イラストを魅せる。護る。究極のイラストSNS。

GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

  • 1 / 1
    しおり
    1 / 1
    しおり
    【BSR】ねぇ覚えてる? エントランスに並んだポストから郵便物を回収し、エレベーターが降りてくるのを待つ。毎年の事ながら父親宛の年賀状の数は多く、ずしり、とした重みに意識せず感嘆の息が漏れた。
     ティン、と軽やかな音と共にエレベータの扉が開き、同様にポストへと向かうらしき住人に軽く会釈をしてから入れ替わりに乗り込む。
     他に利用者の居ないエレベーター内で、手中の年賀状の宛名を指でなぞる。
     それは魔法の言葉だった。
     初めて唱えたその時に胸の奥でなにかが、ぱちん、と小さく弾けたことを良く覚えている。
     それは特別な言葉だった。
     たくさんたくさん口にしたいと思う反面、誰にも聞かせてはいけないのだと、自分だけの秘密の言葉なのだとも思った。
     それはこの世で一番尊い言葉だった。
     それはこの世で一番愛しい言葉だった。
     それはこの世で一番綺麗な言葉だった。

     ──だて、まさむねさま

    「だて、まさむねさま」
     幼子の発した声に政宗は摘んでいた伊達巻きを取り落としそうになり、慌てて小皿へと軟着陸させた。
     読める漢字の増えた我が子は、目についた単語を声に出す癖があった。今も年賀状の宛名を読み上げたに過ぎず、次いで差出人の名を口にした後、ハガキの裏にある画数の多い漢字に首を傾げている。
     なんということもない光景であるにも関わらず、大きく鳴った心臓は未だ落ち着くことはない。
     たった六文字。
     これのせいで心中穏やかでないことなど、年賀状を手に笑い合っている妻と息子は知る由もない。
     戦国乱世を駆け抜けた記憶は褪せることなく、ともすれば昨日の出来事であるかのように鮮明に思い描くことが出来る。
     常に己の傍らにいた右目のことも忘れてはいない。
     だが、新たな生を受け現出したこの世界には当然のことながら右目はおらず、それがどうしても我慢ならなかった幼い時分には、すぐに癇癪を起こし両親の手を焼かせたと、今だからこそ苦笑いと共に振り返ることが出来る。
     いつまでも過去を引きずるなんてCoolじゃねぇな、としっかり前を見据え今を生きることに決めたのは、いつか出会うかも知れない彼に何ら恥じることなく胸を張り、今の自分を誇るためだ。
     だが、過去に囚われずに生きると決めたが切り捨てられないものは確かにあり、それは捨ててはならないものであるとわかっていた。
     今では結婚もし、一男を授かった。
     めまぐるしく戦況の変わる乱世とは大違いの、穏やかな日々であった。手を伸ばせば優しく握り返してくれる者がおり、笑みを零せば共に笑ってくれる。
     前世ではどれだけ欲しても肉親からは与えられず常に一方通行であったそれを、今生では手にすることが出来た。胸の奥から湧き上がるこの温かな物を絶やしてはならないと、かつて自分が手に出来なかったそれを惜しみなく我が子に注ぎ、愛して愛して愛し抜いた。
    「はい、おとーさんのぶん」
     束になった年賀状を差し出してくる小さな手に、ふっ、と笑みが零れる。
    「Thanks」
     年賀状を受け取ったのとは逆の手で頭を撫でてやれば、子供は、ふにゃり、と相好を崩し、なにもついていない柔らかな左の頬に指先でしきりと何度も触れた。
     その仕草に再び政宗の胸が鳴る。いつの頃からか政宗には息子に対する一つの疑念があった。
     だが、それを打ち明ける相手はおらず、確かめる術もないのだった。


    「はい、父さんの分」
     ぽすっ、と額になにか乗せられた感触に、政宗は、ゆるゆる、と瞼を持ち上げた。
    「Ah……寝てたか」
     空調の効いた快適な室内に、大して面白くもないテレビの新年特番の合わせ技で、すっかり寝入ってしまっていたらしい。
    「さっき母さんから電話あってさ、今度ご飯でもどう?だって」
     ソファに仰向けのまま年賀状を検めていた政宗は「メシねぇ……」と気怠い声を出しつつ、ちら、と息子の様子を窺う。
     昼食の準備か、対面キッチンの向こうで冷蔵庫を覗き込んでいるその姿は先の夢に居た幼子ではなく、すっかりと成長した高校生のそれだ。
     剣道部に所属しているからか年の割にはしっかりとした体躯で、言動も落ち着いているせいか実年齢よりも二つは上に見える。
     逆に政宗は随分と若く見られがちで、親子ではなく年の離れた兄弟と間違われることが多々あった。
    「なー、政景。俺、離婚しない方が良かったのかなぁ」
    「なに? 寂しい?」
    「いーや。おまえがいるからそんなことねーよ」
    「だったらいいんじゃないの? 喧嘩別れってわけでもなかったんだし」
     肉よりもやっぱ野菜だよなぁ、となにやらブツブツ言いながら難しい顔で野菜室を確認するその姿に在りし日の右目が重なり、政宗は慌てて頭を振る。
     見目は全く違えども、日に日にその存在が彼に近づいている息子を、政宗は複雑な気持ちで見守るしかない。
     昔から胸にある疑念。
     ──左利き。
     ──照れると左頬の見えない傷痕をなぞる癖。
     ──早いうちから興味を示した竜笛。
     一つ一つは些細なことだが、それに共通する者を知る身としては、この先どうなるのか不安と期待がまぜこぜになり、今すぐにでも叫び出したい気分だ。
     本当に彼であるのならば、これは運命なのだと政宗は思っている。
     前世にて彼から注がれた愛情は温かく、政宗の心の拠り所でもあった。
     彼が居たからこそ、今の自分があるのだと。
     受けた愛情を、恩を返すために、彼は自分の息子として生まれたのだと。
     そう思っている。
     例えそうでなかったとしても、息子を愛しく思う気持ちに嘘偽りはない。かけがえのない宝なのだと、彼の幸せが己の幸せなのだと胸を張って言えるほどに、大切に思っている。
    「Ah……ずんだ喰いてぇ。政景ぇ、ずんだーずんだー」
    「あるわけがないでしょう」
     相変わらず冷蔵庫の中身と相談をしている息子のそれは上の空の返答であったが、政宗は、がばり、と身を起こした。呆れを多分に含みつつもどこか耳に優しいそれは、昔良く聞いたものと同じ声音で。
    「こ、じゅうろう……?」
     堪らずその名を口にしてしまったが、こちらを向いた息子は聞こえなかったのか怪訝な顔で「なに?」と問い返してきただけであった。
    「あ、いや、なんでもねぇ」
     ふるり、と首を振れば政景は、そう? と軽く返し、野菜をいくつか手にするとまな板と向かい合った。
    「折角の正月だって言うのに、伊達巻きぐらい買っておけば良かったかな」
    「喰いたいなら俺が作る。既製品はありゃダメだ。伊達巻きってのはもっとこう……」
    「はいはい」
     料理が趣味の父親に掛かれば大概の物は駄目出しされてしまう為、政景は彼の蘊蓄を笑って受け流す。
     ザクザク、と野菜が豪快に刻まれていく音を聞きながら、随分と慣れたなぁ、と政宗は感慨に耽る。離婚届けに合意の元で判を押し、息子の中学卒業を待ってそれまでの住居を引き払い、このマンションへ引っ越してきた。そろそろ二年になるわけだが、なにかと飲み込みが早く要領も手際もいい息子は、文句や不満の一つも言わず生活を支えてくれている。
     一戸建てからマンションへの引っ越しも「部屋数が少ない方が掃除がラクだ」と、笑って受け入れてくれた。それまで庭で行っていた素振りも、秋の夜長に星を眺めつつ竜笛を奏でることも、一切出来なくなることを承知で笑ったのだ。
    「ホント……出来た息子だぜ」
     常に主にとっての最良の選択をしてきた誰かさんを思い出し、政宗は再度ソファへ身を沈め腕で顔を覆った。

    ■   ■   ■

     タン、と軽やかにキーを一叩きし、政宗は、ゆるり、と肩を回した。筆が乗ったためうっかり徹夜してしまったが、そろそろ政景が起きてくる時間だ。
    「時間の決まっていない仕事だからこそ規則正しく」と、事ある毎に息子の口を酸っぱくさせている政宗である。だがその姿に、記憶はなくともやはり小十郎なのだなぁ、と懐かしさで密かに胸を熱くさせているのは、ここだけの話だ。
     政宗は小説家であり彼の書く時代物は描写がリアルであると評判だが、その時代を生きていた本人が書いているのだから、それは当然の結果であった。余りにも生々しいモノはさすがに控えるが、娯楽物だと割り切っている政宗は地味な事柄は脚色し、読み物として成立させる事に抵抗はない。
     他にライトノベルなども手がけ、そちらは越後の軍神とその傍らにいた忍をモデルにしたラヴロマンスであり、内容のあまりのギャップにゴーストライターがいるのではないかと言われたこともあったが、「事実は小説よりもなんちゃらとはよく言ったものだ」と政宗は胸中で笑い飛ばした物だ。
     お気に入りのエプロンを装着し冷蔵庫を覗き込む。今日辺り買い出しに行くか、と考えながらベーコンと卵を取り出しふと時計を見上げれば、いつもならば政景が朝の挨拶と共に顔を出す頃合いである。
     だが、彼の部屋の扉が開く気配はなく、政宗は怪訝に眉を寄せた。
     寝坊とは珍しいこともあるもんだ、と手にした材料を戻し、息子の部屋へと向かう。朝練のない日でも起床時間は変わらない政景だが、こう寒くては温かな寝床の誘惑に抗うのはさすがに難しいか、と政宗は呑気に喉を鳴らした。
    「政景、時間過ぎてるぞ」
     コンコン、とノックと共に声を掛けるも応えはなく、中で動く気配も欠片すらない。これは相当深く寝入っているのかと静かに扉を開ければ案の定、政景は未だ布団にくるまったままで、その姿に政宗は緩く眦を下げる。
     寒いから起きたくない、とぐずる自分に小十郎は容赦なかったなぁ、と過去を懐かしく思うも、彼のようにいきなり布団を剥ぐのはやはり躊躇われた。
    「政景」
     名を呼びつつこちらに背を向けている肩を軽く揺すれば、不明瞭な呻きと共に、ゆるり、と瞼が持ち上がる。二度、三度と瞼が上下し、もそり、と仰向けになるもその動作はどこか気怠げで、政宗は窺うように息子の顔を覗き込んだ。
     寝起きであることを差し引いても、とろん、とした目元と、僅かに上気した頬が示すことはひとつ。
     そっ、と額に手を宛がえば予想に違わぬ熱さが伝わり、政宗は労るように政景の両の頬を掌で包んだ。
    「風邪ひいちまったか。苦しくないか?」
     こくん、と小さく頷いた息子の額に軽く己の額を合わせ、そのまま瞼に柔らかく唇を落とす。
    「辛かったらちゃんと言えよ。おまえ昔っから強情だからな」
     その昔がはたしていつのことを指すのか、政景にはわからないであろうが、自分のことは二の次で常に主君のために心を裂いていた無二の家臣を思い、政宗は僅かに口許を歪めた。


     ──小十郎は大丈夫ですから、政宗様はご自身の心配をなさいませ。
     雪に阻まれ本陣で足止めを食い苛立つ政宗を窘めつつも、斥候や黒脛巾組からもたらされる情報を鑑みては昼夜問わず部下に指示を出す。そして敵の動きを二手三手先まで読み布陣を敷き直すなど、一体いつ休んでいるのかと思うほどの働きぶりでありながら、疲労困憊した様子は微塵も見せずにいた。
     如何なる時もしゃんと伸びたその背が言葉はなくとも部下を鼓舞し、決して折れることのないその心意気が皆の心を支え、士気を高めていたことも知っている。
     だからこそ政宗は部下の目がないふたりきりの時くらいは気を張ることなく休んで欲しかったのだが、小十郎は頑として聞き入れず、逆に政宗の身を案じる有様であった。
    「ほんと……頑固だったよな」
     政宗手製の粥を食し、とろとろ、と眠りについた政景の寝顔を見つめつつ髪を、ゆるゆる、と梳く。
     息子に小十郎の姿を強く感じるようになったのは、政宗の記憶が確かであるならば離婚が決まってからだ。マンションへ越してきてからは更に顕著で、例えば執筆作業中に集中が切れ、そろそろ休憩しようかと思えば、まるで見計らったかのように扉が叩かれ、お茶とお茶菓子を手に「一息入れれば?」と労ってくれる。その姿は書状の書き損じが増える頃合いに「一息入れませぬか」と静かに提案してきた小十郎を彷彿とさせた。
     他にも些細なことではあるが、必要な物が口には出さずとも用意されていたり、打ち合わせの日時をうっかり忘れていても、会話の中にさり気なく織り込んで思い出させてくれたりとかつての傅役さながらだ。
     思えば反抗期らしきものもないまま今に至り、我が儘を聞いた覚えもない。
    「今は、もっともっと甘えていいんだぞ、小十郎……」
     息子を昔の名で呼び、傷のない左頬に己の左頬を寄せる。望まれればいくらでも抱き締め、頬を寄せ、Kissの雨を降らせてやりたいとも思っている。
     不意に、つん、と鼻の奥が痛くなり政宗は慌てて息子の肩口に顔を埋め、それをやり過ごそうとする。
     愛しさが募れば切なさも募る。
     もう一度あの優しい声で名を呼んで貰いたいと、叶わぬ願いが胸を締め付けた。ずっ、と鼻を啜った音が思いの外大きく、政宗は内心で己を叱咤する。
    『しっかりしろ、俺! こんなの全然Coolじゃねぇよ』
     っくしょ……、と小さく漏らしたその声に応じるかのように、ぽすり、と政宗の頭に何かが触れてきた。
    「……ねさま」
     ぽそり、と耳元で零れ落ちた言葉に政宗は、はっ、と目を見張る。
     ゆるゆる、と髪を撫でる手は遠い記憶と寸分違わず温かで、あのとき続けられた言葉は──
    「──男の子が容易く泣いてはみなに笑われますぞ」
    「っ!?」
     一気に身を起こし眼下を見やれば、とろり、と熱に潤んだ瞳で見上げてくるその顔は政景であったが、慈愛に満ちた眼差しと少々ぎこちなく笑みを形作る唇は、紛うことなく小十郎のそれで。
    「こ、じゅ……ろ……」
     震える唇で必死に言葉を紡ごうとするも、はたはた、と眼窩から零れ落ちる雫がなによりも雄弁に語っており、今も忠実な従者は両の手を伸ばして主の頬や眦を拭った。
    「両の目も揃われて……不動明王の御加護でございましょうな」
     右目の縁を親指の腹で労るように何度も撫で、ふっ、と柔らかく笑んだ後、小十郎は静かに瞼を閉ざした。それに伴い政宗の頬に添えられていた手も、ぱたり、とベッドに落ちる。
    「小十郎……?」
     呼びかけれども返ってくるのは小さな寝息のみで、政宗はまるで狐に摘まれた気分である。だがしかし、ここで相手を叩き起こすわけにもいかず、悶々としたものを抱えたまま政宗は次にその瞼が開かれるのを待ったのだった。


     タン、と軽やかにキーを一叩きし、政宗は、ゆるり、と肩を回した。筆が乗ったためうっかり徹夜してしまったが、そろそろ政景が起きてくる時間だ。
     バレるまえに何食わぬ顔でキッチンへと向かおうとした政宗であったが、部屋の扉を開けた途端、べちり、となにか細長い物で顔面を殴打された。
    「……ッぅぉッ!?」
    「まーた徹夜したな。時間の決まっていない仕事だからこそ規則正しく……」
    「わかったわかった」
     長ネギ片手に小言を開始しようとする政景を制し、政宗は欠伸を噛み殺す。
     結局、小十郎が顔を出したのはあれ一度きりで、目を覚ました政景に問うても怪訝な顔をされただけであった。
     落胆しなかったと言えば嘘になるがこれで良かったのだと、今生でも自分の心配をさせては意味がないのだと、政宗は自分に言い聞かせる。
    「今日、明日には仕事終わるから、そしたらドライヴ行こうな」
     くしゃくしゃ、と政景の髪を撫で、デートだデート、と戯けて頬にKissをする。ひゃっ、と首を竦めた息子の反応が愉快であったか、ちゅっちゅ、と調子に乗ってKissしまくれば、再度、べちり、とネギで叩かれた。
    「あっ朝から……ご自重なされよ!」
     ふいっ、と顔を背け足早にその場を去っていく政景の背を見つめ、政宗は「今の……?」と放心したように呟いたのだった。
     ごちそうさまでした、と行儀よく手を合わせた政景は流れるような所作で立ち上がると、空の食器をシンクへと下げそのまま洗面所へ向かった。その後ろ姿を見送った政宗は椅子に座ったまま僅かに身を屈め、テーブルの下を覗き込む。
     そこにあるのは何の変哲もない学生鞄で、置き勉などしない真面目な彼らしく、適度な膨らみを見せている。
    「いつもと変わらず、か」
     ふむ、と顎に手をやり一人呟いた政宗は上体を起こす。本人はさして気にしていないようであるが、政景は政宗譲りのいわゆるイケメンである。加えて品行方正、文武両道とくれば親の贔屓目を差し引いても良物件だと思うのだ。
     思うのだが、女っ気がまるでない。
     それでも中学生の頃は、乙女にとっては一大イベントであるこの日に紙袋をいくつも下げて帰ってきたものだが、高校進学と共にパタリとなくなったのだ。
     ひょっとして既に彼女が居て、それを今も内緒にしているのではないかと勘ぐったりもしたのだが、デートに出かける素振りもなく、かといって携帯で密かにストロベリートークをしているわけでもないと、月々の利用明細を見て首を傾げる日々だ。
    「アレか? 堅物過ぎんのか……?」
     面倒見の良さはオカン並ですよ、といつぞやに息子のクラスメイトが冗談半分で言っていたが、ティーンの感覚からすれば恋愛対象からは外れてしまうのかもしれない。
     昔から統率力は抜群で羨望の眼差しは向けられていても、確かに色恋関係は縁遠かった。ただし、それに関しては政宗にも責任の一端があるのだが、敢えて考えないようにする。
     うーん、と難しい顔で考察を重ねる政宗の前にはいつの間にか政景が立っていたのだが、あーでもないこーでもない、と思考を巡らせている政宗は一向に気づく様子はない。
    「それじゃ、行ってきます」
     どうせ次のネタでも考えているのだろう、と政景は気にも止めず鞄一つを掴むと、くるり、と踵を返した。
    「あっ、あー、政景」
     どこか上擦った声で名を呼ばれ怪訝に振り返れば、政宗自身どこか珍妙な顔で固まっている。言いたいことはあるのだが、実際に呼び止める気はなかったと言わんばかりの戸惑い顔である。
    「どうかした?」
    「Ah……いや、その、それだけでいいのか? サブバッグとかいるんじゃねぇのか……?」
     普段の自信たっぷりな口調はどこへいったのか、もごもご、と不明瞭に漏らす父親に聡い息子は、ゆるり、と眦を下げ「必要ありません」と静かに返した。
    「なぁ、もしかして彼女とか居たりすんの?」
     まるで叱られた子供のように、おずおず、と上目遣いに問うてくる政宗の姿が余程珍しいのか、政景は一瞬目を見張るも、くつり、と喉を震わせ必死に笑いを堪える。
    「いない、いないって。どうしてそうなるかな」
    「だってよ、去年ひとっつもチョコ貰ってこなかったじゃねぇか。中学の頃はあんなに貰ってたのに」
     編集部から転送されてきた政宗宛のチョコと合わせ、「どうすっかコレ」と親子で頭を悩ませたのもいい思い出だ。
    「去年は持って帰ってこなかっただけで、いくつか貰ったよ。ただ、俺一人じゃ食べないよってその場で言って、納得した人の分だけだけど」
     必ず一つは口にするがあとは部活後に皆とおいしく頂きます、と一人一人に口頭で伝えたらしい。同級生だけならいざ知らず、二年生、三年生にも同じことを言ったというのだから、とてつもない肝の座りだと、政宗は我が息子ながら惚れ惚れする。
     相手の好意を無にしない最大限の譲歩で場を丸く納める手腕は、さすが智の片倉というべきか。
     魂の根底は変わらないのだな、と政宗が胸を熱くさせているのを知ってか知らずか、政景は不意に、ふわり、とした笑みを浮かべて見せた。
    「俺は父さんが毎年作ってくれるチョコレートケーキだけで十分だし」
     今度こそ行ってきます、と時計を見上げやや慌てた様子で玄関へと向かう息子の背を、ぽかん、と見送った政宗だが、彼に言われた言葉がようやっと脳に伝達されたか、ぶぉぅわーッ! と意味不明な絶叫と共にテーブルに突っ伏した。
    「ちょっまっ、なんだ、なんだ今のAngel smile……ッ! 朝からキュン死にさせる気かちくしょうッ!!」
    うぉぉぉぉ……、と一人悶えていた政宗だが、ふとテーブルの上であり得ないほどの存在感を放っている包みに気づき、「あ」と間の抜けた声を上げた。
    「あいつ、弁当忘れていきやがった」
     今から追いかければ駅に着く前に渡せる、と腰を浮かせかけるも、政宗はなにを思ったか再び、すとん、と腰を下ろしたのだった。


     学校に着き、早い段階で弁当を忘れたことに気づいた政景は、合戦に赴く心意気で財布を握り締めた。ほぼ毎日、政宗作の弁当を持ってきている為、購買には余り縁のない政景だが、そこで繰り広げられる争奪戦の凄まじさだけは知っていた。
     男子校ならいざ知らず女子も居るのだからそこまで酷くはないだろうと、どこか楽観視していた彼に心優しいクラスメイトが以前、現実を見せてくれたのだ。
     その際、弾き出された女子生徒を支えてやり、代わりに良く通るいい声でさほど労せずパンを買ってやったのだが、その話はここでは割愛する。ひとつ確実に言えるのは、政景の男前度が下級生女子の間で上がったと言うことだ。
     それはさておき。
     いざ出陣、と教室のドアを横に滑らせたその時、ズボンのポケットに入れていた携帯が着信を告げた。
    『メール?』
     ぱかり、と開けば送信者は自分の父親で、何事かと内容を検めた瞬間、政景は猛ダッシュを決めていた。その姿をクラスメイトは唖然と見送り、窓際にいた生徒は勢いよく正門に向かう彼の姿に気づき「足はえぇなー」と呑気な感想を漏らした。
     携帯電話を握り締めたまま息も荒く目の前に現れた息子に、政宗は「早かったな」と笑いかけ、膝に手をついて呼吸を整えている政景は「な、んで、わ…ざわざ、──さまが……っ」と乱れた呼吸の下で何事かを吐き出す。
    「なんでって、忘れてったからに決まってんだろ。俺の愛情がぎっしり詰まってんだからな、残さず食えよ」
     ほれ、と差し出された包みは弁当というより重箱であるが、これが通常サイズである。
    「あと、こっちはデザートな」
     ここぞとばかりに作ったであろうデザートは恐らく生菓子で、保冷剤が入っているのか包みからは微かに、ひやり、とした冷気が漂っている。素直に受け取った政景は「ありがとうございます」と頭を下げた。
    「とびきりうまいケーキ焼いて待ってるからな、まっすぐ帰って来いよ」
     そう言うが早いか政景の頬を両の掌で包むと、ちゅっ、と軽く唇を啄み、政宗は車に乗り込むと上機嫌に帰って行った。
     嵐のような来訪にやや疲弊するも届けられたありがたい弁当を手に教室に戻れば、「おまえの父ちゃん相変わらずだな」とクラスメイトに笑われ、更にデザートのチョコレートムースは「女避け……か?」と物議を醸したのだった。
     玄関の扉を開け、ただいま、と口にする前に揃えられた見慣れない靴に気づき、政景は微かに片眉を上げた。
     父親の交遊関係を把握しているわけではないが、世間一般的に言う夕飯時に他人の家に上がり込んでいるとなれば、よほど気心の知れた仲か、或いは仕事関係の人間であろうと予想する。
     隅に置かれた自分のスリッパに足を突っ込み、足音は殺さず、だが粗野にならぬよう適度な足音を立て、そっ、とリビングの扉を開いた。
    「ただいま」
     室内を控え目に覗き込み、見知らぬ明るい頭髪に向かって軽く会釈をする。政宗が返してきた「お帰り」の声に僅かに笑みを見せ、そのまま静かに扉を閉じた。
     政景の足音が遠離ったのを確認してから、政宗の正面に座する男が、ゆるり、と口を開く。
    「息子さん?」
    「あぁ」
    「ふぅ~ん……」
     扉へと顔を向けたまま何事か考えている男に、政宗は僅かに片眉を上げる。昔から何かと食えない男であったが今生でもそれは健在で、どうにも癪に障るというのが本音だ。
     前々から話は出ていたが、本日とうとう政宗の担当編集者が変わったのだ。それがまさか前世でもなにかと縁のあったこの男であるとは想像も付かず、さすがの政宗も内心動揺したのだが前担当の手前、素知らぬフリで互いに挨拶を交わしその場は何事もなくやり過ごした。
     第一の目的であった顔合わせとその他細々とした引き継ぎも済み、「もう少し話がしたいから」と政宗は新担当を引き留め、前担当は帰路に就いた。
     そして政景が帰宅するまでの間に互いが前世の記憶持ちであることを確認し合い、更に担当が変わった理由も「旦那の垂れ流す蘊蓄に対応できるのが俺様しかいなかったんだよねぇ」と、新担当である猿飛佐助の口から語られたのだった。
    「……よく、似てるねぇ」
     ぽそり、と漏らされた佐助の言葉に、回想から意識を現在へと持ってきた政宗は、にたり、と口角を吊り上げる。
    「俺に似てイイ男だろ」
    「いや、そうじゃなくてさ……右目の旦那を彷彿とさせるというか。でも、なんか掴み所がない不思議な感じだねぇ」
     顎に手を添え、とんとん、と人差し指で唇を思案げに叩く佐助に、政宗は気づけば反射的にソファから腰を浮かせていた。その反応を横目で、ちら、と見た佐助は「あれ? 当たり?」とわざとらしく目を丸くする。
     本当にいちいち癪に障る、と政宗は渋面を隠しもせず、どすん、と乱暴に元の位置へと戻ると「そうだよ、ちくしょう」と吐き捨てた。
    「あーらら、これは俺様も予想外。でもあの様子じゃなにも覚えてなさそうだね」
     これまたわざとらしく眉尻を下げてみせる佐助に、うっせ、と小さく返し、政宗は冷め切ったコーヒーに手を伸ばす。
    「でもさ、良かったじゃない」
    「あ?」
     思いも寄らぬ言葉に政宗は半眼で佐助を睨め付けるも、当の本人は痛くも痒くもないようで、飄々とした表情のまま口を開いた。
    「仮に覚えてたとしてもだよ? いくら中身が片倉の旦那でも、実の息子に手ぇ出すわけにはいかないっしょ」
     そういう仲だったんでしょ? と外部には一切漏れていなかったはずのことを、さらり、と口にし佐助もカップを手にした。佐助からしてみれば至極当然なことを言ったに過ぎず、同意の言葉が返ってくるものとばかり思っていたのだが──
    「………………」
    「……え?」
     カップに口を付けたまま、つぃ、と目を逸らした政宗の反応に表情が強張る。
    「うっそ、マジで!? いやー! 竜の旦那サイテーッ!!」
    「Shut upッ! まだなんもしてねぇよッ!!」
     キャー破廉恥ぃ! と大仰な身振りで顔を覆う佐助に、政宗は思わず立ち上がり力一杯言い返すも、残念なことにその内容はとても褒められたモノではない。
    「まだ、ねぇ」
     打って変わって、ニヤニヤ、と意地の悪い笑みを浮かべ、佐助はお茶請けにと出されたチョコレートを口に放る。
    「政景には、なんもしねぇ、よ……」
     大事な息子だ、と突っ立ったまま力無く零す政宗を、ちら、と目だけで見上げ、佐助は二つめのチョコレートに手を伸ばす。
    「でも、右目の旦那にはナニかする気満々、と。こりゃ難しいところだねぇ」
     言葉とは裏腹にさして興味なさそうに続けた佐助を、じとり、と一睨みしてから、政宗は三度腰を落ち着けた。
    「アイツな、全く覚えてないってワケじゃねぇんだ。ふとした弾みにそれらしいことを口にするんだが、どうも無意識にやってるらしくてな。言った本人、これっぽっちも気にしちゃいねぇときた」
     Ha、と自嘲じみた笑みを漏らし、政宗はソファの背もたれに力無く身を預ける。
    「どうなってんだか、正直ワケわかんねぇ」
     覚えているのに素知らぬフリをしているのか、それとも本当に自覚がないのか、どれもこれも決定打が無く、政宗はひとり悶々としたものを抱え続けている状態だ。これで期待をするなと言うのは、少々酷であるといえた。
    「全くの他人だったら、事はもっと簡単だったろうにねぇ。ホントご愁傷様」
     冷めたコーヒーをきつく眉を寄せて飲み干し、佐助は空になったカップを持ったまま、その手を政宗に向かって上げた。
    「アンタの息子としての自我と立場が確立しちゃってるからね。この状態が居心地良くて、自覚なしに過去のことにはフタをしちゃってるんじゃないの?」
     凄い溺愛ぶりだって聞いたよ、と目を細める佐助の視線を真っ向から受け止め、政宗は、きゅっ、と唇を引き結ぶ。
    「伊達政景を愛したいの? 片倉小十郎景綱を愛したいの? ねぇどっち? 独眼竜」
     感情の乗らぬ淡々とした問いに、まるで鉛を飲み込んだかのように腹の奥が、ずん、と重くなる。
     父さん、と呼ぶ政景の声。
     政宗様、と呼ぶ小十郎の声。
     そのどちらも身を震わすほどに愛しく、胸の奥を、じわり、と温かなもので満たす。
     息子が小十郎ではないかと気づいた時、遙か昔に彼から貰った愛情を返せればいいと思った。
     だが、自分のことを思い出してくれるかもしれないと、その可能性が見えてしまった今、思いの形が徐々に変化していくのを政宗自身、止められずにいた。
    「──方だ」
    「うん?」
     固く閉ざされていた唇から掠れた声が漏れ出た。
    「両方だ。どちらかなんて選べるワケがねぇ!」
     揺らぐことなく言い切った政宗の言葉が即座に理解できなかったか、佐助は、ぽかん、と間の抜けた顔でかつての奥州の竜を見つめ、ややあってから堰を切ったように笑い声を上げた。
    「や、ホント変わってないねぇ、竜の旦那は!」
     ひーひー、と腹を抱える佐助の眦には涙が滲んでいる。そこまで大笑いされる理由がわからず、政宗は口をへの字にひん曲げ「なにがおかしいんだ、猿」と低い声を響かせる。
    「二択だってのに勝手に三択にしちゃうその強引さ。いやはや当時の右目の旦那の苦労が忍ばれるよ」
     ひとしきり笑ってどうにか収まりのついた佐助は、落ちることなく溜まっていた涙を拭いながら、あーホントおもしろいねぇ、と漏らした。


     佐助が帰ってからの遅い夕飯の席には微妙な空気が流れていた。
     その原因は、むっつり、と口を噤んだままの政景で、政宗は息子の不機嫌の理由がわからず首を傾げるしかない。
    「あー、その、なんかあったのか? 恐い顔してんぞ」
     黙々と箸を動かす政景を前に意を決して政宗が口を開けば、漬け物を食んでいた息子は一瞬その動きを止めるも、直ぐさま何事もなかったかのように口内のものを咀嚼し、こくり、と嚥下した。
    「新しい担当が、どうにもイケすかねぇ……」
     サンマの骨を外しながら呟いた息子の常にない乱暴な言葉遣いに、政宗は、ごふっ、と噎せ返り、前世の因縁ハンパねぇ! と咳き込みながら思ったのだった。

    ■   ■   ■

    「百十六円です」
     ピッ、と軽いスキャニング音のあと流れるように告げられた声に、政宗は、はっ、とポケットに手を入れようとするも、隣にいた息子が既に受け皿に小銭を置いていた。
     せめてこれくらいは、と小さな袋を持ち、ありがとうございました、の声を背に、政景と並んでスーパーマーケットを後にする。
     寒い日は鍋でしょー、と佐助から政宗の携帯にかかってきたのは一時間前で。それだけならば一も二もなく切られていたが、「秘蔵の資料を持って行く代わりにご相伴に預からせろ」と言う内容であった。
     担当なんだからそれも仕事の内だろ、と政宗は冷たく返すも日頃、政景のことでなんだかんだと相談やら愚痴やらを聞いて貰っている為、白菜一玉持参で手を打ったのだった。
     顔を合わせた初日こそは不機嫌丸出しであった政景だが、一晩掛けて気持ちの折り合いをつけたか翌日には平素と変わらぬ様子であった。それ以降、何度も顔を合わせているが、お茶を出す際に軽く談笑などもしていた。
     佐助に言わせれば「公私の切り替えが巧みなのは今に始まったことではない」とのことであったが。
     なにはともあれ正面切って衝突することがないのならば、それは僥倖である。
     ほんの数分前に通った道を豆腐片手に再び歩く。先の買い物で豆腐を忘れ、とんだ二度手間だ、と苦い顔をした政宗に「散歩だと思えばいいよ」と政景は穏やかに笑ってみせた。
     ふと見上げれば夜空を切り裂くかのような三日月が細く輝いており、政宗は知らず歩みを止める。
     冬の空は高い。
     いくら手を伸ばそうとも届くはずのないそれは、昔、政宗を形作っていたものだ。
     空に輝くそれにも、頭上に戴いていたそれにも、今の自分は届かないのだ。
    『Ha……らしくねぇ』
     過去を引きずるなどCoolじゃねぇ、と割り切ったはずであった。だが、それが揺らいだのは、もしかしたら、との期待と不安──
     足を止めた政宗の隣では、息子が父親と同じように無言で夜空を見上げている。そろそろ行くか、と声を掛けようとその横顔を見下ろした瞬間、政宗は呼吸を忘れた。
     じっ、と三日月に注がれている政景の眼差しは、遙か昔に己へと向けられていたもので。
     信頼、忠誠、慈しみ、そのどれもが政宗の背を押し、彼が後ろにいたからこそ前を見続けることができたのだ。
     気づけば息子の身体は腕の中にあった。
     衝動のままに抱き締めてしまい我に返るも、政宗は肩口にある政景の髪に、そっ、と頬を寄せ、背に回した腕にほんの少しだけ力を込める。逆に後頭部に添えた右手はあくまでも添えるだけに留めた。
     普段からスキンシップ過多な政宗ではあるが、往来でのこれはさすがに拒絶されるだろうと覚悟はしていた。だからこそ身動いだ息子にどこか寂しい気持ちになりながらも、彼を閉じこめる腕を開こうとしたのだ。
     だが、その背から僅かに腕を放しても政景は身を引かず、息を詰めて見下ろす政宗の背に、逡巡に一度止まった腕が、ゆっくり、と回される。
    「少しだけ、こうしてていい……?」
     そう小さく漏らし、政景は政宗のコートの背を、ぎゅっ、と掴んだ。寄り添う身体は微かに震えており、服を隔てて尚伝わってくる鼓動もどこか速く感じ、政宗は気遣うように息子の名を呼ぶ。
    「政景? どうした、具合悪いのか?」
     顔を覗き込もうとするも政景は更に強く肩口に顔を埋め、ふるり、と首を振った。
    「大丈夫」
     大丈夫、ともう一度小さく口にして、政景は緩く息を吐く。不意に胸の奥から込み上げてきたものに息が苦しくなり、言葉にならないそれに泣きそうになった。だが、自分でも理解の出来ぬそれを父親に説明できるわけがなく、今なお溢れ続け外へと流れ出そうになるものを必死に押し止める。
     閉じこめられ、ぐるぐる、と巡るそれは、じくり、と胸を疼かせた。
     それは、愛しい愛しい、と焦がれるほどの思いであると、それが痛いほどに切なく胸を締め付けるのだと、未だ恋を知らぬ政景には知る由もなく。
     父親の温もりに安堵すると同時に酷く哀しくなり、強く抱き締めて欲しいと思うも口には出せず、ただただ縋り付くしかなかった。


     予定よりも遅れて帰宅すれば佐助は既にマンションのエントランスにおり、「遅いよー」と唇を尖らせるも、ふたりの纏う空気が普段と異なることを瞬時に察知したか、くっ、と僅かに片眉を上げるや政宗に、ずい、と白菜の入った袋を突き出した。
    「今日は帰るわ」
    「お、おぅ……」
     チクチク、と嫌味を頂戴すると思っていただけに、あっさり、と言い放った佐助に、政宗は反射的に袋を受け取りつつ不明瞭な応えを返す。
    「というわけで、資料も後日改めてってことで」
     ばちこーん、とふざけたウィンクをひとつ飛ばし、一瞬にしていつものお調子者に戻った佐助を親子は、ぽかん、と見つめるも、はっ、と我に返ったのは政宗が先であった。
    「ちょっ、まっ!? 持ってきてるならそれも置いてけ!」
    「いーやーでーすぅー」
     わざと唇を突き出し間延びした口調で政宗の神経を逆撫でしてから、佐助は、ひらり、と手を振る。
    「じゃ、またねセンセー」
     するり、と脇を通り抜ける際、ちらり、と寄越された眼差しに政景は、ひゅっ、と喉を鳴らした。鋭く抉るようなそれに、ちりり、と首の後ろを炎で炙られたかのような錯覚が生じる。更に胸の奥の奥まで見透かされたようで、知らず背筋が震えた。
     きゅっ、と唇を引き結び、遠離る背中を見据える。理屈ではなく本能が、この男に気を許してはいけないと告げたのだった。
     それは魔法の言葉だった。
     初めて唱えたその時に胸の奥でなにかが、ぱちん、と小さく弾けたことを良く覚えている。
     それは特別な言葉だった。
     たくさんたくさん口にしたいと思う反面、誰にも聞かせてはいけないのだと、自分だけの秘密の言葉なのだとも思った。
     それはこの世で一番尊い言葉だった。
     それはこの世で一番愛しい言葉だった。
     それはこの世で一番綺麗な言葉だった。

     ──だて、まさむねさま


    「手、止まってるよ」
     向かいに座った佐助の言葉に政景は、はっ、と面を上げ「すみません」と小さく詫びると、直ぐさま手中の紙の束に意識を向ける。
     書き上がったばかりの政宗の原稿を打ち出し、ふたりで赤入れ作業中なのだ。時々、信じられないような大ポカ──例えば一章丸々抜け落ちていることや、睡魔に負けたか日本語にすらなっていないなど──をやらかす為、見るに見かねた政景がストーリー展開には口を出さない約束でチェックを申し出たことが発端で、今ではすっかり作業の流れに組み込まれている。
     政宗自身は仮眠中でリビングには現在、佐助と政景しか居ない。
    「政景くんさぁ、自分の名前の由来とか聞いたことある?」
    「いいえ?」
     いきなりなんだ、と政景は顔を上げるも、問うてきた佐助は紙面から目を離さずマグカップを傾けている。
    「ふぅ~ん。『政』はおとーさんから一文字ってのはすぐわかったけど、『景』ってどっからきたのかねぇ」
     珍しい読み方だし、と続けはするものの話の内容に反して、さほど興味のなさそうな口調で淡々と言葉を連ねる佐助に、政景は僅かに眉を寄せるも気を落ち着かせるように緩く息を吐いた。
    「あ、お母さんが『景子さん』とか?」
    「違います」
     カップを卓に戻すついでに顔を上げた佐助が「閃いた」と言わんばかりの表情をするものだから、政景は呆れとも苦笑ともとれる顔で即座に否定してから互いのマグカップの中身を素早く確認し、するり、と立ち上がった。
    「新しいのいれますね」
    「悪いねぇ~」
     カップを二つ手にしてキッチンへと向かう政景の後ろ姿を横目に見やりつつ、佐助は「いやはやまいった」と内心で溜め息をつく。
     顔の造作自体は政宗に似ているが、ふとした瞬間に浮かべる表情はかつての竜の右目、片倉小十郎景綱そのものだ。先の苦笑を滲ませたそれは、遙か昔に虎の若子と竜が手合わせと称して幾度となく刃を交えた際に決まって浮かべていたものだ。
     しかも相手の動きをよく見ており、気遣いにもそつがない。それと同時に多くを語ることなく会話をも切り上げてしまうのだから、見目は違えども確かに相手はあの智将であり、やりにくいったらありゃしないというのが本音だ。
     対面キッチンの向こうで生姜入りの葛湯をいれている政景に向かって、佐助は意図的に軽く声を掛けた。
    「名前のことだけどさ、あとでおとーさんに聞いてごらんよ。名前ってのは特別なモノなんだし」
    「特別……」
     コン、と不自然な音と共に漏らされた呟きに、佐助は、おや? と片眉を上げる。手元が狂ったか、葛湯をかき混ぜていたスプーンでカップの縁を叩いてしまったらしい。彼が一体なにに動揺したのか探るようにその表情を窺うも、既に何事もなかったかのような顔でこちらに向かってきている。
     熱いですから気をつけてください、と流れるような所作で目の前に置かれたカップを佐助は暫し凝視し、政景が腰を下ろしたのを確認してからそれを手に取った。
     葛湯だなんて高校生男子が作るにはちょっと渋いんじゃないの? とからかってやりたいところだが、そのような軽口が通じるほど互いに腹を割っているわけではない為、場の空気を考慮し佐助は黙って中身を啜った。
     作業に戻った政景を盗み見ながら、そっ、と溜め息を逃がす。
     政宗には内緒でたまにこうやってカマを掛けるのだが、彼の言う通り息子の反応はイマイチで。それでも先のようになにか思わせる素振りもあり、これでは独眼竜が悶々とするのも致し方ないと、少々気の毒に思えてくる。もう少しつついてみるか、と佐助は、ちら、と壁の時計を見上げてから口を開いた。
    「よく見る夢とかない?」
     またしても寄越された問いかけに政景は、俄に首を擡げた苛立ちを散らすかのようにペン先で、とん、と紙面を軽く一叩きしてから、ゆうるり、と顔を上げた。
    「集中切れました?」
    「んー、まぁそんなところ」
     へらり、と緩い笑みを浮かべる佐助に困ったような笑みを返し、政景は紙の束を膝に下ろす。
    「夢、ですか」
     問われて考えるも夢など目を開けた瞬間に霧散するのが常で、記憶に留まっているものなど一欠片でしかない。その一欠片ですら感覚で掴んでいるに過ぎず、言葉にするのは大変困難であった。
    「なんでもいいよ。物でも人でも、覚えてるものがあれば言ってみて──」
     こつこつこつ、と規則正しく指先がテーブルを叩く小さな音と共に、するり、と思考の隙間に入り込んでくるかのような、静かで穏やかな声音に誘われたか、政景の瞼が緩慢に、ゆるゆる、と下りていく。

     ──確かに覚えていることはある。
     それは強いて言うなれば月だ。
     夜空を切り裂くかの如く、鋭く煌めく三日月。
     誰かに、とんっ、と正面から肩を突かれ、背後に、ぽっかり、と口を開けた深い深い穴に落ちながら、遠離るそれを見ているのだ。
     同時に底の見えない穴に落ち遠離る自分の姿も認識しており、落としたのは自分であり、落ちていくのも自分であった。
     だが、その自分の姿形は霞のように不安定で、ただ漠然と『それ』が自分であるとの認識でしかなかった。
     月は遙か遠くに見えているにも関わらず、手を伸ばせば届くのではないかとも思うのだ。距離など無いに等しく、だが、絶対に届かないこともわかっている。
     あれは触れてはいけないものだからだ。触れたいと願うことすら、この身には過ぎたことなのだ。
     どうしてもどうしても。それだけはどうしても駄目なのだ。
     尊いから。愛しいから。大切だから。護りたいから。
     だからだから。
     あの日、ぱちん、と弾けたものは、嬉しいこと哀しいこと幸せなこと辛いことの欠片だったのだ。弾け続けた欠片は片倉小十郎景綱の記憶として、胸の奥へと積もり続けた。
     まさむねさま。まさむね様。政宗様──

     すぅ、と頬を伝った涙に、佐助は政景の耳元で小さく「ごめんね」と囁く。分身や隠れ身の術といったかつての秘術はさすがに使えないが、言霊を操る催眠系は現代でも有効であった。
     追いつめるつもりはなかったのだと、ほんの少し胸の裡を覗ければそれで良かったのだと、震える唇がかつての主君の名を紡ぐ様に、僅かに良心が痛んだ。
     意識を沈め瞼を閉ざしたまま、はらはら、と未だ涙の止まらぬ政景を正面から見据え、佐助は、ゆうるり、と息を吐く。
     これ以上思い出してはいけないと、無意識のうちに抑え込んでいるのは、はたしてどちらであるのか。
     判断がつかず、佐助はもう一度「ごめんね」と呟いて、政景の頭を柔く撫ぜた。


     カチリ、と時を刻む音が大きく響き、政景は、はっ、と顔を上げた。
    「お疲れかい?」
     向かいに座る佐助に、居眠りしてたよ、と笑み混じりに告げられ反射的に「いえ、大丈夫です」と返すも、政景は怪訝な面持ちで膝上の紙の束に一旦目を落とし、次いで壁の時計を見上げる。
     長針は真下を指しており、どうやら十分ほど意識を飛ばしていたようだ。
     どうにも腑に落ちないと言った表情で首裏をさすり、ほんの十分前のことを思い出そうとするも、頭に靄が掛かったかのようにハッキリせず、きゅっ、と眉間に深いしわを刻む。
     なにか、なにかを目の前の男に問われた気がするのだが、それすらも夢であったか思い出そうとすればするほど目に見えないなにかは、指の間を、サラサラ、と零れ落ちる砂のように留まることなく記憶から消え去っていく。
     それを止める術がわからず戸惑い顔を歪めるも、背後で、カチャリ、と軽い音が響いた瞬間、政景は表情を改めなんでもなかったように面を上げた。
     佐助はそれを視界の隅に留めつつ、寝癖を付けたまま大欠伸と共に現れた政宗に向かって軽い挨拶を投げる。
    「おはよーセンセ。よく眠れた?」
    「Ah……まぁまぁってとこだな」
     言葉とは裏腹に「まだ寝足りない」と半分しか開いていない眼が主張しており、佐助は軽く肩を竦めると静かに立ち上がり、政景の膝から取り上げた紙の束と自分の分を傍らの鞄に仕舞い込んだ。
    「政景くんもお疲れみたいだから今日はここまで。あ、センセーは俺様と打ち合わせね」
     卓上にあった政景のカップを当たり前の顔で傾けていた政宗の腕を引き、佐助は相手の返事を聞くことなく、ずんずん、と突き進むと、リビングを出る直前に政景に向かって「お疲れ様。またよろしくね」と軽い調子で手を振って見せたのだった。


     引かれるがままに自室へと戻った政宗だが、中に入るや否や険しい顔で佐助の手を振り払い「どういうこった」と低く呻いた。
    「怒らないでよ旦那。俺様だって悪気があったワケじゃぁないんだって」
     リビングに入った瞬間の異様な空気に気づきつつも、息子のことを思ってか政宗は敢えて目を瞑ってくれたのだ。そのことに素直に感謝しつつ、佐助は表情を引き締めた。
    「実際の所どうなのか確かめておきたくてね。内面をちょっと覗かせてもらったよ」
     誰の、とは明言せず胸の前で印を結ぶ真似をして見せれば、政宗は僅かに目を見張り、ややあって口端を吊り上げた歪な笑みを浮かべて見せた。
    「今生でも忍の胡散臭い技は健在ってか」
    「そこらのインチキ霊感商法と一緒にしないでよね。俺様のは害のない一種の催眠療法みたいなモンよ」
     とすっ、と軽い音を立てベッドに腰を下ろした佐助の隣に政宗も座り、相手の言葉を、じっ、と待つ。佐助は己の膝に両の肘を突き、組んだ手の上に顎を乗せると静かに注がれる視線に自分の視線を一瞬絡めた後、すっ、と床に目を落とした。
    「なーんか、めんどくさいことになってるみたいよ。無意識下での葛藤っていうの? 強いて言うなら、表層の政景くんと深層の片倉の旦那で折り合いがついてないってとこかな」
     うぅーん、と考え考え言葉を連ねる佐助の横顔は至極真面目で、ふざけている様子は微塵もない。ただ余りにも抽象的すぎて政宗には、ピン、とこないというのが正直なところだ。
     喉奥で低く唸る政宗に、ちら、と目線を寄越し、佐助は「やっぱよくわかんないよね」と苦笑を浮かべる。
    「これは推論でしかないんだけど、大雑把に言うと今の彼には人格が二つあるんじゃないかって思ってる。俺様達は今生に生を受けたときから戦国の世を生きた『猿飛佐助』と『伊達政宗』だけど、政景くんはそうじゃない。前にも言ったけどアンタの息子としての自我と立場が確立してるところに、『片倉小十郎』の記憶が追加されてる状態なワケでしょ。記憶は紙に書かれた行動記録といった単純なものじゃなくて、そこには感情ってモンがあるワケよ」
     己とは異なった感情を持つ記憶を自分のものとして、そうおいそれと受け入れられるものなのか。だが、どれだけ考えたところでそれはあくまで想像に過ぎず、異なった二つの思考を同時に有するなど理解できようはずもない。
    「無意識にポロッと片倉の旦那だった部分が出るのは、その存在を政景くんが否定も拒絶もしていないからだって見てるんだけど、実際のところはどうなのか」
     いやはや、と首を横に振り、お手上げ~、と言葉通りに両手を上に伸ばした佐助が、そのまま、ぱたーん、と後ろに倒れ込んだ衝撃で政宗の身体が上下に揺れる。
    「うまく混ざればいいのにねぇ」
    「そんな絵の具みたいに簡単に……」
     口を突いて出た何気ない例えに政宗自身なにか思うところがあったか、はっ、と口を噤んだ。
    「旦那?」
    「あ、あぁいや。なんでもない」
     僅かに目を逸らすもそれは一瞬のことで、政宗は佐助を見下ろし「もうちょっかい出すんじゃねーぞ」と獰猛さを隠しもしない竜の笑みを見せたのだった。


     わしゃわしゃ、と息子に髪を洗って貰っている最中に、政宗は佐助との会話中に思い当たったことがふと脳裏を過ぎり、知らず眉を寄せる。
     二色の絵の具を混ぜ合わせると、元の色とは全く異なった色が出来上がる。仮に表層と深層が一つに混ざり融け合ったとして、それは一体誰になるのか。
     もしかしたら個の消失よりも誰かもわからぬ不確かな存在になることを、政景──もしくは小十郎──は本能的に恐れているのではないだろうか。
     あくまでも仮定でしかないがもしそうだとしたら、自分がしてやれることはあるのだろうか。
     彼が幸せになれるのならば、どのようなことでもしてやりたいのだ。
    「流すよ」
     背後からの声に、おう、と軽く返し、戯けた仕草で耳を塞げば、柔らかな笑いが漏らされ政宗も眦を下げる。久しぶりに一緒に風呂に入ろう、と夕飯後に息子を誘えば、少し驚いたような顔を見せてから「背中流すよ」と、快諾の言葉が返ってきたのだった。
    「そろそろ髪切るかなぁ」
     泡が流され、ぺたり、と貼り付いた目を隠すほどに伸びた前髪を一房摘み、うーん、と面倒臭そうな声を上げれば、「思い立ったが吉日って言うし、明日行ってきなよ」と実は腰の重い父親の背中を政景が押す。
     ゆるゆる、と梳くようにトリートメントを馴染ませる指の感触が気持ちよく、政宗は目を閉じたままそれを堪能する。そういえば昔は小十郎の大きな手で寝癖をよく直して貰ったな、と険しい顔をしつつも瞳の奥に柔らかな光をたたえていた姿を思い出し、ふっ、と口許が弛んだ。
     刹那、するり、と首に腕が回されたかと思えば背中に、ぴたり、と寄り添われ、政宗は息を飲む。
    「ど、うした?」
     僅かに声が上擦ってしまい舌打ちしたいところを、ぐっ、と堪え背後に問いを投げれば、耳元で、ん、と小さく声が漏らされた。
    「昔はよくおんぶしてもらったなぁ、って思ったら懐かしくなってさ。なんか『父さんの背中は俺のものだ』ってしょっちゅう言ってた気がする」
     今思うと恥ずかしいな、と照れの混じった声が耳に届くも、政宗は言葉が出ない。伝わってくるぬくもりと穏やかな心音に、胸が、きゅう、と締め付けられる。
     出掛けたときだけではなく、家に居るときも背中に、ぴたり、とくっついて政宗の肩越しにテレビを見たり、学校から帰って来るなりなにも言わず背中に顔を押しつけ、べそをかいていたこともあったと思い出す。
     かつては小十郎が護ってくれていた背中が、今は息子に安堵を与えている。そのことは素直に嬉しく思うも、政宗の表情は冴えない。
     こんなにも近くにいるというのに、とてもとても遠い。
     昔も今も、背中を預けるのはおまえだけだ、と心が叫ぶのを飲み下し、回された腕に、そっ、と手を添えるだけで精一杯だった。
     コツコツ、と控えめなノックに政宗は手を止めることなく、おう、とやや上の空で返事をすれば、はかどってる? との軽い問いと共に政景がPCデスクの空いてる場所にティーカップと小さな皿を置いた。
     それを横目で、ちら、と見やり、政宗は胸中で得心のいった声を上げる。なにやら甘い香りが、ほのかにキッチンから漂ってきていたわけだ。
    「おまえも大概マメだよなぁ」
     モニタから目を離さず心底感心した呟きを漏らせば、なんのことか一瞬わからなかったか、政景は小首を傾げた後、あぁ、と父親の言わんとするところを正確に捉え小さく笑みを浮かべる。
    「やっぱりお返しはちゃんとしないと。貰いっぱなしは気が引けるし」
    「だからって手作りクッキーはどうなんだと、おとーさんは思うわけなんだが」
    「去年のおいしくなかった? 個別に買うより断然安くあがるんだけど」
     むむ、と菓子皿に盛られた今年のそれを見下ろし、真面目な顔で考え込んでしまった息子に、政宗は、そうじゃない、と内心で緩く頭を振る。
     去年の今頃は〆切が立て込んでおり、まさか息子がホワイトデーのお返しを手作りクッキーで全員分用意したなど、気づきもしなかったのだ。
     派手さこそないが丁寧に作られたそれが、不味いわけがあろうか。いやない。
     プレーンとチョコの市松状のものや、何の変哲もないただの円形であっても、作ったのが政景であるのならば、人によっては特別な意味を持つのだと言うことがどうもわかっていないらしい。
     貰った数が数なだけに息子の言うことにも一理あるが、金ならいくらでも出してやる! と喉元まで出かかった言葉を、政宗は、ぐっ、と飲み下す。以前、それに近いことを口にして、こっぴどく説教されたことがあるのだ。息子に説教されるとはなんとも情けない話であるが、相手は小十郎でもあるのだと思うと、うんまぁ仕方ないか、と納得してしまうのだった。
    「たとえ全部食べてもらえなくても、渡す人間が減らないわけだよなぁ」
     はぁ……、とこれ見よがしに溜め息をついてみせれば、息子は暢気に「一種のお祭りだからね」と笑うばかりだ。
     再度、いやそうじゃねぇから、と内心で突っ込みを入れるも政宗は、はは、と力なく笑うことで応えに変え、それでも一番に口にすることができるのは自分なのだと、どこか勝ち誇った気持ちになるのも確かであった。
     どうせなら父親特権をフルに活用してやる、と一瞬、悪い笑みを浮かべたかと思いきや、前を向いたまま、ぱかっ、と口を開けた。
    「あー」
     続けて促すように声を上げれば、当たり前のように口元に運ばれるクッキー。
     サクリ、と囓り取れば芳醇なバターの風味が広がり、自然と口元が緩む。
    「ん、んまい」
     もぐもぐ、と口を動かしながら首を上下させれば、口にものを入れたまま喋らない、と柔らかな声音で注意された。
    「俺も政景を見習ってお返しすべきかなぁ。ファンイベントとか……」
    「〆切を破らず、尚かつおもしろいものを書くのが、一番のお礼だと思うよ」
     一時期、その容姿ばかりが取り上げられたこともあり、現在はあまり人前に出たがらない父を気遣ってか、息子はそう言って政宗の歯形のついたクッキーを、ぽい、と自分の口に放り込んだ。
     あとで紅茶のおかわり持ってくる、と一言残して息子が出て行ってから、政宗はクッキーを摘み摘み怠けることなく黙々とキーボードを叩いている。
     少女漫画などでは焦げて失敗してしまったものを無理矢理もらって「おいしいよ」などと言ったりするものだが、非の打ち所のない出来に、それはそれで寂しいものだな、などと思ってみる。
     折角のホワイトデー、なにかしらイベントが欲しいと少々贅沢なことを考えていた政宗は、何気なく触れたクッキーに違和感を覚え皿の上で手を止めた。
     盛られていたクッキーも半数近くが姿を消し、皿の底が見え始めている。その中でも一際目を引いたのが真ん中にあったそれで。
    「……反則だろ、これは」
     瞬時に熱を持った頬を隠すように片手で顔を覆いつつ、震える声を絞り出す。
     他のクッキーよりも一回り小さなそれは、ひとつだけハートの形をしていたのだった。
     僅かにかさついた掌が覆うように左頬を数度撫で、そのまま親指の腹で、ゆるゆる、と古傷を辿る。
     その間も耳元では異国語混じりの睦言が甘やかに囁かれ続け、正しい意味は掴みかねるもそれは確実に脳髄を揺らし、思考に霞がかかっていくのを止めることが出来ない。
     すっ、と首筋を指先で撫で下ろされ、思わず首を竦めれば、くつり、と耳元で低く響く音に更に首を竦める。
    「──」
     低く甘く名を呼ばれ、それに応じるようにそろり、と瞼を持ち上げれば──


     ふぁ……、と漏れ出た間の抜けた声に、政宗はフライパンを握ったまま食卓に着いている政景を見やる。
     春休みに入っても相も変わらず起床時間は一定で、その几帳面さには正直頭が下がる思いだ。
    「どうした? やっぱ疲れたか?」
     昨夜、親子水入らずの温泉旅行から戻ってきたばかりなのだ。もう少し寝てていいんだぞ、と軽く笑って見せれば、眦に浮かんだ涙を指先で拭いながら、息子はなにか考えるような顔で口を開く。
    「んー……そういう訳じゃないんだけど、なんか……ヘンな夢見た」
     気がする、と語尾を濁す息子の常にない困惑混じりの表情が心配になったか、政宗はコンロの火を止めるとキッチンから出て政景の傍に寄った。
    「なにかよくない夢だった、とか?」
     そっ、と労るように息子の左頬を掌で覆うように撫でた刹那、がたり、と大きな音と共に政景の身体は後方へ傾ぎ、政宗はとっさに椅子ごと息子を抱え込んだ。
    「あ……」
    「どうしたんだよ。あ、手冷たかったか?」
     政景自身、自分の反応に驚いているのか目を大きく見開き、呆然と間近の父親を仰ぎ見ている。対する政宗は安堵の息を吐きつつ目を細め、ゆるり、と息子の髪を優しく撫でつける。
    「大丈夫。ちょっとぼんやりしてたから驚いた。ごめん」
     どこかぎこちなく言葉を押し出し、政景は緩く父親の胸を押すと「手伝うよ」と言うが早いか政宗の腕を抜け出し、さっさとキッチンへと入ってしまった。
     トースターに食パンをねじ込む姿を目にしたまま、政宗は僅かに眉を寄せる。政宗のスキンシップ過多は今に始まったことではない。口ではなにかと言いつつも父親の好きにさせていた政景だが、穏やかにとはいえこのような明確な拒絶は初めてのことであった。


     ベッドにうつ伏せに倒れたまま、ぴくり、ともしない政宗に佐助は、はー、とこれみよがしに溜め息をついてみせる。
    「セーンセ、俺様の話聞いてちょうだいよ」
     これは長期戦になると踏んでか、PCデスクに納められたキャスター付きの椅子をベッドの前まで引っ張り、それに静かに腰を下ろす。
     うんともすんとも言わぬ政宗を半眼で見下ろし、再度、はー、と深々と息を吐いてから、仕方ないなぁ、と己の髪に指を梳き入れながら佐助は口を開いた。
    「なんかあったの? 俺様でよければ聞いてあげるから」
     だから起きて、と促せば、ゆうるり、と顔だけが佐助に向けられる。
    「……政景が」
     あー、そんなこったろうと思ったよ、と内心でぼやきつつも佐助は面には一切出さず、聞いているとの意思表示に軽く頷いてやる。
    「最近、俺のこと避けてる」
    「は?」
     悲痛な面持ちでなにを言うかと思えば、そのようなこと俄には信じ難く、佐助は思わず間の抜けた声を上げてしまった。それに、むぅ、と隠すことなく険しい表情を見せた政宗に、ごめんごめん、と簡単に詫びてから、更に詳しい状況を聞くべく椅子をベッドに近づける。
    「なにかしたの?」
    「してねぇ……と思う」
     即座に否定の言葉を口にしたかと思いきや、そうとも言い切れぬと考え直したか力なく言葉が付け加えられ、気まずそうに目まで逸らされた。先日の穏やかな拒絶が相当堪えているらしい。
    「うーん、ちょっと前に旅行行ったんだよね? その時になにかやらかしたんじゃないのぉ?」
     さすがにここでお土産の催促は自殺行為であると自重し、佐助はやや軽い調子で可能性を示唆してやるも、戻ってくるまで至って普通だった、と返されては首を傾げるしかない。
    「温泉で親子水入らず。気がつかないうちに羽目外したとかさ。ほら、政景くん出来た子だから、旅先で気まずくなるのマズイと思ったとか。……あ、そういや、どこの温泉行ったの?」
     色々と考えつくままを口にしていた佐助だが、ふと気になったことを問いに混ぜれば、どこか気まずい表情のまま政宗は言いにくそうに唇を開く。
    「俺の……隠し湯だったところ」
    「……独眼竜」
     じとり、と半眼で見やるも佐助はすぐさま諦めたように、ゆるゆる、と首を横に振った。これを切欠になにか思い出しはしないかと、淡い期待を抱いての行動であろう。相手の心情がわかるだけにそれを責めるのはさすがに酷であると、佐助は苦い笑みを返すにとどめた。
    「急いては事を仕損じるよ、竜の旦那」
     それでも少々苦言を呈せば、わかってる、とどこか拗ねたように返され、佐助は更に苦笑を浮かべる。
    「それで、具体的にはどんな感じなの政景くんは」
    「目を合わせてくれねぇし、なにかと理由付けて俺と顔合わせる時間を減らしてる」
     図書館に行くとか剣道部の自主練習とかかんとか、と今にも泣き出しそうな情けない顔をされ、これはファンには見せられないなぁ、と佐助は頭の片隅で思う。
    「怒ってる感じ?」
    「いや、機嫌が悪い訳じゃなくて、なんか、気まずそうな?」
     心当たりがないから対処方法がわからない、と嘆く政宗には、普段の自信に満ちた様子は欠片もない。相手を好いていればいるほど臆病になるのは、彼の前世での幼少期を思えば仕方のないことである。
     不用意な発言で愛する者が自分から離れてしまうのを、とてもとても怖れているのだ。
    「あれじゃないの? 思春期ってやつ? あ、それとも反抗期かな?」
     実際に見ていないのでなんとも言えないが、仮に反抗期だったとしても、反発心と情愛が混ぜこぜになって本人もどうしていいかわからないのではないかと、佐助は思っている。
    「俺様が聞いてこようか?」
     素直に話してくれるとは思えないけど、と台詞の後半を胸に押し込めたまま提案すれば、暫し難しい顔で考え込んでいた政宗だが、自分ではどうすることも出来ないと諦めたか、頼む、と苦い表情で告げたのだった。


     図書館から帰ってきた政景を玄関外で捕まえ、一緒にランチでもどうよ、と佐助が誘えば、初めこそ怪訝な顔をしたが政景はすぐにどこか、ほっ、とした表情を浮かべ、いいですよ、との答えを返してきた。
     あまり好かれていない自信があっただけに、これは思っていた以上だな、と佐助は内心で苦笑いだ。
     無難なところでファミレスに腰を落ち着け、コーヒーを一口啜ってから佐助は直球で切り出す。
    「なんでおとーさんのこと避けてるの?」
     わざわざ外に連れ出された時点で聞かれるだろうと覚悟はしていたであろうが、まさか前振りもなにもなくそのものズバリを突いてくるとは思っていなかったらしく、同様にカップを傾けていた政景は、ごふっ、と噎せた。
    「正直、困るんだよねぇ。今のセンセー全く使いものにならないのよ。抜け殻っていうの? なにか理由があるなら本人にハッキリ言っちゃいなよ。親子でしょ?」
     遠慮する仲ではない、との意で付け加えた親子という言葉であったが、それまで神妙な面持ちで佐助の話を聞いていた政景はそれを耳にした途端、僅かに俯き口元を隠すように掌で覆った。
     何事かと佐助が相手をまじまじと見やれば、隠れていない目元と耳が一瞬にして真っ赤に染まっており、なにやら恥じらっているのだということだけはわかった。
     だが、今の流れで恥ずかしく思うことなどあっただろうか、と佐助は首を傾げるばかりだ。
     そんな佐助に気を払う余裕もなく、不覚にも動揺してしまった己を内心で叱責しつつ、政景は瞬時に脳裏を占める光景を掻き消そうと必死である。
     あれ以来、夢の中での行為はエスカレートする一方で、昨夜はとうとう熱い塊に貫かれ、揺さぶられ、あろうことか、はしたなくも自ら脚を相手の腰に絡みつかせた。巧く回らぬ舌で懸命に名を呼べば、蠱惑的な笑みと共に唇が落とされた。呼吸すら奪うかのように激しく貪られ、熱い息とぬめる舌に応えようと自分も必死に舌を伸ばした。
     消えるどころか更に鮮明さを増すその姿は、紛うことなく自分の父親で。彼の肩越しに見える天井の木目と、己の頬に滴り落ちてくる汗の感触さえも、ハッキリと思い出すことが出来る。
     じわり、と滲んできた涙で視界が歪み、これではいけないと慌てておしぼりで顔全体を覆った。
    「え、ちょ、泣くほど言いたくない理由なの!?」
     普段は飄々としている彼の焦りの見える声音は耳に届いているが、それを珍しいと思う余裕すらなく政景は、ゆるゆる、と首を横に振った。
    「ちが……っ、父さんは、悪くない、です……っ」
     どうにかそれだけを押し出し、政景はただひたすらに首を横に振り続ける。
     父親をそのような目で見ている、父親にそのような行為を求めているとしか思えぬ夢を見る自分がとても浅ましく、情けなく、罪悪感から父親の顔をまともに見られないのだなどと、言える訳もなく。
     ずっ、と鼻を啜れば、ふわり、と頭を撫でられ、一瞬、政景の動きが止まった。
     ぎっ、と微かな軋みと共に長椅子に重みが加わり、隣に佐助が移動してきたことを告げる。
    「昔さぁ、俺様にとって弟みたいな子がいてさ、ちーいさい頃から面倒見てたわけよ」
     肩に回した腕で抱え込むように、ぽんぽん、と政景の頭を宥めるかのように軽く叩きながら、佐助は何気ない調子で話し始めた。
    「佐助好き好きー、ってそらもう馬鹿の一つ覚えみたいにしょっちゅう言ってくれちゃって、まぁ俺様もまんざらでもなかったのね。でも、ある日突然、ぱたっ、と言わなくなったと思ったら、それだけじゃなくて急に避けられるようになっちゃってさ、俺様なにかやらかしたかと考えたけど心当たりなくてさー。いや、まいった」
     ちら、と横目に政景の様子を窺えば、佐助の行動を疎んじることもなく、じっ、と耳を傾けている。誰の言葉も聞かぬと意固地になっているわけではないのだと、内心で安堵の息を吐き、叩く動きを撫でる動きに変え佐助は話を続ける。
    「結果から言っちゃえば嫌われた訳じゃなくて、俺様と話すのがなんか恥ずかしくなったんだってさ。多分、旦那……いや、その子にとってそれが初恋ってヤツだったんだろうね。理由がわかればなんてことなかったけど、避けられてた間は柄にもなく落ち込んだりもしたなぁ」
     はは、と軽い笑いを漏らすも言葉の端々からは当時の感情が滲んでおり、政景は鼻を啜りながら胸中で政宗に詫びるしかない。
    「どうしても理由が言えないなら、一言だけ言ってあげて。お父さんのことが嫌いになったんじゃないって。ほんと、それだけでいいから」
     ね、と促すように、こつん、と軽く頭同士をぶつけられ、政景は小さく、はい、と答えるので精一杯だった。


     ただいまー、と自宅ではないにも関わらず我が物顔で戻ってきた佐助を胡乱な目で見やった後、政宗は手中の携帯電話で現在時刻を確認する。
     彼が出て行ってからも政宗はずっとベッドに突っ伏しており、時間の経過など毛ほども気にしていなかったのだが、有に三時間は経っていたことに正直驚きを隠せない。
     移動時間を差し引いたとしても佐助と政景は二時間は話し込んでいたと思われ、いやが上にも期待は高まる。
    「それで、理由は聞けたのかよ」
     キュルリ、と数時間前と同様、キャスター付きの椅子を引っ張ってきた佐助は、性急な政宗の言葉に苦笑を隠そうともしない。
    「がっつかないでよ旦那。余裕がない男はモテないよ?」
     よいしょ、と殊更ゆっくりと腰を下ろした佐助に、うっせ、と悪態を一つ吐き、政宗はやはりうつ伏せのまま顔だけを向ける。
    「そうねぇ、俺様の口からはなんとも言えないデリケートな問題、とだけ言っておこうかな」
     難しいお年頃だよねぇ、とわざとらしく溜息をついて見せ、佐助が、ちろり、と政宗の表情を伺えば案の定、納得がいかぬと顔に書かれている竜がそこにいた。
    「あぁ、でも安心してよ。別に独眼竜のことが嫌いになったワケじゃないからさ」
     これはホント、と目を細める佐助は、過去の記憶を辿ってもなかなかお目にかかることのない柔らかな笑みを浮かべており、嘘は言っていないと政宗は判断する。
    「ただ、この間の温泉旅行が少なからず影響してるみたいだから、俺様としては竜の旦那はちょっと自重すべきだと思うんだよねぇ」
    「だからなんもしてねぇって言ってんだろ!」
     改めて旅行のことを振り返るも思い当たる節はやはりなく、勢いよく身を起こし、ガーッ! と噛みついてきた政宗に、そうじゃなくて、と佐助は静かに言葉を続ける。
    「この状況がどれだけ奇跡的な確率かわかってる?」
     問いかけでありながら独り言のように落とされたそれに、政宗は両の眼を、はっ、と見開いた。
    「その人がここに居る、俺様から言わせればそれだけで充分幸せだと思うんだけどねぇ」
     ぽつり、と静かに漏らす佐助の目は、一度終わってしまった遙か彼方の過去を映す。
     彼の人の行く末だけならば歴史が教えてくれるが、その時なにを思い、どう行動したかまではわからない。
    「独眼竜は右目の旦那の死に水取ったんでしょ。そして今生は逆の立場だ。俺様は真田の旦那より先に逝っちゃったからね、あの人がそれからどうだったのかわからないのが、まぁ気がかりかな」
     泣いただろうか、憤っただろうか、悲観しただろうか、はたまたそれを糧に奮起しただろうか。もし、当時のことを本人の口から聞くことができたのならば、ばか正直で何事にも真っ直ぐな愛すべき主に返す言葉はただ一つ。
     おばかさん、と。
     現世では仕えるべき主に巡り会えていないかつての戦忍は一瞬、瞼を伏せたかと思いきや、平手で、ぱん、と己の膝を叩くと全てを吹っ切るかのように立ち上がった。
    「仕事の話したかったんだけど、身が入らないのは目に見えてるから日を改めるわ。ただ、サイン会とかファンイベント的なことを上がしたがってる、ってのは覚えておいて頂戴。煙に巻くのもそろそろ限界なのよ」
     有能な俺様でもつらいわぁ~、とおどけてみせる佐助に政宗は苦い顔を向けつつも、sorry、と小さく漏らした。それの意味するところを知ってか知らずか、佐助は軽く笑みを返し、じゃ帰るわ、と飄々と言ってのけ政宗の部屋を後にしたのだった。


     佐助が帰ってからも政宗はベッドに座り込んだまま、先のことを思い返す。
     思い出して欲しいと願うのは欲が過ぎているのだろうか? との問いを己自身に投げるも、愛しい存在が目の前にあれば手を伸ばしたくなるのはどうしようもないことなのだと、ゆるゆる、と頭を振る。
     だが、このまま息子と気まずい日々を過ごし、まともに顔を合わせず話もせぬまま、それが普通のことになってしまうのが、たまらなく恐ろしい。これでは右目を患い閉じこもっていたあの頃からまったく成長していないではないかと、政宗は腹に、ぐっ、と力を入れ、ぱん、と両の頬を平手で打った。
     行動しなければ始まらない。
     言葉にしなければ伝わらない。
     それを教えてくれたのは、かつての右目だ。
     よし、と小さく気合いを入れ、政宗は腰を上げると携帯電話を尻ポケットへねじ込み、真っ直ぐに政景の部屋へと向かう。
     正面からぶつかって、後悔したならその時はその時だ。
    「政景、ちょっといいか?」
     こつこつ、とノックをしながら声をかけるも中からは物音ひとつしない。
    「政景?」
     先ほど佐助が戻って来たということは、政景も一緒に戻ってきたはずだ。そうでなければいくら佐助でも呼び鈴を鳴らさず、勝手に上がり込んでくるわけがない。
    「入るぞ?」
     眠っているのだろうか? と音を立てずに細く扉を開け、中を覗きこんだその時、軽やかなメール受信メロディが先ほど携帯電話をねじ込んだポケットから流れ出た。
     佐助専用に設定してあるそれに何事かと慌てて受信箱へと移動すれば、subjectは「(no title)」で、知らず、ごくり、と喉が鳴った。
     なにか口では言えないようなことを思い出したのだろうか、と微かに震える指先でメールを開いた瞬間、飛び込んできたのは脳天気な一文。
    『拉致っちゃったー☆』
    「…………は?」
     ぽかん、と目を丸くし口も半開きという間抜けな顔で、何度も何度もその一文を目で辿る。
     なんだこれは、と唖然としたまま不自然な空白を下へ下へとスクロールさせていけば、徐々に添付写真がせり上がってきた。それが画面全体を占めると同時に、政宗は手中の携帯電話が、ミシミシ、と不穏な音を立てるのも厭わず、力一杯握りしめたまま、
    「猿飛ぃぃぃぃぃぃぃーッ!」
     と室内を揺るがす怒声を発したのだった。


    「これでよし、と」
     メール送信を終え、佐助は満足そうに一つ頷くとそのまま携帯電話の電源を落とした。このまま暢気に竜の咆吼が届けられるのを待つほど、お人好しではないのだ。
    「あ、政景くんも携帯の電源落としておいた方がいいよ」
     へらり、と緩い笑みを浮かべる佐助の隣で、政景は、はは、と困ったように笑うしかない。
     泣いたとわかる顔で家に戻り父親と顔を合わせるのは躊躇われ、さてどうしようか、と思ったその時、まるで心を読んだかのように佐助が「ウチ来る?」と誘いをかけてきたのだ。勝手に泣いたのは政景だが、理由はどうあれ泣かせたのは事実だしー、と佐助はどこか申し訳なさそうな顔で、ごめんね、と一言詫びたのだった。
     その言葉に甘え政景は一旦、佐助と共に家に戻り、数日分の着替えをバッグに押し込むと再び佐助と共に家を出て、今に至る。
     食事をしながらあまり眠れていないことを見抜かれ、春休みだし暫くお泊まりしちゃいなよ、とも言われたのだった。環境が変わればあの夢も見ないだろうか、と政景がほのかな期待を抱いたのも事実だ。
     だが、無断外泊はやはり問題だろうと遠慮がちに口にすれば、佐助は暫し考え込んだ後、じゃあこうしよう、とどこか人の悪い笑みを浮かべるや、ソファに並んで座っている政景の肩を抱き、手慣れた様子で携帯カメラのシャッターを切った。
     いわゆる自分撮りであるが、まるでファインダーを覗いたかのように、ぴったりきっかり、ふたりは中心に収まっており、ブレやボケもない。
     これが先ほど政宗に送られた添付写真である。
     どのような内容でメールが送られたか知る由もない政景だが、おそらく面倒くさいことになるだろうなぁ、と佐助の表情から察しつつも、特になにを言うことなく自分の携帯電話の電源を落としたのだった。
     まぁ、テキトーにくつろいでよ、と政景に軽く声を掛け、佐助はベッドヘッドに隣接しているPCデスクへと向かう。佐助の部屋は1DKだがざっと見たところ十畳以上はあり、窮屈さは感じない。ウォークインクローゼットの他にロフトもあり、収納に不便はなさそうだ。
     ベッドは壁際、ソファとテレビは部屋のほぼ中央にあり、しかもソファはソファベッドだという。まるで誰かが来ることを前提としているようで、政景が不思議そうな顔を一瞬見せれば、「終電逃したダチが結構来るんだよね」と佐助はあっけらかんと笑ったのだった。
     不意に迫り上がってきた欠伸を噛み殺し、政景は眦に滲んだ涙を指先で拭う。無意識のうちに張っていた気が、腰を落ち着けたことでやや弛んだらしい。ちら、と壁の時計を見上げ、政景はこちらに背を向けている佐助に遠慮がちに声を掛ける。
    「会社、戻らなくていいんですか?」
    「ん? あぁ、半休取ってあるから問題なしってね」
     カタカタ、とキーを打つ手はそのままに、佐助は緩い声で言葉を続けた。
    「俺様のベッドでよければ使ってよ。急ぎのこれだけ片付けたら布団出すから」
     振り向いていないにも関わらず、政景が欠伸を噛み殺したことなどお見通しであると言わんばかりである。彼からしてみれば他意などなくただの提案に過ぎないのであろうが、首の産毛を遠くから、チリチリ、と炎で炙られているかのような感覚に、政景は知らず眉根を寄せ首筋を撫でさする。
     実際に話せば気さくで取っつきやすく、頭の回転は速いがそれを巧く隠し、場の空気を読んだ発言をすると、短い付き合いではあるが政景は佐助をそう見ている。
     客観的に見て、決して悪感情を抱かれるような人間ではない。だが、初めて会ったときもそうであったが、この男と相対すると不意に腹の奥底から得も言われぬモヤモヤが湧き上がり、小石を投げ込んだ程度の小さな小さな波紋が、いつまでも心を揺らし続けるような不安を覚えるのだ。
     今が正にそれで、自分でもどうにもできぬ気持ちの揺れに、政景の喉奥から低い呻きが漏れる。
    「どうかした?」
     政景から返答も動きもないことを怪訝に思った佐助が振り返れば、そこに居たのは眉間に深いしわを刻んだ、ある意味見慣れた表情の男で。一瞬ダブった姿についつい佐助も困ったように眉尻を下げてしまった。
    『顔は全然違うのにねぇ』
     何度目になるかはわからないが、確かにこの男は片倉小十郎景綱なのだと、改めて思い知らされる。ほんの数時間一緒に居ただけでこれなのだ。四六時中共にいる竜の心中を思えば、元々気の長い質ではない男の逸る気持ちは多少なりとも理解できた。
     だが、思い出すことが果たして、双方の幸せに繋がるのであろうか。
     佐助が何事も疑って掛かるのは、生来の気質かはたまた前世での有り様故か。
    「気分でも悪い?」
    「あ、いえ」
     深刻にならぬよう軽く問えば、政景は首筋に手をやったままではあったが、ゆるり、と表情を和らげ首を振る。敢えて追求せずそれに軽く頷いてみせ、佐助は腰を上げた政景の動きを追い、彼がベッドに横になるまでを見届けた。
     やや身体を丸め壁側を向いた頭を横目で見やり、佐助が緩く息を吐いたのと、横になったばかりの政景の頭が持ち上がったのはほぼ同時であった。
    「なに?」
     エロ本にはここ暫くお世話になってないよねぇ? と佐助が己の夜の行動を瞬時に振り返ってから短く問えば、政景は身を起こし下敷きにしてしまった物を布団の中から、ずるり、と引っ張り出した。
    「すみません、これ……」
     引き出した物を目にした政景は意識せぬままに言葉を途切れさせ、手中の物を、じっ、と見つめる。
     革紐に通された古銭が六枚。
     見る者が見れば未練がましいと言われかねないが、それでも佐助は持たずにはいられないのだ。思っていた以上に彼のことを気に入っていたのだと、気づいたときには失笑が漏れた。
    「あぁ、それね。俺様のお守りみたいな物かな」
     ちゃり、と古銭がどこか重く鳴った瞬間、チリッ、と政景の瞼の裏で紅の火花が弾けた。反射的に掌で目元を覆い俯いた政景になにかしらの異変が生じたことは一目瞭然だが、佐助はすぐには口を開かずその様を、じっ、と見据える。
     大方、過去に繋がる物に直接触れたことにより、奥深くへ沈められている記憶が揺り動かされたのだろうと推察する。独眼竜ならばここで無理矢理にでも『片倉小十郎景綱』を引っ張り出そうと躍起になるのであろうが、生憎と猿飛佐助はそこまで彼には執着がない。
     さて、ここで普通の人ならばどのような言葉を掛けるか、と脳内でシミュレートし答えを弾き出した。
    「具合悪いなら無理しないで、ほら寝た寝た」
     静かに立ち上がると政景の手から六文銭を抜き取り、未だ目元を覆ったままのその身を支えるように腕を回し、ベッドへ横たえさせる。
     眩暈にも似たものを感じているのか、目を開けぬまま政景は小さく詫びの言葉を唇に乗せ、抑えきれていない苦悶の表情で浅く忙しない息を吐く。佐助が、そっ、と額に手を伸ばせば、平時よりも若干高いであろう体温が感じられた。心の異変は身体へも影響を及ぼす。
     以前、政宗から聞いた話を鑑みるに、発熱によって意識の境界線が曖昧になり『片倉小十郎景綱』が顔を出す可能性は高い。これは均衡が崩れる兆候であろうと判断し、佐助の目は冷静に政景を見下ろす。
     だが、あくまでも可能性であって、絶対ではない。
     このまま眠りに落ち何事もなかった顔で目を覚ましても、なんら落胆する理由はないのだ。
    「覚えていることが幸せとは、限らないからね」
     彼の耳には届かないことを承知で、ねぇ右目の旦那、と秘やかに囁いて、佐助は、うっそり、と笑んだ。
     チリリ、と身を焦がすほどの闘気を身に纏った若武者と相対する主の顔は見えずとも、その唇が綺麗な弧を描いていることはその背中から容易に知れた。
     遊びではない。
     殺し合いでもない。
     このふたりが望むものは戦場では些か異様で、だがこの上もなく彼らには相応しく思え、制止の言葉は野暮と知れた。
    「手ぇ出すなよ、──」
     すらり、と抜き放たれた六爪の煌めきに目を細めつつ、御意、と返せば満足そうに鼻を鳴らす音が微かに耳に届いた。
     地を蹴り一条の蒼い雷と化した主と、空気までをも焦がす灼熱の焔を纏った好敵手が討ち合わせる初撃を見届け、次は自分の番であると唇を引き結ぶ。
    「じゃ、こっちも始めますか。ねぇ──の旦那」
     背後から声を掛けられるも戦忍がそこに居たのは承知の上で、驚いた素振りもなく柄に手を掛けた状態で、ゆうるり、と振り返れば──


     ピーッ! と鳴った甲高い音に、はっ、と眼を見開くと布団を蹴り飛ばす勢いで身を起こし、右腰に左手を伸ばした恰好で動きを止め、息を詰める。
     陣ぶれの法螺貝とは違うこれはなんだ、との疑念と戸惑いをねじ伏せ、現状把握の為に意識を集中する。
     だが、徐々に頭が冴えてくるに従い、表情が困惑に彩られる。
     今、目の前にあるのは夕日に赤く染まった室内で、今の今まで聞こえていた剣戟や喧噪は、ぱたり、とやんでいる。
     なんだこれは、ここは一体、──と政宗様は? 相対していた──はどうしたというのだ?
     僅かな身動ぎに呼応するように、ぎしり、と鳴ったベッドのスプリングに意識がそれたその時、
    「あれ、もう起きたの?」
     マグカップを手にした佐助が、ひょこり、とキッチンから戻ってきた。
     窓から差し込む赤を身に受け、ゆるり、と笑んだ目の前の相手の姿と、ほんの数瞬前まで対峙していた姿が重なった瞬間、コマ落ちフィルムのようにぶつ切りになった場面が脳裏を凄まじい勢いで駆け抜けていく。

     ──頬を掠めた刃から生じる風。
     ──背後に回り込まれた瞬間の焦燥。
     ──交わった刃から散る火花。
     ──雷と炎の戦況に一瞬それる意識。
     ──翻った刃。
     ──肉を貫く重く鈍い衝撃。
     ──散る朱。
     ──朱に塗り潰される視界。
     ──その朱の源は……

    「猿……と、び……?」
     戦慄く唇が発したその声に、佐助は、はっ、と瞬時に表情を堅くし、手にしたカップからコーヒーが零れフローリングを汚すのも一切構わず、足音荒く大股にベッドへと寄る。
    「片倉の、旦那……?」
     確かめるように名を呼び肩を掴もうとするも、その身体は一瞬早く佐助の手を擦り抜け、相手はベッドから飛び降りてしまった。
    「ちょっ!?」
     慌ててその背を追えば相手が駆け込んだのはトイレで、開かれたままの扉から窺い見れば、便器を抱え込むように蹲り嘔吐している姿があった。佐助は呻きと共に上下する肩を眇めた目で見やった後、半分以上中身の減ってしまったマグカップを溜め息と共にシンクへと置いた。
     一体なにがどうなっているのかわからぬままに、濡らしたタオルとぬるま湯を入れたマグカップを手にトイレへと向かう。
    「ちょっと、大丈夫?」
     黙って触れては驚くだろうと緩く一声掛けてから、濁った呼吸音の合間に嘔吐を繰り返す背をさすり、汗で額に貼り付いた前髪を反対の手で掻き上げてやる。
     ひくつく喉から、ごぽ、と吐き出されるのは既に胃液のみで、酸で焼かれ痛みも伴っているだろうと、佐助は僅かに眉を寄せる。
     不意に強張っていた背から力が抜け、ぐったり、と項垂れたままの政景の顔をタオルで拭ってやりながら、佐助が再度「大丈夫?」と声を掛ければ力無く頭が上下に揺れた。
     ようやっと顔を上げた政景の背を支えるように胸に抱き込んだままマグカップを渡せば、黙って受け取り口を濯ぐ。二度、三度と繰り返し、空になったカップを政景が膝に下ろしたのを確認してから、佐助は折り返したタオルでもう一度相手の顔を拭った。
     いつまでもトイレで座り込んでいるわけにもいかないからと、若干ふらつく身体に肩を貸し、先程零したコーヒーを踏まないようベッドへと向かう。
     ベッドに腰を下ろすも政景は目を伏せたまま佐助の顔を見ようとはせず、佐助は正面に膝を着きその顔を下から覗き込む。
     見れば、ぐっ、と引き結ばれた唇に、眉間に刻まれた深いしわ。
     まるでなにかを耐えるかのような苦悶の表情に加え、膝上で小刻みに震える左手を押さえる右手すらもが震えており、佐助は、あぁ、と小さく声を漏らした。
    「よりにもよって、そこ、思い出しちゃったんだ」
     そう言って、すっ、と己の首を指で真横に薙ぐ動作をしてみせれば、政景の手の震えは一段と大きくなり、なにか言葉を紡ごうとしたか、喉からは、ひゅっ、と空気の漏れる音がした。
    「お、れは……」
     紙のように真っ白な顔で色の失せた唇を必死に動かすも、それ以上言葉は続かず、ぐっ、と唇を噛み締める。
    「独眼竜とのことだけ、思い出せれば良かったのにね」
     ねぇ片倉の旦那、と呼びかければ、政景は、はっ、と弾かれたように顔を上げるやどこか傷付いた表情で佐助を見返し、ややあって「そう、だな」と小さく返すと、触れれば崩れてしまいそうな脆い笑みを浮かべて見せたのだった。
     その反応に、なにかしくじったか、と佐助は若干焦りを感じるも面には出さず、「平気?」と静かに問いかけた。なにをどこまで思い出したかはわからぬが、押し寄せる記憶の波に翻弄されてはいないかと、気遣う気持ちは嘘ではない。
    「大丈夫」
     震える手を労るように上から包む佐助の両の手に目を落とし、政景は思いの外しっかりとした声音で応じる。巧く言葉では説明できないが強いて言うなれば、今は己の意志で奥底に降り積もっていたそれをひとつひとつ拾い上げ、中を、そっ、と見ているといった按排なのだ。
    「俺は、片倉小十郎、なんですね」
     己自身に言い聞かせるように、ぽつり、呟き、政景は静かに腰を上げる。どうしたのかと目で問うてくる佐助に「ちょっと外の空気吸ってきます」と、やや強張ってはいたがかろうじて笑みを返したのだった。


     慣れぬ道を当てもなく進み、暮れゆく空を仰ぎ見る。
     随分と空の色は変わってしまったんだな、と昔の記憶と照らし合わせ、寂しげに眉尻を下げる。
     ポケットから携帯電話を取りだし電源を入れれば、思った通り政宗からのメールと不在着信が数件あった。
    『伊達政宗』とその文字列を目にした途端、無性に父親の声が聞きたくなり政景は相手の番号を呼び出すも、震える指は最後の一押しが出来ず、ボタンの上で固まったままだ。
     声が聞きたい。
     話したい。
     いつもの優しい声で名を呼んで欲しい。
     だが、彼に呼んで欲しい名は果たしてどちらであるのか。
     俯き、両の手で握った携帯電話を胸に抱き、唇を噛み締める。
     とうさんとうさんまさむねさままさむねさま──
     そのどちらもが彼を示す言葉で、途切れることなく胸の中をぐるぐると回り続ける。
     自覚してしまった『片倉小十郎景綱』の存在。
     心のどこかで覚悟はしていたのか、これも自分なのだと受け入れることに抵抗はない。抵抗はないが、それでは『伊達政景』であり『片倉小十郎景綱』である今の自分は一体誰なのかとの問いに対する答えは見つからない。
     ふるり、と力無く頭を振ったその時、手中の小さな機械が彼を呼んだ。
     はっ、と画面を見れば『伊達政宗』の文字。メールではなく通話着信であると頭が理解した瞬間、躊躇うことなく通話ボタンを押した。
     どうしてもこれだけは伝えなければと、相手がなにか言う前に口を開く。
    「大好き。愛してます」
     それは、父へと向けられた言葉と、主へと向けられた言葉。
     電話向こうで微かに息を飲む音が聞こえ、政宗の行動にいつも驚かされている自分の気持ちが、これで少しはわかってもらえただろうかと、そのような場合ではないと重々理解しつつも、ほんの少しだけ笑みが浮かんだのだった。
     電話口で政景が笑んだことを察し、政宗は驚きで止めてしまった息を緩く吐くと、小さく「最高のSurpriseだな」と漏らした。
     突然このようなことを言い出すなど普段の息子からは到底考えられないが、佐助がなにかしら口添えしたかと抜け目のない戦忍を思い、政宗は素直にその言葉を受け止める。
    「どうした。ちょっと離れただけで熱烈な告白をしたくなるほど、俺への愛を自覚したか? ん?」
     くつり、と喉を鳴らし、息子に言わせれば凶悪極まりない笑みと声音で問いかければ、今度は逆に政景が息を飲み、ややあって呆れとも諦めとも取れる溜め息が漏らされた。
    「えぇ、まぁ。そういうことにしておいてください」
     姿は見えずとも眉間にしわを刻んだ険しい顔が容易に想像でき、政宗は口元を緩めるも、たった今思い描いた姿に、はた、と動きを止める。
    「なぁ、政景。なにか、あったか?」
     一瞬にしてカラカラに乾いてしまった口内に張り付く舌を無理矢理に動かし、政宗は平静を装って言葉を押し出す。
     今、話しているのは政景だ。政景のはずだ。
     それなのに何故、なんの疑いも違和感もなく、かつての右目の姿が出てきたのか。
     チリチリ、と右目の奥が痛み、まさか、まさか、と政宗の胸の奥で正体のわからぬなにかがざわめく。
    「……いえ、特には。ただ、猿飛さんから、父さんが使い物にならないって聞いて。その、避けててごめんなさい」
    「あ、いや、俺に何か悪いところがあるなら、言ってくれよ。おまえに嫌われるのは、辛い」
     神妙な声につられ政宗も気持ち沈んだ声で返せば、「父さんは悪くないから」と静かに、だが真摯に返される。
     やはりどこか変だ、とボタンを一つ掛け違えているかのような些細な違和感の正体が分からず、政宗はもどかしげに胸を押さえ服を鷲掴む。
     声も口調も息子だというのに、時折生じる違和感は一体なんであるのか。だが、それは決して不快なものではなく、むしろ懐かしささえ覚えるもので。
     あまりにも待ち望み焦がれているが故の都合の良い勘違いかとも思ったが、話せば話すほど脳裏に描き出される姿は鮮明になっていく。
    「あ、あのな、政景……」
    「今日はもうこのまま猿飛さんのところに泊まるけど、父さんはちゃんと仕事してよね」
     なにか言いかけた政宗の声に被るように政景は笑み混じりの言葉を投げ、「じゃないと春休み中は帰らないから」と本気か冗談かわからぬ言葉を続けた。
    「なっ!? おいっ! それとこれとは話が別だろッ!?」
     思わぬ爆弾発言に取り乱す政宗を笑うかのように家の電話が鳴り響き、あああああ、と呻きつつリビングへと向かえば、その途中で政景から「電話? じゃあ切るね」と、あっさり、告げられ、止める間もなく、ぷつり、と容赦なく切られてしまったのだった。
    「あっ! 待てって!!」
     家の電話への着信は通話ではなくFAXで、それを確認すると同時に手中の携帯電話に向かって声を張るも今一歩及ばず。
    「あああああ、ちくしょうなんだってんだよ!」
     ずずっ、と吐き出される紙を横目で苦々しく睨み据えつつ、息子の番号を再度コールする。だが、聞こえてきたのは無機質なアナウンスで、Shit! と口汚く零すも、FAXが吐き出しきった内容を目にした途端、それをひっ掴み携帯電話をポケットにねじ込むと、慌ただしくリビングを飛び出したのだった。


     電源を落とした携帯電話を手にしたまま、政景はアスファルトを見つめ、じっ、とその場に立ち尽くす。
     聡い彼のことだ、なにか感づいたに違いない。
     途中で僅かだが声音の変わった政宗に気づき、敢えて話の矛先をそらした。だが、このままではなにかしらきわどい問いを投げてくると察し、やや不自然ではあったが彼の言葉を遮った。
     家の電話が鳴ったのは幸運だったと、政景は掌に滲んだ汗をジーンズに擦り付ける。
     頭の整理がつかぬまま政宗と言葉を交わし、彼の声を聞きながら冷静さが戻ってきた途端、頭から冷水を浴びた気分になったのだ。
     冷静になった頭は次々と現実を突きつけてきた。
     片倉小十郎景綱の記憶が戻ったと告げたところで、彼を困らせるだけなのではないかと。
     今更、過去の自分が出てきたところで、一体なんの価値があるというのかと。
     新たな生を受け、『伊達政景』の父親として今生を過ごしている彼の枷となるのではないかと。
     かつての主を、愛しい愛しい、と思い、焦がれるのは片倉小十郎景綱の一方的なものだ。相手の都合を考えぬ思いは迷惑以外のなにものでもないのだと。
     なによりも恐れるのは、彼に疎ましいと思われることであると。
     傍に居るのに触れられず、思いも告げられぬ。ならば記憶など戻らねば良かったのだ。
     そこまで考えて政景は、ふるり、と首を振る。
     それではあまりにも悲しいではないか。
     政景が父親を愛しく思う気持ちと、小十郎が政宗を愛しく思う気持ちは、確かに別種のものだ。だが、抱き締め、抱き締められることに喜びを感じ、胸の奥が温かくなるのは変わりない。
     どちらの気持ちも無くしたくはないのだ。
     どちらの気持ちも大切なのだ。
     どちらか片方だけ選べと言われても、知ってしまったそれを手放すなどもうできないのだ。
    「まさむねさま……」
     魔法の言葉だったそれを小さく唇に乗せ、政景は顔を上げる。
     恋も二度目なら、それを隠すのは昔より巧くなっている。それが同じ相手ならば尚のことだ。
     ただ昔と違うのは、今は少しならば甘えても息子だから許されるということだ。
     騙しているのではない、黙っているだけだ。
     詭弁で己を納得させ、政景は来た道を戻っていく。
     戻ったら真っ先にすることは猿飛の口止めだな、と無意識のうちに眉間に深いしわが寄った。
     さすがに黙ってドアを開けるわけにもいかず、政景はチャイムを鳴らし内側から開けられるのを待った。
    「お帰り。どう? 落ち着いた?」
     別段、焦った様子もなく佐助は普段と変わらぬ緩い声音で問いかけ、変に気を使われるよりはいいと政景も気負わず首を縦に振る。
    「ちょっと話がある」
    「ん? あぁでもその前にお風呂入っちゃいなよ。その間にお粥さん煮てあげるから」
     お腹空っぽでしょ、と指先で軽くつつかれ思わず身を捩った政景の姿に、はは、と軽く笑い、佐助は「お湯張ってあるからすぐ入れるよ」と相手を促した。
     その言葉に甘えた政景が着替えを持って浴室へと消えたのを確認し、佐助は土鍋と米を引っ張り出すもそれ以上はなにもせず、ちら、と腕の時計に目を走らせ『間に合えばいいけど』と胸中で呟いた。


     ちゃぷり、と湯の中で手を遊ばせ、政景は深々と息を吐き気持ちを落ち着けると、そっ、と瞼を伏せ巡る記憶をつぶさに眺める。
     流れる記憶の時間軸はバラバラであるが、ひとつひとつが懐かしく、また新鮮で、様々な政宗の姿に「仕方ないな、父さんは」「相変わらずですな、政宗様は」と二者の感想を同時に抱く。
     記憶の量は断然小十郎の方が多く、今以上に歳の増した政宗の姿も見ることとなり、政景は少々、複雑な気持ちになる。
     そして、どれだけ政宗が小十郎を大切に思い、心のよすがとしていたか。背を任せ背を守る、互いの信頼関係を改めて認識した。
     何者も割って入れぬその強い絆に、政景は唇を歪める。
     過去の自分であるにも関わらず、これほどまでに政宗の心を占めていた片倉小十郎景綱の存在に、心が揺らぐ。
     今の自分は彼の息子というだけで、それ以上でもそれ以下でもない。
     彼が必要としているのは『伊達政景』ではなく、心身共に支えとなり、時には厳しく諭し、時には柔く懐へと招く『片倉小十郎』なのではないか。
     ならば、いっそのこと『片倉小十郎』として今生も彼の傍に居た方が良いのではないか。
     過去の自分を隠し通そうと決めた心が脆くも崩れさり、代わりに頭を擡げたのは今の自分の存在に対する不安だ。
     千々に乱れる思考に、政景は激しく頭を振った。
     わからないわからない。
     なにが最善で、なにが最良であるのか。
     それでも揺るがぬ思いはただひとつ。
     政宗の負担にならず、なおかつ彼の幸せのためにはどうすればよいのか、だ。
    「ちょっと話しようかー?」
     扉の向こうからかけられた声に、政景は、はっ、と目を開いた。見れば磨り硝子越しに佐助の姿があり、一瞬、身を堅くする。
     だが、さすがにいきなり扉を開けることはせず、佐助は脱衣所から動く気配はない。
    「顔見ながらじゃ話しにくいこともあるでしょ」
     浴室では声が反響し聞き取りにくいからか、ちょっとだけ開けるね、と断りを入れてきた佐助を止めることなく、政景は浴槽に身を沈めたまま応じる。
    「聞きたいことがあったら遠慮なくドーゾ」
     あくまでも軽く切り出してくる佐助に苦笑しつつ、政景は浴槽の縁に頭を預け天井を仰いだ。
     先はなんの疑いもなく受け止めてしまったが、佐助は当たり前のように「片倉の旦那」と口にした。今更ながら彼にも前世の記憶があることに軽い衝撃を受ける。
     政宗に関しては言わずもがな。彼の小説を読めば一目瞭然である。息子を前に一体どのような気持ちで日々を過ごしていたのか、それを思うだけで胸が苦しくなる。
    「いつ、気づいた?」
    「初めて会った時に、ね」
     短く曖昧な問いであったがそれの意味するところを佐助は正確に酌み取り、迷うことなく答えを返す。
    「恨んでるか?」
    「直球だねぇ」
     その口調から小十郎として話しているのだと察し、佐助はなにも問わずに言葉を重ねていく。
    「まぁ、恨んじゃいないよ。殺るか殺られるか、それが当たり前の時代だったしね。むしろ右目の旦那には悪いコトしたなぁって。忍の首なんかとっても勲功になんかなりゃしないわけだし」
     馴れ合う気などさらさらない従者達は、振るう刃に欠片の迷いもなかった。そんな最中、一瞬とはいえ気を逸らせばどうなるかなど、考えるまでもない。
     目の前の命のやり取りを投げ出し主の元へと、一瞬でも思ってしまった時点で全ては決まっていたのだ。
    「首は、取ってねぇ」
    「そうなの?」
     ざっくり、と胸を貫いた鋼の感触を思い出したか、佐助は僅かに眉を寄せ胸元を押さえる。
    「真田に邪魔された」
    「……へぇ」
     小十郎ほどの手練れならば即座に首を刎ねることも可能であったろうに、おかしなこともあるものだ、と皮肉げに唇を歪ませる。大方、政宗との勝負を放り出し一直線に突っ込んできた幸村を小十郎は迎え討つこともなく、更に双竜は黙って身を引いたのだろう。
    『情けじゃないんだろうけどさ……』
     忍の亡骸を前に年若い主がどうしたのか、知りたかったが佐助は敢えて耳を閉ざした。
     次の言葉を待つも、ぱちゃり、と小さな水音がしたっきり、小十郎が口を開く気配はない。どうしたのかと、そっ、と隙間から様子を窺えば、持ち上げた腕で目元を覆っている後ろ姿がそこにはあった。
     何事か考えているのか、はたまたなにかに耐えているのか、表情が窺えず判断がつかないが、声を掛けるべきではないと、佐助はただひたすらに相手の言葉を待つ。
    「平気、なのか?」
    「うん?」
     ややあって漏らされた問いは不明瞭で、佐助は小さく問い返す。
    「自分を殺した相手と、わかってたんだろう?」
    「うーん、でもホラ、過去のことで一回終わってるし」
     佐助からすれば、それはそれこれはこれ、ととっくの昔に割り切ったことなのだが、つい先程そのことを認識した彼からすれば捨て置けぬ問題らしい。
    『ややこしいなぁ』
     相手は小十郎として話しているのだろうが、合間合間に顔を出す感情はどう見ても政景のものだ。
    「ねぇ、旦那。ハッキリさせておきたいんだけどいいかな?」
     扉の隙間から吹き込むように、だが強く声を発すれば相手の肩が僅かに揺れた。
    「俺様は独眼竜の味方ってワケじゃないんでね。片倉の旦那の話も、政景くんの話もちゃんと聞いて、中立の立場で居たいのよ。だから、本音を聞かせて頂戴」
     一旦、言葉を切り、すぅ、と深呼吸をしてから佐助は再び口を開いた。
    「これまで通り『伊達政景』として扱っていいの? それとも『片倉小十郎景綱』として扱った方がいいの? 独眼竜には内緒だっていうならそうするし、俺様相手に『ですます』はイヤだってんなら、昔みたいに……」
    「……わからない」
     顔を覆い天井を仰いだまま呻くような声音が、佐助の言葉を遮るように押し出された。
    「どうしていいか、自分でもわからないんです──俺は、政宗様の重荷にはなりたくねぇし、俺はただ居るだけで父さんのためになにも出来ないし役にも立たないッ! だったら『片倉小十郎』として傍に居て、だけどそれは政宗様を過去に縛り付けることになりはしないかと、今生での幸せを奪うんじゃないかと、だけど俺は父さんが大好きでその気持ちは無くしたくなくて、でも政宗様を愛してる俺の気持ちは確かにここにあって、無かったことになどできようはずもなくて、俺は、俺はどうすればいいのか……ッ!!」
     ぐるぐるとわだかまっていたものが抑えきれなくなったか、一気に言い切るや、ばしゃり、と激しく水面を叩き、俯いたまま肩を震わせる相手に佐助は掛ける言葉が見つからない。
     否。
     ここで彼に必要なのは佐助の言葉ではないのだ。
    「──だったら、両方持ったままでいろ」
     この場に居るはずのない男の声に、はっ、と政景は弾かれたように顔を上げた。その先には携帯電話を手にした佐助の姿があり、状況が飲み込めない政景は問うことも出来ず、ただ呆然と機械から聞こえる政宗の声に耳を傾けるしかない。
    「っんとに莫迦だな、おまえは」
     どこか荒い息の元、それでも紡がれる言葉を聞き漏らすまいと、知らず政景が僅かに身を乗り出したその時、ガチャリ、と玄関の開く音が二重に聞こえたかと思いきや、
    「目の前に居なきゃ、抱き締めてやることも出来ねぇだろ」
     佐助を押しのけるように現れた政宗は僅かに肩を上下させつつ、携帯電話を耳に当てたまま、にぃ、と笑んで見せた。
    「な、んで……」
     ここに、と政景が言い切る前に手中の携帯電話を佐助に押しつけた政宗は、躊躇うことなく浴槽へ飛び込むと、ぎゅう、と力の限りに政景を抱き締めた。
    「政景も小十郎も俺のモンだ。どっちかだなんて選べねぇし選ぶ気もねぇ」
    「……ッ」
     咄嗟にどちらで呼べばいいのかわからず声を詰まらせた愛しい相手を安心させるように、政宗は濡れた髪を柔らかな手付きで撫でてやる。
    「おまえの名前はなんだ?」
    「政景、です」
    「そうだ。俺の『政宗』から一字と、そしてもう一字。誰から貰ったか、もうわかるだろ」
     名前とは特別なものであると、いつぞやに佐助が言っていたことを思い出し、政景は軽く目を見張った。
    「息子が生まれたらこれしかねぇって決めてたんだ」
     Wifeにはチクチク言われたけどな、と苦く笑うも政宗は柔らかな面差しで息子を見下ろす。
    「『伊達政景』であり、『片倉小十郎景綱』でもある。それが俺の息子だ。それ以外の答えがどこにある? 大好きも愛してるも独り占めとは、とんだ果報者じゃねぇか!」
     なぁ、そう思うだろ? と政宗が佐助に同意を求めれば、「はいはいご馳走様」と心底ウンザリした声が返ってきたのだった。


     政宗の作った粥を三人で啜りながら、佐助は事の次第を政景に全てバラした。
     正直これは自分の手に負えないと佐助は早々に判断し、政宗にFAXで家の場所と裏道を教え、それに「緊急事態発生」と書き添えたのだ。
     だが、駅二つしか離れていないとはいえ車を飛ばしても数分で来られるはずもなく、政景が風呂に入ってから佐助が電話で政宗の現在地点を確認した後、そのまま電話を切らずに頃合いを見計らって、扉越しの会話に臨んだというわけである。
    「結果的には荒療治になっちゃったけど、俺様としてはもうちょっと竜の旦那がジタバタするの見ていたかったんだよねぇ」
     その為に政景くんを拉致ったのにざーんねん☆と、本気か冗談かわからぬことをほざく佐助の襟元を乱暴に締め上げる政宗を、ちら、と上目に見やり、政景は事の発端を思い出したか、僅かに顔を赤くする。
     夢に見たあれは小十郎の記憶で、自分がおかしくなったわけではなかったのだと安堵するも、政宗は今も小十郎とそう言う関係でいたいのだろうかと、ふと思ってしまい、聞くに聞けないその問いに政景は頭を悩ませるのだった。
     はーいセンセーご機嫌伺いに来ましたよ、とケーキ片手にやって来た佐助がコーヒーを淹れている姿を、政宗はダイニングテーブルに頭を乗せて眺めている。
     時間は午後四時。おやつには少々遅いが小休止だと、キーボードを叩く手を止めたのだ。
    「先週からだっけ? 学校始まったの」
    「あぁ」
     短い春休みの間に色々あったよねぇ、と一瞬目を遠くした佐助同様、政宗も眇めた目で、そうだな、と返す。
    「それでどうなの? 片倉の旦那の様子は」
    「小十郎じゃねぇ。政景だ」
     間髪入れずに訂正してきた政宗に僅かに目を見張るも、佐助は直ぐさまなんでもない顔で「うん、そうだったね」と小さく頷いてから、片手に一つずつマグカップを持った。
    「それなりに覚悟はしてたんだが、幸いにもこれといった変化はねぇなぁ」
    「そう。良かったじゃない」
     はいドーゾ、と政宗の目の前にカップを置き、彼の正面に腰を下ろす。それを待っていたか政宗は顔を上げると、じとり、と佐助を睨め付けた。
    「Ah……ひとつだけBad newsがある」
    「なに? 俺様なにかした? そんな恐い顔で睨まれる覚えはないんだけど?」
     隻眼の時でさえただならぬ眼力を備えていた政宗だ。それが今生は両の眼が揃っているのだから、その迫力たるや常人ならば竦み上がってしまうところである。残念なことに佐助には一切効果はないのだが。
     涼しい顔で、さらり、と政宗の視線を受け流し、こてん、と佐助が首を傾げてみせれば、政宗は口中でなにやら悪態を吐いた後、ゆうるり、と深く息を吐いた。
    「退部した」
    「……はい?」
     短く告げられた内容が理解できなかったか、佐助は一呼吸置いてから問い返す。
    「剣道やめたんだよ」
    「え!? いきなりどうしたの!? っていうかソレ俺様関係なくね!?」
     寝耳に水と言わんばかりに目を丸くする佐助を一瞥し、政宗は静かにカップの縁へ唇を寄せると僅かに目を伏せた。
    「竹刀を握ると間合いが『小十郎』になっちまうんだとよ。体格が違うから型はガタガタで見られたモンじゃねぇ。それに、どうしても思い出しちまうんだと」
     すぅ、と上目に見てきた政宗の視線に、佐助は無意識のうちにあるはずのない腰の大手裏剣へと手を伸ばし掛け、息を飲む。
     佐助から決して目を逸らさず、淡々と政宗は言葉を紡ぐ。
    「てめぇを斬った感触が忘れられないんだとよ」
     くっ、と口端を吊り上げた政宗は奥州の竜の顔をしており、佐助は感情を消した戦忍の顔で軽く肩を竦めて見せた。
    「おかしなモンだな。俺達はあの時のままだってのによ」
     戦のない世に生まれ落ちようとも、魂はあの群雄割拠の時代から途切れることなく生き続けているのだ。戦場で人を斬ることに後ろめたさはなく、それが生きる術だった。
    「アイツも頭ではわかってるとは言ってるが、夢に見るのか昨晩も俺のとこ来た」
     カップを卓へと戻し、ふっ、と緩く息を吐いた政宗の姿に、佐助は知らず安堵の息を漏らす。それに気づいた政宗が怪訝に片眉を上げてみせれば、入れ替わりにカップを手にした佐助は、ゆうるり、と眉尻を下げた。
    「ちゃんとお父さんの顔してるから、ちょっと安心した」
     不安な気持ちを胸にやってきた息子を裏切るような真似はさすがにしないか、と隠すことなく口にすれば、心底心外だと言わんばかりに政宗は唇をへの字にひん曲げた。
    「俺のことなんだと思ってんだ。ただでさえも甘え下手なアイツが迷いに迷った挙げ句、腹ぁ括って夜中に泣きそうな顔で来たんだぞ。それをどうこうしようとか思わねぇっての」
     部屋に戻りかけては足を止め、ノックをしようと拳を作るもなにもできぬままにその手を下ろす。姿は見えずとも扉向こうから感じる気配に心配になった政宗が腰を上げかけたその時、控え目に扉を叩く音に続いて聞こえてきた「父さん、起きてる?」との声は微かに震えており、ぎゅっ、と胸が締め付けられた。
     護らねばと。この愛しい存在を自分が護らねばと、支えてやらなければと、受け止めてやらなければと、改めてそう強く思ったのだ。
     おいで、と優しく誘えば素直に共にベッドに入り、頭が胸元に収まるように柔く抱き締めてやれば、そろり、と遠慮がちに若干、政宗より細い腕が背に回された。
     身を包む体温と心音に気持ちがほぐれたか、強張っていた身体からも徐々に力が抜けていき、息子の口から、ぽつぽつ、と漏らされる言葉に相槌を打ち、声音が、とろり、と蕩けるまで髪を撫で続けた。
     そんな息子が眠りに落ちる間際に見せた不器用な笑みは紛うことなく小十郎の物で、今生も彼が共にあるのは夢ではないのだと噛み締め、閉ざされた瞼に軽く口付け政宗も静かに目を閉じたのだった。
    「今後もその調子で頼むわ、おとーさん」
     ニヤニヤ、とどこか楽しんでいるようにも取れる佐助の物言いに、政宗は瞬時に片眉を跳ね上げ相手の胸座を掴まんばかりの勢いで立ち上がるも、玄関から聞こえた「ただいま」の声に即座に表情を改める。
     カチャリ、と開かれたリビングの扉から顔を出した政景に政宗と佐助は同時に「お帰り」と返し、佐助は更に「おやつあるよ」と彼を手招いた。
    「どれにする?」
     まだ箱から出されていないそれを覗き込むも政景は軽く首を傾げた後、つい、と視線を政宗へと向けた。
    「父さんが選んだ後でいいです」
     そう言うが早いか、手洗ってきます、と踵を返した政景であったが、不意に政宗に腕を引かれ踏鞴を踏む。何事かと父親を見上げれば腕を掴んだ手は肩へと移動し、更に思いのほか真面目な表情で顔を覗き込まれ、瞬時に政景の頬に、さっ、と朱が差した。
     予想だにしていなかった息子の反応に政宗もどうしていいかわからず、え、あ、と不明瞭な言葉を漏らし、どこかギクシャクとした動きで政景の頭に手を伸ばす。
    「花びら、ついてたぞ」
     小指の爪にも満たない淡いピンクの花弁を摘み上げ、暫し視線を彷徨わせた後、
    「春、だな」
     となにかを誤魔化すかのように口にすれば、
    「春、ですね」
     と政景も微妙に目を泳がせたまま応じる。
     口には出さないが佐助も、
    「春、だねぇ」
     と妙なところで意識してしまっている親子を眺め、くつり、と喉奥で笑ったのだった。
     普段余り利用しない駅に降り立ち、政景は、きょろり、と構内の表示を確認する。学生の帰宅時間と被っているからか様々な制服が目に入り、そういえばこの時間帯に出歩くのは滅多になかったな、とその光景に少々新鮮な気持ちになる。
     これまでは部活に当てられていた時間だが、四月が終わる前に退部を申し出た。やめることを決意し政宗に隠すことなく理由を告げれば、父親は一瞬言葉を失うも「そうか」と頷き、無理はするな、と気遣ってくれた。
     しかも顧問への退部理由の説明に悩んでいることを見抜いてか、家のことを持ち出しちまえ、と軽い調子で提案し赦してくれたことは感謝してもし足りない。
     予定よりも早い主将引退に部員からは引き留める声も上がったが、それらに対して丁寧に詫びの言葉を並べ剣道部を去ったのだった。
     改札口を抜け隣接した駅ビルへと入り、目的地である書店へと足を向ける。これまでどうにか、のらりくらり、とかわしてきた政宗のサイン会がとうとう現実の物となったのだ。
    「例の越後の軍神と忍シリーズが第一部完結で丁度いいじゃない、って会議で押し切られてさー」と、佐助が企画書片手にぼやいていた姿は記憶に新しい。観念したか政宗も乗り気ではないまでも首を縦に振り、Webや雑誌で告知されてからは政景も学校で少々面倒臭いことになっていた。
     政宗が作家であることは特に隠してもいなかったのだが、「あれが息子か」と思い出したように顔を見に来る者が俄に増え、まさか一喝して散らすわけにも行かず正直胃が痛い。クラスメイトに「今だけだって」と慰められ、はは、と引きつった笑いしか出なかった。
     棚の間を擦り抜け新刊の積まれている平台へと向かえば先客の姿があり、政景は学ラン姿の高校生と思しき男と適度な距離を取って台の前で足を止める。
     華やかな表紙が並ぶ中、父親の書物にはサイン会のお知らせのPOPが付いており、更に目立つよう一段高い場所へ陳列されていた。薔薇の花びらが散らされた表紙を手に取る勇気はさすがになく、内心で苦笑しつつPOPを読んでいれば、ふと横手から視線を感じ政景は顔をそちらへ向ける。
     じっ、と穴が開くほどに真顔で見つめてくるのは、隣に居た先客の学生だ。今初めて相手の顔をしっかりと認識した政景は、目の前の現実に瞠目し呼吸すら止まってしまった。
     一点の曇りもない真摯な眼差しでありながらどこか愛嬌があり、まるで子犬のようなくりくりとした黒目がちな眼は全く変わっていない。
    「真田、か?」
     こくり、と僅かに喉を上下させ声を潜めて慎重に問えば、途端、ぱぁ、と華やいだ表情は直ぐさま歓喜に打ち震えた大音声にすり替わった。
    「うぉぉぉぉおおおッ! やはり政宗殿でござったかぁぁぁぁぁッ!!」
    「うるせぇッ!」
     相手の行動を予測していながら口を塞ぐことが間に合わなかった政景は、上げた手を迷うことなく握り拳へと変え一切の躊躇もなく焦げ茶の頭へ振り下ろした。
    「場所を弁えろ! あぁクソ、ちょっと来い!!」
     ざわ、とどよめく店内に居たたまれなくなり、政景は頭を押さえて蹲っている幸村の襟首を、むんず、と掴むとそのまま有無を言わせず引き摺り、早々に書店を立ち去ったのだった。
     途中でようやく復活した幸村は自分の足で歩きながら「痛いでござる」と、隣の政景を恨めしそうに、じとり、と見やる。
    「自業自得だ、莫迦が。それに俺は政宗様じゃねぇ」
    「なんと!?」
     どこかに腰を落ち着けるか、とめぼしい店を探して首を巡らせつつ政景がなんでもないことのように訂正すれば、幸村は心底驚いた顔で素っ頓狂な声を上げた。
    「では、某のことを知っている貴殿は一体、いやしかしその姿は紛れもなく伊達政宗殿であって、えーと、つまり……」
     目の前の情報と政景の言葉を懸命に処理しようとするも混乱は増す一方であるのか、幸村はひとしきり考え込んだ果てに、こてん、と首を傾げた。
    「どちら様でござるか?」
    「全然変わってなくてある意味安心したぜ」
     半眼で幸村を見据え、政景は眉間に深いしわを刻んだまま、はー、と深い息を吐く。その仕草でピンときたか、幸村はおもむろに、ぽん、と手を打ち鳴らすや「あいや待たれよ、某わかり申した! 片倉殿でござるな!?」と喜色満面言い切ったのだった。
     間違ってはいないが認識の仕方がどうにも釈然とせず、政景は僅かにこめかみを引きつらせるもどうにか抑え込み「そうだ」と低く肯定する。
    「続きは中でな」
     学生の懐具合を鑑みてファストフード店へ足を向ければ、幸村は特に異を唱えることなく政景の背に続いた。
     帰宅してから夕飯を食べることを考慮しコーヒーのみを注文した政景の前では、セットを複数頼んだのか幸村はトレイ一杯の食べ物を前に行儀良く両の掌を合わせている。
    「改めて確認するが『真田幸村』でいいんだな?」
     豪快に嵩のあるハンバーガーにかぶりついている幸村に問えば、こくこく、と勢いよく縦に首が振られる。
    「そうか。俺は今は政宗様の息子でな、『伊達政景』という……」
    「ぶふほぉっ!?」
     ばっ、と今度は口を押さえることに成功し、幸いにも幸村の口から噛み砕かれた物が飛び散ることはなかったが、被害にあった掌を拭いながら政景は半眼で相手を見やる。
    「口ン中に物を入れたまま喋るな」
    「申し訳ござらん」
     ごくん、と口中の物を飲み下してから幸村は素直に頭を下げ、ちろ、と窺うように政景を上目に見る。
    「見れば見るほど在りし日の政宗殿によう似ておられる。だが、やや面差しが政宗殿よりまろい」
     目元が違うのでござろうか、と真剣に相違点を検分している幸村に、政景は困ったように笑んだ。初っ端から『片倉小十郎』として接してしまった以上、今更『伊達政景』として話すわけにもいかず、面倒臭ぇことになった、と無意識のうちに眉間に深いしわが寄る。
    「まさかとは思うが、あの小説買ってんのか?」
    「いや、某は頼まれただけでござる。新刊を買うとなにやらサイン会の整理券が貰えるとか、クラスの女子が騒いでおりまして」
     その書店には帰りに寄るつもりだったからついでに買ってきても良い、と申し出たとのことであった。
    「そこでまさか片倉殿とお会い出来るとは、夢にも思わなかったでござる」
     僅かに目を伏せどこか寂しげな笑みを浮かべるも、はっ、と我に返ったか、これも縁でござろうか、とはにかむ幸村に政景は、きゅっ、と唇を引き結ぶ。彼の大切な従者をこの手にかけたことは、恐らく幸村も覚えている。そのことを謝罪すべきか一瞬瞳を移ろわせれば、幸村は俄に表情を引き締め「らしくないでござる」と凜とした声を発した。
    「なんら卑怯なことはせず正々堂々戦った結果を詫びられては、佐助も浮かばれないでござる」
     揺るぎない眼差しで言い切られ、今生でも消えることなく武士の魂が息づいていることを見せつけられたようで、政景は現在の価値観に無意識のうちに囚われている自分を内心で叱責し「すまねぇ」と短く詫びた。
    「おまえ、普段もその喋り方なのか?」
     これ以上この話題を続けるのは双方共に望まないだろうと、政景が別の話を振れば幸村は、きょとん、と目を丸くした後、「たまに出る程度で、普段はそんなことはござらん!」と強い否定の言葉を発した。
    「今は片倉殿がお相手だからでござろうか。指摘されるまで意識してなかったでござる」
     いやはやお恥ずかしい、と照れたように後ろ頭を掻く幸村だが、不意になにか気がついたか顔を上げ政景を、じっ、と見つめる。
    「片倉殿も普段は違うのでござろう?」
    「あ、あぁ、そうだな。だが、こっちの方がわかりやすくていいだろ」
     見目がこうだしな、と軽く肩を竦めて見せる政景に幸村は一瞬、珍妙な表情を浮かべるも「確かに」と大きく頷いたのだった。
     そこで一旦会話は途切れ、幸村は暫し胃に食料を送ることに専念する。もりもり、と見ている方も気持ちの良い豪快な食べっぷりに、政景の目元が知らず和らいだ。それをたまたま目にした幸村は、似ておられるがやはり政宗殿とは違うのだな、と内心で漏らす。
    「片倉殿、政宗殿はご健勝でおられるか?」
     かつての好敵手が気になるのは当然の流れであると、政景は突然の問いにも関わらず驚いた様子もなく首肯した。
    「会いたいと、政宗様も仰るだろうな」
     静かにそう告げる顔はかつての右目のもので。
     今、話だけでもするか? と携帯電話を取り出した政景に、意外にも幸村は、ゆるり、と頭を振ってみせた。
    「言葉を交わしたい気持ちは確かにありまする。されど、某はやはりきちんと顔を合わせて、目を見て、お話がしとうござる」
     生真面目に頭を下げて辞退する幸村に政景は眦を下げ、そうか、と柔く笑む。今生でも変わらず真っ直ぐなその気質は大変好ましい物で、争う必要のない時代での再会に歓喜と安堵を覚えた。


     メールアドレスと番号を交換し、ふたりが帰路に就いたのはすっかり陽が暮れてからであった。
     これから帰るとの連絡を政宗に入れた際、政景のあまりの口調の違いに幸村は歩きながら飲んでいたコーラを噴き出し、激しく噎せた。政景はそれを軽く目だけで黙らせると何食わぬ顔で電話を切り、改札を抜けるや、じゃあまたな、と後ろ髪を引かれる様子もなくそれぞれ別方向の電車に乗ったのだった。
     窓の外を流れる景色をただ目に映し、政景は幸村の言葉を反芻する。
    「──縁、か」
     政宗の息子として生まれ、己が『片倉小十郎景綱』であることを知らぬまま、この先を生きていくかも知れなかった。だが、政宗の前に猿飛佐助が現れ、そこからは正に急転直下であった。
     そして過去に彼を殺め、主と離別させた自分が、佐助の主である真田幸村と再会した。この巡り合わせは、今生で彼らを引き会わせることが政景の役目なのではないかとさえ思えてくる。
    「罪滅ぼし、かもなぁ……」
     幸村も佐助もあれは過去のことだと割り切っている。彼ら同様、武士であった片倉小十郎は納得しているが、伊達政景の胸にはそれはしこりとして永遠にあり続けるのだ。
     幸村に告げることを躊躇い、結局黙りで通してしまった佐助の存在。
     今でも六文銭を大切に持っている佐助を思えば、政景の取るべき行動は自ずと知れた。
     本来降りる駅を通過し、ふたつ先の駅の改札をくぐる。幸村のことを佐助に告げるだけならば電話やメールで事足りるというのに、政景は敢えて足を運ぶことを選んだ。
     チャイムを鳴らし待つこと暫し。ドアスコープから来訪者を確認したか、誰何の声が上がることなく扉は開かれた。
    「どうしたの?」
     僅かに目を丸くしている佐助に「すまねぇな」と苦く笑んで見せれば、その口調と表情で相手がどちらであるかを察したか佐助は軽く息を飲んだ。
    「ちょっと話がある」
     大切なことだからこそ彼の主に倣って、きちんと顔を合わせて、目を見て、話したかったのだ。その思いが顔に出ていたか佐助の表情は引き締まり、無言で室内へと招かれた。
     先に政景をソファへ座らせ、ややあってから佐助はマグカップをふたつ携えて戻ってきた。ぽすり、と政景の隣に腰を下ろし、で? と軽く相手の顔を覗き込むように首を傾げる。
    「独眼竜となにかあった?」
     これ以外無いだろうと極当たり前に投げられた問いに、政景が、ぽかん、と佐助を見れば、カップを口に運びかけていた佐助は「あれ? 違うの?」と心底驚いた声を寄越した。
    「なんだ、てっきり竜の旦那のセクハラがヒドイからその相談かと思ったのに」
     構えて損したー、と瞬時に気の抜けた佐助に向かって、政景は前振りもなく「真田に会った」と告げた。
    「……え?」
    「今日、真田に会った」
     ゆっくりと、静かに発せられたその言葉が信じられないのか、佐助は口端を歪に吊り上げ、すぅ、と目を細める。
    「ちょっと、一体なんの冗談? よりにもよってソレって全然笑えないんだけど?」
     底冷えのする眼差しで政景を見据え、佐助は手にしていたカップをテーブルへと置いた。
    「俺が冗談を言うと思うか?」
     だが、戦の世と寸分違わぬ感情を一切殺した表情を前にしても怯むことなく、政景は射抜くような真っ直ぐな眼差しで逆に佐助を見据える。
    『片倉小十郎景綱』の堅物ぶりは伊達軍の者のみならず、外にも大きく知れ渡っていた。情報収集を生業とする忍ならば、性格からそれこそ性癖に至るまで更に深く詳しいところまで知り得ていた。
     確かに、冗談を言うような男ではない。
    「そう……元気にしてた?」
    「あぁ、全然変わってなかった」
     ピリ、と張り詰めていた空気が和らぎ、互いに一言ずつ口にしてから気持ちを切り替えるようにコーヒーを口に運ぶ。
    「驚いてはいたが、疑いもしねぇでよ。あれから四百年も経ってるっていうのに、まるでほんの一週間しか経っていないような自然さだった」
    「素直なのが取り柄だからねぇ、ウチの旦那は」
     どこかの竜と違って、と付け加えれば、一言余計だ、と軽く肘で小突かれた。
    「ただ、会ったのが俺だったからかもしれねぇけどな。最初は俺を政宗様と勘違いして大騒ぎしやがったし」
     書店でのことを思い出し、眉間にしわを寄せて苦く笑む政景の様子から大凡の見当は付いたか、あーうんごめんね、と佐助は幸村の代わりに謝る。
    「そうね、なんだかんだで片倉の旦那には一目置いてたし。あれでも目上の者には礼儀正しいのよ」
    「知ってる」
     昔を思い出したか一瞬だが表情の柔くなった佐助につられ、政景も目元を和らげ囁くように言葉を唇に乗せた。
    「それで、旦那には俺様のこと……」
    「言っていない」
    「だよね。だから、来た」
     ひた、と見据えられ、政景は首肯する。
    「てめぇがどうしたいのか、確認するのが筋だと思ってな」
    「そいつはドーモ」
     軽い口調で返してきたがその瞳はどこか落ち着かず、一所を二秒と見ていない。珍しくもあからさまに動揺している佐助を前に、政景は敢えて口を開かず静かに目を伏せ、ゆっくり、とマグカップを傾ける。
    「なんかさ、少しだけ片倉の旦那の気持ち、わかった気がするわ」
     トントン、と指先でこめかみを軽く叩きながら苦い声を押し出す佐助を、ちら、と横目に見やれば、声音同様に苦り切った顔をしており、政景は「そうか」と相槌を打つしかなかった。
    「記憶はあっても今生では普通に暮らしてるわけでしょ? そこに俺様が現れたら過去に縛り付けるかもしれない。それまでの生活がガラッと変わっちゃうかもしれない。真田の旦那はさ、優しいから俺様を責めるようなことは言わないだろうけど、それでも今の生活を脅かすかもしれないと思うとさ、やっぱおいそれとは言えないよねぇ」
     目を伏せた佐助はどこか自嘲的な笑みを浮かべており、主よりも先に逝った忍は僅かばかりの負い目と、不甲斐なさを常に抱いていたのだと知る。
    「それでいいなら、俺はなにも言わねぇ」
     はー、と深い溜め息と共に吐かれた政景の言葉は突き放すような物であったが、ゆうるり、と向けられた眼差しはそれとは裏腹に恩愛の込められた物で、佐助は形だけの悪態を吐こうとするも言葉を詰まらせた。
    「──と、言いたいところだが、俺は真田とおまえを会わせてやりたい。これは俺の我が儘だってのはわかってる。でもな、てめぇ自身が政宗様に言ったことを忘れたわけじゃねぇだろ?『この状況がどれだけ奇跡的な確率かわかってる?』ってな」
    「ちょっ、独眼竜そんなことまで話したの!?」
     あちゃー、と顔を片手で覆い天井を仰いだ佐助に、政景は父親譲りの人の悪い笑みを浮かべて見せた。
    「他にもいろいろと聞いたが今は不問にしとく」
    「今は、ね」
     コワイなーもー、といつもの調子を取り戻した佐助は僅かに眉を寄せてはいたがどうにか笑みを浮かべ、戯けたように、降参、と両手を軽く胸の辺りまで上げる。
     だが、すぐにその手は力無く膝上に落ち、それに引かれるように頭が垂れた。
    「旦那に、会いたいよ」
     くしゃり、と泣き笑いのような表情でそう漏らす佐助の背を、ぽんぽん、と軽く叩き、政景は「真田も会いたいに決まってるだろ」と柔く笑んだ。
     ずっ、と鼻を一啜りした後、佐助はそれを誤魔化すように「旦那とどこで会ったの?」と話を振ってきた。
    「あ、あぁ、今度政宗様がサイン会をなされる書店を見に行って、そこで……あ」
     不意に言葉を切った政景があからさまに、しまった、といった表情を見せた刹那、ブレザーのポケットから鳴り響いた軽快な音楽に、一瞬にして顔面から血の気が引いた。
    「独眼竜?」
     この男がこうまで狼狽える相手とくれば限られており、佐助が確認の意味を込めて問えば政景はぎこちない動作で首を縦に振る。がなり続ける電話を取るべきか、気がつかなかったフリをするべきか。どちらに転んでも良い結果にはならぬと覚悟を決めたか、政景はなるべく腕を伸ばしてから通話ボタンを押した。
    「ちょっおい政景今どこだッ!?」
     途端、響き渡った政宗の声に佐助は己の口を両の手で押さえ、必死に笑いを噛み殺す。だが、ぷるぷる、と震える肩は抑えきれず、政景は恨めしそうにそれを半眼で見やりつつ、恐る恐る、携帯電話を耳元へ持ってきた。
    「あー、その申し訳ありません。ちょっと寄り道してまして……」
    「旦那、口調、口調!」
     小声で佐助が指摘するも時既に遅し。はっ、と口を押さえた政景の顔色は見る間に悪くなり、はい、はい、と電話向こうに小声で応じる姿は、まるで主人に叱られている犬のようだ。
    「……はい、いえ決してそのような、はい」
     ちら、と窺うように寄越された視線に、うん? と佐助が首を傾げれば、送話口を押さえた状態で政景が「すまねぇ。どうせおまえと一緒なんだろうから代われ、と仰ってるんだが」と申し訳なさそうに眉尻を下げている。
    「あぁ、別に構わないよ」
     頂戴、と手を伸ばせばもう一度、すまねぇ、と詫びの言葉と共に携帯電話が手渡された。
    「はーい独眼竜、どうしたの?」
    「どうしたもこうしたもねぇよ。『今から帰る』って電話があったのに全然帰ってこねぇから、心配して電話すりゃ出たのは小十郎だしよ」
    「あぁ、だから俺様が絡んでると思ったのね」
     普段はあくまで息子である『伊達政景』として日々を過ごしている事を考えれば、『片倉小十郎』の話し相手は確かに佐助しか居ない。
    「ごめんねセンセー。久々のファンイベントを前にセンセーが緊張してないか、政景君に話し聞きたくてさー。無理言って来て貰っちゃった」
     てへ、と可愛い子ぶる佐助に、電話向こうの政宗がなにやら悪態を吐いているのが切れ切れに聞こえてくるが、忍は全く堪えた様子もなく、のらりくらり、とかわしている。
    「もーホント悪かったって。わかったわかった。ちゃんと送るから、はいはいじゃあ切るよ」
     そう宣言するや政景に代わることなく佐助は、えい、と一切の躊躇なしに電話を切った。
    「ま、これでとりあえずは大丈夫デショ」
     はい、と携帯電話を返し佐助は「車取ってくるわ」と立ち上がるや、ぽふ、と政景の頭に軽く手をやり、「真田の旦那の話、ちゃんと聞かせてよね」と言い置いて部屋を出て行ったのだった。


     キュキュッ、とサインペンを走らせ、握手をし、手渡されるプレゼントに礼を述べ、またサインペンを走らせる。
     政宗の様子を少し離れた場所から並んで眺め、佐助と政景は安堵の息を吐く。
    「なんというか、人前に出た時の貫禄は昔と変わらないねぇ」
    「昔から御自分の立場は弁えておられるからな」
     サイン会開始直前までコーヒーショップで、ぐでぐで、になっていたとは到底思えない完璧な営業スマイルにはただただ脱帽だ。
    「それじゃあ、イレギュラー対応のお手並み拝見といきますか」
     くつり、と佐助が人の悪い笑みを漏らせば、政景も楽しそうに喉を鳴らす。女性ファンが大半を占める中、今政宗の前に立ったのは高校生と思しき青年だ。
    「よろしくお頼み申す」
     正直、ロクに相手の顔を見ていなかった政宗は、そっ、と差し出された文庫と共に降ってきた声に、はっ、と弾かれたように顔を上げた。
    「な、ん……」
    「お久しゅうござる、政宗殿」
     にかり、と真夏のひまわりを想起させる笑みを惜しげもなく晒す男を、政宗は一人しか知らない。
     咄嗟に声が出ず政宗は反射的に佐助に顔を向ければ、そこには、してやったり、と言わんばかりの笑みを浮かべている男がおり、その隣に居る政景にも驚いた様子はなく、ここにきてふたりに嵌められたのだと気づく。
    「Shit ……やってくれるぜ」
     くっ、と口端を吊り上げた凶悪極まりない笑みは、戦場で相対していた幸村には見慣れた物であるが、作家である伊達政宗しか知らぬ者には初披露だ。野性味溢れるそれにサイン待ちをしている列や、離れた場所で見学をしているファンの間から小さいながらも悲鳴じみた歓声が上がり、あちゃー、と佐助は額を押さえる。
    「上品で落ち着いた大人のイメージでやってたのに、もー台無し」
    「まぁ、仕掛けたのはこっちだからな。政宗様は悪くねぇ」
     しれっ、と主を擁護する出来た従者に、そーね、と返し、佐助は熱い握手を交わしているふたりの姿に目を細める。
    「たくさん、話したか」
    「ん、そこそこね。旦那が途中から大泣きしちゃって、それどころじゃなかったから」
     あはは、と戯けた返しをする佐助を、じっ、と見上げ、政景はなにか言いかけるも、そうか、と静かに返すに留めた。
     先日、政景を自宅へと送る車中で幸村に会った経緯を聞き、更にファストフード店での会話も聞いた。「真田は直接会って話したいだろうから」と政景が言うので、彼に繋ぎを頼み会う日を決めた。
     そして、実際に顔を合わせれば互いに言葉は出てこず、佐助がやっと押し出した言葉は「元気だった?」というなんとも間の抜けたものになってしまった。だが、幸村は笑いもせず大真面目に「佐助も元気そうでなによりだ」と応えるも握った拳は小刻みに震えており、一瞬、ひくり、と喉を震わせたかと思いきや、くしゃり、と顔を歪め、一も二もなく佐助の胸に突っ込んできたのだった。
     どうにかその突撃に耐えた佐助は昔と変わらぬ癖毛を見下ろし、宥めるようにその背を、ぽんぽん、と軽く叩いてやる。
    「しくじっちゃってごめんね、旦那」
    「謝る、なッ!」
     嗚咽を漏らすまいと必死に歯を食いしばる幸村の肩は時折、ひくり、と跳ね、それを誤魔化すように更に顔を押しつけてくるかつての主が、たまらなく愛しいと改めて思えた。
    「今生でも旦那は強い子で、俺様安心した」
     ぽろり、と佐助の口から零れ落ちた言葉に、政景は一瞬目を見張るも敢えてなにも言わず、こちらへ向かってくる幸村に軽く手を上げて見せたのだった。
     ゆらり、と風にそよぐカーテンを視界の隅に納め、政宗は緩く息を吐く。視線の先にはベッドに横になっている息子の姿があり、床には掛け布団から剥がされたカバーがわだかまっている。
     掃除をするから、と早い時間に部屋を追い出され、仕方なしに時間を潰して帰ってみればこれである。だが、窓の向こうを見やればベランダの手摺りにふたり分の布団が掛けられており、ちょっと休憩と横になったら思わず寝入ってしまったと言ったところかと判断する。
    「まぁ、いい天気だしな」
     暑すぎず寒すぎず、とろり、と眠気を誘うには丁度良い日差しに、車を運転していた政宗も欠伸を誘われたほどだ。
     なるべく揺らさぬよう静かにベッドの端に腰掛け、こちらに背を向けている政景の髪を、さらり、と梳く。
     春休みの旅行後に避けられた理由は未だに判明していないが、「後生ですから」と涙目で懇願されては強く問うことも出来ず、結局はあやふやなまま季節は巡ってしまった。
     この件に巻き込まれたに等しい佐助からは「甘いんだから」と棘のある言葉を頂戴したが、政宗の優先順位は変わらない。佐助の言葉など鳥のさえずりと一緒だ。だが、巻き込まれたが故に佐助もかつての主に巡り会えたということもあり、さほど追求する気はないようだ。
     髪を梳いていた指を唇へと移動させ、掠める程度になぞる。
     部活を辞めてから政景は、竜笛を奏でる回数が増えた。昔聞いた音色そのままの旋律に政宗が目を細めれば、政景も柔らかな笑みを浮かべる。今も昔も政宗のためだけに奏でられるその音は、彼が片倉小十郎景綱であることを一層強く知らしめた。
     愛しい、と。
     不意に湧き上がるその感情が常のそれと違うことに、朧気ながら政宗は気づいている。
     それは力の限りに掻き抱き、貪るように奥の奥まで暴き立てる、欲にまみれた愛しさだ。
    「おまえが今ここにいるだけで満足できないとか、どこまで欲張りなんだろうな、俺は」
     どこか自嘲気味な呟きを漏らし、指先で柔く触れていた唇に己のそれを押し当てる。感触は記憶にあるそれとは異なっているが温かさは変わりなく、胸の奥が、ちりり、と痛んだ。
     起きているときにこのようなことをすれば、息子であり忠実な家臣である彼は自分以上に胸を痛め、悩むのは目に見えている。薄く開いた唇を食むことも舌を伸ばすこともせず、政宗は名残惜しそうにそのまま身を起こす。
     それでも離れがたいのか上から覗き込むように息子の寝顔を見つめていれば、ころり、と寝返りを打った政景の腕が不意に持ち上がり、まるで見えているかのように政宗の首へと伸ばされ、するり、と絡みついた。
     そのまま、くっ、と引き寄せられ政宗は抗うことなく肘をつき、政景との距離を縮める。目の前で、ゆるり、と持ち上げられた瞼の下から現れた眼はどこか虚ろで、彼が未だ夢の世界の住人であると告げていた。
     寝惚けているのか、と内心で苦笑しつつも、ゆるゆる、と左頬を撫でてやれば、政景は甘えるように鼻を鳴らし薄く開いた己の唇を、ちろり、と舌先で僅かに舐めた。
     その仕草に政宗は瞠目し、同時に心臓が一際大きく鳴る。
     それは小十郎がよく見せた無意識に口吸いを強請る仕草で、気がつけば貪るように相手の唇を塞いでいた。
     ふ、と鼻から抜ける甘やかな声に、夢中で相手の舌を捕らえ柔く歯を立てる。愛撫に必死に応える熱い咥内と絡む腕の強さに軽い酩酊感を覚え、政宗は知らず口角を吊り上げる。
     くちゃり、と湿った音を立て下唇を舐った瞬間、政宗を捕らえていた腕が強張ったかと思えば、狼狽えた声と共に、どん、と些か乱暴に肩を突かれた。
    「なっ、え、あれ、え、えっ」
     上がる息を整える余裕もなく、政景は困惑と羞恥で、カーッ、と目元を更に染めた状態で政宗を見上げる。
    「だって、夢じゃ、え……」
     口許を両の手で覆い混乱のままに何事かを口走る息子を見下ろし、政宗は少々意地の悪い笑みを浮かべる。
    「なんだ、いつもそんなeroticな夢を見てるのか?」
    「ちっちが!?」
     冗談めかしてはいるが、くつり、と喉奥で笑う政宗の瞳の奥に見え隠れするものを、政景は知っている。片倉小十郎であったときに何度となく目にし、絡め取られたからだ。
     ぞわり、と背骨に沿って這い上がってくる感覚に、思わずきつく目を閉じる。だが、欲を孕んだ主の眼差しに晒された身体は敏感にそれを感じ取り、意志に反して熱を上げていく。
     今目を開けてはダメだと更に瞼に力を入れるも、促すように左頬を掌で撫でられれば、呆気ないほどに濡れた瞳は政宗を捉え、そして捕らえられた。
     戸惑い困惑する心はそれを大きく上回る切望と歓喜に飲まれ、意識の裏側へと押しやられる。
     小十郎、小十郎、と熱っぽく名を呼ばれれば、唇から零れ落ちるのは、政宗様、との掠れた声だ。
     下肢で蠢く手指に息を詰めれば、やわり、と咥内に指を差し込まれ舌を弄ばれる。
     主の指に歯を立てるわけにもいかず懸命に口を開いたままにすれば、 Good、と低く耳元で囁かれるも、その声音の優しさとは裏腹に体内を指のみで激しく責め立てられ、あられもない声を上げ続けた。


     四肢に力が入らないのか、くたり、ともたれかかる身体を抱き締め、政宗は充足感と自己嫌悪を同時に味わう。さすがに一度も拓かれていない身体に己自身を埋めることには耐えたが、それでも無体をしたことには変わりない。
     小十郎が絡むと周りが見えなくなるのは変わらず終いだと改めて実感し、深い深い息を吐く。
    「悪かった」
     胸の中で、ウトウト、と微睡む息子の髪を柔らかく撫でながら詫びの言葉を口にすれば、政景は何事か思案するように、んー、と喉奥で低く漏らした後、どこか躊躇いがちに唇を開いた。
    「……小十郎とされることを、政宗様は望まれるのですか?」
     不思議な言い回しに政宗は首を傾げるも、『父さん』ではなく『政宗様』と問うてきた意味を考え、はっ、と弾かれたように息子を見下ろす。
     顔を見られたくないのか政宗の胸に額を押し当て俯くその耳は赤く染まっており、触れ合う身体からは早い鼓動が伝わってくる。
    「おまえが、嫌じゃなければ」
    「その言い方は……卑怯です」
     ぎゅっ、と政宗の服を掴む政景の手を上から包み込み、そっ、と持ち上げると、指先に唇で柔く触れた。
    「ぐずぐずに蕩けるくらい愛してやるから覚悟しとけよ」
     言うが早いか指先に軽く歯を立て、びくり、と跳ねた身体を強く抱き締め、政宗は愛してる愛してると何度も耳元で繰り返したのだった。
     コーヒーを運んできた政景に礼を言い、その背がキッチンテーブルで頭を抱える幸村の隣で止まったのを見届けてから、佐助は視線を正面のソファに座す政宗に戻した。
    「旦那が来てるの知らなくてさ、なんかごめんね」
     コーヒーを口に運びながら軽く詫びる佐助に、別に気にしちゃいねぇよ、と政宗は面倒臭そうに返してくる。
     雑談ついでにちょっと軽く仕事の話でも、と不意に思い立って訪ねるも、中に通される前に玄関先で揃えられた靴を目にした瞬間、あらやっちゃった? と佐助は内心で苦笑を浮かべた。
     お邪魔しまーす、とリビングに足を踏み入れ更に奥に目をやれば、キッチンテーブルで見慣れた姿が必死の形相でノートと教科書相手に奮闘していたのだった。
     てっきり前世での好敵手と歓談していたとばかり思っていた佐助は、予想外のその光景に一瞬、目を丸くした。
    「そういやテストが近いって言ってたっけ」
     今生でも運動能力はずば抜けて高いのだが、勉強に関しては余り芳しくなく、いつも追試ギリギリなのだ、と大真面目に告白してきた際の幸村の顔を思い出し、佐助は、ははは、と力無く笑うしかない。
     そこで一つ上の政景を頼ってきたのか、と容易に想像が付いた。そして、政宗の機嫌がそこはかとなくよろしくない理由にも見当が付いた。
     一体いつから幸村が居るのかは知らないが、ひとり蚊帳の外でいい歳して拗ねてんのかこのおっさんは、と佐助は相手に気づかれぬよう半眼で、じとり、と見やる。だが、賢明にもそれを口にすることはせず、胸の奥へと仕舞い込み、促されるままにソファへと腰を落ち着けたのだった。
    「なんだかんだで面倒見いいよね」
     盛大に?マークを飛ばしている幸村の前に座り、根気良く説明をしている政景の姿を横目に、佐助が、ぽつり、漏らせば、政宗はどこかつまらなそうに、だが、どこか誇らしげに目を細める。
    「当たり前だろ。一体誰だと思ってんだ」
     それに対して、はいはい、と軽く返せば、面白いほどわかりやすく、むっ、とした顔が向けられた。
    「独眼竜の惚気に付き合うほど俺様、人間出来てないの」
     もー見てるだけでお腹いっぱい、と半ば本気で言ってやれば、政宗は嫌味を嫌味とは受け取らず、逆に底意地の悪いとしか言いようのない笑みを浮かべて見せた。
    「なんだ、羨ましいのか?」
    「ご冗談を」
     一言の元に斬り捨てた佐助は、一瞬、視線を横へ流したかと思えばすぐさま政宗へと戻し、僅かに眉根を寄せた。
    「まぁ、ダメだろうとは思ってたけど」
    「なにがだ」
     持って回った言い方が焦れったいのか、政宗が片眉を上げ低く問えば、佐助は指先で、とんとん、と自分の首筋を叩いて見せる。
    「際どい位置取りだけど、見える場所に残しちゃアウトでしょ」
     キスマーク、と唇の動きだけで告げれば、得心がいったか政宗は、あぁ、と小さく漏らし、くぃ、と口角を吊り上げた。
    「なに、虫除けだ。大学に入っていろいろ誘惑も多いだろうからな」
     高校の時と違い政宗の親ばかっぷりは浸透しておらず、気が気でないのはわかるが、ちょっとやりすぎだろうと政景が少々気の毒になる。
    「そんなことしなくても、他に靡くとは到底思えないんだけどねぇ」
     あーヤダヤダこの主従、と佐助が大仰に呆れて見せれば、政宗は怪訝に眉を寄せ「なにがだ」と僅かに首を傾げた。
    「アンタら、すっごい物欲しそうな目でお互いを見てることあるけど、気づいてないわけ?」
     言葉を選ぶのが面倒臭くなったか、ズバリ佐助が指摘すれば、政宗は一瞬、ぽかん、と呆けるも、苦い顔付きで「下世話な言い方すんな」と唇をひん曲げる。
    「独眼竜が一方的に、ってんなら俺様が釘させば済む話だけど、まさかあっちが陥落するとはねぇ」
     いやはやまいった、と首を緩く振る佐助に政宗はなにか言いかけるも、不意に口を噤んだ。
    「さすけぇ~……」
     その原因が、ふらふら、と頼りない足取りで近づいてきたかと思えば、情けない声と共に佐助の膝に突っ伏すようにソファに倒れ込む。
    「ちょっ、旦那?」
     どうしたの? 大丈夫? と頭を軽く叩きながら問えば、頭がパンクしそうでござる、と蚊の鳴くような声で返された。
    「一気に詰め込むのも限界があるからな。ちょっと休憩だ」
     その間に買い物に行こうというのか、政景は携帯電話をジーンズの尻ポケットへねじ込みつつ、反対の手は壁に掛けられたエコバッグに伸ばされている。
    「二人とも明日は休みだろう? 飯喰って行け。なんなら真田は泊まるか?」
     飯の後も教えてやるぞ、との有り難くも恐ろしい申し出に、幸村は背に腹は替えられぬとの思いからか「かたじけのうござる」と乗っかる方を選んだのだった。
    「なにかリクエストは?」
    「鍋でいいだろ。こいつの食欲に合わせて作ったら、とんでもねぇことになりそうだ」
     一応、客人の意向をと政景が問うも、あっさり、と言い切り、くつくつ、と喉を鳴らす政宗に幸村は、むっ、と唇を尖らせる。
    「政宗殿は意地が悪いでござる」
     ごろり、と佐助の膝上で身体の向きを変え、上目に、じとり、と睨め付ければ、Sorryと軽い調子で詫びの言葉が返ってきた。
    「ほーんと、独眼竜は大人げないよねー。ホラホラ旦那も子供みたいに拗ねないの」
     うー、と不満たっぷりに呻いている幸村の髪を、くしゃくしゃ、と掻き回す佐助の眼差しは柔らかく、政宗は毒気を抜かれたか小さく舌打ちをひとつ漏らすと、やってられねぇ、と言わんばかりにそっぽを向いた
     意識してのことではなかったが顔を向けた先には政景がおり、目の前の光景に微笑ましさを感じているのか穏やかに笑んでいる。
     それは昔、梵天丸と呼ばれていた頃に幾度となく向けられた、柔らかで慈しみに満ちた優しい物だ。今思えば厳しい言葉を聞くことの方が多かったが、それも幼い梵天丸には必要であったのだ。
     甘やかすだけでは根を腐らせ、厳しいだけでは蕾は頑なに閉じたままとなる。飴と鞭の加減が巧い男であったと、政宗は改めて思うのだ。
     彼自身、幼少期は不遇の身の上で、養子に出されるもその先で嫡男が生まれれば最早用済みと生家へと帰され、身内の元に居るというのに肩身の狭い思いをしてきたのだ。他者から与えられる愛情を感じる事はあったのだろうかと、問うことの出来ぬそれを政宗は今も胸に秘めている。
     そんな男であったからこそ、今生ではぐずぐずになるほど甘やかしてやりたいとも思うのだ。
    「政景」
    「はい?」
     はっ、と弾かれたように顔を向けてくる息子にわざと人の悪い笑みを向ければ、なにか不穏な物を感じたか政景は半眼で父親を見やる。
    「そんな食い入るように見て、おまえも膝枕して欲しいのか? ん?」
     遠慮するなよ、Come here! と己の膝を嬉々として叩く政宗は無駄にいい笑顔で、政景の眉間には深いしわが刻まれる。なにを莫迦なことを、と嘆息混じりに漏らせば、「よいではござらぬか」と思わぬ所から言葉が差し挟まれた。
    「真田?」
     これには政宗も驚いたか、未だ佐助の膝枕でくつろいでいる幸村に目をやれば、彼は心地よさそうに目を細め、ふにゃり、と笑んで見せた。
    「親が子を可愛がるのは、なんらおかしなことではござらん」
     なぁ佐助、と同意を求めて見上げてくる幸村にどう応えた物かと、佐助は僅かに目を泳がせつつ、このふたりは親子の垣根をすっ飛ばしちゃってるんだよ、とはさすがに言えず、あーまー普通はね、と曖昧な言葉で明言は避けた。
     旦那の純真さが今はツライ、と佐助が、そっ、と目頭を押さえていることには気づかず、幸村は「さぁ片倉殿!」と何故か政宗以上にやる気満々に政景を促す。
     悪気など微塵もない幸村を一喝するわけにもいかず、政景は、うっ、とたじろいだ。政宗はと言えばこれ幸いと両手を広げて待ち受けており、勝ち誇った顔が憎たらしいことこの上ない。
     どうにもならないことはわかっているが、ちら、と佐助に目をやれば、ご愁傷様、と諦めのたっぷり乗った笑みを返され、政景は力無く肩を落とす。
    「……お気持ちだけありがたく頂戴します」
     買い物がありますから、とやんわり辞退し、さっさとこの場から逃げてしまおうと踵を返すも、
    「夕飯はDeliveryでいいじゃねぇか」
     と世帯主に言われては、否とは言えない。
     退路を断たれ、ちくしょう、と口中で悪態を吐き、諦めたように政宗に向き直る。
     なにが哀しくて人前でそんな、と羞恥から徐々に熱を帯びる頬が更に恥ずかしく、政景は己の思い通りにならぬ潤んだ目で政宗を睨め付けたまま、ずかずか、と大股に寄ると、自棄を起こしたか乱暴にソファへ腰を下ろすや、どすん、と父親の膝に頭を乗せた。
     すぐさま、ごろり、と向きを変え幸村達に背を向けてしまった為、彼がどのような顔をしているかはふたりにはわからないが、髪の間から、ちらちら、と覗く赤く染まった耳と、膝上の髪を柔らかく梳く政宗の表情から、なんだかんだで満更ではないのだと、幸村と佐助は顔を見合わせ声を上げずに笑った。
    「佐助」
    「なに?」
    そっ、と声を潜めて名を呼んでくる幸村に合わせて佐助も小さく応じれば、ちょいちょい、と軽く手招かれ素直に身を屈め顔を近づける。
    「政宗殿も片倉殿も、今生は後悔せぬ生き方が出来れば良いな」
     無論、我らもだ、と真っ直ぐに見上げてくるかつての主に、そうね、と返し、佐助は己の額を幸村のそれに、こつん、と合わせた。
     残して逝く無念。
     残される虚無感。
     それらを知っているふたりは、今、共にあるという奇跡を噛み締め、静かに静かに笑みをかわすのだった。
     開けたままにしておいて欲しいとそう頼み、庭に面した廊下側の障子から半分見える夜空に目を細める。今宵は弦月でありながら降る光が強い、と畳に伸びる影に目をやれば、更に影がひとつ、すぅ、と畳を這った。
     このような時間にどうなされた、と窘めるような声音で問えば、静かに畳を踏み枕元へと胡座をかいた隻眼の主は、なに唯のご機嫌伺いだ、と月光に溶けるほどに厳かな声音で応じた。
     昼間に来たときは良く眠っていたからな、と額に掛かった髪を指先で払い、とても良い顔をしていた、と穏やかに笑む主の口許に刻まれたしわを、じぃ、と見つめたまま、かつての傅役は、夢を見ておりました、と物語を紡ぐように唇に乗せた。
     この小十郎が政宗様のお子として生を受け、貴方様の愛情を一身に受ける、大変有り難くも畏れ多い夢でございました、と歌うように告げられた夢の内容に、そいつはHappyだな、と政宗は戯けたように軽く口笛を吹く。
     幸せだったか、と問えば、勿論でございます、との言葉が返り、俺はいい父親だったか、と問えば、小十郎には勿体ないほどに、と微かに震えた声が零れ落ちた。
     そうか、と緩く頷き政宗は、そんな夢なら俺も見てぇな、と。それが来世なら楽しみが増えるな、と柔く柔く笑んだ。
     それが来世だって言うなら俺は今を受け入れるぞ小十郎、と笑んではいるがどこか歪んだ声音で告げれば、すっかり痩せてしまった手が政宗の膝頭を軽く叩き、小十郎も楽しみでございます、と目尻のしわを深くし、それまで暫しのお暇を頂戴しとうございます、と瞼を伏せた。
     すぐに会えるから安心して休め小十郎。
     その言葉が届いたかは定かではないが、最期に彼は確かに政宗の名を唇に乗せ、その尊くも愛しい綺麗な名を胸に、昏く冷たい河を渡ったのだった。
    茶田智吉 Link Message Mute
    2018/08/02 5:22:31

    【BSR】ねぇ覚えてる?

    #戦国BASARA #伊達政宗 #片倉小十郎 #猿飛佐助 #真田幸村 #政小 #腐向け ##BASARA ##同人誌再録
    同人誌再録。
    政宗の子供が小十郎という転生パラレル。
    (約6万字)

    more...
    Love ステキと思ったらハートを送ろう!ログイン不要です。ログインするとハートをカスタマイズできます。
    200 reply
    転載
    NG
    クレジット非表示
    NG
    商用利用
    NG
    改変
    NG
    ライセンス改変
    NG
    保存閲覧
    NG
    URLの共有
    OK
    模写・トレース
    NG
  • CONNECT この作品とコネクトしている作品