朝日と契約と瞼越しに感じた光。
鋭い聴覚の耳に届く鼓動は二つ分。
その内の一つは自分で、もう一つはそれより少し早い。
寝起きで低血圧気味な頭に、少しずつ血液が集まっていく。
そっと頭、耳の間から後頭部にかけてを撫でられた。
うっすらと目を開ければ、視界は真っ白なシーツに黒い毛。
ぼんやりする頭で昨日の事を思い返し、俺ははっとして手を押しのけながら顔を上げる。
「……イェルド」
「あ? なんだ、お前ぇ、その顔は」
低い声に、鳶色の瞳。
深かった傷は消え、残っているのは顔の古傷だけだった。
俺は、ゆっくりと手を伸ばして触れようとして、自分の手が血まみれに幻視する。
すぐに手を引くと、イェルドが俺の頭を掴んで無理やり抱き寄せた。
「……うおっ」
俺は引かれるがままにベッドに上り、イェルドの胸元に顔を埋め、その匂いに包まれる。
傷は治ったが、包帯にしみ込んだ血の匂いは消えていない。
クレスは魔法で傷を治したが、なにかの拍子に傷口が開かぬように一晩は包帯をしたままにしていた。
それが逆に悲惨さを残してしまっていた。
俺はイェルドの抱擁に甘んじてしまいそうになるのを気力で抑え、顔を胸から引きはがした。
「昨日の事、覚えてるか?」
その言葉に、イェルドは少しだけ眉を上げてみせるが、小さく吐息と共に俺を抱きよせて、答えることはなかった。
ぎこちない手の動きと心臓の鼓動の音。
俺はおずおずと手を背中に回し、肩に顎を乗せた。
「覚えてねえ」
「……そっか」
すこし、イェルドの腕に力がこもる。
強く上半身は密着し、互いの胸同士が擦り合う。
「覚えちゃいねえが……それが余計に……」
更にイェルドの腕の力が強くなっていく。
みしりと俺の骨が嫌な音を立て始める。
この後の展開を察し、身体の力を抜いて流れに身を任せることにした。
「腹が立つ」
「ぐえぇ」
自然と潰れた肺から息が漏れる。
痛みを甘んじて受けながら、俺は少し笑った。
「けっ、店に変な奴らが来たところまでは覚えてるんだがよ。気付いたらここで包帯まみれで、そこの紙にはお前をぶっとばすって書いてあるしよ」
「げほ……」
ひとしきり満足したのか、イェルドは俺を解放してくれる。
呼吸を整えながら、俺はイェルドの胸に背中を預け、サイドテーブルに乗っていたメモ書きを手に取った。
「これ、なんて書いてあったんだ?」
「……読めなかったのか」
「しかたねーだろ。いつも以上に汚い字なんだからよ」
すこんと頭に拳が落ちた。
そのまま頭がイェルドの掌に包まれる。
「うるせえ」
「い、いででででで!?」
イェルドの大きな掌に力が込められると頭蓋がみしみしと悲鳴を上げた。
悶えて、逃げようと身をよじるが片手で封じられる。
「ま、まて、しゃれになってな……いだだだだだ!!!?」
「うるせえ」
ぐいと肩が抱き寄せられ、涙目で振りかえればイェルドと目が合う。
ずきりと頭の奥が、痛んだ。
「……お前ぇは本当に大馬鹿だからな、いつも勝手にどっかで無茶するだろうが」
「えー……反省はしてるつもりなんだけどなあ……」
「ほう……」
再び頭を鷲掴みにされて、勢いよく首を横に振った。
「……ていうか、怒る所、そこなんだな」
俺はイェルドの股の間に座り直し、上半身の体重をイェルドの胸に預けると、ぽつりとつぶやく。
正面の窓から見える空は蒼く澄んでいて、昨日の長い夜など、誰も知らないと言っているようだった。
イェルドは俺の頭に顎を乗せて、
「ふん……覚えてねえって言ってるだろ」
ぶっきらぼうにそれだけを告げた。
「……そっか」
イェルドがそう言うならそういうことにしておこうと、それ以上言葉を繋げるのは止めた。
記憶があろうとなかろうと、イェルドがそれでいいと言っているのだから。
それなら、と俺も心に決めていた事を実行に移そうと、改めて決意を固めた。
「……なんか、すげー久しぶりに来た気分だな」
包帯を解き、怪我の跡もないことを確認して、ラルゴとグレインに挨拶をした俺達は、イェルドの店に戻ってきた。
俺が訪れてからまだ半日と立っていないはずだったが、俺には久しぶりに訪れる感覚だった。
「……なんでお前ぇがついて来てるんだよ」
「え、一応病み上がりのおっさんの付き添いなんだけど」
胡乱げな目で見られ、心外に思って見返すが、イェルドは大きく鼻を鳴らすだけだった。
とにかく店に入ろうと俺は促し、イェルドの背中を押し込む。
「片付けも手伝うから、いいだろ?」
「……別に散らかっちゃいねえよ」
「んー……心の整理的な?」
店に入り、扉を閉める。
そっと店を見回していた熊の腰に後ろから腕を回して、ほんの少し力を込めた。
その腕が白銀に変わっているのを、イェルドは見て見ぬふりをしてくれた。
「……俺はなにも覚えてねえって言ったろ。これまでとなんも変わらねえ」
「そうかもな……」
けど、と俺は呟く。
「俺は、もう変わっちまたよ、イェルド」
背中の二対の翼。
そこから魔力が溢れだす。
尻尾の精霊達が宙を舞い、俺にしか聞こえない歌を歌う。
「俺、馬鹿だからさ。また同じことするかもしれねえじゃん?」
「……そんときゃ、またぶん殴ってやるよ」
「……いだだだだ!?」
俺の姿に驚きもせず、イェルドはこちらに向き直って、頭を万力のような力で握る。
「というか、大馬鹿を治す気はねえのか!?」
牙を剥き、地面に押し付けるように上から押し込むイェルド。
俺は悲鳴を上げ、目に涙を溜めて抗議する。
「いだ、いだい! われ、割れるっつーの!?」
何とか放してもらうが、油断している俺の脳天に拳が落ちた。
衝撃に目を回す俺を、イェルドは見下ろし、
「いっぺん割って中身取り出して、治した方がいいんじゃねえか?」
「物騒だな!? そんなんで治るかあっ!」
「あー……弩級馬鹿は治らんかもなあ……」
「なんで今グレードアップした?」
「そろそろ、クソ弩級馬鹿って呼ぶか?」
「……まだ、大馬鹿でいたいっす」
耳と尻尾を倒す俺を、イェルドは無愛想に見つめ、ぐしゃぐしゃと頭を撫でまわした。
「そんで、お前は今なにしてんだ」
イェルドはそのまま俺の頭を両手で掴む。
「あ、魔法じゃないから、頭潰さないでもらえませんかね?」
「……ほう……?」
「い、いででででっ。ま、まじで違うって!」
流石に俺の精霊には見慣れてきたのか、訝しげな顔をしながらも前のように部屋の隅まで高速移動はしないらしい。
俺はイェルドの拘束から放れ、床に手を着く。
「……これでよし」
「ふん」
イェルドは何も言わずに、カウンターの向こう側の椅子に腰かけた。
傍のカウンターに直接腰かけ、俺は畳んだ翼の先を弄る。
「……何してたか、聞かねえの?」
「聞けば応える気あるのか?」
俺は少し力の入った肩を一度すくめて、落す。
それでやっと肩から緊張が抜けた。
「そりゃ、一応は」
「なら聞かねえ」
「なんでだよ……」
俺はがくりと手を滑らせて、肩を落とした。
「言いたくないなら無理に聞いても答えねえだろ。言う気があるなら言うだろ。なのに言わねえなら、わざわざ言う必要がねえんだろ」
「おっしゃる通りで」
イェルドは、それだけ言うと、黙ってカウンターに頬杖をついて、店の柱を睨んでいた。
俺も同じ場所に目を向けて、ゆっくりと口を開いた。
「……俺が『祖霊の守人』っていう一族だって話、したっけ?」
「ああ」
「ま、見ての通り、ものすげえ混血種なんだけどな。……めちゃくちゃ受胎率が低いって話はしてねえよな」
イェルドの眉が、ぴくりと動いた。
俺は、一度深呼吸を挟む。
「精確な数値は知らんけどな。普通の獣人の半分以下なんだよ。俺達が妊娠するの。だから、一族を維持するために、毎晩女も男もまぐわってんの」
尻尾を膝に置き、その先を指でくるくる弄る。
「『祖霊の守人』同士じゃそれこそほとんど出来ないから、街から街へ移ってはそこの獣人と交わって、子供を作る。男でも魔術で妊娠できるようにして、春を売ってるんだぜ。笑えるよな」
イェルドの眉間のしわがこれでもかと深くなる。
そりゃそうだよな、と俺は苦笑した。
「そういう一族の中で、俺は真の『変化』の出来る者として生まれたんだ。生殖能力のない、半分精霊の身体で」
ピクリと丸い茶色の耳が動いて、ピアスが揺れるのが目の端で見えた。
別に、一族の皆から爪弾きにされていたわけじゃない。
子供の頃は同年代はみんな兄弟みたいだったし、能力が発覚して身体が成熟してからも誰一人態度は変わらなかった。
皆は俺を仲間として認めていたし、俺も皆を信じていた。
けれど、皆は獣人で俺はそうではないことと、それは別の話だった。
それを10の頃に意識して、変わったのは俺の方だ。
『精霊の耳』を持つものはその記録能力、記憶力から身体年齢より精神年齢の成熟が著しく早い。
普通の獣人とくらべれば二倍くらいの速度で精神は成長する。
つまり経験と精神の成熟が乖離していく。
経験のない虚無感と孤独感を覚えながらも、俺は成熟した理性で表面を取り繕い続けた。
皆が子を作り、生きている中、俺はなにも生み出せない事を自覚して、それを考えないようにしていた。
「……ガキを作れないからさ、街じゃ貴族や領主の奥方やらに大人気でな。ついでにくそほど変態趣味の野郎にも引っ張りだこだったな」
他に、生き方を知らなかったから。
それが当たり前だったから。
享楽主義だ、と買われた賢者に抱かれながら、そんな言葉を聞いたのは15の頃だっただろうか。
それを聞いた俺は、上等だと思った。
楽しいことの何が悪いのか。
どうせ俺はいずれ死して祖霊の贄になる運命で、何かを残すことは叶わないと思っていた俺は、そう反論した。
けれどその賢者は、俺を抱きながら笑っていた。
血を残せないのなら名を残せばいい、と。
数多の歴史に残る英雄や悪党のような名を残すことは、誰にでも出来る、と。
その言葉は、強烈な印象と共に俺の【耳】に残った。
それから、俺は得意だった演奏と歌に全身全霊を込めるようになった。
旅をしながら声を彼方まで届ければ、俺の名前も広がっていく気がしたから。
魔物の襲撃で一座がバラバラになっても、俺は一族を探す気にはなれなかった。
それよりも、俺は自分が死ぬことと名を残せずに死ぬことに最大の恐怖を覚えていた。
今まで以上に死を身近に経験した俺は焦りと共に、もっと手っ取り早く名を残す手段を求めた。
その時に【耳】にしたのがジークリアのコロシアムだった。
そこでなら、俺の名前を残せる気がした。
けれど意気揚々と向かった俺が見たのは、旅の中では分からなかった、その土地に根差して生きる人々の生き方だった。
そして、イェルドと出会った。
店を構え、鍛冶の技術を振るいながらも、それを次世代には残そうとはしていない無愛想な熊。
別に、それでも構わないと言い放った、友人。
誰かが、自分の作ったものを大事に使ってくれるならいい、と。
それで、俺は名を残すということの本当の意味を察した。
別に歴史に名を残すことだけじゃないと。
誰かの記憶に残れば、それは名を残したことになるんだと。
だから、俺はイェルドを失いかけた時に、冷静さを失った。
たぶん、ただ友人を失う悲しさや憤りからだけじゃない。
俺の名を覚えていてくれる人がいなくなるのが嫌だという、エゴの塊のような感情が俺を、支配したせいだ。
……ほんと、最低の化け物だな、俺
少し長い沈黙と俺の自嘲の笑みを見て、イェルドは不機嫌気味に鼻を鳴らした。
「……もてもてで結構なこったな」
イェルドの声に、さっさと本題を話せという意思を感じた俺は、肩をすくめて舌を少し出して悪びれる様子もなく、小さく謝る。
「わり。……回りくどいのは、止めるわ」
俺はカウンターから降り、イェルドの正面に回り込む。
家族でもなく、血縁でもない。
金で買われたわけでもなければ、何か契約があるわけでもない。
ただ、普通に接してくれる友人の熊に。
「俺は、あんたとの関係を失いたくなくなっちまったみたいなんでね。これからも一つよろしくってことで」
俺はイェルドと、イェルドの肩に乗った小さな炎の精霊に片目を閉じて見せた。
俺の魔力を得て、契約を為したこの店の炉の精霊は小さな熊の姿に変化して、その前足を掲げた。
まるで、任せろと言わんばかりの様子に、俺は内心で胸を撫で下ろす。
対して、イェルドは怪しい魔法でも目の当たりにしたように不可解な顔をしていた。
「……なんだよその顔」
「お前ぇがそんなこと言うなんて、明日は槍が振るんじゃねえのか……天井、補強しねえと……」
「具体的な対策を考え始めるのは流石に傷つくなあ……」
たはー、と額を掌で打てば、イェルドの口元が少しだけ上に曲がった気がした。
「ま、その時はローンだらけの店がぶっ壊れたおっさんの陰気な顔拝みに来るから、茶を用意しといてくれよな」
「おう、茶器が残ってたらその腹が膨れるまで飲ませてやる」
その後で金をふんだくる、というイェルドに俺は肩をすくめた。
「悪徳商売は、すぐに噂になるからやめといたほうが良いぜ?」
「なにいってやがる、俺の茶なんて希少なものを飲むのはお前か従業員のあいつらくらいだからな。しこたま毟り取ってやるから覚悟しとけ。逃げれると思うなよ?」
「へいへい、せいぜい金づるとして通わせてもらいますよ」
ぱちりと指を鳴らして風を起こすと、俺は吹き抜けの天井部分の採光口を開けて店内に明かりを取り込んだ。
真っ直ぐ光が差し込んで、イェルドとカウンターを照らした。
その顔が、若干の苛立ちに染まっていることに気付き、俺は一歩下がろうとして、伸びてきた掌に頭を掴まれる。
「お前ぇ、俺の前で魔法を使うとはいい度胸だな……」
「あー、つい癖で。でも、これは魔法じゃないというか……あ、イェルドに魔法の仕組みの話は意味がないっすね。はい、頭握らないで……いってえええええええええ!?」
「こんの大馬鹿野郎が!! 店壊したら承知しねえからな!!」
「こんな風で壊れるなら、一回潰した方がましだろうが! 解体費用はサービスするから改築費は払え、この野郎!」
「藁でできてるボロ家みたいだと!?」
「言ってねえよ! 言ってねえけど、扉の立て付け悪くなってんの知ってるぞ! そのくらい直せ、借金熊!」
「て、てめえ……言うにことかいて、赤字自転車操業野郎だと……」
「え、そこまでやばいの?」
流石に言いすぎたかと俺が動きを止めると、にやりとイェルドは笑った。
「んな訳ねえだろ」
全力の拳骨が脳天をかち割った。
「いっでえーーーーーーーーーー!?」
まだ朝の工房街の一角で、俺の悲鳴が響き渡った。