brother
白い壁を眺めて痕跡を探すのにも飽いていた。殴りつけた血の色に誰かが凭れた熱の跡、溜息の名残に曖昧な笑み。最後の一つは今も傍らにあるものだ。彼の、微笑んだ吐息が囁いて問う。
「食事は?」
「……流し込むくせに」
にこやかな笑みに呆れれば、相手は音もなく目を細めた。美しく婉曲する口角を視線でなぞる。いつ見ても美しい顔を作る、彼の本心がいずこにあるか自分などには想像もつかない。不満足な自分の間近で、まるで満ち足りたように微笑んでいる。いつでも、笑って額を撫ぜて時にキスを落とす。親愛以上の意味は無い。無い、だろう。他意を汲み取るほどの余裕などとうの昔に失くしている。例えば彼が四肢を組み敷き頬を撫ぜ涙したところで、自分には応じる術が無い。
「痛むか?」
無言で瞳を伏せた自分に、ほぅと安堵らしき溜息が落ちて肌を撫ぜる。きっともう、痛みも感じないことに気付いている。
彼の指も言葉もひどく丁寧に、己の在処一つずつを確かめる。繊細な指に触れられる度、儀式のようだと考える。確認するのも馬鹿馬鹿しいと思うようなことを呆れるほど正確に数えられるうち、それらがもう、当たり前とは言えなくなっていることを暗黙の内に理解した。何処にほつれがあるか分からない。肉体の損失は目に見えるだけマシなのだ。
感覚が無くなって、記憶が無くなって、やがて思考もいなくなる。
何を失くしているのか自分でももう分からなかった。数えている、数えることのできている彼だけが自分が誰であったかを覚えている。此方の足が動かなくなる前から彼はそうしていたのだろう。数える指は慣れたもので、いつからそうしているのかとは問えなかった。数日のような気がしているのは自分だけなのだ。でなければ、こんなにも額を撫ぜる手が肌に馴染むはずもない。
視線が彼の掌を素通りに天井を仰ぐ。目を向ければいつでも、空色が視界を満たす。彼の色だ。いつ見上げてもいいよう、白かった天井は塗り潰された。青く、突き抜けていくばかりの空。自分が寝ている間に手を加えているらしく、雲の位置は日毎に変わる。眩しい光は白よりも目に刺さって、とてもではないが窓は作れなかった。
「ここじゃ満足に外も見られないだろ」
それにお前は好きだと思ったんだ。
囁く声に応える気力はもう尽きた。どうしてそう思った。どうして知っている。疑問は後から沸いてくるが、そんなことも全部、もう済んだ話に違いない。応じる言葉は全て夢の合間に微睡んで形を成さない。そうだよ、俺は青空が欲しかった。どうしようもなく欲しくて喘いで抗って、四肢を捥がれる痛みだってきっと覚悟していた。もう忘れてしまったけど、こんな状況になっても受け入れられるのは心が覚えているからだ。
空から伸びる光の筋。暖かい誰かの熱。触れていく風の手触りを。
「You are right」
囁きと共に掌が瞼に翳される。覆い隠されて夜が来る。何を忘れているのだろう。何を覚えているのだろう。聞きたいことは沢山あったはずだった。こんな場所にいる自分のことではない。こんな場所にいる自分を、どうして彼が見捨てないのか。捨て置いて、忘れてくれないのか。傷になりたかったわけじゃない。言いたいことならあったんだ。
確かに貴方が好きだった。
塗りたくらなければいけなかった空色が、瞼の裏で滲んでいた。