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    しおり
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    しおり
    【BSR】桜舞うは遙か遠き約束の地 強い夏の日差しが降り注ぐ中、厳かな雰囲気を醸している竹林を左右に分断するように、石畳が真っ直ぐ延びている。揺らぐ空気の向こう、その終着点が小十郎の目的地であった。
     肩に掛けた大きめなバッグを抱え直し、自分の影を踏むように石畳を行く。ここ数年とんとご無沙汰であったが、昔は何度も訪れた場所だ。
     父親に手を引かれて初めて来たのは、小学校三年生の夏だと記憶している。その日も今日のように快晴で、大きな麦わら帽子を被っていたことを覚えている。
     片倉の本家と昔から親交の深い伊達家の所有物件だと知ったのは中学に上がってからだが、年の近い者が伊達方に居ないせいか、その頃には夏や冬の長期休みにも訪れることはなくなってしまったのだった。
     石畳の先に見える背の低い竹作りの門に、小十郎は目を細める。昔はもっと大きく見えたもんだが、とひとりごち額の汗を一拭いした。
     門の前に立ちそのまま、ぐるり、中を見回せばひらけた庭には記憶と寸分違わぬ場所に桜の古木があり、その根元には小さな祠がこちらも当時のままにそこにあった。
     ギッ、と微かに軋む門を押し開け、一歩踏み出す。平屋の古い家屋はしんと静まり返っており、前もって聞いてはいたが本当に小十郎以外は誰も居ないらしい。
     踏み石に沿って玄関へ行く前に、祠へと足を向ける。なにを祀っているのか父親に聞いたことがあったが、少々気難しい竜神様だ、と苦笑混じりに返されただけで、話はそこで終わってしまったのだが。
     腰を落とし格子の中を覗き込めば、竜の像が薄暗い中で一つ目を光らせている。
    「随分と汚れてんな」
     臆することなく格子戸を開くと両の手で捧げ持つように取り出し、翡翠で出来た小さな竜を丁寧にハンカチで拭っていく。
     確か最後に訪れた小学校六年生の夏にもこうやって汚れを落としたなぁ、と過去を振り返れば、今回ここに来ることになった発端までをも思い出し、僅かに眉根を寄せる。
     それは奇妙なお願いだった。
    「夏休みの間、伊達のあの家に居て欲しい」と父親に言われたのが七月の半ば、夏休みも目前のことであった。小十郎からしてみれば受けるにしろ断るにしろ、まず理由を聞かなければ始まらないが、部活もあるから一週間くらいなら、と譲歩の姿勢を最初に見せれば、父親は「八月いっぱい居て欲しいのだが」と頼み込んでくる。
     僅かに苦い表情を浮かべた父親に、これは本家絡みか、と小十郎もつられたように渋い顔をした。
     片倉の本家は神社でそれなりに名の知られたところであるが、小十郎の家は分家も分家で、正直、盆暮れ正月の挨拶もそこそこに済ませるような末端だ。そのようなほぼ一般家庭と大差ない、家系図に載っているのかすら怪しい小十郎が小三の夏にあの家に行ったのは、本家からの指示であったと後から聞かされたのだった。
     普段は特になにを言ってくるでもない本家が絡んでいるとなると、これはヘタに断ったら面倒なことになる、と小十郎は判断し、なにより父親の困った顔は見たくないとの思いから、この無茶苦茶な話を引き受けたのだ。
     それでもなにも知らないままに行くのは御免被ると、渋る父親から出来るだけ情報を引き出せば、嘘か真か疑わしい話が繰り出され小十郎は絶句するしかなかった。
     小十郎が最後にあの家を訪れてから今日まで、怪異が続いているのだという。
     具体的には寝泊まりした者が、独眼の蒼い竜に喰らわれる夢を見るというのだ。それも夢とは思えぬ激痛を伴い、牙を突き立てられ四肢を失おうとも決して絶命できない無限地獄を味わうという。
     事態を深刻に受け止め、荒ぶる竜神を鎮めるために訪れたにも関わらず、取る物も取らず逃げ帰る片倉の者が続出しているのだそうだ。打つ手がなくここ半年ほどは誰も訪れていないともいう。
     聞かなきゃ良かった、と眉間に深い皺を寄せれば、「危ないと思ったらすぐ帰ってきなさい」と父親は小十郎の頭を優しく撫でたのだった。
    「俺が来たからってどうにかなるもんじゃねぇだろ」
     粗方綺麗になったご神体を祠へと戻し、小十郎は腰を伸ばした。本家にはなにか思惑があるのであろうが、当の本人は、一介の高校生になに期待してんだ、と悪態を吐くしかない。
     気を取り直して家屋へ向かおうとするも視界の端に何かが引っ掛かり、改めてそちらを見やる。干上がった浅い池の向こうに見える青々とした葉に、足は自然と動き出していた。
    「畑、か?」
     二畳ほどの広さでしかないが、水を与えられたばかりであるのか葉に残った水滴が、キラキラ、と光を反射する様に小十郎は目を細める。
     緑の下に見え隠れするのは赤や紫と言った色彩の夏野菜だ。よく手入れされている、と感心したように葉に左手を添え親指の腹で表面を柔く撫でる。
    「いい出来だろ」
     背後から掛けられた声に小十郎は不覚にも肩を揺らし、気まずそうに恐る恐る振り返れば、視線の先にいたのは右目を黒い眼帯で覆った若い男であった。眼帯も目を引いたがなにより男の出で立ちが時代を逆行したかのような着流し姿で、だがそれがこの男にはとても合っていると小十郎は違和感なくそれを受け入れる。
    「勝手にすみません」
    「なに、構わねぇよ」
     小十郎の謝罪を飄々と受け流し、隣に並んだ男は茄子の生育振りを確認しているのか、艶やかなそれを手にして矯めつ眇めつしている。
     誰も居ないと聞いていたが他にも人が居たことに少々、ほっ、とした小十郎は、知らず入っていた肩の力を抜くと隣の男に向かって軽く頭を下げた。
    「今日からしばらく泊まることになっている片倉……」
    「小十郎、だろ」
     言い切る前に名を呼ばれ小十郎は、はっ、と一瞬瞠目するも、ここに居るということは伊達家の関係者であることは明白で、それならば話を聞いていて当然であり、なんら不思議なことではないと思い至る。
    「政宗だ。久しぶりに会えて嬉しいぜ」
     短く己の名を告げ、政宗は小十郎の左頬を、やわり、と撫ぜた。その手つきにか声音にか、ぞわり、と胸の裡が騒いだのを、小十郎は確かに感じたのだった。
    「お会いしたこと、ありましたか?」
     ザワザワ、と背筋を這い上ってくる奇妙な感覚を意識の外へ押しやりつつ小十郎が問えば、まぁ小さかったもんな、と政宗は僅かに眉尻を下げどこか寂しそうに笑んだ。それがどうにも悪いことをした気分にさせ、小十郎は「すみません」と詫びの言葉を口にする。
    「いい、いい。気にするな。今日からよろしくな小十郎」
     ぽん、と頬を撫でていた手で小十郎の肩を軽く一叩きし、政宗は、からころ、と下駄を鳴らして縁側へと向かった。その背を見つめたまま、小十郎は身の裡から波紋のように静かに広がるなにかに戸惑いを隠せないのだった。


     ちり、りん……、と軒下に下げられた風鈴が涼やかな音を奏でるが実際の暑さはどうにもならず、小十郎は手にしたシャープペンシルをちゃぶ台に投げ出し、ぱたり、と畳に仰向けになる。
     住宅街のど真ん中でありながら広大な竹林に遮られ、隠れ家的なここは時間の流れからも取り残されたかのように静かだ。誰か決まった者が住まっているわけではなく、別邸や別荘と言った位置づけであることもここに来ると決まってから知った。
     改築や増築がなされているとはいえ、古い日本家屋だ。クーラーは期待していなかったが、まさか扇風機すらないとは夢にも思わなかった。
    「昼飯、ひやむぎでいいか?」
     ヒタヒタ、と裸足で廊下をやって来た政宗は室内を覗き込み、だれ切った小十郎の姿に僅かに眦を下げる。
    「あ、あー、はい。お願いします」
     のそり、と上体を起こした際、首筋を伝った汗を掌で乱暴に拭いながら小十郎は政宗に顔を向けた。そんな彼に「そんなに暑いなら水でも被ってきたらどうだ?」と政宗は冗談交じりの言葉を投げ、再び奥へと引っ込む。
     確かに庭の井戸から汲んだばかりの水を被れば、気持ちもシャッキリするだろう。冷やしすぎたと思えばすぐに風呂へ行けばいい。シャワーは上水道だが常に浴槽へと注がれている湯は源泉から引いているのだと、政宗が言っていた。
     だが、ひやむぎならそれほど時間はかからないだろう。水を被っている間に食べ時を逃してしまうのは忍びない。小十郎は卓上に広げていたノートと教科書を手早く重ね、邪魔にならぬようちゃぶ台の下へ押し込んだ。
     到着した日の夜に「メシの支度は俺に任せろ」と言ってきた政宗に、頼まれて来たとはいえ客ではないのだから自分のことは自分でやると告げるも、相手が「俺が作ってやりてぇだけだから、ヘンな気回すな」と不満そうに唇を尖らせたものだから、その子供じみた仕草に小十郎はうっかり吹き出してしまい、ますます唇を尖らせた相手に軽く頭を小突かれたのだった。
     政宗の年齢は外見から二十歳前後と見当は付けているが、思わぬところで見せる子供っぽさに、小十郎は相手が年上であるにも関わらず手の掛かる弟のようだと何度も思ってしまう。
     だが、ふとした瞬間に見せる表情は見た目以上に老成しきった大人のそれであり、政宗の年齢を更に不明なものにしていた。
     食事は政宗に一任することで一応の決着はついたが、小十郎は掃除洗濯を受け持つと頑として譲らなかった。一度言い出したらなかなか折れぬと、実父ですら苦笑いするほどに小十郎は頑固である。融通の利かない面倒臭い奴だと思われただろうか、と内心で溜め息を吐きつつ正面に座する政宗を見上げれば、予想に反して柔く微笑まれ小十郎は軽く目を見張った。
    「Okey.相変わらず頑固だな」
     その声音は眼差し同様とても優しいもので、知らず小十郎は唇を引き結ぶ。胸の奥で細波が立ち、自分は覚えていないが政宗は確かに自分のことを知っているのだと、改めて思ったのだった。
     程なくして運ばれてきた昼食を共に摂り、陽の高い内は諦めろとの政宗の苦笑混じりの言葉におとなしく従い、小十郎はタオル片手に畳に大の字に寝転がる。
     物珍しそうに教科書をパラパラ捲っている政宗を半眼で仰ぎ見、汗一つかいてないってどういうことだよ、と半ば八つ当たりじみた感想を抱くも、暑さに思考すらもが溶けていくようで小十郎は気怠く瞼を閉ざした。
     サワサワ、と竹林が奏でる音に混じって、雀よりも鋭い鳴き声が二度、三度と響く。
     あぁ、あの鳥はなんという名であったか、と沈みかけた意識の下で思い、「あの鳥……」と夢現に漏らせば「鶺鴒だ」との囁きが返されたが、明確な姿を思い描くことも出来ぬままそこで、ふつり、と小十郎の意識は途絶えた。

    ■   ■   ■

     三日ほど俺に付き合え、と書状を一通り処理し終えた政宗に言われ、小十郎は即座に眉根を寄せた。
     先の戦の後始末も粗方片付き三日ほどなら確かに都合もつくが、何気ない口調でありながらも主のひとつきりの眼はその奥になにかしら企てている時特有の光が見え隠れしており、おいそれと首を縦に振るのは得策ではない。
     だが現時点では政宗は無理を強いているわけではなく、小十郎も頭ごなしに拒否するわけにはいかない。
    「どのようなご用件でしょうか」
     返答如何では雷を落とします、とでも言わんばかりの右目に動じた様子もなく、政宗は書き損じた紙に鶺鴒に見立てた花押をいくつも連ねながら「湯治だ、湯治」とあっさりと口を割ったのだった。
     濁されるか誤魔化されるか、あるいは「さぷらいず」だか「さーびす」だかと南蛮語で有耶無耶にされると思っていただけに、小十郎は拍子抜けしたか一瞬、ぽかん、と口を半開きにしたまま動きを止めてしまい、はっ、と我に返るや、仕切り直すかのように小さく咳払いをする。
    「ならば政宗様おひとりで行かれるがよろしいかと。その間のことは小十郎にお任せいただ……」
    「あのなぁ小十郎」
     大真面目に応じる小十郎の言葉を遮り、政宗はこれ見よがしに溜め息をついた。かたり、と筆を置きようやっと顔を上げた政宗は僅かに眉間にしわを寄せており、小十郎もつられるように表情をやや険しくする。
    「俺じゃなくておまえが主役だっつーの」
    「は?」
     仰っている意味がよくわかりませぬ、と怪訝に片眉を上げる小十郎に政宗は伸びすぎた髪を無造作に掻き回しながら、反対の手で煙草盆を引き寄せるとそれに目を落としつつ口を開いた。
    「先の戦での恩賞だと思っとけ。あれもいりませぬ、これもいりませぬじゃさすがの俺もお手上げだ」
    「そのようなことは……」
     ない、と断じることが出来ず小十郎は困ったように眉尻を下げると、観念したか項垂れるように「仰せのままに」と漏らしたのだった。

    ■   ■   ■

     りん、と一際大きく風鈴が鳴ったように思え、小十郎は、ゆるゆる、と瞼を持ち上げた。刹那、ひらり、と淡い色を放つ小さなものが視界を過ぎり、自然と誘われるかのようにそれが流れてきた方向に顔を向ける。
     その先にあったのは盛大に咲き誇る桜。
     舞う桜吹雪も美しく澄んだ空気にとても良く映え、池の表面は落ちた花弁で彩られ揺れる水面に合わせてその表情を変えている。
    「いい、桜ですな」
     ぽろり、と零れ落ちた声音は確かに自分のものであったが、それは意識して発せられたものではなく、小十郎は、はっ、と目を見開いた。
     途端に戻ってきた竹林のざわめきと遠くに聞こえる蝉の声に、天井を凝視したまま痛いくらいに激しく鳴っている心臓を抑え込むようにシャツをきつく握り締める。
    「なん、だ……?」
     暑さによるものとはまた違った冷たい汗に濡れた身体が、ぶるり、と震えた。
     小十郎は桜が咲く季節に訪れたことはなく、当然のことながらあの桜が花をつけているところは見たことがない。にも関わらず夢だと一蹴するには、脳裏に焼き付いている光景はあまりにも鮮明すぎた。
    「どうした」
     声がした方に顔を向ければ、小十郎が起きたことに気がついた政宗が教科書から顔を上げ、僅かに首を傾げている。その様子からさほど時間は経っていないのだと判断し、小十郎は気怠げに身体を起こすと緩く首を振った。
    「暑すぎて白昼夢見た……」
     脳みそまで茹だってる、とタオルで乱暴に顔を拭いつつぼやく小十郎を半眼で見やり、政宗は静かに、そうか、と相槌を打つ。
    「ひとっ風呂浴びてきます。あ、夜にFAX送るんで必要なものあったら書いておいてください」
     Tシャツの胸元を摘み、内に籠もった熱を逃がすように数度引きながら、あつー、と漏らしつつ小十郎は部屋を後にした。
     生活に必要な物は伊達の家にFAXを送れば、早ければその日の内に、遅くても翌日の昼までには届けられることになっている。
     山奥の一軒家でもあるまいしそこまでして貰わなくても、と話を聞いたときは呆れ返ったが、「基本的にはなにをしてもいいが敷地内からは出ないでくれ」と続けられては承諾するしかなかった。
     コンテナに詰められたそれはいつも黙って玄関先へ置かれており、小十郎は誰が持ってきているのか知らない。ここで起きている怪異がそんなにも恐ろしく、毛ほども関わりたくないのかと言いたくなるくらいの徹底ぶりだ。
    「どう考えても軟禁状態だよなぁ」
     特にどこかへ遊びに行きたいという欲求はないが、これといった変化もなくここに来て十日も過ぎればさすがに飽いてしまう。テレビも食事の時などに少し見れば充分だ。
     唯一の救いは話し相手が居ることだろうか。
     政宗は年上で小十郎からすれば初対面と同じなのだが、気負うことなく不思議と馴染んでしまっている。学校の友達のような気安さはさすがにないが、ともすればそれ以上に近しい者として感じることがあり、またそれに違和感を抱かないことに戸惑いを覚える。
     本当は自分も彼のことを知っているのではないか。日を追うごとにそう自分自身の記憶を疑うことが増えたのも事実だ。
     だが、どれだけ必死に古い記憶を引っ張り出そうとも、隻眼の男は欠片も引っ掛からず、胸のモヤモヤは増す一方であった。
     ぺたぺた、と裸足で踏む板張りの廊下はひんやりとしており、知らず歩調が緩やかになる。ふと、庭に顔を向ければ、目に入ってくるのは政宗の育てている野菜だ。素人目にも立派なそれらは、惜しみなく食卓へと上がってくる。
     観賞用ではなく食べることを目的として作られており、ふたりの腹に収まるのは当然のことではあるが、それを口にするのが自分でよいのかと小十郎は漠然とした思いに駆られ、おかしなことを言っていると自覚した上で政宗に素直に打ち明ければ、一瞬、目を丸くした彼は、ゆうるり、と眦を下げ「おまえに喰って欲しいから作ってるんだ」と、これ以上はないほどの慈しみに満ちた声が返ってきたのだった。
     声音も顔も確かに柔く笑んでいるというのに、どこか寂しげに見える政宗を前にすると小十郎は胸の奥が、しくり、と痛むのだ。
     理由はわからぬが彼にそのような顔をさせているのは自分なのだと、ただそれだけはわかっていた。


     吊った蚊帳の中で額に汗を滲ませ規則正しい寝息を漏らす小十郎を見下ろし、政宗は、うっそり、と笑む。
     待っていた。ずっと待っていたのだ。
     初めて会ったのは、小十郎がまだ首も据わらぬ乳飲み子の頃だ。片倉の家に生まれた子はすべからく竜神に目通りすべしと、古くからの習わしになっている。その理由を正確に知る者は既に居ないが、半ば形骸化しようとも語り継がれ守り続けられているのであれば、さしたる問題はないのだ。
     例に漏れず小十郎も父親の腕に抱かれてこの地を訪れた。祠の前で恭しく頭を垂れる父親とは正反対に赤子は常に上を見ており、政宗はその様を彼の父親の隣で見つめていた。
     その透明で真っ直ぐな瞳がなにを見ているのかと政宗も顔を上げれば、頭上に広がるのは淡い色の花が満開の桜であった。舞い散る花弁を目で追い、辿り着いた先は赤子の顔で、鼻先に降ってきた花弁に笑い声を上げた小十郎に政宗も眦を下げた。
     刹那、それまでおとなしく父親の腕におさまっていた赤子は不意に身動ぐや、小さな手を虚空に向かって伸ばした。端から見ればそこにはなにもなく、だが赤子の行動に意味などないと周りの大人達は気にも留めていなかったが、政宗の胸は大きく打ち震えた。
     何物をも見通すかの如き純粋で透き通った眼は、確かに政宗を捉えたのだ。
     到底届きはしないのだとわからぬままに、それでも柔く無力な手を政宗に向かって伸ばしているのだ。
     やっとやっと会えたのだと。
     やっとやっと戻ってきたのだと。
     今すぐこの手に奪い取り、抱き締め、片時も離すまいと、湧き上がる衝動のままにこちらも手を伸ばし掛けるも、背後から注がれる刺すような視線に、はっ、と我に返った。そろり、と振り返れば齢十ほどの少年が険しい顔で政宗を見据えており、ばつの悪い思いで拳を、ぎゅっ、と握る。
     おちつけ、と声には出さず唇のみを動かし、少年は、ゆるり、と頭を振った。政宗の姿がハッキリ見えているわけではないと、これまでの経験から分かっているが、先ほどの政宗は余程鬼気迫っていたのだろう。不穏な気配に迷うことなく行動を起こした少年は、昔と変わらず政宗に正面からぶつかってくれるありがたい存在だ。
     だが、かつての従兄弟に記憶はない。
    『成実』と政宗が名を口にしても相手には届かず、彼は政宗の名のみならず顔すらも知らぬのだ。
     一通りの儀式を終え、小十郎は一夜をここで過ごすものとばかり思っていた政宗だが、予想に反して彼の父親はその足で伊達の敷地を出てしまったのだった。姿はおろか気配すら感じ取れていないと高を括っていたが、末席とはいえ片倉の血筋。なにかしら察知したと言うことらしい。
     それを裏付けるかのようにそれ以降、小十郎が訪れる気配はなく、焦れに焦れて我慢の限界を超した政宗は半ば脅しのように伊達の当主をせっつき、そこから片倉の本家を動かし、強引に小十郎を再び呼び寄せたのだった。
     彼が初めて訪れたと思っている小学三年生の夏には、このような裏があったというわけである。だが、彼の傍には常に父親がおり、いらぬ警戒をされては敵わぬと、じっと息を潜め様子を窺うに留めていた。
     夏と冬にしか訪れぬ子供を待ち焦がれ、それ以外はほぼ眠って時を過ごした。眠っていても彼がこの地に近づいてくれば、意識の奥底にたゆたう花の開く音が政宗を揺り起こした。
     気の遠くなるような年月を独りで過ごしてきた政宗のささやかな楽しみであり、微かな希望でもあったのだ。
     だが、小十郎は祠に納められた政宗の依代を丁寧に清めた日を最後に、ぱたり、と姿を見せなくなった。
     今日こそ来るだろう、明日こそ来るだろう、そう思い続けていくつもの季節が巡るも待ち人が来る気配は一向になかった。 
    「ずっと、待ってた」
     するり、と小十郎の左頬に掌を添え、薄く開いた唇を軽く啄む。ようやく触れることが出来たと、記憶よりも柔らかく小さなそれに、くしゃり、と顔を歪め、小十郎、と噛み締めるようにその名を呼んだ。
     約束を違えるような男ではないとわかっているが、時の流れという物は残酷だ。政宗は彼の言葉を今なお信じてここに居る。遙か遙か昔の約束を、今の小十郎が覚えていないとしても、だ。
    「『知らない』んじゃなくて『忘れてる』だけだよな」
     そうであってくれ、と祈るように瞼を伏せ、こつり、と小十郎の額に己のそれを合わせた。

    ■   ■   ■

     ここだ、と竹の小さな門を押し開ける政宗の背中を半眼で見やり、小十郎は呆れからか言葉が出ない。
     道中、目的地を聞くも「すぐそこだ」としか返されず、せめて所要時間くらいはお聞かせ願いたいと食い下がれば、面倒臭そうに「一刻半ほどだ」と寄越された。城から馬で移動してその時間内に到着する温泉宿は確かにあったが、政宗が選んだ道には小十郎は心当たりがなくおかしいとは思ったのだ。
     家屋自体は決して広くはないが、一日二日で造れるようなものではないことくらい一目瞭然であり、政宗は以前から話を進めていたのだと確信する。
     財政を圧迫するほどの浪費癖はないものの、思い立てば、ぽん、と惜しみなく大枚をはたいてしまう思い切りの良さも善し悪しである。
    「どうだ、おまえに合わせて隠れ家的に仕立ててみた」
     四方を竹藪に囲まれ隠棲するには確かにうってつけではあるが、政宗の言った「おまえに合わせて」の部分が理解できず、小十郎は無言で片眉を上げた。
    「俺としちゃ、もっと派手な装飾やらつけたいところだが、おまえはそういうの好まないだろ」
    「小十郎の趣向は関係ないかと」
    「なに言ってやがる。これが『恩賞』だ」
     くっ、と口角を吊り上げた笑みを浮かべる政宗は、悪戯が成功した童の顔をしており、小十郎は事の次第が飲み込めず、は? と漏らした半開きの口のまま主の顔を見やる。
    「恩賞くれてやるっつってもご丁寧に辞退しやがるわ、休みくれてやっても休まねぇ、養生しろっつっても返事は口先だけ。いっつも難しい顔しやがって、見てるこっちが気が気じゃねぇってぇの」
     さっさと中へと入っていく政宗に遅れじと小十郎も続き、政宗は背を向けたまま話を続ける。
    「てめぇが自分自身に厳しいのは百も承知だがな、たまには息抜きしたってバチは当たらねぇだろ。ここなら他の奴の目はねぇ」
     生き物の影のない池の前に立つ政宗から一歩下がった位置で足を止め、小十郎は渋面で「無駄金を……」と漏らした。主の心遣いそのものは恐悦至極であるが、自分のためにここまでするのはやはり無駄金としか思えない。
     だが、ふと顔を上げ蕾を付け始めた枝に目をやると、ゆうるり、と眦を下げた。
    「いい桜ですな」

    ■   ■   ■

     陽が高くなる前に洗濯を終え、小十郎は縁側へ腰を下ろした。ここに来てからなにか忘れている気がして、ずっと引っ掛かっているのだが思い出せず、うーん、と難しい顔で庭を、ぐるり、見回す。
     刹那、あっ、と声を上げると慌てて腰を上げ、祠に駆け寄り格子戸を開ける。
    「そうだよ、これだよ!」
     着いたその日に大雑把に汚れを落としただけで、細かい部分は後にしようとそのままだったのだ。忘れててごめんなさい、と手を合わせてから翡翠の竜を手中に収め、縁側へと戻る。畳んだハンカチにご神体を乗せ、それを前にさてどうしたものかと考える。
     刷毛やブラシがあれば良いのだが、仮にあったとしても場所がわからず、小十郎は暫し考えてから水を張った洗面器と綿棒を手に戻ってきた。
     精緻に彫り込まれた鱗のひとつひとつに入り込んだ砂を、綿棒を何度も何度も取り替え根気よく落としていく。
     自分が来なくなってからも何人もここには出入りしているであろうに、どうしてこんなに汚れるまで放置されていたのかが不思議でならない。
    「そりゃ神様だって怒るよなぁ」
     ぽつり、何気なく言葉を漏らしたのと、「おーい」と門から声を掛けられたのは同時であった。聞いたことのない声に顔を上げれば、快活そうな男が両手に持ったコンテナを胸の高さまで引き上げ、「お届けものでーす」と戯けたように笑った。
     いつもなら黙って置いて行かれるそれを対面で受け取るのは妙な気分で、小十郎は礼の言葉を口にしつつも、ついつい相手をまじまじと見てしまう。
    「遅くなって悪いな。今日に限って誰も手が空いてなくてよ」
     竹の門を押し開け直ぐ傍までやって来た男は、どさり、と荷物を下ろし、ふと小十郎の手元に目を留めると一瞬、ぎょっ、とした顔をするも、「あー、まぁ、おまえならなぁ」と曖昧なことを呟くと、そのまま小十郎の隣に、どっか、と腰を下ろした。
    「伊達家の方、ですか?」
    「ん、分家だけどな。たまたまこっちに遊びに来ててお使い頼まれたってワケよ。伊達成実な。フツーのサラリーマン」
     ははは、と声を上げて笑いながら小十郎の頭を、ぐいぐい、と撫で回し、「大きくなったなー」と懐かしそうに再度笑う。
    「会ったことありましたか?」
    「おう、と言っても、おまえ首も据わってない赤ん坊だったからなぁ。俺が一方的に知ってるだけな」
     ぽんぽん、と最後に軽く頭を叩いて成実は桜の木に目をやった。
    「あれが満開の時にな、親父さんに抱っこされてここに来て、まぁ俺もたまたま居ただけだ」
     よくわからぬ、とでも言いたげに怪訝な顔をしている小十郎の様子から、彼自身はなにも聞かされていないのだと察したか、成実は「伊達と片倉の昔からの習わしってのがあってな」と簡単にではあったが、竜神様へのお目通りのことを説明したのだった。
    「理由も目的も誰も覚えてないただの儀式みたいなモンだけどな。廃れてないのは神様が本当に居るからだって俺は思ってる」
     小十郎の手中にある片目のないご神体に目を落とし、成実は小さく笑う。
    「まぁ、姿そのものはよく見えなかったけど、多分あれが神様だったんだろうなぁ、ってのはガキの頃に何度か感じたわ」
     どこか懐かしい感じに恐怖心が湧くことはなく、ぼんやり、とうつろう影のようなそれを目で追っていた。常になにかを探しているかのように思えた『神』が、激しく荒ぶったのは後にも先にもあれ一度きりであったと、成実は記憶をまさぐり渋い顔をする。
     それこそなりふり構わず、邪魔する者は喰らい尽くすと言わんばかりの不穏な気を撒き散らし、ぶわり、と膨れ上がったどす黒いとしか言いようのないものに、腹の奥底が冷えた。
     だが、ここで止めてやらねば絶対に後悔すると、たかだか齢十の子供が思うほどに凄まじいものであったのだ。
    「俺だけじゃなくて御当主様もその存在を信じてるから、今回、無茶振りしてきたんだろうし?」
     胸中を押し隠し、小十郎も大変だなぁ、と戯けたように労ったかと思えば、成実は不意に真面目な表情になり、じっ、と小十郎を見据える。
    「小十郎」
    「はい」
     余りにも真剣な眼差しに知らず、ごくり、と小十郎の喉が鳴った。暑さからか緊張からか、つっ、と一筋、汗がこめかみから顎へと伝い落ちる。
     たっぷり間をおいた後に成実は、閉ざしていた唇をゆっくりと開いた。
    「メルアド交換しよう」
    「……はい?」
     すちゃっ、と取り出されたスマートフォンにどう突っ込むべきかと珍妙な顔をしている小十郎をよそに、成実はすっかり砕けた調子で鼻歌交じりに画面を指で撫でている。
    「ほとんど軟禁状態だもんなー。なんもねぇし、ひとりじゃつまんねぇだろ」
    「え?」
     小十郎が反射的に声を上げれば、成実は一瞬、息を飲むも即座に何事もなかったかのように「あぁ、そっかそっか。気難しい竜神様がいつも一緒じゃ退屈もしねぇよな」と本気とも冗談とも取れることを口にし、それに対してどう返すべきか瞬時に思いつかず、小十郎は曖昧に、はぁ、まぁ、と答えるので精一杯だった。

    ■   ■   ■

     湯の中から月を見上げ、小十郎は、ゆるり、と息を吐いた。
     その隣には湯に浮かべた朱塗りの盆に載せた盃に手を伸ばす主がおり、あまり酒に強くないことを知っている小十郎は窘めるような眼差しを向けつつも、徳利を摘み上げ政宗の望むままに酒を注いでやる。
    「今宵は月が綺麗ですからな」
     さぞや酒も進みましょう、と取りようによっては嫌味に聞こえる小十郎の言葉など最早慣れっこであるのか、政宗は愉快そうに喉をひとつ鳴らすと舐めるように酒を口に含んだ。
     てっきり一気に呷るものと思っていた小十郎は、おやこれは意外な、と僅かに目を丸くする。そんな右目の反応すらも予想していたか、夜は長いからな、と政宗は何事かを含んだ呟きと共に口角を吊り上げた。
     彼の言わんとすることに気づかぬふりをし、そうですな、と静かに応えた小十郎は手にしたままの徳利を暫し見つめ、おもむろに唇を寄せるやその中身を一気に飲み干した。右目の行動に虚を突かれたか政宗はらしくなく盃を取り落とし、その慌てように小十郎は愉快そうに目を細める。
    「夜は長いのですから、小十郎が多少酔ったところで問題はございませんでしょう?」
     どこか挑発的な、だがこれ以上はない誘い文句に政宗の瞳は戦場で見せる縦に長い瞳孔を持つそれに変わり、上等だ、と低く漏らすや金色に煌めく眼を、にたり、と細めた。
     ばしゃり、と湯が跳ね上がるのも厭わず、岩縁に小十郎の背を押し付け喰らうように唇を貪る。お上品な睦み合いなど柄じゃねぇ、と嘯く主だが、触れるその手が常に気遣いを滲ませていることを、小十郎は知っている。
     弁は立つがその胸に渦巻く思いを素直に吐露する術を知らぬ、とてもとても不器用な人なのだと、小十郎は知っている。
     同様に政宗も小十郎が不器用であることを知っている。
     端から見れば滑稽なことこの上ないであろう。だが、それでいいのだと小十郎は政宗の肩越しに月を見上げ、それを過ぎるかのように、ひらり、と優雅に舞う小さな花弁に手を伸ばし、うっそり、と笑んだ。

    ■   ■   ■

     ぎゅ、と手を握られ小十郎は、はっ、と目を見開いた。
    「なん……」
     天井と共に視界に飛び込んできたのは政宗で、僅かに身を乗り出し顔を覗き込まれていると気づき、小十郎は、わけがわからない、と言葉もなく相手を見つめたままだ。
     朝にはまだ遠く、外からは虫の声が輪唱のように遠くから近くから聞こえてくる。室内に明かりは灯されておらず、政宗の姿を薄ぼんやりと浮かび上がらせるのは星明かりだ。
    「なん、ですか……」
     こくり、と唾を飲み込み、ようよう声を押し出せば、政宗は握ったままの手を両の手で包み直し、ゆうるり、と眦を下げた。
    「なにか掴もうとしてたみてぇだからな、てっきり俺を求めてるんだと思ったんだが」
     違ったか、と言うが早いか、くつくつ、と低く喉を鳴らし、人の悪い笑みが面に浮かぶ。彼が時たま見せるこの笑みが小十郎は嫌いではないが、この状況では小馬鹿にされているとしか思えず、むっ、と眉間に皺を寄せると少々、乱暴に政宗の手を振りほどいた。
    「怒るなよ。ちょっとしたJokeだ」
    「怒ってません」
     すっかり眠気も飛んでしまい、汗でべたつく身体に不快感を覚えた小十郎は気怠げに身体を起こす。
    「風呂か?」
    「えぇ、夜は長いですから。月でも眺めながらゆっくり浸かってきます」
     のそのそ、と蚊帳から抜け出しながら答える小十郎の背に、What? と小さな問いかけが飛んだ。
    「なにって、裏にあるでしょう? 露天風呂……」
     そこまで口にして、小十郎は自分がおかしな事を言っているとようやく気づく。
    「あ、え? 俺なに言ってんだ」
     己の口許を掌で覆い、戸惑った声を上げる小十郎を政宗はただ、じっ、と見つめる。
    「寝惚けてんのかな。すみません」
     うわー恥ずかしい、と目を泳がせ、そそくさ、と着替えを引っ張り出しそのまま部屋を出て行こうとした小十郎に「昔はな、あったんだ」と政宗は静かに告げた。その言葉に廊下に踏み出しかけていた足を、ぴたり、と止め、小十郎は恐る恐ると言った体で顔だけを室内へ巡らせる。
     蚊帳に遮られ、政宗の姿は黒い塊にしか見えない。だが、薄闇の中、ぎらり、と金色に煌めく独眼に射抜かれたと思った刹那、小十郎の意識は暗転したのだった。


     チチチ、と鳥の囀る声に小十郎は気怠げに片目を、うっすら、と開く。枕こそは外れていないが、腹に掛けていたタオルケットはやや離れた場所で見事な団子を形成していた。昨夜も暑かった、と大きく息を吐き、枕元に置いてある水差しから温くなった水を喉に流し込む。
     僅かに重い頭を一振りし、そういえば夜中になにかあったような、と妙な引っ掛かりに揺れる水面を難しい顔で凝視していれば、聞き慣れぬ足音が近付いてきた。
    「おはようさん」
     なんだと思う間もなく顔を出したのは、昨日会ったばかりの成実であった。
    「おはようございます」
    「なんだ、今日は随分とゆっくりだな」
     言われて目覚まし代わりに使っている携帯電話を手にすれば、信じ難いことに既に十時を回っており、小十郎は、うわ、と焦りの滲んだ声を上げる。
     よいしょ、と遠慮無く蚊帳の中へと入ってきた成実は相手のそんな様子にも、カラカラ、と笑い声を上げた。
    「アラームかけ忘れたのか? いいじゃねぇか、夏休みなんだしダラダラしたってよ」
    「解除してないのになぁ」
     おかしいなぁ、と首を捻る小十郎の寝癖頭に成実は更に笑うも、なにか目についたか膝を着くと小十郎の顔に軽く手を添え、くい、と横に向けた。
    「なんですか」
    「あー、いや。なんか赤くなってるなぁって。虫刺され?」
     ここ、と成実が指先で、とんとん、と軽く触れたのは顎の付け根辺りで、鏡を見たとしても本人も気づきにくい位置だ。ぶつけたとも考えにくく、よくよく見た成実は、あれ? と一瞬怪訝な顔になるも、まさかな、と即座に湧き上がった考えを打ち消す。
    「えーと、一応薬塗っとく?」
    「痛くも痒くもないし、大丈夫ですよ」
    「あ、あーうん。ならいいか」
     どこか落ち着きの無くなった成実を不思議に思うも、小十郎は彼がこの場にいることの方が不思議でならない。もしかして自分が寝ている間に政宗がFAXを流したのだろうかとも思ったが、それはないと即座に否定した。
     何故なら、政宗はFAXの使い方を知らないからだ。テレビもリモコンを使ったつける消す位は出来るが、小十郎が本体側の主電源を落としたままにした時は、なんでつかないんだ、とムキになってリモコンのボタンを連打していた。
    「なにかありましたか?」
     知らぬところで事態が進展したのかと微かな希望と共に問えば、成実は僅かに片眉を上げ、まじまじ、と小十郎を正面から見つめる。
    「いや、それを聞きに来たんだけど」
    「はい?」
     身に覚えがなく、ぽかん、と成実を見上げれば、相手は困ったように後ろ頭を一撫ですると、眉尻を下げたまま「ないならいいんだ、いきなり来て悪かったな」と詫びの言葉を口にした。
     大の大人が一日で逃げ出すという怪異が起きているところに、高校生がひとりで何日も過ごしていると、成実はそう思っているのだ。本家から詳しい話を聞いていないのか、はたまた話の行き違いかそれは定かではないが、彼は政宗のことは知らないらしい。心配して来てくれたのだと判断し、小十郎は、ゆるり、と頭を振った。
    「メシまだなんだろ? 布団上げといてやるから喰ってこいよ」
    「いえ、そこまでしていただかなくても」
    「いいからいいから。あ、それよりも風呂が先か? ざぶーん! と行ってこいよ。サッパリするぞ」
     ほれほれ、と有無を言わせず蚊帳の中から小十郎を追い出し、成実は笑いながら行ってこいと言わんばかりに手を振る。ここまでされては仕方がないと、着替え片手に小十郎は部屋を後にしたのだった。
    「さて、と。そんな怒るなって」
     どかり、とその場に腰を下ろした成実は、苦笑と共に顔を布団の足元へと向ける。そこには一体いつから居たのか、政宗が隻眼を剣呑に細めて成実を見下ろしていた。
    「お久しぶり。『神様』」
    「驚かないんだな」
    「まぁな。なんていうか、気配っつーか空気っての? それが昔のまんまだしなぁ」
     懐かしーわ、と笑う成実に遙か昔の従兄弟の姿を見たか、竜神の険しい眼差しは長続きせず纏う空気も和らかく解れていく。
    「へぇ、そんな顔してたのか。ガキの頃はハッキリ見えたことなかったもんな。あれ? 見えるってことはもしかして、俺の秘めたる力がとうとう開花したってやつ!?」
    「ばーか。おまえにも見えるようにわざわざ具現化してやってんだよ」
    「ですよねー」
     はは、と笑い声を上げた成実だが、不意に真面目な表情になり、じっ、と正面から政宗を見据える。
    「なんでこんなことしたんだ。禍神になってしまったのかと皆、不安になってる」
    「小十郎以外が俺に触れたからだ」
     大真面目に渋面で即答する政宗を成実は難しい顔で暫く凝視していたが、はぁぁぁぁ、と盛大な溜め息と共に布団に突っ伏した。
    「あー、やっぱそうなんだ。話聞いた時にもしかしてとは思ったが。まぁ言ったところで誰も信じやしねぇと思って話してはいないけど」
     一気に吐き出すだけ吐き出して、ぴくり、ともしなくなった成実がさすがに心配になったか、政宗は、そろり、と踏み出すと彼の直ぐ傍で膝を着き、顔を覗き込んだ。
    「これまでも片倉の人間がご神体の手入れしてたのに、急におかしいと思ったんだよ」
     じとり、と恨めしげに見上げてくる成実の目が、無謀な作戦を無理に押し通そうとした政宗と一歩も引かず言い合った時のそれと同じで、知らず政宗の喉が、ぐぅ、と鳴る。
     あの夏の日、小十郎の手を、その柔らかさを、その温かさを知ってしまったのだ。知らなければ何事もなく、これまで通り過ごせたに違いない。だが、知ってしまった以上、彼以外が己に触れるなど我慢ならなかったのだ。
    「昔っからすんげぇご執心だったよな、小十郎に」
     そう言って倒れ伏したまま顔だけを庭へと向け、成実は、ゆうるり、と眦を下げた。
    「祠の前で、取って喰っちまうんじゃないかって勢いだったろ? あん時は正直ちょっと恐かった」
     ふたりの脳裏に蘇るのは咲き誇る桜と、舞う花弁に伸ばされた小さな手。
    「ずっと、待ってたんだ」
     ぐっ、と握り締めた己の拳を見下ろす政宗の表情が余りにも悲痛に満ちており、成実は、神様でも思い通りにならないことがあるんだな、と痛ましげに眉尻を下げる。それでもやっていいことと悪いことがあると、表情を引き締めた。
    「で、昨日、小十郎にご神体を綺麗にして貰って気分でも良くなっちまいましたかい?」
     神様相手とは到底思えぬ揶揄するような、聞きようによっては咎めるような口調と共に、成実は己の顎の付け根を指先で、とんとん、と指し示す。それがなにを意味するのか瞬時に察した政宗は悪びれた様子もなく、にたり、と口端を吊り上げた。
    「ちょっと舐めて吸っただけだ。喰っちゃいねぇよ」
    「とんだエロ神様だな」
     よいしょ、と身を起こすや、ジーンズの尻ポケットから無造作に引っ張り出したスマートフォンを操作し、ぴた、と耳へ充てる。
    「あー成実ですー。なんか大丈夫っぽいですよ。えぇ、えぇ、あーはいはい。それじゃ」
     ピッ、と手早く通話を終わらせれば政宗が怪訝な顔をしており、成実は「御当主様」とだけ答えた。理由はわからずとも竜神が小十郎に拘っていることを、伊達の当主は以前の経験から知っており、藁にも縋る思いで今回、小十郎に白羽の矢を立てたのだろう。満足な説明もなく渦中に放り出された小十郎の身を案じて、成実に様子を見てくるよう頼んだに違いない。
     だが、それを聞いても政宗の表情は変わらず、おや?と首を傾げよくよく見れば、彼の目は手中の機械に釘付けになっている。
    「それ……」
    「うん?」
    「なんだ? 小十郎が持ってるのとは形は違うが、同じ物か?」
     言うが早いか政宗は枕元に投げ出されたままの小十郎の携帯電話を拾い上げ、微塵も躊躇うことなく、ぱかり、と開く。
    「ちょっ、なに勝手に!? あっ、おまえ夜中だか朝方だかにもいじくっただろ!?」
     アラームが鳴らなかったことを不思議がっていた小十郎を思い出し成実が声を上げれば、政宗は「現代のカラクリはわけがわからねぇ」とボタンを滅茶苦茶に押しまくりながら大真面目に漏らす。
    「やめろっての! データ消えたらシャレにならねぇっつの!!」
     ばっ、と引ったくるように政宗の手から小十郎の携帯電話を奪い、成実は後ろ手にそれを隠した。当然、不満の声が政宗から上がるが、成実はここで引いちゃダメだととっておきの切り札を持ち出す。
    「小十郎に嫌われても知らねーぞ」
    「う……」
     案の定、動きを止めた政宗に内心で安堵の息を吐きつつ、「携帯電話、知らねーの?」と問えば、こくり、と首が上下に振られた。
    「神様なのに」
    「うるせぇ、必要ない物のことまで知るか」
     興味がなければ道端の石ころと同じということか、と成実は極端な神に苦笑しつつも、根気よく「そもそも携帯電話とは」というところから説明を始めたのだった。

    ■   ■   ■

     しんしん、と降り積もる雪を横目に政宗は廊下を行く。稲の刈り入れが終わり冬支度に移るほんの僅かな期間に起こった戦は青天の霹靂で、伊達軍は思わぬ痛手を受けるも最終的にはこちらの被害を上回る損害を相手方に与え、退けた。
     短期決戦であったため全体の被害として見れば受けた被害は小さいが、一部に掛かった負担は大きく、その一部に小十郎が含まれていた。
     彼の立案した策は、確かにそれが決まれば風は伊達軍に吹くことは明白であった。しかし、それを成し遂げるには条件が厳しく、渋い顔をする政宗に小十郎は自らが先陣を切ることを申し出た。
     むしろ、彼は元から己がその役割を担うこと前提でこの案を進言したのだと、その場に居た誰しもが思ったのだった。更に渋い顔になった政宗だが、これ以上の策を挙げられる者は居らず承諾する他なかった。
     戦後に療養を願い出てきた小十郎は常と変わらず涼しい顔をしていたが、着物の下では腹が、ばっくり、と裂けていることを知っている政宗が否やを唱えるはずもなく。あと一日言ってくるのが遅かったら命令するところだった、と冗談に紛れさせたそれは偽りなき本心であった。
    「入るぜ」
     短い断りと共に障子を開ければ、火鉢の置かれた温かな室内に知らず政宗の肩から力が抜けた。上体を起こし書物を膝上で繰っていた小十郎が居住まいを正そうとするのを手で制し、その傍らへと、どかり、と腰を下ろす。
    「具合はどうだ」
    「さすがにこの歳になりますと、傷の治りが遅くていけませんな」
     するり、と着物の上から腹を撫でさすり、眉尻を下げる小十郎の目元の皺に気づかぬふりをして、政宗は彼が目を通していた書物を、ひょい、と取り上げた。
    「こんな時でも兵法書たぁ、頭の方も休めたらどうだ」
    「こういう時なればこそですぞ。時間を無駄にしてはなりませぬ」
     いつもの軽口の応酬に聞こえるがその実、互いの目は微塵も笑ってなどおらず、どちらからともなく、そっ、と目を伏せる。
    「ここを頂戴したときは無駄金を使ってなどと思いもしましたが、幾度も足を運び、桜を愛で、その成長に喜び、そして政宗様とゆるりと語らうことができ、今は大変良い物を賜ったと思っておりまする」
     これまで己からは決して触れてくることのなかった小十郎が、膝上できつく握られた政宗の拳に、やんわり、と触れた。
    「願わくばいついつまでも政宗様の御側で、御身にお仕えしたいと思っておりました。なれど、悲しいかなこの身は流れ行く時には勝てませぬ」
     慈しむように何度も何度も政宗の手を包むように撫で、目を細める。
    「来世というものがあるのならば、小十郎は必ずや政宗様を見つけ出しましょうぞ。政宗様がどのようなお姿になろうとも絶対に。これが今生で貴方様に最期まで着いていくことが叶わぬ小十郎の、忠義の証に御座います」

    ■   ■   ■

     あの言葉に己はどう応えたのだったか、と政宗は背を預けている桜を見上げ、ゆるり、と息を吐く。
     縁起でもないことを、と唇をへの字に曲げるも、右目の真摯な思いを茶化すなど政宗に出来ようはずもなく。「ふたり揃って来世を待つのは効率が悪いな。ならば幾千幾万の夜を越えようとも、俺はこの地でお前を待つとするか」と硬い掌を握り返し、虚勢と取られても仕方のない声を絞り出したことは鮮明に覚えている。
    「そこまで長くお待たせするわけにはまいりませぬな」と穏やかに笑んだ右目が零した雫が肌を伝う様も、昨日のことのように覚えている。
     だが、不思議と小十郎が逝った時のことは覚えておらず、ただただ、彼との約束を果たさんとの一念で人の身から竜へと変じ、この地に齧り付くように留まり続けている。
     小十郎を思って見様見真似で始めた畑も、今では立派な作物を収穫できるまでになった。そこに至るまでは思い通りに育たぬことに癇癪を起こしかけたことも一度や二度ではなく、その都度、厳しくも優しく、何事に対しても真摯であった右目を思い出し、なにがいけなかったのかをじっくりと考えた。幸いにも時間だけはたっぷりとあったからだ。
     今の小十郎はなにも覚えていないが、それでも彼に自分が作った野菜を食べて貰い、おいしいと言って貰えるのは嬉しかった。
     共に過ごせばもしかしてと、淡い期待を抱いていなかったと言えば嘘になる。すぐ傍にいるにも関わらず、触れられず、告げられずはさすがに堪えると政宗は根元に腰を下ろし力無く笑った。
    「さて、今日の晩飯はどうすっかな」
     気を取り直し、ぱんっ、と勢い良く膝を叩く。いつぞやに必要な食材に『オットセイ』と書くも小十郎に「なんの冗談だ」と怪訝な顔をされ、そうか現在は食べないのか、と胸中でごちながら『雉』と書き直せば、「せめて『鶏』で」と直された。
     外の世界に対して自分は余りにも無関心であったと改めて思い、知識を得るためテレビを見る時間を増やすも身になる物は数えるほどで、結局、料理番組くらいしか見なくなってしまったのだが。
    「鍋、はさすがにこの季節はつらいな」
     育ち盛りには肉だろ肉、と成実に言われ、トンカツやらハンバーグやらの作り方はしっかりと覚えた。
    「Hey.小十郎、夕飯なに喰いたい?」
     洗濯物を取り込んでいる小十郎に声を掛ければ、ちょうど全て籠に収めたか律儀にこちらへと向かってくる。木陰に入り額の汗を乱暴に腕で拭いながら「そうですね」と思案するも、さわさわ、と揺れる梢に惹かれるように顔を上げた。
    「立派な桜ですよね」
    「あぁ、昔から変わらずここにある。竜神はこの木が切られたり枯れたりしないようにって、あそこに祠作らせて今も見張ってるんだぜ」
     くつくつ、と低く喉を鳴らす政宗の言うことは嘘か真か確かめようがないが、この木はなにか特別な物なのだと、小十郎は何故かそう思えた。
     咲いているところを見たことはないと思っていたが、乳飲み子の頃に見たという光景は記憶の奥底にあるのかもしれない。話を聞いた上での勝手なイメージかも知れないが、きっとこうだろうと頭上を埋め尽くす淡い色をした花と、風に舞う桜吹雪を思い描く。
     そして、はらりはらり、と舞う花弁を目で追い、手を伸ばしたその先に居るのは──
     刹那、ぐるり、と視界が回ったような感覚に、咄嗟に幹に手をついた。だが、その手は支えられることなく、ぞぶり、と幹に飲まれ、あっ、と思う間もなく意識すらもが奥で口を開ける闇に飲み込まれた。

    ■   ■   ■

    「次に来るときは満開だといいんだが」
    「そう何度もふたりで城を空けるわけにはまいりませぬ」
     御自重召されよ、と低い位置にある主の顔を真っ直ぐに見やれば、All right.と大仰に肩を竦められ、小十郎の眉間に縦皺が刻まれる。
    「政宗様」
     咎めるような響きもなんのその。政宗は桜を見上げ「これだけはいつまでも変わらねぇといいな」と漏らすや、ぐい、と乱暴に右目の胸元を掴み引き寄せると、低くなった唇を、べろり、と舐めた。
    「……ッ、政宗様ッ」
    「なんだ、ちゃんと吸って欲しかったのか?」
     あっさり、と手を離せば小十郎は袷を整えながら鋭い声を上げ、それに対して政宗は口角を吊り上げた意地の悪い声で応じる。
    「お戯れが過ぎますぞ」
    「いいじゃねぇか。誰が見てるわけでもなし」
    「そういう問題ではございませぬ」
     はー、と深い息を吐く小十郎を横目に、政宗は「じゃあ花見は来年な」と勝手な約束を取り付けたのだった。

    ■   ■   ■

     これ以上積もっては帰れなくなりますぞ、と小十郎は渋る政宗を追い立てるように門まで見送りに出る。傘を差す小十郎の手を名残惜しげに一撫でし、政宗は「次に来たときは笛を聞かせろ」とせがんでみせた。
     どこか甘えるような縋るような主の童じみた様子に呆れることもなく、小十郎は、やわり、と眦を下げ「では、暖かくなりましたら」と答える。暗に「春まで来るな」と言われているのかと政宗が目を眇めれば、右目は困ったように眉尻を下げた。
    「この寒さでは指がかじかんで満足に動きませぬ」
     春になりましたら存分に、と言葉を重ね静かに頭を垂れる。政宗からすれば彼の奏でるものならば、たとえ途中で音が引っ繰り返ろうとも一向に構わないのだが、主にそのようなものを聞かせるわけにはいかぬと、小十郎が頑として譲らぬ気持ちもわかるのだ。
    「わかったわかった。先の楽しみに取っておく」
     長話をして小十郎が身体を冷やしてはいけない、と政宗は早々に折れ、小雪が舞う中、城に向かって馬を走らせたのだった。
     その後ろ姿が見えなくなるまで微動だにせず立ち尽くしていた小十郎は、冷えた空気を大きく吸い込むと一瞬息を止めてから、ゆるゆる、と細く吐き出し、最後に、ぽつり、と詫びの言葉を漏らした。
     今はまだこうして己の足で立っているが、春には恐らく満足に動くことも出来なくなっているだろうとの予感があった。
     じわりじわり、と自分の中からなにかが削ぎ落ちていく感覚に背が震える。目に見える物ではないだけに言葉では言い表せないのだが、強いて言うなれば『生きる力』なのだと小十郎は思っている。
     来世の話などしてしまったが、あれは常日頃から思っている本心であり、告げたことを後悔などしていない。
    「歯痒いな」
     どれだけ身体が衰えようとも、それでも心はあの気高き蒼竜と共にあることを望んでしまう。
     地に積もった雪を踏み締め、花も葉もない桜へと寄る。雪の重みでやや項垂れている枝を見上げ、きゅっ、と唇を引き結ぶ。
     この身はやがて朽ち果て消え失せる。
     ならば、せめて思いだけはここに置いて行こうと。
     いつか巡り来る自分ならば必ず見つけるだろうと、そう信じて。

    ■   ■   ■

     激しい雷雨の中、轟く雷鳴を凌駕するほどの咆吼が響く。
     吹きすさぶ風に舞い上がる花弁や青い葉を追うように、竜の血を吐くような叫びが天へと昇る。それはより一層激しい雨を、風を、雷を呼び寄せた。
     幼き頃に失った右目を今また永遠に失い、声が枯れるまで竜は吼え続けた。
     ただ一人の名を、竜はひたすら叫び続けた。

    ■   ■   ■

    「小十郎」
     不意に名を呼ばれ、はっ、と我に返る。心配そうに覗き込んでいる政宗を目にした瞬間、小十郎は口を開き掛けるもそれはなにも紡がずそのまま閉じられた。政宗はやや色を失った小十郎の頬に、ひたり、と掌を充て「大丈夫か?」と問うた。
     貧血でも起こしたのか小十郎の意識には一瞬の空白があり、政宗に抱えられている状況に気づくとやや焦りを滲ませた様子で身を起こす。
    「大丈夫、です」
     すみません、と小さく詫びの言葉を漏らし傍らの籠を拾い上げると、小十郎は少々おぼつかない足取りで家屋へと戻っていった。
     その背を黙って見つめていた政宗は苦い顔で、がしがし、と後ろ頭を掻く。
     強い念はその場に留まり続けると言うが、桜がそれを内包していたのは予想外であった。大方、政宗と共にあった年月の長さから影響を受け、付喪神になりかけているのだろう。
     引きずり込まれた小十郎の意識を取り戻す際、政宗もそれに触れたが、己の物以上にかつての小十郎の思いの強さに正直、胸を突かれた。
    「本当に、不器用な男だ」
     言葉で伝えてくることは極稀であったが、態度で、眼差しで、交わす熱で、彼がどれだけ深い愛情を持っていたのかわかっていたつもりだった。だが、この身を包む柔らかくも強い思いは、それ以上であった。
    「こじゅうろう……」
     募る愛しさを抑え込むように政宗は己の肩を抱き、かつては声が枯れるまで呼び続けた名を、吐息を漏らすかのように唇に乗せたのだった。


     先に戻った小十郎の様子を窺えば、目の前に広げられた洗濯物に手をつける素振りもなく、ただ、ぼんやり、と強い日差しの降り注ぐ庭を眺めていた。
    「小十郎?」
     静かに声を掛ければ小十郎は夢から覚めたかのような面持ちで勢い良く政宗を見上げ、放心していた姿を見られたせいか、一瞬にして、かっ、と頬を朱に染めた。歳の割には落ち着いていると思っていたが、常にない焦りように政宗の方が驚いてしまい、傍に寄るやその額に掌を宛がう。
    「やっぱ調子悪いんじゃねぇのか。あとは俺がやっておくから少し横に……」
    「いえ、大丈夫ですから」
     心配には及ばぬと、やんわりと政宗の気遣いを退ける頑ななところは、本当に昔とちっとも変わっちゃいねぇ、と内心で唇を歪めるもおくびには出さず、政宗は額に充てていた掌を頬へと移動させ、ゆるり、と見えない傷を親指の腹で辿った。
    「少し熱いな」
     そう言うが早いか背中を支え、素早く膝裏に腕を差し込む。小十郎が、あっ、と思った時には既に身体は畳を離れ、立ち上がった政宗の腕の中にあった。
    「具合悪い時くらいは気ぃ遣うな」
     見てるこっちが気を遣う、と半ば独り言のように続ければ、大方「下ろしてくれ」とでも言おうとしたのだろう口は、きゅっ、と引き結ばれ、その代わりのように控え目に伸ばされた手が政宗の着物の衿を緩く掴んだ。
     おとなしく抱かれたままの小十郎を一番風通しの良い部屋へと運び、政宗はそのまま小十郎が寝息を立てるまで傍に居たのだった。

    ■   ■   ■

     使い込まれているが手入れの行き届いている笛を、ゆるり、と一撫でし、そっ、と唇を寄せる。静かに息を吹き込めば、か細く頼りない音が空気を震わせた。
     どこまでも届きそうなあの真っ直ぐで透き通った音色は彼にしか出せぬのだと、政宗は拙い音を響かせながらきつく眉根を寄せる。
     その昔、どうしても小十郎と同じ音が出せずむくれた梵天丸を窘めるでもなく「思いがそのまま音になりまする」と小十郎はただ柔く笑んだのだった。
     まさしくその通りだと、静かに腕を下ろし目の前の桜を見上げる。花は散るからこそ美しいというが、再び咲くことを知っているからこそだ。
     一度失ったものはこの手には戻らぬことを政宗は知っている。
     だが、あの男は言ったのだ。ここで再び見えることを確かに約束したのだ。
     忠実で誠実で絵に描いたような堅物が、果たせぬ約束を主と交わすはずがないのだ。
     再び巡るこの花のように、たとえ何年何十年何百年かかろうとも、あの厳しくも柔い声で主の名を呼ぶに違いない。
     今まで見た中でも一番の花の付きように、この木も故人を悼んでいるのだと政宗は思った。

    ■   ■   ■

     肩に掛けたバッグを背負い直し、小十郎は「お世話になりました」と頭を下げた。夏休みはあと三日残っているが、「戻った翌日にすぐ学校ってのは小十郎も大変だろう」と成実が政宗をどうにか説得したのだ。
     政宗には一分一秒でも長く小十郎と共にありたいと願う気持ちはあれど、今日まで全く変化が見られなかったこともあり、これ以上引き留めても無駄であると諦めたのだった。
    「道中、気をつけてな」
     からころ、と下駄を鳴らして門まで見送りに出る。昔とは逆だな、と政宗はふと思い、去りゆく主の背を見送る小十郎は一体どのような気持ちであったのかと、思いを巡らせる。今の小十郎とはこれが今生の別れではないが、彼がまた来るという保証はない。
     しくり、と痛む胸中を押し隠し、政宗は真面目な表情で、じっ、と小十郎を見据える。
    「小十郎」
    「はい」
     余りにも真剣な眼差しに知らず、ごくり、と小十郎の喉が鳴った。暑さからか緊張からか、つっ、と一筋、汗がこめかみから顎へと伝い落ちる。
     たっぷり間をおいた後に政宗は、閉ざしていた唇をゆっくりと開いた。
    「メルアド交換しよう」
    「……はい?」
     すちゃっ、と懐から取り出されたスマートフォンに、あれ? 俺このやり取り知ってるぞ? と珍妙な顔をしている小十郎をよそに、政宗は鼻歌交じりに画面を指で撫でている。
    「一体いつの間に」
     FAXもろくに扱えなかったあの政宗が、スマートフォンを持っていることが俄には信じられない。
    「これがあればおまえと繋がっていられるんだろう?」
     たどたどしい手付きで目的の画面を出しながら、成がそう言ってた、と笑う政宗の姿に小十郎は、きゅっ、と唇を引き結んだ。
    「あんまり成実さんを困らせちゃダメですよ」
     困ったお人だ、と胸中でごち、小十郎は自分の携帯電話を開く。ぽちぽち、と手早く操作をし、送られた互いの番号とメールアドレスを確認し合い、これでよし、と小さく頷けば、政宗はなにか思い出したか、あっ、と声を上げた。
    「写真、撮らせてくれ」
     頼む! と顔の前で手を合わせる政宗の勢いに圧され、小十郎は思わず首を縦に振ってしまったのだった。


     誰も居ない部屋で政宗は俯せになり、曲げた腕に顔を半分埋めるような格好で畳に直に置いたスマートフォンを、ぼんやり、と眺めている。
     画面に映し出されているのは別れ際に撮った小十郎で、そのどこか困ったように眉尻を下げた笑いは昔を彷彿とさせ、寂寥感と愛しさの狭間で胸が締め付けられた。
    「次は何年待てばいいんだ、小十郎……」
     そっ、と画面に触れたその時、軽やかな音色がメールの着信を告げた。どうせ成実だろう、と気怠げに受信箱を開いた瞬間、飛び込んできた名に、がばり、と勢い良く身を起こし居住まいを正す。微かに震える指先で件名のないメールを開けば、『申し訳御座いません』と詫びの言葉から始まっていた。
     どういうことだ、と読み進めて行くうちに驚愕に彩られていた表情は、苛立ちと驚喜が同居した歪な笑みへと変じていく。
    「……ッの野郎」
     今すぐにでも連れ戻して引き倒してやりたい衝動に駆られるもその術はなく、政宗はShit!! と口汚く罵るしかなかった。

    『申し訳御座いません、政宗様。貴方様との約束をあの一件でようやっと思い出すと言う不忠をどう詫びればよいか、そればかりを考えておりました。政宗様がおひとりで過ごされた時間を思えば思うほど言葉が出ず、打ち明けることもままならず御側を離れたこと、伏してお詫び申し上げまする。もしお許し頂けるのであれば桜の咲く頃、参上仕りたく候。
     追伸。政宗様のお心、恐悦至極なれど他者に害が及ぶ手立ては感心致しませぬ』

    ■   ■   ■

     ひとり電車に揺られ、小十郎は手中の携帯電話に目を落とす。
     逃げるように政宗の元から去って、既に半年以上が経過した。あの後、やはり黙っていることは出来ず腹を括って出した詫びのメールへの返信は、ただ一言「赦す」であった。
     筆まめであった昔を知っている身からすればあまりにも簡潔な内容に、お怒りはごもっともだと深く項垂れた。
     だが、その言葉に嘘偽りはないこともわかっている。怒りも不満も全て飲み込み、小十郎の心情を慮り、受け入れた末の言葉なのだ。
     それから政宗は思い出したように、ぽつぽつ、と写真のみを送ってきた。てっきり毎日のように通話なりメールなりを寄越すと思っていただけに、これは正直、肩透かしであった。
     主から言葉がない以上、こちらからなにか告げることは憚られ、募る思いを胸に小十郎も写真のみを送るという奇妙なやり取りが続いた。
     あの夏に小十郎の腹を満たした野菜畑や流れる雲。朱く染まった紅葉。土を盛り上げる霜柱。水の張られた池を覆う薄氷。なにもかも白に塗り替えられた庭。餅の載った火鉢。
     ゆっくり、ゆっくりと増えていく写真を見るのがいつしか日課となり、次はなにが来るのかと心待ちにした。
     そして、三日前に送られてきたのが、五分咲きの桜であった。
     来い、と言葉はなくとも強く伝わってきた。小十郎は居ても立っても居られず、直ぐさま飛び出したい気持ちをぐっとこらえ次の休みを待った。
     父親は良い顔をしなかったが、こうなるとわかっていたのか諦観の笑みを浮かべ、止めることはしなかった。
     穏やかな日差しを背に受け、石畳を行く。
     今日行くことは政宗には既に連絡してあり、開け放たれたままの竹の門を目にした瞬間、それまで抑え込んでいた気持ちに歯止めが利かず、気づけば走り出していた。
     ほんの数メートルの距離すらもがもどかしく、小十郎は喘ぐように駆ける。一歩踏み出すごとにまるで彼を出迎えるかのように、淡い花弁が、ひらりひらり、と踊り、その数は見る間に増え、足を緩めることなく庭に駆け込んだ瞬間、ざわり、と風が巻き、視界が一瞬、春の色に包まれた。
    「遅かったじゃねぇか、小十郎」
    「ただいま戻りました」
     するり、と、まるで呼吸をするかの如く言葉を交わし、小十郎は、くしゃり、と顔を歪める。
     桜吹雪の向こう、当たり前のように己を待っていてくれた主の姿を目の当たりにし、ひれ伏したくもあり、また、臣下としてあるまじき行為であるとわかっているが、その身を強く抱き締めたくもあった。
     桜の前から動く気配のない政宗に近づくにつれ、呼吸は乱れ頬の紅潮も止まらない。激しく鳴る心の臓を小十郎が内心で叱りつけたのと、政宗が、くつり、と喉を鳴らしたのは同時であった。
    「どうした、息が乱れてるぜ?」
     全てを見透かしているであろうに、わざわざ意地悪く問うてくる政宗に小十郎は一瞬、眉間に皺を寄せるも「少々、走りましたので」と嘘ではないが、本当でもないことを口にする。
     だが、その応えがお気に召したか、ゆうるり、と眦を下げた政宗は、目の前に立った小十郎の頬を両の掌で包んだ。記憶よりも低い位置のそれに切なさを覚えるも、今、確かに触れているのだという事実に笑みを零す。
    「顔が見たかった。触れたかった。声が聞きたかった」
     待ってた、と政宗の唇から掠れた声が漏れ出た刹那、押し止めていた感情が堰を切ったか、小十郎の腕が政宗の背に回り、強く強くその身を掻き抱いた。
     政宗様、政宗様、と耳元で縋るように名を呼び続ける小十郎の背に政宗も腕を回し、強く抱き締める。
     記憶にある鍛えられた鋼のような身体ではなく、耳朶を擽る声も齢を重ねた深い物ではないが、愛しい愛しいと湧き出る思いを隠そうともせず、主の名を呼ぶその声は政宗の胸を震わせた。
    「小十郎も、ずっとお会いしとう御座いました」
     ギリギリのところで涙を零すことはせず、小十郎は政宗から離れると毅然と顔を上げた。この意志を固めた表情には嫌と言うほど覚えがある、と政宗は隠すことなく唇を歪め、相手が口を開く前に先手を打つ。
    「腹切るとか言うなよ、小十郎」
     この時代にそのようなことをすれば、大騒ぎになることくらい政宗でもわかる。ぐっ、と喉を詰まらせた小十郎に「困ったDarlingだぜ」と戯けたように肩を竦めて見せ、ゆうるり、と背後を振り仰いだ。
     つられて顔を上方へ向けた小十郎は視界に飛び込んできた光景に心奪われたか、瞬きも忘れて枝を飾る小さな花を食い入るように見つめる。
     自分が「良い桜だ」と言ったから、主はこれをずっとずっと護っていてくれたのだ。
     止まることなく儚く舞い散る花弁を目で追い、無意識のうちに手を伸ばせば、それが辿り着いたのは政宗の唇であった。
     そっ、と触れた指先から伝わる熱に政宗は、うっそり、と笑み、小十郎が慌てて手を引く前にしっかりと捉え、自分よりも小さな掌に唇を押し当てた。
    「約束、忘れてねぇだろ」
     春になりましたら存分に、とこの男は言ったのだ。
     いつか返すのだと大切に懐へと仕舞い込んでいた笛を差し出せば、小十郎は、はっ、と瞠目し、微かに震える手で捧げ持つように受け取った。
    「ようやく、果たせますな」
     そっ、と伏せた睫毛が震え、すっ、と透明な筋が滑らかな頬を伝う様がこの上もなく美しいと、政宗は思ったのだった。

    ■   ■   ■

    「一体、何年越しの意趣返しですか」
     ギリギリ、と音がしそうな程に眉間に深い皺を寄せている小十郎を前に、政宗は六年前と変わらぬ姿のまま、にたり、と口角を吊り上げる。
    「意趣返しとは人聞きの悪いことを言うじゃねぇか。俺はただ、正統な持ち主に権利を返しただけだぜ?」
    「それは昔の俺でしょう!? 今の時代、譲渡するにも法手続きやら税金やら七面倒くさいんですよ!」
     大学を卒業し四月から晴れて新社会人だと、おろしたてのスーツを前に気合いを入れていた小十郎の元に、耳を疑う報せが届いたのが三時間前。
     電話口で腹を抱えんばかりに笑い声を上げる成実からもたらされた話に卒倒しかけるも、そんな場合ではないと取る物も取らずバイクを走らせ、元凶の元へとやって来たのだ。
    「あの家、おまえの物になったから」と言われた時には、本気で訳がわからなかった。要は小十郎を住まわせたいが為だけに、伊達家に対して政宗がごり押しをした結果であったのだ。
    「あー、書類上は伊達家の所有物件のままだから、面倒なことはなにもないから安心しろ」
    「それはそれで違う意味で面倒です」
     政宗に振り回されている伊達の御当主にどう詫びたものかと、胃を、ギリギリ、痛めている小十郎を知ってか知らずか、人騒がせな竜神様は膝でいざり寄ると右目の頬を、するり、と撫で、くつり、と喉を鳴らした。
    「気難しい竜神のお守りをしてくれるんだ、伊達も片倉も万々歳だろうが」
    「御自分で言いますか」
     やれやれ、と諦めたように息を吐き、小十郎は眼前に迫る端麗な顔を避けることなく、そっ、と瞼を下ろしたのだった。


    【了】
    【おまけ】
    夕闇の中、池の縁に佇みなにやら難しい顔をしている政宗に、ただいま戻りました、と声を掛ければ、小十郎に顔も向けず、おう、と上の空な声が返ってきた。
     水を張ったはいいが未だ生き物の影のない池をようやくどうにかするつもりになったのかと、小十郎は深く考えず政宗を置いて家へと入る。
     以前、一度だけ「蓮を育てたい」と申し出たことがあるのだが、なにやら複雑な顔をされた挙げ句その理由も口にせぬままに遠回しに断られた経験があり、あの池について小十郎は口を出すことをやめたのだった。
    「レンコン目当てと思われたか」
     当時のことを振り返り後ろ頭を、がしがし、と掻く。そのようなつもりはなかったのだが、今生では畑いじりもさせてもらえない状況を考えると、あながち外れてはいないのではないかと思えてくる。
     あれか? 野菜にかまけてる時間があるなら自分をかまえということか? と思わぬところで子供じみた感情を披露する政宗が正直、小十郎は嫌いではない。
     長いこと独りにさせてしまい、更には騙し討ちのようなことをしてしまったこともあり、多少の我が儘なら聞き入れようと思っている。

     ──そう思っているのだが。

    「阿呆ですかアンタ」
     夕飯の席での政宗の発言に小十郎は間髪入れずツッコミを入れた。
    「てめぇ、主に向かって阿呆とはなんだ!」
     さすがに飯粒を飛ばすようなことはなかったが、だん、と強めに叩かれたちゃぶ台の上で食器類が踊る。波打った汁椀に目を落とした小十郎のお小言が始まる前に、政宗は話題を変えられてなるものかと矢継ぎ早に言葉を吐く。
    「あの池を改造して露天風呂を復活させようって言っただけじゃねぇかよ。桜を愛でながら風呂たぁ、オツじゃねぇか」
    「外から丸見えです」
    「衝立くらい作るに決まってるだろ。なんなら目隠しに脱衣場を建てて母屋と繋いだって……」
    「工事費用はどこから出るんです?」
     俺の安月給じゃ到底無理ですよ、と淡々と現実的なことを口にする小十郎に、ぐ……、と政宗は言葉に詰まる。ここで「そこはそれ、伊達の家に」などと言ったら小十郎の胃がどうにかなってしまいそうだった。
    「内風呂で充分でしょう。それに今は昔のように星も綺麗に見えませんし、空気が良いわけでもありません」
     メリットはないと小十郎は言い、確かにその通りではあるが政宗は拗ねたように唇を尖らせる。
    「……狭い」
    「はい?」
    「内風呂じゃ一緒に入るには狭いし、そもそも俺は桜もおまえも愛でたいって言ってんだ!」
     包み隠さぬ政宗の発言に小十郎は、ぶふーッ! と茶を噴出する。それはつまり青姦か? 青姦したい発言なのか!? と口許から滴る茶を手の甲で拭いながら政宗を、じとり、と見やる。
     確かに、確かに昔はそういうことをしなかったわけではない。雰囲気に流されてとか、ちょっと調子に乗って自分から誘うような言動をしたこともあったが、今思い出しても顔から火を噴きそうな程の黒歴史だ。それを掘り返されたら軽く死ねるとまで思っている。
    「ご自重召されよ」
     ぴしゃり、と言い放てば小十郎の逆鱗に触れたと気づいたか、政宗の動きが、ぴたり、と止まる。今生でも夜を共にする関係ではあるが、あからさまな物言いを小十郎は非常に嫌がるのだ。
     だが、照れが大半を占めていると理解している為、政宗はそのような小十郎の態度に本気で不快感を示すことはなく、むしろ「Cuteだぜ」と胸キュン状態であるが小十郎本人は気づいていない。
     それでも要求が通らなかったのはやはり残念で、しょんぼり、と政宗が肩を落とせば、少々の罪悪感に苛まれたか小十郎は空の皿を重ねていた手を止め、「明日のご予定は?」と柔らかく問うてきた。
     特に働いているわけでもない政宗に予定もクソもないのだが、それを承知で改めて聞いてきたとなれば話は別だ。
    「なにかあるのか?」
    「近くで祭りがあるそうですよ」
     帰り道でポスターを見かけました、と答える小十郎の言わんとすることを瞬時に察したか、政宗は「浴衣用意しないとな」と笑ったのだった。

    ■ ■ ■

     カラコロ、と下駄を鳴らし、人々が溢れ活気に満ちた賑やかな中を屋台を冷やかしつつ進む。
     小十郎からすれば夏祭りなど珍しくもないのだが、政宗はそうではない。なにしろ小十郎が来るまであの家に何百年も籠もっており、外界に興味すらなかったのだ。小十郎をあの家に無理矢理住まわせてからは買い物だなんだと所帯じみた理由で伊達の敷地を出るにあたり、今更近隣の古い神々に話を付けに行ったというのだから、それを聞いたとき小十郎は開いた口が塞がらなかった。
     神様も縄張りとかいろいろ面倒臭ぇんだよ、とまるで猫の縄張り争いと同じだと言わんばかりの政宗に、罰当たりな、とも思ったのだった。
     射的に使う玩具の銃を構え「種子島を思い出すな」と笑いながら目を眇め、ポン、と飛び出したコルクが見事景品を射止めれば政宗は子供のように大はしゃぎし、早々にコツを掴んだか立て続けに景品を台から叩き落とせばさすがに屋台の主が気の毒になり、小十郎は「ほどほどになさいませ」と政宗を窘めた。
     やってみたかっただけだ、と政宗は最初に落とした景品のみを貰い、再び人波に乗る。
    「なにか食べますか?」
     先を行く主の背に声を掛ければ、肩越しに振り返った政宗はなにやら不満そうに半眼で小十郎を見やり、ちょいちょい、と指先の動きだけで、もっと寄れ、と示してくる。見失うような距離ではないが、と怪訝な面持ちで小十郎が一歩距離を詰めれば、もっとだ、と言わんばかりに政宗の指先が跳ねた。
    「どうなさいました?」
    「どうしたじゃねぇ」
     あと半歩の距離まで寄れば、つい先程まで上機嫌であった政宗の機嫌が急降下しており、小十郎は思い当たる節が全くなく首を傾げるしかない。
     政宗はといえばもどかしそうに小十郎を見つめ、あぁくそ、と片手で後ろ頭を、がしがし、と掻き乱す。
     あと半歩。
     たったこれだけの距離をどうしてこの男は詰めてこないのか。
    「確かに俺は今も主風を吹かすこともあるが……」
     今は戦国の世ではないのだ。
    「隣歩け」
     家臣の位置から逸脱しない小十郎の掌を取り、ぐい、と強めに引けば、政宗の不機嫌の理由を理解したか小十郎は一瞬、目を泳がせるも抗うことなくそのまま肩を並べた。
     歩調を合わせ、かろんかろん、と下駄を鳴らせば政宗は満足そうに口角を吊り上げ、掴んだままの手に、きゅっ、と力を込める。政宗の手はいつも、ひんやり、としており、小十郎は夏の暑さで、しっとり、と汗ばんでいる己の手が相手には不快なのではないかと心配になる。
     やんわり、と外そうとするも強く握り込まれ、更には「おまえの熱なら心地好い」と囁かれては返す言葉を小十郎は持ち合わせていなかった。

    ■ ■ ■

     すぃ、と軽やかに泳ぐ小さな赤い生き物に小十郎は眦を下げ、パラパラ、と水面に餌を落とす。
     先日の夏祭りで戯れに掬った金魚が二匹。広い池にはちっぽけすぎるそれらは、政宗がポイを五つ費やして連れ帰ったものだ。
     正確には小十郎がポイひとつの犠牲で一匹を、政宗は店主の情けで一匹選ばせてもらったのだが。
     射的はあんなにもお上手ですのに、と悪気無く小十郎が小さく笑えば、政宗は、うっせ、と漏らし、その様があまりにも幼く梵天丸を彷彿とさせ小十郎の笑みはますます深くなり、本格的に臍を曲げてしまった政宗を宥めるのに帰り道で大層苦労したのだった。
     水面をつつくように餌を食べている金魚を見やりつつ、水草のひとつでも植えてやらねぇとな、と思案していれば、ふらり、とやってきた政宗がどこか気まずそうに小十郎の隣に並んだ。
    「どうされました」
    「Ah……」
     なにやら言いたげではあるのだがなかなか口を開かない政宗を促せば、水面に映った小十郎を、ちら、と見てから政宗は「蓮……」と小さく漏らした。
    「植えていいぜ」
     端的にそれだけを言うと返事を聞く前に政宗は踵を返し、足早に家屋へと戻ってしまった。声を掛けることも出来ず、ぽかん、とその背を見送ってしまった小十郎だが、一度NOと言ったことを覆した主が今頃どのような顔をしているのだろうと想像し、くつくつ、と喉を鳴らしたのだった。

    ::::::::::

    2012.09.12
    茶田智吉 Link Message Mute
    2018/08/13 4:48:38

    【BSR】桜舞うは遙か遠き約束の地

    #戦国BASARA #伊達政宗 #片倉小十郎 #政小 #腐向け ##BASARA ##同人誌再録
    同人誌再録。
    政宗が竜神で小十郎が学生という転生パラレル。
    (約3万字)

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