colors クリスマス直前の新宿は、慌ただしい。妙に浮かれた空気が、そこら中に漂っていた。キャバクラやホストの兄ちゃん達もサンタの格好をして、仕事に勤しんでいる。
街角を彩るイルミネーション。店先に飾られているクリスマスツリー。下品な程に派手派手しいネオン。そりゃもう、いろんな色が街中に溢れかえっていた。
なのに、この街に辿り着いた頃の俺の目には……。映る景色は全てモノクロに見えていた。ネオンはおろか、人の肌も、街の明かりも、血の色でさえも。ただの白と黒の濃淡だけにしか感じなかった。
いつからだったのだろう。景色がこんな風に感じられるようになっていたのは。物心付いた頃は、まだ青空もジャングルの緑も、目には鮮やかに感じられたはずなのに――。
ぱっくりと開いた傷口。飛び散る鮮血。それは、子どもの目にはあまりにも鮮やか過ぎて……。気が付けば、俺の見る景色は全てモノクロに変わっていた。ジャングルでの長い暮らしが終わりを告げ、街中で普通に暮らすようになってからもそれは変わらなかった。
普通に暮らすといっても、所詮裏の世界。気がつけばこの世界にいたとは言え、これ以外に生きる術を持たなかった俺には、モノクロでもこの世界が全てだった。
戦う事でしか、自分が生きている事を実感できない。戦わなければ、自分が殺される。俺自身が生きていく為に、どれだけ人を傷つければいいのだろう。ひたすら傷つくだけで、俺の心は癒されることがなかった。
もう今更、後戻りは出来ない。元には戻れない。こんな俺は、生きている価値があるのか? 生きていても、いいのか……?
そんな事を思いながら、よく街をふらついた。
今日も、待ち合わせで込み合う新宿東口の駅前広場。俺は人ごみを掻き分けながら、いつもどおり独りで歩く。そんな俺の目に、ふと何かが留まった。それは、ショーウインドウに映る俺自身の顔だった。
……久しぶりに見たなぁ。俺のこんな顔。ガラスに映る俺の顔は、迷い子のようで、泣いているようにも見えた。
「……チッ」
たかが、ガラスなのに。俺の心の中を見透かされた気がした。あぁそうさ。俺は独りが嫌いなのに、いつも望んで独りになっていた。この街に来た頃も、こんな顔をよくしていたよなぁ……。
このまま、誰も傷つけることなく独りで死ねたらいい――。それが、俺の理想の死に方だと思っていた。俺には生きる価値なんて無い。ましてや、誰かの為に生きるなんて――有り得ないと思っていた。
俺はコートのポケットへ両手を突っ込んだまま、空を見上げた。俺の心とは対象的に、どこまでも空は晴れ渡っていた。
「どうしたもんかなぁ……」
この街に独りでいると、いろんなくだらないことを思い出しちまう。俺はガラスに映っていた独りさみしげな男へ苦笑いを一つ送ると、駅の東口にある地下への階段を下りようとした。
「……獠?」
俺を呼ぶ声に、足を止めた。振り返れば、ピンクのマフラーを巻き、茶色のコートを着た香が立っていた。両手には、重そうな買い物袋を四つも提げていた。
「あんた、また呑みに行くつもりね!」
「ちげーよ! 伝言板を見に……」
「もうとっくに終わったわよっ!」
香の罵声が、俺に刺さった。
あぁ。さっき、家で香に「たくさん買い物があるから、伝言板の確認に行って欲しい」と一度頼まれていた。だが、俺は「寒いから行きたくない」って断ってやった。こうして香が怒るのも、無理はない。
香に散々罵られたって俺は留守番を決め込んでいたのに、独りじゃどうにも落ち着かず、ふらふらと街へ出てきちまっただなんて……。こいつには口が裂けても言えない。
俺は無言で香の荷物に手を伸ばした。
「何よっ!」
「……いいから貸せっ!」
とりあえず重そうなものを三つ香の手から取り上げると、俺はアパートに向けて歩き出した。
日は傾きかけ、辺りは暗くなり始めていた。歩く俺の背後から、小さな溜息が一つ聞こえた。「しょうがない人ね」とでも言いたげなその溜息も、すぐに街の喧騒に消えていく。俺たちはそのまま、特に言葉を交わすこともなく歩き続けた。
大通りを渡り、家への近道になる繁華街を進む。背後から指す夕日が、アスファルトに長い影を作っていた。
「ねぇ」
「んぁ?」
香に呼ばれ、俺は振り返った。香は茜色に染まった空を見上げていた。
「夕日……すごく綺麗よ」
香と同じ景色を見るため、俺も空を見た。燃えるように紅く染まった空を背景に、聳え立つビルの窓ガラスがオレンジ色の光を反射していて、とても眩しかった。俺は思わず目を細めた。
――似ている。初めて俺が見た「景色」に。
俺はこの街に来て、初めて「景色」と言うものを知った。俺が初めて見た「景色」は、あのサエバアパートの屋上から見下ろす夕焼けだった。
そうだ。あれは、槇村を初めてサエバアパートに招いたときのことだ。屋上へ案内すると、槇村は「なかなかいい所じゃないか」と呟き、タバコに火をつけた。俺も槇村に火を借りて、タバコを燻らせた。
風に吹かれながら屋上でタバコを吹かす俺の右手は、オレンジの光に照らされていた。血の色じゃなく、眩しい陽の光に染まった、俺の右手。あのとき初めて、俺は「この街なら『生きていける』かもしれない」と思った。
その後も槇村は、俺のアパートへ来ると、度々勝手に屋上へ上がりこんでいた。今思えば、槇村はあの屋上から見る夕焼けが好きだったのかもしれない。
そして……。血が繋がっていなくても、やはり兄妹(きょうだい)と言うのは似る様で、香もアパートの屋上から眺める夕焼けが好きなんだ。
ふと、屋上の手すりにもたれて夕日を眺めていた香が、その小さな背中を震わせ、独りで泣いていたことを思い出した。そんな香に、当時の俺はどう接していいかわからなかった。身体で慰める術なら知っていたが、あいつの涙はそんな薄っぺらい慰めで癒えるとは到底思えなかった。
結局、俺はたった一言、「呑みに行く」とぶっきらぼうに伝えて逃げた。それでも香は、俺に見えないよう涙を拭い、笑って俺を見送ってくれた。
――いつの日か、この手でお前の涙を拭えたなら。その時は俺だって、「生きていてよかった」と思えるのかもしれない。あのときの俺は、ただ漠然とそう思っていた。
今の俺は、「死なずに済んだ」「生きていてよかった」、そんなレベルの感情で生きてはいない。
『愛するものの為に、何が何でも生き延びる』
『何が何でも、愛するものを守り抜く』
生と言うものに、初めて執着したくなった俺は、香へそう告げた。今でもたまに、弱い自分や得体の知れない闇に引き込まれそうになるけれど、顔を上げれば、目の前にはいつだって香がいる。
これが、俺が憧れた暮らしだったんだ。自分で選んだ……いや、俺たち二人で選んだ道だから、どんなに辛くても、行く先は真っ暗でも、大丈夫。何とか二人で、歩いていける。
終わりの見えないこの仕事。それでも、この都会(まち)の片隅で、何とか毎日生きている。
「あっ……!」
「今度は何だよ……」
香を見ると、繁華街の街路樹を見ていた。夕暮れの大通りには、大きなビルの影が落ち込み、既に暗くなっているところがあった。派手なネオンサインが点灯するとともに、街路樹に取り付けられた白い電飾へ、一斉に灯りが灯っていく。香は樹の下へ駆け寄り、イルミネーションを眺めていた。香の周りにいた何人かが、一斉にスマートフォンを取り出し、イルミネーションにカメラを向けていた。――あぁ、もうすぐクリスマスだもんな。
荷物を持ち続ける俺の右手が、少し痺れてきた。当たりを変えるため、俺は荷物を肩に担いだ。香はまだ飽きることなく、イルミネーションを見上げていた。俺はそんな香の横顔を、ずっと眺めていた。
「……あ。ごめん」
俺の視線に気がついた香が、慌てて俺へ駆け寄ってきた。
ネオンに照らされる香の顔も。街路樹のイルミネーションも。今の俺には全てが輝いて見える。モノクロなんかじゃない。
これでいいんだ。これでよかったんだ。――香さえ居てくれたら、俺は大丈夫。
胸の奥の方から込み上げてくる温かい気持ちが、今はどうにも止められない。そんな気持ちが、俺の口元をわずかに歪ませる。そんなニヤけた顔は、香に見られたくないから……。
「あー! 腹減って死にそうだよ! とっとと帰ろうぜ!」
踵を反すと、俺は早足で歩き始めた。
了