【BSR】ねぇ覚えてる? エントランスに並んだポストから郵便物を回収し、エレベーターが降りてくるのを待つ。毎年の事ながら父親宛の年賀状の数は多く、ずしり、とした重みに意識せず感嘆の息が漏れた。
ティン、と軽やかな音と共にエレベータの扉が開き、同様にポストへと向かうらしき住人に軽く会釈をしてから入れ替わりに乗り込む。
他に利用者の居ないエレベーター内で、手中の年賀状の宛名を指でなぞる。
それは魔法の言葉だった。
初めて唱えたその時に胸の奥でなにかが、ぱちん、と小さく弾けたことを良く覚えている。
それは特別な言葉だった。
たくさんたくさん口にしたいと思う反面、誰にも聞かせてはいけないのだと、自分だけの秘密の言葉なのだとも思った。
それはこの世で一番尊い言葉だった。
それはこの世で一番愛しい言葉だった。
それはこの世で一番綺麗な言葉だった。
──だて、まさむねさま
「だて、まさむねさま」
幼子の発した声に政宗は摘んでいた伊達巻きを取り落としそうになり、慌てて小皿へと軟着陸させた。
読める漢字の増えた我が子は、目についた単語を声に出す癖があった。今も年賀状の宛名を読み上げたに過ぎず、次いで差出人の名を口にした後、ハガキの裏にある画数の多い漢字に首を傾げている。
なんということもない光景であるにも関わらず、大きく鳴った心臓は未だ落ち着くことはない。
たった六文字。
これのせいで心中穏やかでないことなど、年賀状を手に笑い合っている妻と息子は知る由もない。
戦国乱世を駆け抜けた記憶は褪せることなく、ともすれば昨日の出来事であるかのように鮮明に思い描くことが出来る。
常に己の傍らにいた右目のことも忘れてはいない。
だが、新たな生を受け現出したこの世界には当然のことながら右目はおらず、それがどうしても我慢ならなかった幼い時分には、すぐに癇癪を起こし両親の手を焼かせたと、今だからこそ苦笑いと共に振り返ることが出来る。
いつまでも過去を引きずるなんてCoolじゃねぇな、としっかり前を見据え今を生きることに決めたのは、いつか出会うかも知れない彼に何ら恥じることなく胸を張り、今の自分を誇るためだ。
だが、過去に囚われずに生きると決めたが切り捨てられないものは確かにあり、それは捨ててはならないものであるとわかっていた。
今では結婚もし、一男を授かった。
めまぐるしく戦況の変わる乱世とは大違いの、穏やかな日々であった。手を伸ばせば優しく握り返してくれる者がおり、笑みを零せば共に笑ってくれる。
前世ではどれだけ欲しても肉親からは与えられず常に一方通行であったそれを、今生では手にすることが出来た。胸の奥から湧き上がるこの温かな物を絶やしてはならないと、かつて自分が手に出来なかったそれを惜しみなく我が子に注ぎ、愛して愛して愛し抜いた。
「はい、おとーさんのぶん」
束になった年賀状を差し出してくる小さな手に、ふっ、と笑みが零れる。
「Thanks」
年賀状を受け取ったのとは逆の手で頭を撫でてやれば、子供は、ふにゃり、と相好を崩し、なにもついていない柔らかな左の頬に指先でしきりと何度も触れた。
その仕草に再び政宗の胸が鳴る。いつの頃からか政宗には息子に対する一つの疑念があった。
だが、それを打ち明ける相手はおらず、確かめる術もないのだった。
「はい、父さんの分」
ぽすっ、と額になにか乗せられた感触に、政宗は、ゆるゆる、と瞼を持ち上げた。
「Ah……寝てたか」
空調の効いた快適な室内に、大して面白くもないテレビの新年特番の合わせ技で、すっかり寝入ってしまっていたらしい。
「さっき母さんから電話あってさ、今度ご飯でもどう?だって」
ソファに仰向けのまま年賀状を検めていた政宗は「メシねぇ……」と気怠い声を出しつつ、ちら、と息子の様子を窺う。
昼食の準備か、対面キッチンの向こうで冷蔵庫を覗き込んでいるその姿は先の夢に居た幼子ではなく、すっかりと成長した高校生のそれだ。
剣道部に所属しているからか年の割にはしっかりとした体躯で、言動も落ち着いているせいか実年齢よりも二つは上に見える。
逆に政宗は随分と若く見られがちで、親子ではなく年の離れた兄弟と間違われることが多々あった。
「なー、政景。俺、離婚しない方が良かったのかなぁ」
「なに? 寂しい?」
「いーや。おまえがいるからそんなことねーよ」
「だったらいいんじゃないの? 喧嘩別れってわけでもなかったんだし」
肉よりもやっぱ野菜だよなぁ、となにやらブツブツ言いながら難しい顔で野菜室を確認するその姿に在りし日の右目が重なり、政宗は慌てて頭を振る。
見目は全く違えども、日に日にその存在が彼に近づいている息子を、政宗は複雑な気持ちで見守るしかない。
昔から胸にある疑念。
──左利き。
──照れると左頬の見えない傷痕をなぞる癖。
──早いうちから興味を示した竜笛。
一つ一つは些細なことだが、それに共通する者を知る身としては、この先どうなるのか不安と期待がまぜこぜになり、今すぐにでも叫び出したい気分だ。
本当に彼であるのならば、これは運命なのだと政宗は思っている。
前世にて彼から注がれた愛情は温かく、政宗の心の拠り所でもあった。
彼が居たからこそ、今の自分があるのだと。
受けた愛情を、恩を返すために、彼は自分の息子として生まれたのだと。
そう思っている。
例えそうでなかったとしても、息子を愛しく思う気持ちに嘘偽りはない。かけがえのない宝なのだと、彼の幸せが己の幸せなのだと胸を張って言えるほどに、大切に思っている。
「Ah……ずんだ喰いてぇ。政景ぇ、ずんだーずんだー」
「あるわけがないでしょう」
相変わらず冷蔵庫の中身と相談をしている息子のそれは上の空の返答であったが、政宗は、がばり、と身を起こした。呆れを多分に含みつつもどこか耳に優しいそれは、昔良く聞いたものと同じ声音で。
「こ、じゅうろう……?」
堪らずその名を口にしてしまったが、こちらを向いた息子は聞こえなかったのか怪訝な顔で「なに?」と問い返してきただけであった。
「あ、いや、なんでもねぇ」
ふるり、と首を振れば政景は、そう? と軽く返し、野菜をいくつか手にするとまな板と向かい合った。
「折角の正月だって言うのに、伊達巻きぐらい買っておけば良かったかな」
「喰いたいなら俺が作る。既製品はありゃダメだ。伊達巻きってのはもっとこう……」
「はいはい」
料理が趣味の父親に掛かれば大概の物は駄目出しされてしまう為、政景は彼の蘊蓄を笑って受け流す。
ザクザク、と野菜が豪快に刻まれていく音を聞きながら、随分と慣れたなぁ、と政宗は感慨に耽る。離婚届けに合意の元で判を押し、息子の中学卒業を待ってそれまでの住居を引き払い、このマンションへ引っ越してきた。そろそろ二年になるわけだが、なにかと飲み込みが早く要領も手際もいい息子は、文句や不満の一つも言わず生活を支えてくれている。
一戸建てからマンションへの引っ越しも「部屋数が少ない方が掃除がラクだ」と、笑って受け入れてくれた。それまで庭で行っていた素振りも、秋の夜長に星を眺めつつ竜笛を奏でることも、一切出来なくなることを承知で笑ったのだ。
「ホント……出来た息子だぜ」
常に主にとっての最良の選択をしてきた誰かさんを思い出し、政宗は再度ソファへ身を沈め腕で顔を覆った。
■ ■ ■
タン、と軽やかにキーを一叩きし、政宗は、ゆるり、と肩を回した。筆が乗ったためうっかり徹夜してしまったが、そろそろ政景が起きてくる時間だ。
「時間の決まっていない仕事だからこそ規則正しく」と、事ある毎に息子の口を酸っぱくさせている政宗である。だがその姿に、記憶はなくともやはり小十郎なのだなぁ、と懐かしさで密かに胸を熱くさせているのは、ここだけの話だ。
政宗は小説家であり彼の書く時代物は描写がリアルであると評判だが、その時代を生きていた本人が書いているのだから、それは当然の結果であった。余りにも生々しいモノはさすがに控えるが、娯楽物だと割り切っている政宗は地味な事柄は脚色し、読み物として成立させる事に抵抗はない。
他にライトノベルなども手がけ、そちらは越後の軍神とその傍らにいた忍をモデルにしたラヴロマンスであり、内容のあまりのギャップにゴーストライターがいるのではないかと言われたこともあったが、「事実は小説よりもなんちゃらとはよく言ったものだ」と政宗は胸中で笑い飛ばした物だ。
お気に入りのエプロンを装着し冷蔵庫を覗き込む。今日辺り買い出しに行くか、と考えながらベーコンと卵を取り出しふと時計を見上げれば、いつもならば政景が朝の挨拶と共に顔を出す頃合いである。
だが、彼の部屋の扉が開く気配はなく、政宗は怪訝に眉を寄せた。
寝坊とは珍しいこともあるもんだ、と手にした材料を戻し、息子の部屋へと向かう。朝練のない日でも起床時間は変わらない政景だが、こう寒くては温かな寝床の誘惑に抗うのはさすがに難しいか、と政宗は呑気に喉を鳴らした。
「政景、時間過ぎてるぞ」
コンコン、とノックと共に声を掛けるも応えはなく、中で動く気配も欠片すらない。これは相当深く寝入っているのかと静かに扉を開ければ案の定、政景は未だ布団にくるまったままで、その姿に政宗は緩く眦を下げる。
寒いから起きたくない、とぐずる自分に小十郎は容赦なかったなぁ、と過去を懐かしく思うも、彼のようにいきなり布団を剥ぐのはやはり躊躇われた。
「政景」
名を呼びつつこちらに背を向けている肩を軽く揺すれば、不明瞭な呻きと共に、ゆるり、と瞼が持ち上がる。二度、三度と瞼が上下し、もそり、と仰向けになるもその動作はどこか気怠げで、政宗は窺うように息子の顔を覗き込んだ。
寝起きであることを差し引いても、とろん、とした目元と、僅かに上気した頬が示すことはひとつ。
そっ、と額に手を宛がえば予想に違わぬ熱さが伝わり、政宗は労るように政景の両の頬を掌で包んだ。
「風邪ひいちまったか。苦しくないか?」
こくん、と小さく頷いた息子の額に軽く己の額を合わせ、そのまま瞼に柔らかく唇を落とす。
「辛かったらちゃんと言えよ。おまえ昔っから強情だからな」
その昔がはたしていつのことを指すのか、政景にはわからないであろうが、自分のことは二の次で常に主君のために心を裂いていた無二の家臣を思い、政宗は僅かに口許を歪めた。
──小十郎は大丈夫ですから、政宗様はご自身の心配をなさいませ。
雪に阻まれ本陣で足止めを食い苛立つ政宗を窘めつつも、斥候や黒脛巾組からもたらされる情報を鑑みては昼夜問わず部下に指示を出す。そして敵の動きを二手三手先まで読み布陣を敷き直すなど、一体いつ休んでいるのかと思うほどの働きぶりでありながら、疲労困憊した様子は微塵も見せずにいた。
如何なる時もしゃんと伸びたその背が言葉はなくとも部下を鼓舞し、決して折れることのないその心意気が皆の心を支え、士気を高めていたことも知っている。
だからこそ政宗は部下の目がないふたりきりの時くらいは気を張ることなく休んで欲しかったのだが、小十郎は頑として聞き入れず、逆に政宗の身を案じる有様であった。
「ほんと……頑固だったよな」
政宗手製の粥を食し、とろとろ、と眠りについた政景の寝顔を見つめつつ髪を、ゆるゆる、と梳く。
息子に小十郎の姿を強く感じるようになったのは、政宗の記憶が確かであるならば離婚が決まってからだ。マンションへ越してきてからは更に顕著で、例えば執筆作業中に集中が切れ、そろそろ休憩しようかと思えば、まるで見計らったかのように扉が叩かれ、お茶とお茶菓子を手に「一息入れれば?」と労ってくれる。その姿は書状の書き損じが増える頃合いに「一息入れませぬか」と静かに提案してきた小十郎を彷彿とさせた。
他にも些細なことではあるが、必要な物が口には出さずとも用意されていたり、打ち合わせの日時をうっかり忘れていても、会話の中にさり気なく織り込んで思い出させてくれたりとかつての傅役さながらだ。
思えば反抗期らしきものもないまま今に至り、我が儘を聞いた覚えもない。
「今は、もっともっと甘えていいんだぞ、小十郎……」
息子を昔の名で呼び、傷のない左頬に己の左頬を寄せる。望まれればいくらでも抱き締め、頬を寄せ、Kissの雨を降らせてやりたいとも思っている。
不意に、つん、と鼻の奥が痛くなり政宗は慌てて息子の肩口に顔を埋め、それをやり過ごそうとする。
愛しさが募れば切なさも募る。
もう一度あの優しい声で名を呼んで貰いたいと、叶わぬ願いが胸を締め付けた。ずっ、と鼻を啜った音が思いの外大きく、政宗は内心で己を叱咤する。
『しっかりしろ、俺! こんなの全然Coolじゃねぇよ』
っくしょ……、と小さく漏らしたその声に応じるかのように、ぽすり、と政宗の頭に何かが触れてきた。
「……ねさま」
ぽそり、と耳元で零れ落ちた言葉に政宗は、はっ、と目を見張る。
ゆるゆる、と髪を撫でる手は遠い記憶と寸分違わず温かで、あのとき続けられた言葉は──
「──男の子が容易く泣いてはみなに笑われますぞ」
「っ!?」
一気に身を起こし眼下を見やれば、とろり、と熱に潤んだ瞳で見上げてくるその顔は政景であったが、慈愛に満ちた眼差しと少々ぎこちなく笑みを形作る唇は、紛うことなく小十郎のそれで。
「こ、じゅ……ろ……」
震える唇で必死に言葉を紡ごうとするも、はたはた、と眼窩から零れ落ちる雫がなによりも雄弁に語っており、今も忠実な従者は両の手を伸ばして主の頬や眦を拭った。
「両の目も揃われて……不動明王の御加護でございましょうな」
右目の縁を親指の腹で労るように何度も撫で、ふっ、と柔らかく笑んだ後、小十郎は静かに瞼を閉ざした。それに伴い政宗の頬に添えられていた手も、ぱたり、とベッドに落ちる。
「小十郎……?」
呼びかけれども返ってくるのは小さな寝息のみで、政宗はまるで狐に摘まれた気分である。だがしかし、ここで相手を叩き起こすわけにもいかず、悶々としたものを抱えたまま政宗は次にその瞼が開かれるのを待ったのだった。
タン、と軽やかにキーを一叩きし、政宗は、ゆるり、と肩を回した。筆が乗ったためうっかり徹夜してしまったが、そろそろ政景が起きてくる時間だ。
バレるまえに何食わぬ顔でキッチンへと向かおうとした政宗であったが、部屋の扉を開けた途端、べちり、となにか細長い物で顔面を殴打された。
「……ッぅぉッ!?」
「まーた徹夜したな。時間の決まっていない仕事だからこそ規則正しく……」
「わかったわかった」
長ネギ片手に小言を開始しようとする政景を制し、政宗は欠伸を噛み殺す。
結局、小十郎が顔を出したのはあれ一度きりで、目を覚ました政景に問うても怪訝な顔をされただけであった。
落胆しなかったと言えば嘘になるがこれで良かったのだと、今生でも自分の心配をさせては意味がないのだと、政宗は自分に言い聞かせる。
「今日、明日には仕事終わるから、そしたらドライヴ行こうな」
くしゃくしゃ、と政景の髪を撫で、デートだデート、と戯けて頬にKissをする。ひゃっ、と首を竦めた息子の反応が愉快であったか、ちゅっちゅ、と調子に乗ってKissしまくれば、再度、べちり、とネギで叩かれた。
「あっ朝から……ご自重なされよ!」
ふいっ、と顔を背け足早にその場を去っていく政景の背を見つめ、政宗は「今の……?」と放心したように呟いたのだった。
ごちそうさまでした、と行儀よく手を合わせた政景は流れるような所作で立ち上がると、空の食器をシンクへと下げそのまま洗面所へ向かった。その後ろ姿を見送った政宗は椅子に座ったまま僅かに身を屈め、テーブルの下を覗き込む。
そこにあるのは何の変哲もない学生鞄で、置き勉などしない真面目な彼らしく、適度な膨らみを見せている。
「いつもと変わらず、か」
ふむ、と顎に手をやり一人呟いた政宗は上体を起こす。本人はさして気にしていないようであるが、政景は政宗譲りのいわゆるイケメンである。加えて品行方正、文武両道とくれば親の贔屓目を差し引いても良物件だと思うのだ。
思うのだが、女っ気がまるでない。
それでも中学生の頃は、乙女にとっては一大イベントであるこの日に紙袋をいくつも下げて帰ってきたものだが、高校進学と共にパタリとなくなったのだ。
ひょっとして既に彼女が居て、それを今も内緒にしているのではないかと勘ぐったりもしたのだが、デートに出かける素振りもなく、かといって携帯で密かにストロベリートークをしているわけでもないと、月々の利用明細を見て首を傾げる日々だ。
「アレか? 堅物過ぎんのか……?」
面倒見の良さはオカン並ですよ、といつぞやに息子のクラスメイトが冗談半分で言っていたが、ティーンの感覚からすれば恋愛対象からは外れてしまうのかもしれない。
昔から統率力は抜群で羨望の眼差しは向けられていても、確かに色恋関係は縁遠かった。ただし、それに関しては政宗にも責任の一端があるのだが、敢えて考えないようにする。
うーん、と難しい顔で考察を重ねる政宗の前にはいつの間にか政景が立っていたのだが、あーでもないこーでもない、と思考を巡らせている政宗は一向に気づく様子はない。
「それじゃ、行ってきます」
どうせ次のネタでも考えているのだろう、と政景は気にも止めず鞄一つを掴むと、くるり、と踵を返した。
「あっ、あー、政景」
どこか上擦った声で名を呼ばれ怪訝に振り返れば、政宗自身どこか珍妙な顔で固まっている。言いたいことはあるのだが、実際に呼び止める気はなかったと言わんばかりの戸惑い顔である。
「どうかした?」
「Ah……いや、その、それだけでいいのか? サブバッグとかいるんじゃねぇのか……?」
普段の自信たっぷりな口調はどこへいったのか、もごもご、と不明瞭に漏らす父親に聡い息子は、ゆるり、と眦を下げ「必要ありません」と静かに返した。
「なぁ、もしかして彼女とか居たりすんの?」
まるで叱られた子供のように、おずおず、と上目遣いに問うてくる政宗の姿が余程珍しいのか、政景は一瞬目を見張るも、くつり、と喉を震わせ必死に笑いを堪える。
「いない、いないって。どうしてそうなるかな」
「だってよ、去年ひとっつもチョコ貰ってこなかったじゃねぇか。中学の頃はあんなに貰ってたのに」
編集部から転送されてきた政宗宛のチョコと合わせ、「どうすっかコレ」と親子で頭を悩ませたのもいい思い出だ。
「去年は持って帰ってこなかっただけで、いくつか貰ったよ。ただ、俺一人じゃ食べないよってその場で言って、納得した人の分だけだけど」
必ず一つは口にするがあとは部活後に皆とおいしく頂きます、と一人一人に口頭で伝えたらしい。同級生だけならいざ知らず、二年生、三年生にも同じことを言ったというのだから、とてつもない肝の座りだと、政宗は我が息子ながら惚れ惚れする。
相手の好意を無にしない最大限の譲歩で場を丸く納める手腕は、さすが智の片倉というべきか。
魂の根底は変わらないのだな、と政宗が胸を熱くさせているのを知ってか知らずか、政景は不意に、ふわり、とした笑みを浮かべて見せた。
「俺は父さんが毎年作ってくれるチョコレートケーキだけで十分だし」
今度こそ行ってきます、と時計を見上げやや慌てた様子で玄関へと向かう息子の背を、ぽかん、と見送った政宗だが、彼に言われた言葉がようやっと脳に伝達されたか、ぶぉぅわーッ! と意味不明な絶叫と共にテーブルに突っ伏した。
「ちょっまっ、なんだ、なんだ今のAngel smile……ッ! 朝からキュン死にさせる気かちくしょうッ!!」
うぉぉぉぉ……、と一人悶えていた政宗だが、ふとテーブルの上であり得ないほどの存在感を放っている包みに気づき、「あ」と間の抜けた声を上げた。
「あいつ、弁当忘れていきやがった」
今から追いかければ駅に着く前に渡せる、と腰を浮かせかけるも、政宗はなにを思ったか再び、すとん、と腰を下ろしたのだった。
学校に着き、早い段階で弁当を忘れたことに気づいた政景は、合戦に赴く心意気で財布を握り締めた。ほぼ毎日、政宗作の弁当を持ってきている為、購買には余り縁のない政景だが、そこで繰り広げられる争奪戦の凄まじさだけは知っていた。
男子校ならいざ知らず女子も居るのだからそこまで酷くはないだろうと、どこか楽観視していた彼に心優しいクラスメイトが以前、現実を見せてくれたのだ。
その際、弾き出された女子生徒を支えてやり、代わりに良く通るいい声でさほど労せずパンを買ってやったのだが、その話はここでは割愛する。ひとつ確実に言えるのは、政景の男前度が下級生女子の間で上がったと言うことだ。
それはさておき。
いざ出陣、と教室のドアを横に滑らせたその時、ズボンのポケットに入れていた携帯が着信を告げた。
『メール?』
ぱかり、と開けば送信者は自分の父親で、何事かと内容を検めた瞬間、政景は猛ダッシュを決めていた。その姿をクラスメイトは唖然と見送り、窓際にいた生徒は勢いよく正門に向かう彼の姿に気づき「足はえぇなー」と呑気な感想を漏らした。
携帯電話を握り締めたまま息も荒く目の前に現れた息子に、政宗は「早かったな」と笑いかけ、膝に手をついて呼吸を整えている政景は「な、んで、わ…ざわざ、──さまが……っ」と乱れた呼吸の下で何事かを吐き出す。
「なんでって、忘れてったからに決まってんだろ。俺の愛情がぎっしり詰まってんだからな、残さず食えよ」
ほれ、と差し出された包みは弁当というより重箱であるが、これが通常サイズである。
「あと、こっちはデザートな」
ここぞとばかりに作ったであろうデザートは恐らく生菓子で、保冷剤が入っているのか包みからは微かに、ひやり、とした冷気が漂っている。素直に受け取った政景は「ありがとうございます」と頭を下げた。
「とびきりうまいケーキ焼いて待ってるからな、まっすぐ帰って来いよ」
そう言うが早いか政景の頬を両の掌で包むと、ちゅっ、と軽く唇を啄み、政宗は車に乗り込むと上機嫌に帰って行った。
嵐のような来訪にやや疲弊するも届けられたありがたい弁当を手に教室に戻れば、「おまえの父ちゃん相変わらずだな」とクラスメイトに笑われ、更にデザートのチョコレートムースは「女避け……か?」と物議を醸したのだった。
コツコツ、と控えめなノックに政宗は手を止めることなく、おう、とやや上の空で返事をすれば、はかどってる? との軽い問いと共に政景がPCデスクの空いてる場所にティーカップと小さな皿を置いた。
それを横目で、ちら、と見やり、政宗は胸中で得心のいった声を上げる。なにやら甘い香りが、ほのかにキッチンから漂ってきていたわけだ。
「おまえも大概マメだよなぁ」
モニタから目を離さず心底感心した呟きを漏らせば、なんのことか一瞬わからなかったか、政景は小首を傾げた後、あぁ、と父親の言わんとするところを正確に捉え小さく笑みを浮かべる。
「やっぱりお返しはちゃんとしないと。貰いっぱなしは気が引けるし」
「だからって手作りクッキーはどうなんだと、おとーさんは思うわけなんだが」
「去年のおいしくなかった? 個別に買うより断然安くあがるんだけど」
むむ、と菓子皿に盛られた今年のそれを見下ろし、真面目な顔で考え込んでしまった息子に、政宗は、そうじゃない、と内心で緩く頭を振る。
去年の今頃は〆切が立て込んでおり、まさか息子がホワイトデーのお返しを手作りクッキーで全員分用意したなど、気づきもしなかったのだ。
派手さこそないが丁寧に作られたそれが、不味いわけがあろうか。いやない。
プレーンとチョコの市松状のものや、何の変哲もないただの円形であっても、作ったのが政景であるのならば、人によっては特別な意味を持つのだと言うことがどうもわかっていないらしい。
貰った数が数なだけに息子の言うことにも一理あるが、金ならいくらでも出してやる! と喉元まで出かかった言葉を、政宗は、ぐっ、と飲み下す。以前、それに近いことを口にして、こっぴどく説教されたことがあるのだ。息子に説教されるとはなんとも情けない話であるが、相手は小十郎でもあるのだと思うと、うんまぁ仕方ないか、と納得してしまうのだった。
「たとえ全部食べてもらえなくても、渡す人間が減らないわけだよなぁ」
はぁ……、とこれ見よがしに溜め息をついてみせれば、息子は暢気に「一種のお祭りだからね」と笑うばかりだ。
再度、いやそうじゃねぇから、と内心で突っ込みを入れるも政宗は、はは、と力なく笑うことで応えに変え、それでも一番に口にすることができるのは自分なのだと、どこか勝ち誇った気持ちになるのも確かであった。
どうせなら父親特権をフルに活用してやる、と一瞬、悪い笑みを浮かべたかと思いきや、前を向いたまま、ぱかっ、と口を開けた。
「あー」
続けて促すように声を上げれば、当たり前のように口元に運ばれるクッキー。
サクリ、と囓り取れば芳醇なバターの風味が広がり、自然と口元が緩む。
「ん、んまい」
もぐもぐ、と口を動かしながら首を上下させれば、口にものを入れたまま喋らない、と柔らかな声音で注意された。
「俺も政景を見習ってお返しすべきかなぁ。ファンイベントとか……」
「〆切を破らず、尚かつおもしろいものを書くのが、一番のお礼だと思うよ」
一時期、その容姿ばかりが取り上げられたこともあり、現在はあまり人前に出たがらない父を気遣ってか、息子はそう言って政宗の歯形のついたクッキーを、ぽい、と自分の口に放り込んだ。
あとで紅茶のおかわり持ってくる、と一言残して息子が出て行ってから、政宗はクッキーを摘み摘み怠けることなく黙々とキーボードを叩いている。
少女漫画などでは焦げて失敗してしまったものを無理矢理もらって「おいしいよ」などと言ったりするものだが、非の打ち所のない出来に、それはそれで寂しいものだな、などと思ってみる。
折角のホワイトデー、なにかしらイベントが欲しいと少々贅沢なことを考えていた政宗は、何気なく触れたクッキーに違和感を覚え皿の上で手を止めた。
盛られていたクッキーも半数近くが姿を消し、皿の底が見え始めている。その中でも一際目を引いたのが真ん中にあったそれで。
「……反則だろ、これは」
瞬時に熱を持った頬を隠すように片手で顔を覆いつつ、震える声を絞り出す。
他のクッキーよりも一回り小さなそれは、ひとつだけハートの形をしていたのだった。
普段余り利用しない駅に降り立ち、政景は、きょろり、と構内の表示を確認する。学生の帰宅時間と被っているからか様々な制服が目に入り、そういえばこの時間帯に出歩くのは滅多になかったな、とその光景に少々新鮮な気持ちになる。
これまでは部活に当てられていた時間だが、四月が終わる前に退部を申し出た。やめることを決意し政宗に隠すことなく理由を告げれば、父親は一瞬言葉を失うも「そうか」と頷き、無理はするな、と気遣ってくれた。
しかも顧問への退部理由の説明に悩んでいることを見抜いてか、家のことを持ち出しちまえ、と軽い調子で提案し赦してくれたことは感謝してもし足りない。
予定よりも早い主将引退に部員からは引き留める声も上がったが、それらに対して丁寧に詫びの言葉を並べ剣道部を去ったのだった。
改札口を抜け隣接した駅ビルへと入り、目的地である書店へと足を向ける。これまでどうにか、のらりくらり、とかわしてきた政宗のサイン会がとうとう現実の物となったのだ。
「例の越後の軍神と忍シリーズが第一部完結で丁度いいじゃない、って会議で押し切られてさー」と、佐助が企画書片手にぼやいていた姿は記憶に新しい。観念したか政宗も乗り気ではないまでも首を縦に振り、Webや雑誌で告知されてからは政景も学校で少々面倒臭いことになっていた。
政宗が作家であることは特に隠してもいなかったのだが、「あれが息子か」と思い出したように顔を見に来る者が俄に増え、まさか一喝して散らすわけにも行かず正直胃が痛い。クラスメイトに「今だけだって」と慰められ、はは、と引きつった笑いしか出なかった。
棚の間を擦り抜け新刊の積まれている平台へと向かえば先客の姿があり、政景は学ラン姿の高校生と思しき男と適度な距離を取って台の前で足を止める。
華やかな表紙が並ぶ中、父親の書物にはサイン会のお知らせのPOPが付いており、更に目立つよう一段高い場所へ陳列されていた。薔薇の花びらが散らされた表紙を手に取る勇気はさすがになく、内心で苦笑しつつPOPを読んでいれば、ふと横手から視線を感じ政景は顔をそちらへ向ける。
じっ、と穴が開くほどに真顔で見つめてくるのは、隣に居た先客の学生だ。今初めて相手の顔をしっかりと認識した政景は、目の前の現実に瞠目し呼吸すら止まってしまった。
一点の曇りもない真摯な眼差しでありながらどこか愛嬌があり、まるで子犬のようなくりくりとした黒目がちな眼は全く変わっていない。
「真田、か?」
こくり、と僅かに喉を上下させ声を潜めて慎重に問えば、途端、ぱぁ、と華やいだ表情は直ぐさま歓喜に打ち震えた大音声にすり替わった。
「うぉぉぉぉおおおッ! やはり政宗殿でござったかぁぁぁぁぁッ!!」
「うるせぇッ!」
相手の行動を予測していながら口を塞ぐことが間に合わなかった政景は、上げた手を迷うことなく握り拳へと変え一切の躊躇もなく焦げ茶の頭へ振り下ろした。
「場所を弁えろ! あぁクソ、ちょっと来い!!」
ざわ、とどよめく店内に居たたまれなくなり、政景は頭を押さえて蹲っている幸村の襟首を、むんず、と掴むとそのまま有無を言わせず引き摺り、早々に書店を立ち去ったのだった。
途中でようやく復活した幸村は自分の足で歩きながら「痛いでござる」と、隣の政景を恨めしそうに、じとり、と見やる。
「自業自得だ、莫迦が。それに俺は政宗様じゃねぇ」
「なんと!?」
どこかに腰を落ち着けるか、とめぼしい店を探して首を巡らせつつ政景がなんでもないことのように訂正すれば、幸村は心底驚いた顔で素っ頓狂な声を上げた。
「では、某のことを知っている貴殿は一体、いやしかしその姿は紛れもなく伊達政宗殿であって、えーと、つまり……」
目の前の情報と政景の言葉を懸命に処理しようとするも混乱は増す一方であるのか、幸村はひとしきり考え込んだ果てに、こてん、と首を傾げた。
「どちら様でござるか?」
「全然変わってなくてある意味安心したぜ」
半眼で幸村を見据え、政景は眉間に深いしわを刻んだまま、はー、と深い息を吐く。その仕草でピンときたか、幸村はおもむろに、ぽん、と手を打ち鳴らすや「あいや待たれよ、某わかり申した! 片倉殿でござるな!?」と喜色満面言い切ったのだった。
間違ってはいないが認識の仕方がどうにも釈然とせず、政景は僅かにこめかみを引きつらせるもどうにか抑え込み「そうだ」と低く肯定する。
「続きは中でな」
学生の懐具合を鑑みてファストフード店へ足を向ければ、幸村は特に異を唱えることなく政景の背に続いた。
帰宅してから夕飯を食べることを考慮しコーヒーのみを注文した政景の前では、セットを複数頼んだのか幸村はトレイ一杯の食べ物を前に行儀良く両の掌を合わせている。
「改めて確認するが『真田幸村』でいいんだな?」
豪快に嵩のあるハンバーガーにかぶりついている幸村に問えば、こくこく、と勢いよく縦に首が振られる。
「そうか。俺は今は政宗様の息子でな、『伊達政景』という……」
「ぶふほぉっ!?」
ばっ、と今度は口を押さえることに成功し、幸いにも幸村の口から噛み砕かれた物が飛び散ることはなかったが、被害にあった掌を拭いながら政景は半眼で相手を見やる。
「口ン中に物を入れたまま喋るな」
「申し訳ござらん」
ごくん、と口中の物を飲み下してから幸村は素直に頭を下げ、ちろ、と窺うように政景を上目に見る。
「見れば見るほど在りし日の政宗殿によう似ておられる。だが、やや面差しが政宗殿よりまろい」
目元が違うのでござろうか、と真剣に相違点を検分している幸村に、政景は困ったように笑んだ。初っ端から『片倉小十郎』として接してしまった以上、今更『伊達政景』として話すわけにもいかず、面倒臭ぇことになった、と無意識のうちに眉間に深いしわが寄る。
「まさかとは思うが、あの小説買ってんのか?」
「いや、某は頼まれただけでござる。新刊を買うとなにやらサイン会の整理券が貰えるとか、クラスの女子が騒いでおりまして」
その書店には帰りに寄るつもりだったからついでに買ってきても良い、と申し出たとのことであった。
「そこでまさか片倉殿とお会い出来るとは、夢にも思わなかったでござる」
僅かに目を伏せどこか寂しげな笑みを浮かべるも、はっ、と我に返ったか、これも縁でござろうか、とはにかむ幸村に政景は、きゅっ、と唇を引き結ぶ。彼の大切な従者をこの手にかけたことは、恐らく幸村も覚えている。そのことを謝罪すべきか一瞬瞳を移ろわせれば、幸村は俄に表情を引き締め「らしくないでござる」と凜とした声を発した。
「なんら卑怯なことはせず正々堂々戦った結果を詫びられては、佐助も浮かばれないでござる」
揺るぎない眼差しで言い切られ、今生でも消えることなく武士の魂が息づいていることを見せつけられたようで、政景は現在の価値観に無意識のうちに囚われている自分を内心で叱責し「すまねぇ」と短く詫びた。
「おまえ、普段もその喋り方なのか?」
これ以上この話題を続けるのは双方共に望まないだろうと、政景が別の話を振れば幸村は、きょとん、と目を丸くした後、「たまに出る程度で、普段はそんなことはござらん!」と強い否定の言葉を発した。
「今は片倉殿がお相手だからでござろうか。指摘されるまで意識してなかったでござる」
いやはやお恥ずかしい、と照れたように後ろ頭を掻く幸村だが、不意になにか気がついたか顔を上げ政景を、じっ、と見つめる。
「片倉殿も普段は違うのでござろう?」
「あ、あぁ、そうだな。だが、こっちの方がわかりやすくていいだろ」
見目がこうだしな、と軽く肩を竦めて見せる政景に幸村は一瞬、珍妙な表情を浮かべるも「確かに」と大きく頷いたのだった。
そこで一旦会話は途切れ、幸村は暫し胃に食料を送ることに専念する。もりもり、と見ている方も気持ちの良い豪快な食べっぷりに、政景の目元が知らず和らいだ。それをたまたま目にした幸村は、似ておられるがやはり政宗殿とは違うのだな、と内心で漏らす。
「片倉殿、政宗殿はご健勝でおられるか?」
かつての好敵手が気になるのは当然の流れであると、政景は突然の問いにも関わらず驚いた様子もなく首肯した。
「会いたいと、政宗様も仰るだろうな」
静かにそう告げる顔はかつての右目のもので。
今、話だけでもするか? と携帯電話を取り出した政景に、意外にも幸村は、ゆるり、と頭を振ってみせた。
「言葉を交わしたい気持ちは確かにありまする。されど、某はやはりきちんと顔を合わせて、目を見て、お話がしとうござる」
生真面目に頭を下げて辞退する幸村に政景は眦を下げ、そうか、と柔く笑む。今生でも変わらず真っ直ぐなその気質は大変好ましい物で、争う必要のない時代での再会に歓喜と安堵を覚えた。
メールアドレスと番号を交換し、ふたりが帰路に就いたのはすっかり陽が暮れてからであった。
これから帰るとの連絡を政宗に入れた際、政景のあまりの口調の違いに幸村は歩きながら飲んでいたコーラを噴き出し、激しく噎せた。政景はそれを軽く目だけで黙らせると何食わぬ顔で電話を切り、改札を抜けるや、じゃあまたな、と後ろ髪を引かれる様子もなくそれぞれ別方向の電車に乗ったのだった。
窓の外を流れる景色をただ目に映し、政景は幸村の言葉を反芻する。
「──縁、か」
政宗の息子として生まれ、己が『片倉小十郎景綱』であることを知らぬまま、この先を生きていくかも知れなかった。だが、政宗の前に猿飛佐助が現れ、そこからは正に急転直下であった。
そして過去に彼を殺め、主と離別させた自分が、佐助の主である真田幸村と再会した。この巡り合わせは、今生で彼らを引き会わせることが政景の役目なのではないかとさえ思えてくる。
「罪滅ぼし、かもなぁ……」
幸村も佐助もあれは過去のことだと割り切っている。彼ら同様、武士であった片倉小十郎は納得しているが、伊達政景の胸にはそれはしこりとして永遠にあり続けるのだ。
幸村に告げることを躊躇い、結局黙りで通してしまった佐助の存在。
今でも六文銭を大切に持っている佐助を思えば、政景の取るべき行動は自ずと知れた。
本来降りる駅を通過し、ふたつ先の駅の改札をくぐる。幸村のことを佐助に告げるだけならば電話やメールで事足りるというのに、政景は敢えて足を運ぶことを選んだ。
チャイムを鳴らし待つこと暫し。ドアスコープから来訪者を確認したか、誰何の声が上がることなく扉は開かれた。
「どうしたの?」
僅かに目を丸くしている佐助に「すまねぇな」と苦く笑んで見せれば、その口調と表情で相手がどちらであるかを察したか佐助は軽く息を飲んだ。
「ちょっと話がある」
大切なことだからこそ彼の主に倣って、きちんと顔を合わせて、目を見て、話したかったのだ。その思いが顔に出ていたか佐助の表情は引き締まり、無言で室内へと招かれた。
先に政景をソファへ座らせ、ややあってから佐助はマグカップをふたつ携えて戻ってきた。ぽすり、と政景の隣に腰を下ろし、で? と軽く相手の顔を覗き込むように首を傾げる。
「独眼竜となにかあった?」
これ以外無いだろうと極当たり前に投げられた問いに、政景が、ぽかん、と佐助を見れば、カップを口に運びかけていた佐助は「あれ? 違うの?」と心底驚いた声を寄越した。
「なんだ、てっきり竜の旦那のセクハラがヒドイからその相談かと思ったのに」
構えて損したー、と瞬時に気の抜けた佐助に向かって、政景は前振りもなく「真田に会った」と告げた。
「……え?」
「今日、真田に会った」
ゆっくりと、静かに発せられたその言葉が信じられないのか、佐助は口端を歪に吊り上げ、すぅ、と目を細める。
「ちょっと、一体なんの冗談? よりにもよってソレって全然笑えないんだけど?」
底冷えのする眼差しで政景を見据え、佐助は手にしていたカップをテーブルへと置いた。
「俺が冗談を言うと思うか?」
だが、戦の世と寸分違わぬ感情を一切殺した表情を前にしても怯むことなく、政景は射抜くような真っ直ぐな眼差しで逆に佐助を見据える。
『片倉小十郎景綱』の堅物ぶりは伊達軍の者のみならず、外にも大きく知れ渡っていた。情報収集を生業とする忍ならば、性格からそれこそ性癖に至るまで更に深く詳しいところまで知り得ていた。
確かに、冗談を言うような男ではない。
「そう……元気にしてた?」
「あぁ、全然変わってなかった」
ピリ、と張り詰めていた空気が和らぎ、互いに一言ずつ口にしてから気持ちを切り替えるようにコーヒーを口に運ぶ。
「驚いてはいたが、疑いもしねぇでよ。あれから四百年も経ってるっていうのに、まるでほんの一週間しか経っていないような自然さだった」
「素直なのが取り柄だからねぇ、ウチの旦那は」
どこかの竜と違って、と付け加えれば、一言余計だ、と軽く肘で小突かれた。
「ただ、会ったのが俺だったからかもしれねぇけどな。最初は俺を政宗様と勘違いして大騒ぎしやがったし」
書店でのことを思い出し、眉間にしわを寄せて苦く笑む政景の様子から大凡の見当は付いたか、あーうんごめんね、と佐助は幸村の代わりに謝る。
「そうね、なんだかんだで片倉の旦那には一目置いてたし。あれでも目上の者には礼儀正しいのよ」
「知ってる」
昔を思い出したか一瞬だが表情の柔くなった佐助につられ、政景も目元を和らげ囁くように言葉を唇に乗せた。
「それで、旦那には俺様のこと……」
「言っていない」
「だよね。だから、来た」
ひた、と見据えられ、政景は首肯する。
「てめぇがどうしたいのか、確認するのが筋だと思ってな」
「そいつはドーモ」
軽い口調で返してきたがその瞳はどこか落ち着かず、一所を二秒と見ていない。珍しくもあからさまに動揺している佐助を前に、政景は敢えて口を開かず静かに目を伏せ、ゆっくり、とマグカップを傾ける。
「なんかさ、少しだけ片倉の旦那の気持ち、わかった気がするわ」
トントン、と指先でこめかみを軽く叩きながら苦い声を押し出す佐助を、ちら、と横目に見やれば、声音同様に苦り切った顔をしており、政景は「そうか」と相槌を打つしかなかった。
「記憶はあっても今生では普通に暮らしてるわけでしょ? そこに俺様が現れたら過去に縛り付けるかもしれない。それまでの生活がガラッと変わっちゃうかもしれない。真田の旦那はさ、優しいから俺様を責めるようなことは言わないだろうけど、それでも今の生活を脅かすかもしれないと思うとさ、やっぱおいそれとは言えないよねぇ」
目を伏せた佐助はどこか自嘲的な笑みを浮かべており、主よりも先に逝った忍は僅かばかりの負い目と、不甲斐なさを常に抱いていたのだと知る。
「それでいいなら、俺はなにも言わねぇ」
はー、と深い溜め息と共に吐かれた政景の言葉は突き放すような物であったが、ゆうるり、と向けられた眼差しはそれとは裏腹に恩愛の込められた物で、佐助は形だけの悪態を吐こうとするも言葉を詰まらせた。
「──と、言いたいところだが、俺は真田とおまえを会わせてやりたい。これは俺の我が儘だってのはわかってる。でもな、てめぇ自身が政宗様に言ったことを忘れたわけじゃねぇだろ?『この状況がどれだけ奇跡的な確率かわかってる?』ってな」
「ちょっ、独眼竜そんなことまで話したの!?」
あちゃー、と顔を片手で覆い天井を仰いだ佐助に、政景は父親譲りの人の悪い笑みを浮かべて見せた。
「他にもいろいろと聞いたが今は不問にしとく」
「今は、ね」
コワイなーもー、といつもの調子を取り戻した佐助は僅かに眉を寄せてはいたがどうにか笑みを浮かべ、戯けたように、降参、と両手を軽く胸の辺りまで上げる。
だが、すぐにその手は力無く膝上に落ち、それに引かれるように頭が垂れた。
「旦那に、会いたいよ」
くしゃり、と泣き笑いのような表情でそう漏らす佐助の背を、ぽんぽん、と軽く叩き、政景は「真田も会いたいに決まってるだろ」と柔く笑んだ。
ずっ、と鼻を一啜りした後、佐助はそれを誤魔化すように「旦那とどこで会ったの?」と話を振ってきた。
「あ、あぁ、今度政宗様がサイン会をなされる書店を見に行って、そこで……あ」
不意に言葉を切った政景があからさまに、しまった、といった表情を見せた刹那、ブレザーのポケットから鳴り響いた軽快な音楽に、一瞬にして顔面から血の気が引いた。
「独眼竜?」
この男がこうまで狼狽える相手とくれば限られており、佐助が確認の意味を込めて問えば政景はぎこちない動作で首を縦に振る。がなり続ける電話を取るべきか、気がつかなかったフリをするべきか。どちらに転んでも良い結果にはならぬと覚悟を決めたか、政景はなるべく腕を伸ばしてから通話ボタンを押した。
「ちょっおい政景今どこだッ!?」
途端、響き渡った政宗の声に佐助は己の口を両の手で押さえ、必死に笑いを噛み殺す。だが、ぷるぷる、と震える肩は抑えきれず、政景は恨めしそうにそれを半眼で見やりつつ、恐る恐る、携帯電話を耳元へ持ってきた。
「あー、その申し訳ありません。ちょっと寄り道してまして……」
「旦那、口調、口調!」
小声で佐助が指摘するも時既に遅し。はっ、と口を押さえた政景の顔色は見る間に悪くなり、はい、はい、と電話向こうに小声で応じる姿は、まるで主人に叱られている犬のようだ。
「……はい、いえ決してそのような、はい」
ちら、と窺うように寄越された視線に、うん? と佐助が首を傾げれば、送話口を押さえた状態で政景が「すまねぇ。どうせおまえと一緒なんだろうから代われ、と仰ってるんだが」と申し訳なさそうに眉尻を下げている。
「あぁ、別に構わないよ」
頂戴、と手を伸ばせばもう一度、すまねぇ、と詫びの言葉と共に携帯電話が手渡された。
「はーい独眼竜、どうしたの?」
「どうしたもこうしたもねぇよ。『今から帰る』って電話があったのに全然帰ってこねぇから、心配して電話すりゃ出たのは小十郎だしよ」
「あぁ、だから俺様が絡んでると思ったのね」
普段はあくまで息子である『伊達政景』として日々を過ごしている事を考えれば、『片倉小十郎』の話し相手は確かに佐助しか居ない。
「ごめんねセンセー。久々のファンイベントを前にセンセーが緊張してないか、政景君に話し聞きたくてさー。無理言って来て貰っちゃった」
てへ、と可愛い子ぶる佐助に、電話向こうの政宗がなにやら悪態を吐いているのが切れ切れに聞こえてくるが、忍は全く堪えた様子もなく、のらりくらり、とかわしている。
「もーホント悪かったって。わかったわかった。ちゃんと送るから、はいはいじゃあ切るよ」
そう宣言するや政景に代わることなく佐助は、えい、と一切の躊躇なしに電話を切った。
「ま、これでとりあえずは大丈夫デショ」
はい、と携帯電話を返し佐助は「車取ってくるわ」と立ち上がるや、ぽふ、と政景の頭に軽く手をやり、「真田の旦那の話、ちゃんと聞かせてよね」と言い置いて部屋を出て行ったのだった。
キュキュッ、とサインペンを走らせ、握手をし、手渡されるプレゼントに礼を述べ、またサインペンを走らせる。
政宗の様子を少し離れた場所から並んで眺め、佐助と政景は安堵の息を吐く。
「なんというか、人前に出た時の貫禄は昔と変わらないねぇ」
「昔から御自分の立場は弁えておられるからな」
サイン会開始直前までコーヒーショップで、ぐでぐで、になっていたとは到底思えない完璧な営業スマイルにはただただ脱帽だ。
「それじゃあ、イレギュラー対応のお手並み拝見といきますか」
くつり、と佐助が人の悪い笑みを漏らせば、政景も楽しそうに喉を鳴らす。女性ファンが大半を占める中、今政宗の前に立ったのは高校生と思しき青年だ。
「よろしくお頼み申す」
正直、ロクに相手の顔を見ていなかった政宗は、そっ、と差し出された文庫と共に降ってきた声に、はっ、と弾かれたように顔を上げた。
「な、ん……」
「お久しゅうござる、政宗殿」
にかり、と真夏のひまわりを想起させる笑みを惜しげもなく晒す男を、政宗は一人しか知らない。
咄嗟に声が出ず政宗は反射的に佐助に顔を向ければ、そこには、してやったり、と言わんばかりの笑みを浮かべている男がおり、その隣に居る政景にも驚いた様子はなく、ここにきてふたりに嵌められたのだと気づく。
「Shit ……やってくれるぜ」
くっ、と口端を吊り上げた凶悪極まりない笑みは、戦場で相対していた幸村には見慣れた物であるが、作家である伊達政宗しか知らぬ者には初披露だ。野性味溢れるそれにサイン待ちをしている列や、離れた場所で見学をしているファンの間から小さいながらも悲鳴じみた歓声が上がり、あちゃー、と佐助は額を押さえる。
「上品で落ち着いた大人のイメージでやってたのに、もー台無し」
「まぁ、仕掛けたのはこっちだからな。政宗様は悪くねぇ」
しれっ、と主を擁護する出来た従者に、そーね、と返し、佐助は熱い握手を交わしているふたりの姿に目を細める。
「たくさん、話したか」
「ん、そこそこね。旦那が途中から大泣きしちゃって、それどころじゃなかったから」
あはは、と戯けた返しをする佐助を、じっ、と見上げ、政景はなにか言いかけるも、そうか、と静かに返すに留めた。
先日、政景を自宅へと送る車中で幸村に会った経緯を聞き、更にファストフード店での会話も聞いた。「真田は直接会って話したいだろうから」と政景が言うので、彼に繋ぎを頼み会う日を決めた。
そして、実際に顔を合わせれば互いに言葉は出てこず、佐助がやっと押し出した言葉は「元気だった?」というなんとも間の抜けたものになってしまった。だが、幸村は笑いもせず大真面目に「佐助も元気そうでなによりだ」と応えるも握った拳は小刻みに震えており、一瞬、ひくり、と喉を震わせたかと思いきや、くしゃり、と顔を歪め、一も二もなく佐助の胸に突っ込んできたのだった。
どうにかその突撃に耐えた佐助は昔と変わらぬ癖毛を見下ろし、宥めるようにその背を、ぽんぽん、と軽く叩いてやる。
「しくじっちゃってごめんね、旦那」
「謝る、なッ!」
嗚咽を漏らすまいと必死に歯を食いしばる幸村の肩は時折、ひくり、と跳ね、それを誤魔化すように更に顔を押しつけてくるかつての主が、たまらなく愛しいと改めて思えた。
「今生でも旦那は強い子で、俺様安心した」
ぽろり、と佐助の口から零れ落ちた言葉に、政景は一瞬目を見張るも敢えてなにも言わず、こちらへ向かってくる幸村に軽く手を上げて見せたのだった。
ゆらり、と風にそよぐカーテンを視界の隅に納め、政宗は緩く息を吐く。視線の先にはベッドに横になっている息子の姿があり、床には掛け布団から剥がされたカバーがわだかまっている。
掃除をするから、と早い時間に部屋を追い出され、仕方なしに時間を潰して帰ってみればこれである。だが、窓の向こうを見やればベランダの手摺りにふたり分の布団が掛けられており、ちょっと休憩と横になったら思わず寝入ってしまったと言ったところかと判断する。
「まぁ、いい天気だしな」
暑すぎず寒すぎず、とろり、と眠気を誘うには丁度良い日差しに、車を運転していた政宗も欠伸を誘われたほどだ。
なるべく揺らさぬよう静かにベッドの端に腰掛け、こちらに背を向けている政景の髪を、さらり、と梳く。
春休みの旅行後に避けられた理由は未だに判明していないが、「後生ですから」と涙目で懇願されては強く問うことも出来ず、結局はあやふやなまま季節は巡ってしまった。
この件に巻き込まれたに等しい佐助からは「甘いんだから」と棘のある言葉を頂戴したが、政宗の優先順位は変わらない。佐助の言葉など鳥のさえずりと一緒だ。だが、巻き込まれたが故に佐助もかつての主に巡り会えたということもあり、さほど追求する気はないようだ。
髪を梳いていた指を唇へと移動させ、掠める程度になぞる。
部活を辞めてから政景は、竜笛を奏でる回数が増えた。昔聞いた音色そのままの旋律に政宗が目を細めれば、政景も柔らかな笑みを浮かべる。今も昔も政宗のためだけに奏でられるその音は、彼が片倉小十郎景綱であることを一層強く知らしめた。
愛しい、と。
不意に湧き上がるその感情が常のそれと違うことに、朧気ながら政宗は気づいている。
それは力の限りに掻き抱き、貪るように奥の奥まで暴き立てる、欲にまみれた愛しさだ。
「おまえが今ここにいるだけで満足できないとか、どこまで欲張りなんだろうな、俺は」
どこか自嘲気味な呟きを漏らし、指先で柔く触れていた唇に己のそれを押し当てる。感触は記憶にあるそれとは異なっているが温かさは変わりなく、胸の奥が、ちりり、と痛んだ。
起きているときにこのようなことをすれば、息子であり忠実な家臣である彼は自分以上に胸を痛め、悩むのは目に見えている。薄く開いた唇を食むことも舌を伸ばすこともせず、政宗は名残惜しそうにそのまま身を起こす。
それでも離れがたいのか上から覗き込むように息子の寝顔を見つめていれば、ころり、と寝返りを打った政景の腕が不意に持ち上がり、まるで見えているかのように政宗の首へと伸ばされ、するり、と絡みついた。
そのまま、くっ、と引き寄せられ政宗は抗うことなく肘をつき、政景との距離を縮める。目の前で、ゆるり、と持ち上げられた瞼の下から現れた眼はどこか虚ろで、彼が未だ夢の世界の住人であると告げていた。
寝惚けているのか、と内心で苦笑しつつも、ゆるゆる、と左頬を撫でてやれば、政景は甘えるように鼻を鳴らし薄く開いた己の唇を、ちろり、と舌先で僅かに舐めた。
その仕草に政宗は瞠目し、同時に心臓が一際大きく鳴る。
それは小十郎がよく見せた無意識に口吸いを強請る仕草で、気がつけば貪るように相手の唇を塞いでいた。
ふ、と鼻から抜ける甘やかな声に、夢中で相手の舌を捕らえ柔く歯を立てる。愛撫に必死に応える熱い咥内と絡む腕の強さに軽い酩酊感を覚え、政宗は知らず口角を吊り上げる。
くちゃり、と湿った音を立て下唇を舐った瞬間、政宗を捕らえていた腕が強張ったかと思えば、狼狽えた声と共に、どん、と些か乱暴に肩を突かれた。
「なっ、え、あれ、え、えっ」
上がる息を整える余裕もなく、政景は困惑と羞恥で、カーッ、と目元を更に染めた状態で政宗を見上げる。
「だって、夢じゃ、え……」
口許を両の手で覆い混乱のままに何事かを口走る息子を見下ろし、政宗は少々意地の悪い笑みを浮かべる。
「なんだ、いつもそんなeroticな夢を見てるのか?」
「ちっちが!?」
冗談めかしてはいるが、くつり、と喉奥で笑う政宗の瞳の奥に見え隠れするものを、政景は知っている。片倉小十郎であったときに何度となく目にし、絡め取られたからだ。
ぞわり、と背骨に沿って這い上がってくる感覚に、思わずきつく目を閉じる。だが、欲を孕んだ主の眼差しに晒された身体は敏感にそれを感じ取り、意志に反して熱を上げていく。
今目を開けてはダメだと更に瞼に力を入れるも、促すように左頬を掌で撫でられれば、呆気ないほどに濡れた瞳は政宗を捉え、そして捕らえられた。
戸惑い困惑する心はそれを大きく上回る切望と歓喜に飲まれ、意識の裏側へと押しやられる。
小十郎、小十郎、と熱っぽく名を呼ばれれば、唇から零れ落ちるのは、政宗様、との掠れた声だ。
下肢で蠢く手指に息を詰めれば、やわり、と咥内に指を差し込まれ舌を弄ばれる。
主の指に歯を立てるわけにもいかず懸命に口を開いたままにすれば、 Good、と低く耳元で囁かれるも、その声音の優しさとは裏腹に体内を指のみで激しく責め立てられ、あられもない声を上げ続けた。
四肢に力が入らないのか、くたり、ともたれかかる身体を抱き締め、政宗は充足感と自己嫌悪を同時に味わう。さすがに一度も拓かれていない身体に己自身を埋めることには耐えたが、それでも無体をしたことには変わりない。
小十郎が絡むと周りが見えなくなるのは変わらず終いだと改めて実感し、深い深い息を吐く。
「悪かった」
胸の中で、ウトウト、と微睡む息子の髪を柔らかく撫でながら詫びの言葉を口にすれば、政景は何事か思案するように、んー、と喉奥で低く漏らした後、どこか躊躇いがちに唇を開いた。
「……小十郎とされることを、政宗様は望まれるのですか?」
不思議な言い回しに政宗は首を傾げるも、『父さん』ではなく『政宗様』と問うてきた意味を考え、はっ、と弾かれたように息子を見下ろす。
顔を見られたくないのか政宗の胸に額を押し当て俯くその耳は赤く染まっており、触れ合う身体からは早い鼓動が伝わってくる。
「おまえが、嫌じゃなければ」
「その言い方は……卑怯です」
ぎゅっ、と政宗の服を掴む政景の手を上から包み込み、そっ、と持ち上げると、指先に唇で柔く触れた。
「ぐずぐずに蕩けるくらい愛してやるから覚悟しとけよ」
言うが早いか指先に軽く歯を立て、びくり、と跳ねた身体を強く抱き締め、政宗は愛してる愛してると何度も耳元で繰り返したのだった。
開けたままにしておいて欲しいとそう頼み、庭に面した廊下側の障子から半分見える夜空に目を細める。今宵は弦月でありながら降る光が強い、と畳に伸びる影に目をやれば、更に影がひとつ、すぅ、と畳を這った。
このような時間にどうなされた、と窘めるような声音で問えば、静かに畳を踏み枕元へと胡座をかいた隻眼の主は、なに唯のご機嫌伺いだ、と月光に溶けるほどに厳かな声音で応じた。
昼間に来たときは良く眠っていたからな、と額に掛かった髪を指先で払い、とても良い顔をしていた、と穏やかに笑む主の口許に刻まれたしわを、じぃ、と見つめたまま、かつての傅役は、夢を見ておりました、と物語を紡ぐように唇に乗せた。
この小十郎が政宗様のお子として生を受け、貴方様の愛情を一身に受ける、大変有り難くも畏れ多い夢でございました、と歌うように告げられた夢の内容に、そいつはHappyだな、と政宗は戯けたように軽く口笛を吹く。
幸せだったか、と問えば、勿論でございます、との言葉が返り、俺はいい父親だったか、と問えば、小十郎には勿体ないほどに、と微かに震えた声が零れ落ちた。
そうか、と緩く頷き政宗は、そんな夢なら俺も見てぇな、と。それが来世なら楽しみが増えるな、と柔く柔く笑んだ。
それが来世だって言うなら俺は今を受け入れるぞ小十郎、と笑んではいるがどこか歪んだ声音で告げれば、すっかり痩せてしまった手が政宗の膝頭を軽く叩き、小十郎も楽しみでございます、と目尻のしわを深くし、それまで暫しのお暇を頂戴しとうございます、と瞼を伏せた。
すぐに会えるから安心して休め小十郎。
その言葉が届いたかは定かではないが、最期に彼は確かに政宗の名を唇に乗せ、その尊くも愛しい綺麗な名を胸に、昏く冷たい河を渡ったのだった。