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    【BSR】竜と小虎と竜と小虎と竜と童と鴉と小虎と竜と小虎と

     幾重にも頭上を覆う枝枝の間から差し込む僅かな陽光に目元を照らされ、政宗は喉奥で低く唸ると緩慢に持ち上げた掌でそれを遮る。
     彼が身を横たえている枝は大木に相応しい太さだが、さすがに寝返りを打てるほどの幅はない。
     黙って屋敷を出てきたがそのことに対しての罪悪感はない。誰にも縛られることなく自由奔放。それが政宗の有り様であり、それを咎めることが出来る者などこの地には居るべくもなく。
     ──否。唯一人居るには居るが、その者も余程のことがない限り主の意志を尊重し、我を通すことは滅多にない。そんな彼に敢えて不満を言うなれば、苦言を呈することは忘れないところであろうか。
     未だ睡魔の誘惑を振り切れず、うっすら、と持ち上がった瞼が再び閉ざされようとしたその時、遙か上空から「あーッ!」と逼迫した声が上がったかと思いきや、ガサガサ、バキバキ、とけたたましい音と共に紅い塊が、政宗に向かって一直線に落下してきた。
     それを目に留めたのが早いか、腹に凄まじい衝撃を感じたのが早いか、どちらにせよ一瞬のことで身構える余裕もなく、政宗は、がっふぅっ! と悲鳴とも雄叫びともつかぬ声を上げる羽目と相成った。
     落下してきたソレはバランス感覚に富んでおり、しっかりと両の足裏で無防備な腹に着地したのだから、政宗にとっては不運としか言いようがない。一点集中の攻撃にさすがの政宗も涙目だ。
    「なんとッ! このようなところに人がおったとは!? 大変失礼致した。怪我はござらんか?」
    「……ッンの前にどきやがれッ!」
     大きな目を更に真ん丸に見開いて顔を覗き込んできた子供に、ガーッ! と大人げなく怒鳴ってから、政宗は相手の後ろ襟を、むんず、と掴むと腕を伸ばして足場の外に、ぶらーん、とぶら下げる。
    「うおっ!? 離してくだされ!」
     もだもだ、と身を捩る子供に一瞥くれるも政宗はそれには応えず、迫ってくる羽音に僅かに目線を上げた。
    「あー、居た居た。旦那ぁ~怪我ない~?」
    「うむ。大事ないでござる」
    「こっちは大アリだがなぁ。おいこら、一体どういうことか説明しやがれ。そもそも猿飛、てめぇがなんでここに居るんだ」
     子供をぶら下げているのとは逆の手で、足跡の付いた着物の腹をさする政宗の行動で全てを把握したか、ゆっくり、と降下してきた鴉天狗は顔の前で両の掌を合わせると「やーゴメンゴメン」と軽くはあったが詫びの言葉を口にした。
    「うっかり、手ぇ離しちゃってさぁ。まぁ旦那ならこれくらいの高さ、どうってことないとは思ってたけど、まさか下にアンタが居たとはねぇ。ほんとゴメンね」
     政宗の手から子供を受け取りつつ困ったように眉尻を下げる鴉天狗に、政宗はなにか言いたげではあるが目だけで続きを促す。
    「やだなぁ、そんなコワイ顔しないでよ。喧嘩する気はこれっぽっちもないんだから。今回の用向きは至って平和な社会科見学ってトコかな」
    「Why ?」
    「この子、真田源次郎幸村っていうんだけど、お館様の元で修行中なのね」
    「甲斐の、あの大虎の弟子かよ」
     一瞬にして表情が険しくなった政宗に鴉天狗は少々慌てたか、早口に次の言葉を繰り出す。
    「だーかーら、喧嘩しに来たわけじゃないっての。さっきも言ったでしょ、社会科見学だって。あちこち見て歩いて経験値上げたいだけなのよ」
    「佐助、佐助、この方と知り合いでござったか」
     不意に上がった話の腰を折る声に、政宗も佐助も同時に子供へと目を向ける。長話に飽きたわけではないであろうが、幸村は目の前の政宗に興味津々であるらしい。
    「そうだよ旦那。今日からしばらくお世話になる竜の旦那……っと、あ、いや土地神様の伊達政宗公だよ」
     はいご挨拶してね、と佐助が子供の両脇を支えれば、宙に浮いた状態のまま幸村は、ぺこり、と政宗に向かって頭を下げた。
    「然様でござったか。先程は誠に失礼致した。しばらくご厄介になります故、改めてよろしくお頼み申す」
    「はいよく出来ました」
    「ちょっと待てぇ! そんな話、俺は聞いてねぇぞ!?」
     目の前の和やかな空気をぶち壊すのも厭わず、政宗は佐助に掴み掛かろうとするも、おっと、などと軽い声と共に、するり、と難なく避けられてしまい、ぎり、と音がしそうな程に眉間にしわを寄せる。
    「おっかしいなぁ、片倉の旦那にはちゃんと話通してあるんだけどなぁ」
     その言葉で、ぴたり、と政宗の動きが止まる。
    「……小十郎のやろう」
     低く漏らし政宗は勢いよく枝から飛び降りると、脇目もふらずに屋敷へと駈け出したのだった。


    「Hey ! 小十郎!! 一体どういうこった説明しろ!?」
     スパーンッ! と勢いよく襖を左右に滑らせるやそれを閉めることなく、ずかずか、と室内に大股で乗り込んできた政宗を見上げ、小十郎は文机に書物を置くと平素と変わらぬ静かな面持ちで、ゆうるり、と首を傾げる。
    「いきなりどうされました、政宗様。いつも申し上げているように、襖の開閉は丁寧になさってください」
    「小言は後回しだ! 甲斐から鴉天狗と小虎が来やがったぞ」
    「あぁ、もうお着きになられましたか。さすが猿飛、早いな」
    「おい、俺はなんも聞かされてねぇんだが、どういうことだ」
     心持ち低くなった声音にも動じることなく、小十郎は、はて、と言わんばかりに主の顔を真っ直ぐに見つめた後、あぁ、と軽く手を打った。
    「この小十郎としたことが、うっかり、失念しておりました。申し訳ございません、政宗様」
     さらり、と淀みなく詫びの言葉まで口にした小十郎に、政宗は僅かに口許を引きつらせる。うっかり、などと言ったが間違いなくわざとであると確信する。この男と顔を突き合わせている年月は伊達ではないのだ。だが、確かに事前に聞かされていれば、政宗はにべもなく断りを入れたであろう。
    「ここで甲斐に貸しを作っておくのも、悪くはございませんでしょう」
     更に涼しい顔で続ける小十郎に、もういい、と力無く返し、政宗は思い出したように疼き出した腹を無意識のうちに掌で撫でさする。
    「どうされました? 腹痛ですか。それでしたら良い煎じ薬が……」
    「Ah……そうじゃねぇ」
     音もなく立ち上がり薬箱を取りに行こうとした小十郎を、政宗の歯切れの悪い声が引き留める。
    「それではお怪我を……?」
     反対方向へ向けていた足を政宗へと修正し、小十郎は立ったままである主の前で膝を折ると、僅かに土に汚れた着物に片眉を上げつつ、失礼致します、と断りを入れてから着物の袷を大きく開いた。
     引き締まった腹の一部が変色しており小十郎は僅かに眉根を寄せるも、その痕がなにの形をしているのか気づいたか、目に怪訝な色が乗る。
    「足跡、でございますか?」
    「例の小虎だ。なかなかいい身のこなししてやがったぜ」
     嫌味たっぷりに吐き捨てた政宗だがその声音に憎悪や殺意はなく、小十郎は主が攻撃されたわけではないと判断し安堵の息を漏らした。
    「湿布を当てておきましょう。まぁ、政宗様なら半日もせぬうちに回復なさるでしょうが」
    「それよりも、小十郎がKissしてくれた方が早く治ると思うんだがなぁ」
    「戯れ言を聞く耳は生憎と持っておりません」
     はいはい、と言わんばかりの口調で返され、政宗は黙ってその場に腰を下ろすと袖から両腕を抜いた。
    「客人の世話は小十郎が致しますので、政宗様はいつも通りお過ごしください」
     清潔なサラシと薬液を手に戻ってきた小十郎に政宗は曖昧な返事を投げると、見るとはなしに天井の木目を見上げたのだった。
    「して、政宗様。お二方は?」
    「知るか」
     するする、と手際よく巻かれていくサラシに目を落としつつ政宗が投げやりに答えれば、小十郎は一瞬、ぴくり、と手を止めるも「然様でございますか」と何事もなかったように返し、袖を通すよう政宗を促すと無駄のない動きで袷を整え終え、すっ、と立ち上がった。
    「畑へ行って参ります」
    「おう」
     恐らく、客人をもてなすための食材を取りに行くのであろう。小十郎一人で世話をしている決して狭くはない畑には、四季折々の作物が潤沢に実っている。
     静かに畳を踏み出て行く小十郎の背を見送り、政宗は文机の書物を手にその場に、ごろり、と横になったのだった。


     草鞋を引っかけた小十郎が門の傍で待つこと暫し。てっきり空から来るものとばかり思っていた鴉天狗は予想に反して正面から現れ、彼に気づくと「どうも」と片手を上げつつ笑みを見せた。
    「無理言って申し訳ないね。暫く厄介になるよ」
    「なに、構わねぇよ」
     軽く返してから小十郎は、物珍しげに辺りを見回している小虎に顔を向けた。
    「こいつがそうか」
    「そ。ほら旦那。こちらが片倉の旦那。強面だけど取って食ったりはしないから」
    「てめぇは一言余計なんだよ」
     幸村の肩を、ぽん、と促すように叩き、冗談交じりに小十郎を紹介した佐助に対して、間髪入れず小十郎のツッコミが入る。そのやり取りを大きな目で見ていた幸村は真っ直ぐに小十郎を見つめ、やや緊張した面持ちで口を開いた。
    「某、真田源次郎幸村と申す。滞在中は片倉殿にいろいろ御指南頂きたく……」
    「そんな畏まらなくていいんだぜ?」
     膝を折り幸村と目の高さを合わせた小十郎は、ぽん、と小さな頭に掌を乗せ、ゆうるり、と目元を和らげる。途端に柔らかくなった面差しに固くなっていた身体から力が抜けたか、幸村の面にも笑みが浮かぶ。
    「よろしくお頼み申す」
     ぺこん、と頭を下げた幸村の頭を、くしゃり、と一撫でしてから小十郎は立ち上がると「いつもの部屋に布団も用意してあるから、適当にくつろいでてくれ」と、これまでも何度か屋敷を訪れている佐助に告げ、畑へと向かって行った。
    「懐の広そうな御仁でござるな」
    「そうね。面倒見はいいよ、あの人。あぁ見えて笛も舞もなかなかの腕前だからね。それに博識だし。いろいろ教わって帰るんだよ、旦那」
    「うむ。楽しみでござるなぁ」
     瞳を、キラキラ、させ弾んだ声を上げる幸村に佐助は眦を下げるも、なにか思い出したか、あ、と小さく声を上げ表情を引き締める。
    「畑荒らしたり好き嫌いしたり瞑想の邪魔したりしたら、容赦なく雷が落ちるからね。それだけは覚えておきな」
     重要なことだから、と常にない真剣な面持ちで念を押してくる佐助に気圧されたか、幸村は心持ち強張った顔で何度も頷いたのだった。




     ぱたぱた、と軽いが、どこか落ち着きのない小走りな足音が近づいてくるな、と温かな褥で、ウトウト、と微睡みつつ頭の片隅で、ぼんやり、と思っていた政宗は、不意に開かれた障子よりも、たしっ、と畳を踏む小さな足に軽く目を見張った。
    「政宗殿! 片倉殿が団子を作ってくれたでござる!!」
     臆することなく枕元へと歩み寄り、ちょん、と正座をした幸村の膝上には、皿に乗せられたみたらし団子が三串。それを枕に突っ伏した状態で、ちろり、と見やり、政宗は深々と息を吐いた。
    「で? なんで俺のところに来る」
     彼がここに来てから三日が経っているが、何かと理由を付けてはやってくる幸村が不思議でならないのだ。
    「大層美味であったので某、是非に政宗殿と食したいと思い参った次第」
     余程うまかったのか目を、キラキラ、させ、ついでに口端にみたらしのタレを付けたまま、大真面目に語りかけてくるその姿が滑稽であり、また心和むものでもあり、政宗は僅かに口角を上げると押し当てていた枕から顔を離す。
     途端、小虎は目を見張り、ひゅっ、と喉を鳴らした。
     僅かに強張ったその表情から政宗は醜い傷痕の残る己の右目が原因かと察し、自嘲気味な笑みを漏らす。
    「Sorry 驚かせたな。子供には刺激が強すぎたか」
     枕元に投げてあった眼帯に手を伸ばした政宗を制するかのように、幸村は勢い込んで口を開いた。
    「そっ、そんなことはござらん! それよりも某の方が非礼を詫びねばなりませぬ!!」
     申し訳ござらん! と膝上の皿を脇に寄せ、深々と頭を垂れる幸村に政宗は面倒臭そうに目を細めると、ガシガシ、と後ろ頭を掻いた。
    「Ah……それじゃ、あいこってことで手打ちだ。顔上げな」
     布団の上に胡座をかき、小さな頭が元の位置に戻るのを待つ。恐る恐るといった体で顔を上げた幸村は、どこか痛々しい眼差しで政宗の右目を真っ直ぐに見据える。
    「ひとつお聞きしてもよろしいでござるか? 政宗殿は土地神様であらせられるというに、何故その目は盲いたままであるのか、某、不思議でたまりませぬ」
     純粋に問いを投げてくる幸村の視線のあまりの強さに、政宗は不覚にも一瞬、言葉を失った。小童同然の相手の気に一瞬とはいえ、呑まれたのだ。
     こいつは化けるかもしれねぇ、と政宗は胸中で歪んだ笑みを漏らすも、面には一切出さない。
    「真田幸村、てめぇはこの世でなにが一番恐ろしいと思う?」
    「はて、突然そのようなことを聞かれましても、とんと見当が付きませぬ」
     先の質問の答えになっていないにも関わらず、やはり大真面目に返してくる幸村に口端を吊り上げ、政宗は今度は隠すことなく歪んだ笑みを唇に貼り付ける。
    「念だよ。人の念だ。それも悪意に類する物は呪いとなんら変わらねぇ。全てを蝕む消えることのない毒だ」
     とんっ、と右手人差し指で己の右瞼を軽く叩き、政宗は静かに言葉を吐いた。その動作ひとつで彼の言わんとすることが伝わったか、幸村の顔が僅かに強張る。
    「それは……かように強い念でござったのか」
     ごくり、と幸村の喉が上下するのを感情の乗らぬ隻眼が追い、それに気づいているにも関わらず小虎は逃げることなく竜と対峙し続ける。
    「……まぁ、正確には俺に向けられたモンじゃなかったんだけどな」
     ゆるり、と息を吐き張り詰めていた空気を霧散させると、政宗は傍らに置かれた皿から団子を一串取り上げた。
    「そん時は俺もまだまだひ弱なガキでよ、親父……あぁ、先代の土地神な。ソイツに向けられたモンだったんだがあっちにゃ届かず、全部こっちにきちまったってワケだ」
    「なんと……」
     囓り取った団子を、もぐもぐ、と咀嚼する政宗の声音は軽いが、幸村は更に眉根を寄せると小さな拳を膝上で、きゅっ、と握り締めた。
    「それでも小十郎のおかげで右目だけで済んだ。こればっかりは感謝してもし足りねぇな」
     本人には言わないけどな、と悪戯っぽく笑う政宗につられたか、幸村の顔も僅かに綻ぶ。どこまでも純粋な幸村に政宗は微かな苛立ちと羨望を覚え、だが即座に、はっ、と鼻で笑いその感情を掻き消してしまった。
    「そういえば片倉殿は不思議な匂いがする方でござる。人のようで人でなく、妖のようで妖でない。その正体、某には皆目見当が付かないでござる」
     むむ、と難しい顔で首を傾げる幸村を眺めつつ、政宗は串に刺さった最後の団子を殊更ゆっくりと噛み締め、飲み下す。
    「イイ鼻持ってるじゃねぇか。あれは元は人だからな。それに今も半分は人のままだ。惑わされてもしようがないってことだ」
     ぽい、と串を皿へと放り、こともなげに言い放った政宗を、幸村は、ぽかん、と見上げる。
    「人、でござるか? では何故、我らの側へ?」
     疑問は全て解決しないと気が済まない質なのだろう。齢を重ねた者達が口にしにくいこともこの小虎は臆することなく問いに変え、それにより得た全てを素直に吸収し血肉へと変えていくのだ。
    「おっと、これ以上は子供にゃ聞かせられないTop secretだ」
     諦めな、と人の悪い笑みを浮かべた政宗に幸村は何事か反論しようと口を開くも、それを見越していた政宗に、がぽん、と団子を突っ込まれてしまい、目を白黒させるしかなかった。
     その様に政宗は、くつくつ、と喉を鳴らし、はっ、と我に返った幸村が口から団子を抜き去り、顔を赤くして抗議の声を上げれば、ふにゅり、と頬をつつかれる。
    「これくらいで怒るなよ」
     余裕綽々に口角を吊り上げる竜に、つい、ぷぅっ、と頬を膨らませれば、それすらも愉快であると更に頬をつつかれた。
    「アンタが団子みたいだぜ?」
     からかいの言葉と共に幸村の口端についたままのみたらしのタレを、べろり、と舐め取れば、びしり、と音が聞こえたかと錯覚させるほどに幸村はあからさまに固まったかと思えば、瞬時に、ぼしゅっ、と音がしそうな勢いで茹で蛸のように更に真っ赤になり、
    「はっ破廉恥でござるぅぅぅぅぅーッ!」
     と絶叫を上げつつ、脱兎の如く逃げ出したのだった。


     団子を握り締め半泣きで戻ってきた幸村に、ぎょっ、となった佐助であったが、顔を真っ赤にして、あうあう、と狼狽えている主の様子から、いじめられたのではなくからかわれたのだな、と深々と息を吐き、「まぁ、お茶でも飲みなよ」と軽く手招いた。
     ここで理由を問えば、思い出して更に挙動不審になるのは目に見えている為、両手で湯呑みを包み、ふーふー、と息を吹きかけている幸村を黙って見やる。
    『ほんと旦那はコワイモノ知らずだよねぇ』
     一体なにが幸村の琴線に触れたのか、政宗殿政宗殿、と何かにつけて彼の所へ行きたがる主に、佐助は軽く額を押さえる。悪気も下心もないだけに、政宗も扱いに困っているだろうと容易に想像がついた。
     ややあって落ち着いた幸村は文机に向かい、日課となっている書き取りを始めた。暫くは黙々とミミズののたくったような字を連ねていたが、なにか思い出したか顔を上げる。
    「佐助、政宗殿は時々よくわからない言葉を口にされるのだが、とっぷしーくれっととやらは破廉恥なことでござるか?」
     小十郎に書いて貰った文字をお手本に筆を動かしていた幸村が不意に発した問いに、隣で同様に文机に向かっていた佐助は擦っていた墨を、びしゃり、と豪快に跳ねさせてしまった。
    「ちょっ、旦那!? いきなりナニ!?」
     慌てて文机の上を拭きながら逆に聞き返してくる佐助に、なにかおかしな事を言っただろうか、と幸村は、こてん、と首を傾げた。
    「とっぷしーくれっととは子供に聞かせられないことだと、政宗殿が言っておられたのだ。だからてっきり……」
    「一体なんの話をしてたのかは知らないけど、全然違うからね」
     頬を赤らめ恥ずかしそうに俯いてしまった幸村の頭を、ぽんぽん、と軽く叩き、佐助は「カンベンしてよ、竜の旦那~」と胸中で泣き言を漏らしたのだった。




     くぁ、と欠伸と共に滲み出た眦の涙を指で拭いつつ、ぺたぺた、と縁側を進む政宗の耳に「真田源次郎幸村、いざ参るッ!」と、一言で言うなれば暑苦しい雄叫びが届いた。
    「Ah~? 朝っぱらからやかましいこって」
     小指で、カリカリ、と耳の穴を掻き、懐手で、ぼりぼり、と腹を掻く。陽の高さからして朝と言うには少々遅い時間ではあるが、昼前には変わり無く。
     腹が減ったからと台所に向かっていた足を外へと向け、裸足のまま、ぺたり、と踏み石に降り立つ。小十郎は畑だな、と彼の日課と現在時刻とを照らし合わせた結果だ。
     屋敷からも見える畑に目をこらせば、見慣れた小十郎の背中とその隣で共に鍬を振るう小虎が見え、先程の雄叫びはアレか、と小さな体に不釣り合いな鍬を力強く振り上げる幸村の姿に、政宗の口から知らず笑みが零れる。
     手伝う気はさらさらないがとにかく腹を満たしたいと、政宗は声を掛けようとするもふと違和感を覚えその口を噤んだ。
     小十郎と小虎の背丈の比率が記憶と違っているような気がして、むむ、と二人の背中を凝視する。しかし、幸村が来てから二週間と経っていない。いくら子供は成長が早いとはいえまさかそんなわきゃねぇか、と政宗は疑念を、はっ、と鼻で笑い飛ばすと、大股に畑へと踏み込んだ。
    「Hey 小十郎。腹が減った」
    「おはようございます政宗様」
     首に掛けた手ぬぐいで、ぐい、と顔を一拭いしてから振り返った小十郎は、政宗の姿を目に留めた途端、眉間に、きゅっ、としわを寄せた。
    「政宗殿、だらしのうござる」
     小十郎が表情にしか出さなかったことを隣の幸村は、あっさり、と口にし、ちょい、と己の髪に触れてみせる。
    「御髪が豪快に踊っておられるぞ」
    「わぁってるって。あとで直す」
     歯に衣を着せぬ分、小十郎よりも質が悪い、などと口にすることはさすがに堪えたが、政宗はまだなにか言いたげな幸村の正面に立つと、うん? と首を傾げた。
    「やっぱデカくなってねぇか……?」
     ここに着いた当初は政宗の腹辺りで、ひょこひょこ、揺れていた茶色の髪が、今は胸の辺りにある。どういうこった、と更に首を傾げる政宗の頭上から「そんな不思議がることじゃないでしょ」と緩い声が降ってきた。
     見上げれば張り出した枝に俯せになり下を覗き込んでいる佐助の姿がそこにはあり、政宗は投げられた言葉よりも彼の気配を察せられなかったことに、ちっ、と舌打ちを漏らす。
     ひらり、と音もなく降り立った佐助は、ぽん、と政宗の肩を軽く叩くと、屋敷へ戻るよう促しつつ、幸村と肩を並べたままである小十郎に向かって、ぱちん、とウィンクを一つ飛ばして見せた。
    「竜の旦那の朝餉は俺様が用意するから、真田の旦那のことよろしくね」
    「いや、しかし客人にそのような……」
    「いいって、いいって。遠慮しないの。あ、もしかして竜の旦那はよそ者が作ったご飯は食べない主義とか?」
     戯けてはいるがかなりきわどい問いに小十郎は息を飲み、政宗はしばし無言で佐助の顔を見据えていたが「不味かったらGo to hellだ。覚悟しとけ」と言い捨て、さっさと歩き出す。その背を見送る小十郎は知らず詰めていた息を静かに吐き、ゆるり、と肩から力を抜いた。
    「安心召されよ片倉殿! 佐助の作る飯は絶品でござる!!」
     小十郎の危惧を取り違えた言葉ではあったが、幸村の揺るぎない力強い声音と眼差しに、竜の右目は微笑を浮かべて小虎の癖っ毛に指を埋めるように、くしゃくしゃ、と撫で回す。
    「そうか。政宗様も喜んでくれるといいな」
     さ、続きだ、と小十郎が促せば幸村は素直に鍬を振り上げた。


     平素より早足で屋敷へと向かう政宗に難なく歩調を合わせ、佐助は竜の横顔に、ちら、と目をやってから「言ったでしょ、経験値上げに来たって」と口火を切った。
    「旦那はね、見目はアレで言動もナニだけど、この世に現出してからそれなりの年月経てんのよ。お館様のところでの修行はまぁ有意義だけど、変化のない日常ってのはダメだね。中身がてんで成長しない」
     再度、ちら、と政宗の横顔を窺えば相手も目だけで佐助を窺っており、その目に促されて佐助は言葉を続ける。
    「肉体が精神に引っ張られて均衡が崩れてるんだよ、旦那は。純粋で、真っ直ぐすぎて、いつまでも子供のままだ。あぁ、この状態、竜の旦那も覚えがあるんじゃない?」
     ゆるり、と付け足された内容に政宗は、ちっ、とひとつ舌を打ち、「だったらどうした」と吐き捨てた。
    「無力な自分に歯噛みした経験があるからこそ、ウチの旦那を任せてもいいかなって。人生の先輩として期待してるよ、竜の旦那」
     一瞬にして脳裏を過ぎった苦い過去に政宗は、ギリッ、と奥歯を噛み締める。薄暗い部屋の隅で膝を抱え、泣くことしか知らなかった弱い自分の姿に、堅く握った拳が小刻みに震える。
     ケタケタ、と笑い出しかねない佐助を、ギッ、と隻眼で睨め付け、政宗は「黙れやこのクソ鴉が」と言うが早いか、鋭い蹴りを佐助の尻に叩き込む。これにはさすがの佐助も本気で回避行動に移るしかなく、黒い羽根を撒き散らしながら上空へと逃れた。
    「うっわ、やめてよねぇ旦那。そんな蹴り喰らったら俺様の愛らしい尻が割れちゃうじゃない」
    「むしろ粉々に爆砕してやるつもりだったって言ったらどうするよ」
    「いやほんとやめて。正面からまともにやり合って、俺様がアンタに勝てるわけないんだからさ」
     そこに含まれた別の意味に気づかないふりをして、政宗はお調子者を演じる鴉天狗に軽く肩を竦めて見せる。
    「OK、飯が不味くなるような話はここまでだ」
     一方的な宣言であったが、それに佐助が乗らない理由はない。
    「それじゃ俺様、一足先に戻るから」
     翼を出したついでにそのまま飛んで行こうというのだろう。それを止める理由のない政宗は軽く頷いて見せ、軽やかに飛び去る佐助の姿を隻眼で追うも途中で興味が失せたか、ふと肩越しに背後を見やった。
    「小十郎……」

     ──政宗様にはこの小十郎がついております。

     己の膝を引き寄せ頑なに顔を上げようとしない小竜に愛想を尽かすことなく、彼は常に傍にいた。政宗の閉ざされた世界を開いたのは、確かに小十郎であった。
    「外の世界は素晴らしいものですよ、政宗様」
     己の身を蝕み続ける嘆きや怨嗟の声を打ち払い消し去ったのは、それ以上の強い思いで政宗の名を呼び続けた小十郎であった。
    「おまえは捨てられたくせに、あっちでいらないからと父上の供物にされたのに、どうして平気な顔で居られるんだ」
     幼さ故の残酷な問いにも、小十郎は真剣に誤魔化しのない返答を寄越す。
    「あちらでは確かに小十郎は必要とされておりませなんだが、こちらではそうではありませんでしょう? 一度は捨てた命を繋いでくださった恩に報いるため、小十郎はこの身に変えましても輝宗様と政宗様をお守り致します」
     その為に彼は人であることをやめたのだ。
     姿形は人と寸分違わぬが、その身の裡には激しくも静かな蒼白い雷が秘められている。
     天を割り地を裂こうかと言うほどに彼の稲妻が荒れ狂ったのを目にしたのは、後にも先にも一度きりだ。
     彼の命を繋ぎ居場所を与えた政宗の父、輝宗の星が落ちたその時、一度きりだ。
     ゆるり、と回想を打ち払うように政宗は頭を振る。
    「らしくねぇや」
     はっ、と短く笑い、政宗は屋敷へと顔を戻すと、一度も振り返ることなく歩みを進めた。
     それ故、彼は知らない。
     主の背を、その姿が屋敷の中に消えるまで、右目が見守っていたことを。

    「片倉殿?」
     不意に名を呼ばれ小十郎は、はっ、と弾かれたように己の名を呼んだ者を振り返る。その勢いに驚いたか、小虎は目を真ん丸に見開いて動きを止めてしまった。
    「あ、あぁ、悪いな。ちょっとぼんやりしてた」
    「お加減がよろしくないのであればあとは某がやります故、休んでいてくだされ」
     ぽん、と傍らの小さな頭に掌を乗せ、ばつの悪い顔で詫びる小十郎に気遣いの言葉を寄越す幸村の目はどこまでも真っ直ぐで、それを向けられた本人はますます申し訳ない気持ちになる。
     大きな声では言えないが小十郎は正直、己の主と鴉天狗を二人きりにすることが気が気でないのだ。特にこれといった確執があるわけではないが、政宗が佐助を快く思っていないことをなんとなくではあるが感じているが故だ。
     かくいう小十郎も佐助の奥底に潜む冷酷さを警戒しており、実力面を鑑みても敵には回したくないと思っているのが本音だ。
     常にない弱り切った様子の小十郎が心配であるのか、幸村は更に真摯な眼差しで見上げてくる。さすがにそのままそっくり告げるわけにもいかず、さてどうしたものか、と小十郎が頭を悩ませているところに、天の助けか畑の向こうから「片倉様」と声を掛けられた。
     見れば近くに住む若い衆の一人で、なにかあったのかと小十郎の纏う空気が一瞬にして鋭くなった。
    「すまねぇな」
     短くそう口にして小十郎は幸村を残し足早に畑を抜け、自分を呼んだ者と言葉を交わす。二人して背を向けてしまった為その表情を窺い知ることは出来ないが、幸村は先の小十郎の切り替えの早さに背筋が粟立った。
     この者は本当に強いのだと、理屈ではなく本能がそう告げるのだ。それは己の従者とは別種の強さであり、それを熟知しているからこそ佐助はここへ来ることを強く進言したのだろう。
     知らず鍬を握る手に、ぎゅっ、と力が籠もる。そんな幸村を知ってか知らずか、小十郎は大股に畑に戻ると無造作に大根を一本引き抜き、それを相手に持たせると話は済んだのかそのまま別れたのだった。
     こちらへと戻ってくる小十郎には、先の研ぎ澄まされた刃のような鋭さは微塵もなく、平素と変わらぬ落ち着いた様子だ。その手にはなにやら包みがあり、幸村の興味は自然とそちらへと移る。
    「お話はもうよいのでござるか?」
    「あぁ、なに。大した話じゃねぇよ」
     近隣の者の話は、他愛のないことからなにから全て小十郎が聞いている。耳に入る話は当然、良いことばかりではなく真偽の見極めも難しいが、不穏な空気を察すれば政宗の手を煩わせることなく、小十郎が率先して手を打つ。
     だが、それを幸村に説明する必要はないのだ。
     大きな目がなにを見ているのか気づいたか、小十郎は手中の包みを軽く振って見せ、ゆうるり、と眦を下げた。
    「おはぎのお裾分けだそうだ。戻って茶にするか」
     それを聞いた途端、幸村は一も二もなく顔を、ぱぁっ、と輝かせ、小十郎もつられたように柔らかく笑む。
    「あぁ、だがその前に風呂だな」
     土に汚れた幸村の顔を軽く拭ってから小十郎がそう言えば、幸村はますます顔を輝かせ「お背中お流しいたす!」と弾んだ声を上げた。
     源泉から湯を引いている為、わざわざ風呂炊きをしなくて良い上、室内風呂とは別に小さいながらも庭に設えられた露天風呂が幸村は大層お気に召したらしい。ちなみに初日に大はしゃぎをして佐助に叱られたのは、ここだけの話である。
     一緒に入ると信じて疑っていない幸村に軽く笑い返し、小十郎は、まぁいいか、と小虎の背をひとつ促すように叩いた。
    「政宗殿ともできればご一緒したいでござる」
     まるでご飯のおかわりを所望するかのような気負いのない口調に、一瞬、目を丸くした小十郎であったが裏表のないそれが気に入ったか、はは、と小さく笑い声を漏らし、わしゃわしゃ、と幸村の頭を撫で回した。
    「真田は政宗様が恐ろしくはねぇのか?」
     奥州の独眼竜と言えば、一睨みされようものなら寿命が百年は縮むとまことしやかに囁かれ、近隣のみならず遙か西の海を越えた地までその名は知れ渡っている程だ。
     だが、幸村はその問いかけに不思議そうな顔で首を傾げると、その表情に見合った声を発した。
    「政宗殿はいい匂いがするでござる」
    「あ?」
     問いの答えになっていないと小十郎が怪訝な声を上げれば、幸村は大真面目に同じ言葉を口にした。
    「政宗殿はいい匂いがするから大丈夫でござる。佐助も、片倉殿も少し不思議な匂いが混じっておられるがいい匂いでござる」
     先よりも力を込め、これ以上の説明はないと胸を張る幸村を、ぽかん、と見下ろしていた小十郎だが、小虎がふざけているわけでも冗談を言っているわけでもないと、向けられる真剣な眼差しで理解した。その感覚頼りにはある意味、頭が下がる。
    「まったく。てめぇにゃ恐れ入る」
    「なっなにがでござるか?」
     頭を撫で回す小十郎の手に勢いがつきすぎ、ぐらんぐらん、と揺れる視界に目を回しつつ幸村が問いの言葉を発するも、小十郎は喉奥で、くつくつ、と笑うだけで答える気はないようだ。
    「某はもっと政宗殿とお話がしとうござる。あ、いや、決して片倉殿との語らいが不満というわけでは……ッ」
     特になにを言われたわけでもないというのに、ひとりで勝手に焦っている幸村の頭を小十郎は更に撫で回し、わかったわかった、と宥めるような声を出す。
    「風呂は駄目だろうが、食後の茶くらいはご一緒してくださるだろうよ」
     それで我慢しな、と主の気性を心得ている従者の言葉に、幸村は素直に頷いたのだった。




     ドタドタ、と廊下を往復する主の邪魔にならぬよう、佐助は欄干に足裏を乗せ膝を折った恰好で雑巾掛けに勤しむ幸村と言葉を交わす。
    「今日はなにを教えていただけるのか、楽しみだなぁ、佐助」
    「あー、昨日は太鼓習ったんだっけ?」
     テンツクテンツク、とたまに調子の外れた音が響いていたな、と思い返している佐助の前を横切る幸村はよほど楽しかったのかその面からは笑みが絶えない。
    「佐助の言う通り片倉殿の笛は見事であった」
    「でしょ。先代様はそれ目当てに片倉の旦那を召し抱えたって聞くし」
     ま、あくまでも噂だけどね、と言い置いて佐助は軽やかに廊下に降り立つと、ピッ、と人差し指を立てて見せた。
    「俺様が見てないからって手ぇ抜いちゃ駄目だからね」
    「なっ、そのようなことは断じてせぬ!」
     用があるから昼過ぎまで戻れない、と朝餉の席で告げてきた小十郎に、幸村自ら、ならば屋敷の掃除をしている、と声高に宣言したのだ。責任感が強く真面目な幸村のことを重々理解している佐助の先の言葉は、当然の事ながら軽い冗談である。
    「片倉の旦那、帰ってるみたいだから、ちょっと見てくるよ」
     うー、と未だに唸っている幸村に、ひらり、と手を振って、佐助は音も立てずに小十郎の私室目指して廊下を進んでいく。
     小十郎の性格からして、戻ってきたのであれば仕事を押しつけたままというのは、まず考えられない。なにかあったか、と渋い顔で歩みを進めていた佐助はなにかに気づいたか、今し方通り過ぎた部屋へと後ろ向きのまま戻ると息を詰め、すっ、と障子を僅かに滑らせた。
     垣間見えたのは、ひょこん、と跳ねた襟足で。
     ここに居たのかと声を掛けようとするも、この部屋がなんであるか思い出したか寸での所で口を閉ざした。彼が座しているのはなにも書かれていない掛け軸の掛かった床の間の前で、それは即ち瞑想中であることを示している。
    「お邪魔しました~」と胸中で囁くに留め、障子を元の通り閉ざそうとした佐助であったが、中から上がった誰何の声によってそれは叶わなかった。
    「あー、ごめんね旦那。邪魔しちゃった?」
    「いや、大丈夫だ」
     なにか用か? と穏やかな口調で問うてくる小十郎に、佐助は、思い過ごしだったかな? と内心で首を傾げる。
    「うん、ウチの旦那が今日はなにを教えて貰えるのかソワソワしてるから、俺様が先に聞いておこうと思ってさ」
     思い過ごしならそれでいいか、と思考を切り替えた佐助がそう口にすれば、小十郎は思案するかのように顎に手をやった。
    「そうだな、喧嘩の仕方でも教えてやるか?」
    「いやいや、それ系はウチの大将だけで事足りてるから」
     今更なにをと言いたげな佐助に、小十郎は僅かに目を伏せ「そういやそうだな」と喉奥で低く笑う。その様子に常とは異なった物を感じ、佐助は訝るように目を細めた。
    「気乗りしないなら無理しなくていいよ? 旦那には俺様から言っておくから」
     軽い調子ではあるが僅かに抉り込むような響きに小十郎は片眉を上げると、直ぐさま眉間に深いしわを寄せ、すまねぇ、と小さく詫びる。だが、理由を言う気はないのか唇は、ぴたり、と閉ざされたままだ。
     前々から今日は里で市が立つのだとは聞いていたが、そこでなにかあったのだろうと見当をつけ、佐助は軽く肩を竦めてみせる。
    「ま、片倉の旦那も虫の居所が悪い日もあるよね」
     自ら説明する気のない相手に探りを入れたところで、得られる物はない。不義理をしない男が頑なにその口を開かぬと言うことは、よそ者に聞かせてもどうにもならぬ話か、或いは、よそ者には聞かせたくない話かのどちらかだ。
     無理に聞き出して不興を買うこともあるまいと、佐助は深入りせず流すことに決めたのだ。その気になれば調べることなど容易いとの思いもあるのだが。
     あっさりと身を引いた佐助に再度、すまねぇ、と返し、小十郎は掌で首の後ろを撫でさすりながら、少々首を傾けた。
    「先の話だが、次の市に連れて行くから今日の所は勘弁してくれ、と真田に伝えてくれ」
    「了解。旦那も喜ぶと思うよ。あぁ、そうだ。余計なお世話かも知れないけど、その顔、竜の旦那には見せない方がいいんじゃないかな」
     ものすごくおっかない顔してるよ、と薄笑いを浮かべた佐助の指摘に、小十郎は、はっ、と目を見張り、決まり悪そうに口許を掌で覆った。だが、実際には佐助が言うほど表情には平素との差違はさほど無く、小十郎はカマ掛けに見事引っ掛かった形になる。
     その指摘で意識的に感情の波を即座に抑え込んだ小十郎に、佐助は内心で胸を撫で下ろす。従者の不安定な感情を拾い上げた主がこれ以上、不機嫌になってはたまったものではないからだ。最近、全く顔を合わせていない竜の心境を思いつつ、佐助は「夕飯までには機嫌直してよね~」との軽口を残し退室したのだった。


     ヒタヒタ、と廊下を進んでいた政宗の足が、ぴたり、と止まる。珍しく気を乱している小十郎が気になり彼の元へと足を運んでいたのだが、廊下のど真ん中に思わぬ障害物があったのだ。
     つい、と視線を横へ向ければ水の入った桶と雑巾があり、この小虎がなにをしていたのかは理解できた。
     見上げれば太陽は輝き、温かな日差しが惜しみなくさんさんと降り注いでいる。
     大の字で穏やかな寝息を立てている小虎は、一仕事終えた充実感からか弛んだ寝顔を晒している。その傍らに屈み込み政宗は、すん、と鼻を鳴らした。
     この屋敷で自分と小十郎以外の匂いがするなど、一体いつ以来であるかと遠い記憶を手繰り寄せるも、詮無いことであると、ゆるり、と頭を振る。
     小十郎は土の匂いがする。
     この小虎は陽の匂いがする。
     どちらも柔らかく優しい匂いだ。
     すっ、と伸ばされた手が幸村の頬に触れるかと思われた刹那、政宗は剣呑な目付きで、ゆうるり、と顔を上げた。だが、視線の先にいた男は政宗以上に剣呑な眼差しをしており、互いに無言のまま暫し睨み合う。
    「旦那になにかしようってんなら、いくらアンタでも容赦しないよ」
    「Ha! そりゃこっちの台詞だ。てめぇこそ小十郎になにしやがった」
     瞳の奥に、ギラリ、と凶暴な光を宿す政宗に怯んだ様子もなく、佐助は唇をへの字に曲げると、心外だ、と言わんばかりに片眉を跳ね上げた。
    「それは俺様のせいじゃないっての。むしろ礼を言って欲しいくらいなんだけど?」
     今は落ち着いてるでしょ、と呆れたように口にする鴉天狗を睨め付けたまま、政宗は小十郎の様子を探る。
    「……嘘じゃねぇみてぇだな」
     すぅ、と僅かに目を細めた政宗の微細な変化を見落とさず、佐助は軽く肩を竦めた。
     いつまでも見下ろされているのは癪に障るのか、政宗は静かに立ち上がるや、くるり、と踵を返した。それを引き留めることはせず、佐助は竜の背が遠離っていくのを黙って見据える。
    「一言くらい、詫びてってほしいモンだねぇ」
     そう漏らすも即座に、お互い様か、と自嘲気味な笑みと共に呟いた。
     極間近で不穏な空気が流れたというのに、呑気にも未だ夢の世界から戻って来ない主を見下ろし、佐助は唇を引き結ぶ。
     政宗が幸村に危害を加える気がないことなど、百も承知だ。
     だが、先の言葉に嘘偽りはない。
     相手が誰であろうと主に仇なす者は排除するのみだ。
     ただし、佐助は取り立てて忠義に厚いわけではない。どちらかと言えば常に第三者として状況を見ている節がある為、幸村に対して必要以上に世話を焼いてしまうのは、これが情からくるものであるのか、矜持からくるものであるのか、佐助本人も掴みかねているのだった。


     納戸にいくつも並んでいる桐箪笥を前に幸村は、ほぉ、と感心したような息を漏らす。見目に似合わぬ大人びたそれに、小十郎は僅かに眦を下げた。
     きょろきょろ、と室内を見回しはするもののその場から動かず、周りの物に触れない辺りは、佐助の教育が行き届いていると言うことか。
    「大分背も伸びたから替えの着物がねぇだろ」
     引き出しの中を検めつつ小十郎がそう言えば、戸口に寄りかかって二人を眺めていた佐助が「着物まで世話してもらっちゃって悪いね」と軽く詫びの言葉を口にする。
    「政宗様が幼少のみぎりにお召しになっていた物だが、今は箪笥の肥やしだ。使えるモンは使ってくれ」
     幸村の好む鮮やかな真紅の着物は生憎とないが、丈の合わぬ着物で過ごすよりは良いだろうと思い立ち彼を連れて来たのだ。
     それにこの後、共に里に下りることになっている。なるべく地味で質素な物を探しはするが、いかんせん政宗が身につけていた物だ。百歩譲って地味ではあっても質自体は上物で、これを着て里に下りれば人目を引くこと間違いなしである。
     行儀良く正座で待っている幸村は引き出される着物を目にする度に、どこか尻込みした様子で眉尻を下げて、ちら、と背後の佐助に視線を走らせる。
    「これは屋敷にいるときに使ってくれ」
    「ほんと助かるよ」
    「さ、佐助……っ」
     数歩足を進め、数枚重ねられた着物を、あっさり、と受け取った佐助に、幸村の落ち着きのない声が飛ぶ。
    「ナニ? どうしたの旦那」
    「某、そのような上等な物を纏ったことがござらん故、もし汚しでもしたらと思うだけで肝が冷えるでござる」
     大真面目に訴えてくる幸村に佐助は、まいったなー、とでも言うように片眉を上げ、着物を片腕に掛けると空いた手を腰に当てた。
    「そんなこと言ったって裸で居るわけにはいかないでしょ」
    「箪笥の肥やしだと言っただろう。気にすることはない」
     強い口調ではないが大人ふたりにそう言われてしまっては返す言葉が無く、幸村は小十郎に向かって礼の言葉と共に素直に頭を下げたのだった。
    「でもこれじゃ里には下りられないよねぇ」
     つい、と着物を指先でなぞる佐助の言葉に、小十郎は「やっぱりそう思うか」と苦く笑む。
    「仕方ねぇ」
     箪笥から離れた小十郎をふたりが目で追えば、彼は部屋の隅に置かれていた葛籠を抱え、元の場所に戻ってきた。
    「ちょっとでかいかもしれないが、まぁ大丈夫だろう」
     そう言いながら引き出されたのは麻の着物であった。
    「あぁ、これなら里に下りても目立たないね」
     幸村を立たせてその背に着物を宛がえば、裾を詰めればどうにかなる範囲で、では早速、と佐助は裾上げに取りかかる。
     着物に袖を通し丈を合わせている間、幸村は立っているだけですることがなく、それならば、と傍らにいる小十郎に話しかける。
    「この着物は?」
    「俺がこっちに来た時に着てたもんだ。捨てちまわないで良かった」
     なんでもないことのように、さらり、と口にした小十郎を、身を屈めたまま佐助は相手に気づかれぬよう、ちら、と窺い見る。
     彼がこちら側へ来た経緯は風の噂で聞いているが、余り気分のいい話ではない。人の悪意に触れたことのない幸村には、正直まだ聞かせたくないというのが本音だ。
    『それじゃダメだってわかってるんだけどねぇ』
     やはり主が傷付き哀しむ顔は見たくないもので。出来うるならば初めは小さなものから段階を踏んで、人の醜い部分を見て知って感じて欲しいのだ。
    『片倉の旦那の話はいきなり本丸落とすようなもんでしょ』
     着々と作業を進めつつも、佐助の意識はふたりの会話に集中している。
    「片倉殿は元は人であったと政宗殿からお聞きしたでござる。何故こちら側へ参られたのか某、不思議で不思議でたまりませぬ」
     やっぱり言っちゃったよこの子! と佐助が内心でツッコミを入れているなど知る由もなく、幸村は大真面目に小十郎の返答を待っている。それに対し小十郎は幸村から目を逸らすことなく、ふむ、と考えるように顎を撫でるも、大した時間をかけることなく結論が出たか、ゆるり、と唇を開いた。
    「そうだな。話してもいいがあまり愉快な話じゃないんでな。戻って来てからにしないか?」
     折角、里まで出るのだ。どうせなら楽しい気分で行かせてやりたいとの、小十郎なりの気遣いなのだろう。彼の口調や表情は平素と変わりなかったが、それを感じ取ったか幸村はごねることなく「わかり申した」と素直に頷いた。佐助も態度には出さぬが、内心で安堵の息をつく。
    「旦那、台所にふかし芋があるから食べておいでよ。これ縫ったらすぐ出発だからね」
    「あいわかった。片倉殿と佐助の分は持ってきた方が良いでござるか?」
     袖を抜きながら大きく頷く幸村に佐助は「俺様はいいよ」と柔らかく返し、小十郎も「俺はいいから」と断った後、続けて「政宗様に持って行ってやってくれ」とお願いした。
    「お任せくだされ!」
     頼まれたのがよほど嬉しかったのか幸村は、ぱぁっ、と顔を輝かせ、勢いよく畳を蹴るとあっという間に部屋を飛び出していった。
    「あーあー、あんなに喜んじゃって。よっぽど竜の旦那のところに行く口実ができて嬉しかったんだねぇ」
     主の背を見送り、くつくつ、と喉で笑った佐助だが一呼吸の後、表情を引き締める。
    「すまないね、右目の旦那」
     なにに対しての詫びかわかっているのか小十郎は、ゆるり、と頭を振り、ひた、と佐助の目を見据える。
    「なにか思惑があっての問いならはぐらかすが、そうじゃないからな。まぁ、いい機会じゃねぇか。例え話じゃ理解した気になるだけで、実にはならねぇからな」
     お前の意志には反するかもしれないが、と付け加えられ、不覚にも佐助は喉奥で呻いてしまった。
    「なに? 俺様そんなに態度に出てた?」
    「いや、俺も主を持つ身だからな。出来うるならば辛い顔はさせたくないと思っていると踏んだんだが、あながち外れてはいなかったようだな」
     してやったり、とどこか人の悪い笑みを浮かべる小十郎に「カマ掛けとかナシで頼むよ」と、佐助は珍しく弱り切った笑みを見せたのだった。
    「でも真面目な話、少し責任感じてるんだよね。片倉の旦那があんな目にあった一因に俺様とのことがあるんじゃないかって」
     昔の話であるが土地神を祀る神社の近くの森で、たまたま羽を休めていた佐助に声を掛けてきた童が居たのだ。人の中には極稀に妖の姿を見ることが出来る者が居るが、その童もそうであった。
     神主の息子だという彼は「土地神様が起きる前に出て行った方がいい」と、わざわざ忠告に来てくれたのだが、その数日後に彼が土地神に供物として捧げられたと、遠く離れた甲斐まで囁きが届いたのだった。
    「さぁな、昔のこと過ぎて忘れちまった」
     だが、沈痛な面持ちの佐助とは対照的に小十郎は、あっさり、とそう言い放つと、ぱん、と膝をひとつ叩き立ち上がった。
    「おら、手元がお留守だぜ」
     ぽかん、と見上げてくる佐助にそう返し、葛籠を元の場所へと戻しに行く。
    「折角、里まで下りるんだ。練り飴のひとつでも買ってやるか」
    「いやいや、あんまりウチの旦那甘やかさないでよ。これ以上、片倉の旦那に懐いたら俺様泣いちゃうよ?」
     肩越しに笑う小十郎に佐助は軽口を叩きながら目を手元に落とし、作業を再開する。
     ふと、幸村が彼の話を聞いたらすぐにこの裾を下ろすことになるのだろうか、と佐助は思ったのだった。


     するり、と木々の間から何食わぬ顔で出て行く小十郎の背に小さな籠を背負った幸村が続き、佐助は辺りの気配を窺ってから慎重に足を踏み出した。
     人が妖の世界に踏み込まぬよう張られた壁にはいくつか通り抜けられる穴があり、彼らはそのうちのひとつを通ってきたのだが、端から見れば突然に木の間から現れる形になるも驚きの声は一つも上がらず、静まりかえった森の方を見ているような物好きは、この場には居ないと言うことだ。
    「へぇ、賑わってるねぇ」
     ぐるり、境内を見回す佐助に小十郎は背中の行李を背負い直しつつ、「月に一回の恒例行事だからな」と返す。ここにいる者達は参拝客ではなく、商いに来た者達だ。神社に金子、あるいは物品を幾ばくか納めることで、誰でも自由に店を広げることが出来るのだ。
    「片倉の旦那は毎月来てるのかい?」
    「いや、二、三ヶ月に一回だな」
     こっちだ、と幸村と佐助を伴い、小十郎は神職と一目でわかる装いの者が詰めている場へと足を向ける。そこに辿り着くまでに幸村は物珍しさからか、きょろきょろ、とゴザの上に並んでいる商品や人々を忙しなく眺め、そのたびに止まりかける足を隣の佐助に小突かれることによってどうにか動かしていた。
    「これはこれは景綱様。二ヶ月続けておいでとは珍しい」
     近づいてくる小十郎の姿に気づいたか、彼が口を開く前に初老の男性が自ら歩み寄り、ゆるり、と頭を垂れる。
    「客人が来ていろいろと物入りでな。今回もよろしく頼む」
     そう言って小十郎は幸村の背から籠を外すと、それをそのまま男性へと差し出した。中身は小十郎の育てた野菜で、男性は深く刻まれた目元のしわを笑みで更に深くし、深々と腰を折る。
    「ほんにいつも立派なお野菜で。ありがたく頂戴いたします」
     後ろにいる娘に声を掛け野菜を運ばせてから空の籠を小十郎に返し、二、三言葉を交わした後、彼は最後にもう一度頭を垂れた。
     中身の無くなった籠を幸村が再び背負い、連れ立って歩き出す。
    「誰?」
     来た道を戻りつつ佐助が、こそり、と小十郎の耳に口を寄せれば、正面を向いたまま小十郎は「先代の神主だ」と短く応える。
    「へぇ。随分と親しそうだったけど、いいの? あんま人と深く関わらない方がいいんじゃない?」
     旦那の立場的にさ、と佐助が付け足せば、小十郎は薄く笑んで見せた。
    「心配には及ばねぇよ。ここは仮にも土地神様を祀ってる神社だ。歴代の神主には俺のことは伝えられてる。まぁ、都合良く改変されてる部分もあるが、それも仕方ねぇだろ。ただ、他の者には一切漏らさぬよう、きつく言ってあるがな」
     言葉を交わしている間に良い場所を見つけたか、森にほど近い場所に小十郎は腰を落ち着け、用意してきたゴザを広げる。彼に習って佐助も背負っていた行李を下ろし、中身を種類ごとに固めて並べていく。
    「ここは俺一人で大丈夫だから、猿飛は真田を連れていろいろ見て回るといい」
     そう言いながら手伝えることがなにもなく立ち尽くしていた幸村を手招き、彼の籠にいくつかの野菜を落とし込む。
    「物々交換もありだからな。持って行け」
    「いいのかい?」
    「あぁ、荷物を運んで貰った礼だ。二人のおかげでいつもより多く持ってこられたからな」
     籠の中身を覗き込みつつ首を傾けた佐助に、遠慮はいらねぇよ、と軽く返してきた小十郎の顔を見て安心したか、幸村は佐助を見上げると嬉しそうに笑った。
    「楽しみでござるなぁ、佐助!」
    「良かったね旦那。でもちゃんと考えて使うんだよ」
     ぽんぽん、と幸村の小さな頭を軽く叩き、さて、と佐助は背筋を伸ばした。
    「じゃあ行ってくるけど、なにかあったらすぐ呼んでよね。千里先の針の落ちる音も聞こえるこの俺様がすぐに駆けつけるから」
     まぁ片倉の旦那なら大丈夫だと思うけどさー、と緩く笑って佐助は幸村の手を取ると、するりするり、と人の間を影のように擦り抜け、明るい色をした頭髪はすぐに見えなくなったのだった。


     活気づいた人々を楽しげに眺めていた幸村が、ふと、空に顔を向けた。
    「どうしたの旦那?」
    「雲行きが怪しい……政宗殿の機嫌は直らぬままでござるか」
     ぽつり、と漏らされたそれに佐助は無言で空を見上げる。確かに雲は多いが降り出す気配はない。大方、己の苛立ちと従者の身を天秤にかけた結果、ほんの少しだけ従者側の皿に傾いだといったところだろう。
     出かける前に芋を持って政宗の元に行った幸村は、邪慳にはされなかったものの竜の全身から立ち上る不機嫌な気を感じ、話をしたいのは山々であったが自重して早々に退室したのだ。
    「政宗殿は難しい御仁であるな」
    「いやぁ、そうでもないと思うけどねぇ」
     彼の不機嫌の理由に大方の見当が付いている佐助は、はぐらかすようにそっぽを向き、はは、と小さく笑う。
     非常に子供っぽい感情であるとの自覚があるからこそ、発散することも出来ずに、ぐるぐる、と腹の中を巡っているのだろう。
    『独占欲が強いのは土地神様として間違っちゃいないけど、それを向ける対象が間違ってるのが問題かな』
     これは俺のモノだ! と強固に主張する気概と器がなければ、そこに住むモノ全て、草木の一本に至るまで抱え込むなど到底無理である。
     今頃、布団を被ってふて寝しているであろう竜を思い、佐助は見えないことを承知で背後を肩越しに、ちらり、と見やった。
    「なぁ、佐助。政宗殿は何故に腹が減るのだ?」
     きゅっ、と繋いだ手に力を込め、幸村は逸らすことなく真剣な眼差しで佐助を貫く。心持ち潜められた声音から、彼も軽々しく口にしてはいけないことであると、理解はしているようだ。
    「それ、片倉の旦那に言わなかったことは褒めてあげるよ」
     妖も人と同じようになにか食わねば腹が減る。だが、神と崇められる政宗は基本的に食料を必要としない。彼の力の源は人々の信仰心であり、その数や思いの深さに直結している。故にそれらが薄れれば飢餓感を覚え、満たされぬ物を別のなにかで補おうとするのだ。
    「お館様がたまに飲み食いしてるの見たことあるでしょ」
    「うむ。だが、それは皆を労う宴であると……」
     そこまで口にして幸村はなにに気づいたか、はっ、と口を噤む。
     一度、戦や飢饉に見舞われれば人の数は減り、自ずと信仰心も弱くなる。
    「そ。労うといっても生者じゃないってことよ。これまでお館様を支えてくれた者達の送りの宴ってワケ。戦が起こればそれこそ毎晩のように開かれてたでしょ」
     忘れちゃった? と眉尻を下げて笑う佐助に、幸村は、ふるり、と横に頭を振る。忘れていたのではない。なぜそうなるのかを考えず、ただ目の前の事実のみを見ていただけなのだ。
    「場合によっては人食いになっちゃったりするんだけど、幸いにも竜の旦那には片倉の旦那がいるからね」
    「だが、今は戦も起きてはおらん。なのに、政宗殿が腹を空かせているのは、それはつまり、その……」
    「そうだよ、旦那。人はいつまでも目に見えないモノを信じてはくれないってことよ。覚えておいてよね」
     繋いだ手に佐助の方から力を込めてやれば、幸村は、きゅっ、と唇を引き結び僅かに項垂れる。
    「それはとても切のうござる……」
     ぽろり、と零れ出たそれを、小十郎に耳がよいと嘯いた従者が拾うことはなかった。


     ゴロ……、と鳴った遠雷に小十郎は、ふと、そちらへ顔を向け、苦く笑む。そう言えばここ暫くは幸村の相手ばかりで、政宗とは食事の時以外ほとんど顔を合わせていなかったと思い至る。
     妙なところで感情を押し殺す主に内心で詫び、戻ったら久々に手合わせするのもいいかもしれないと、微かに口許に笑みが浮かんだ。
     今回の目当てであった砂糖と味噌は早々に入手でき、持ち込んだ野菜もありがたいことに底を着いた。あとは二人が戻ってくるのを待つばかりの小十郎の上に、すっ、と人影が差す。
     なんだ、と小十郎が顔を正面に戻せば、それに合わせるように、すとん、と腰を下ろす男が一人。
    「こんにちは、片倉さん」
     にこり、と人懐こい笑みと声音には覚えがあり、小十郎の目元も、ゆるり、と和らぐ。
    「前田の風来坊か。どうした」
    「ん? 近くまで来たから寄ってみた。前にまつ姉ちゃんに片倉さんがここでたまに野菜売ってるって話したら、なにがなんでも買ってこいって、目の色変えて迫ってきてさ。おっかねぇのなんのって」
     その時のことを思い出したか、ぶるり、と大仰に肩を震わせる慶次の姿に、はは、と笑い、小十郎は労うように、ぽん、と相手の肩を叩いた。
    「遠路遙々ご苦労なことだ。だが、悪いな。今日の分は全部捌けちまった」
    「だろうね。ここに来るまでに片倉さんの野菜持った人、何人かと擦れ違ったよ」
     いい匂いだからすぐわかった、と屈託無く笑う慶次につられたか、はたまた彼の言葉に喜んだのかは定かではないが、小十郎の笑みが深くなったのは確かだ。
    「なにもわざわざ買いに来なくとも、直接屋敷に来ればいつでも分けてやるぜ?」
    「あー、それはありがたいんだけど、屋敷に寄ると帰りに必ず降られるからあんま行きたくないかな」
     かり、と頬を掻きながら困ったように眉尻を下げる慶次に、それは初耳だ、と小十郎は僅かに瞠目し、直ぐさま呆れたように、ふぅ、と息を吐く。
    「すまねぇな。政宗様には俺から言っておく」
    「いいよ、別に。よそ者に胸元まで入り込まれていい気がしないのはわかるし。今も虫の居所が悪いみたいだしね」
     なんかあったのかい? と首を傾げる慶次にまず苦笑を返し、客人の相手を自分がしているのだと簡潔に告げた小十郎に得心がいったか、高い位置で結われた慶次の髪が緩やかに揺れた。
    「あぁ、片倉さん取られたみたいで拗ねてんだね。可愛いとこあるよね、独眼竜もさ」
     カラカラ、と声を上げて笑った慶次だが、ふと真面目な顔で小十郎を真っ直ぐに見据え暫し黙り込むも、意を決したか静かに口を開いた。
    「でも、それだけじゃない気がするんだよなぁ。なんていうかこう、奥州入ってから静かなんだけど空気一枚隔てた向こうでざわついてるような、もぞもぞ、したカンジがしてさぁ。妙に落ち着かないんだ」
     首裏を掌でさすりながら、うーん、と眉を寄せる慶次の言葉に、小十郎も眉間に深いしわを刻む。
     風の向くまま気の向くまま、常に自然体の慶次は空気の変化に敏感だ。勘も鋭く頭は切れるが所詮小十郎は半分人のままであり、身体で感じるには自ずと限界がある。
    「イヤな感じか?」
    「そうだね。イイモノではないかな」
     たまに、チリチリ、する、と漠然としたことしか言えないのがもどかしいのか、慶次は目を伏せて己の胸元を押さえる。
    「これは俺のカンでしかないんだけど、政宗をひとりにしてちゃいけない気がするよ、片倉さん」


     隣で豆大福を囓る幸村を、ちら、と横目で見やり、佐助は溜め息と知られないよう、ゆっくり、と息を吐く。あれから結局、幸村の表情は沈んだままで、どうにか元気を取り戻して貰おうと甘い物で釣ってみたわけだが、残念ながら成功したとは言い難い。
     まいったなぁ、と天を仰ぐ佐助の耳には彼ら同様、簡易茶屋の店先に並んだ長椅子に腰掛けた人々が、やれ隣の牛が子を産んだだの、やれ三軒先の夫婦は喧嘩ばかりしているだの、他にも明日の天気や野菜の出来などといった他愛のない話題に花を咲かせている様が届く。
    「山一つ向こうは大豊作だって聞くねぇ」
    「へぇ、そいつは羨ましい限りで」
    「そういや今年は雨が少ない気がするねぇ」
     田畑を持つ者はなにを置いてもやはり天候が気になるのか、別の椅子からも天気の話が聞こえてくる。
    「旦那ぁ、いつまでしょぼくれてんの」
     それらを右から左へと聞き流しつつ、いつもは無駄に元気な幸村が黙りだと調子が狂うのか、佐助は言葉を投げながら小虎の顔を覗き込んだ。
    「旦那?」
     だが、常にない真剣な顔で手中の囓り掛けの大福を、じっ、と見据えている幸村に気づき、怪訝な声を上げる。
    「イヤな臭いがするでござる」
    「え? なに? 傷んでるの?」
     大福を指さす佐助に、そうではない、とでも言いたげに首を横に振り、幸村は、ゆうるり、と辺りを見回した。
    「なにか、よくわからないでござるが、イヤな臭いがあちらこちらから……」
     すん、と鼻を鳴らし不安に揺れる瞳は、彼らの周りで談笑していた人々に向けられている。はっ、と佐助が耳をそばだてれば、先程までの穏やかな会話は霞と消え、今彼らの口から漏れ出ているのは妬みや嫉み、悲観の声であった。
    「いつの間に……」
     なかでもとりわけ強く聞こえるのが恩恵をもたらさぬ土地神への不満を越えた怒りの声で、静かに、だか着実に不穏な空気は広がりだしている。
    「なんなのだ……これは一体、なんなのだ佐助」
     震える声で説明を求める幸村の手を引き、佐助はその場から離れるべく駈け出した。正直、幸村を抱えて人の声の届かぬ遙か上空まで飛んでいきたいところではあるが、衆人環視の中で正体を明かすような愚を犯すわけにはいかないのだ。
    「佐助……あれは一体なんでござるか」
     手を引かれるままに駆ける幸村の声は未だ震えており、佐助は大丈夫だと言わんばかりに握った手に力を込める。
    「早めに気づいて良かった。旦那の鼻の良さに感謝しなくちゃね」
     感じ方は人それぞれであるが、幸村が臭いとして捉えたそれは、人々の念であった。優しさや慈しみといった正の念は身体を、心を癒し、妬みや怒りといった負の念は身体を、心を蝕む。
     あれが幼い政宗を襲い責め苛んだものであると、佐助が言葉少なに告げれば、幸村は喉奥で、ぐぅ、と呻いた。
    「なんと、なんと恐ろしくおぞましいものであるか」
     ギリ、と奥歯を噛み締め苦い声音で漏らす幸村を、ちら、と肩越しに見やり、佐助は「とにかく片倉の旦那の所に戻ろう」と一段と走る速度を上げたのだった。


     行李に寄りかかり、ぼんやり、と空を眺めていた慶次は、前触れ無く風のように現れた佐助と幸村を、ぽかん、と見上げる。だが、目を丸くしたのは佐助と幸村も同じであった。
    「前田慶次? なんであんたがここに」
    「あぁ、片倉さんに留守番頼まれたんだよ。あんた達が戻ってきた時に誰も居なかったら困るだろうって」
    「片倉殿はどうしたでござるか!?」
     現状確認をしている佐助と慶次に割って入った幸村の声はかなり逼迫しており、慶次は一瞬、口を噤むも直ぐさま緩く肩を竦め森の方へ視線を流した。
    「一足先に戻ったよ。政宗が心配だから、ってね」
     そうさせたのは慶次なのだが、じわじわ、と広がる不穏な空気にその判断は正しかったと思う反面、ひょっとしたら遅かったかもしれないとの不安が過ぎる。
    「そうか。向こうは片倉の旦那に任せるとして、俺様達はどうするかねぇ」
    「行くに決まってるでござろう!」
     佐助の呟きを耳聡く拾い上げた幸村に「やっぱそうなるよねー」と、主の気質を十二分に理解している従者は諦めたように、はは、と笑う。
    「前田殿も是非に!!」
    「え、俺もかい?」
    「一人よりも二人、二人よりも三人と言うでござろう。無論、タダでとは申さぬ!」
     慶次は突然のことに反射的に問い返しただけであったのだが、そう言うが早いか幸村は背に担いでいた籠を下ろし、ずい、と慶次の鼻先に突きつけた。
    「これで、これでどうかお頼み申す!!」
    「へぇ、片倉さんの野菜かぁ」
     真剣な眼差しで慶次の返答を待つ幸村の隣では佐助が「頼むよ」と言わんばかりに、こっそり、顔の前で手を合わせている。それを、ちら、と見てから慶次はちょっと考え込む振りをして、うーん、と顎に手をやる。
    「まつ姉ちゃんに買ってこいって頼まれてたけど、売り切れで困ってたんだ。いいぜ、一緒に行こう」
    「まっことかたじけない!」
     ぱぁっ、と弾けんばかりの笑みを浮かべる幸村の背を、ぽん、と叩き、佐助は「急ごう、旦那」と真剣みを帯びた声で促す。表情を引き締めた幸村が頷くと同時に、三人は地を蹴った。


     チリッ、と失ったはずの右目が疼き、政宗は咄嗟に己の掌で瞼を押さえる。
    「Shit……ッ!」
     この感覚は遠い昔に味わった覚えがある。泣いても喚いても離れることなくまとわりつき、ずるり、と不快感と共に身の裡へ、更に深く深く奥へ奥へと侵入し、ぐるぐる、とわだかまり澱み、政宗諸共腐れていくのだ。
     堪らずにその場に蹲り、右手は己の顔を覆ったまま、左手はきつく指の関節が白くなるほどに敷布を握り締める。
     ギリギリ、と歯を食いしばるも漏れ出る呻きは抑えられず、身体は小刻みに震え出す。
     押さえた手の隙間から、どろどろ、となにかが流れ出るような錯覚を覚えるも、実際には滲み出た冷や汗が伝い落ちているだけで、真っ白な敷布にはシミ一つ無い。
     だが、政宗の目には蠢く黒い靄が見えており、それらは這いずるように政宗を取り巻き、見えない手を伸ばしてくる。
     額を敷布に擦り付け、獣のような呻きを上げる。
     今は無力な小竜ではないというのに、一度毒に犯された身体は容易く新たな毒をその身に呼び込んだ。
     荒れ狂う人々の念に蝕まれ意識が混濁していく。
    「……ッ…じゅうろ……」
     それでも、千々に乱れる思考の中ではっきりと思い描くことの出来る姿が、ひとつだけあった。
     右目は光を失ったが全てを失ったわけではないのだと、閉ざされていた世界に差した一筋の光の名を、政宗は喉も裂けよと声の限りに叫んだ。
    「小十郎ッ小十郎ッ!」
     みっともないなどとはこれっぽっちも思わない。
     思っている余裕などない。
     自分が縋れるのは今も昔も彼だけなのだ。
    「小十郎小十郎小十郎ーッ!!」
    「政宗様ッ!」
     余りにも求め過ぎたが故の都合の良い幻聴かと、苦痛に耐えきれず流れ出た涙に濡れた頬を皮肉げに歪めた政宗であったが、荒々しく抱き起こされ直ぐ耳元で名を呼ばれたことにより、それが願望でも幻でも無いことを知る。
    「こじゅ……ろ……」
    「政宗様! お気を確かにッ!! 小十郎ならばここにおります!」
     しっかりと正面から政宗を見据え、彼が顔を覆っている右手に小十郎は己の左手を重ねる。
    「恐ろしいことなどなにもありませぬ、政宗様」
    「もっとだ、小十郎。もっと俺の名を呼べ」
     命令とも懇願とも取れる掠れた声音に小十郎は、ゆるり、と政宗の髪を一撫でし、そのまま己の肩口へ主の頭を引き寄せた。
    「政宗様」
     重ねていた左手を背に回し、名を呼ぶのと同時に、ぽん、と軽く叩く。まるで幼子をあやすような動作ではあるが、繰り返し繰り返し穏やかに名を呼ぶ声も背を叩く手も不快ではなく、政宗は黙って瞼を下ろした。
     身を取り巻いていた靄は何処かへと消え失せ、代わりに身を包むのは安らぎに満ちた温かな腕だ。
    「政宗様、小十郎がお傍におります。少しお眠りなさい」
    「ん……起きたら飯な……」
    「御意」
     もたれかかる身体から余計な力が抜け、政宗は眠りに落ちたと知る。小十郎は安堵の息を吐くも直ぐさま表情を引き締め、政宗を抱く腕に力を込めた。


     ビシャァ! と空気を裂く轟音と共に稲妻が天を走った。森を駆けていた三人は思わず首を竦め足を止めるも、それ以降は遠雷一つ鳴らず、互いに顔を見合わせ誰からともなく肩の力を抜いた。
    「一雨来るかと思ったけど、どうやら片倉の旦那がうまいことやってくれたみたいだね」
     やれやれ、と空を見上げ緩く息を吐いた佐助に慶次が同意の頷きを返し、いやー良かった、と笑みを浮かべる。
     急ぐこともなくなったと歩き出すも幸村の顔だけが浮かないことに気づき、佐助は片眉を上げた。
    「どしたの旦那?」
    「知らない匂いがするでござる」
     辺りを見回し、すん、と鼻を鳴らす幸村に慶次は首を傾げ、佐助は険しい表情で素早く辺りに視線を走らせる。
    「どんな匂い?」
     俺にはさっぱりわからない、と慶次が幸村に問えば、すんすん、と一際鼻を鳴らし暫し考え込んでから幸村は口を開いた。
    「うっすらとしか残ってないのではっきりとは言えぬが、水の匂いを少し感じるでござる」
    「水? それはどこかの湧き水じゃなくて?」
    「それなら今更、『知らない匂い』なんて言わないでしょうに」
     行きもここ通ってんのよ、と佐助が指摘すれば慶次は、それもそうか、と後ろ頭を掻いた。
     話ながらも歩みは止めず、屋敷が近づくにつれて幸村の鼻は先程の匂いを強く感じ、くい、と佐助の帯を引く。
    「近いでござる」
     なにが、とは口にせずとも聡い従者にはそれだけで充分であった。
    「屋敷への客人であろうか?」
    「ただの通りすがり……ってのはないか」
     口にしてから慶次は己の発言を否定する。政宗を慕っている者は多いが彼自身、進んで交流する性格ではなく、むしろ屋敷周辺に他者の気配を感じることを厭う傾向が見られる。そんな彼の庭先を突っ切る命知らずは、まず居ないと言うことだ。
    「お客さんだったら気配消したりしないでしょ」
     全神経を集中させてもその存在すら感じ取れず、佐助は小さく舌打ちをする。相手が気配を消していることに加え、政宗と小十郎の気が大きすぎてそれに紛れている可能性も否めない。
    「でもさ、イヤな感じだよね」
     ぽそり、と漏らされた慶次の言葉に佐助は怪訝な顔を向ける。
    「奥州来てからそう思ってたけど、ここら一帯が特にイヤな空気になってる」
     なんなんだろうねぇ、と鼻の頭にしわを寄せる慶次に、関係あるかはわからないけどさ、と前置きしてから佐助は茶屋での一部始終を語って聞かせた。
    「土地神様を祀ってる神社の境内でそんな話をするなんざ、尋常じゃないね」
     余りのことに驚きを通り越して呆れたか、慶次は、ゆるゆる、と首を振ってから、ひた、と佐助を見据える。
    「そこなんだよ。俺様も腑に落ちないのは。いくら信仰心が薄れてきてるからって、そんないきなり悪し様にできるモンでもないと思うんだよねぇ」
     慶次の言わんとすることを佐助が先回りして口にすれば、なにか思い至ったか慶次の眉根が、ぎゅっ、と寄った。
    「誰かが、わざと皆を煽ったってことかい?」
    「さぁ。今はなんとも言えないねぇ」
    「政宗殿と片倉殿に事の次第を伝えるのが先決だと、某は思うのだが」
     考える頭は多い方がいいと、単純ではあるが尤もなことを提案してきた幸村に「それもそうだ」と佐助と慶次は、ゆるり、と頷き、屋敷の開け放たれたままの門をくぐった。
    「どう、旦那?」
     佐助の短い問いに幸村は難しい顔で、ゆるゆる、と首を横に振る。
    「残り香、でござるな。だが、今さっきまでここに留まっていたと思われるほどの強さ……」
     大方、三人がやって来たことに気づいて姿を消したのだろう。そう判断し佐助は縁側から「片倉の旦那、戻ったよ」と声を掛けつつ障子を開けた。だが、中から応えはなく、幸村が不安そうに視線を左右に走らせる。それを横目に見つつ「大丈夫だよ」と一声掛け、佐助は大股に畳を踏んだ。
    「恐らく竜の旦那の所だ」
     そう言うが早いか、襖を、すぱんすぱん、と開け放ち、奥の間へと進む佐助の背中を、幸村と慶次は慌てて追いかけたのだった。
     部屋をいくつも通り抜けながら、静まりかえったままの屋敷に慶次は「相変わらずだねぇ」と零す。
    「こんな大きなお屋敷なのにさ、二人しかいないなんて寂しいよね」
    「ソレには同意だけど、竜の旦那も思うところあって右目の旦那しか傍に置いてないんだろうから、外野があれこれ言うのも、ちょっと、と思うわけよ」
     エラくなると大変だよね~、などと嘯く佐助に、慶次は軽く肩を竦めることで応えとした。
     一際煌びやかな襖の三歩手前で足を止め、佐助は幸村に向かって、静かに、と言うように唇の前で指を一本立てる。小虎が頷いたのを確認してから佐助のみが足を進め、襖のすぐ前に立つ。
     みし、と畳を踏む音が襖の前で止まったことに小十郎は顔を上げた。
    「片倉の旦那、ちょっといいかい?」
     どこか、ピリッ、と緊張感を滲ませる佐助の声に呼応するように、抱いたままの政宗がむずかるように鼻を鳴らしたのを耳に留め、小十郎は主の背を緩く叩きながら出来るだけ腹に力を入れず、かろうじて襖向こうに届く声で答えた。
    「悪いが遠慮してくれ」
     潜められた声音で大体の状況を察したか、佐助は考えるように顎に手をやってから、ゆるり、と口を開く。
    「じゃあひとつだけ。何者かが屋敷の様子を窺ってたみたいだから、気に留めておいてよ」
    「そうか。後で詳しく聞かせてくれ」
    「はいはい了解、っと。じゃ、なんかあったら呼んでよね。ホラ、行くよ旦那」
     今にも襖を押し破って飛び込んできそうな気配の幸村を促し、三つの足音が遠ざかるのを確認してから、小十郎は、そっ、と政宗の身体を布団へとおろした。
     色の失せた主の顔を見つめ、唇を引き結ぶ。
     もし、あそこで慶次に会っていなかったら今頃どうなっていたのか、考えるだけで鳩尾の辺りが、きゅう、と引き絞られるかのように痛む。
     一体、自分はなんのためにここに居るというのか。
     先代に「この子を頼む」と言われたからではない。自分の意志で政宗を護ろうと、命尽きるまでお傍に居ようと決めたのだ。
     自分の目の黒いうちに、二度も主を失うようなことがあってはならないのだ。
     ──月が皓々と冴える晩であった。
     寝床を抜け出した童は裸足のまま木々の間を抜け、ぽかり、と拓けた場所で足を止めた。背の低い下生えしかないそこにはほぼ中央に腰掛けるのに手頃な石があり、童は迷うことなく真っ直ぐにその石に向かうと、すとん、と腰を下ろした。
     頭上を覆う枝枝はなく、真っ直ぐに月の光が降り注ぐ。
     辺りを一度、ぐるり、と見回してから携えてきた笛を懐から取り出す。
     そっ、と唇を寄せ、まるで呼吸をするかのように音を紡いでいく。
     透き通った音色が空気に乗って広がり、木々に、地に染み込み、空に溶ける。
     美しいがどこかもの悲しい旋律に惹かれたか、闇夜から滲むように現れた男が一人。
     そこな童、と静かに声を掛ければ当然の事ながら調べは止み、童の肩が僅かに跳ねた。だが、月光の元に現れた男を目に留めるや、ゆうるり、と眦を下げ、恭しくその場に膝を着く。
     それに驚いたのは男の方で、童の直ぐ傍まで足を進め、何故そのようなことをするのか、と問えば、それは貴方様が土地神様だからです、と童は言い切った。
     その返答に更に驚くも男は口角を上げ、童の頭を、くしゃり、と撫でる。
     聡い子だ、と唇に乗せ、顔を上げなさい、と促せば、そろり、と、だが素直に面を上げる。
     あちらの世は辛いかい、と膝を着き童と目の高さを合わせて問えば、少しだけ、と伏し目がちに返してきた。
     他者よりほんの少し秀でたものを持っているだけで、影で鬼子だと囁かれている童を不憫に思うも、男は口には出さない。
     里での童は風当たりの強さに負けぬようにと常に厳しい面差しをしており、それが更に彼を孤立させているのだと、男は知っている。
     人は童に優しくないが、妖達は希有な童を優しく迎え入れる。
     だけどあまりこちらに来てはいけないよ、と諭すように告げれば、一瞬、泣きそうに顔を歪めるも童は思いの外、しっかりとした声音で、はい、と頷いた。
     人は人の世で生きるのが良いのだと、いずれその力が人々の役に立つのだと、神の声を直接聞く役をおまえが担うのだと、男が静かに静かに語って聞かせれば、童は、そうなればいいのですが、と力無く笑む。
     その笑みが余りにも儚く、男は自分でも思わぬ事を、ぽろり、と零した。
     どうしても辛くて我慢できなくなったらまたおいで、景綱。
     と──


     ゆるり、と持ち上げた瞼の先に映る天井は見慣れた物で、政宗は身動ぎひとつせず今の今まで見ていた光景を反芻する。
     目覚めても尚、耳に届く柔らかな笛の音に、あぁだからか、と横になったまま頭を巡らせれば、開け放たれた障子の向こうに見慣れた背中を見つけた。
     あの音色に受け継いだ土地の記憶が揺り起こされたのだろう。
    「小十郎……」
     心洗われる音色を聞いていたい気持ちもあったが、それよりも彼の声が聞きたいのだと、政宗は小さく従者の名を呼んだ。
    「ご気分はいかがですか、政宗様」
     笛を懐に差しつつ枕元に戻ってきた小十郎に向かって手を差し出せば、主の意図を汲んだか小十郎は柔らかにその手を掴み、反対の手で肩を抱くように政宗の身体を起こす。
    「まぁまぁだな。俺としたことがとんだ失態だぜ」
     こつ、と拳で軽く額を叩き、口をひん曲げた政宗に小十郎は「大事に至らずなによりでございます」と大真面目に返してくる。
     クソ真面目な小十郎の先手を打って軽く流そうとするも失敗に終わり、政宗は思案するように、Ah……、と低く喉奥で呻くとなにを思いついたか、くっ、と口角を吊り上げた。
    「Hey 小十郎。Kissしろ。そうすりゃもっと元気になる」
     とん、と己の唇を指先で叩いて、にたり、と笑む政宗に、小十郎は「なりません」とまたしても大真面目に返してくる。
    「舌入れたりなんかしねぇよ」
    「なりません」
    「固ぇこと言うなよ。ちゅっ、と軽くやってくれるだけでいいんだって」
     そう言って己の唇に触れた人差し指を、そのまま小十郎の唇へと当て、政宗は、再び、にたり、と笑む。
    「お戯れも大概になさいませ」
     きゅっ、と眉間にしわを深く刻み、はー、と嘆息した小十郎だが、一旦、目を己の膝へと落とし、つい、と顔を上げたかと思いきや、政宗の前髪を掻き上げ右瞼に柔らかく唇を押し当てた。
     不意打ちに近いそれに政宗は言葉もなく固まり、小十郎は「これで譲歩なされよ」と言い置くと、するり、と立ち上がった。
    「すぐに膳の支度をしてまいります。それまでお暇でしょうから真田でも呼びますか?あぁ、前田慶次も来ておりますので、なにか面白い話が聞けるかもしれませんな」
    「……遠慮しとく」
     ふい、と顔を背け布団を被った政宗が見ていないことを承知で、小十郎は柔らかな笑みを浮かべると、すたん、と襖を閉じた。
     小十郎が出て行ってから暫く身動ぎひとつしなかった政宗だが、そっ、と掛け布団を折り上半身を起こすと、ゆうるり、と息を吐いた。
     立てた己の膝に肘をつき顎を支え、難しい顔で、とんとん、と人差し指で頬を軽く叩く。
    「相当、気にしてやがんな……」
     誰に聞かせるでもなく、ぽつり、と漏らし、苦々しい顔つきで唇を歪める。小十郎自身は平素と変わりなく政宗に接していたつもりであろうが、差違を見落とす政宗ではない。
     心に疚しいこと、あるいは罪悪感を抱いていない限り、あのお堅い小十郎がこの手のことで譲歩などするわけがないのだ。
     頬を叩いていた手で右瞼に触れ、ゆるゆる、と撫でつつ、それにしても妙だ、と先のことを振り返る。
     里の者が不平不満を連ねるのは今に始まったことではない。むしろ毎日、程度の差こそあれ、誰かしらは政宗に悪意をぶつけている。だが、それらは政宗の身体を撫でてはいくが留まることなく、同時にどこかしらで捧げられる感謝の念に相殺され、神に大した痛手を負わせることはない。
     仮に相殺されずとも、小十郎が政宗に注いでいる強い思いによって、彼に害を為すには至らないのだが。
     これが小十郎が完全な妖ではなく、例え半分とはいえ人のままで居る理由である。
     土地神を生かすのも殺すのも人の念なのだ。
     人のままでは寿命などたかが知れている。かといって妖になってしまえば、政宗を人から護ることが出来ない。
     彼は自ら半端な存在になることを輝宗に望み、先代はそれを聞き届けた。
     その方法を思い出す度に政宗の腹の奥は、ずん、と重くなり、ギリ、と歯噛みする。どう足掻いても小十郎は自分のものにはならず、いつまでも輝宗のものであると思い知らされてならないのだ。
     問えば小十郎は心の底から「小十郎は政宗様のものです」と答えるだろう。それを信じていないわけではない。
     だが、不安ではないといったら嘘になる。
     現に真田幸村ばかりを構う彼の姿に、心が揺れた。
    「……くそったれが……ッ!」
     唐突に、それこそ稲妻が閃くかのように、湧き上がった疑問への答えが見えてしまった。
     ぐっ、と拳を握り、どすりっ、と畳に叩きつける。
     小十郎を一瞬でも信じられなかった己の心に生じた隙間から、易々と入り込まれたのだ。それだけが理由ではないであろうが、一因であるのは確かだ。
    「うつけか俺はッ!!」
     一気に膨れ上がった怒気に森の木々はざわめき、天を裂いた稲妻が庭の木を直撃した。その凄まじい轟音に屋敷の一角でもざわめきが起こり、慌ただしい気配が二手に分かれたのを感じると政宗は荒々しく布団を被った。
     庭に飛び出したのは小虎と極楽鳥。
     寝所に向かってくるのは鴉天狗と小十郎。
     なにをどこまで知っているのかわからず、食えない鴉天狗が政宗は正直、好きではない。
    「政宗様ッ!」
     すぱんっ、と勢いよく襖を左右に走らせ駆け込んできた小十郎の逼迫した声に被るように聞こえた「ちょっと竜の旦那、一体どうしたのよ!?」と緩くはあるが焦りを滲ませている佐助の声に政宗は布団の中で、いい気味だ、と意地の悪い笑みを浮かべる。
    「もしや賊が……ッ!?」
     素早い身のこなしで一足飛びに障子の前に立ちはだかった小十郎の言葉に、政宗は「賊?」と小さく反芻しながらゆっくりと身を起こした。
    「賊、とはどういうことだ、小十郎」
    「政宗様、ご無事で!」
     肩越しに主の無事を確認し、微かに安堵の息を吐いた小十郎の背に向かって、政宗は隻眼を眇めながら口を開く。
    「質問に答えろ」
    「あー、それね。俺様達が戻ってくるまで、屋敷を窺ってた奴が居たみたいでね。残り香しかなかったけど、ウチの旦那が妙に気にしてさぁ。鼻の良さは竜の旦那も知ってるでしょ」
     警戒を解かぬままに政宗の傍らに膝を着いた小十郎の代わりに佐助が答えれば、その内容に政宗の眉が寄る。
    「あぁ、ちょうどいいや。他にも耳に入れておきたいことがあるんだよね。いいかな?」
     問うように佐助は、こてん、と首を傾げ、政宗の顔を覗き込む。口調自体は軽いが眼差しだけは真剣で、政宗が無言で首を上下させれば、佐助は茶屋でのことを私情を交えず客観的に報告した。
    「Shit……ッ!」
     神社は神の元へと続く直通路のようなものだ。そんな場所で一気に悪意が膨れ上がっては、たまったものではない。
    「考えたくはないが、故意に何者かが皆の感情を煽ったとしか思えんな」
    「それ、前田の風来坊も同じこと言ってたよ」
     一通り話を聞いた小十郎が渋面で呟けば、佐助は「状況から見て、その線が有力だよねぇ」と苦い声音で返す。
    「そうなると、今度は『なんの為に』ってのを考えなくちゃならない」
     ピッ、と指を立てた佐助に、政宗が、はっ、と短く笑う。
    「そんなモン決まってんだろ」
     わかんねぇのか? とでも言いたげに口端を上げ歪な笑みを浮かべると、政宗は佐助と小十郎に順に目をやり、一際凶悪な笑みを浮かべて見せた。
    「俺の、首だ。You see?」
     とん、と水平にした掌で己の首を横から叩く政宗に、小十郎の顔から、サァ、と血の気が引いた。
    「一体いつから見られてたんだかなぁ。俺の心に隙が出来たのを好機と見て取ったんだろうよ」
    「政宗様ッ! まだそうと決まったわけではございません!!」
    「Ha! 寝言は寝て言えよ、小十郎。じゃあ聞くが、他にどんな理由が考えつくよ?」
     とん、と小十郎の胸に指を突きつけ詰問してくる政宗に返す言葉が見つからず、小十郎は眉間に深いしわを刻み僅かに項垂れる。
    「竜の旦那は相手に心当たりがあるのかい?」
     黙り込んでしまった小十郎に助け船を出したわけではないであろうが、政宗の言葉を吟味していた佐助が問いを発した。
    「いーや、これっぽっちもねぇな。だが、一発で息の根を止める手段を講じてこなかったってことは、だ」
     故意に言葉を切った政宗に、小十郎が弾かれたように顔を上げる。
    「成り代わろうとしている者が、居ると……」
     土地神の世代交代は、両者同意の下に為されるとは限らない。横からその地位を奪うには、生きたままの土地神を喰らい、血を、肉を、記憶を、取り込めばいいのだ。
    「弱らせたところを喰らおうって腹だろ。まぁ、理に適ってるな。そうだろ鴉?」
     正面切ってぶつかっても勝てないのならば、なんらかの策を講じ相手を陥れるのが常套手段だ。以前、そう仄めかした佐助に意地の悪い顔を向ければ、普段は奥底に隠している薄暗い瞳を垣間見せた佐助が、にたり、と笑った。
    「その通りだよ、竜の旦那。よくわかってるじゃない」
    「だが、そのような不埒な考えを起こす輩は……」
     心当たりがないのか、はたまたそうと考えたくないのか、小十郎の面が苦渋に歪む。その様子を、じっ、と透かすような眼差しで見つめていた佐助は、今思い出した、とでも言うような顔で「あ」と声を上げた。
    「旦那が水の匂いがするとか言ってたわ、そういや」
    「水……」
     ぐっ、と握り締められた小十郎の拳に気づかないふりをして佐助は、つい、と政宗に視線を向ける。
    「確か先代の奥方の眷属に居たよねぇ、蛟」
     四肢を持つ蛇であり水辺に住まう蛟は竜に近い存在である。だが、力の差は歴然で、身体を蝕まれ隻眼となった政宗の足元にも及ばないのが実情だ。
     そんな彼らが束になったところで政宗には痛くも痒くもないであろうが、首謀者が他に居るとなると話は別である。
    「猿飛、てめぇ……なにが言いてぇんだ」
    「右目の旦那が考えてること、とでも言えばいい?」
     低く地を這うような小十郎の声音に臆した様子もなく、佐助は、さらり、と返すと「まーいったなぁ」と力の抜けた声と共に両腕を後ろ手に着き天井を仰いだ。
     がらり、と変わった佐助の雰囲気に拍子抜けしたか、小十郎は思わず上げかけた腕のやり場に困り、中途半端な恰好で止まる。
    「これってさぁ、お家騒動なワケでしょ? そうすると俺様達は手を出せないんだけど、ホラ、ウチの旦那あれじゃない。ぜぇぇったい、『助太刀いたす!』って言い出すに決まってんのよ。まいったなぁ」
     あーもーほんとどうしよう、と今にも後ろに倒れ込みそうな佐助に向かって、政宗は「Don't worry so.」と口角を吊り上げる。
    「ヤられる前にヤっちまえばいいんだろ。簡単じゃねぇか」
    「政宗様ッ!」
     こともなげに言い切った政宗に、小十郎の顔から再び血の気が引く。
    「大丈夫だって。それともなにか? おまえは俺が負けるとでも思ってるのか?」
    「いえ、政宗様がお強いことはこの小十郎、重々承知しております。ですが……」
    「だったら、問題ねぇ。そうだろ、小十郎」
     ぐい、と小十郎の襟元を掴み、無理矢理に言葉を遮った政宗の瞳の奥に、ゆらり、と見えた蒼白い焔に小十郎は不覚にも気圧され、二の句が継げなかった。
     口をへの字に引き結び、それでもなにかを訴えてくる目から逃れるかの如く政宗は、とっ、と突き飛ばすように小十郎の着物から手を離し、瞼を伏せ、はっ、と短く嗤う。
    「変化のない日常ってのは本当にダメだな。いつの間にやらすっかり腑抜けちまった」
     どこか自嘲気味な声音で漏らしつつ、政宗は佐助が居るにも関わらず顔の傷が露わになることも厭わず前髪を後ろへ撫でつけると、鋭い眼差しで小十郎を見据えた。
    「準備をしろ、小十郎」
    「お言葉ですが政宗様」
     居住まいを正し小十郎は正面から政宗の視線を受け止めると、相手を諫めるかのように殊更ゆっくり口を開く。
    「せめて今夜一晩は回復に当てられるのがよろしいかと……」
    「佐助ぇーッ! 手を貸してくれッ!! 火が消えぬぅぅぅぅーッ!」
     不意に庭から張り上げられた幸村の声に話の腰を折られ、政宗も小十郎もどちらからともなく視線を逸らした。こちらの空気を知る由もなく、今なお己の名を呼び続ける幸村に佐助は苦笑と共に立ち上がり、「じゃ、ちょっと行ってくるわ」と振り返ることなく部屋を後にする。その背が襖に遮られ気配が遠のくのを確認してから、小十郎は再度、政宗を真っ直ぐに射抜く。
    「後悔はなさいませぬな」
    「……」
     無言の政宗を前に小十郎は言葉を続ける。
    「政宗様がお決めになられたのでしたら、この小十郎、最早申すことはございません。ですが、今一度よくお考えください。これから政宗様がなさろうとしているのは、実の母を手に掛けるという……」
    「俺に母親なんかいねぇ」
     ぴしゃり、と言葉を遮った政宗の声は酷く平坦で、小十郎は主の伏せられた瞼を、ひた、と凝視する。
    「……あぁ、そういや『穢れがうつる』とか言って、出て行った女が昔居たっけか。今頃どこでなにしてんだかなぁ」
     ゆるり、と開かれた目は遠い昔を映しているのか硝子玉のように空虚で、その姿を前に小十郎の膝上で握られた拳が微かに震えだす。
     つらい、苦しい、助けて、と泣く我が子を抱いてやることもせず、人の穢れに侵された忌み子だと、まるで汚物を見るかのような目をしていた麗人の姿が脳裏を過ぎり、知らず小十郎の喉奥から低い呻きが漏れ出た。
     藻掻き苦しむ幼子が深淵に沈むのを黙って見ていられず、懸命に手を差し伸べる小十郎すらも彼の人は嫌悪し、それらしい理由を付けて屋敷を出たのだ。
     政宗の先は短いと踏み、彼が居なくなった頃合いを見計らって戻ってくるつもりであったようだが、彼女の思惑は外れ政宗は難を乗り切り今に至る。
    「むしろ、よくぞ今まで我慢した、と賞賛すべきかも知れねぇなぁ。なぁ小十郎?」
     くつり、と低く嗤い、吊り上がった唇は歪な三日月を思わせる。命を繋いだことにより、人々の念を幼い政宗がその身に引き寄せたのは『神の資質あり』と、皮肉にも他の者に証明することとなったのだが。
    「派手なPartyといこうぜ」
     己の腕を枕に、ごろり、と無造作に横になった政宗を見下ろし、小十郎は、きゅっ、と唇を引き結ぶ。政宗の本心が何処にあれど、それを故意に見せぬようにしているのであれば、問うべきではない。
    「それでは膳をお持ちしましょう」
     膝を立てた小十郎を、ちらり、と目だけで見上げ、政宗は「いや」と短く口にする。
    「おまえと話してたら腹も膨れた」
     そう嘯く瞳が、ギラギラ、と凶暴な輝きを放っていることに、本人は気づいているのだろうか。
     荒ぶる竜の本性が見え隠れする主の胸に掌を当て、その鼓動が平素よりも幾ばくか早いことを確認し、小十郎はそのまま、ゆるゆる、と政宗の胸を撫でさする。
    「平常心をお忘れなきよう」
    「Ha! ヘタクソな愛撫だな」
     軽口を返してきた政宗に、ゆるり、と眦を下げた小十郎の顔に手が伸ばされる。その動きを目だけで追う小十郎に見せつけるように、政宗はやたらと緩慢な動きで左頬の傷跡を、親指の腹で二度三度となぞった後、同様に下唇をやわりと押しつつ、ゆるゆる、となぞった。
    「俺に全部寄越せよ、小十郎」
     恋慕と欲の狭間で揺れる瞳を臆することなく受け止め、小十郎は頬を包むように撫でる政宗の手に己の手を重ねる。
    「既に身も心も政宗様のものであると小十郎は思っておりますが、これ以上なにを望まれるというのか」
     予想通りの返答に政宗は眉を顰め、ちっ、と舌打ちを漏らした。
    「……あぁ、そうだったな」
     未練の欠片もなく小十郎から離した手を宙で、ひらり、と翻す。
    「おまえもよく休んでおけよ」
    「承知いたしました」
     生真面目に言葉を返し、折られた布団で政宗を包んでから小十郎は腰を上げると、静かに一度頭を垂れてから退室していった。


     庭に面した廊下を大股に進む小十郎の表情は、政宗に向けていたものとは打って変わって相当険しい。大概の者ならば声を掛けるのを躊躇う程であるが、生憎と今この屋敷にいるのは肝の据わった者ばかりだ。
    「おぉ、片倉殿。こちらはどうにか片付きましたぞ」
     煤に汚れた顔で笑う幸村の隣では、同様に黒く汚れた慶次が少々、焦げた髪を指で梳きながら、やはり笑みを浮かべている。
    「全部任せちまって悪かったな」
    「なぁに、いいってことよ。それより、竜の旦那の方はいいのかい?」
     先の二人が相当汚れているにも関わらず佐助だけは綺麗なままで、小十郎は思わず苦笑を漏らすも直ぐさま表情を引き締め、「そのことなんだが」と口火を切った。
    「政宗様はあぁ仰られたが、猿飛、真田を連れて今すぐ甲斐に帰れ。前田、お前もだ」
    「政宗殿のお加減がよろしくないのでござるか」
     はっ、と表情を強張らせた幸村には、そうじゃねぇ、と首を横に振って見せ、小十郎は顔を佐助に戻す。
    「客人を危険に晒すわけにはいかねぇからな。なにかあったら、こちらを信用してあんたらを寄越した信玄公に申し訳が立たない」
     俺の腹ひとつじゃとてもじゃねぇが足りないだろ、と片眉を上げる小十郎に佐助は、物騒なことをさらっと言うねぇ、と内心で苦笑いだ。
    「ちょっと待ってくれよ片倉さん。なにか困ってるなら手を貸すぜ?」
    「そうでござる! ただ帰れと、それだけでは某、納得いきませぬ。それに、友に手を貸さずにおめおめと帰ろうものなら、逆にお館様から鉄拳が飛ぶでござる!!」
     鼻息荒く詰め寄る幸村の言葉に、小十郎は、ん? と僅かに首を傾げる。
    「今、政宗様を『友』と言ったか?」
    「然様。同じ釜の飯を食った仲となれば、最早他人ではござらん!」
     力一杯当たり前の顔で返してきた幸村に呆気に取られるもそれは一瞬のことで、小十郎は、くつり、と喉を鳴らしたかと思いきや、堪えきれないと言わんばかりに肩を揺らして笑い出した。
    「そうか、真田は政宗様を友と、そう言ってくれるか」
    「だ、旦那?」
     いろいろと考えすぎてネジの一本でも飛んでしまったかと、佐助がらしくなく上擦った声を上げれば、顔を片手で覆ったまま大丈夫だと言わんばかりに、小十郎は逆の手を上げた。
    「ならば尚のこと、帰ってもらわねぇとな」
     ひとしきり笑った後、穏やかに吐かれた言葉に幸村は「片倉殿!」と必死に縋るような声を出す。だが、その肩を押さえた佐助が、ゆるり、と首を振る。
    「俺様達が首を突っ込んじゃいけない問題なわけよ。説明がないってことは、察してあげなきゃ。ね、旦那」
    「しかし……」
    「前田の風来坊も、いいね?」
     一切の説明もなしに二人には無理を言っていると、小十郎も佐助もわかっている。だが、これは奥州の問題であり、よその土地の者を巻き込むわけには、ましてや横槍を入れるわけにはいかないのだ。
    「んー……そう言われてもなぁ。幸村、俺はどうすればいい?」
     何故か幸村にお伺いを立ててくる慶次に佐助は片眉を上げ、問われている本人である幸村も理由がわからないのか、きょとん、と相手を見上げる。
    「なんでウチの旦那に聞くわけ?」
    「え、だって俺、今、幸村に雇われてる状態だろ?」
     なに言ってるの? と目を丸くする慶次の言っている意味がわからず、小十郎が「そうなのか?」と幸村に問えば、小虎は右に左に首を傾げ懸命に心当たりを探しているようだ。
    「あー……、まさかとは思うんだけど、野菜……?」
     いち早く答えに気づいたか佐助が半眼で問えば、ぱちん、と指を鳴らした慶次が「ご名答~」と明るく答える。
    「俺は幸村に請われてここに来たわけだから、アンタの言うこと聞くよ」
     ぽふっ、と幸村の頭に掌を乗せ、にかっ、と笑った慶次に間髪入れず告げられた言葉は、誰の予想も裏切らぬものであった。
    「政宗殿の力になってほしいでござる!」
    「合点承知ってね!」
    「おい! 勝手に決めるな!! 遊びじゃねぇんだぞ!?」
     ここはどうしても退くわけにはいかないと小十郎が険しい声を上げれば、慶次は思いの外静かな瞳で、すぅ、と小十郎を見下ろした。
    「俺達の心配してくれるのは嬉しいけどさ、それと同じように俺達も政宗のことが、片倉さんのことが心配なんだよ。難しい事情があるのはわかるけど、俺は根無し草の風来坊だからさ、二人の立場を悪くすることはないと思うんだ」
     それでもダメかい? と慶次が僅かに眉尻を下げ寂しげな笑みを見せたのとほぼ同時に、ぽつりぽつり、と雨粒が地面に落ち土の色を濃くしていく。
    「政宗殿が、泣いておられる」
     シトシト、と静かに降り続ける雨になにを感じたか幸村は、まるで同じ痛みを感じているかのような表情で空を見上げ、自身の胸の前で拳を、きゅっ、と握り締めた。
     無駄に濡れる理由はなく、ひとまず中へ、と小十郎は三人を促し、更に幸村と慶次に風呂へ行くよう促してから佐助と共に室内へと入り、向かい合わせで腰を下ろした。
    「それで、旦那はどこまで情報掴んでるわけ?」
     畳に尻を付けるなり切り出してきた佐助に小十郎は軽く瞠目するも、瞬き一つの間に平素と変わりない静かな面を見せる。対する佐助は、全てを見透かすかのような怜悧な目を隠すことなく向けてくる。
     政宗の居室での様子からして、佐助が指摘するよりも前に小十郎はこの騒動の相手に気づいていたはずだ。そこを突けば小十郎は意外にも、あっさり、と口を割った。
    「そろそろ天命が尽きるだろう、と囁かれていた」
    「あー……、あちらさんも時間が無くて焦ってるってトコか。いやだねぇ、そこまでして生き長らえたいのか。それとも死なば諸共ってやつか。まぁ、どちらにせよ厄介なことには変わりないか」
    「おとなしく逝ってくれればと思っていたが、最悪な選択をしてくれたもんだ」
     淡々と紡がれる感情の乗っていない言葉に反し、瞳の奥に見え隠れするのは情け容赦なく燃え上がる冷たい焔。
     常に己を律している男の本性を垣間見た佐助の背筋に、ぞくり、と走ったものは、畏れか、秘められていたものを目の当たりにした驚喜か。
    「それで、単身乗り込んでカタつけようってんだから。もう少し賢いと思ってたけど、俺様の見込み違いだったかな」
     胸中を悟られないよう冗談めかしてはいるが佐助の目は先と変わらず、小十郎の挙動を一つも見落とすまいと神経を張り詰めている。
    「鴉天狗は読心術の心得もあるのか。恐れ入った」
     なんのことだ、と空惚けることも出来たであろうが、小十郎は腹の探り合いなどに費やす時間はないと、敢えて全て晒す方を選んだ。
    「生真面目な旦那の行動くらいお見通しってね、と言いたい所だけど、俺様も主持ちだからね。少しだけその気持ちはわかるよ」
     以前、納戸で交わした会話を思い出し、軽い意趣返しか、と小十郎の面に苦い笑みが浮かぶ。
    「俺も莫迦なことを考えてると思ってる。だが、こればっかりは政宗様にやらせるわけにはいかねぇ」
     母など居ないと口にした政宗に、胸の奥が激しく痛んだ。
     おまえなど不要だと、他ならぬ血の繋がった者から告げられる辛さを、小十郎は身をもって知っている。
     この仕打ちを憎く思わなかったと言えば嘘になる。だが、それ以上に悲しくて哀しくてどうしようもなかった。
     やり場のない感情を胸に不穏な考えが脳裏を掠めるも、絶望のままに振るう刃は己さえも傷付けると、聡明な先代がそうと気づかせてくれたからこそ、小十郎は今こうしてしかと己の足で立っていられるのだ。
    「ただ、俺様は博打は打たない主義でね。確実に勝つ為なら手段は選ばない。それこそ弱みがあれば迷わずそこに付け込むよ」
     気持ちはわかるが愚直としか言いようのない小十郎の行動には賛同しかねると、佐助は唇を歪めてみせる。
     理想論だけでは大切な者を護ることなど出来やしない。主のためならば手を汚すことなど厭わない。その姿勢を責められる者がいるとすれば、それはその者の主のみだ。
     だが、小十郎とてそれは同じだ。綺麗事だけで世を渡っていけるとは思っていない。現に主君に弓引いた者のみならず、その血族全て根絶やしにするつもりでいるのだから。
     互いに揺るがぬ眼差しで相手を見据え、暫し無言の時が流れた。シトシト、と降る雨は途切れることなく、もの悲しい音で室内を満たす。
    「……あーぁ、俺様としたことがヘタ打っちゃったねぇ」
     自嘲気味な呟きと共に佐助は音もなく立ち上がった。続けて小十郎も、ゆるり、と立ち上がり、目だけで素早く左右を窺う。
    「悪いな猿飛。腹ぁ括ってくれ」
     じり、と摺り足で後退する小十郎に合わせ、佐助も立ち位置を変える。
    「無事に済んだら俺の首でも何でもくれてやるからよ」
    「やめてよね。そんなことしたら俺様が竜の旦那に八つ裂きにされちゃうじゃない」
     軽口を叩きながらも佐助は外の気配に神経を尖らせ、同時に離れた場所にいる主の気配をも探れば、あちらも異変に感づいたか、ピリ、と張り詰めたものが伝わってきた。幸村ひとりではないのが不幸中の幸いであると、どうにかいい方に考える。
    「ほんと、捨て鉢になってる相手ってのは厄介だよね」
     雨に紛れ四方八方から忍び寄る複数の気配に、多勢に無勢とはよく言ったモンだ、と佐助の口端が歪に吊り上がった。
    「ここは俺様に任せて、右目の旦那は早く行きな」
    「すまねぇ」
     背後の襖を後ろ手で開け放ち、小十郎が即座に畳を蹴ったのが合図であったかのように、同時に複数の影が障子を、横手の襖を突き破り室内に躍り込んでくる。だが、突如、発生した竜巻に飲み込まれ、約半数の者が為す術もなく庭へと放り出された。
     襲撃者間の空気が、ざわり、と揺れ、部屋のほぼ中央に立つ男に視線が注がれる。
    「手加減はしないよ」
     打ち振るった黒翼から離れ舞う羽根の向こうで、突き刺さる殺気をものともせず佐助は冷酷に言い放った。


     床に就いたまま政宗は、ゆるり、と息を吐き出した。
    「臭ぇな……」
     雨に紛れることのない不快な水の臭いに小さく悪態を吐き、静かにその身を起こす。
    「Hey、いつまでもこそこそしてんじゃねぇよ。相手してやるから来な!」
     挑発するように四方へ顔を巡らせつつ声を張れば、一斉に開け放たれる襖と障子。そこに居並ぶ面々を冷ややかに見やる政宗の目が、一瞬にして、ぎらり、と閃く。
    「竜の住処に土足で踏み込んだんだ。生きて帰れるとは思うなよ」
     喰らい尽くしてやる、と凶暴さを隠しもせず政宗は、にぃ、と唇を笑みの形に歪ませたかと思いきや、瞬き一つの間に自ら接敵し鋭い爪を横に薙いだ。
     刹那、噴き上がった朱い雨に、政宗は歪んだ笑みを一層深くする。
     まとめて刎ねた首が鈍い音を立て畳に転がった時には既に、次の首が宙に舞っていた。
     無慈悲に閃く六爪は辺りを顧みることなく、壁や障子に止まらず畳までも鋭く深く抉っていく。
    「Ah……愉快だな……」
     意図も容易く他者の命を奪う政宗の唇から零れ出た声は、言っていることとは裏腹に深く深く沈んだもので。
     鉄錆びた臭気を纏い爪を振るい続ける政宗の周りには、屍が折り重なるように増えていくが、逃げ出す者は一人も居ない。
     忠義の末に果てた者達を一瞥し、徐々に朱く染まっていく視界と思考の中、政宗の唇が戦慄いた。
    「そんなに俺が憎いのか、ちくしょう……」


     一方、小十郎は背後で膨れ上がった殺気に一瞬、意識を向けるもその足は止まることはなく、真っ直ぐに政宗の元へと駆ける。
     後手に回ってしまったことに歯噛みしつつ、前方でも大きく膨らんだ殺気に小十郎は、はっ、と息を飲み、ぐっ、と拳をきつく握り締めた。
    「政宗様……ッ」
     主の居室はこんなにも遠かったであろうかと、焦りと共にいくつもの襖をくぐり抜けた小十郎の目が前を行く小さな背中を捉えるも傍に慶次の姿はなく、大方、彼も佐助同様、別の場所で敵を足止めし、幸村を政宗の元へと向かわせたのだろうとの予想がついた。
     そして不味いことに馬の尾のように左右に揺れる髪は、追いつきそうで追いつかない距離にあった。
    「真田、待てッ!」
     声を張るも小虎の耳には届かないのか走る速度は衰えず、すぐ目の前には唯一明かりの灯った部屋が迫っていた。
    「政宗殿! 助太刀いたすッ!!」
     走り込んだ勢いのまま室内に踏み込んだ幸村だが、政宗の姿を目にした刹那、他者を踏みつけ引き裂くかの如き竜の強大で凶暴な気に気圧され、ビクリ、と一瞬ではあったが身を竦ませた。
     その隙を敵が見逃すはずもなく、いくつもの鋭い爪が幸村に襲いかかる。
     己に振り下ろされるそれを幸村は見開いた眼で凝視しているにも関わらず、身体は、ぴくり、とも動かない。
     だが、身を裂かれる痛みはついぞやってこず、代わりに視界に飛び込んできたのは、幸村の脇を駆け抜けた蒼白い稲妻を纏った背中と、辺りに飛び散る朱い飛沫であった。
    「……っぐぅ」
     僅かに低い呻きが小十郎の喉から漏れ、幸村は、はっ、と我に返る。
    「かっ片倉殿ッ!?」
     出来うるならば幸村の襟首を掴み後ろへ引きたかったが、後一歩が及ばなかったが故に小十郎は勢いを殺すことなく踏み込み、自ら楯となったのだ。
    「怪我ぁねぇな真田!?」
     傷を負った腕など気に掛けた様子もなく、小十郎は目の前の敵に次々と拳を叩き込み、パリパリ、と放電する拳に焼かれ異臭を放つ相手を躊躇なく蹴り飛ばしながら声を上げた。
    「某よりも片倉殿の方がッ!」
     拳を振るう度に宙に描かれる朱い線に、幸村の喉からたまらず悲痛な叫びが迸った。
     その声に、ぴくり、と僅かだが六爪が揺れる。
     舞うように腕を振り抜いた政宗は、朱く染まった視界で室内を、ぐるり、見回す。聞こえるのは脳髄を揺らす己の鼓動のみであった世界に、不意に飛び込んできた音が堪らなく不快であったのだ。

     ──この場で動くモノは己以外、屠らなければならない。
     ──そうしなければ己を護ることが出来ない。
     ──誰も、誰も、この身を護ってなどくれぬのだ。

     集ってくる煩わしい小蠅を叩き潰しながら、政宗は未だ蠢くふたつのモノに狂気を孕んだ凶暴な眼を向けた。
    「……ッ!」
     言葉なく一直線に向かってくる政宗の、その隻眼に宿る尋常ではない光に気づいた小十郎は、咄嗟に幸村を突き飛ばす。
    「まさむ……ッ」
     最後まで主の名を呼ぶことは叶わなかった。
     迫る三爪を胸の前で交差させた腕でかろうじて受けるも、その衝撃で僅かに小十郎の体勢が崩れる。続けざまに繰り出された爪は、下から跳ね上げるように小十郎の腕を弾いた。
     あっ、と思ったときには既に腹はがら空きであった。
     竜の爪は一対。
     初めからそれを狙っていたかのように三爪は躊躇なく獲物を捕らえ、一気に引き裂いた。


     竜の咆吼と共に一昼夜吹き荒れた嵐がようよう去り、慶次は水浸しの畳を踏み締めつつ苦く笑む。
    「随分と風通しが良くなっちまったねぇ」
     障子はすっかり弾け飛び、襖すら何処かへと姿を消したこの部屋は、佐助が大暴れした部屋であったが、声を掛けられた張本人は涼しい顔で「凄い嵐だったよねぇ」と返してきた。あれだけのことがあったにも関わらず表面上は全く態度の変わらぬ鴉天狗に、慶次が苦い顔のまま「幸村は?」と問えば、ようやっと佐助の表情が動く。
    「いろいろと思うところがあるみたいよ」
     忙しなく目の前を行き交う複数の者達を眺めつつ、ぽつり、漏らされたその声音は、心配と苛立ちと寂寥感を伝えてくるには充分であった。
     ひとり部屋に籠もり、じっ、と座したまま動かぬ主の背中は「声をかけてくれるな」と告げており、佐助は障子の隙間から様子を窺うに留めたのだ。
    「そっか。なるべく早く戻ってくるから、あとよろしくな」
     荒れた庭や損壊した家屋の片付けにと、自主的に駆けつけた近隣の若い衆への指示出しは佐助がやっている。彼一人にすべて任せるのは心苦しいが、慶次は今すぐに立たねばならぬ役目がある。
    「豆狸には後ほど竜の旦那から直接、礼があるだろうって嘘でも言っときなよ。素直に褒めるのは癪だけどアレの薬は良く効くからね」
     移動速度で言えば佐助の方が数段早いのだが、甲斐の大虎の配下がこの件でおおっぴらに動くのはよろしくないだろうと、二人の間で意見が一致したのだ。
    「豆狸って、家康もかなり大きくなったよ」
     容姿だけではなく三河の土地神としての力も成長した、と慶次は眦を下げて柔く笑う。
    「じゃ、行ってくる。あ、途中でアンタんトコの大将に事情話しておくよ」
    「あぁ、そうしてくれると俺様も助かるわ。当分、帰れそうもありません、てね」
     軽く肩を竦めて見せた佐助に、ひらり、と手を振り、慶次は軽やかに空へと舞った。その姿を無言で見送った後、ゆるり、と息を吐く。
     ──襲撃のあった晩、遅れて政宗の寝室へと踏み込んだ佐助と慶次が目にしたのは、横たわる己の右目の傍らで顔の右半分を鮮血に染め、呆然と座り込んでいる竜の姿であった。
     虚ろな眼差しのままおぼつかぬ手を伸ばし、ぺたり、ぺたり、と小十郎の頬に触れる政宗の唇から辿々しく「こじゅうろ、う……?」と、ぽろり、と右目の名が零れ落ち、じわり、と瞳に理性の光が戻った刹那、喉も張り裂けんばかりの咆吼が迸った。
     取り乱し小十郎の肩を乱暴に揺らす政宗を慶次がなんとか引き剥がし、佐助は傷の具合を確認しながら素早く室内に視線を走らせ、内心で眉を顰めた。
     壁や畳問わず縦横無尽に走る三本の爪痕は政宗によるものだと容易に想像が付いたが、何故それと同じ物が小十郎の胸に刻まれているのか。
     一部始終を見ていたであろう幸村は、どれだけ視線で促そうとも顔面蒼白のまま口を開こうとしない。
     油断をすれば政宗は慶次の腕を振り払い、浅く忙しない呼吸を繰り返す小十郎に取り縋ろうとするため、竜には慶次共々御退室願った。
     左肩から右脇腹にかけて走る爪痕は思ったよりも深く、奇跡的に原形を留めていた箪笥から拝借したサラシをきつく巻き、佐助は隠すことなく舌打ちをする。手当ての最中も幸村はその場を動かず、じっ、と小十郎を食い入るように見つめていた。
     小十郎と引き離された政宗は暴れるかと思いきや、別室へ腰を落ち着けた時には先程とは打って変わりまるで抜け殻のようだと、小十郎の手当を終えた佐助に慶次が耳打ちしたのだった。
     見るも無惨な部屋から小十郎を移動させ、大分落ち着きを取り戻した政宗の「俺が看る」との言葉を佐助と慶次ははね除けることなく、二人を残して静かに襖を閉じた。
     畳を踏みつつ慶次は「皆、死んじまったよ」と漏らし、やりきれなさを押し込めるように目を伏せる。
    「俺様の方も同じだよ。話聞き出した途端、揃いも揃って自害とか」
    「なぁ、これって……」
     詳しい事情を聞く前に事に巻き込まれた慶次だが、薄々感づいているのか問う声もどこか固い。
    「お家騒動だよ」
     イヤになるね、と吐息混じりに零し、佐助は緩く頭を振った。
    「……なんだけど全員、口を揃えて『我らの独断だ』だもんねぇ。ま、事の真偽はともかく、竜の旦那には唯一の救いかもしれないけど」
     そこまでして忠義を貫く者達を持って主君冥利に尽きると言う者もいるであろうが、慶次は死んでしまっては元も子もないと哀しくなる。死んであの世で仕えるよりも、生きて傍に居て言葉を交わし、喜びを分かち合うことの方が重要だと思うのだ。
    「ひとつ教えてあげるよ、風来坊」
     沈んだ慶次の顔を、ちら、と横目に見てから、佐助は飄々とした口調のまま言葉を継いだ。
    「ここの先代が逝った時ね、殉死者がボロボロ出たんだってさ」
     それを目の当たりにした政宗がなにを思ったかは、彼にしかわからない。だが、それと今この屋敷に政宗と小十郎しか居ないということは無関係ではないと、言外に仄めかす佐助に慶次は唇を噛み締める。
    「それは寂しいよ、独眼竜……」
     傷付きたくなくて、傷付けたくなくて、自ら他者を遠ざけた政宗の胸の裡を思い、慶次は再度、瞼を伏せた。

    「──さて、竜の旦那も落ち着いたみたいだし、飯でも持っていくとしますかね」
     ぱちん、と軽く両の頬を叩き、佐助は未だ雲の立ちこめている空を見上げてから踵を返した。
     雨風は凄まじかったが雷が一つも鳴らなかったのは、彼が怒りの感情を持っていなかったことを示す。
     雨は涙、風は千々に乱れる胸中。
     自責の念に押し潰されそうな危うい一線をどうにか乗り越えたことは、素直に褒めてやるべきだろうと思うも、政宗がそれを望んでいないことはわかっている。
    「それよりもウチの旦那の方が問題かな」
     吉と出るか凶と出るか、こればかりは蓋を開けてみないことにはわからない。自ら考え、どう裡に落とし込むかは幸村次第なのだ。


     なにも書かれていない掛け軸のかかった床の間の前で幸村は目を閉じ、唯ひたすらに脳裏に蘇る光景を反芻する。
     迫り来る隻眼と一転した視界。
     慌てて顔を上げれば政宗が小十郎の肩口を捕らえたところで、制止の声も上げられず唯、振り下ろされる無慈悲な爪の軌跡を見つめるしか出来なかった。
     返り血を浴びた政宗の口許は奇妙に引き攣れており、縦に長い瞳孔を持つ瞳は異質な光を、ギラギラ、と放っていた。
     恐ろしいと、心底思った。
     彼自身がではなく、彼の正気を奪う程のことがあったのだということが、恐ろしかった。
     彼が唯一、心を許している小十郎のことすらわからなくなってしまっていることが、恐ろしかった。
     あぁ、その心中や如何ほどかと、なにも出来ぬ己に憤りすら覚えた。
     血を噴き出しよろめいた小十郎を再び竜の爪が引き裂くかと思った刹那、彼は迫る爪を避けることなくギリギリのところで掴み、そのまま、ぐい、と加減など一切なしに引き寄せた。
     勢いのままにぶつかってくる政宗の身体を受け止めるも、よろよろ、と二、三歩後退し、支えきれぬと判断したかその場に膝をつき血の滴る胸に主の顔を押し当てる。
    「政宗、さま……」
     掠れた声で、だが、しかと小十郎は政宗の名を呼んだ。主の頭を掻き抱くように腕を回している間も竜の爪は荒れ狂い、所構わず引き裂かれた身体から鮮血が散った。
     痛みに顔を歪めることなく、まるで幼子に言い聞かせるような穏やかな声音で小十郎は政宗の名を紡ぎ続ける。
    「政宗様、小十郎はここに、おります……」
     名を呼ぶ声。
     心臓の音。
     顔を濡らす鮮やかな朱。
     そのどれが政宗に届いたのか、幸村にはわからない。
     だが、微かに戦慄いた政宗の唇は、確かに声なき声で小十郎の名を呼んだ。それに安堵の笑みを浮かべた小十郎の身体が倒れた一呼吸後に、佐助と慶次が飛び込んできたのだった。
    「俺は、無力で、浅慮であった……」
     政宗の力になりたいという気持ちは、嘘偽りのないものであると胸を張れる。だが、気持ちだけではダメなのだ。
     己の思いを貫く為には、心身共にもっともっと成長しなければならないのだ。
     例え目を背けたくなることであっても真っ直ぐに見据え、考え、理解し、己の糧としていかなければ、いつまで経っても無力な小虎のままなのだと、痛感した。
    「強く、なって、俺も……護りたいものを、護る為に、尽力する」
     一言一言、噛み締めるように押し出し、幸村は静かに目を開けた。
     目の前の白紙の掛け軸に文字が浮かんで見えることがあると、それは己の心を映しているのだと、ここで共に瞑想をしていた小十郎が言っていたことを思い出す。
    「某にも見え申した」
     凜としたその顔は既に小虎のものではなかった。


     すっ、と障子に差した影に政宗は顔を上げ、相手が言葉を発する前に「鴉か」と問いのような、また確認であるような曖昧な声を漏らした。これは相当憔悴しているな、と佐助は僅かに片眉を上げるもそのような内心はおくびにも出さず、一言「入るよ」と軽く言ってのけ、するり、と障子を滑らせる。
    「食事持ってきたから食べなよ」
     はいよ、と無造作に政宗の横へと並べられたのは、握り飯が二つと白菜の漬け物が乗せられた皿がひとつと大振りの湯呑みだ。
    「外の連中にも食わせるのに、米とかいろいろ引っ張り出したよ」
    「……あぁ、別に構わねぇよ」
     広い屋敷であるが故に喧噪は微かにしか届かぬが、他者の動く気配だけは漏らすことなく感じていたのだろう。さほど驚いた様子もなく政宗は佐助の言葉に、こくり、と小さく頷いて見せた。
    「それで、片倉の旦那はどうだい?」
     決して覗き込むことはせず政宗の後方で片膝をつく佐助を、ちら、とも見ず、竜は、ゆるり、とした動作で湯呑みを手中に収めた。冷えたままの指先に、じわり、と伝わる熱は痛みすら覚えるも、政宗は眉一つ動かさず揺れる水面に目を落とす。
    「何度か意識は上がってくるんだが、目覚めるまではいかねぇな」
     ぴくり、と小十郎の睫毛が震える度に息を詰め、引き結ばれた唇がなにかを紡ごうと薄く開く度に耳を寄せるということを、もう何度繰り返したことか。
    「風来坊が豆狸のとこに薬貰いに行ったからね、遅くても夜には戻ると思うよ」
    「そうか。いろいろとすまねぇな」
     手にしたままの湯呑みに口を付けることもなく、淡々と言葉を返してくる政宗の背に向かって、佐助は深々と息を吐いた。
    「言いたいことは山ほどあるけど、それは俺様の役目じゃないからね。だけど、キッチリ、しておかないといけないことはある」
     独眼竜、と常にない呼び方で佐助は政宗を呼んだ。その声音に政宗は表情を改め、湯呑みを畳へと戻す。
    「片倉の旦那がこうなったのは、ウチの旦那の短慮が原因だ。だが、そんな主の気性をわかっていながら、止めることが出来なかった俺様に責がある」
     未だに幸村は口を開いておらず、事の次第が明らかになったわけではない。だが、状況と結果を照らし合わせれば自ずと答えは見えた。
     幸村が彼の枷となったのだ。
     そうでなければ小十郎ほどの手練れが正面から斬り伏せられるなど、到底考えられなかった。
     すっ、と畳を擦る音に政宗が首を巡らせれば、滅多なことでは膝を揃えぬ佐助が正座をし、深々と平伏して見せた。
    「翼をもがれたって仕方ないし、手足の一本や二本無くす覚悟は出来てる。だから、旦那を咎めるのはカンベンして欲しい」
     畳に額を擦りつけんばかりの懇願に政宗は隻眼を僅かに見張り、これに正面から向き合わぬのは失礼であると、居住まいを正すべく片手を畳についたその時、激しい足音が聞こえたかと思いきや、勢いよく隣室とを繋ぐ襖が開かれた。
    「待った待った待ったぁぁぁぁぁッ!」
     襖を開け放つや否や声を張った幸村に、政宗も佐助も顔を向けたまま言葉が出ない。彼の乱入が予想外であったこともあるが、それ以上に予想外であったのは彼の出で立ちであった。
    「だ、んな? なに、どうしたのその恰好」
     大概のことには動じぬ佐助も今回ばかりは度肝を抜かれたらしく、目を丸くしたまま失礼にも幸村を指さす。
     ほんの数時間見ないうちに少年から青年へと変貌を遂げた幸村は、膝までしか丈のない着物に袖は通しているが前は全開状態である。
     問われた幸村はと言えば大真面目に、うむ、と大きく頷き、片手に帯を握ったまま、すたすた、と大股に室内へと踏み込みつつ口を開いた。
    「いや、なにやら急に褌と帯がきつくなってな、直していたところに先程の佐助の言葉が聞こえたので、急ぎ参った」
     なんでもないことのように言ってのけた幸村だが、彼の居た部屋とこことは間に五部屋は挟んでいる。一体どんな耳してんだ、と政宗が内心で舌を巻いているのを知らぬまま、幸村は佐助と並んで膝を揃えた。
    「今回の件、佐助に責はござらん。佐助は片倉殿のご進言通りに即刻、甲斐へ帰ることを選択したでござる。それを聞かずに勝手なことをしたのは、すべて某の不徳の致すところ。なれば咎を受けるはこの幸村であって佐助では……」
     ぐっ、と身を乗り出し切々と訴えてくる幸村の鼻先で、政宗は不意に、ぱんっ、と手を打ち鳴らした。それは俗に言う猫騙しで、狙い通りに幸村の口が止まる。
    「Ah……よく喋る猫だな」
    「なっ!? 某は猫ではござらん!」
    「ちょっ、旦那」
     ガーッ、と食って掛かりそうな主を佐助がどうにか宥めつつ、ちら、と相手を窺い見れば、当の政宗は傍らの握り飯に手を伸ばし、もしゃもしゃ、と涼しい顔で喰らいだしたところだ。
     暫し、呆然と竜の食事風景を眺めていたが、はっ、と気を取り直したか幸村は正座のまま勢いよく、ずりずり、と寄り、茶を啜る政宗の目と鼻の先で、うー、と唸る。
    「そンな顔すんなって。ほらよ」
     ひょい、ともうひとつの握り飯を掬い上げ、躊躇することなく幸村の口へと押しつける。いつぞやの団子を思い出したか、幸村が抗議の一つも上げようとするも、それより一呼吸早く政宗が口を開いた。
    「アンタの従者が握ってくれた飯だ。有り難く食いな」
     そういえば最後に口にしたのは神社での豆大福であったと思い出した途端、正直な腹の虫は盛大な抗議の声を上げた。
    「で、では有り難く頂戴するでござる」
     どこかばつの悪い顔で米を食む幸村へ漬け物の乗った皿を押し、政宗は肩越しに小十郎を見やってから、改めて二人へと顔を向けた。
    「アンタ達には咎を受ける理由がねぇ。むしろ俺は巻き込んだ詫びをしなければならない」
     すまなかった、と頭を下げる政宗に佐助は再度目を丸くする。一日でこれだけ驚いたことがあっただろうかと、内心で笑ってしまったがそれを表に出すようなことはしない。
    「政宗殿ぉッ! 顔をお上げくだされぇぇぇッ!! 某は巻き込まれたなどとは微塵も思ってはおりませぬ!」
     不意に、がっ、と肩を掴まれ反射的に顔を上げた政宗に飯粒が飛ぶのも全く気にせず、幸村は大真面目な顔で捲し立てる。
    「友である政宗殿の為ならば誰が相手であろうと某は……ッ」
    「はいはい、ちょっと落ち着こうね。ごめんね、竜の旦那」
     食べかけの握り飯片手に大演説をおっ始めそうな幸村を押し止め、佐助は懐紙で政宗の顔を拭っていく。
    「旦那?」
     穏やかとは言い難い政宗の性格を知っているだけに、幸村に雷の一つでも落とすかと思っていたが、黙りこくったままの竜の顔を佐助が恐る恐る見やれば、その口許はなにかを堪えるかのように不自然に強張っていた。
    「……友、だと?」
     くつり、と喉を鳴らしたかと思いきや、最早限界だと言わんばかりに肩を揺らして笑い出した。
    「Ha! こいつは傑作だ!!」
     ばんばん、と己の膝を数度叩き、口許を押さえつつ、ひーひー、と息も絶え絶えな政宗の姿に佐助と幸村は顔を見合わせるも、ややあってどちらからともなく笑みを浮かべる。
     主従とは似るものだと、口には出さずとも互いの言わんとすることはわかっていた。


     静寂が舞い戻った室内で、政宗は膝上の物に触れながら瞼を伏せる。
     幸村を言葉巧みに先に退室させた佐助が布に包まれたなにかを、すっ、と差し出してきたのだ。これは? と声に出さず問えば、佐助は感情の見えない瞳で見返しつつ、なんとなくね、と漏らした。
     彼も去った後、膝上で布を解いた政宗は刹那、瞠目するも、どこかでわかっていたのか、それに指を滑らせる。
    「新しいの、買ってやらねぇとな……」
     竜の爪を受け、その役目を終えた笛を労るように撫で、政宗は冷めた茶を口に含み、ぎゅっ、と眉根を寄せた。
     ひとしきり撫でたそれを懐へと仕舞い、それにしても、と政宗は先の幸村を思い出し呆れたように息を吐く。
     あの小虎が一丁前の口を利くようになった、と小指の先程とはいえ素直に感心したというのに、部屋を出る際、一緒に立ち上がった佐助に向かって「縮んだか?」などと惚けたことをのたまったのだ。
    「信じられるか? アイツ、自分がどれだけ成長したか気づいてなかったんだぜ」
     眠ったままの小十郎に笑み混じりに語りかけ、額にかかった前髪を指先で払ってやる。
     怪我による発熱は引いたが彼は未だ目覚めぬままだ。人より屈強な妖であっても、これは重傷の部類に入る。峠は越したとはいえ、半分は人のままの小十郎では治りは更に遅いだろう。
     いっそここで己の血を混ぜて完全な妖にしてしまおうか、との考えが政宗の脳裏を過ぎったが、そのようなことをすれば例え傷が癒えようとも、小十郎は政宗を一生赦さないだろう。
     この男はただ従順なだけではなく、確とした信念の元に政宗と共に居るのだ。
     人を妖にするには様々な方法があるが、生命の源である血を混ぜ合わせるのが確実であり、手っ取り早い方法である。だがそれは身体の急激な変化に耐えられず命を落とす者や、気の触れる者も出る諸刃の剣でもある。
     先代は人と妖の境界を見誤ることなく丁寧に時間を掛け、小十郎の身体に竜の気を巡らせたのだ。彼の裡の秘めたる静かな雷は完全ではないとはいえ、強大な力を持つ土地神から与えられたものだ。下手な妖では足元にも及ばぬそれは、ともすれば政宗をも圧倒する。
    「俺はこの先も、お前に護られ続けるのか……?」
     古い頬の傷に指先で触れ、返る応えはないと知りつつも、ぽつりぽつり、と心情を吐露していく。
     ただ護られるだけの小竜はもう居ないのだと、言葉だけではなく態度でも示してきたつもりであった。事実、小十郎は政宗の強さを認めており、苦言は呈せど主の意志を尊重する。だが、幼い頃に右目を失った竜に常に寄り添っていた彼からすれば、いつまでも政宗は庇護対象から外れないらしい。
    「俺がおまえにしてやれることは、なんだ……?」
     これといった変化のない日々を送り、それを当たり前だと思ってしまったのが、そもそもの過ちだった。
     与えられるばかりで与えることなど、思い至りもしなかった。
     先の幸村の主としての有り様に、潔くも毅然とした態度に、馬鹿正直なまでの真っ直ぐさに、羨望を覚えたのも確かだ。
     こつり、と小十郎の右肩に額をつけ、政宗は、ぎゅっ、と目を瞑った。際限なく広がる闇に背筋は震え、あぁ心の一部は未だにあの薄暗い部屋で膝を抱えたままなのだな、と他人事のように嗤う。
     ぽすん、と不意に頭部に感じた重みに、政宗は、はっ、と目を見開いた。大きく温かなそれはぎこちないながらも、髪を梳くように優しく頭を撫でる。
    「なにか、恐い夢でも見ましたか。政宗様」
     ゆるゆる、と動く手はそのままに、小十郎は未だ夢と現の狭間に居るのか、どこか蕩けた声音で、ふわり、と笑う。
    「政宗様は昔から何かあるごとに、泣きべそかいて小十郎の布団へ潜り込んできましたからなぁ」
    「ばっ! 泣いてねぇよ!!」
     からかい混じりの言葉に反射的に跳ね起き、声を荒げた政宗を見て、小十郎は眦を、ゆうるり、と下げた。
    「ご無事でなによりです」
    「……莫迦が。俺のことよりてめぇの心配しやがれ」
     恐らく詫びの言葉など、この男にとって意味はない。政宗はひとつ大きく息を吐くと、それだけを口にしたのだった。
     ふと、先の独り言を聞かれていたのではないかと思うも、小十郎の表情からは読み取れず、政宗は藪を突いて蛇を出すこともあるまいと敢えてそのことには触れない。
    「傷開くからあんま動かすな」
     上掛けの上に出ている左腕を中へと戻してやり「なにか食えそうか?」と問うも、小十郎は緩く頭を振り静かに瞼を下ろした。
    「そうか。極楽鳥が家康の薬貰いに行ったって話だからな、それまでゆっくり寝てろ」
    「この度の件、責は全て小十郎にございます」
     声音の変わった小十郎に政宗の片眉が、ぴくり、と上がった。一呼吸おいてから小十郎は、ゆうるり、と目を開け、ひた、と政宗を真っ直ぐに見据える。
    「考えの甘さから、御身を危険に曝しました。如何様な罰も甘んじて受ける所存。腹を切れと仰るなら今すぐにでも……」
     右肘を支えに、ぐっ、と身を起こそうとした小十郎を押さえるように、政宗は左掌で相手の目元を覆う。
    「悪ぃのは喧嘩ふっかけてきたアイツらだ。それで納得出来ねぇってんなら、付け入る隙を作った俺が一番悪い。そういうことだ」
    「ですが……ッ!」
    「お喋りが過ぎるぜ、小十郎」
     尚も食い下がる小十郎の唇を人差し指で、つい、と押さえ、政宗は僅かに固い声を漏らす。
    「正気じゃなかったとはいえ、俺はお前を殺しかけた。互いにとってこれ以上の罰があるか?」
     狂気で朱く染まった視界がくすむほどの鮮烈な朱を思い出し、政宗の背筋に震えが走る。掌を通じて伝わったそれに小十郎は唇を引き結び、手探りで宥めるように主の膝に触れた。
    「二人共生きてる。それでいいじゃねぇか」
    「……はい、政宗様」
     静かな応えに政宗は眉尻を下げ、薄く開いた小十郎の唇を柔らかく食んだ。じわり、と染み入る温かさに胸の奥が満たされるようで、政宗は知らず安堵の息を漏らす。
     常ならば「お戯れが過ぎますぞ」と窘める小十郎がなにも言ってこないのは、見えていないにも関わらず政宗の寄る辺ない子供のような瞳に気づいているからだ。
    「あんまり甘やかすと調子に乗るぜ?」
    「その時は、ガツン、とやらせていただきますので、ご安心召されよ」
     僅かに口角を上げた小十郎に「お手柔らかに頼むぜ」と戯けたように返し、政宗は喉奥で、くつり、と笑った。


     開け放たれた障子の向こうに見える快晴の空に目を細め、小十郎は手中の書物を、ぱたん、と閉じた。
     心配していた里の方は収穫も済んでおり幸いにも大きな被害はなかったと、様子を見に行った佐助から聞いている。ただ、付け加えられた話に小十郎は苦く笑むしかなかった。
     境内で土地神に対しての不満を口にした者達は「罰が当たったのだ」と震え上がっていたという。蛟にそそのかされた彼らはどちらかといえば被害者であり、二重の意味で申し訳ないと思ったのだ。
     あれから一週間経った今現在、家康の薬のおかげで順調に回復に向かっているとはいえ、利き腕側の肩を傷めた小十郎は出来ることに限りがある。そんな彼に代わって嵐で荒れてしまった畑を幸村が手入れし、新たに植えた作物の面倒を見てくれているのだ。
     そろそろ本日分の報告に彼がやってくるだろうと思えば、予想に違わず廊下を大股に進む足音が近づいてくる。
    「片倉殿、よろしいでござるか?」
     ひょこ、と顔を出した幸村に軽く頷いて見せれば、布団の上で上半身を起こしている小十郎と並ぶように、すとん、と腰を下ろす。その髪がまだ湿っていることに気づき、小十郎は僅かに眉尻を下げた。
    「そんな急ぐことはねぇだろ。前にも言ったがちゃんと乾かしてから来い」
     一回、畑から直行したのか土に汚れたまま現れ、佐助にこっぴどく叱られてから幸村は湯を浴びてから小十郎の元へやって来るようになった。
    「今日は暖かいから放っておいてもすぐに乾くでござる」
     仄かに上気した頬で、にこり、と笑い、幸村は今日はあれをやったこれをやったと子細漏らさず告げる。その楽しげな様子につられたか、小十郎の表情も柔らかくなっていく。
     一通り話を聞いたところで、今度は逆に小十郎が「時間はあるか?」と幸村に問うた。
    「特に急ぎの用はござらんが、どうなされた?」
    「いや、里から戻ったら俺のことを話してやるって言ったのに、有耶無耶になっちまったからな。約束を違えたままじゃスッキリしねぇんだよ。つまんねぇ話だが、まぁ聞いて行け」
     そう言い置いて、小十郎は落ち着いた声音で淡々と語っていく。

     ──神主の子息であったこと。
     ──妖を見ることが出来、言葉を交わしていたこと。
     ──そのせいで奇異な目で見られていたこと。
     ──他者より飲み込みが早く、何事もそつなくこせたのも徒となったこと。
     ──妖に魅入られていると、いやあれは鬼の子であると、まことしやかに囁かれ、里の人々の不審の目が神社にまで及ぶのを恐れた両親に「土地神様にその身を捧げろ」と言い渡されたこと。

    「なんと惨い仕打ちを……」
     ぎゅっ、と膝上で固く拳を握り、幸村が悲痛な呻きを漏らす。だが、当の小十郎は穏やかな表情のままだ。
    「神職とはいえ俺の父親の頃には既にロクな力がなかったからな。神の姿は見えない、声も殆ど聞こえないんじゃ、俺のことを気味悪く思っても仕方ない」
     これからも末永く土地神様に里をお守りいただけるようにと、上辺だけは華々しい儀式が執り行われ、それを無表情でやり過ごした小十郎は身一つで森へと入った。
     彼が戻って来ぬようにとしばらく監視の目が光っていたが、元より戻るつもりなど毛頭無かった。
     かと言って向かう当てもなく、暮れていく茜色の空を見上げ、いっそここで自害するか、といつも笛を奏でていた石の上で、ぼんやり、と思っていた小十郎を、輝宗は屋敷へと連れ帰ったのだ。
     里でのことはお見通しである輝宗はなにも聞かず、ただ「おまえの笛が聞きたい」と、そう言って微笑んだのだ。
    「まぁ、こんなところだ」
     人の手によって殺されなかっただけマシだろ、と俯いてしまった幸村の頭を、ぽん、と軽く叩き、顔を上げるよう促す。躊躇いがちに顔を上げ、上目に小十郎を見つめる幸村はなにか聞きたいことがあるようだが、果たして聞いて良い物かとその瞳に迷いが見える。
    「なんだ、聞きたいことがあるならハッキリしろ」
    「う……ではその、片倉殿がどのような方法を用いて妖に変化したか、お聞きしてよろしいか? 某、本当に物知らずでお恥ずかしい限りでござる」
     大真面目な顔で、ずい、と身を乗り出してきた幸村に、小十郎は、うっ、と喉奥で低く呻き、ぎゅぎゅっ、と眉間にしわを寄せた。
     自らハッキリしろと言ってしまった手前、答えないわけにはいかないのだが、包み隠さず口にするには少々憚られる物があるのだ。
     さて、どう説明したものか、と難しい顔で幸村を見返す小十郎の耳に、くつり、と低い笑いが届いた。
    「お困りのようだなぁ、小十郎」
     ひたり、と廊下からやって来たのは政宗だ。だが、その唇は綺麗な弧を描いており、なにかしら企んでいるのは明白である。
    「俺が説明してやるよ。真田幸村、ちょっと耳貸せ」
    「政宗様!?」
     嫌な予感に焦る小十郎など歯牙に掛けず、素直に耳を傾ける幸村に政宗が顔を寄せ、ぼそぼそ、と何事かを吹き込んだ途端、ぼしゅっ、と音がしそうな勢いで幸村の顔が茹で蛸のように真っ赤になったかと思えば、
    「はっ破廉恥でござるぅぅぅぅぅーッ!」
     と絶叫を上げつつ、脱兎の如く逃げ出したのだった。
    「Ha! 図体ばっかデカくなりやがって。頭の方は小虎のまんまじゃねぇか」
    「政宗様、一体なにを……」
     尋常ではない幸村の狼狽え振りに、小十郎のこめかみが引き攣る。
    「Hum、なに大したことは言ってねぇよ。『毎晩、褥でたらふく竜の気を腹に喰らったんだ』って言っただけだぜ?」
     悪びれた様子もなく、ニヤニヤ、とイヤな笑いを向けてくる政宗に、小十郎は確かに緒の切れる音を聞いたのだった。
     パチリ、と小さな音を立て、抑えることを放棄した雷が小十郎から放たれれば、さすがの政宗も顔から色を無くし反論を試みる。
    「間違っちゃいねぇだろ」
    「政宗様、物には言い様がございましょう?」
     はらり、と落ちた前髪と、丁寧ではあるが腹の奥底に、ずん、と響く低い声音に、調子に乗ったと政宗は悟るも時既に遅し。
     正に電光石火と言うに相応しい。ごつり、と額に衝撃を喰らい、そのまま為す術もなく天井を仰ぐ。
    「Shit……額割れたらどうしてくれるんだ」
     無様にも引っ繰り返った政宗は、額を両の掌で押さえ低く呻いた。
    「小十郎にやられるほどヤワではございませんでしょう」
     追撃を覚悟するも小十郎にそれ以上の動きはなく、恐る恐る様子を窺えば彼も、するり、と額を撫でさすったところで。この一発で勘弁してくれたと判断した政宗は額をさすりながら身体を起こし、真っ直ぐに小十郎と向き合う。
     当の小十郎は眉間には深いしわが刻まれたままで、完全に怒りがおさまったわけではないがなにか気にかかることがあるのか、じっ、と物問いたげな眼差しで政宗を見ている。
    「なんだよ……」
    「晴れやかなお顔をなさっているので、心中の憂いはなくなったのかと。いえ、小十郎の思い過ごしであればお聞き流しください」
     核心に触れているようで触れていない曖昧な問いに、政宗は隠すことなく目を細め、カシカシ、と頭を掻く。
    「心当たりがありすぎておまえがどのことを言ってんのかわかんねぇが、まぁ、確実に一つは解決したわな」
     意趣返しか政宗も明言は避け、にやり、と口端を吊り上げる。
    「それはなによりでございます」
     深く追求することなく穏やかに眦を下げる小十郎は大方、先日の襲撃の件を脳裏に描いているのだろう。表向きは臣下の暴走ということで片は付き、先代の奥方も嵐の晩に息を引き取ったという。
     真実は闇の中だが政宗からしてみれば、今となっては道端の石ころほどにどうでもいいことであった。
     彼が固執するは唯ひとつ。
    「俺色に染められないのはちぃとばかし癪だが、おまえが俺のモンだってのがはっきりしたから、よしとしてやるよ」
     ここまで身体張られちゃ認めないわけにもいかねぇ、と政宗は満足そうな笑みと共に小十郎の額に唇を押し当て、つい、と着物の上から傷痕に沿って指先を滑らせる。
    「おっと、小言はナシだぜ」
     目の前で口を開き掛けた小十郎を言葉で制し素早く身を離した政宗は、悪戯が成功した童のような顔で、はは、と小さく笑い、じゃあな、と足音軽く障子の向こうへと姿を消した。
     ひとり残された小十郎は難しい顔で政宗の言葉を反芻するも、わかったのは自分が思っていたことと彼の憂いは違っていたということだけで、主の解決した憂いがなにであったかは結局、理解できないままなのだった。


     昼前に、ちょっと出る、と言い置いて政宗が屋敷から姿を消し、珍しいこともあるものだと小十郎は書物を繰る手を止めた。これまでは気がつけば何処かへと姿を消しており、部屋がもぬけの殻であることなどざらであった。
     ふと、もしや政宗様なりの気遣いなのだろうか、とそう思えば悪い気はしない。
     それから数刻も経たぬうちに、ドタドタ、とけたたましい足音が部屋へと近づき、今度はなにをやらかしたんだ、と小十郎は額を押さえる。
     背丈も伸び相応の姿になった幸村は確かに頼もしくなったが、元気が有り余っているのか常に落ち着きがなく、なにかと騒がしい。
     力仕事は頼りになるが細かな作業は苦手なようで、食事の用意の手伝いをすれば必ずと言っていいほど皿を割り、今では佐助から台所出入り禁止を言い渡されている。
     先日も掃除中に壷を割ったと言って、駆け込んで来るなり畳に額を擦り付けた。
    「片倉殿ーッ!」
     そらきた、と小十郎は諦めたように顔を上げるも、即座に怪訝な面持ちになる。
    「なんだそりゃ」
    「拾ったでござる」
     ずるり、と長いモノを引きずったまま部屋へと踏み込んできた幸村は、簡潔な問いに簡潔な答えを返した。
    「畑の近くで見つけ、捨て置けぬと……」
     両の手でしっかりとそれぞれ左右の足首を掴んだまま、ゆるり、と背後に頭を巡らせる幸村に、小十郎は渋面のままなんと言って良いものかと考え、やっと出てきた言葉は、
    「せめて仰向けにしてやれ」
     であった。
     畑からここまで延々俯せ状態で引きずられてきた不運な男は、この辺りでは見ない顔で、しかも頭髪は銀という希有なものだ。
     騒ぎを聞きつけた佐助が「なんで仰向けにしてあげないの」と幸村に小言を垂れれば、「片倉殿と同じ事を言う」と幸村は背を丸めてしょげる。その姿を横目に見つつ濡れ手拭いで男の顔の汚れを落としながら、傍らの小十郎に「勝手にごめんね、片倉の旦那」と優秀な従者が詫びる。
    「もー、旦那ったら。拾っても面倒みられないでしょ」
    「いや、そういう問題じゃねぇから」
     小十郎のツッコミを軽く流し佐助が男の眼帯に手を伸ばせば、「ダメダメ」と緩い声で制止がかかった。
    「鬼に両方の目ん玉で見られたら魂喰らわれちゃうよ」
    「鬼?」
     ひょこり、と顔を出した慶次の言葉に小十郎が問うように繰り返せば、結った髪を小さく揺らし慶次は男の傍らに腰を下ろした。
    「西海にある鬼ヶ島の鬼だよ、コイツ。まぁ、悪い奴じゃないよ」
     伊達にあちらこちら放浪しているわけではないらしい。慶次の知り合いということで幾分かは警戒心も弛んだが、遠路遙々海を渡ってまで鬼が奥州にやって来た理由がわからない。
     見たところ幸村が引きずってきた際の擦り傷や打ち身以外は、怪我らしい怪我もしていないようなので、これは目を覚ましたら本人に聞くしかないと結論づけ、鬼を小十郎の布団へと押し込めてから、とりあえず飯にしようと全員退室したのだった。


    「おいおい、なんで頭数が増えてんだ……」
     陽が暮れてから戻った政宗は、目の前の光景に軽く眩暈を覚える。しかも見知らぬ男は小十郎の布団におり、慶次の手から芋粥の入った碗を受け取ったところだ。
    「お戻りになられましたか」
     障子を開けたその場で足を止めている政宗に顔を向け、小十郎は静かに腰を上げると主を促しそのまま部屋を後にする。
    「ありゃあ何者だ」
    「鬼ヶ島の鬼だそうです」
     聞けば厳島の九尾に碁で負け、勝負前の約束であった『相手の言うことを一つ聞く』のせいで奥州くんだりまで来る羽目になったという。
    「てめぇが毛利に『竜の右目が作る野菜は絶品だ』なんて言いやがるから、こんなことになっちまったんだ」と悪態をつく鬼に「ちょっとちょっと、さすがにそれは逆恨みだろ、元親」と慶次も困り顔だった。
    「つまりは、小十郎の野菜を貰いにわざわざ来た、ってことか?」
    「そうなります」
     簡単な説明であったが大体の事情を把握した政宗が「呆れてモノも言えねぇ」とぼやけば、小十郎はなにが楽しいのか、ゆうるり、と口元を綻ばせる。
    「なんだ?」
    「暫く賑やかになりますな」
    「Why ……? どういう意味だ小十郎」
     幸村一人でもかなり騒々しいというのに、小十郎の口振りはまるで……
    「お忘れか? 小十郎の畑には今現在、収穫できる物はなにもございません」
     一昼夜荒れ狂った嵐ですべては押し流されてしまったのだと、言外に告げる小十郎にさすがに分が悪いと悟ったか、政宗は、むすり、と唇を引き結び、カシカシ、と頭を掻いた。
     気づけば極楽鳥は飛び立つ気配はなく、甲斐の二人もまだまだ居座る気満々だ。だが、それが竜も不快ではないことを、右目はよくわかっているのだろう。
     どうにも敵わない、と政宗は内心で白旗を揚げるも、素直にそれを認めるのはやはり悔しい。
    「客でもなんでもねぇんだ。タダ飯喰らいは叩き出すからな」
     元から客人である甲斐のふたりは元より、借りの出来た慶次と同じ扱いはしない、ということだが、遠回しに元親の滞在を認めた政宗に小十郎は「御意」と頭を下げた。
    「ですが、聞けば三日三晩飲まず食わずでようよう辿り着いたとのこと。ある程度回復するまではご容赦の程を」
    「だからってなんでおまえの布団に寝かしてんだ」
    「なにぶん、急なことでしたので」
     ざっと掻い摘んで経緯を語って聞かせれば、政宗は「真田ぁ……」と低く呻いて軽く額を押さえた。
    「わかったわかった。もう全部おまえに任せる」
     全てが面倒臭くなったか、ひらり、と掌を翻し、この話はここで終いだと言外に告げる政宗に小十郎は短く了承の言葉を返した後、「夕餉はどうなさいますか?」と問うた。
    「部屋でとる。あぁ、おまえも来い」
    「よろしいのですか?」
    「これから騒がしくなるんだろ。だったら今晩くらいゆっくりしてぇ」
     敢えて言葉を省いた政宗だが小十郎には漏らさず伝わったようで、一瞬、瞠目するも直ぐさま「畏まりました」との応えが小十郎から返されたのだった。


     敢えて明かりを灯さぬ部屋に差し込む月光は蒼白く、小十郎の膝に頭を預けている政宗の顔を淡く染める。なにをするでもなく政宗は瞼を下ろし、小十郎は黙って月を見上げている。
     思えば主とふたりでこのような刻を過ごすのは久方振りであると、小十郎は無意識のうちに、ゆるり、吐息を吐き、つと、視線を己の膝へと落とした。それに気づいたか政宗の瞼が静かに持ち上がり、目だけで小十郎の顔を見た。
    「良い月ですよ」
    「あぁ、そうだな」
     ちら、と横目に見やっただけで政宗は興味が失せたか、直ぐさま自分を見下ろす漆黒の瞳を見据える。
    「静かですな」
    「そうだな」
     これが普通であると、未来永劫変わることなど無いと、政宗は思っていたのだが、それは呆気ないほどにあっさりと覆された。今も音は届かずとも空気のざわめきが、他者が己の領域にいることを知らしめている。
     だが、それはどこか懐かしい感覚であった。
    「今だから言うけどな、小十郎。おまえが来てすぐの頃は俺、おまえが嫌いだったんだぜ」
     くくっ、と喉を鳴らして暴露話を始めた政宗を見下ろす小十郎の眼差しは、揺らぐことなく主に注がれ続ける。
    「全然、笑わないしよ、さり気なく俺の扱いもぞんざいだったろ。なのに親父は咎めねぇどころかむしろ気に入ってたしな。それが更にムカつくのなんのって」
    「そうですな。あの頃の小十郎は笑い方も思い出せないほど、意固地になっておりましたから」
     感情を表に出すことを恐れていたのだと、今なら政宗にも当時の小十郎の気持ちがわかる。自分が何かする度に周りの者を大なり小なり刺激するのであれば、いっそ全ての感情を押し殺すか、人目に触れぬ場所で息を殺しているしかないのだ。
     それでも小十郎は輝宗から与えられた好意を少しずつ少しずつ受け止め、やがては政宗にそれを分け与えることが出来るようになるまでに至った。
     政宗は父親の根気強さと慈悲深さには、一生掛かっても敵わないとまで思っている。
    「人に戻りたいと、思ったことはないか」
    「ございません」
     ゆっくりと、だが毅然と返された言葉に政宗は僅かに唇を歪める。答えなどわかりきっているというのに、それをわざわざ彼の口から言わせるなど、なんと愚かな主であることか。
     は、と漏れ出た自嘲の笑みにそこからなにを読み取ったか、小十郎は、ゆるり、と主の右瞼を撫ぜる。
    「政宗様こそ、お傍に居るのが小十郎でよろしいのですか」
     お嫌いだったのでしょう? と澄まし顔で意地悪く問うてくる口達者な従者に、政宗は口角を吊り上げる。
    「ガキの頃の話だって言っただろ」
     笑ってはいるがやや憔悴した感のある政宗の面に気づき、小十郎は労るように主の髪を柔く撫でる。
    「里に、行かれたのですか」
    「あぁ」
     気が向いた時に年に二、三回ほどしか里に行かぬ政宗だが、今回はやはり己のしたことの結果を、多少日は経ってしまったが、自身の目で耳で確かめたかったのだろう。
    「まぁ、たまには良いではありませんか」
     恩恵をもたらすばかりが土地神ではないと、荒神である一面もある程度は見せておいた方がいいのだと、人の子は静かに言葉を落とす。
    「ただ、やり過ぎますと鎮めるために生け贄だなんだと言い出します故、些か面倒ではありますが」
    「神社覗いたらまさにその話をしてやがった。贄なんざいらねぇっての」
     心底、げんなり、といった顔で再度瞼を伏せた政宗の前髪を、さらり、と払い、小十郎は、それは困りましたな、と独り言のように漏らす。
    「では明日、小十郎が赴き土地神様が辞退された旨、お伝えして参りましょう」
    「いい、いい。わざわざ行くこたぁねぇ。俺が夢枕にでも立って『いらねぇよ』って言えば事は済む」
     面と向かって言われたことはないが、政宗は小十郎が里に行くことを快く思っていない節があった。過去の仕打ちを小十郎自身が赦したとしても、政宗の胸の裡では未だ人に対する怒りの炎が燻ったままなのだろう。
     もうあの時の者達は誰一人として残っておりませぬ、と小十郎が諭すように告げても、右目を失ったことも関係してか、人に対する悪感情はそうおいそれとは払拭できぬらしい。
     そこが輝宗様との違いだな、と思うも、小十郎は口にはしない。政宗には政宗のやり方が、考え方があるのだ。
     じっ、と政宗の顔を見つめたまま考えを巡らせていれば、金色に煌めく瞳が小十郎のそれを捉えた。視線を合わせたまま無言で伸ばされた政宗の手は小十郎の胸元に触れ、なにかを辿るように、ゆっくり、と着物の上を滑る。
    「治してやれなくてすまねぇ」
    「何事も得手不得手がございます。お気に病まれますな」
     その爪は他者を切り裂き殲滅する為にはこれ以上はない力を発揮するが、鋭すぎるが故に癒しを施すには不向きであった。
    「それと……」
     もご、と僅かに言い淀みつつ、政宗は己の懐から取り出した物を小十郎の胸に押しつけた。
    「里に下りたついでにちょっと足を延ばした」
     押しつけられたそれは縮緬に包まれた細長い物で、布を解くことなく小十郎は中身を悟り、驚きよりも大きな喜びを感じ相好を崩した。
    「治ったら、また聞かせてくれ」

     ──政宗自らが足を運び吟味したそれは、如何なる物も決して及ばぬ素晴らしい音色を奏でることだろう。
    竜と童と 片倉小十郎景綱は笑わない童であった。
     彼は常に、むすり、と口をへの字に引き結んだ険しい顔で黙々と仕事をこなす。
     基本的には勤勉で頼まれた仕事は快く了承し、どれだけ面倒な内容であっても手を抜くことなく結果を出す。
     人の身でありながら妖の直中にあっても臆した様子はなく、疎外感に苛まれている様子もなかった。彼からしてみれば、むしろ里に居た頃の方が針の筵であったようだ。
     交わす言葉は極僅かであるがそこに悪意や敵意はなく、取っつきにくいことだけが難であった。
     そんな彼であるが、当主である輝宗に対してだけは違った面を見せることを、つい先日、政宗は知ったのだ。
    「景綱」
     庭で掃き掃除をしていた小十郎の名だけを呼び、来い来い、と手招くのは輝宗だ。廊下に立ち止まっている主を待たせてはならぬと、小十郎は箒片手に小走りで駆け寄り、共に居る政宗にも頭を下げてから真っ直ぐに輝宗を見上げる。
    「手を出しなさい」
     柔く下がった眦から叱責されるわけではないのだと判断したか、小十郎は怪訝な顔のまま箒を足元へ置き、両の掌を揃えて上に向け輝宗へと差し出した。それにひとつ頷いて見せてから輝宗は懐へ手をやり、取り出した小さな巾着包みを小十郎の掌へ、そっ、と乗せる。
    「よく働いてくれる景綱にご褒美だ」
     そうは言われてもやはり怪訝な顔のまま、小十郎は慎重に巾着の口を開いた。中には淡い色をした小振りの粒がいくつも入っており、不規則に飛び出た小さな突起のせいで形は不揃いだ。
    「これは、なんでしょうか?」
    「金平糖と言ってね。菓子だよ」
     不思議そうに、まじまじ、と袋の中身を凝視している小十郎の問いに、輝宗は簡潔に答える。食べてみなさい、と促され恐る恐る口に運べば、途端に小十郎の面に僅かではあるが驚きが走った。
    「甘い……」
     ぽろり、と漏れ出た声色は年相応の響きで、輝宗は微笑を浮かべたまま小十郎の頭に、ぽん、と手を乗せ、ゆうるり、と撫ぜる。
    「気に入ったか」
    「俺には……勿体のうございます」
     恐縮するもその面に浮かんでいるのは、戸惑いとほんの僅かな喜色。仄かに染まった頬は桜色で、普段の険しい面差しからは想像もつかぬほどに幼く見える。
    「掃除が終わった後はなにかあるか?」
    「いえ、特にこれといったことはございません」
     新たな仕事を言い渡されるのであろうか、と表情を引き締めた小十郎の予想に反し、輝宗の口から出たのは「新しい書物が何冊か手に入ったから読みに来なさい」とのお誘いの言葉であった。
     一瞬、ぽかん、と呆けてしまった小十郎だが即座に気を取り直すと、礼の言葉と共に深々と頭を下げたのだった。
     では後で、と言い残し輝宗は居室へ戻るべく廊下を行く。続く政宗は、ちら、と肩越しに箒を再び手に取った小十郎を見やり、僅かに渋面を作った。
    「どうかしたか」
     振り返ることなく問うてきた父に政宗は肩を跳ねさせると、ばつの悪い顔で前を行く輝宗の羽織を緩く握る。
    「父上は人の子を随分とお気に召しておられるのだなと」
     息子のどこか拗ねたような口振りに、輝宗は困ったように眉尻を下げる。先の金平糖は当然、政宗にも与えたのだが、一握りとはいえ全てが自分の物にならなかったことが、相当不満であるようだ。最近は大人びた物言いをするようにはなったが内面はまだまだ幼く、現に姿形も十に満たない童である。
     そういえば景綱は十四だったか、十五だったかと記憶を探りつつ、
    「政宗も景綱の笛は好きだろう?」
     と、敢えてはぐらかすように別のことを重ねて問えば、政宗は、もご、と口籠もった後、小さく頷いたのだった。


     逸る気持ちを抑え庭掃除を終えた小十郎は念の為、他の者に急ぎの仕事はないかと訊ねてから輝宗の元を訪れた。
     小十郎が輝宗に連れられて屋敷へ来てから、二ヶ月が経っている。実のところ輝宗は彼に仕事をさせる気はさらさらなかったのだ。
     もうひとり息子が出来たのだとの気持ちでいたのだが、当の小十郎は仕える気満々で二、三日黙って屋敷内の様子を見ていたかと思えば、人手の足りないところへ、するり、と入り込み仕事を請け負っていた。
     最初こそは邪慳にされることもあったが、飲み込みの早さと勤勉さは周知の事実となり、今では極当たり前に仕事が割り振られている。
     それでも輝宗が個人的に連れて来たこともあり、当主の元へ足繁く通うことも咎められず多少なりとも特別視はされている。
     以前より小十郎が殊更熱心に目を通しているのは薬学の書物で、なんの気なしに輝宗が何故かと問えば、童は大真面目な顔で自分のことは自分でどうにかする為だと返してきた。
     言われて輝宗は、なるほど、と目を見張る。妖が病気や怪我をしないというのは人の思い込みに過ぎず、実際には温泉や薬の世話になることは多々ある。だが、その薬はあくまで妖に合わせた物で人には適さない。
     幸いにも今まで病気らしい病気や怪我らしい怪我はしていないが、備えあれば憂いなしと言ったところであろう。切り傷ならば鎌鼬兄弟の持つ塗り薬が人用なので、今度少し分けて貰おうと輝宗は密かに思ったのだった。
     ただし、輝宗がその気になれば人と妖の区別なく怪我などたちどころに治してしまえるのだが、余程のことがない限りその力は使わぬよう決めている為、そのことは敢えて黙っていた。
     暫し、ぺらりぺらり、と紙を捲る乾いた音のみが室内を満たす。なかなか集中の途切れない小十郎に感心しつつ、輝宗は静かにその名を呼んだ。
    「なんでしょうか?」
     即座に顔を上げ主の言葉を待つ童に、輝宗は穏やかな声音で問いを投げかける。
    「最近、剣の稽古をしていると聞いたが、何故だい」
    「これと同じにございます」
     そう言いつつ小十郎は手中の書物に目を落とした。
    「脆弱な人の身ではありますが、有事の際に少しでもお力になれるよう、出来ることはしておきたいのです」
    「それだけか?」
     小十郎が嘘偽りを申しているとは輝宗も思ってはいない。だが、一度だけ目にした童の太刀筋に、僅かではあるが憤怒を見たのだ。
    「正直な気持ちを聞かせて欲しい。里の者達を恨めしく思ってはいないか?」
     柔らかな声音ではあるがその奥底に秘められた怜悧な物を感じ取り、小十郎は反射的に、きゅっ、と唇を引き結び背を震わせた。己がどう答えたところで慈悲深さと冷酷さを併せ持ったこの土地神の意志は覆せないであろう事は、理屈ではなく本能で理解していた。
    「今は……まだお答えできません。どうかご容赦くださいませ」
     目を伏せ頭を垂れる小十郎を前に、輝宗は「聡い子だ」と小さく漏らす。童の胸中など輝宗には手に取るようにわかる。憎み恨む気持ちもあろうが、それ以上にその小さな胸が張り裂けんばかりに激しく、ぐるぐる、と裡で渦巻いているのは、怒りではなく哀しみだ。
     それを知った上で輝宗は言葉を続ける。
    「景綱の返答如何では無に帰すもよしと思っていたが、さすがにそういうわけにはいかないか。だが、このまま何事もなかったように過ごさせるには、私の腹の虫が治まらない」
     神との繋がりを自ら断ち切った愚かな者にくれてやる慈悲などないのだと、口には出さぬが瞳の奥に、ちらちら、と見え隠れする蒼白い焔が雄弁に語っていた。
    「なに、人死にが出るようなことはしないから、そんな顔をするな」
     小十郎自身は己がどのような表情で輝宗を見つめていたのかわからない。だが、相当情けない顔をしていたであろう事は、主の表情と口振りが教えてくれた。
    「ほんの軽い仕置きだ。それで全て赦せとは言わぬが、憎しみに囚われてはその思いがいずれ己自身を滅ぼす。それを忘れてはいけないよ」
     ゆるり、と頭を撫でてくる輝宗の顔を見つめたまま、ふと湧き上がった思いを小十郎は、おこがましい、と即座に打ち払う。
     輝宗は放逐された人の子をただ憐れに思い、この身を救ってくれたに過ぎないのだ。
     自分のために里の者に仕置きをするなど、まさかそのようなことがあるわけがないのだ。
     こうして傍に呼び言葉を掛けてくれるのも、神としての慈悲からなのだとわかっている。それでも輝宗はあまりにも優しく、酷い勘違いをしてしまいそうで、小十郎は、ゆるゆる、と首を振った。
     これまでの里での扱い故かなかなか心を開かず、好意を向けられるわけがないと思い込んでいる小十郎に輝宗はやや顔を曇らせる。だが、無理強いしては生真面目な性格からして主の命令と受け取り、その心は更に頑なになってしまうだろう。
     それではいけない、と輝宗は俯く童の髪を出来る限り優しく優しく撫でる。
     純粋に好いているのだと伝わるよう思いを込め、「景綱」と名を呼べば、どこかくすぐったそうな面持ちで「はい」と小さな応えが返された。
     その反応に輝宗は眦を下げ、少しずつでもこの童が他者からの愛情を受け止められるようになれば良いと思ったのだった。


     カサ、と下生えを掻き分け、見つけた目当ての物に小十郎は迷わず手を伸ばす。
    『これは解熱作用、こっちは……なんだったかな』
     葉の形は覚えているが効能が思い出せず、うーん、と難しい顔で視界を閉ざし、懸命に開かれた書物を脳裏に描く。ぼんやり、と墨絵が浮かび上がり、添えられた文章も朧気ながら形を成してくる。
     もう少し、もう少しで思い出せる、と小十郎が更に意識を集中しようとしたその時、
    「こじゅーろー! これは食えるのか!?」
     背後から響いた幼い声に、手の届くところまできていた答えは、あっさり、と霧散したのだった。
    「……若様」
     はー、と小さな嘆息を漏らしてから振り返れば、見るからに毒々しい色の傘をもった茸を振り上げつつ、こちらへ向かって駆けてくる政宗の姿があった。
    「屋敷を抜け出してこられたのですか」
     この時間は確か舞の稽古に充てられているはずだ。そう思い小十郎が指摘すれば、政宗は一瞬、視線を泳がせるも即座に両の眼でしかと人の子を見据える。
    「おまえに着いていけばいろいろ為になると、父上が言ったのだ」
     輝宗を引っ張り出されては小十郎には反論の術はない。だが、政宗の言葉は半分は本当で半分は嘘であると、容易に想像がついた。輝宗は「時間が空いたときに」と釘を刺していたに相違ない。
     それでも来てしまったものは仕方ないと、小十郎はしっかりと政宗に向き直った。
    「俺は構いませんが、俺と一緒だとお母君のご不興を買いますよ」
     自虐でもなんでもなく事実のみを口にした小十郎だが、政宗にはことのほか堪えたらしく幼い顔を、くしゃり、と歪め、難しい顔で苦悩し始める。
    「確かに母上は人を厭うておる。だが、父上は愛しいという。どちらが正しいのか俺にはわからんのだ」
     ぐっ、と唇を引き結び真っ直ぐに小十郎を見据え、政宗は答えが与えられるのを待っている。しかし、小十郎はその問いに対する答えは持っておらず、僅かに眉尻を下げるに留めた。
    「世の中全て、黒か白か判じられる物ばかりではございません。若様はお二方がそう仰られる理由をお訊ねになったことはおありでしょうか?」
     穏やかに問うてくる人の子に政宗は、ゆるり、と頭を振った。
    「なれば双方のお話を良く聞き、若様自身がお考えになるべきかと」
    「では、こじゅうろうはどうだ」
    「は?」
     数え年は遙かに上であるはずの小竜に気を遣いつつも、この件を有耶無耶にしようとした小十郎の意図を知ってか知らずか、政宗は更に問いを重ねてくる。
    「おまえは人が好きか? 嫌いか?」
    「小十郎は、人でございますよ?」
    「承知の上だ。人だからこそ、我らには見えぬものも見えるだろう?」
     ぎらり、と双眸の奥に過ぎった鋭い光に、小十郎は我知らず息を飲んだ。己は試されているのかと瞬時に思うも、政宗が小十郎を試す理由が見つからず戸惑うばかりだ。
     だが、求められた以上、答えぬわけにはいかぬと、更に口先だけの誤魔化しは通用せぬと観念したか、小十郎はゆっくりと口を開いた。
    「先も申し上げた通り、黒か白か判じられる物ばかりではございません。特に人は情の念に左右されがちでございます故。時には判断を誤りまする」
     これ以上はどうかご容赦を、と述べる小十郎を睥睨した後、政宗は幼い顔に似合わぬ人の悪い笑みを浮かべて見せた。
    「巧く煙にまかれた気がしないでもないが、まぁ良い。おまえと話すのは小気味よいな。なるほど、父上が目を掛けているのも頷ける」
     政宗はひとりでなにやら納得顔だが、それを見て小十郎はやはり己は試されていたのかと内心で渋面を作る。
    「箸にも棒にもかからぬつまらぬ者ならば追い出してしまえと思っていたが、それはやめにする」
     さらり、と物騒なことを言い放ち気が済んだのか政宗は、さて、と辺りを、ぐるり、見回した。
    「折角来たんだ。手ぶらでは帰れないな」
     そう言うが早いか小十郎の携えてきた背負い籠を手に、蔦の絡まる木を、するする、と器用に登っていく。政宗の動きに合わせて上方を仰ぎ見れば、そこには立派な山葡萄がたわわに実っており、あれを狩って手土産に帰ろうというのだろうと得心した。
     そうこうしている間に政宗は既に、小十郎の身長の三倍は優に超えるかという高さの枝におり、下で見守る小十郎は気が気でない。いくら慣れ親しんだ地であろうとも、木々が政宗を護るべくもなく。足を滑らせようものならば地面へ真っ逆さまである。
    「無茶はなさいますな」
    「大丈夫だ。これくらいのことでいちいち……」
     騒ぎ立てるな、と続けられるはずであった政宗の言葉は、最後まで音になることはなかった。
     突如吹いた風に煽られ、軽い身体は安定を失い宙を泳ぐ。
     政宗の視界に映るのは急激に遠離る空しかなく、耳元を掠める空気を裂く音は不思議と聞こえなかった。
     代わりに届いたのは己の名を呼ぶ人の子の声であった。
     次いで身体に受けた衝撃は覚悟していた硬さではなく、それよりも遙かに痛みは少ない。瞬間的に閉じてしまった瞼を恐る恐る持ち上げれば、まず目に入ったのは麻の着物で、顔を寄せている箇所からは内側から激しく物を打ち付けるような振動を感じた。
     早鐘のように鳴り響くそれが心臓の音だと気づいたのは、頭上で緩く息を吐く音が聞こえたからであった。
    「お怪我はございませんか」
     政宗の頭を抱え込むように覆っていた掌が離れ、身体を包んでいた腕も解かれる。
    「こじゅうろう……?」
     身を起こしてみれば政宗は仰向けに転がった小十郎の上におり、間一髪のところを彼に抱きとめられたのだと知った。だが、まだ身体の出来上がっていない小十郎では支えきることが出来ず、政宗諸共天を仰ぐ結果となったのだが。
    「すまぬ。おまえこそ怪我はないか?」
     慌てて小十郎の上から退き、政宗は相手が身を起こすのを待つ。幸い小十郎にも怪我はないようで、小竜は態度には出さぬが内心で胸を撫で下ろした。
     政宗の無事を確認した小十郎は、にこり、ともせず、常と変わらぬ険しい顔のまま、はたはた、と着物を叩き「輝宗様の雷が落ちる前に戻られよ」と唇に乗せた。
     その態度にこれまでならば、澄まし顔のいけ好かない奴め、と悪態の一つも吐いたであろうが、政宗を身を挺して庇い今にも壊れそうな程に心の臓を打ち鳴らしていた事を思えば、見る目も変わろうというものだ。
     目に見えるものが全てではない。この無愛想な人の子を輝宗が愛でるのも、恐らく政宗には見えない理由があるのだと、朧気ながら思い至る。
    「おまえさっき、俺の名を呼んだな?」
     小十郎の言葉を無視して政宗がふと思い出したことを口にすれば、人の子は表情一つ動かさず「なんのことでしょうか」と返してきた。その態度に、やはりこいつはいけ好かぬ、と反射的に思うも、その声で初めて呼ばれた己の名はとても心地好かったのだと、もう呼んでもらえることはないのかと、政宗は若干惜しい気がしているのも確かであった。
    「同じ叱られるにしても、謝るのならば早い内が良うございますよ」
     地面に尻をつけたままの小十郎を見下ろし、政宗は怪訝に首を傾げる。
    「おまえは戻らないのか?」
    「俺は、まだ薬草を集め終えていませんので、それを済ませてから戻ります」
     さぁ、と促され政宗は不承不承頷くと、足を屋敷へと向けたのだった。
     途中、何度も振り返る政宗の背中が遠くなるまで小十郎はその場で、じっ、としており、ようやっと小さな背が木々の向こうへ消えた途端、詰めていた息を吐き出した。
    「……情けない」
     はー、と息を吐きつつ片手で顔を覆う。政宗の手前平気な顔をしていたが、彼を受け止めた際、無理に持ちこたえようとして無駄に力を入れたせいか、倒れたときに足を捻ってしまったのだ。
     時たま傍若無人な振る舞いを見せる小竜だが、その心根が優しいことを知っている小十郎は、彼に心配を掛けるまいと、また彼が責任を感じぬようにと、平素通りの無愛想な態度を取ったのだった。
    「さて、どうしたものか」
     空を仰ぎ、雲行きが怪しいことを知ると小十郎は、誰が見ているわけでもなし、と四つん這いで木へと寄りその根元に腰を落ち着ければ、いくらも経たぬうちに徐々に風も強まり、ゴロ、と遠雷も鳴りだした。
     これはもしや輝宗様が少し前に言っていた仕置きを始めたのか、と立ちこめる雨雲を見ながら小十郎は目を細める。そうであれば長雨は必至で、時間が経てば経つほど身動きが取れなくなる。
     我慢できぬほどの痛みではなし、ゆっくりならば進めるだろうと小十郎は意を決して立ち上がった。
     それほど遠くまで来たわけでもないというのに、屋敷への道程はこれほど遠かったであろうかと、疼く足を何度も撫でさすりつつ進んでいく。途中、ぽつり、と鼻先を雨粒が叩き、既に屋敷に着いたであろうか、と小十郎は自身のことよりも小竜の身を案じる。
     サァサァ、と降り注ぐ雨はまるで紗のようで、視界を緩慢に遮る。けぶる景色に目を細め先を見通すも、ぼんやりとしたそれは漠然とした不安を掻き立てた。
     徐々に悪くなる足場に眉を顰め、小十郎は大木の下で一旦足を止めた。
     不安を掻き立てるのは視界の悪さだけではなく、どこからともなく向けられる視線を感じたからだ。大木に背を預け、じっ、と辺りに目をこらし耳を澄ます。
     刹那、視界の端に引っ掛かった影に、はっ、と息を飲んだ。だが、かろうじて顔を向けるといった動作は見せず、目だけでそちらを窺った。
     幸い、相手の存在に気づいたことは悟られなかったようで、木々の影に身を隠しながらやってくる者の動きに変化はない。
    『人食い、か……?』
     里に居る時に何度も聞いた話だ。森に入ったはいいが戻ってこなかった者が何人も居る、と。神隠しだと言われていたが、輝宗が理由もなく人を拐かす神ではないことを小十郎は知っていた。
     だが、それを人々に告げたところで信じる者はおらず、更に奇異な目で見られるのは火を見るよりも明らかであった為、頑なに口を閉ざしたままであった。
     幾度となく森に足を踏み入れていた小十郎に好意的であった妖は、人食いが近づけばそれとなく注意を促し彼を逃がしてくれていた。その為、小十郎は人食いの姿を見たことがない。それでも迫る気配は身の毛もよだつほどに禍々しく凶暴で、はっきりと視界に捉えるまでもなくそれであると知れた。
     早まる鼓動を抑えるように胸の上で着物を、ぎゅっ、と握り締める。取り乱しては駄目だと己に言い聞かせ、小十郎は数度深呼吸をした後、痛む足を叱咤して再び歩き出した。
     とにかくお屋敷まで辿り着けば生き長らえる事が出来るのだと、じわじわ、と距離を詰めてくる背後の気配に首筋の産毛が逆立つのを感じながら、ただひたすらに足を動かす。
     ここで助けを求めて大声を上げれば、途端に喰い殺されるのは目に見えていた。
     強まる雨脚に焦りが出たか、はたまた血生臭い息遣いがすぐ背後から迫る錯覚に恐怖心が煽られたか、小十郎の足運びは無意識のうちに早くなり、吐き出す呼気も荒さを増す。
     気がつけば歯の根が、カチカチ、と鳴っており、腹の奥底から湧き上がる恐怖を抑えるのもそろそろ限界であった。
     一度自覚してしまえば震えが全身を駆け巡るのは一瞬で、もつれた足は運悪くぬかるみに取られ、あっ、と思ったときには、ばしゃり、と水飛沫を上げていた。
     泥の中で身を起こそうとするも支えについた手が滑り、再度泥水の中に突っ伏す。
     早く早く、と焦りに塗り潰された頭はそう思うばかりで、泥の中で藻掻く身体は一向に起き上がれないでいる。
    「鬼事はもう終いか?」
     嘲笑うような声が降ってきた刹那、小十郎の身体は、びくり、と竦み上がった。
     相手はわかっていたのだ。小十郎が虚勢を張って、素知らぬフリで逃げていたことを。それを承知で直ぐに襲いかかることはせずに、恐怖を押し殺して逃げる童の姿を楽しんでいたのだ。
     拾っていただいた命をこんなところで散らすのかと、己の無力さを嘆きつつ無念さから小十郎は唇を噛み締めた。


    「そっそれからどうなったでござるかッ!? 片倉殿は、片倉殿は食べられてしまったでござるかッッ!?」
     ずい、と身を乗り出してきた幸村に「それじゃここに居る俺はなんだってんだ」と小十郎が笑い、彼の隣で湯呑みを傾けていた政宗が不敵に、くい、と口角を吊り上げた。
    「そんなん決まってんだろ。俺が颯爽と駆けつけてCoolに仕留めたぜ」
     HellDragonでな! と拳を突き出し雷を前方へ放つ動作をして見せた政宗に、幸村は「さっすが政宗殿でござる!」と目を輝かせている。
    「はいはい、お喋りもいいけど竜の旦那はとっとと風呂入っちゃってよね。後がつかえてるんだから」
     各人の寝床の支度から戻ってきた佐助が、ガタガタ、と全員の膳を重ねつつ、腰の重い当主をせっつく。小十郎が怪我をして以来、すっかり世話役が板に付いたなぁ、などと政宗は感心とも呆れとも取れる眼差しでその動きを追う。
    「露天と内風呂、どっちにするの」
     小十郎と元親の湯呑みに茶を注ぎながら畳み掛けてくる佐助に、うっ、と低く呻いてから政宗は「Ah……じゃあ露天で……」と言いかけるも、あからさまにがっかりした顔を見せる幸村に気づき、ガシガシ、と後ろ頭を掻いた。
    「そんなに露天が気に入ってるならてめぇも一緒に来い、真田幸村」
    「良いのでござるか!?」
    「その方が効率いいだろ」
     誘いの言葉と共に政宗が腰を上げれば、それに遅れることなく幸村は、ぴょこん、と立ち上がり、喜色満面で政宗と並んで部屋を後にする。
    「お背中お流ししますぞ!」との威勢の良い声を遠くに聞きつつ、残った三人は顔を見合わせ、はは、と誰からともなく笑いを漏らした。
    「随分と慣れたんじゃないの、竜の旦那も」
    「まぁ、三ヶ月近く顔を突き合わせてればそれなりに、な」
     ぐっと距離が縮まったのはあの一件以降だが、大した変化だと小十郎も内心では驚いている。先も夕餉の席で幸村に昔話をせがまれ、意外なことに政宗もそれに乗ってきた為、足りない部分を補い合いつつ語って聞かせていたのだ。
    「そろそろ親離れってとこですかねぇ」
     ふふ、と目を細めて柔く口角を上げる佐助に小十郎は、なに言ってやがる、と笑み混じりに応じる。
    「政宗様は御自分の足でしっかりと立っておられる。そもそも俺が親代わりだなんておこがましいにも程があるだろ」
     ぼりぼり、と沢庵を囓り、ぐい、と湯呑みを煽る。この面子ならば酒を楽しみたいところだが、未だ傷の癒えきっていない小十郎を案じた政宗から飲酒禁止が言い渡されているのだ。
    「あーらら、知らぬは本人ばかりなりってね。竜の旦那のべったり具合は相当なモンよ? まぁ片倉の旦那も相当甘やかしてるから、アンタの傍が居心地いいのはわかるけどねぇ」
    「言ったな猿飛。それを言ったら、てめぇも相当だろうが」
     否とは言わせねぇ、と凄む小十郎と、そんなことありませんよー、と軽くかわそうとする佐助を上目に見やり、元親は呆れたように深々と息を吐いた。
    「俺から言わせりゃあ、どっちもどっちってヤツよ。見てるこっちが恥ずかしいくらい構い倒しやがって。まずはてめぇらが子離れしろっての」
     野菜が収穫できるようになるまで逗留している元親だが、朝昼晩彼らを見ていた感想がこれである。地元に戻れば元親を慕う者は多々居るが、ここまでの者はさすがに居ない。
     相手をどう言いくるめてやろうかとそればかりに策を巡らせていたふたりは、割って入ってきた第三者の意見に言葉を失い、ばつの悪い顔で互いに目を逸らした。
    「全く、不毛な言い合いしやがって。おう、それよりもさっきのアレ、実際はどうだったんだ?」
     干し芋を囓りつつ意図的に話題を変えた元親が人の悪い笑みで問えば、小十郎は黙ってそれに乗り、苦笑としか言いようのない笑みと共に「颯爽と、とはいかなかったな」と返す。
     駆けつけてくれたのは事実だが、その面はどこかで転んだのか泥に汚れ半べそ状態であった。それでも逃げ出すことなく人食いに立ち向かったのは確かで、小さな身体から放たれた雷光の美しさに小十郎は状況も忘れて目を奪われたのだ。
    「ただ、痛手は負わせたがそれだけじゃ仕留められなくてな。結局、騒ぎに気づいた屋敷の者に助けられたってワケだ。このことは政宗様には内緒な」
     力を制御しなかったのか雷一発で意識を失ってしまった政宗に、情け容赦なく振り下ろされた爪から小十郎は身を挺して小竜を護るも左頬を抉られ、右腕も失いかけた。
    「それは初耳。右手、大丈夫なの?」
    「あぁ、先代様の慈悲でな。なんの支障もねぇよ」
     輝宗の手に掛かれば傷痕一つ残すことなく完治させることなど容易かったのだが、小十郎は敢えて左頬の傷を残した。自身の身を守る事が出来ないどころか、事もあろうに政宗を危険に曝した己を戒めるためであった。
     その後、政宗は大事には至らず直ぐに意識を取り戻すも、人の子などに関わるからこのような危ない目にあうのだ、と嘆く母によりほぼ軟禁状態となり、また小十郎自身も敢えて政宗に近づく事はしなかった為、再び顔を合わせたのは随分と経ってからで、顔の傷について政宗が訊ねてくることはなかった。
    「それよりも今は左腕の心配しねぇとなぁ」
     ずっ、と茶を啜る元親の一言に小十郎は「そうだな」と静かに応える。家康に貰った薬は確かに効いており、表面はすぐに塞がったが未だ痛みは引かず、思った以上に治りが遅く焦りがないと言えば嘘になる。
     小十郎の心中を察したか佐助は極力、軽い調子で口を開いた。
    「それだけ竜の旦那の一撃が強烈だったってことでしょ。受けたのが右目の旦那じゃなかったら間違いなく真っ二つだよ」
     凄惨を極めた室内の様子を思い出したか、佐助の表情が僅かに険しくなる。死体を見たところで今更どうとも思わないが、あの光景は思い出すだけで腹の奥底が冷える。あれは最早一方的な殺戮であった。
    「あれ? それなら竜の旦那自身に治してもらえばいいんじゃないの?」
    「生憎と政宗様はそっち方面は不得手でな」
     先の話を聞いての佐助の疑問は予測済みであったか、小十郎は淀みなく言葉を返し軽く肩を竦めて見せた。
    「ふう~ん。まぁ、そこらの事情は俺の知ったこっちゃねぇしな。さて、と。じゃあ行くか右目の兄さん」
     一通り話を聞き、ぱん、と小気味よく膝を打ち立ち上がった元親を見上げ、小十郎は、なんだ? と問うように僅かに首を傾げる。
    「風呂だよ、風呂。左手うまく使えねぇんだろ。背中流してやるよ」
    「あーそれいいね。行っておいでよ片倉の旦那」
    「いや、しかし……」
     佐助は一応、客人という扱いである。ただでさえも雑務を任せてしまっているというのに、その彼より先に湯を使う事に躊躇いがあるのか、言い淀む小十郎の反応などお見通しと言わんばかりに、佐助は間髪入れずに言葉を返した。
    「いいのいいの。俺様、最後の方が気が楽だし。それより今まで気ぃ回らなくてごめんね。大変だったでしょ。じゃよろしくね鬼の旦那」
    「おう、任せとけ」
     鷹揚に請け負うや元親は座ったままの小十郎の腕を取り、ぐい、と力強く引き上げたかと思いきや、相手の懐に滑り込むように身を屈ませ、決して小さくはない身体を肩に担ぎ上げた。
    「おっ、これは貴重な光景」
     担がれるよりも担ぐことの方が多いであろう小十郎を軽々と持ち上げ、元親は足をふらつかせることなく悠然と風呂へ足を向けたのだった。
    「おい、自分で歩くから下ろせ」
    「いいからいいから。食後の軽い運動だ」
     呆れたか緩く息を吐いて口を閉ざした小十郎を横目に、ちら、と見やってから、元親は静かに口を開いた。
    「しかし兄さんよ。いつまで中途半端なままでいるつもりだい?」
     元親の顔は見えないが茶化している様子はなく、小十郎は廊下を大股に進む彼の背で闇夜に浮かぶ三日月を見上げ、さてここは素直に答えるべきか、と思案する。
     ややあっていつまでも声が返らぬ事から、漠然とした問いでは駄目かと元親は言葉を重ねた。
    「半分人のままじゃ怪我もなかなか治らねぇし、寿命なんざたかが知れてるだろ」
     独眼竜が泣くぜ? と戯けたように付け加えられたが、本心から心配してくれているのだということはわかった。
     豪放なだけではなく機微にも聡い。数多の鬼を統べる頭だとは聞いていたが、それも頷ける器のでかさである。粗野な言動とは裏腹に心は澄んだ海のように広く深いのだと、小十郎は内心で元親をそう評した。
    「元より覚悟の上だ。だが、そうだな。てめぇが言うところの子離れの時が来たら、人じゃなくなるのもいいかもしれねぇな」
     多少の寂しさがないと言えば嘘になる。だが、最良の友を得た主を嬉しく思う気持ちは本物だ。これにより政宗は心身共に更に成長し、いずれは人の子の庇護など必要なくなるであろう。
     人であることに拘り続ける小十郎の心中など、元親には理解できない。だが、そこに秘められた並々ならぬ決意を感じ取れぬほど愚かでもない。
     己の存在価値をそこに見出しているのならば、それを貫こうというのならば、外野の口出しほど野暮なものはないだろう。
    「はは、お役御免になったら俺んとこ来な」
    「なに言ってやがる。俺が生涯尽くすと決めたのは政宗様だ。それ以外の選択肢はねぇよ」
     軽口に軽口で返してきた小十郎に、ヒュウ、とひとつ口笛を吹き、元親は「独眼竜は果報者だねぇ」と大きな独り言を漏らした。


     リリ、と静かに広がる虫の声に耳を傾け、政宗は一つしかない眼で夜空を切り裂く三日月を見上げる。
    「綺麗な月でござるなぁ」
     隣で同様に夜空を見上げていた幸村が情感たっぷりに漏らせば、それに同意することなく政宗は、くつり、と喉奥を鳴らした。
    「な、なんでござるか」
     なにかおかしな事を言ったであろうか、と憤慨と困惑の混ざった珍妙な表情を見せる幸村に、政宗は更に、くつくつ、と喉を鳴らす。
    「Sorry アンタでも月を愛でるのかと驚いただけだ」
     普段の言動から月を見れば団子が食いたいと言い出すのではないかと、失礼にも思い込んでいたのだ。つい先日まで小虎の姿であったことも相まって、どうにもそぐわないと、政宗は詫びつつも笑いを納める気はないようである。
    「某にも美しいものは美しいと思う気持ちはありまする!」
     甚だ心外でござる、と頬を膨らませる幸村に再度詫びの言葉を投げ、政宗は水面に映る月を両の手で掬い上げる。
    「政宗殿は月すらも欲するのでござるか」
     その仕草を、じっ、と見据えたまま驚くほど静かに漏らされた幸村の言葉に、政宗は怪訝に片眉を跳ね上げた。
    「真田?」
     はっ、と途端に夢から覚めたような面持ちになり、幸村は焦りの滲んだ動きで左右の手を忙しなく胸の前で振った。
    「あっ、いや、深い意味はござらん。ただ、今でさえ某には想像もつかぬほど数多のものを抱えておられるというのに、更になにかを欲し手中に納めるということは、御身に負担が増すのではないかと心配になっただけで……」
    「Don't worry so.」
    「は?」
     囁きで返された理解の及ばぬ言語に幸村は隠すことなく不思議そうな顔をし、対する政宗は、にたり、と口端を引き上げると手中で揺らめく月を空へと放った。
    「誰に向かって言ってる、真田幸村。独眼竜は伊達じゃねぇぜ? You see?」
     ぐっ、と身を寄せ下から抉るように顔を覗き込んで来た政宗の吐息が唇にかかり、幸村は一瞬固まるも、縦に長い瞳孔を持つ金色に煌めく瞳が悪戯っぽく細められたこと気づき、喉元まで迫り上がっていたお決まりの「破廉恥でござる!」を懸命に飲み下す。
    「お……お戯れが過ぎますぞ」
     すーはー、と深呼吸をし極力落ち着いた声音で切り返せば、政宗は、ちっ、とつまらなそうに舌打ちをひとつ漏らし、ガシガシ、と後ろ頭を掻いた。
    「んだよ。小十郎みたいなこと言いやがって」
    「そのようなことをしょっちゅう片倉殿に言われるのも、某はどうかと思うござる」
     悪気のない至極もっともなその言葉が耳に痛いのか、渋面のまま政宗は腹いせとばかりに幸村の頬を、むにり、と摘んだ。
    「うおっ!? いひにゃりにゃにをにゃひゃるかッ!?」
    「Oh……これは良く伸びるな」
     こいつぁスゲェ、と新しい玩具を手に入れた童のように、HAHAHA、と軽快な笑い声を上げつつ、むにむに、と頬を伸ばす手を止めない政宗に、幸村も負けじと手を伸ばす。
    「まひゃむねどのこひょ、よぉぉく伸びるれござる」
     ぐいぐい、と政宗の頬を横に引きながら幸村が言い返せば、ムキになったか政宗も更に幸村の頬を引く。
    「Ha! てめぇにゃ負けるぜ!!」
    「にゃにをッ!?」
     互いに片方の頬しか掴んでいなかったがどちらからともなく両手が伸び、気づけば、ばしゃばしゃ、と湯を跳ね上げての取っ組み合い状態だ。
     虫の音など当の昔に何処かへと去り、夜の静寂に響き渡るは年甲斐もなく上がる大声ばかりで。
     それを耳に留めた元親が足を止めれば、小十郎が背中で、一体なにをやっておられるのだ政宗様は、と嘆く。
     下ろしてくれ、と低く漏らした小十郎に、今度は逆らうことなく元親は黙って膝を折った。ひた、と足裏を廊下につけた小十郎は振り返ることなく庭へと下り、未だ途切れぬ喚き声の元へと静かに進んでいく。
     その背が家屋の向こうへ曲がり見えなくなってから、元親はようやく腰を上げた。先程までの穏やかな雰囲気を瞬時に羅刹へと変じた竜の右目に、さしもの鬼も肝が冷えたらしい。
     さて、そろそろ雷が落ちるか? と身構えれば案の定、「ご自重なされよ! 政宗様ッ!!」と遠く離れた木々に眠る鳥達が一斉に飛び立つほどの大音声が闇夜に轟いたのだった。
     やや遅れて元親が露天風呂へ顔を出せば、政宗と幸村は揃って洗い場に正座させられており、二人の正面でやはり正座をしている小十郎の小言を延々と聞かされていた。
     小十郎の背後からその様子を眺めている元親に気づいたか、政宗の目が必死になにかを訴えかけてくる。
     いくら先程まで湯に浸かっていたとはいえ吹きっさらしの上、敷き詰められた冷たい石の上で正座は堪ったものではないだろう。既に慣れっこであるのか小十郎の小言を右から左へと流している政宗はともかく、真面目に正面から全てを受け止めている幸村に同情したか、元親はそろそろ仲介してやるべく口を開いた。
    「そこいらでやめてやったらどうだい、右目の兄さん。竜はともかく虎の方は今にも死にそうな顔してるじゃねぇか」
    「なっ、そんなことはござらん!」
     ふるふる、と首を振り必死に否定する幸村だが、淡々と次から次へと繰り出される小十郎の語彙の豊富さに、正直、脳みそが沸騰しかかっていたのだ。
    「それに風邪でもひかれた困るだろ」
    「そっ某はそこまでヤワではござらん!」
     悪気はないのであろうがことごとく元親の言葉を否定する幸村に、隣で政宗は小さく、Shit……、と漏らす。第三者の取りなしがあれば小十郎も引くだろうと、そう思っていただけに幸村の莫迦正直さが今はとても憎らしい。
     だが、小十郎は元親の顔を立てたか、はたまた幸村の必死さに負けたか、最後に溜め息をひとつ吐き「わかった。終いにするか」と折れた。
     なかなか役に立つじゃねぇか鬼! と政宗が内心で喝采を上げた瞬間、
    「ただし、政宗様には後ほど改めてお話がございます」
     無駄に穏やかな声音で告げられた死刑宣告に、政宗は背筋に冷たい汗が伝ったのだった。


     どうせここまで来たなら一緒に入っていけ、との政宗の言葉に甘え、冷えた身体を温め直す二人とは距離を取り、小十郎と元親も露天風呂へと身を沈める。
    「右目の兄さん、アンタが子離れするのはちぃとばかし考えた方がいいみてぇだな」
    「あぁ、全くだ……」
     やれやれ、と疲れ切った息を吐く小十郎の肩に湯を掛けてやりながら、元親は対岸に並ぶ竜と虎に目をやった。
    「でもまぁ、仲良きことは美しきかな、ってことでちょっとは大目に見てやるこった。アンタも肩の力抜きなって」
     元より返事に期待はしていなかったのか、はは、と笑いながら元親は回した腕で小十郎の肩を、ぺちぺち、と軽く叩き、「いい月だねぇ」と空を仰いだ。
     つられて顔を上げた小十郎はなにを思い出したか僅かに眦を下げ、そうだな、と小さく応える。賑やかなのも悪くはないが、主とふたりでしっとりと過ごす時間が取れないのは少々、残念に思うところだ。
     そんな二人を眇めた目で見ていた政宗だが、隣から寄越される視線に気づき問うように首を傾げた。
    「夕餉の席でお話くださった事についてでござるが、ひとつお聞きしてよろしいか?」
    「なんだ?」
    「人食いのことでござる。何人も被害にあっていたというに、何故、成敗されなかったのかと」
     大真面目な顔で馬鹿げたことを聞いてきた幸村に、政宗は開いた口が塞がらない。暫し無言で視線を交わすも、なかなか返事を寄越さない政宗に焦れたか、幸村は窺うように「政宗殿?」と名を呼んだ。
    「……それ、本気で言ってんのか?」
    「無論、本気でござる!」
     あからさまに呆れている政宗の様子に気づいていないのか、大きく頷く幸村にふざけた様子はない。どこまでお目出度い思考をしてんだ、と頭を抱えそうになるのをどうにか堪え、政宗は半眼で幸村を見やる。
    「妖が人を喰っちゃいけねぇって道理はねぇだろ」
     はー、と溜め息を吐きつつ政宗がそう漏らせば、幸村は信じられないと言わんばかりに目を見開くと、次いで口も大きく開き掛けた。
    「Stop !」
     だが、機先を制するように政宗が掌を前に突き出せば、勢いに押されたか、うぐっ、と不明瞭な呻きと共に幸村の口が閉じられる。
    「別に野放しにしてるわけじゃねぇ。人里にまで出て喰らえば当然仕置きする。だが、森は妖の領域だ。そこに迷い込んだ人をどうするかは妖次第ってことだ。人も妖も互いに侵しちゃならない領域がある。わかるか?」
    「しかし、人は妖と比べるべくもなく弱き者でござる。いや、人に限らず弱き者は力ある者が庇護するが摂理と、某はそう思っているでござる」
     凜とした眼差しを向けてくる虎に対し、竜は僅かに目を眇めただけで敢えて反論はしない。
    「そう思ってるならアンタはそうすりゃいい。なにが正しくてなにが間違ってるかなんざ、誰にも決められねぇ。だが一つ言えることは、土地神は人の味方でも妖の味方でも、ましてや正義の味方でもない、ってことだ。多少、気にくわないことはあっても判断は公平に下すぜ」
     土地神の役目はその土地が滅ばぬよう采配を振るうことだ。その為ならば如何なる犠牲を払おうとも、躊躇はない。
     だが、俺の目の黒いうちはそんな状況に陥るわけがねぇ、と政宗は不敵に笑った。
     口端を吊り上げる政宗に臆することなく、幸村は隻眼を、ひた、と見据えると静かに言葉を発する。
    「政宗殿は立派でござる」
    「は?」
     予想外の賛辞に政宗は、なにか言葉を聞き逃したのだろうか、とこれまでの会話を振り返る。
    「他者の意見を否定せず、だが己自身も曲げぬその意志の強さ。某、まっこと感服致しましたぞ!」
     ばしゃりっ、と湯を跳ね上げる勢いで政宗の手を取り、ぎゅむう、と力強く握ってくる幸村に、この馬鹿力が、と政宗は隠すことなく眉根を寄せる。
    「某はもっともっと政宗殿のことが知りとうござる!」
     誰に憚ることなく上がった幸村の声に、元親は「こいつぁ威勢がいいねぇ」と手を叩かんばかりで、恐いもの知らずなところは小虎の頃と全く変わらねぇな、と小十郎は、くつくつ、と喉を鳴らす。
    「Shit……ッ! 笑ってんじゃねぇよ小十郎!!」
     身を乗り出してくる幸村に押されて仰け反り気味のまま怒鳴る政宗の姿に、小十郎は控え目に肩を揺らし続ける。
    「小十郎ーッ!」
     助ける気皆無の己の右目に焦れたか、政宗の絶叫が夜空に響き渡ったのだった。


     竜の絶叫を聞きながら佐助は、おやおや、と肩を竦める。
    「右目の旦那といい、竜の旦那といい、ご近所迷惑ってものを考えなくちゃねぇ」
    「まぁまぁ、いいじゃないの。なんだかんだでうまくやってるみたいだし。元親のことも受け入れてくれたしね」
     ホント丸くなったよね、と微笑む慶次に遅い夕餉を出してやり、佐助は、確かにね、と同意してみせる。
    「それで、厳島の九尾はなんだって?」
     奥州に元親が到着してから一週間が経った頃、このままでは約束の品を持ち帰るのに相当時間が掛かるから毛利に説明してくれ、と元親が慶次に頼んできたのだ。
     それなら出直せばいいだろ、と慶次は喉元まで出掛かったのだが、毛利の性格からして理由はどうあれ手ぶらで戻った元親を、ちくちく、といびるに違いない、と思い、更には元を正せば自分のせいらしいので無碍に断るのも気が引け、暫し迷った後、その役を引き受けたのだった。
    「あぁ、なんかあっさりと納得したよ。正直、拍子抜けしたけど、元から奥州に行かせるのが目的で野菜は二の次ってところかな」
     焼き魚にかぶりつきながら報告をする慶次に茶を入れてやりながら、それの意味するところを考え、思い至った答えに佐助は、うわぁ、と呆れ声を上げた。
    「地味な嫌がらせだねぇ」
    「それだけ退屈してるんだろうさ。すぐに帰るつもりだったのに、なんだかんだで碁や将棋の相手させられて、今日やっと解放されたよ」
     まいったまいった、と白米をかき込みながらさほど困った様子でもない慶次に、佐助は「アンタも大概お人好しだよねぇ」と漏らす。
    「でもそんな退屈してるなら、九尾もよく帰してくれたね」
    「ん? んー、そこはほらアレだ。俺じゃ相手にならなかったってこと」
     たはは、と苦笑いをするその様で「時間の無駄であったわ」等と理不尽な言葉を頂戴したであろう事は察しがついたか、佐助は「お疲れさん」と苦笑混じりに労った。
    「ただねー、そん時、俺また余計なこと言っちゃった気がするんだよねぇ」
     ぼりぼり、と沢庵を囓りながら、つい、と目を逸らした極楽鳥に、鴉天狗は笑顔を貼り付けたまま口許を僅かに引きつらせる。
    「まさかとは思うんだけどさー、もっと強いのが居るよ、とか言っちゃったりなんかしてないよねぇ?」
     笑顔のまま得も言われぬ威圧感を放つ佐助に、慶次は手中の茶碗を膳に戻すと胡座のまま畳に両の拳をつき、ずっ、と下がったかと思いきや、迷うことなく「ごめんなさい」と頭を下げた。
    「いやぁつい、片倉さんとどっちが強いかなぁ、って言っちゃって、さ」
     大きな身体を縮こまらせ上目に佐助を見やる慶次に、はー、と溜め息を返してやれば、更に小さな声で、ぽそり、と付け加えられた。
    「多分……いや、十中八九、来るよ」
    「……俺様、知ーらないっと」
     相も変わらず聞こえてくる九尾襲来を知る由もない竜と虎の騒がしい声に、もー俺様ひとりで甲斐に帰っちゃおうかな、と佐助は遠い目をしたのだった。
    鴉と小虎と どーん、と轟音と共に上がった土煙に、ヒタヒタ、と廊下を進んでいた佐助はその足を止め、あー、と低く呻いた。
    「お館様は今日も容赦ないねぇ」
     毎日飽きもせずよくもまぁ、と本日も豪快に吹っ飛ばされたであろう小さな主を思い、やれやれ、と緩く頭を振る。
     頑丈さと根性だけは認めてやってもいいか、と手中の皿に目を落とし佐助は中庭に面した縁側へと急ぐ。
     今日はどこまで飛ばされたか知らぬが、おそらく目的地へ着く頃には腹を空かせた小虎が、今か今かと佐助を待ち受けているに違いない。
     廊下の角を曲がれば案の定、ちょん、と腰を下ろした小虎の姿がそこにはあった。
    「お待たせ旦那」
    「おぉ、佐助。待ちわびておったぞ」
     佐助の姿を認めるや、ぐぅ、と正直な腹の虫までもが従者の到着を歓迎し、佐助は苦笑するしかない。
     はいどうぞ、と山と積まれた団子と湯呑みの乗った盆を廊下へと置けば、幸村は行儀よく両の掌を合わせ「いただきます」と頭を下げた。
     むぐもぐ、と団子を頬張る幸村の隣に腰を落ち着け、佐助は着々と増えていく竹串を、ちら、と横目に見やる。
    「毎日お団子でよく飽きないよねぇ」
    「なにを言うか。佐助の作る団子は日の本一でござる」
     それがおべっかではないことを佐助は重々承知しているが、甲斐から出たことのない幸村の視野が狭いのは事実である。
    「それよりも、怪我の具合はどうなのだ」
     半分の団子を胃に収めたところでようやっと人心地ついたか、幸村は気遣うような視線と共に佐助に問いを投げてきた。
    「ん? もう大して痛みはないし、平気平気。あちらさんがくれた薬もよく効いたしね」
     先日、奥州の土地神が代替わりしたと聞き及び、信玄の命で奥州へと飛んだのだが、代替わりから日が浅いせいか血気盛んな者たちの抑えが利いておらず、よそ者だというだけでいきなり撃ち落とされたのだ。
     一対一ならば煙に巻いて離脱も可能であったが、こういった輩は徒党を組むのが定石と、まさに多勢に無勢であった。
     よその土地で揉め事は御免なんだけどねぇ、と佐助の瞳がほの暗い光を宿したその時、一条の雷が割って入ったかと思う間もなく佐助以外の者たちは地に伏していた。
     なにが巻き起こったか瞬時には理解できず、ぱちぱち、と瞬きを繰り返す佐助の目の前で、ゆらり、と身を起こしたのは、一部で竜の右目と称されている人の子であった。
     険しい表情のままに頭を下げ非礼を詫びると人の子は、このまま甲斐に帰すわけにはいかぬと独眼竜の屋敷へ佐助を連れていき、事の次第を聞いた奥州の竜も丁重な詫びの言葉と共に屋敷への滞在許可を出したのだった。
     そこで出された甘味、確かずんだ餅といったか、それが思いの外美味いもので、更にそれを作ったのが独眼竜であると知ったときの衝撃を佐助は今でも鮮烈に覚えている。
     穏健派であった先代とは打って変わり、好戦的であると聞き及んでいただけに、噂とはあてにならぬと改めて思ったのだった。
     甲斐に戻ってきてからも信玄から暫し療養が言い渡され、幸村とこうしてゆっくり言葉を交わすのも実に久しぶりであった。
    「そんなに、美味いものでござったか?」
    「うん、見た目にちょっと引いたけど、実際食べてみたら美味しいのなんのって。特に独眼竜が作ったのがもー最高だったね」
     右目の旦那のも美味しかったけど、とその時のことを反芻しているのか、ゆるり、と佐助の口元が緩む。
     滅多に本心を見せぬ従者の珍しいその様子を、じっ、と見やり、もぐ、と団子を再び口にした幸村が、そうか、と小さく漏らすも、それは団子と共に口の中で咀嚼され佐助の耳には届かなかった。


     ザッ、と茂みをかき分け疾風の如き早さで駆けつつ、佐助は辺りに目を凝らす。
     毎日欠かさず行われていた鍛錬に幸村は顔を出さず、信玄からなにか心当たりはないかと問われた際、思い当たったのが昨日の会話であった。
    「迂闊だった……」
     甘味に目のない幸村相手に、ずんだ餅を絶賛してしまったのだ。その場で食らいついてこなかったからうっかり流してしまったが、興味を持たぬはずがなかったのだ。
    「まさかひとりで奥州まで行く気なんじゃ」
     普通ならば即座に否定するのだが、相手は無駄に元気の有り余っているあの幸村だ。なにをしでかすかわからぬ恐いもの知らずなところもあり、佐助は正直、気が気でない。
     一刻も早く見つけだし連れ帰らなければ、と地を蹴る足に力がこもる。いくら甲斐の大虎の弟子とはいえ、不埒な輩はどこにでも居る。むしろ幸村を餌に、信玄に一泡吹かせてやろうと画策する者が居ないとも限らぬのだ。
    「あぁ、クソ。これじゃ埒があかない」
     完全には癒えていない傷に舌打ちをひとつし、佐助は空をきつく睨み据えた後、意を決したか黒翼を広げ一直線に舞い上がった。
     幸村がいつ屋敷を抜け出したかわからずどれだけ進んでいるか判断のつかぬ以上、こちらも全力で奥州に向かうしかないのだ。
     眼下で動くものすべてに意識を集中させ、かつてない速度で奥州の地へと飛来する。途中でその姿はついぞ発見できず、まさか既に到着しているのだろうか、と小虎の脚力を舐めていたかと佐助は焦りで顔を歪めたまま奥州の地を踏んだ。
     先日、世話になったばかりの屋敷の門前へと足を進めれば、鍬を肩に担いだままの竜の右目が待っており、佐助は耳の早い人の子に向かって困り笑いを浮かべながら「どーも」と意識して軽い声を出した。
    「どうした」
    「んー、いやちょっとね、人探し。ちっこいの来なかった?」
     額を伝う汗を乱暴に拭いながら問えば、「来てねぇな」とあっさり返される。
    「今日ここ(奥州)に来たよそ者はてめぇだけだ」
    「あ、あー、そうなんだ。ごめん、邪魔したね」
     心なしふらつく足元を内心で叱咤しつつ佐助は、くるり、と背を向けると、引き留める声を無視して再度飛び立ったのだった。


     奥州から甲斐へと戻る際も幸村の姿はついぞ発見できず、佐助は柄にもなく焦っている自分を自覚し、深く深く息を吐いた。
     奥州に向かったであろうというのはあくまで推測でしかないが、おそらく間違ってはいない。
     ならばどうして見つからないのか。
     冷静に考えれば答えは自ずと見えてくるもので。
     幸村は甲斐から出たことがない。
     故に奥州へと至る道を知らないのだ。
     方角を分かっているかすら怪しい。
     熱を持った翼は限界を訴えているが、ここで音を上げたら男が廃るってね、と佐助は誰が見ているわけでないにも関わらず歯を食いしばった。
     見慣れた山々を視界に捉え、その上空を旋回しつつ眷属を呼び寄せ情報収集をすれば案の定。
     奥州とはまったく別の方角に小虎の姿はあった。
     とんだ遠回りをしてしまったと、佐助は自嘲しつつも小虎の無事な姿を確認し、安堵の息を吐く。
    「旦那」
    「お、佐助。どうした?」
     きょとん、と真ん丸な目を向けてくる幸村に「どうした、じゃないでしょ」と佐助は呆れを隠そうとしない。
    「黙ってお屋敷抜け出して、お館様も俺様も超心配したんだからね」
     めっ、と額を一つ小突いてやれば、幸村は、うぉっ、と小さく呻いた後「すまなかった」と素直に頭を下げた。
    「今度からはちゃんと行き先言ってから出かけるんだよ」
     いいね? と小虎の目線に合わせるよう膝を折った佐助だが、幸村の小さな手に握られた物に気づき、思わず口を噤む。
     鴉天狗がなにを見ているのか、その視線を辿った小虎は「これか」と相手の目の前にそれを持ち上げて見せた。
    「少しでもおまえの怪我が良くなるようにと思ってな」
     薬師に聞いたのだ、と目の前で揺れる薬草を凝視したまま、佐助は言葉が出ない。
    「それから、奥州に行ってずんだ餅とやらを貰ってこようと思ったのだが……」
     そこでばつの悪い顔で目をそらしてしまった幸村に、「道がわからなくて迷子になっちゃいました、と」と佐助が冗談混じりに言い当てれば、ますます気まずい顔で頬を赤くした幸村は、観念したか小さく頷いて見せた。
    「そのずんだ餅を持って帰れば、おまえが喜ぶと思ったのだ」
    「……ちょ」
     それは予想外だった、と佐助は自然と緩む口元が抑えきれず隠すように掌で覆うと、反対の手で、くしゃくしゃ、と小虎の頭を撫で回した。
    「従者思いの主様を持って俺様、幸せ者だね」
     じゃ帰ろうか、と幸村の手を掬い上げるように握ると同時に、すっく、と立ち上がる。
     屋敷を出てから相当の時間が経っており、空は既に茜色に染まっている。小虎の腹の虫も苦情を申し立てているだろうと、「帰ったらすぐご飯にするからね」と、緩く握った手にほんの少し力を加えれば、思いの外強い力で握り返され、佐助は反射的に相手を見下ろした。
     僅かに俯いた顔は表情が伺えず、一体どうしたのかと身を屈めた佐助は、はっ、と息を飲んだ。
     つい先ほどまで、けろっ、としていた幸村は、今は眉根をきつく寄せ、ぐっ、と唇をへの字に引き結び懸命に何かに耐えている。
    「どうしたの旦那!? どっか痛いの!?」
     ひょっとしてどこか怪我でもしていてそれが痛むのだろうか、と佐助が焦った声を出せば、幸村は、ふるふる、と首を横に振り、ちがうのだ、とか細い声を出す。
    「安心したら気が抜けて、泣いてしまいそうなのだ」
     情けない、と更に唇を噛みしめる幸村だが、一度声を出してしまったせいか抑えが効かなくなり、その大きな眼からは、ぼろり、と滴が零れた。
     本当は道に迷ってとても不安だったのだ。
     このまま戻れなかったら、どうすればいいのかと。
     もう二度と敬愛する信玄にも、大切な友である佐助にも会えないのかと思っただけで、胸が押し潰されそうであった。
     だが、佐助は来てくれた。
     温かなその手が、見捨てることなく優しく自分に触れてくれた。
     それがなによりも嬉しかったのだ。
     ずっ、と鼻を啜る音はすれど必死に声を押し殺している主の気持ちを慮り、佐助は黙って暮れゆく空を見上げたのだった。

    ::::::::::

    2011.04.17
    茶田智吉 Link Message Mute
    2018/07/28 6:22:29

    【BSR】竜と小虎と

    #戦国BASARA #伊達政宗 #真田幸村 #片倉小十郎 #猿飛佐助 #前田慶次 #腐向け ##BASARA ##同人誌再録
    キャラが人外のパラレルもの。
    同人誌再録+α。
    生産工場が政小も作っていたのでそれっぽい箇所があります。
    (約8万字)

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