春先の雨のようにぬるくしたシャワーをそうっと体にかけた。
「痛たたた……」
口から思わず弱音が漏れる。ひりひりする肩が水で冷やされて心地よい一方で、冷たさに心臓がきゅっとなった。
このところ晴天続きで気温もぐんぐん上がり、惜しみなく注ぐ太陽は島根育ちのハイジの心を浮き立たせた。きらきら輝く太陽を思いきり浴びながら走るのは楽しい。
しかし、それがいけなかった。陽光に誘われてTシャツの袖をまくり日焼け止めも塗らずに走った結果、ハイジの肌は真っ赤になっていた。
(毎年やってしまうんだよなあ。東京の日差しは遠慮を知らないと見える)
こんな状態ではとても鶴の湯には行けない。だから大家の風呂が閉まる直前を見計らって滑り込んだ。もう誰も入らない風呂なら水を豪快に使っても文句はない。冷たい水を洗面器にため、威勢よく顔をすすいだ。炎のような日差しに焼かれたせいで頬のあたりも痛むのだ。
しばらく黙ったまま冷たいシャワーを頭から浴び続け、魂が幽体離脱しかけたところで蛇口をひねって止めた。
「はあ……参った参った」
ちょんとつま先で湯舟の水面をつつき、熱さを確かめる。ゆっくり足を入れ、痛む上半身がお湯につからないよう気を付けながら腰のあたりまで体を沈めた。
そのとき、脱衣所から声がした。
「あのぅ」
走だ。
「俺もいいですか。時間、過ぎちゃうんで」
遠慮してくれ、と言いたかったが、中途半端な姿勢で風呂につかっているせいで大きな声が出なかった。
「失礼します」
(だめだ、)
心の声は届かない。浴室に入ってきた走とまともに目が合った。
「……おう」
「ハイジさん……?」
威厳も何もない。洗面器をひっくり返して水をあけた走が「うわ冷てっ」とつぶやいた。
「ああ、シャワーもぬるくしてある。すまんな」
「別にいいですけど……」
「きみ、さっき鶴の湯行ってなかったか」
「行きました。でもそのあとちょっと走りに行って汗かいたので」
「走りすぎだ」
「すいません。昼間暑くて外を走れなかったんです」
そう言われると黙るしかなかった。走さえ危機感を覚えて体調管理に努めているのに、お日様がうれしくて走り回って日焼けしましたなんて言えるわけがない。できることなら鼻まで湯舟につかって隠れてしまいたかった。
走の肌は磨き抜かれたようにつやつやしている。肌の色も濃く、精悍に見える。すぐ真っ赤に焼けるくせに秋口になると嘘のように白く戻る自分の肌とは違う。
「ハイジさん」
走の髪の毛からしずくがぽたぽたと垂れている。
「首冷やしましょう」
「くび」
おうむ返しすると、走はハイジの頭をぐっとつかんで下を向かせ、冷たい水をかけ始めた。
「走、冷たい冷たい」
「我慢してください」
うなじから肩のほうに念入りに冷水がかけられて、ひりひりする痛みが引いていく。気持ちが良くて目を閉じた。走は自分の体に冷たい飛沫が飛ぶのも構わず、何度も何度もハイジに水をかけて肌を冷やしてやった。
「面目ない」
「……せめて長袖着て走りましょうか」
「晴れているとうれしくて、つい」
「ハイジさんにもそういうとこあるんですね」
「どういう?」
ハイジは顔を上げた。走の顔がすぐ目の前にあった。
「……少し、ばかなところです」
濡れた唇が一瞬触れた。
「俺は上がる」
ざばりと立ち上がり、浴室を出た。走は何も言ってこなかった。冷やしたはずの顔が熱い。きっと日に焼けて熱を持っているせいだ。
(走め)
すりガラスの向こうをにらむ。中で影が動いて、ちゃぽんと湯舟につかる音がした。
(のんきに風呂なんか入りやがって)
心臓がまだ激しく鳴っている。
(俺の気も知らないで)
無性に腹が立って、ハイジは扉を勢いよく開けた。
「ハイジさん……?」
肩まで行儀よく湯舟につかった走がこちらをきょとんと見上げてくる。
「馬鹿野郎」
「…………?」
「こういうときは、追いかけてくるもんだ!」
怒鳴られた走は血相を変え、滑って転びそうになりながら風呂を飛び出した。そのあわてようがおかしくて、ハイジは盛大に笑ってやった。