A beautiful night.
肌を這う感触に気怠い瞼を持ち上げる。ゆっくりと瞬く内に視界は滲むよう色付いて、白い壁にうっすら落ちる蒼い影が目に留まる。ベッドに横たわっているだろう己の四肢と僅かに感じるシーツの重なり。それとは別にある指の動き、肌の色。自分のものではない熱が間近で呼吸をひた隠す。
「……」
「Wake up, honey?」
ふざけた台詞は思いのほか近い場所から落ちてくる。額を撫ぜる感覚にも、もう慣れてしまった。目が覚めるといつも彼がすぐ傍にいる。怖ろしいほど正確に、まるで此方の目が覚める瞬間を計ったかのように其処にいて笑っている。偶然と思うほど安直でもない。
「……なにか、盛っただろ」
「さぁ」
どうだかと微笑んで相手はぽすりと言葉ごと自分の胸に落ちてくる。胸毛に頬が擦れてくすぐったいのか、ふっふっと静かに笑う振動が肌を伝わり胸をさざめかせる。呆れて目を伏せれば、調子に乗った指が首の下をちょこちょこと這い回った。うるさいぞと呟けば大人しくなる。微かな呼吸が胸を上下して形をなぞった。命の輪郭が此処にある。
「眠れないなら本でも読んでやろうか」
「……いらねぇ」
「ならもっと、楽しいこと?」
くすくすと笑う度に呼気が肌を震わせる。嘯いた唇が胸毛を探って食むようなキスをする。遊んでいるのだ。遊ばれているつもりはない。身体はひどく重いまま、弛緩剤といったところだろう。劇物を含まされるほど恨まれてもいなければ、絶望してもいないと思っている。喉奥で笑う振動が伝わって、こんなにも勝手に胸を満たす。
雨風を凌いで逃げ込んだ洞穴で一晩を過ごした記憶がいつの、誰のものだったかは忘れてしまった。大きな虚ほど響く音がある。ほぉうほぉうと密やかに唸りを上げる、その音の寂しさに眠るのも忘れて聞いていた。誰の記憶か、もう思い出せはしない。ひどく寂しげな音が耳に木霊し忘れきれずに胸を掻き毟らせる。お前は、おまえは確かにそこにいたのだ。名も無き影の深さをまさぐって問う。戦慄く唇を噛んで問う。
「ソニック」
「……」
返事もなく胸より離れていった顔が、静かな双眸がひたと此方を見据えている。重く煩わしい腕を引きずって、見上げた先にある肌へと指を伸ばす。吐息も忘れるほどの時間で見つめ合う。
「あんた、何が怖いんだ?」
翳した掌が相手の頬へと届く。笑みの暖かさにはそぐわぬ、ひどく冷たい頬だった。いつもそうだ。賑やかで楽しげで美しく光を放つ、その対極で激しく深く輝く影がある。善性になどけっして染まらない彼だけの夜がその身に灯って消えやしない。言葉にできないその暗闇を見定めたくて甘んじたのだと今では自分に言い聞かせている。暖かい夜を見つめている。目を離せない夜がある。
「……」
触れた頬が僅かに強張ったかと思うと、不意に伸ばした腕を攫っていく。指を絡め取り柔らかく押さえ込んだ掌は、そのまま此方の四肢を静かに覆った。再び頽れた身体が近く、息づく度に肌へと響く。言葉にはならない音が皮膚をなぞって、自分も問い返しはしなかった。ぐっと掌に力が篭って――それだけ。言葉の無い室内に夜が満ちる。
例えば彼が感覚の無い両足や欠けた腕輪について一言でも触れたなら、自分は何だって受け入れると決めていた。
重い瞼を持ち上げて初めて捉えた瞳が、見たこともないほど情に浸っていなかったなら糾弾の一つもできただろう。俺は何で、どうして此処にいて、お前の目的は何なのか。ままならない身体は何のせいで、どうしていつもお前がいて、寂しげに笑って額を撫ぜるのか。優しい指先など振り払って問うていた。そんなに痛ましい瞳で俺を、貴方が私を見なければ。こんなお伽噺みたいな現実をかなぐり捨てて、強がりなんかじゃない、絶望に這いずり回る覚悟ならできていた。
そんな寂しげな瞳でさえなかったなら、いくらだって傷だらけになった。
「 」
もう音にもならない声で彼が肌を撫ぜていく。いっそ肌が夜露に濡れたなら、もう諦めてくれと懇願もできた。俺のことは、もう。未来なんていくらだって訪れる。そこに誰がいなくとも、お前が望んで選んで掴んだものならそれは誰にも否定できない。そんなこと。やがて有り得た未来だけが正答だなんて、そんなことないんだ。ないんだよ、ソニック。俺は全然、もう、こんな未来守ってくれなくていい。貴方の幸いがあればいい。
握られた掌が燃えている。熱に軋んだ骨の痛みが身を焦がす。どちらのなんて野暮は捨てていく。そんなもの、何も救ってはくれない。泣き出すくらい柔な心根であったなら、互いに諦めもついただろう。そうでないから未だにこんな冷たい部屋で肌を重ねている。優しい言葉一つかけてやれない魂だ。気づかない振りしかしてやれない。
胸を掻き分けた牙が柔らかく喉に沈んで釘を刺す。
怒っているのかも知れなかった。