Escape from the world. ジャラリと金属の擦れる音に閉じていた瞼を持ち上げる。牢獄の入り口を窺えば、逆光にさえ隠れることの無い赤い瞳が静かにこちらを見据えていた。手には褐色のトランクを一つぶら下げている。
「Hello」
腕を挙げると繋がった鎖が纏わりついて音を立てる。眉を顰め、冷たい壁に背を預けた。足を組んで訪問者を一瞥する。
「それで? 遂にお前も追い出された?」
「そんなところだ」
返答しつつ相手はためらいなく近づいてきた。ずっと暗い中で生活している身に、その体色は眩し過ぎる。目を細める自分を無視して相手はこちらの前方へと屈みこんだ。錆びついた手錠に触れ、愛撫するように指を滑らせる。久方ぶりの熱は奇妙に懐かしい。
「ここから出たくはないか」
はっきりとした声音に謀る気配は無かった。すいと相手を見据えれば、赤の瞳がひたりと揺らがず見つめている。誰に言われたのでもなく、相手自身の意思で誘っているのだろう。少なくとも頷いた途端に裏切られることは無さそうだった。そうと知りながら申し出を鼻で笑ってやる。
「連れ出しに来たって言うのか」
「望むなら準備はある」
そう言い相手は足元に置いたトランクに目を向ける。やや大ぶりな、それでもよくある形状で特別なものではない。秘策が詰められているとは思えないが、冗談に付き合うのもいいだろう。
悪と看做され此処に繋がれてからの月日など覚えていなかった。興味も無い。誰を恨み憎めばいいのかも定かではなかった。彼か、彼らか、それとももっと別の誰かなのか。くだらない。考えるのもくだらない。繋ぎたいなら繋げばいいし、殺したいなら殺せばいい。忘れることもできないくせに、安寧の日々など笑ってしまう。
そうして彼らは、遂に光さえ捨ててしまった。
「――OK.地の果てだろうと連れてけよ」
「分かった」
頷くと共に相手はトランクを開け、ジャックナイフを取り出した。ちかりと光った刃以外、他には何も入っていない。じゃらじゃらと音を立てる鎖を軽く払いつつ、拘束された自分の左手を相手の右手が掬い上げる。重ねた掌が握りしめられ、次の瞬間、手首にどすりとした衝撃があって手錠が外れた。
ただし切られたのは手錠ではなく腕の方だったが。
「……ッ!!」
「死にはしない。耐えろ」
先程までと全く変わらない落ち着いた声に諭される。相手は握っていた、切り落としたばかりの自分の掌をトランクへ丁寧にしまった。こちらが何か言う間もなく反対の手も同様に切り落とす。手際の良さには呆れるしかなかった。同時に、これだけの所業に耐えることができてしまう己の身体に辟易もする。
呆れる間にも相手は黙々と手足を切り落としては次々トランクに放り込んでいく。足は胴体から離され、遂には首も別れを告げた。流石に眩暈がして意識が遠ざかる。声帯を切られたためなのか最早声も出ない。
確かに、これなら跡形も残さず逃げ出せるだろう。常人では不可能な手法だ。倫理などとうに崩壊している。
不意に視界が高くなったかと思うと、抱え上げられた頭部が整然と納められた手足の上に乗せられる。視線だけで見上げれば、蓋に手をかけ今にも閉じようとしている赤の瞳と目が合った。瞳には悪意も罪悪感も映っていない。相手がここへ来るまでどんな経緯を辿ったかは想像するしかなかった。しかし、感情に任せて安易な行動を取ったわけではないだろう。結果やリスクを見越した上で最も合理的な手段を選ぶことができる。眼前の光を恐れ逃げ出してしまった誰かを、少しだけ理解できる気がした。
視線を逸らし溜息を吐く。これほど狭くては息をするのも煩わしい。相手の掌が慈しむように此方の頬を一撫でした。そんなもの、知りもしないくせに。真似事だけは上品だ。
「目が覚めたら繋いでやる」
瞳を閉じると同時にトランクの扉が閉まる。
暗闇の向こう、ガチリと鍵のかかる音がした。