静かなる嘘と調和 工部省の門をくぐった山尾は、入れ替わるように出てきた井上勝――野村弥吉を認めた。
うつ向いていた弥吉は何の拍子かふと視線を上げ、山尾を見遣る。彼の眉が微かにひそめられるのが分かった。
互いに軽く目礼だけをして通りすぎる。
――幕末には同じ長州の密留学生だったものを。
そう思わずにおれないのはおれが甘いからなんだろうか、考えて山尾は苦笑した。
工部少輔・伊藤は山尾に会うなり、相変わらずだと笑った。
「何が」
「弥吉が」
さらりと言って書類を受け取り、伊藤は背後の窓を肩越しに指差す。
「……見てたのか」
「見えたんでね」
にっと破顔し、伊藤はソファーに座りこんだ。山尾も渋々その向かいに腰を下ろす。
時々、伊藤はおそろしく人が悪いと山尾は思う。
「面白いくらい嫌われてるな」
「…………」
余程苦虫を噛み潰したような表情をしていたのか、伊藤は肩をすくめてみせた。
「そういう顔止めてくれる?木戸さんがいるみたいだ」
ここにおいて山尾は長く息を吐く。
――何だってこう、おれの周りには厄介な人種が多いんだ。
山尾も伊藤も、また弥吉も、幕府の禁制を破ってイギリスに渡った長州藩の五人の留学生である。海外渡航を企てたなどと知れたらば死罪となる時代だ。そんな時分に、藩は五人に資金を与えイギリスへと送り出した。
思えば、重臣を含めて随分と大胆なことをする藩だったと今更ながらに感じる。
五人の密留学生のうち残り二名は井上馨、遠藤謹助であり、共に政府に出仕する身だ。
それがどうしてか、弥吉と山尾はこの数年疎遠であった。むしろ、弥吉が山尾を避けているのである。
「……嫌われる心当たりはないのだがな…」
山尾がぽつりと漏らすと、伊藤は含み笑う。
「ただ、ただ、気に食わないっていう人がいるんだよ」
「おれと弥吉がそれだと?」
「僕と山縣もね」
山尾は眉根を寄せた。付け加えるように伊藤は言う。
「前に、なんでそんなに僕を嫌うのか本人に聞いてみたんだよ」
――直接聞いたのか。
思ったが、あえて口には出さないことにした。
「虫が好かんのだ、ってさ」
失礼だよね、と伊藤は笑う。
笑えるようなことかと山尾は思いつつ、山縣の言うことも分からないでもなかった。
伊藤と山縣は例えていうならフイルムのポジとネガだ。
伊藤が陽なら山縣は陰、文官と武官の違いはあれどほぼ同じ身分からの栄達となる。年齢は伊藤のほうが三歳下で、位の昇級は伊藤のほうが数年早い。
ネガがポジを嫌うということなのだろうが、弥吉と自分の場合は違うだろう。
山尾は自分が決して派手ではないことを知っている。ポジはむしろ弥吉のほうではないのかとすら感じる。
「…お前は、煽っているだろう」
溜め息混じりに山尾はそう返した。面と向かってその質問をぶつけられた山縣は、挑発としか取れなかっただろう。
最近になって、目に見えて伊藤と山縣は険悪になっていた。少なくとも長州出身者には悟られる程度に仲が悪い。
「…煽っちゃいないが、向こうも隠さなくなってきたからね」
言ってのけて伊藤は両手を上げた。
「まあ、弥吉の件は気を付けておくよ。僕も同じ省内で対立が起きると困るし」
山尾と弥吉は共に工部権大丞、伊藤の直属の部下である。
工部卿は不在であり、その次官にあたるのは工部大輔の後藤象二郎だが、実質は工部省設立に関わった伊藤が省内を取り仕切る形に近い。
「…まさか、わざわざ対立するようなこともないだろう」
国家の大事に関わる者が、個人的な好悪の感情で動いてどうすると山尾は思う。確かに維新回天には個人的な情や繋がりが大きくものをいったことも多い。
しかし、今は国を興さねばならぬときだ。
「そりゃそうだろう。あいつだって分かってるさ」
言うと、伊藤は嘆息する。
「ただ、坊主憎けりゃ袈裟までってね」
「……ひとのことを言えるのか?」
山尾は微苦笑を浮かべて伊藤を眺めた。―――面倒さでいえばおそらく、山縣のほうが上だろう。
伊藤は山尾と顔を見合わせる。
「お互い苦労する」
「そのようだ」
しみじみと頷くと、互いに笑みを禁じえなかった。