こんなにのんびりした年越しは初めてかもしれない。去年まではまさに箱根本番直前で、どこかふわふわした落ち着かなさと緊張の中にいた。それを思うと、うんとサイズの小さいジーンズを穿いていたのを脱ぎ捨てたような、「いいんだろうか」と不安になるくらいの解放感があった。
走は食べ終わったそばのつゆをつまみがわりにすすっては酒を口に運んだ。
「……ハイジさん」
声をかけてそっと肩に手を置く。こたつに埋もれたハイジは「うう」と唸ってさらに深くもぐりこんだ。
「風邪ひきますよ」
横に脱ぎ捨てられたドテラに手を伸ばし、肩にかけてやる。走から遠いほうの肩には届かなくてややずり落ちてしまったが、こたつから出てかけ直してやるのも面倒だった。
(静かだなあ)
走が酒を飲もうとしたら傾けたコップは空だった。
(やべ、俺酔ったかな)
おかわりを手酌で注いで、瓶の重みで自分とハイジの酒量を推測した。そのほとんどを胃の腑に収めたのは走に違いなかった。
(ハイジさん、あんまり飲んでないのに)
ハイジはこたつに突っ伏して規則的に背中を上下させている。完全に沈没だ。
(絶対弱くなったよな)
本人にはとても言えないが、ハイジのいう「ワク」に網の目が張られてきているのは間違いない。
(トシかなあ)
そんなことを思うと、ふっと頬が緩んだ。ハイジと自分との間にそれだけの年月が流れたということだ。
出会ったときは、変な人を通り越して危険人物だと思った。変な人だという第一印象は間違っていなかったと思うが、その変な人とずっと一緒にいるのだから笑ってしまう。
(俺も相当、変なやつですよね)
「……ハイジさん」
酔いで赤くなっているハイジの耳たぶの産毛にそっと触れた。
「来年も、一緒に走りましょうね」
静かな部屋にぽつんと響いた自分の言葉が気恥ずかしくて、走は「へへへ」と照れ笑いをした。
「うーん」
地の底から這い出すような唸り声がして、ハイジの目が開いた。
(あ。起きた)
「何笑ってるんだ、きみは」
「笑ってません」
「笑ってたじゃないか」
ハイジは眠そうな目のままコップにわずかに残った酒をぐっと干した。
「おい。先輩のコップがあいてるぞ」
(うわ、めんどくせ)
卒業したって先輩の命令は絶対だ。走は残り少ない瓶をつかんで台所に立った。新しいコップに蛇口から直接水道水を注ぎ、ついでに自分用の缶ビールを冷蔵庫から出した。
膝をついて「はい」と彼の前にコップを置く。
「ありがとう」
ハイジはひとくち含むと、口角をあげて走をにらんだ。
「俺もそっちがいいなあ」
走の缶ビールを横目で見る。そのまなざしにぐらっと心が揺らいだが、こらえた。
「だめですよ。酔ってるもん、ハイジさん」
「なーにが、酔ってるもん、ハイジさん、だ」
ハイジがぶつぶつ言いながらまたこたつに沈んでいく。
「あ、寝ちゃだめだって」
「きみは禁止が多いな。なんでも禁止して、管理して、しばりつけて、それでいいと思ってるのか」
「もう、本気で酔ってるじゃないですか……」
「ああ酔っているさ。きみが酔っていると言うなら酔っているんだろうね。きみは酔っ払いの俺が寝たほうが気楽だろう? 口うるさいのがいなくなるから」
「口うるさいなんて言ってません!」
「今言ったじゃないか!」
「うるさい! うるさい! ハイジさんは、いるだけでいいんです! そうだよ、寝てても酔ってても元気ならいいんだ!」
(言ってやった!!)
走は鼻息荒くハイジに対峙した。ハイジは見てはいけないものを見てしまったかのような表情になり、だいぶ間をおいて「……うわー」と小さくつぶやいた。
「すっかり目が覚めた。そろそろ初詣に行こうか」
「……まだ年明けてませんよ」
「仕度してるうちに明けるさ」
「帰ったら飲み直します?」
「きみがしたいようにすればいい。俺は今機嫌がいいんだ」
(さっきまでだだこねてたのに、変なハイジさん)
走はそう思ってから、変なのはいつも通りか、とくすっとした。
「おい、何笑ってる?」
ハイジも笑っている。
「笑ってませんよ」
顔を見合わせ、二人で笑った。
「行きましょうか、ハイジさん」
「神様の前では走るなよ。福が逃げるから」
「ハイジさんそれ毎年言ってますよね」
新しい年が始まろうとしていた。