最後に残った感情の名前 見上げた空は蒼然とうなだれて、今にも降り出しかねない風情だった。吐き出した息は白く、眺めていれば自然と空気に解けていく。
わずかな障子の隙間から、凍てついた風が吹きこんでくる。また冬が来たのだ。
伊藤は障子の枠にかけた指先に力を込める。滑るように開け放たれた視界に寒々しい庭先が映った。濡れた地面に松葉が散るほかに、色らしい色は見当たらなかった。
「…何しちょる」
背に親友の声を受ける。伊藤は振り返らない。
そのまま、薄く雪に覆われた庭を見る。椿の葉が雪を照り返して光った。
この土地にまた冬が来て、雪が降る。ただそれだけのことが、伊藤にとってはかほど重要なのだ。
元治元年師走の雪の日、維新回天にとって最初の一歩が踏み出された。
禁門の変により危機に陥った長州藩内では、幕府に唯々諾々と恭順する一派が力を持ち始めていた。またこの頃には、攘夷を頑迷に唱える者も未だ少なくなかった。
割拠倒幕と開国路線で一致していた三人――高杉と伊藤、井上――は藩政府と志士らと双方から狙われる立場になっていた。
高杉晋作もまた、亡命、潜伏から戻ってきたばかりだった。
高杉による功山寺決起は、総兵八十名によって始められた。当の高杉が初代総督を勤めた奇兵隊でさえ加わらないあまりに小さな決起だった。
高杉は福岡の平尾山荘より馬関に戻ると、冬十二月、かつて自らが率いた奇兵隊に決起を呼びかけた。
しかし、結果は芳しくない。奇兵隊含む緒隊の幹部会議にて修禅寺で開かれたが、誰一人として呼応する者はなかった。
高杉は度々思いとどまるよう同志に説得されたが、その決意は変わらなかった。
やがて迎えた十二月十五日、他藩の者を中心とした決起隊八十名は、その緒戦において一滴の血も流すことなく勝利した。その後、雪崩を打ったかのように兵の数は増え、目に見えて時勢が変わったように見えた。
あの決起に勝利した時から、維新は確かに始まっていた。
顧みればあまりに単純だった。
渦中にいた時はあれほど絡まりあった糸のように考えていたものを、そう思うとおかしい。
高杉の決起に、伊藤は―――俊輔は力士隊を率いて戦うことになっていた。
情勢も兵の数からしても、絶望的な決起だと思われた。事実、奇兵隊の三代目の総督であった山縣は加わらなかった。潜伏中の桂小五郎もまた高杉を止めた。
吉田松陰が残した最大の遺産は人材であった。彼は弟子たちの中に志を遺した。
その有為の人材の多くがすでに失われていた。あるいは斬死し、あるいは自死を選んだ。
多くの友人たちの死を目のあたりにし、高杉が何を思ったかなど伊藤は知らない。
高杉は激情家だった。同時に詩人でもあり、英雄でもあり、あの時代においてしか生まれえない人間であったように思う。
違う時代に生まれていたなら、伊藤の知る高杉晋作という男は存在しなかっただろう。
それゆえ、伊藤は高杉という男の本質を永遠に理解しない。伊藤は時代に魅入られた存在ではないのだ。
――自分でそれを知ってるのが、なんとも言えないところか…。
思い、伊藤はわずかに苦笑する。
高杉は、結局自ら火をつけた維新回天の結実を見ることがなかった。彼のような男が畳の上で死ぬとは誰も予想しなかったろう、と思う。
あの決起、藩政奪還と四境戦争、それらの中で高杉は大きな役割を果たしながら、栄職を拒んだ。
――ただ、向かないとそれだけ。
人は困難は共に出来ても、栄華は共に出来ぬと言う。
彼は時折、ひどく虚無的なことを口にした。
俊輔は初め、高杉の決起に付き合う気などなかった。親友の聞多なら喜んで高杉と行動を共にするだろうとも思った。
有体に言えば、迷っていたのだ。時勢は絶望的で、我と我が身を投げ出すには惜しい気がした。それなのに頷いてしまった。
俊輔、お前はどうする。あの雪の日、突然駆け込んできた高杉は俊輔の前に傲然と立ちはだかった。すでに山縣らの反対を受けた後だったらしい。
その瞬間、驚くほど容易に言葉が滑り出た。
――ゆきます。
思えば、高杉が自分の意志を問うたのは初めてだった。
それに舞い上がったのかと言われればそうなのかもしれない。口の中に苦い味が広がる。
しかしそれだけではなく―――あの時あの瞬間、あの男には理性を越えた力があった。
この人に出会えたことは幸いだったのだとそう感じる何かがあった。
伊藤は、肩越しに背後に見遣って微かに笑う。
「あの日もこねぇな天気やった」
聞多は―――井上は一瞬瞠目し、やがて頷いた。座したまま、ぽつりとひとりごちるように言う。
「思い出すか」
「うん」
「……そうか」
困ったような顔をした井上に伊藤は笑う。
決起に参加できなかったことを悔やんでいるのだと思った。
高杉が亡命する少し前のことだ、聞多は刺客に襲われて生死の境をさまよう目に遭っている。辛うじて命は取り留めたが、傷は深手に達し、しばらくは身動きも容易でなかった。
その傷も癒えかけた頃に藩庁で取調べを受け、功山寺決起のときはとうに幽囚の身となっていた。
――参加しなかったのではなく、できなかったのだ。
聞多はのち、決起の第一戦に勝利した高杉の命により助け出された。
お前はどうすると高杉に問われ、真っ先に聞多を思ったのは、このことも頭にあったからだろう。
気にしたことではなかろうに、そう思ったが言わないでおいた。
そういう男だからこうして友人でいられるのだと承知している。
「高杉さんが、もっと長生きしてくれたら良かったのに」
再び庭を見遣って、障子の枠を握り締めた。
ああ、と応じて背後の空気がほどける。
「あいつにも、新しい世を見せてやりたかった……」
感慨深げに井上はそう口にした。
それを背中で聞きながら、伊藤は天蓋をふり仰ぐ。雪の降り染めた視界は奇妙に明るい。
決起の朝、この茫洋とした明るさの中を、俊輔は堂とした高杉の背に従って行進したのだ。
俊輔の意思を聞いたその時には、高杉は共に馬上の人となるのを許していたのかもしれない。
高杉と轡を並べた瞬間、唐突に、叫びだしたいような衝動が心の底から湧きあがった。それは臓腑をかき乱した後で全身に震えとなって広がり、雪の空に抜けていった。
一瞬間にあれほど胸を掻き乱した思いの正体は何だったのだろう。伊藤は今でも時折、不思議に思う。
――…あの人が、もっと生きてくれたなら。
不意に伊藤は己の言葉を反芻し、喉元で笑った。音に出さず呟く。
「……きっと、越えることもできたろうに」
伊藤が木戸を見限ったのは、明治もまだ早い時分だった。しかし、伊藤が高杉を越えることは永遠に叶わない。
こういう考え方を井上は好まないだろう。そう思って、伊藤は振り返った。
「聞多は、変わらない」
「何が」
井上は不思議そうに応じ、腰を上げる。寒い、と呟いて伊藤の目の前で障子を閉めた。