病院のロビーの隅に走が立っていた。走はハイジの姿を認めると安心した顔をして片手をあげた。
「来なくていいって言ったろ」
「リハビリお疲れ様でした」
「……出所祝いか」
杖を持っていないほうの手で頭を軽く小突いた。
「リュック持ちます」
持つ持たないの議論をするのは諦め、リュックを渡す。
「きみね、送り迎えはいらないと言ってるだろう」
「別におんぶして帰るって言ってるわけじゃありません。ハイジさん、まだゆっくりでしか歩けないんだから一人だと危ないです」
そう言われると返す言葉がない。ハイジは手術が終わって退院したばかりなのだ。
ハイジは足が不自由になって初めて、この世界が危険に満ち満ちていることを知った。道路にはいたるところに段差があるし、急な傾斜のスロープは階段よりよほど恐ろしかった。歩道を歩いていても突然飛び出してくる自転車が怖くて足がすくんだ。毎日ジョッグをしていたんだから安全には人一倍気を使っていたつもりだが、それでもこんなに危ない中を平気な顔で走っていたのかと思うと改めてぞっとしたものだ。
走は何も言わずに通院に付き添った。揺れるバスの車内でハイジが杖を取り落としてしまったときも、黙って拾ってくれた。もし走がいなかったらと思うと背筋が寒くなる瞬間が何度もあった。
それでもやっぱり、来なくていい、と思う。走の時間の使い方として正しくないと思うからだ。
「あ、ハイジさんちょっと待って」
走はマフラーを広げるとハイジの肩を包み込むように巻いた。
「今日は結構外の風が冷たいので」
「きみは?」
「俺は大丈夫です」
これがあるから、と走はネックウォーマーを指でちょっと触って微笑んだ。
「走ってたのか?」
「はい。ぐるぐる走ってました」
ハイジはこのあたりの地理を思い浮かべた。
(すまない)
走にとって最適なメニューを考えなければならない。それは少なくともこの病院の周辺を無為に走り回るものではなかった。ハイジはうつむいた。すると自分の足が目に入って、ますますうなだれた。
「走。少し歩こう」
「はい」
バスには乗らず、二人は竹青荘に向かって歩き始めた。杖をつきながらゆっくり歩くハイジの後ろを走がついてくる。
「リハビリどうですか」
「順調だよ。俺は何事も覚えが早いんだ」
ハイジはそう言いながら、今日病院で言われたことを思い返した。
『清瀬さんは若いですから』
(若いから? 若いからなんだっていうんだ? 若いから治りが早いということか? それとも、残された人生が長いって言いたいのか? 悪い足で生きていく日々が長くてお気の毒だとでも?)
黒いもやもやが胸の中に広がっていく。
「ハイジさん」
走がハイジの肩にそっと手を掛けた。次の瞬間、ふたりのすぐ横をひゅっと自転車が通り過ぎていった。ハイジは驚いて身をすくませた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫。ありがとう」
「……あの、俺『この人には俺がついてなきゃダメだ』とか思ってませんからね」
ハイジは思わず振り返って走のほうを見た。
「ハイジさん、よそ見しちゃ危ない」
「あ、ああ」
走の瞳はやさしかった。出会った頃の、他者を拒絶する鋭さはすっかり仕舞い込まれている。
(いつのまにか走はずいぶん大人になった)
「子どもっぽいのは俺のほうだな」
「なんですか?」
「こっちの話だ。それより走、走りたいんじゃないのか。こんなもたもた歩くのはもどかしいだろう」
「そんなことないです。俺、歩くのも良いなって思うんです」
「そうか?」
「見てください、ハイジさん」
走が街路樹を指差す。ハイジは立ち止まって見上げた。
「木の芽が出てきてます」
確かに、葉をすっかり落とした硬そうな枝の先がわずかにふくらんでいた。
(春が来るんだ)
「走ってたらこういう細かいところまでは見ないんで」
「そうだな」
「それにね、ハイジさん」
走の手が後ろから伸びてきて、首元のマフラーをそっと直してくれた。
「俺は自分で走って、たくさん走って、それで強い風の中をこう駆け抜けていくっていうか、そういうのが俺だって思ってたんです」
(ああ、分かるよ)
空気を切り裂いて自らが一陣の風となること。この世のすべての速度を自分が支配しているような全能感。それは走る人間に与えられた宝物だ。
(俺はもうその風に会うことはない)
ハイジは走の髪がなびいているのをじっと見た。
「ゆっくり歩きながら感じる風とか、景色とか、音とか、いいなあって。俺は今まで走ってばっかりで全然知らなかったんだなあって思いました。ハイジさんが『速さを求めるばかりじゃ駄目だ、スピードだけを求めるなら走る意味がない』って怒ったのを思い出しました」
「俺はそんなことを言ったか」
ハイジがそう言うと、「言いましたよ」と走は笑った。
「きみは案外記憶力がいいな」
「めちゃめちゃ怒られましたからね、あのとき。いくら俺でも忘れません」
ハイジは再び歩き出した。走は何も言わずついてきた。寒さで冷えてきたのか、足が少し痛んだ。
「あの……もう少ししゃべっていいですか」
「いいよ」
「ハイジさんが怪我をして、俺は初めて長い距離をゆっくり歩きました。俺はずーっと走ってばかりでしたから。でも、こうやって歩いて、なんだか強くなれるような気がするんです。陸上選手として」
「どうして?」
走が黙った。ハイジが見やると、走は真剣な表情で考え込んでいる。脳みそをフル回転させて言葉を探しているのだろう。ハイジは走の言葉を待った。
(本当に、きみは成長したよ)
「陸上選手にとって、歩くのは楽をすることです。でも俺は、そうではないと知っている。それに、歩いてでしか分からないことを俺は見たし、知りました。ほかの選手が知らないことを知っているのは強さになります」
「うん。そうだな」
自分はこれから、走の言う「知らないこと」ばかりを知る人生になるのかもしれない。走り続ける人間は一生知らずにいることをいくつもいくつも噛み締めさせられるだろう。
(でも、それを俺が強さに変えることができたら?)
ハイジの胸に一陣の風が吹いた。
(そうだ。自分が風を巻き起こすだなんて、俺はなんという傲慢な人間であったのか。走らなくても風は吹いているんだ。走っていたら決して分からない風が)
「走!」
ハイジは立ち止まって振り返り、走と向き合った。
「走。俺はまたきみと並ぶことができるようにリハビリをする。つらくても苦しくても、腐らずに必ずやり遂げる。だから……それまで待っててくれるか」
「ハイジさん……」
走は何度も何度も深呼吸をし、ぎゅっと一度まばたきをしてから大きな声で「もちろんです!」と言った。
「ハイジさんは、ずっと俺を待っててくれたんですよね。今度は俺が待つ番です」
ああ。きみの言葉のなんと力強く頼もしいことか。
ハイジの中にぽっと小さな炎がともった。炎はいずれ大きくなりめらめらとハイジを突き動かすだろう。
(走)
「帰ろう」
ハイジは走にくるりと背を向け、竹青荘へ向けて歩き出した。
顔を見ていたら、抱きついてしまいそうだったからだ。