閣下とのこと 屋敷の二階の窓から見た後ろ姿が、閣下を見た最後でございました。
姻戚でもあった閣下は、時折私の高島台の屋敷に来ては様々な話をしていきました。
勿論、隅居に引きこもった身ながら図らずも名を知らしめる結果となってしまった日清、日露の易占を立てたのもその屋敷です。
天下国家のために易占を極める途を選んだ私には名声など不要の事、そう言えたならば聞こえもよかろうが、実際のところ私が事業を畳んだのは先が見えてしまったからで……。
要するに、金にも名声にも飽いてたんでさ。
閣下と知遇を得たのは明治のはじめ頃でしたか。
その時分には私も異人館の建設などを請け負って少なからぬ財産をこしらえておりましたから、御一新の政府のお歴々と縁を結ばせてもらったんでございます。
易占をよくするようになったのはそれより少し前、安政とかいった頃です。浅草溜りの牢内で……、いやまあ、若かったもんでお国より自分の商売を優先しちまったんですな。
それ以前はまあ、聞かんで下さいよ。やっぱりね、お天道様は見てるもんで、ちぃとばかし易がやれるばっかりに大きく儲けては、由無くも次の瞬間には負債を大量に抱える始末。易が見えるといい気になって業突くばるからそうなったんでしょうなあ。
しばらく牢で過ごしておりましたんですが、何しろ悪党ばかりが四六時中雁首突き合わせてんで、九死に一生を得るような経験もしました。
脱獄を企てたあげく、失敗した囚人同士の殺しあいでね。
夜明け、牢内の百二十人のうち生きて助け出されたのは、大笊に隠れていた私だけだったそうです。思い返すだに恐ろしい体験でございましたよ。
何しろ、彼らが本当に殺したかったのは私だったのでね。
ええ、脱獄が失敗したのは、私が易占を立てなかったせいだと……。易占をもって私は彼らの脱獄を止めたのに、馬鹿らしい逆恨みです。
暗く湿度の高い岩造りの牢獄に物が曳き毀される音が高く反響し、わぁんわぁんと奇妙に間延びした怒声や悲鳴が、物悲しいような狂おしいような音で聞こえておりました。
私は大笊をひっかぶって目を覆い、この嵐が過ぎ去るのを息を潜めて待ちました。恐ろしさに目を開けることも叶わぬのに、人間こんな時には返って聴覚が鋭くなるのか、やたらと周囲の息遣いや呻きが耳に立ったことを覚えています。
その時、目と鼻の先で、水をたっぷりと入れた皮袋が岩床にぶつけられたような、ぐしゃ、とも、ぐちゅ、ともつかない音が聞こえてきました。
それから、つんと鼻の奥を刺激する匂い……。知らず薄目を開けると、大笊の下の岩と岩の隙間から、泡を浮かべた、温かく粘度のある液体が滲み出してくるのが分かりました。私は生臭さに思わず顔を背けました。
先程の皮袋が潰れた音、あれは人間の肉体が潰れる音だったのだと思い至った瞬間、なんとも言えない「おぞけ」が背筋を駆け上りました。
一通りの惨劇が終わった後の、恐ろしいまでの沈黙と匂いは生涯忘れませんでしょう。
大笊の篭目から牢内を覗いてみれば、酸鼻を極める光景が広がっていました。荒くれ者たちが逃げ場の無い牢内で殺し合ったんだから当然かもしれません。
あの頃は荒廃しておりましたから街中に死体というものが珍しくもない時分ではありましたが、死体というものは、生きている人間とは全く違う匂いを発するものですな。言ってしまえば屍臭というものなのかもしれません。
いいえ、屍臭は腐敗臭ではありません。
人間の血が腐り臓物が腐り脳味噌が腐り眼球が腐り皮膚が腐り舌が腐り、その吐息が腐って、それぞれが混ざって発せられる匂いと共に、「あの世の匂い」としか表現のしようもないものがあるんでございますよ。あの穢らしく、厭らしくおぞましい濁った匂いを他にどう言ったものか、学の無い私はとんと分かりかねます。
その濃厚な屍臭を間近に嗅ぎながら、牢内に折り重なった屍骸の中で私は笊を被って打ち震えておりました。…夜明けまでのあの長いこと、静かなこと!
あの時、私は初めて本気で天に祈りました。
もし生きて出られたら、自分の儲けのみを考えて商売するようなことは致しません。広く天下国家のために事業を興し人様のために一身を尽くして働きます、そう誓いを立てたのです。
命運未だ尽きず、さりながら出獄したのちには、もはや富にも名声にも興味を失っておりました。
──おそらくあの地獄絵図を目の当たりにしたが故でしょう。
そう、己の欲を捨てた頃から不思議と易占が鮮明に見えるようになったのでございます。
商売はとんとん拍子に進み、あっという間に当代富豪の一人に数えられるようになったのです。
はて、話が逸れてしまったようでございますが、閣下のことでございます。
御一新の後に横浜に建設した旅館も政府の方々に贔屓にしていただき、今は亡き大久保公や木戸公にもお会いしました。
思えば誠に、若い時代でありました。
顕官の、時代を牽引していかんとする人々も若かったが、何より時代そのものが若く活気が溢れ、創造と進取の気質に満ちていた。
あの頃、閣下はまだ二十代の若さであったかと思います。
一目見た瞬間に、この方だと思ったのでございます。確かに時代はまだ若く、政府もいまだ体制が整っておらなんだ次第でした。だがいずれ遠くない未来には革命家も豪傑もいらなくなりましょう、その時必要とされるのは維持する者や最悪の事態を避けることができる者、要は政治家でございます。
閣下は紛うことなき政治家でした。
本人がどう思っていたかは存じません、ただ情より理を重んじ、私事に執着したことはなかったように思います。必要があれば情を切り捨てることも頓着しておりませんでした。
しかし一方で閣下は、開けっぴろげで明快、特に金銭に関した気概は大したもので、金は使うべきものと言って、入るそばからすぐ使っていました。
何に使ったかって、申し上げるまでもありますまい、酒と煙草と物言う花でございます。
蓄財やそのほかの趣味や贅沢には興味がないようでもありました。閣下が遺したのは、少しばかりの刀剣と大磯のこじんまりとした家だけだと聞いております。
それはあたかも閣下が尊敬した大久保公を思わせて───あの方は国家に私財を投じておったんですが───私は泣けてきてしまったのでございます。
この際正直に申しましょう。
私は閣下が亡くなることを知っておりました。
易断にそう出ていたのです。
銃撃さる、という新聞の見出しが踊るのを確かに占っていたのです。閣下が日本を出発する前夜のこと、私はそれを見たのです。
その時突然、突然です。久しく忘れていた「あの世の匂い」が鼻先を掠め、私は慄然としました。
あの方をお止めせねばならぬ、牢獄での地獄絵図を思い出した私は、胸を掻き毟られるような心持でおりました。
大久保公のときには感じなかったものを何故と思う一方で、あるいは私にとって大きな存在であったからかもしれません。私の娘にとっては義父に当たる方、私が見込んで嫁にやった家でございましたから。
止めなければならぬというものの、ただ行くなと言って出発を取り止めるような方ではありません。私は夜も眠れんばかりに考え込みました。
私の易断を神に近いと評した方です、やはり直接話すよりほか方法はないように思えました。
しかし、もはや猶予がありません。閣下は国家の要人、会いたいと言ってすぐに時間が作れるわけもなく、私は途方に暮れました。
するとどんな采配でか、閣下は出発間際に高島台の屋敷にやってきました。しばらく留守にするよ、といつものように笑いながら言うものだから、私は気が抜けたやら安堵したやら。
「閣下、行ってはなりません」
行けばしにます、私はそう申し上げました。
閣下は一瞬呆気にとられた顔をしました。
「易断か」
「はい。…今回はお止めになったほうがよろしいかと」
そうか、と閣下は自若として頷きました。
最初は茫然としているのかと思いましたが、やがて閣下が背持たれに体を深く沈めるに当たって不安になってきました。
「信じておられないのですか」
閣下は笑い、
「いやいや、あなたが間違えたことは私の知る限り一片もなかった」
「では、出発を…」
「取り止めることはしない」
明言した閣下の顔を、私はうち守りました。
閣下は思案げな様子で天井を仰ぎ、ひとつ息を吐いて私を正面から見つめました。そうして、行かなければならない理由とやらを幾つかあげました。
「……命あっての物種でしょうに」
私が未練がましく呟くと、閣下は仄かに笑いました。
その瞬間、この方をどうあっても止めねばならない、と卒然と奮い立つ気持ちが興りました。それは半ば使命感にも似て、まったく赤心の思いでありました。
今この時、見も知らぬ異国の地でこの方を無くして、この国はどうなりましょうや。
「出発を取り止めにしてくださいませ、閣下。何も閣下が今どうしても行かねばならぬではございますまい…。
それが駄目なら延期で良いのです。今は別の方を代理に立てられたらよろしいではありませんか……」
言い募る私に、閣下はぽつりと呼び掛けました。
「…高島」
「はい」
応じると、閣下は片頬に不思議な笑みを浮かべました。
「私は、政治家なんだよ」
私は続く言葉を見失い、唇を噛みました。
ああ、存じあげています、あなたは閥族の中にありていつも超然としておりました。他人の造り上げた枠を利用しながら、しかしそれに捕われぬ骨の髄までの政治家でございました。
閣下は酒々磊落と笑い、マッチを擦って煙草に火をつけました。
「何度も死ぬような目に遭ってきた。なんぞ、今さら命を惜しまんや…」
大きく煙草を吸い込んで、閣下は頷きました。
「おかげで決心がついた、私は行くよ」
「閣下…」
今出発を取りやめれば無責任と非難されましょう。しかしどれだけ罵られようと閣下ほどの方でございます、生きてさえいればいくらでも浮かぶ瀬がありましょう。私はそう考えておりました。
けれど申し上げることができなかった。先に閣下がにやりと笑ってこう言ったからでございます。
「…天が勝つか私が勝つか、こんな博打は幕末以来だ」
「──……あきれた方にございます」
閣下らしいといえばこれほど閣下らしいこともございますまい。
しかし、心底から私は呆れておりました。呆れを越えて腹を立てていたと言ってもいい。
私はそこで椅子を蹴り、窓を見遣って閣下に背を向けました。私にこの方の説得はできまい、とそう思ったのでございます。
「よく分かりました。ええ、それではどこへなりとも行けばよろしいでしょう」
外でははや木枯らしが吹いておる季節でした。
その窓硝子に写った室内を、私は眺めておりました。
「……あなたを止めない代わりに、私はあなたを悼みません」
振り返ればあまりの物言いでございます。しかし私はどんなにしようとあの方を止めたかった。
閣下は髭の中から、薄くたなびく紫煙をくゆらしておりました。そして私を見つめ、そうか、と言いました。
「それは残念だ」
閣下はひとりごちて灰皿に煙草を押し付け、椅子を立ちました。
「──…僕はあなたのことを友人だと思っていたのに」
そう呟いて一顧だにせず、閣下は足早に部屋を出ていきました。
私は硝子に映ったドアが再び開くことがないのを、静止したまま感じておりました。
やがて窓の外で馬車に乗り込む閣下が見えました。秋の風が落葉を浚い上げて、洋装をした閣下の肩に舞い散らしました。二階の部屋の中では閣下の残した煙草の香りが漂って、ゆるやかにほどけていきました。
それが、私がお会いした閣下の最後になったのです。
このように屋敷を締め切って、どんな高官が訪ねてこようと門を閉じたままでいる理由が、これで分かりましたでしょうか。
友の死を予見しながら止めることができなかった、そんな私にどうして天下国家を占うことができるでしょうか。
閣下ならば愚かなことを気にする、とおっしゃいましょう。
けれども、己の易占の途に踏み惑った以上、私は天下を占う資格を失ったんでございますよ。