君と共に生き、逝く/君を共に生き、往く君と共に生き、逝く(平山幸雄)
『これでお前は"赤木しげる"になる。今日からしっかりやれよ』
そういつかの安岡さんが、満足気に口端を釣り上げる様子が浮かんだ。
片手に火のついた煙草を持っているその姿に俺は『大丈夫ですよ。安岡さん』と、何も迷いなく答えていた。
その日から俺は"平山幸雄"ではなく、俺によく似た男の名前を騙り、裏の世界を歩くことになる。
問題など片っ端から蹴散らしてどこまでもどこまでも、遠くへ行ける気がしていた。
当初はサングラスの色に染まる世界を見るのが慣れるまで違和感を抱えたままだったが、それも直に薄れる。
名を騙り始めてそれ程日も経たない内、そしてまるで忘れていた頃にふいに思い出す事があった。
自分が名前を騙る"赤木しげる"とは、本当はどんな男なんだろうか、と。
実物を見た事があるという安岡さんに尋ね聞いた、そのぼんやりとした形のない肖像だけが俺の中にいつも浮いている。
水のような。雲を掴むような。
天才。悪魔。
想像だけでは、その単語と言葉の羅列は上手く俺の中でひとつの形を成すことは中々なかった。
ただ、決まって確かな事は"お前の顔はよく似ている"安岡さんのそんな言葉。
『本当に、』
似ているのだろうか。
朝、顔を洗って見上げた洗面所の鏡の中にある自分の顔に触れてみる。
拭き残した水滴が顔の周りを滴り落ちる。
俺には自分と似た顔を持つ男が、この世のどこかに存在する。
そんな奇妙な事実は忘れた頃に人の胸にざらつきと、多少の気味悪さを残した。
「今も・・どこかで、生きてるの、か」
赤木しげるは。
鏡越しの自分の顔を、確かめるように触れる。
ここに居るのは間違いなく"平山幸雄"だ。
他人が他の名前でどれ程呼ぼうとも、与えられた服を着て仕事をこなす、その前の、ただの生活を営む姿はその名が真実だ。
時々思うんだ。
全てが。
全てがこのまま凪のように進んで、いつかはその他人の名前を呼ばれる事に、何も違和感のない自分がこの先在るのではないかと。
それを怖いと思うのか、早くそうなってしまいたいと思うのか。
正直なところ、自分でもよく分からなくなっている自分が居るのを俺は知っていた。
鏡越しの自分は、ここにいる自分と同じく真っ直ぐと向き合い、視線はぴたりと同じ高さで交わる。
鏡に触れる手が、少しだけ滑り落ちた。
『いつか・・会う時なんて、あるんだろうか』
会ったとしても、俺は安岡さんが求める"赤木しげる"でなければならない。
そういう約束で、一緒に組んだのだから。
例え出会ったとしてもその当人すらを超えて、俺は"赤木しげる"として生きる選択をして、ここに居るから。
一度だって、負ける事は死地への踏み込みになるだろう。
『勝って、生き続ける』
そんな願いを強く胸に刻んで、俺は目を閉じた。
君を共に生き、往く(赤木しげる)
『なんで、最後までこんな所で生きてたんだろうな』
平山幸雄。
俺の偽で、俺と似た顔をした全くの他人。
その死体を目にする羽目になるとは俺は思いもしてなかったし、もう二度と会う事もないと思っていた。
身の程を知って、世界の見える安全な水位の場所で生きていれば、こんな目に遭う事も無かっただろうなと思う。
人は感覚が一度自分の知り得る"安全な正常"とやらから脱すると、それまでの基準を忘れ、いとも簡単に迷い流れてしてしまう。
アイツは、そういうところだったのだろうか。
考えるのはただの無駄と分かっていたが、一時でも自分の名を騙って生きていたそれを、なんだか無視してやる事が簡単には出来なかった。
夜に染まる車窓の向こう側に、自分の顔を確かめた。
この顔が平山幸雄と似ているというならば、自分もその名前を騙って生きたりも出来るのだろう。
名前を変えて、他人になって生きるというのは一体どんな気分なんだろうか。
自分というものを否定して、生きるに等しい行為は、息苦しく、詰まらなくないのだろうか。
俺がもう一度この界隈に現れてからは、平山は"平山幸雄"として生きたらしいが、死んだその姿はそのまま俺の偽をやっていた時となんら変わっていなかった。
『・・俺と一緒に、死んだ』
そうなのかもしれない。
結果的に、あの姿で死んだという事は。
一人で、死ぬ勇気があの男には持てなかったのかもしれない。
いや・・安岡さんと離れて、一人で裏の世界を生きるようになってから、あの偽の姿は一種のまじないの類だったのかもしれない。
自分ではない"赤木しげる"という人間だと。
そう自分を思い込ませて、生きるつもりだったのかも・・・知れない。
『まぁ、真実なんて解り様もしないけれど・・』
車窓に頭を預ける。
列車が不規則に揺れては、前髪が顔に掛かった。
過去に通り過ぎて行った人間に思い巡らせる事なんて、大した意味なんてないのは、馬鹿らしいほどに分かり切ってる。
それでも、自分の顔を見れば付いて回るその存在を忘れるには、まだ時間が経たないせいかほんの少しだけ、自分の頭の中を絡め取っている。
砂のような霧状の、回顧。さらさらと流れ出ては、薄れていく。
鷲巣と勝負をすれば、この思いもいずれ遠くに感じるだろう。
『どんな場所で、俺は死ぬことが出来るんだろうか』
平山幸雄は鷲巣との勝負の中で死んだ。
俺は、これからその男と一戦を交える為に奴の元へと往く。
それは果たして俺の死に場所になるのか、鷲巣の死に場所になるのか。
俺は知りたい。
俺が、死ねる場所なのかを。
○生きたい幸雄と死に場所求めてるしげる。
意外とこういう対比なのやってなかったような気がしたのでせっかくだから書いてみました。
原作の赤平ってなんぞやって考えると私は"平山幸雄は赤木しげると死んだ"が最も赤平な気がすると思います。
だけど"赤木しげるは平山幸雄と死なない"のが赤平だと思うよ。(実際鷲巣麻雀ではそういう話だし)
20190909