光彩陸離「月華、燦爛。漆黒の天蓋を裂く星の河底……」
夜の帳に負けず劣らず黒い毛の狼が、眩い月と満天とはこのことと言わんばかりに夜空に散りばめられた星空を見上げ、小さく呟く。
そっと手を伸ばし、掌を閉じてみる。
掴めそうなくらいはっきりとした光。
けれど、けして届くことはない。
空を切る指先。
そっと手を目の前で広げ、じっとその内を見た。
黒い肉球、黒い毛。
指先の爪はしまわれていて、今は見えない。
「……なーに、柄にもなくおセンチになってんだか」
ふいに、纏っていた剣呑な雰囲気を消し去り、俺は頭の後ろで手を組んだ。
今日は一年に一度、七夕、と呼ばれる日。
春めいた温かさから、毛皮の内側を焼くような暑さに変わるこの時期、笹に願いを込めた短冊を吊るして祈願する祭日。
逸話では、引き離された恋人が一年に一度だけ逢瀬を許された日。
それにあわせて、恋人達は互いの愛を確かめ合う日。
風に乗って【耳】に届く、愛の囁きに肩をすくめ、俺はそっと夜の闇に、黒い毛皮を溶け込ませた。
適当に歩いているつもりが、いつの間にやら辿りついたのは何の変哲もない鍛冶屋。
なんだか久しぶりの様な気もするが、俺は遠慮なく扉を開ける。
店の中の気配は一人分。
客もいないのであれば、別にいいだろうと、ずかずかと踏み込む。
「よーっす、イェルド。景気はどうだ?」
店内の明かりは、棚の武具を鈍く光らせる程度で、お世辞にも華やかな光ではない。
そんな中、なぜかぐったりとした様子で店奥のカウンターに顎を乗せて伸びている大柄な熊がいた。
イェルドはこちらをちらりと見て、溜息を吐いた。
「……ずいぶんなご挨拶なこって。なんでそんなダルそうなんだよ?」
「逆にてめーはなんでそんな涼しい顔してんだ、暑苦しい色しやがって」
「……ああ、そういうこと」
ようやく合点がいった俺は店内を見回す。
そして、この時期から大抵の家にある物が、ここにはないことを確認した。
「これからクソ暑くなるのに、冷却装置使わねえの?」
「……魔法は嫌いだ」
「ですよねー」
極度の魔法嫌いは、健在らしい。
俺は苦笑しながら、やれやれと首を横に振った。
「俺は氷の精霊とも契約してるからな。気温が40を超えない限りは暑さを感じたりはしねえなあ」
「けっ……これだから魔法使いってやつはよう……」
鼻に皺を寄せて唸るものの、暑さでダウンしたままの格好ではいささかどころか微塵も怖くない。
俺はしかたねえな、とそっとイェルドの頬に触れる。
すると訝しげだったイェルドの顔が驚愕に、目を丸くした。
「どうよ。俺に触れると涼しいだろ」
じっとりと汗と湿気で湿ったイェルドの頬から、体温が奪われていくのが分かる。
風と氷の精霊の特性を発露している俺に触れれば、不快指数はかなり下がるはずだ。
「……おい、ユース。こっちこい」
「へいへい」
魔法への恐怖よりこの暑さと不快さから逃れる方が、今は勝ったらしい。
不機嫌そうな顔のままだが、小さな丸い耳をぴこぴこ動かして、イェルドは椅子に座り直し、自分の膝を叩く。
いつもなら羞恥でお断り申し上げるところだが、今は店内に誰もいないし、この時間からこの店に来る奇特な客もほとんどいないだろう。
誰にも見られないなら別にいいか、と俺はカウンターを超えて、イェルドの膝の間に収まった。
肩越しにイェルドが腕をまわしてくる。
熱の塊と言っていい熊に包まれるが、俺の精霊の力によって暑さを感じたのは数秒だけだった。
イェルドはおお、と感嘆の声を上げ、俺の頭に顎を乗せて機嫌よく鼻息を吐いた。
「って、おい……エプロンの下、ほぼ裸じゃねえか……っ!」
ふと、イェルドの太いふとももに手を置いて、毛皮が丸出しな事に気がつく。
少し根元の方まで遡っても、エプロンの下まで行っても、毛皮の感触は続いていた。
「あー……? ちゃんと下着ははいてるだろうが」
涼やかな空気を堪能するイェルドは、まったく気にした様子はない。
こんな格好の熊のおっさんが店にいたら、そりゃ客もよりつかないだろ、と俺は内心で思った。
「……露出狂の店主がいる店に、客って来ますか?」
否、思うだけでなく、言葉に出ていた。
「一人、来たな。間抜けな黒い狼が一匹」
俺の皮肉ににやりと口端を歪め、イェルドはぐいと俺を強く抱きしめる。
精霊のおかげで暑くないはずだが、俺は少し身体の芯に熱が集まったのを自覚した。
そのまま熊の腹と腕で挟みこまれ、俺は尻尾の根元に痛みを覚える。
「いっ……イェルド、尻尾挟んでるっ!」
無理やり上に向けられ背と腹に潰された尻尾が悲鳴を上げる。
それを伝えると、イェルドはひょいと俺を持ち上げ、膝の間から大きく開いたままの膝の上に置く。
イェルドの大きく開いた膝の上でそれ以上に開脚させられ、その間から長い尻尾を垂らす。
確かに尻尾の付け根から痛みは消えたが、この格好はいささか羞恥を煽られる。
脇の下から差し込み直されたイェルドの腕が俺の胸と腹を抱き締めた。
腕の稼働域もかなり制限され、俺は仕方なくイェルドの腕に乗せる形で腕組みをした。
「……あのー……恥ずいんすけど、この格好」
「なんだ、勃ったのか?」
「ちっげえよ、エロ親父」
もそもそと俺の股間を弄るイェルドにツッコミを入れると、ようやくいつもの笑い声が聞けた。
俺はまあいいかと諦めて力を抜いて、顎を腕に乗せる。
「……あー……こいつは快適だ……」
「人を氷嚢扱いするんじゃねえ。ジークリアだったら安い冷却装置くらい売ってるだろう」
「んなあやしいもん買ってられっか」
「さいですか」
極楽極楽と言わんばかりに心地よさ気に呟くイェルド。
目の前のカウンターに乗った小さな熊の姿の炉の精霊が少しさびしそうに見上げているのは、黙っておこうと決めた。
「まあ、快適なのはいいけどよ。イェルド、今日が何の日か知ってるか?」
「ん……? なんか、あったか?」
「七夕だよ、七夕」
予想通りの反応に俺は苦笑しながら、頭に乗ったイェルドの顎を右肩に落とし、横顔を覗く。
俺よりも短い茶色のマズルの先はへの字に曲がり、どうにも乗り気のなさを如実に表していた。
「あー……そんなもんもあったなあ」
「まあ、おっさんは乗り気じゃねえと思ったぜ。そういう季節感、ねえもんな」
「東の連中がお祭り騒ぎが好き過ぎるだけだろ。なにかにつけて祭りだ記念日だってよう」
「ま、それは否定しねえけどな」
俺はそっと頬を寄せるとイェルドは無言で許容する。
と、見せかけてむんずと俺の尻尾を掴んで引っ張った。
「い、だだだだだっ!?」
「なにしてんだてめえは」
「ひ、一人で寂しそうなおっさんとこに来てやったのに、この仕打ちかよ」
「頼んでねえからな」
「頼まれたら有料にしてやる所だぜ」
俺が笑ってごまかすと、イェルドは大きな鼻息で吹き飛ばす。
まあ、俺も一人でここに来たのだからイェルドの呆れた顔は、お前が言うな、と言いたいのだろうと察した。
「……で、店じまいはしねえの?」
「……酒でも用意があるなら考えてやらんでもねえ」
「そう言うと思ったぜ」
俺は指を鳴らして風を起こすと、持ってきていた荷物から、酒瓶を取り出す。
「……まあ、上出来だな」
魔法を見た瞬間は著しく顔をしかめていたが、酒瓶をみると露骨に上機嫌になったイェルドはいそいそと俺から離れ、店じまいの準備を始める。
離れた瞬間、湿気と熱気に包まれてこれでもかと鼻面に皺を寄せていたが。