絡繰時計 歴史は時に、ただ一人の者を待つことがある。
為されるべき功績は、人物の未来に静かに佇んでいる。
そういうものだと、長くはない人生の中で自然と学んだ。
ある人物が歴史の表舞台に登場した瞬間から、歴史が動き出したとしか思えないことがある。
歴史が彼を待っていた。──油をさされ、もはや動き出そうとする絡繰時計さながらに。
──松陰先生は、その最後のねじであったのだ。
高杉は天井に広がった染みを見つめて思う。雨水でも漏っているのだろうか、染みは天井全体に広がって、不思議な模様を形作っていた。
──世界地図…。
日本はあの、片隅の小さな点かもしれぬ、そう考えてくつくつと嗤う。その内に、ひゅ、という音が喉の奥から鳴った。突然に咳き込む。血の塊を吐いた。咳に伴って溢れる血に、呼吸すらままならない。白い肩蒲団のうちに顔を埋め、痩せた腕で身を抱え込む。
艶やかな血の色が滲んでいく光景を、揺れる視界の端に捕らえた。咳は間断なくせりあがってくる。血に塗れた襟元が首に巻き付き、その熱さが身を刺した。
──あれらは何だったのか…。
吉田松陰の門下で共に学び、論じ、酒を酌み交わした者たちは。
志を遂げぬまま、或いは斬られ、或いは自決した者たちは。
父への反発から萩の藩校明倫館を飛び出し、密かに松下村塾へ通った日々。そこで出会った者たちは皆、才知ある憂国の若者だった。
講義中のあの静かな熱気、口角泡を飛ばす議論が過ぎて、殴り合いになりかけたこと。
誰が宥めてもすかしても一歩も譲らない癖に、その夜には遊郭で酒を呑んで一緒に大騒ぎしていたこと。
幼馴染であった久坂玄瑞や、聡明で誠実であり続けた吉田稔麿、柔和なのに誰より強かった入江九一──彼らと競ううちに、四天王と呼ばれるようになったこと。
吉田松陰門下に、彼らあり──そう評されたことが何より嬉しく、誉れであった。四人はあたかも互いの過不足を補い合うようで、共にあれば必ずや新しい時代を切り開けると一片の疑いもなく信じていた。
──日々を大切に、同門の朋を思って生きなさい。
きっといつか、何気ない会話すら懐かしく、あの頃が一番良かったと思い出す日が来るのだから。
師の言葉が、不意に蘇って頭に響いた。あの頃は明るいばかりの未来を信じていた。しかし、今ならその言葉の意味が分かる。
安政の大獄で師は斬首、吉田は池田屋で殺され、久坂と入江は決起に破れ自ら死を選んだ。
──先生。…吉田、久坂、入江。
多くの者が逝った。遅れてもなお、彼らと誓ったことを忘れまいとして懸命に戦ってきた。相次ぐ死を悼む間もなく、昔を懐かしむ余裕もなかった。前を見ることしか許されなかったのだ。省みればそこには、嘆き悲しむことしか残されていない。それを本能で悟っていた。
──だが、俺にはもう今この時を懐かしむ日など来やしない。
咳が大分収まってきた。高杉は真っ赤な口でにやりと笑った。再び咳がせりあがって来る。
──俺は、何だったのか…。
咳が聞こえたのであろう。家人がぱたぱたと廊下を走る音がしていた。起き上がることも叶わぬようになって、聴覚が鋭くなっていた。高杉は時に、地中の音すらも聞き分けられる気がする。植物が土を掘り、根を延ばす音、虫が長い眠りから覚めて活動しだす音。来たるべき季節に、高杉以外の誰もが備え始めていた。春の息吹がそこかしこに面を覗かせている。
──せめて絡繰時計の動きを助けることが出来たなら、上出来と言えような。
高杉は嗤う。笑いながら血を吐き続けた。けちの付けようのない、面白い人生だった。後悔も多く、過ちは数え上げれば切りがない。
それでも、思う。好く生きた──悪くはない日々を生きさせてもらった。
蒲団を覆うような赤い染みで世界地図が出来ないだろうかと、ふと心に浮かんだ。
──俺が死んだら、大宴会だ。
それだけが、高杉の望みだった。春の景色の中で、自分に代わって自分を知っていてくれる人々に大騒ぎして欲しかった。巡り来る季節の中に、もう高杉はいない───彼が二度と絡繰時計に触れることがないのと同様に。
高杉は目蓋を落とす。
桜が舞い散る中、緋色の筵を張り三味線をかき鳴らしては酒杯が重ねられ、芸者の金襴の帯が風を含んでひるがえっている。そんな光景が見える気がした。