離さない 「大事なひとに死んでほしくない」。これは普通の思考だろう。「死んでほしくないから、死なないか確かめるために殺してみよう」。これは普通の思考ではない。
普通ではない方の俺は、きっと彼女とは距離を置いた方がいい。わかってる。わかってるんだ。
覆いをつけた皿を片手に持って、とある部屋へ向かう男がいた。ヘルムート・チェルハ、壮年の黒騎士である。一見穏やかで地味な容姿の彼がどういった気質の騎士かは、今は特に語る必要もないだろう。
ヘルムートが向かっているのはベラドンナという名の黒騎士が薬毒物の研究室として使っている部屋で、少し奥まった人気の少ない場所にある。彼女は基本的に出不精で部屋にこもっていることが多く、今日も食堂に出てきた様子がなかったため、ヘルムートはこうして軽食を差し入れようとしていた。
……最近ヘルムートはベラドンナとは疎遠だった。彼女を「殺しかけた」あの日から、彼女に触れることが恐ろしくなったのだ。このまま離れてしまう方がお互いのためだとそう言い聞かせていた筈が、結局はこうして世話を焼こうとしている己のどうしようもなさにヘルムートはそっと笑った。
部屋の扉の前で一度息を吐く。そしてノックをし、返事があったのを確認してから押し開ける。振り返りもせずに何やら作業をしている女の背にヘルムートが、ベラドンナ、と声をかけると弾かれたように振り返った。
「あ、うん、ヘルムート……なんだ、どうした」
そわそわとした様子でヘルムートを見るベラドンナ。ヘルムートは用件を──食事を持ってきたと──言おうとして、ふと机の上にあるものに目をとめた。……食べかけのサンドイッチだ。少し残ったちしゃの鮮度の感じやパンの様子からして、持ち込まれてからそう時間は経っていないだろう。ヘルムートがじっとそれを見詰めているのに気が付いたベラドンナが少し不思議そうな顔で説明する。
「さっき二号が持ってきてくれてな。あいつもお前に似てきた」
二号。彼女がそう呼ぶのはリドフォール家の次男であるサイモン・リドフォールのことであり、実際彼はよく気の付く青年ではあるが、ベラドンナに食事を差し入れするまでのことをしたのは恐らくヘルムートが指示しておいたからだ。距離を置くにあたってどうしても心配する気持ちが捨てきれず、ベラドンナが仕事に熱中するとまともに食事すらとらないことなどを伝えて「気にかけてやってくれ」とまで彼に頼んでおいたのだ。
しかしタイミングが悪かった。メニューまで被っている。
「それでお前はどうしたんだ、……最近はご無沙汰だったじゃないか」
「ああ、いや……食事がまだじゃないかと思ったんだが、大丈夫みたいだから俺はこれで……」
ヘルムートが帰るそぶりを見せると、ベラドンナは大股にそちらへ歩み寄り、いよいよあからさまに逃げようとしたその腕を掴んだ。びくりとヘルムートの肩が跳ね、落としそうになった皿を咄嗟に脇にあったチェストの上に置いた。
「どうして逃げるんだ! 最近ずっとそうじゃないか……私はお前に何かしたか?」
どこか悲しげに言い募るベラドンナに、ヘルムートは少し口ごもった後に答える。
「……何かしたのは俺の方だ。むしろ距離を取らないお前がおかしい」
きょとんと瞬きをしたベラドンナは、ヘルムートが気まずげに目を逸らしたのを見てその理由を察したらしく、わずかに眉を下げると優しい、だが力強く断言するような声で語りかける。
「大丈夫、大丈夫だよヘルムート。私は殺されない。お前だってもう私を殺そうとはしない、絶対に」
ヘルムートは腕を掴んでいる手を振り払おうとはしなかったが、どこか苦痛に耐えるような目でベラドンナを見た。緩く頭を振り、恐る恐る口を開く。
「……俺はきっとお前のことがとても大事なんだ、ベラドンナ」
まるで懺悔でもするような声だった。許されざる罪を告白するような、絶望に似た声だった。
「だから、お前は死なないと思った。……殺せないと、思っていた」
眉間に深く皺を刻み、目を伏せるヘルムート。睫毛が怯えるように震えている。暗い葡萄酒の、腐った果実の色が眼の奥で揺れている。
「なのに」
相手の手を引き剥がそうとして、その手に触れることにさえ躊躇して宙を泳いだ手が結局下に落ちた。
「なのに……」
その眼差しは乾いている。消え入りそうな声はどこか無表情だ。ヘルムートは涙をこぼしてはいなかったし、声も少しも震えていなかった。けれど、……まるで泣いているようだった。
ベラドンナは眉を下げ、ヘルムートの顔にそっと手を伸ばした。指の甲で頬を撫で、それから手首を返して手のひらを添える。
「お前は難しく考えすぎなんだ。大事だって言うなら、これからも仲良くすればいいだろ」
な、そうだろ、と言い聞かせるような言葉にヘルムートは小さく笑った。嬉しそうにも見えたし、困っているようにも見える、曖昧な笑み。
「俺をあまり甘やかすな。……離れられなくなる」
普段とは違った、どこか不安げな子供のような語調。それを聞きながらベラドンナはヘルムートの頬から耳の方へ手のひらを滑らせ、笑う。
「離れられなくても別に困ることはないだろう? じゃあ離さなきゃいいじゃないか」
……不意に沈黙が流れる。薄く唇を開きかけて黙り込んだヘルムートの視線に、ベラドンナがじわじわと顔色を変えていく。
「いや、違……わないんだが、ちょっと待て私はなにを言ってるんだ」
青ざめたり赤くなったりと忙しない。ばっとヘルムートから手を離しておろおろと目を泳がせるベラドンナに、ヘルムートは妙に静かに話しかける。腰が引け始めているのに気付いたのか、逃がすまいとベラドンナの手首を掴む。
「落ち着けベラドンナ、とりあえず確認したいことが」
「なにを言ってる私はこれ以上なく落ち着いているぞ」
「どこが。脈だって速いし汗が出始めてる」
「ううーっ」
「ベラドンナ」
低く響く声。表情を作りそびれたような、だが無表情と言えるほど機械的ではない、静かな目がベラドンナを見ていた。
「今のはどういうつもりで言ったんだ。勢いで言ったなら取り下げろ、今なら聞かなかったことに出来る」
「……こんなことを勢いで言うほど私は馬鹿じゃあない」
「じゃあどういう意味だ」
その目に恐らく羞恥──もしくは動揺──のあまり涙を滲ませながらヘルムートを見上げていたベラドンナは、どこかふてくされたような、拗ねるような口ぶりで答える。
「だからさあ……別に私がずうっとお前のそばにいたって、困らないだろ……それなら……離さなくたっていいじゃないか……」
その言葉を聞きながらベラドンナを見詰めていたヘルムートの目は暗く、底の見えない杯のようだった。……その底に、何かが揺れている。
「……取り下げるつもりはないんだな」
「取り下げてほしいのか……?」
不安げに訊ねるベラドンナに、ヘルムートは何度も頭を振った。そして、とても深刻で重々しい、けれどどこかすがるような声で問う。
「本当に、離さなくていいんだな」
ベラドンナは泣き笑いのような顔で頷いた。
「やっぱり離すって言ったってついてくから覚悟しろよ」
それを聞いた瞬間、ヘルムートの腕がベラドンナの体に巻き付いた。背を丸めて頭を肩口に擦り付けるようにして身を寄せる。
「言質取ったからな」
「うん」
「……死ぬなよ」
「うん」
一度体を離し、ベラドンナの顔を覗き込んだヘルムートの目は不穏な虚ではなく、どこか熱を帯びていた。そっとおとがいに手をかけて口付ける。啄むようなそれはすぐに唇ごと食べるかのような動きになり、親指で下唇を撫でると角度を変えて何度も食み、息継ぎをしようと開いたその唇の隙間に舌を差し入れ呼吸ごと奪うように深く口付けた。
「んっ、……ふ……っ」
舌を擦り寄せ、吸い付き、捏ね回す。飲み込みきれなかった唾液がベラドンナの唇の端から顎へと伝い落ちた。
「ベラドンナ、……はぁ……ベラドンナ……」
名前を呼んではまた唇を貪り、立っていられなくなり始めたベラドンナの背を壁に押し付けてなお口付けを続行するヘルムートの手が服を捲り上げようとしているのに気付いて、ベラドンナは身を捩った。
「だ、駄目だ、ヘルムート……っ」
「……どうして」
熱を孕んだ相手の声に身震いしながらも、ベラドンナは必死に服を押さえて抵抗する。
「ここには危険物もあるし……そういうことは、駄目だって……っ」
服を脱がせようとする動きこそやめたがヘルムートには引き下がる様子はなく、ほんの一瞬でも離れるのは惜しいとばかりに口付けをしながらその合間に問いかけを続ける。
「じゃあ、どこならいい……?」
「んっ……安全、で……ひとの来ない、ん、ふ……」
ベラドンナの答えにしばらく考え込んだ──もちろんその間も口付けは続行している──ヘルムートは最後にリップ音を響かせてから唇を離し、涙目でこちらを見上げているベラドンナの手を引いて歩き出した。
「へ、ヘルムート……?」
「場所を変える。それならいいだろ?」
「え、いや、ええと」
「いいだろ?」
うう、と言葉をなくしたベラドンナの手をヘルムートは離そうとせず、二人はそのまま部屋を出ていった。
……その後どうなったかは、二人しか知らない。