【VVV夢】かっこうのむすめ 8話-2 ジオール侵攻作戦が始まる前、リーゼロッテ・W・ドルシア皇女――いや元皇女様に謁見した。
謁見とはいっても内容は女の子同士の、ただの軽いお喋りに過ぎない。高官軍人の娘である
ローレの役目は、籠で飼われたお姫様の“御友人”として御暇を潰してあげる事だ。
――つくづく父の点数稼ぎには頭が下がる気もしたが、実際リーゼロッテ姫とは幼少の頃よりの御縁でおこがましくも親愛を抱いているつもりであったし、上流階級の者達からも「二人で睦まじく並んだ姿は顔立ちがよく似ている」と仲の良さを褒めそやされたものだ。謁見の手続き自体は面倒であったけれど、
ローレ自身も貴人の少女に歓迎して頂けることは紛れもない誉れである。
「
ローレが大好きなピアスのお兄さんと眼鏡のお兄さんが元気だそうで良かったわ」
こうして小さな子供の頃のようにリーゼロッテ姫とも顔を合わせられるようになったのは、カルルスタイン機関の養成施設を出て自由を得てから。
機関に居た頃に親しくした仲間達は厳しい訓練でバタバタと死んでいったものだが、正式に特務少尉として当初とは違うチームに組み込まれてからは飛び抜けて優秀な仲間達にはおおよそ戦死の心配などなくって。お蔭で心優しいお姫様にもお喋りのタネとして抵抗する事が出来た。
「あの二人が私達年下の世話を焼いてくれるお陰で、今のチームはメンバー生存率が高いんだと思うんです」
――何度だって痛感するが、あのトンデモ機関を生き残る為には独力では非常に難しい。互いを監視し合う為に組まされたチームではあったけれども、年長者が機関入り以前からの幼馴染みであった事が幸いしたのだと思う。彼らは互いを庇い合う事で互いの生存率を高めていたし、そこから生まれた余裕は出来うる限り年少者にも向けてくれていた。
他の者達がその恩恵を自覚しているかは定かではないが、少なくとも任務外でも妹分のように良くしてくれているハーノインやイクスアインの存在には
ツェーツェンはただただ感謝を述べるばかりである。
「バンダナのおちびちゃんは相変わらず?」
「クーフィアはそもそも年功序列って概念がまるで無いんですよ! 私の事もきっと、餌係くらいに思ってるし」
きっとそうに違いない。クーフィアは一番小さなくせに、年長者達の有り難みをまるで分かっていないのだ。
「じゃあお仕事をしている時の
ローレは面倒見がいいのね」
「だってあの子、子供扱いを嫌がるわりに、構ってやらないとスネるんですよー……?」
「それが面倒見がいいというのよ」
カルルスタインの村を出てからは貰った給金で自由に買い物が出来るようになったものだから、今のクーフィアはむしろ付き合いの長い仲間達よりもゲームの方に夢中なようだ。お蔭で手がかからなくなった――と言い出してしまうのはやはり、育児ノイローゼの一種なのであろうか。まだこんなにうら若いのに。
けれどもゲームに飽きたらまた構って貰おうとちょっかいを出してくるから、手がかかるのは相変わらずで困ったものだ。これを面倒見がいいというのは些か間違いであり、むしろ何らかの被害者であると言い張りたい。
「“一人旅団”さんも――、相変わらずなのかしら?」
「エルエルフはニューギニアで面白い名前をこさえましたからね。姫様はそれがお気に入りですか」
今まで軽快に
ツェーツェンの仲間達を呼んでいたリーゼロッテの唇が、ほんの少し躊躇いがちに震えたのは気のせいであろうか。
「だって凄いじゃない。15歳の若さで、たった一人で、ARUSを圧倒するなんて」
「私だって機会さえあれば、リーゼロッテ様をあっと驚かせるような武功をお捧げ致しますよ」
「欲張る事はないわ。
ローレはもう桃色撃墜王ピンクストライカーとARUSでも呼ばれているんでしょう?」
「その名前はやめて下さい! イデアールはもう! 空色に塗り直しました!!」
今は空色のラインを見せつけながら自在に翔ぶ
ツェーツェンのイデアールも、支給の際に特に希望を出さないでいたら薄い薔薇ローザ色――いわゆるARUS語でピンクをメインカラーとして彩られていたのだ。
まあ可愛らしい色だと喜んだのも束の間、初出撃からの連続撃墜から帰還してみればおかしな名が敵国ARUSで囁かれるようになっていて。恥ずかしいやら仲間達からは笑われるわで、整備と共に速攻でカラーリング変更を申請した失敗談は
ツェーツェンにとってまだ傷跡の塞がらぬ思い出話であった。
「あなたのお仕えする王子も、息災でしょうか?」
「勿論です。ご親族を危害から守れなくば、姫様に会わせる顔がございません」
「そうですね……。親戚なのですから、本当ならわたくしも直接ご挨拶出来れば良いのですけれども――」
困ったように歪むリーゼロッテの笑みであるが、こればかりは
ツェーツェンがどうしてやる事も出来ない。中将の地位を持つ父であっても難しい事であろう。小さな頃は親戚同士としてさして苦労もなく顔合わせをしていた二人であったが、アードライは王子殿下としての存在は既に亡いものとして扱われているのだから。
「……申し訳ございません。我が君は王族としての権限は既に無く、皇女殿下との謁見は難しいものとなっております」
「いいえ、むしろ困らせてしまってごめんなさい
ローレ」
ねぎらう言葉は己の立場をよく分かっている諦めを多分に含んでいる。ご機嫌を取るために遣わされた身で却って気遣わせた事実に困憊するというより……、
ローレという一個人が愛らしい姫君の表情を曇らせた事に責任を感じてしまう。
「ですが姫様。アードライ様はいつかきっと特務少佐、中佐、大佐となり、――きっと我が国を支える御人として出世なさるはずですよ」
「彼は一人のドルシアの民として、誇り高き人でしたものね」
……本当はカルルスタインから特務の“少佐”になった人間など居ない。年長のハーノインやイクスアインとて、大尉の階級に昇ってからというものその地位に留められている。だがそのカラクリはまだリーゼロッテに話した事はない。黙っていれば、彼女に穏やかな未来だけを取り繕えるはずだ。
「じゃあ
ローレもいっしょに特務大佐になってくれれば、今より楽に会えますね」
どこまで冗談なのか。――それとも
ローレの言ったでまかせを本気で信じていてくれているのか。リーゼロッテは花のように笑い、あと僅かにだけ許された謁見の時を笑顔で終わらせる。
「またお喋りしましょう
ローレ、……いいえ
ツェーツェン特務大尉。“彼”にも、どうかよろしくね」
曖昧な祈りの言葉はいつもの事。だがこうして会う度に気遣って貰えるほど、我が王子殿下と皇女殿下は仲が良かっただろうかと――考えるものの、彼女の人柄を思えばさして疑問として抱く事でもない。
封じられた世界を見せつけられる度、
ローレは名ばかりが残る王族の立場を憐れむばかりであった。
***
先日モジュール77に潜入した経験を持つアードライの手引きは円滑に進められた。見事監視カメラの目を掻い潜ったルートを選び、学生達が管理もせずに港に放置されたジオール軍の軍艦にドルシアの支配力が次々と及ぼされる。
「……ジオールの“中立”って、笑わせてくれますよね。使ってる兵器、みんなARUS製じゃないですか。これじゃ属州も同然ですよ」
まあだから内緒でヴァルヴレイヴなんてトンデモ兵器を造ったのでしょうけどねと
ツェーツェンがお喋りがてらにアードライに話しかけるも、この話題は彼の興味を引かなかったらしい。
――というよりも。彼は彼で何か打ち明けたい事があり、
ツェーツェンをこの作戦に連れ出したような意図が見えるのだ。
「ねえアードライ様、何故エルエルフにこうまでこだわるのですか?」
実行する作戦自体は実に簡単だ。威嚇射撃で学生達を脅し、降伏させ、そしてエルエルフを引き渡させる。だがそれとは別に言葉を選ぼうとしているアードライに対し、
ツェーツェンは作為的に意中の名を出してやった。
「その答えは……そうだな
ツェーツェン、君は自分の同期についてどう思う?」
「クーフィア怖い」
「……そういう答えを期待していたのではないのだが」
つい敬う相手であるという事も忘れ、即座に本音で答えてしまう。だってあのちびっ子、目を合わせて出会うより以前に射殺してこようとしたのだから、最悪の初対面にも程がある。
その惨劇で同期と呼ぶべきだった子供達が何人も消え、
ツェーツェンとクーフィアの代は不条理な少子化現象の出来上がりで。あの悪夢の機関入り試験は今でも
ツェーツェンの思い出すところだ。
「最初の印象が悪かったかもしれないが、君達の代で残った者は君達二人だけで。私達の代は私とエルエルフだけ。自分一人になったらと思うと、寂しくはないか?」
そういう問われ方をされれば、確かに通常よりも幼い年齢でカルルスタインの門を潜らされたあの小さき者に同情と愛着がないわけでもない。実際クーフィアは――時折殺しにかかってくるけれども、他の同期達よりも年上の
ツェーツェンによく懐いてはいたと思う。
……だがアードライの伝えたい主旨は、実際はそこには無いと考えている。
「ハーノインやイクスアインのような間柄を言っているのでしたら、同期という喩えでは説得力に欠けますよ」
正直言ってあの二人の絆は機関において別枠過ぎた。比類を許さぬとはこういう事を言うのだろう。
「彼らのような共感を呼びかけるのならば、むしろ、後から知り合ったエルエルフより――私なのではないですかアードライ様? でも貴方の胸にあるのはもっと別の事ですよね?」
「――降参だ。やはり君も、私との付き合いが長いだけあるな」
「アードライ様、この間エルエルフと話していた“片腕”とはなんです?」
悠長な前振りなど不要だと
ツェーツェンが切り出すと、「やはり聞かれていたか」とアードライは苦い笑みを見せた。
「……声量を落として話してくれ。そして出来れば、もっと私に近寄ってくれ
ローレ」
コードネームの
ツェーツェンではなく、幼少のみぎりに彼も呼び慣れた
ローレの名が囁かれる。これでもう少し艶っぽいシュチュエーションであったのなら、気分も跳ねたかもしれない。あともうひとつ、彼が年下でなかったら……だ。
「エルエルフとはかつて王族の復興を、革命を約束し合った」
ある程度予想は出来ていた答えに、
ツェーツェンは黙って頷きだけを返す。そうしてアードライの「驚かないのだな?」という言葉にもさして意外性の色は見えなかった。
「分かってました。だってカルルスタインあんな場所に落とされて、貴方の目は諦めを抱いてませんでしたから」
いつか王党派に目を付けられ、担ぎ出されやしないかと
ツェーツェンはずっと肝を冷やしていたが。その警戒も半ば外れてはいなかったらしい。我が王子殿下の野心が軽率でなかった事を感謝するばかりだ。
「でも何故です。多くの王族を養うには、それに比例した税が必要となります。王族を復権させる事による祖国ドルシアの益は何ですか?」
ツェーツェンの脳裏に浮かぶのは、たおやかで優しいリーゼロッテ姫の少し困ったように歪む微笑みだ。既に滅びを迎えたはずの王族の影響力が未だ根強いせいで、かの皇女殿下は自由の無い生活を余儀なくされている。
ならば、いっそ、そんなもの、と。
ツェーツェンが不敬を覚えたのは一度や二度ではない。
ツェーツェンは祖国を深く愛していたが、国として繁栄を遂げてさえくれれば指導者の顔はさして重要ではないのだ。
「……ARUSの大統領、そして有力者は、一般市民が数々の選挙で勝ち昇って政治家になり政まつりごとを行う。それは一見平等だが、一人の人間が一生のうちに成せる事などどれだけだというのだ」
無論、その平等には例外がある。事実代々ARUS大統領や高官を経た家系は存在するし、先日葬ってやったARUSのフィガロとかいう上院議員だって経歴を調べれば上流家庭の出身であろう。
だがそんな彼らも、為したい政策プランの為に幾度もの選挙を乗り越えねばならない。ドルシアにも選挙が無いわけではないが、そのプロセスゆえに必要政策が遅らされると思うと辟易するばかりだ。
「政策アイディアの実行は生まれながらに権威を持った者に託し、傑物はそれを上手く操ればいい。我ら王族はその為に教養を備え、民の望みを叶える代弁者として生を受けたはずだ」
民衆を意のままに操作するのではなく、民衆の意を叶える存在であるべき――。それがアードライの考える王族の誇りというものなのか。確かに今の総統アマデウスの独裁とは対極に位置する指導者としての考え方であろう。
「……その未来設計図、付き合いの長い私には話してくれませんでしたね」
「すまない。確かに君とは付き合いのわりに気持ちを確かめ合えていないのは認めるが、これはそれとは関係無い」
だから、その信頼関係の薄さをハッキリ露呈しないでくれと思う。これを見てクーフィアなどがいちいちからかってくるのだから。
「君を、私の闘争革命に巻き込みたくなかった。私達と違って、君はいつでも
ローレに戻れる。幸せな結婚をして欲しいというのは、幼馴染みとしての願いだ」
胸の内からようやく抉じ開けられた想いは、
ツェーツェンが考えていた以上に――
ローレという幼馴染みの少女を思いやったもので。
アードライが常々
ツェーツェンを前線から退けたがっていたのは知っていたが。革命の話もたった今聞かされたとはいえ、革命理想からも遠ざけたかっていたのは初めて聞かされた願いだ。
「私が女だから、ですか?」
もしも男として生を受けていたら、誰よりも付き合いの長い自分に王子殿下は心の中をさらけ出してくれていたのだろうか。
「それも否定しない。君は女性であるし、私にとって君は妹分も同然という意識があって――」
「だから私ッ、アードライ様よりも年上ですってば! ひとつだけですけど!」
「静かに、声が大きいぞ
ツェーツェン!」
あんまりな誤解に
ツェーツェンはつい声を上げて抗議を行う。いや本当にこの付き合いだけ一等長い王子様は、
ローレの事を長らく年下の娘だと思い込んでいたのだ。
「そうだな……。君が私より年上の女性だと知った時は驚いたよ。だから昔から、王族の私相手に上からの物言いばかりしていたんだなと合点がいった」
「……だって実際私の方がお姉さんですしー」
それはこちらの台詞であった。どうりで高圧的な態度ばかり取られるとは思っていたのだが、彼がこの年齢の真実を知ったのも大分最近の出来事というのも頭が痛い。
「拗ねるな。悪いが私の認識は昔と変わらなくて、いや――機関での訓練を経た今は王子であった頃より親愛の情は増している」
思えば“王族と家臣の娘”として接したのはせいぜいアードライが7歳までの時であり、数年の時を空けたもののそれからは“カルルスタインの同志”としての関係の方が長い。建て前ではなく、本当の仲間としての情が湧いても不思議ではない。
「君には、君が普段言っているような幸せな結婚をして貰い、穏やかに暮らして欲しいと思っているよ」
そう、願ってくれている姿だけは純粋に嬉しいと受け止められるのであるが。実際の行動や言動にちっとも意思が伴っていないという感触が
ツェーツェンの個人的見解だ。
「そう言うくせに私とイクスアインのフラグ恋路折ったじゃないですかー……」
「ああ、君はイクスアインやハーノインといった年上の男をやたら好いているな」
知っているくせにわざとですか?と、恨めしさが湧き上がる。
駆け引きというのも確かに大事であるが、
ツェーツェンは好意というものは素直に相手に表明すべきであると考えている。恋愛手腕などはその表明の後に試行錯誤すべきであるし、その隠さぬ好意的熱視線の放射具合をアードライが気付いていても当然であろう。むしろ気付いていなかったらどんな朴訥だというのだ。
「個人的には反対だ。……無論彼らの人格を否定するのではなく、軍人や政治家ではない一般市民の男と連れ添った方が幸せになれるという意味でだ」
かの年長者達にはアードライも幼い頃より散々世話になっているだろうに。呆れ気味の反応には、アードライなりの理由があるようだ。
「――その根拠は?」
「少なくとも戦場や革命で命を落とす事は無い」
かつての赤い木曜日の惨劇ほどではないにせよ、どうやら彼の思い描く理想の革命は彼の崇高な信念とは裏腹に――無血での改革は難しいようだ。何より依然勢力を拡大する、敵国ARUSの存在が大きいだろう。
「悪く思わないでくれ。気が合わないとはいえ、私は君が考えている以上に君の事が大切なんだ。余計な口を出したくもなる……幼馴染みとしてな?」
「幼馴染みとしてですか――」
すぐに返って来た「そうだ」という迷いの無い声だからこそ、いっそ信用が置ける。お節介とも言える配慮に苦笑いを隠せはしないが。
「……今だって、同行してくれて感謝しているさ。今回の作戦はいわば私の我儘で許可されたもので、そこで年上のイクスアインを相手に補佐を頼むのは心苦しかったからな」
「褒め殺しのつもりです、アードライ王子?」
「これくらいで満足するならいくらでも言ってやる。あと今の私は大尉だ」
律儀に訂正を求める王子殿下は、いつもの空気を裂かんばかりに吠える様子とは違い非常に穏やかであった。本当は
ツェーツェンが立つこの位置には、理想に共感を抱いてくれたエルエルフを置きたいのだろうに。
威嚇の砲撃を続ける中、未だ姿を見せぬ元仲間の胸中へ僅かな不安を覚えた。
作戦は順調に進んでいるかのように見えた。何故かエルエルフは一向に姿を見せる事もなく脆弱な学生達が降伏を申し出るまで秒読み――というところで、ようやくエルエルフの“手”を目の当たりにさせられる事となった。
モジュールの真下をヴァルヴレイヴに銃撃させ偽りの海から海水を抜き、これによりアードライ達が強奪したジオール軍の軍艦を正常航行不能に。そして宇宙空間に射出した海水は電磁ブーメランの無効化及びヴァルヴレイヴの冷却に使われ、宇宙戦も同時に攻略。
ぬかりなしと思われた内と外からの同時攻撃は、敵国からも一人旅団と恐れられた元仲間を相手にあっという間に敗北と帰したのだ。
よもや転覆するのではと揺れるジオール軍艦の中、
ツェーツェンはとっさに「アードライ様!!」と叫ぶ。これがエルエルフの言っていた“鳴き声”と呼ばれる所以なのであろうか。思えば王子殿下のかつての名を叫ばなくなったのは、カルルスタインの同志として長く暮らし合った年月がそうさせるようになったのだろう。
だが
ツェーツェンがアードライ王子殿下を庇うより先に、アードライの方が
ツェーツェンの頭部を胸で覆い隠す。離して下さいと叫ぶも男の腕力は思っていた以上に強固で、
ツェーツェンはただただ守られるだけの役立たずの従者でしかなかった。
海水の大量流出に対しモジュールの緊急補修システムが働いた頃、船の揺れも収まりアードライの腕からも力は抜ける。
――当たり前であるが。王子の胸は幼い頃よりも、カルルスタインで教練を受けていた頃よりも、記憶よりも大分厚くなっていた。もしこれが年下の弟分王子でなければ、もう少し余韻に浸りたかったとでも考えたのだろうかと
ツェーツェンは寄せたままであった頬をぼんやりと離す。
ツェーツェンはするりと男の腕の中を抜けるとさっさと立ち上がり、呆然としたままの王子に右手を差し出した。
「アードライ様、作戦は失敗です。ここは敵地ですから、このまま居ては追手がかかります」
片方だけ残ったアードライの瞳は、敗北の色でいっぱいに染まりつつある。最後のチャンスを逃し、縋るものがなくなったという悟りは彼の全身の筋肉から活力を奪っていた。
そんな状態でも無意識に
ツェーツェンを庇ってくれたのは、いわば彼の崇高な魂が身体を勝手に動かしたのだろう。そんな彼だからこそ、今はもう何の権威の無くなった幼馴染みに
ローレは敬意を尽くす事を厭わなかったのだ。
「エルエルフはもう、戻ってきません」
これがカイン大佐から与えられたチャンスであった。今まで何故か泳がされていた仲間だった男は今日以降、大ドルシアへの反逆者として扱われる事になる。
「君は、平気なのか……?」
ようやく
ツェーツェンの手を取るとアードライはよろりと力なく立ち上がり、義眼の収まった顔面を後悔交じりに覆う。
「私はもう先日、一方的に別れを済まされました。勝手な男ですよね、あいつ」
学園天国の方が楽しくていいだろ?と言っていた一人旅団のあの野郎は、一体どこまで本気で言っていたのだろう。
その身勝手な裏切りでこんなにも憔悴する仲間が居ると、彼は自分に向けられた信頼の重さをどこまで理解していた離反だったのだろうか。
「地下部に向かわせた兵達からはしばらく前から連絡が取れません――諦めた方がいいでしょう。撤退の指示は私が出します」
「――任せよう、
ツェーツェン」
「ブリッツゥン・デーゲン」
短い敬礼の後、
ツェーツェンは茫然自失のままのアードライに代わり同行の兵達へと指示を飛ばす。
仲間との決定的な別れは、正直堪える。だがこんな経験、カルルスタインに居た頃から何度もあった。惜しみたい過去への憐憫は、旗艦の枕にでも真っ先にぶつければいい。
王子を無事に送り届ける――、
ツェーツェンはその使命感によってきびきびと手足を動かしていた。