キープアウト!! 〜危険度4 さぎりは闇のなかにいた。
立っているのか座っているのかもわからないほど、深い闇のなかにいた。
そこに、それはいた。
ミツケタ。
にたりと笑うと、それは音もなくさぎりを頭から足まで包んだ。
さぎりは気づかないのか、まばたきひとつしない。
目ヲトジロ。ヒト呑ミダカラ苦シクナイ。
さぎりは声が聞こえた、後ろの上方を伺う。
「ひとのみって、なにを呑むわけ」
生ケ贄ノ、オマエ。
「わたしなの」
オマエハ我ノ生ケ贄。我ノモノ。生ケ贄ハ我ニ器ヲ与エル。我ニ器ヲ渡スタメ、オマエハ呑マレル。
「居たっ!!」
フギャッ!?
突然さぎりは包んでいるものを全身で抱きしめた。霧のようだがじつは獣で、さぎりは深い毛をがっちりとつかんだ。
驚いたのは獣である。今までの生け贄は泣きわめき怒り悲しみ憎みながら、上げる悲鳴ごと呑まれて消えていった。抱きついてくるなどあるはずがない。獣は抗ったが、生け贄の腕はゆるむどころか、さらに締め上げる。見ろ。そのうえ、この生け贄はにやにや笑っているではないか。笑っている生け贄など、存在するはずがない。
「はいはい逃げない動かないの。だいじょうぶこわくないよ、うふふふふふ」
放セ! 放セ!
「もふもふ、けっこうおおきい。お口はこっちか。牙もでっか、立派! はいはいじっとして暴れない。よしよし、よしよし。ねえ、口がここにあるのに、どうして声は上からするの? 口がふたつあるとか? ちょっと登らせてね。どっこいしょー」
わしわしと登るさぎりを、獣は振り落とそうとしたが、無理だった。
ダメ、ダメダヨ、放セ! 放スノ! 来ナイデ!! イヤイヤイヤーッ!
「象よりでかいよね、もふもふ。なんかかわいい声になったね。じつは子どもだったり? よっこいしょ。おーい、正体見せろー。あ、隠れたの見ーえた! ちびちゃんだ!」
来ナイデ来ナイデコワイー、コワイヨー!
「妖怪じゃないのかな。幽霊って感じでもないし。なんかすごくかわいいんですけど。うふうふうふふふふふふふ」
イーヤーナーノー! 来ーナーイーデー! ウワアアアン!
「見ーつけたっ!」
ギャーッ!!
闇のなかで、さぎりに掴まれたそれは断末魔を上げた。
鋼事務所で倒れた彰人はベッドの上で眠っていた。今、そこにひとつの影が乗る。
どしっ。
「ぶぐっ」
「アキト。おい、アキト」
軽くむせつつ、彰人は目を開けずに不機嫌顔をつくった。見なくても豪快な起こし方と声で相手はすぐにわかった。さぎり。
「おまえ、また……っ。今度はなんだよ。プリンのおかわりか」
「プリン、知らない。おい、アキトはクムが嫌いなの」
「クム……なんだっけ」
「クムはクムなの。ハギはヨウカイといってる」
「ああ、そうだ。カルネモソミがクムって言ってた。妖怪はべつに嫌いじゃないけどな」
胸の上の重しがぴくりと動いた。
「苦手だったり困るヤツはいるけど、島に住んでるならうまくやってくしかないだろ。なかにはかわいいやつもいるし」
音もなく重さがなくなった。満足したのか、やっとよけてくれた。
「朝からなんだよ、ハギ。今何時かわかんないけど、まだ学校に行くには早すぎだろ」
返事はない。
いや、待て。ひとの気配もない。
ピッ……ピッ……ピッ……
そういえばさっきから、病院で聞くような単調な電子音が聞こえている。布団カバーからは消毒薬の匂いもする。自分は身体中がヒリヒリして痛い。
まさか。
彰人は鉄のように重いまぶたをこじ開け、予想通りの風景に呆然とした。
自分は病院のベッドに寝かされている。ぶら下がっているのは点滴、電子音は心電図からだ。起きようと頭を動かしたとたんめまいがした。貧血だろうか。
なにがあったんだ。あ、カルネモソミ。おい。カルネモソミ、起きろって。
返事はなく、左腕に弱々しいしびれが走った。もしかしたら自分とおなじ状態かもしれない。
「しょうがないか」
彰人はためいきをつくと、覚えていることをできるだけ細かく思い出してみることにした。暇つぶしにはなるだろう。
カルネモソミに引っ張られて飛び込んだ事務所、部屋いっぱいに描かれた円陣。それだけ大物妖怪があそこにあったのだ。カルネモソミが突き刺した蛇の頭のような影が、きっとそれだ。そこにさぎりが。
ひとが憑かれた瞬間を初めて見た。一瞬で全身が真っ黒になり、ぐしゃっと崩れる、人間の体。きっと一生忘れないだろう。
だけど、さぎりがここに来たってことは、無事だということだ。よかった。あれで終わりなんて悔やみきれない。あのバカ。あとで殴ってやる。まだ近くをうろうろ歩いてるだろうか。呼べば来るかな。
「おい、ハギ。どこ行った。ハギ? ハギ!」
ドアが開いた。
「あ、起きた!? 良かった! そのまま動かないで待っててね。今お医者さん呼ぶから」
「え。あの……はい」
彰人に呼ばれて来たのは、さぎりではなく中年の看護師だった。そのまま診察だの鎮痛剤だの処置になだれ込まれ、彰人はさぎりについて聞くことを忘れてしまった。
彰人の容態は、怪我はしていないが重傷で、絶対安静だと言われた。テレビも本もゲームもだめで、面会は必要最低限。とにかく寝ているようにと言い渡される。
あわただしい診察のあと、鎮痛剤の作用もあって彰人はすぐに眠ったが、今度は看護師たちの騒ぐ声に起こされた。寝ているようにと言ったのに。
「だめです! 今は絶対安静で……あ、ちょっと! 待って!」
看護師から逃げたらしい騒動の元は、逃げたそのまま彰人の病室に飛び込んできた。
「アッキー!!」
「はっ、鋼さん!?」
鋼が喜びいっぱいの顔を見せた、と思ったら看護師に連れ戻され廊下で頭を何度も下げながら看護師を見送る。一悶着終了。
「鋼さんっ。どうして、いたたたたっ」
思いもよらない来訪者に彰人は身を起こそうとしたが、全身に走る痛みに断念した。
鋼は椅子に腰をおろして笑みを浮かべた。
「寝たまま、寝たまま。な。三日間昏睡状態だったんだから」
「三日!?」
言葉を失う。半日くらいだと思ってた。
「そ。アッキーが事務所で倒れて三日、いや今日で四日目か。うん。いや、まいったまいった。アッキーが起きたって聞いてすぐ跳んできたんだけどさ、面会の許可証を出すこと忘れてて。ここは特別警護室だから式神だの魔法陣だのセキュリティが半端ないんだよな。アッキーにもでかい式神をついてるし。こりゃ安全安心だわ、うん」
彰人はぽかんと聞いていた。特別警護とかセキュリティとか別世界の話のようでピンとこない。そもそも鋼の姿からいろいろ変わっていた。いつもの作業着じゃなく白装束、顔には殴られたような痣、眼鏡のレンズにもヒビが入っている。顔色も悪いし、やつれているようにも見えた。
だけど変わらない笑い顔に、彰人をほっとさせた。鋼はその笑顔で、寝たままの彰人の手を取りぶんぶんと振る。
「アッキー!! 生きててくれてありがとう!! よかった、よかった!!」
「いやあのその、ぜんぜんわからないんですけど」
「説明はする。でも先にお詫びとお礼を言わせてくれ。でないとこっちが落ち着かない」
「え? どうしてですか」
彰人にかまわず、鋼は真顔になって深く頭を下げる。
「今回は申し訳なかった。俺たちの不始末に巻き込んだ挙げ句、こんな危険な目に遭わせてしまって、なんと言ったらいいかわからない。すまなかった。ご両親にはもう話してあるが、社員一同、一人息子を昏睡状態に陥らせた責任は取るつもりでいる」
「あの、ちょっと。鋼さんのところに邪魔しにいったのはこっちだし」
「いや。邪魔どころか、アッキーが飛び込んできてくれたおかげでヤツを封印できなかったし、音別市まるごと崩壊していたと思う。さぎりも死んでただろう。でもアッキーのおかげで封印され、音別は無事だし、さぎりも生きてる! すべてアッキーのおかげだ。ありがとう、アッキー!! 本当にありがとう!!」
手を勢いよく振られたため、腕に痛みが走ったが、痛いと言ってはいけない気がした。
だけどこれだけは言わないといけない。
「……なんっにも覚えてないです。封印とか知りませんし」
ぴた。
「やっぱり?」
コロリと変わった得心顔に、彰人はすこしむっとする。
「いやいや、怒るな、怒るな。封印したのはアッキーなんだ。詳しく言えばアッキーに憑依したなにか」
「憑依って、いつのまにそんなことやったんですが。だって憑依させるって、退魔師が妖怪を呼び出して、それを」
「うんうん。普通はそう。だけど、俺たちじゃない。俺たちは憑依術なんかできないし。あれは、なにかが突然アッキーの身体に入ったって感じだった。乗っ取ったっていうほうがいいかな。
一瞬のことだったからな、アッキーも気を失ったくらいにしか覚えてないだろう。あれをあっさり封印できるくらい強いヤツだった。対して憑かれたアッキーは未成年で一般人だろ。俺たち専門家みたいに憑依されるコツを知ってるわけじゃないから、考えている以上に身体に負担がかかってると思うぞ。身体中痛くないか」
「痛いです。ヒリヒリしてる」
「だろ。全身から内出血してるような状態だと思っとけ。いや実際に血は出ていないけど、オーラとか霊体がボロボロってことだ。いいもん食って寝てりゃ回復するから、ここの精進料理をしっかり食っとけ。滋養強壮がすごいから。好き嫌い禁止な。嫌いでも丸呑みすること。それで回復する」
「そうします。ハギもそうだろうし。あいつ、さっき来てたんですけど、どこに入院してるんですか」
「えっ」
鋼は言葉を詰まらせたが、間をおいて答えた。
「さぎりか。そう、そうなんだ、入院中。ここと場所は違うけどな、入院してる。元気に入院中だ」
明らかな動揺に、彰人は苦笑した。この人に迷惑かけるほど、さぎりは病院のなかを好き勝手に歩き回っている姿が想像できる。
「やっぱり。あとで来い、話があるって言っておいてください。行けたらいいんだけど、こっちは動けないから」
「ははは。わかった」
話が途切れ、彰人はぼんやり天井を見つめる。
「なにが憑依したんだろう。鋼さん、わかりますか」
「ひとつ心当たりがある。アッキーが使っていた剣だ」
「えっ」
「剣とおなじ色をしていたから、そう思っただけだけどな」
鋼が身を乗り出してきた。
「あの剣について、アッキーに教えてほしいことがある」
「じつはあの剣ことを鋼さんに聞きたくて、行ったんです」
「聞きにくるとこだったの?」
「はい。これなんですが」
左腕を見せると黒い痣がうすく浮かんでいた。明らかに薄い色に、すこし胸が痛む。カルネモソミも弱っているんだろうか。鋼はしげしげと痣を見つめ、でかいな、と漏らした。
「今朝、じゃないですね。鋼さんのところに行った日の朝なんですけど、家で盛り塩を替えていたらいきなりコイツにどつかれて」
「どつくって。まさか斬られたりとか!?」
「ちちちがいますっ。ええと、あの、はじめは棒で」
ピンポーン。鋼さん、いますか。医長がいらっしゃいました。
スピーカーのコールに、鋼はナースコールを押して応答した。
「はいはい、いますよー。どうぞ来てくださーい。そうだったそうだった。アッキー、その剣のこと、これから来る人も一緒に聞いていいかな」
「いいですけど、お医者さんが来るんですか」
「おしい。医者じゃないけど、ここの責任者もやってるおっさん。今のアッキーの護衛やってる式神の主だ。アッキーの話を俺が聞いて、俺からおっさんに報告してもいいんだけど、おっさんはアッキーから直接話を聞きたいとさ。それにアッキーも、あっちこっちにおなじ話するのも面倒だろ。そんなわけで、疲れてるだろうけど、頼む。北海島の有名人だから、見たら驚くかも」
「そんな人いましたっけ」
「いるだろ、世界レベルの超有名人」
鋼はさぎりとそっくりの笑みを浮かべて見せた。
おなじ頃。六畳一間の和室に、さぎりはいた。
畳敷きで、中ほどに寝心地のよさそうな布団が敷かれ、隅にある座卓には最新の小型ゲーム機が数台置いてある。トイレつきユニットバスには音楽や映画を楽しめるようになっているし、定期的に運ばれてくる食事はホテル並のメニューだ。
普通の部屋と違うのは、そこには窓も電話も時計もないことだった。四方の壁と天井の隅々まで封印陣が彫り込まれ、ものものしい雰囲気を醸し出している。壁には妖怪が嫌う香が塗り込められている、匂いが布団や畳にも染みついていた。食事のトレイも床から三十センチもない小窓から入れられてくる。
妖怪に憑かれた人間を閉じこめておくこの牢獄を、『封印の間』という。
その部屋の布団の上で、さぎりは気持ちよさそうに寝息を立てていた。パジャマ代わりの白装束は乱れまくり、かろうじて着ているような状態であった。
ごろり寝返りをうったとき、さぎりが寝ていた場所にちいさな影がぼとりと落ちた。
「うおう!」
目を覚ましたさぎりを、目と口らしい三つの点以外はなにも書かれていない白面が覗きこむ。黒いカリヌ民族の着物を着ている、お面をつけた四才くらいの子どもを、さぎりは軽くつついた。
「また天井から入ってきた」
「ハギ! アキトはクムを嫌いじゃないって」
その子はさぎりとおなじ声で喋った。興奮した口調から、かなりうれしかったらしい。さぎりは横になったまま、あくびをひとつ。
「またアキトのところに行ったの。でも今度は話ができたんだ。アキト、寝坊すぎ。うん、アキトは妖怪を嫌いじゃないよ」
「起きてないの。寝てたの。ハギとおなじ」
「いやいや違うと思うよ。あっちは病院、こっちは……」
言いかけて、やめる。
『封印の間』はしっかりとさぎりの身体を重くしていた。起きて歩くことさえだるく、結局ずっと布団の上でごろごろして過ごしている。それだけ、自分は妖怪に浸食されているのだろう。
しかし、ここに自分を放り込んだ人たちが一番おとなしく封印されていてほしいであろうこの子は、自由に封印陣をすり抜けて外を歩いていたりするから、呆れるやら笑えるやら。
自由そうなこの子も、行きたいところに行けないから、なんともいえないけれど。
「ハギ、まだなの。帰ろ。はやく帰りたい」
「もうちょっと待ってて」
「クムのいるところに帰りたいの。帰りたい」
しょんぼり肩を落とす子どもの頭をなでながら、さぎりはこの子と会った場所を思い出していた。
なにもない闇で会った、一匹の巨大な妖怪。長毛で牙が四本、額には鷹のようにするどい赤眼が三つ縦に並ぶという、獣型の妖怪だった。さぎりに掴まれ嫌がるうちに泣き出したが、声が口から出ていなかったので、泣いているのはこの妖怪ではないとわかった。正体を探るべく妖怪によじ登っていくと、ねじれた太い角の裏に隠れて泣いている子どもを見つけた。
カリヌ民族の子どもらしく、カリヌ民族の服を着て、ざんばらの髪には赤青黄緑とカラフルな石が散りばめられ、頭をイヤイヤと左右にふるたびしゃらしゃら鳴った。
「ごねんね。泣かないで。もうしない」
泣き止んで顔を上げた顔に、さぎりは息を呑んだ。
顔がない。
顔の部分だけが闇、深淵、ブラックホールだった。
さぎりは、のっぺらぼうとはまた違う、無の恐怖にぞっとした。
しかし恐怖に反して、子どもは「うん」と素直にうなずいた。
か、かわいいいいいい!
子犬やヒヨコのように小さな生き物特有のあどけないしぐさ。隣に座って頭を撫でてみると、撫でられるがまま。ぬくもりはないが、やわらかく長毛の猫のような髪。これらはさぎりの緊迫した心を一瞬で熔解させ、さぎりの頬をゆるませていった。かわいいかわいいこの子かわいい。
「帰れないの。だから呑まないといけないの」
あどけない声が無のなかから聞こえていても、まったく気にならない。かわいいは最強。
「迷子?」
「よくわかんないの。なにかに吸われて、トンラウンクルの国に出ちゃったの。帰り道がないから帰れないの。ここにいたら大変なことになっちゃうのに」
さぎりは考える。吸われて出てきたということは、召還されたということだろうか。じゃあ召還術を使った人の前に出るはずだ。いったい誰だ。
「出たとき、誰かいた?」
「ううん。誰もいない。生け贄もなんにもなかったの」
「なんにもないって、そんなことが」
「いなかったもん。なにもいなかった。ひとりぼっちだったもん……」
消え入りそうな声に、さぎりは子どもの頭をなでて、ごめんねと謝った。
「帰れないんじゃ困るね」
「困るの。大変なの。帰らないとトンラウンクルの地が腐っちゃう。せっかくトンラウンクルと分けたのに、またぐちゃぐちゃになっちゃう。それはだめなの。嫌なの」
「とんらなんとかが腐るとか聞いたことないなあ。帰る場所ってどこ? どっかの山とか」
「クムの地。このクムと一緒にいたの」
子どもはぽんぽんと角を叩いてみせた。この妖怪が、クム。いや、妖怪のことをクムと呼んでるんだろう。
「レンカランクルはトンラウンクルの地を腐らせちゃうの。腐ったらもう直らないの、砂になるの。だからレンカランクルは器に入っていないとだめなの。はやく呑まないとだめなの。ね、呑んでいいでしょ?」
いきなり言われて、さぎりはきょとんとした。
「えーと。きみは、わたしを、呑みたい。呑まないといけない」
子どもはこくりとうなずいた。
「そうしないと、大変なことになる」
こくり。
「わたしは、呑まれて、消える」
こくり。
さぎりは腕組みをしてうなり、ため息をついた。
「そっか。それは決定なんだ」
こくり。
「残念。そうなんだ」
「消えたくないと生け贄はいつも最後に泣くの。でも生け贄だから消えるのはしかたないの」
「あ。いや、そういう意味で残念って言ったんじゃないんだ」
頭をなでながら、さぎりは困ったように笑った。
「せっかくわたしの妖怪と会えてうれしかったのに、はいここでおしまいって、残念すぎるなって思って」
子どもはさぎりの顔を見た。
「うれしい?」
「うん。それも自分のだって逆指名されたから、すごくうれしかった。この子がわたしの妖怪なんだって思った。わたしね、昔からわたしだけの妖怪がほしかったんだ。だから見つけたら一生ずっとずっとずーっと離さないって決めてた。でも、呑まれたら会えなくなるもんね。やっと見つけて、会えたのに。残念。しょうがないけど」
さぎりの腕に、子どもがしがみついた。
「……いたほうがいいの」
「でも、呑まないと大変なことになるって」
「おまえは呑まない。おまえと一緒にいる」
子どもは立ち上がった。座るさぎりの肩の高さにある闇の顔は、どこか凛としているように見えた。さぎりは正座して向き合った。
「カリヌではない娘。おまえの名前はなんという」
「……ハギ」
「ハギ。我はハギが消えるまで一緒にいる。決めた」
いいの、というさぎりを、こどもは頷きで応えた。
「ハギといる。決めた。我の名は」
「ストップ」
子どもは首をかしげた。
「きみのほんとうの名前は聞かない。だから代わりに、きみの名前はわたしが決めた名前で呼ぶ。……あなたの名前は」
ずっと決めていた名前を口にした瞬間、白銀がふたりと獣の妖怪を照らした。
さぎりはそこで意識を失った。
つぎに気がついたときは、この布団の上にいて、隣で白いお面をつけた子どもがハギ、ハギと喜んでいた。もうだいじょうぶ、カルネモソミが助けてくれた、と子どもは言った。あの光はカルネモソミだったらしい。
目が覚めてから少しして、お兄ちゃんと山伏が来た。山伏はお兄ちゃんの師匠で、さぎりは昔から何度か会っていた。そのふたりから謝られたり叱られたり、状況を聞かされた。
あの日から丸一日経っていること。前代未聞の状況になっていること。だから今はここでおとなしく待っていること。
なんとかして出してやるから、それまで待っててくれ。
従兄弟からそう言われても、こんなところに長く居たくないのが本音だ。スイーツを自由に買い食いできない事がかなりつらい。夢のなかで食べては現状に落ち込むのは、もう何度目だろう。
ぐぎゅるるる。
盛大にお腹が鳴った。ああ、おなかすいた。もう何日スイーツを食べていないんだろう。菓心堂に行きたい。ショーケースのシュークリームを端から食べたい。それから……。
「おい、ハギ。まだ食べるのかよ」
彰人の声を聞いた気がして、さぎりは脊髄反射で飛び起きた。
しかし、そしてやっぱり、空耳だった。
「だよね」
さぎりは苦笑した。彰人のスイーツが足りない末期症状が出てきたようだ。
プロがつくったお菓子や市販の人気商品にくらべても、彰人スイーツはさぎりにとって別格だった。はじめて食べたとき、これだ、と思った。お腹じゃなく、身体にスッとしみ込むようなしっくりした味は、今まで食べてきたどんなお菓子にもない。
だけど今はおあずけだし。暇だし。おなかはすくし。身体は重いし。めまいもする。
「ハギ。寝るの」
覗き込む子どもの頭をひとなでして、さぎりは目を閉じた。
おなかすいたよ、アキト。