんだよ。いつか大きな学校に入れてあげられたらと思ってねぇ」

     とのことだった。

     フローリアが食事の片付けなどをこなしている間、シュツァーハイトは少年の勉強を見てやっていた。

    「お兄ちゃん、トスリナ語も分かる?」

    「分かるよ」

    「僕、いつかトスリナ文学の勉強したいんだ。ヴェナビア語訳されたものを読んだんだけど、感動したから、元の言葉でも読んでみたいんだ」

    「トスリナ語はこの国の言語と文法構造がほとんど変わらないから、すぐに習得できる。語尾に独特の変化がつくくらいだ」

     かつて王宮で「冷酷者(ルシュレヒタ)」と呼ばれていたあのシュツァーハイトが、田舎の村の子供相手に勉強を教えているなんて。フローリアは少し驚き、おかしく感じていた。でも、平和で微笑ましいな、とも思っていた。

     そして。

     おばあさんがフローリアに「狭くて悪いけど、二人でこの部屋を使ってちょうだいね」と案内している間のことだった。

     シュツァーハイトの隣で紙に文字を書いていた少年が、おもむろに彼を見上げた。

     ん、と思って手元を覗き込むと、そこにはつたないトスリナ語でこう書かれていた。

    『賢いお兄ちゃん。どうしてこの村にいるのか知らないけれど、あのお姉ちゃんを連れて早くここを出た方がいいよ』

     文字を読みきったシュツァーハイトは、顔色一つ変えず、その下にトスリナ語で『なぜ?』と書く。

    『うちにはたまに、旅をしていたり、事情があったりする、きれいな外国の女の人が泊まりに来るんだ。でもいつも、僕が朝起きた時にはどこにもいないんだ』

     そう書くと少年は、パラパラとその下にあるいくつもの紙をめくってみせた。

     そこには色んな言語で「早く逃げた方がいいよ」というような言葉が書かれている。

     シュツァーハイトは理解した。これは今までここに泊まりに来た女性たちに見せられたメッセージだ。だが、文字を読めない一般女性は少なくはない。

     自国の文字を読めるフローリアでさえも、他国の文字は分からないと言っていた。

     この紙には、少年の届かなかった声がつづられている。

     シュツァーハイトは、フローリアとおばあさんが隣の部屋の前で話しているのをちらりと一瞥する。

     恐らく、連れに男がいたとしても、自分のような怪我人ならば問題ないと考えたのだろう。眠った彼女を夜中にひっ捕まえ、人買いに売る。ろくに体の動かない男など、寝込みをそのまま殺してしまえばいいのだ。

     いつかの時の己のように、恐ろしいくらい冷静に思考が回る。

     シュツァーハイトは『教えてくれてありがとう』と、最後につづった。少年は彼を見上げると、少し寂しそうな笑顔でうなずいた。

     少年が眠りについた頃。おばあさんにおやすみを告げ、用意された部屋でシュツァーハイトと二人になったフローリアは言った。

    「良かったわね、今日は屋根のあるところでゆっくり寝られるわ。優しい人もいるのね」

     言葉が終わるのを待って、シュツァーハイトは彼女の腕を取り、部屋の一番奥まで連れて行く。

     「な、何?」と戸惑う彼女に、しぃと唇の前に指を立ててみせ、彼女の耳元に口を寄せてささやいた。

    「早くここを出る準備を。急げ」

     フローリアは彼が何を言っているのかさっぱり分からなくて、いぶかしげに小首をかしげてみせる。

    「あのばあさんは、お前を人買いに売るつもりでこの家に招いたんだ。あの少年が忠告してくれた」

     部屋の外で聞き耳を立てられているかもしれない。シュツァーハイトは十分に用心した小声で、彼女に簡潔に説明した。

     フローリアは、信じられない、という顔をしていたが、彼がこんな嘘や冗談を言う人間ではないことはよく分かっている。

     それに確かに、あの寂れた小さな商店の利益のみで子供に家庭教師をつけたり、あんなに何冊も本や学問書を用意したりはできないだろうなと不思議に思っていたのだ。

     動揺する彼女に「だから、早く」とうながす。

     数少ない荷物の類は、シュツァーハイトがさりげなくこちらに部屋に運んでおいた。それらを手早くまとめると、極力物音を立てぬようにして窓から逃げ出した。

     こんな日に限って夜中に雨が降り出して、フローリアは自分の溶けかけた心が急速に冷え固まっていくのを感じていた。

     冷たい雫が肌を打つ。それだけのことなのに、立っていられなくなるくらい痛く感じた。

     頬を伝う雨の筋に、涙が混じる。景色がにじむ。

     せっかく、いい人だと思ったのに。人の優しさに、家族の暖かさに、触れられたと思ったのに。

     思い出せば思い出すほどに、心が辛くて仕方ない。

     これまでこらえていたものも重なって、流すつもりなんてなかった涙が止まらなくなる。

     石畳が雨に濡れて、わずかな数の村の家屋の明かりや、軒先のランタンが鏡のように地面に映りこみ、道が明るく光っている。

     しょうがない、しょうがない。

     フローリアは目の前の彼の背中を追いながら、何度も自分に言い聞かせた。

     昔はもっと過酷な生活をしていたはずなのに。人に出し抜かれること、裏切られることなんて当たり前だったはずなのに。こんなこと、なんとも思わなかったはずなのに。

     フローリアは思った。

     人は、心の痛みに慣れたりなんてできないのね。何度も傷ついてそれを学んできたはずなのに、いつも忘れちゃうんだから、不思議ね。

     雨音に混じる、背後から聞こえる抑えたすすり泣きの声に、シュツァーハイトは彼女の手首を引いた。泣いてもわめいても、今はここから離れるために歩くしかない。







     二人はまたひたすら歩いた。

     あの革命の日から大分経った。早いところ、この隣国を抜けてしまいたかった。

     大小いくつもの町を、東に向かい転々とする。

     シュツァーハイトの腕は問題なく動かせるほどに回復し、力仕事でなければそれなりに働くこともできた。

     たまに仕事のつてやちょっとした縁で、外国語の簡単な翻訳や、正式な書面を作成する依頼をされることがあって、その時は結構な金になった。

     周りは、これだけの語学や知識に精通している彼が一体何者なのかと驚いていたが、亡くなった両親が知識階級だったので、とだけ言った。余計なことは話したくなかったし、話せなかった。

     そういう依頼をこなすと、よく、金は相応に支払うのでこのままうちで働いてくれないだろうか、と言われることがあった。

     彼だって落ち着けるのならそれが一番だと思ったが、ひとところに長く留まることができない、人には言えない理由がある。それに、きちんと仕事としてこういうことをやっては、目立ってしまう危険性もある。

     そう言ってもらえて嬉しいけれど、行かなければならない場所があるので、と毎回丁重に誘いを断る。

     行かなければならない場所なんてない。むしろ、それがあってくれたならどれだけありがたいことか。

     目的地もなく、どこまで行ったらこの当てのない旅が終わるということもなく。働いても働いても、逃げても逃げても、穴のあいた袋に水を入れ続けているような終わりのない疲労感と、自分がすり減らされていくような磨耗感がする。

     体はまともに動くようになったが、シュツァーハイトはまだフローリアと、この当てのない旅路を共にしていた。

     なけなしの身銭を切り、自分の面倒を見てくれたのは、彼女が勝手にやったこと。だが、それに見合うくらいの返礼をしてから離れてもいいだろう。その方がなんとなく後腐れがないように思えた。

     それに彼女も、これからの道中について特に何も言い出さなかった。





     また早々に旅立った二人は、小さな林の中で、もう何度目か知れない野宿をしていた。

     焚いた火を挟んで向かい合う二人は黙っている。安定のない日々に疲れ、少しやつれているようにさえ見える。パチパチ音を立てる焚き火の方がよっぽどお喋りだった。

     シュツァーハイトは大怪我から回復するまでに大分体重が落ちたし、元々細いフローリアももう少しやせたようだった。

     夜空には無数の星たちがきらめいていたけれど、天を仰ぐ気力のない二人には関係ないこと。林の木々の奥の暗闇が、二人を四方から取り囲んでいる。

     長い沈黙のあと、ふと、シュツァーハイトが口を開いた。

    「お前は、歌はやらなかったのか?」

     突然何を言い出すのかと思い、フローリアはきょとんとしてしまう。

     そして、ああ、踊り子だった頃の話か、と理解した。

    「踊りはできたけど、歌はあんまり上手くなかったのよ」

     小さな吐息まじりにそう言う。

     あれだけ素晴らしい舞いを披露できる彼女が、歌は下手だなんてにわかには信じがたくて、シュツァーハイトは言った。

    「試しに何か」

     フローリアは、「え、えぇ~」と恥ずかしさをにじませて戸惑っていたが、少しためらったあとに小さく口ずさんだ。

    『……全てを差し出しても――あなたをなくすことだけが怖いのよ――』

     城下で流行っていた、チープな歌詞の恋の歌。

     シュツァーハイトはこの曲を知らなかったが、不意に思い出した。

     このメロディは、以前聞いたことがある。

     王宮にいた頃、宮殿の最上階の執務室で、ホールから流れてくるこの曲を聴いた。窓を開けると、薄暗い部屋に、ゆるやかな夜風と共にこの音楽が入ってきた。

     今もその時と同じく夜風が吹いているけれど、感じるものは全く違っていた。

     これまで職務中はずっと手袋をしていたが、この放浪生活で手の白さは大分失われたと思う。

     文字を読む時、何かを書く時、つい癖でモノクルをはめようとしてしまう。そんな高価なものを今の自分が持っているわけがないのに。

     彼女の歌声に耳を澄ます。

     別に下手だとは思わなかった。きっと、歌に比べて踊りの腕が秀ですぎていたんだろうな、と察した。

     踊りの舞台など、彼女の以外はほとんどまともに見たことはなかったし、彼女の舞台でさえ遠くから少し見た程度だ。でも、彼女の舞いがあれだけ多くの人々の心をとらえるわけはすぐに理解できたし、そういったものの心得がない自分にも、彼女の持つ踊りの才能はよく伝わってきた。

     彼女はもう、踊りの類は全てやめたと言っていた。

     どうして、と尋ねたら、「舞いを披露すればお金になるかもしれないけど、噂が広まったりしたら逃げてる意味がないでしょう?」と述べた。

     彼女の言う通りだった。

     踊りたいと思わないんだろうか。あの夜彼女は、舞いはスパイ活動のためだけでなく、こういうのが好きなんだと言っていた。

     彼女から一番輝ける場所を、舞台を奪ったのは、組織なのか、国なのか、民衆なのか、それとも、自分なのか。

     シュツァーハイトは傍にあった木の枝で、彼女には分からない外国語で地面に「悪くない」と歌の所感を書いてから、すぐに足で消して、先に眠った。

     目を閉じると、まぶたの裏に、いつかの彼女の舞台が浮かび上がった。

     磨り減っていく体と心の中に、彼女の歌声の響きが残っていた。










     またしばらくの放浪のあとたどり着いた町は大きかった。ここはこの国の首都である。

     町並みはレンガ色の屋根と漆喰の白い壁で統一されていて、訪れる人々はまるで自分たちが絵画の中にいるようだとさえ思えた。

     町の小路は蟻の作る巣のように細く曲がりくねり、二十歩以上まっすぐ進めば壁に当たってしまう。

     中心地には歴史ある大きな城が建っていて、建物の先の方には数え切れないほど多くの尖塔が、天に向かい伸びている。故郷の建築物とは全く異なる趣向。

     人々がたくさん集まる地は、情報も多く、仕事もある。

     人が多いのは何かと危険ではあるが、二人はここに宿を借り、しばらくまとまった金を稼ぐことにした。

     今までの道中、完全に金が尽きたことはないが、仕事が得られず、金銭面の不安でピリピリして過ごす時期は何度かあった。

     この先何があるか分からないし、少しでも金を貯めておきたかった。

     一人、仕事を探そうと町を歩いていたシュツァーハイトは、巨大な城をその足元から見上げた。白い雲が泳ぐ濃い青空を突き刺すようにそびえ、先のほうは高すぎてうかがえない。

     晴れていて暖かいが空気は乾いていて、彼はしばらく、大きな雲の作る影の中に立っていた。

     王宮にいた頃、この国の政府とも色々やりとりをしていたから、何度かこの国に宛てて書簡や文書を作成したことがある。自分がこんな城に手紙を送っていたなんて、自分の書いたものがこの城の中にあるなんて、なんとなく信じられなかった。

     ふと、シュツァーハイトは自分に近づく気配に気づき、視線を戻した。

     すると目の前には。

     腰まであった長い髪を、ばっさり肩まで切ったフローリアがいた。

     毛先が肩に触れるくらいで、首を傾けると白い首筋が少し覗いた。

     彼女は自分に薄く微笑んでいる。

    「……切ったのか」

     シュツァーハイトがそう一言だけ言うと、フローリアは「うん」と浅くうなずいた。

    「人が多いところだし、ちょっとでも見た目を変えたほうがいいかなと思って。あと、野宿する時邪魔だしね。前から切りたいと思ってたのよ」

     そうペラペラと饒舌に理由を重ねる彼女は、彼に説明をしているというよりも、自分に言い聞かせているように見えた。

     シュツァーハイトは「そうか」とだけ言って、二人はまた別れた。





     フローリアはこの町で過ごすしばらくの期間、ある飲食店の裏方を手伝った。

     彼女に仕事を求められた店主は、彼女の顔立ちと愛嬌を評価し、是非給仕として店に出てほしいと頼んだのだが、申し訳ないけれど、とそれは辞退した。

     国中から沢山の人々がやってくるこの町の店では、どんな人に顔を覚えられるか分からない。

     開店前や閉店後の清掃、食材の仕込みの手伝い、厨房の雑務などをやらせてもらった。飲食店だと残飯や腐りかけの食料を貰えたりするので助かった。

     ある昼下がり、来客のピークをようやく越えた頃。

     フローリアは空の酒瓶が入った大きな木箱を両手で抱えて、近所の酒店まで運んでいた。

     町は朝から晩まで絶えず賑わっていて、こうした昼間なんかは芸人が広場や路上でパフォーマンスを披露していたりもする。

     ある大通りに差し掛かった時、そこにある大きな劇場が目に付いた。飾られた看板の文字は読めなかったけれど、恐らく今夜行われる演目のタイトルだろう。

     軒先には小さな野外の特設ステージが組まれていて、出演者とおぼしき華やかな女性が、道行く人々を舞台に誘うように歌っていた。

     私なんかが誘われているわけじゃない、と分かっていたけれど、その明るい舞台に足が自然と止まった。

     歌う女性は長い髪をふわふわと巻き、そこに鮮やかな色の花を飾っている。薄く紅が差された頬。まぶたの上にはキラキラと光る粉が塗られている。長い爪は赤く塗られ、身にまとう衣装にはオーガンジーがあしらわれて、光沢が美しい。

     フローリアは胸がきゅっとなった。

     音楽は好きだし、人の芸を見るのも好きだったはずなのだけれど、今はあまり見たくない。

     自分のみじめな格好と、日の当たらない場所を思う。

     あかぎれの多い、皮膚がザラザラして固くなった手と、白くなって欠けやすい爪。国を出てから、持っていたわずかな装飾品を売ったり、服を何度か安いものに買え変えたりした。昔から着ているものもまだあったけれど、厳しい旅路ですっかり古くなり、くたびれている。化粧なんてもうどのくらいの期間していないだろうか。

     別に、踊りなんてスパイの技術の一つだったはずなのに。

     もっと昔なんて、名前すら持っていなかったのに。

     フローリアは思う。

     持つものがない時は、持てるものがないことを悲しいと思っていた。

     でも、持つものがあると、それが奪われたり汚されたりして悲しいと思ってしまう。

     あってもなくても苦しい。

     生きることはこんなにも難しい。心は自分の中にあるはずなのに、全然自分の思い通りになんてならない。いつも他人に手を突っ込まれて、心の中を無遠慮にかき回される。

     フローリアはステージで歌う女性に、小さく歌声を重ねた。

    『あなたのゆく先が悪夢だとしても、私を一緒に連れていって――』

     昔、好きだった流行りの歌。今は歌うと辛さが増した。








     その日、フローリアはなんだか心が寂しくて、夜遅くに仕事を終えると、宿に帰る道を急いでいた。

     一人でいると精神的にグラグラしてしまって、落ち着かなかった。なんとなく、誰でもいいから人に会いたかった。人と一緒にいたかった。

     足を進める町並みには、この時間帯でもまだ人がいたというのに、彼女の人恋しさは全く紛らわせなかった。

     朝から晩まで丸一日の労働でへとへとのはずだったが、早足で宿の部屋に戻る。

     だが、部屋に灯りはともされておらず、シュツァーハイトの姿もなかった。

     少し、ドキリとした。

     最低限の彼の荷は置いてあるし、彼も仕事の終わりがとても遅くなることはままある。

     それでも、心臓が跳ねた。息が苦しくなった。

     彼がいなくなってしまったのかと思った。

     いなくなってしまった?

     フローリアは考える。

     別に、彼と共に放浪する約束なんてしているわけじゃない。突然いなくなったとしても何らおかしくはない。

     そう頭では分かっていても、なんだか落ち着かなくて、ベッドに腰掛けドキドキしながら彼を待っていた。

     そして、彼はそのあとすぐに部屋に帰ってきた。

     フローリアは戸の開く音にぱっと立ち上がって、「お疲れさま」と彼に伝えに行く。

     シュツァーハイトは、自分が部屋に戻っただけなのに、彼女が珍しく駆け寄ってきたので、「何かあったのか?」と警戒した。

     フローリアは「特に何もないけど」と返す。本当に、特に何かあったわけではない。

    「遅かったのね」

     と彼女は言う。

     しかし彼は、

    「そうか? いつもとそれほど変わらないと思うけどな」

     と首をかしげた。

     彼女の様子が何となくおかしい。変なことを言う。

     それに、彼女の澄んだ瞳はわずかにかげっている。

     今夜の彼女は、まるで風にあおられるか細い蝋燭の火のようだと思った。このまま風に揺らめき、身を削がれて消えてしまいそうにさえ見えた。

     何かがあったのかもしれないが、彼女も自分から話さないようだし、何も訊かなかった。

     彼女の問題は自分がどうこうできることではないだろうし、必要以上の余計なことに踏み込むような関係でもない。

     もし何か大事な事項であれば、自分から言ってくるだろう。





     彼女が持ってきた飲食店の料理の残りを食べ、寝る。

     灯りを落とした部屋。暗闇にすぐ目が慣れる。木材の匂いがする。活気ある町の宿は人が多く利用するためか、少し換気したらかび臭さやほこり臭さは気にならなくなった。

     今まで泊まった宿の中では、ましな方だと思う。

     それでもシュツァーハイトはなかなか寝付けなかった。それはベッドの硬さや狭さのせいだけではないと分かっていた。

     疲れたから、と早めに横になった彼女に視線をやる。

     相変わらず二人は、安く済む一人分の部屋を借りていて、夜は小さなベッドで背を向け合って、身を小さくして眠っていた。

     一瞬、彼女が呼吸をしていないように見えて、上半身を起こして彼女の寝顔を覗き込む。小さく丸まって寝息を立てている。

     何を馬鹿なことを。

     人はそんな簡単に、死んだり消えたりなんてしない。

     彼はそう自分に言い聞かせたが、さっき確かにドクンと心臓が大きく波打って、全身を不安に包まれた感覚は、なかなか忘れられなかった。

     シュツァーハイトは背中をベッドの上に戻したが、今日はなんとなく、彼女の方に体を向けて寝た。別に、反対を向いて寝ろと彼女に言われたわけじゃない。

     それに、ずっと同じ方向ばかり向いて寝ていると、首も肩も痛くなる。そう考えながら、彼は目を閉じた。





     翌朝、フローリアが鳥の声と共に目覚めた時。いつもより体が温かい、と感じた。

     朝方は空気が冷えるので、いつも薄っぺらいデューベイ(羽毛布)を鼻先まで引き上げて耐えていたくらいなのに。

     その温かさの正体がなんなのか、寝起きのぼんやりとした頭だったがすぐに分かった。

     彼の片腕が、自分に覆うようにかけられている。

     一瞬でまどろみも吹き飛ぶほどに驚いた。

     この彼が意識的に変なことをしようとするわけはないし、今までこんなことは一度もなかったけれど、寝相なのだろうか。まさか彼が自分相手に血迷ったりするなんてありえないだろうし。

     背中を向けているので、彼の顔はうかがえない。でも、耳を澄ますと小さく寝息が聞こえる。腕がここにあるのだから、こちらを向いて眠っているのだろう。

     フローリアは考える。

     疲れていると寝相が悪くなると聞いたことがあるし、ここ最近二人とも毎日朝から晩まで働いている。自分もすごく疲れているし、きっと彼も疲れているのかもしれない。

     すぐに腕をどけるとか、ベッドを抜け出してしまってもよかった。

     けれどフローリアはそのままの体勢で、朝日がカーテンの隙間から差し込み、部屋の空気中のごく小さなほこりが金色に浮かび上がらされているのを、じっと見つめていた。

     人の体ってこんなに温かいんだ、と思った。それと、私よりこの人の方が体温が高かったりするのかな、とも思った。

     そして、男の人の腕ってこんなに重たいんだな、と考えてから、少しだけまた目を伏せた。








     歩き続け、ついに二人は更に隣の国へと抜けられた。

     建物の作りや人々のまとう衣服、物の意匠や配色にいたるまで、母国とは全く異なる。二人にとってここは「別世界」と言い飾れるほどだった。

     この国の更に東部には大きな砂漠があるらしく、そこから渡ってくる風は確かな熱を持っている。暑さがあり、太陽が近いように感じる。だが、乾燥地帯なのでべたべたとした空気はない。

     東洋の文化と西洋の文化がモザイクのように混ざり合ったこの都市は、異国情緒に満ちている。赤レンガ造りの家々は、壁面を原色の青や黄色に塗られていた。

     よく見ると違和感の多い町並みなのだが、そのごったさがこの都市の魅力でもあった。

     母国の隣国を抜けられたことで、二人には少しだが安心感もあった。

     シュツァーハイトは現在の母国の情報を集めてみた。人の多い酒場でしばらく聞き耳を立てていれば、あちこちから人々が集まるこの都市で、調べられない情報はなかった。

     どうやら母国はあれから、旧臨時政府を中心として新政府が発足し、新しい国づくりに奔走しているそうだ。

     あの時捕縛された貴族の多くは牢の中でなぶり殺されたが、生き残った者たちは現在、新政府による公開処刑を待っているという。

     また、外国の手を借り国外に逃亡を図った貴族らもいるようだが、新政府は可能な限りその身柄の引渡しを要求し、彼らが国外に持ち出した財産の返還を求めていくらしい。

     それらの話を聞いても、シュツァーハイトは何とも思えなかった。

     どこか別の世界の話、物語の中の話のようにさえ思えた。

     それより、今日をどう生きていくか。明日はどこへ行くのか。そればかりを考えていた。

     弱い酒を不純物で更に薄めたようなまずい酒を飲み干して、酒場を出た。





     フローリアはこの都市で、新しい服を一式得た。

     体の締め付けの少ないこの国の服は風通しがよく、それでも皮膚に受ける日差しはきちんとさえぎっている。

     踊りを捨て、髪を切り、服装もすっかり変わってしまうと、自分を自分たらしめるものとは一体なんなんだろう、と思う。

     今の自分は何を持っているのだろう。

     多くの人は、そして自分も、忘れがちなことだけれど、服も、容姿も、金も、ずっと変わらず持てるものではない。いずれ古くなったり、壊れたり、変わっていったり、少なくなったり、どこかへ行ったり。

     ずっと変わらず同じものなんて、見た目でさえもそんなことはありえないのに。毎晩夢を見るたびに、意識でさえも途切れるというのに。どうして自分を自分と思えるんだろう。

     名前? 職業? 信念?

     人々は何をもって、自分をずっと自分だと思えているんだろう。

     私は何をもって、自分を自分だと信じ続けられているんだろう。

     フローリアは石階段を上り、外れにある小高い丘にのぼった。

     巨大な夕日が地平線に溶けている。

     この当てのない旅路で、失ったものや手放したものはたくさんある。

     でも、一つだけ。別に自分の所有物ではないけれど、ずっと変わらず傍にあるものがあった。

     フローリアは自分を呼ぶ声に振り返る。

     この場所で落ち合う約束をしていたシュツァーハイトが、こちらに足を進めてくる。同じく異国の服を身にまとい、彼のはおった前開きのローブが、丘からの風を受けてゆったりと空気をはらんでいる。

     この人は、いつ、いなくなるんだろう。

     彼の怪我が治るまで、と言っているうち、別れる契機を逸し、彼も何も言い出してこない。

     気づけば心に抱く疑問は、どうしてずっと一緒にいるんだろう、から、いついなくなってしまうんだろう、に変わっていた。

     夕日の強い光を低い位置から受け、自分を見つめる彼の顔半分に濃い影がかかる。

     もうずっと昔のことのように感じる、初めて宮殿で出会った時のこと。恐ろしい目をした人だと思った。見つめ返していると魂を取られそうだとさえ思った。

     今はそんなこと、欠片も思わない。それは彼が変わったからなのか、自分に変化があったからなのか。

     完全に安心できるわけじゃないけれど、もう二つも隣の国に来た。今は、金銭的にもさほど困っているわけではない。

     なのに、なぜか不思議と、彼と離れることを想像すると胸がきゅっと苦しくなる。

     身勝手な話だ。

     彼が大怪我を負い、こんな形で国を追われ、有能だったのにもかかわらず日陰者に身をやつすことになったのは、自分のせいだってあるというのに。

     彼は、私と別れたらどこに行くんだろう。

     私は、一人になったらどこに行くんだろう。

     いつか彼が別離を告げてきた時、どこへでもいいから一緒に連れていって、と頼んだら彼はどう答えるだろう。

     目の前に立つ彼は口を開いた。

    「行こう」

     フローリアはうなずく。

     本当は、先を行く彼の腕に触れたかったけれど、我慢した。

     ギリギリまであふれかけている、気づいてはいけない愚かしい想いに蓋をするように、足を踏み出した。








     次の町に着くまでに、丁度いい位置に宿がなく、久々に何度か野宿をした。

     この辺りは木々は少なかったが、夜になってもあまり冷えないのが幸いだった。

     初めの頃に比べたら、二人とも随分屋外で夜を明かすことに慣れた。

     昔は野宿をするたび、みじめで不安な思いをしていたものだ。今は火を囲んで、腰を落ち着けてから交互に眠るまでに、ぽつぽつと色んな話をするようになった。

    「最初は暗号みたいだと思ったんだ。選ばれた人にしか分からない。だから解読するのが楽しい。謎解きのような感覚だった」

     彼が地面に木の枝でガリガリと文字を書きながら話す。それは彼の習得している数多くの言語についての話だった。

    「それに、近隣国なら言語は完全に違うってわけじゃない。単語なり文法なりが似通ってるんだ」

     フローリアは、焚き火を挟んで向かい合う彼をじっと見つめて、話を聴いていた。

    「多分、大昔はここ一帯に大きな一つの国があったか、もしくは中心になるような高度に発達した国があって、そこの文化が広がって独自に変化したんだろう」

     彼は地面に書いていた、フローリアには分からない国の言葉を足で消すと、枝をぽいと脇に投げた。

    「だから、恒久的な国の区分なんてないと、俺は思う。戦争で殺しあう敵国同士も、憎みあう他国民も、元々一緒の国や集団だったかもしれない。もしかしたらこの先、仲の悪い国同士が一つになる可能性だってあるということだ」

     そう喋りきってから、ちらりと、正面に座る彼女に視線をやる。

    「……お前、興味のない話だと露骨に相槌が軽くなるな」

    「そう?」

     これでも結構聴いてた方なのよ、と苦笑いを交えて言い訳する。

     シュツァーハイトは「別に構わないが」と吐息を漏らすと、視線だけで彼女に話のバトンを渡す。

     フローリアは、何を話そうかな、と少し視線を宙にさまよわせる。

    「ええと……私に踊りを教えてくれてた先生が言ってた話なんだけどね」

     彼女は語る。

     彼女の踊りの先生は、かつて町で敵うものはいないと言われた人気の踊り子だったという。かなり昔に引退して、それからは指導する側に回ったそう。

    「先生が繰り返し言ってたことなんだけど、『頭で演じようとしてはいけない』んですって。でも、感じるままに動いた方がいい、なんて抽象的で感覚的なものじゃないのよ。そうだとしたら練習の必要自体なくなっちゃうんだから」

     フローリアは練習時代のことを思い出すようにふわっと立ち上がり、あの宮殿での舞台と変わらぬバランス感覚で爪先立ちしてみせる。伸ばされた指先はあの時と同じようにしなやかに動く。

    「勿論、頭を使わずひたすら繰り返して覚えるっていうのは、効率も悪いし、楽しくないし、あんまり賢い方法ではないんだけど」

    「では、なぜ?」

     彼女を見上げて、シュツァーハイトが相槌を打つ。

     フローリアは真っすぐ前の暗闇を見すえていて、まるで前に客席がうかびあがって見えているかのようだった。

    「大舞台で緊張するとどうしても、意識してしっかりやらなきゃ、って思うでしょう? でも、普段練習してる時って、意識しなくても体が勝手に動くのよ」

     そう言ってトンッ、とほとんど音を立てずに地面を蹴り、優雅に跳躍してみせる。

    「それは体が覚えてくれてるからなんですって。いつもは体が自然と、無意識のうちにやってることを、慣れてない頭が意識してやろうとすると、失敗しちゃうのよ」

     シュツァーハイトは彼女のゆるやかな腕の動きを目で追う。とろとろと流れる湧き水のようだと思った。

    「例えば、呼吸をしようと意識すると途端にうまくできなくなっちゃったり、歩こうって意識しすぎると動きがぎこちなくなっちゃうみたいな。だから、練習するだけしたら、あとはもう体が動くままに任せるのよ。余計なことは考えずに」

     そう舞いながら話しきったフローリアは、話がひと段落するとしなやかに一礼した。

     舞っている時の動きと普段の動きは全然違うんだなと、この近い距離で見てシュツァーハイトは思う。

     そして彼は言った。

    「そうか。だからお前は頭を空っぽにするのが得意なんだな」

    「どうしてそういう結論になるの」

     フローリアは軽く頬を膨らますと、彼の隣に回って、背中を小さな拳で叩いた。

     核心をつくような話題や、暗くなるような昔の話は避けた。気まずさを呼ぶし、無意味に辛くなるだけだ。

     ここしばらくで、彼女は結構笑うようになった。明るくなったと、シュツァーハイトは思う。彼女が元気になるのなら、この他愛もない会話を繰り返すのも悪くない。


     自分の背を打った彼女がそのまま隣から動かなかったので、その夜は並んで焚き火を眺めた。

     ちょっとした気分の差か、戻るのが面倒だったのか、別に何も考えてはいないのか。

     その日は真横から彼女の声が聞こえてきて、なんだか不思議な感覚がした。でも、ちらと横を向いたとき彼女の姿がすぐ近くにあるのも、悪くはないと思った。

     だからなんとなく、次に野宿した時も、彼は彼女の隣に座った。





     そのうち、深い話題に触れることもあった。

     ある小さな町の宿で、眠りにつこうと灯りを消した。部屋が一瞬で暗闇に落ち、それから外の夜空の明かりが注ぎ込んで、室内が淡い銀色に浮かび上がる。

     その間を二人は無言ですごし、フローリアの体が意識を手放そうとした時。

     何の前触れもなく、ぽつりと彼は言った。

    「今まで俺は、必死に生きている人たちを、どれだけ踏みつけてきたんだろう」

     フローリアは薄闇の中でそっとまぶたを開けた。

     一つしかない狭いベッドの上で、彼の方に背を向けて動かない。フローリアは彼の声だけを聴いていた。もしかしたら彼は、自分に向けて言っているのではないのかもしれない。彼自身に向けて話しているのかもしれない。そう思って、黙っていた。

    「……誰のことも押しやらずに生きてきた人などいないと思うし、他にもっと他人を踏みつけている人もいるかもしれない。でも、それを引き合いに出すのは違うと思う」

     室内には、彼の搾り出されるような吐露の言葉だけが、男の低い声だけが響いていて、不思議な感じだった。目を閉じると、どこが上でどこか下か分からなくなるような。

    「それでも、俺も、必死に生きてきた一人なんだ……」

     フローリアは慰めの言葉をかけなかった。彼に否定も肯定もしなかった。

     でも、心の中では、彼がそのことを深く考え、気にしているのならば、きっと大丈夫と思っていた。口にはしなかったけれど。

     シュツァーハイトは暗闇の中で、彼女の気配を探った。

     自分の声に動かない彼女は、もしかしたらもう眠ってしまっているのかもしれない。

     隣に眠る彼女は今、自分のことをどう思っているんだろう。罪を重ねてきた自分を、人々の生活や人生を蹂躙してきた自分を、許してくれているのだろうか。

     こんな風に考えていること自体、調子がよすぎるのかもしれない。

     それでも、彼女に否定されることを、拒絶されることを考えると、胸が締め付けられるかのように辛く、何より恐ろしかった。








     国境沿いの町から街道を歩いた。

     道を行きかう人の多くは、強い日差しに下を向かされている。

     砂漠が近づいたのか、空気に熱風を感じる。足元の砂はどれも乾き、粉のようにサラサラしていた。

     どこが入り口でどこが出口か分からない、何のために作られたのかも分からない、巨大な石造建築物がごろごろある。ものすごく古い遺跡なんかも、当たり前のようにそこらじゅうにあったりした。

     そして二人は、この地域では貴重な、水辺に発達した都市にたどり着いた。

     大きな泉を取り囲むように広がる町。黄土色の砂岩でできた建物の一帯は、朝日の光が注ぎ込むと黄金色に輝いて見えた。

     太陽を避け、夜に出発するつもりで、日中をその都市で過ごした。

     夕刻になると町はにわかに騒がしくなり、今日は年に一度の祭りの日だということを知った。人々の話を聞いてみると、水の神様に感謝を示すための儀式を行うのだという。

     日が沈みきり、それでも日中の熱の名残で空気が暖かい宵の口。

     都市の真ん中にある泉に祭壇が組まれ、そこに置かれたいくつもの色彩豊かなランプに灯がともされる。水色やピンク色、薄い緑色など様々な灯りが、ゆらめく水面に映り込む。

     いつもはわんぱくに走り回っている子供たちも、不思議な力にとりつかれたかのように静かにそれを眺めていた。

     丁度発とうとしていた二人だったが、フローリアが「近くで見たい」と言うので少しだけ足を止めた。

     自然的なものではなく、人工的に作られたもの。こんなに幻想的で美しいものが人の手で作り出せるなんて。

     フローリアの口から、思わず言葉がこぼれる。

    「きれいね……」

     本当は、そんな言葉で表しつくせるようなものではなかったのだけれど、それ以上の表現が分からなかったし、この場で言葉をいくつも重ねることは無粋に思えた。

     シュツァーハイトは言う。

    「最後に見たでかい火が、宮殿が燃えてるところだったからな」

    「もう、冗談になってないわ。あんなのと一緒にしないで」

     フローリアは口をとがらせると、軽く彼の腕をはたいて注意したが、そのあと彼女は黙ってじっと、吸い込まれるように目の前の景色を見つめていた。

     勿論、感動の表現が苦手なだけで、思っていることが顔に出にくいだけで、シュツァーハイトもこれはとてもきれいだと思っていた。水の上に火がくべられているという不思議な光景。それが水面に鏡のように映り、黒い夜の泉がまぶしく光っている。

     でも。

     ふと、視線だけでうかがい見た隣。無数の灯りに照らされた彼女の横顔の方に、気づけばじっと見入ってしまっていた。

     彼女の瞳にキラキラと光が溶け込んでいる。

     最初に宮殿で出会った時は、大人びた濃い薔薇色の口紅を引いていた。

     今の彼女は全く化粧をしていないけれど、淡いピンク色をした素の唇だって、背伸びをしていなくてとても可愛らしいと思った。

     と、そう考えてしまってからシュツァーハイトは、自分は何を言っているんだろうと思う。

     何となく罪悪感がして、彼女から目を逸らした。とっさに片手が口元を覆う。

     別に声に出して何かを言ってしまったわけではないのに、気恥ずかしくなった。

     最近、自分はおかしい。変な時がある。

     彼女が笑ったり怒ったりするのが見たくて、わざと柄にもない冗談を言ったり。他人に聞かせるようなものでもない、自分の中で完結すべきことを、延々と彼女に話したり。

     もう、子供じゃないんだから、分かっている。

     自分は彼女が好きだ。

     もっと話したい、話を聞きたい、聞いてほしい。どんな反応をするのか知りたい。彼女に自分を受け入れてほしい。彼女の全てを、自分だけに許してほしい。

     長い旅路の中で気づいてしまった。もうどうしようもないくらいに、この気持ちがとめられないことを自覚している。

     でも。

     こんな勝手な想いを、どうして告げることができよう。

     彼女が今、こうして姿や立場を昔と全く変えて、自分と共に放浪しているのは、組織を裏切ってまで自分を牢獄から助けたからだ。才能ある、大好きだった踊りができなくなってしまったことも。

     表面では笑っていても、内心では自分のことを恨んでいるのではないかと考えると、彼女に伸ばしかけた手を、いつも引っ込めざるを得なかった。

     こうやって共にいるのだって、外国の言葉や地理の知識のある自分に利用できる価値があるから、一緒にいるだけなのかもしれない。

     自分を利用するなんて器用なことが彼女にできるとは思えなかったけれど、彼女が自分自身などを必要としてくれているなんて、もっと思えなかった。

     今は、彼女が自分の傍からいなくなってしまったらと想像するのが、一番怖い。多分、自分が命を落とすことよりも。

     馬鹿にしていた安い歌詞の恋歌みたいに、本気でそう思っていた。

     彼女がそっと振り返り、彼を見上げて、静かに口を開く。

    「そろそろ行きましょう」

     名残惜しそうな目で、彼女は薄く笑ってみせた。

     ゆらめく光が、彼女の柔らかそうな頬を照らす。

     彼女がそれで喜ぶのならば、きれいな火くらい、いつまでもゆっくり見させてやりたいと思う。

     けれど、今の自分にそんな力はない。

     それでも。

     彼は彼女に伝えたかった。





    10


     流浪を続ける二人は、賑やかな商業都市にいた。

     路上には物売りが隙間なくひしめきあい、屋根代わりに布を張った小さな店たちは、狭い間口に所狭しと商品を並べている。

     香水の入ったガラス製の小瓶。天然石のあしらわれた指輪。複雑な紋様に染められた布。金色輝く大きなイヤリング。

     どれも目にまぶしく、フローリアは、色がうるさい、なんて初めて思った。

     人々が集まるところは仕事も多い。

     しばらくの時をそこで過ごすことにし、また朝から晩まで働いていた。

     ここまで母国から離れると言葉はほとんど分からなかったのだが、話せなくとも意外とどうにかなったし、シュツァーハイトに色々教わったりして少しずつ知識を増やしていった。

     夜も深くなると流石に街中も静かで、フローリアがのんびりと宿に戻ってきた時、まだ彼の姿はなかった。

     ランプに灯りを入れ、二つあるうちの片方のベッドに腰掛けた。

     シュツァーハイトの提案で、最近はちゃんと二つベッドがある部屋を借りている。流石に疲れている時に気を遣いながら寝るのは体に堪えるし、最初より慣れてきたとはいえ、やっぱり男性と一緒のベッドで寝るのは緊張する。

     金がなければそんな贅沢なことは言っていられないが、幸い今は旅にも慣れ、やりくりや仕事を見つけるのも上手になった。多くはないがある程度貯蓄もできるようになった。これくらいは必要経費だと、フローリアも思う。

     飯屋で働いたのでその余りものなどをもらい、自分の分を食べきってしまうと、物の整理などをしながら彼を待った。

     少し遅いな、と思っていると、部屋の扉が開いて彼が戻ってきた。

    「お疲れさま。どうかした?」

     彼を見上げると、なんとなくいつもと雰囲気が違って見えた。

     彼は言葉を返すことなく、持っていた最低限の荷をもう一つのベッドに投げると、なぜか彼女の座る隣に腰を下ろした。

     わけも分からず、フローリアは彼の顔を見つめ、きょとんとしている。

     彼の表情はいつもと変わらぬものだったのだけれど、これまでずっと行動を共にしてきたフローリアには、何か少し緊張しているのかな、と感じられた。

     体を彼女の方に向け、シュツァーハイトは口を開く。

    「髪を除けて」

     言われるがままに、首筋にかかる髪を片方に寄せる。

     すると彼の手が迫ってきて後ろに回り、鎖骨にヒヤッとした感覚を覚えた。いきなり近づかれて、反射的に顔が赤くなってしまったので、今が昼間でなくて本当に良かったと思う。

     そして彼が身を離してから自分の胸元に視線を落とすと、海を閉じ込めたような色をした、綺麗な石のついたネックレスがかかっていた。

     装飾品なんて、国を脱出した時に金に換えてしまってそれっきり、長いこと一つも持っていなかった。

     もう踊り子をしているわけではないし、着飾る必要もない。それに今は化粧もしていないし、服だって決していいものを着ているわけではない。今の自分は到底着飾るに相応しくないからと、そういうことはずっと諦めてきた。

     指先を綺麗な石に触れさせ、ネックレスに見入ってしまっていると、シュツァーハイトが「よく似合う」と口にした。

    「私に、買ってきてくれたの?」

     驚き戸惑いながらも、頬が熱くなる。

     彼はうなずく。

    「……どうして?」

     恐る恐る、上目遣いに彼をじっと見上げる。この質問をしてもいいのかな、でも気になるし、と心の中に葛藤があった。

     見つめ返す彼の眼差しが、優しく自分に注がれている。

     胸は苦しいくらいにドキドキしているのに、不思議と嫌じゃなくて。

     心を締め付ける痛みは甘く、心地よく広がる。もっと強くこの痛みを感じたいとさえ思えるくらいに。

     彼は言う。

    「どうしてだと思う?」

     けして試すようにではなく。言葉にすることがためらわれるからこそ察してほしい。理由を考えてほしい。そして、受け入れてほしい。

     目元だけが少し微笑むように、切なげに細められている。

     距離が詰まったわけでもないのに、お互いしか見えなくなるような感覚がした。

     フローリアは彼のこの贈り物の意味が分かって、それでも彼を見つめ返す。彼女の瞳の色が切なさを帯びる。

     そして。彼の指先がそっと、優しく彼女の右頬を包む。

     もうずっと昔のことのように思える宮殿での夜。あの威圧的な暗い目で、強引にあごをつかまれた時の指先とは、全然違う。

     嫌だったらこの手を振り払って、と彼の眼差しが語っている。

     でも、振り払ったりなんてするわけがなかった。彼女だって、この彼の手を、ずっと欲しがっていたのだから。

     彼の体重移動で、一人用の古いベッドはギシリと音を立てる。

     所在無げに指先で空を掻いた彼女の左手を、彼の右手が手首ごと包み込む。

     鼓動が走り、吐き出す息が震えそうになるのをこらえた。

     そして二人はどちらからともなく、唇を重ねた。

     最初は許否を問うようにそっと触れ合わせ、それから、互いの唇の柔らかさを確かめ合うように、夢中で。

     母国からどれだけ離れたか分からないこの異国の地で。

     身を削るような放浪生活で、沢山のものを無くしながら。

     それでも今、一つだけ、初めて手にはいったものがある。

     絶対に手放したくはない唯一のもの。

     自分が自分だと分からせてくれるもの。


     あなたが傍にいてくれるのなら、きみをつれてどこへだって行ける。


     夜は更ける。星ははじける。





    11


     幾許かの時が過ぎ、二人は遠く離れた地を旅していた。

     故郷とは全く異なる服装に身を包み、人々が信じる神もまた違っていた。

     フローリアの髪は、元通りとは言わないまでも、また長くのびた。

     二人はそこで、母国の新政権が崩壊したことを知った。

     もともと反政府組織の連合だった新政権が権力争いで内部抗争を起こしたとも、あの時王宮を脱出できた貴族の生き残りたちが画策したとも、いつまでも安定しない国内情勢に不満を持った新たな反抗分子たちのせいとも、様々言われている。

     シュツァーハイトいわく、今まで圧倒的権力で押さえつけてどうにかなっていたものをたった数年で共和制に移行させるなんてことは、とても難しいだろうという。

     新政府首脳陣には、身の安全のため姿を暗まさざるをえなくなった者もかなりいたそうだ。

     フローリアは少しだけクルデリヒのことを思ったけれど、空中に煙が撒かれるかのように、すぐに頭から消えた。

     二人は母国が再度崩壊したことについて、しばらく何も言葉を交わせなかった。

     自分たちを追い出してまで行われた革命が、出来上がった新しい政府が、守りたかった国が壊れてしまったこと。

     でも、もうずっと長いこと、遠く遠く離れ、正直なところなんとも思っていない自分もいる。

     相手はどう思っているんだろう。

     互いのことを考えるからこそ、気安く未来を口にはできなかった。

     確かなことは、とりあえず、これ以上放浪の旅を続ける必要はないということだ。すぐには実感が湧かなかったけれど、自分たちを追う勢力はなくなったのだから。

     そんなある日。

     シュツァーハイトは、彼女にふいにこう言った。

    「ここで暮らそうか」

     彼の指先が、フローリアの髪をすく。

    「住む家を持って、二人の帰る場所を作りたい」

     それは、何も持たない、行く当ても帰れるところもなかった二人が、ずっと切望していたものだった。

     けれど、瓦解の知らせをうけてすぐだ。もしかしたらまだ何かあるかもしれないし、そうしたらすぐにここも動かなければならない。

     それでも、フローリアは微笑んで深くうなずいた。

    「私たちの、新しいふるさとを作りましょう」

     シュツァーハイトは彼女の腰を抱き寄せると、片腕の中に収め、鼻筋を髪にうずめた。

     そしてフローリアも、彼の首に強く両腕を回した。

     今はまだ、かりそめであってもいい。

     途方もなく遠いこの異国の地で。できるだけ長く、平穏が続いてくれることを祈る。二人が一緒にいられる生活を希う。

     今は燃え尽きた豪奢な宮殿で出会った、「冷酷者(ルシュレヒタ)」と呼ばれた男と、貧民街で生まれスパイとして育てられた女。

     この二人がこんなにも強く愛し合うことを、どうしようもなく互いを必要だと求め合うことを、誰が予想できただろうか。きっと、二人をここまで押し流した時代の波でさえも、考えられなかったことだっただろう。

     そして。まだ誰も気がついていないことだが、二人の未来を願う彼女の体には、新しい小さな命が息づいていた。







    (終わり)
    izumixizumi Link Message Mute
    Aug 18, 2018 9:55:17 AM

    橋の下のフローリア

    ☆あらすじ☆
    踊り子として王宮に忍び込んだスパイの女、フローリア。
    王宮で周囲から「冷酷者」と呼ばれる貴族の男、シュツァーハイト。
    やがて民衆たちによって国に革命が起こされ、二人の男女は時代の荒波に押し流される。
    はるか遠くの異国の地にて、何の因果か逃避の旅路を共にすることになった二人。
    自分という存在は何なのか考えながら。自分の罪と向き合いながら。二人は当てもない流浪の中で惹かれあっていく。

    (2015年執筆。完結済み)

    表紙絵&全話挿絵付きver.は「小説家になろう(https://ncode.syosetu.com/n2523cu/)」と「アメーバブログ(https://ameblo.jp/izuminosyousetu/entry-12054235233.html)」の方に掲載しております。宜しければ是非ご覧ください(^-^)




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