sign ひとつ、ふたつ、と窓ガラスが叩かれる音がして、セツは目を覚ました。
枕に顔を埋めたまま、薄明の中で何度か瞬きする。頭の中の霧が徐々に晴れていく感じがした。
窓を叩く音は、セツの足のほうでずっと続いていた。
――なんだか、前もこんなことがあったな。
そう考えたところでセツは飛び起きた。
「ルカ……?」
呟いた声は知らずかすれた。毛布を跳ね除けてベッドから下りる。裸足のままで窓に駆け寄った。
ガラスに両手をつけて空を仰ぎ、気付く。
窓の外では、ようやく一人前になったばかりのような幼い木が枝を伸ばしている。その枝が風に揺れてガラスを叩いていたのだった。
――これが原因か……。
セツは手のひら全体で窓枠を握りしめ、白い息を吐いた。うつむいた拍子に裸足の爪先が目に入る。足の裏がじくじくと冷たい。
急激に動悸が納まっていくのを感じる。まるで、ひんやりした手でいきなり心臓を撫でられたみたいだ、と思う。
再び小さく息をついて、セツはガラス一枚向こうを見上げた。
一面に星屑を散らしたようにうるんだ夜空が、窓の形そのままに切り取られている。
ああ、そうだ、とセツは白く曇ったガラスの表面を四本の指で撫でた。
――あの時も、こんな空だった。
セツは寝巻きの前をかきあわせ、静かに窓を開いた。隙間から風が吹き込む。
外に顔を突き出せば、満天の星空が目の前に望めた。
ルカがニオルズを旅立つ前、カズナがやってくるよりも少し前だった。
ルカが真夜中にセツを訪ねてきたことがあった。
そっと窓を叩いてセツを起こしたルカは、窓の外に立ち、
「ただ、セツの顔が見たかったんだよ」
そう言って、何でもないよ、と笑った。
ルカの顔は星明かりのせいか、青ざめてみえた。
「本当に? ルカ」
「本当に」
ルカは、起こしてごめん、とだけ口にして背を向けようとした。
ルカ、と呼びとめたセツは窓の桟に左手をかけて、部屋の中から腕を延ばす。指先がルカの頬に触れた。
「ルカ、つめたい」
ずっとここにいたの、と問うセツの言葉にルカは答えずただ微笑った。
「ほんとうに、セツの顔が見たくなっただけなんだ」
セツはルカをじっと見つめ、
「……ルカ、また何か隠してる」
と言った。
「そんなことないよ。セツ、寒いし夜も遅いから、もう…」
嘘だ、と思った。ルカはいつも、自分を不安にさせないために慎重に言葉を選んで行動することを知っている。
いつだってそっと微笑んだまま―――本当に大切なことは、私に話してくれないままで。
「―……ルカ、そんなに、私は頼りにならないのか?」
ルカの体温がうつって冷たくなった指先から、息を呑んだ気配が伝わる。
「違うよ、セツ」
じゃあどうして何も言ってくれない、と思うセツの右手をルカの左手が包んだ。暖かい。
「違うんだ、セツ」
ちがうんだよ、と繰り返してルカはセツの顔を見上げた。迷うような影があざやかな緑の目の中を通り過ぎて、困ったように少しだけ笑う。
ルカの手がセツの指先を握りしめた。
「笑わないって約束する?」
「する」
「本当に?」
「するよ」
当たり前だ、と、返すセツを見つめたままルカは微笑んだ。
――ああ、ルカは、時々そういう表情をした―――ひどく優しくて、小さな宇宙にも似た、この深い色をした瞳が、まるで慈しむようにこっちを見ている。
そういうルカの表情にぶつかるといつも、切ないような、愛おしいような、いたたまれないような、そういう感情が全部ないまぜになった気分になって、言葉を失ってしまった。胸が苦しくて、なにを口にしたらいいのかすら分からなくなるほど―――悲しかった。
遠いのだ、ルカとは。いつも、いつまでたっても。
セツはぎゅっと口角を引き上げた。ルカの手を握り返す。
「ルカ、寒いから入って」
ルカを部屋の中に招きいれて、窓を閉じた。暗い部屋の中に、星明りがさえざえと響く。
冷たいルカの手を引いて、二人並んでベッドの上に座った。隣あうとなおさらルカの体温が低くて、セツは自分の毛布を取り上げる。頭からルカにかぶせた。
「わ、セツ!」
「……一体、どれくらい外にいたんだ?」
聞き入れないで、毛布の隙間からルカの目を見つめる。ルカはそれを受け止めて、微笑う。
「ごめん。……平気だよ」
うなずくこともできずに、セツはルカの手を握りしめた。
――ルカ。ねえ、ルカ。……本当に?
ルカはふと、セツから視線をはずす。その目は星明りの落ちる床の一点にあった。
「……夢を見たんだ」
「夢?」
セツはルカの横顔を凝視した。そのわずかな変化でさえも見逃すことのないように。
「村が、燃える夢」
ルカはぽつりとこぼすように言った。
「村が……? ニオルズか?」
「そうだよ」
言って、ルカは顔を上げてセツを見返す。微笑っていた。
「だから、笑うなよって言ったんだ」
おかしいだろうとルカは言ったけれども、セツは笑えなかった。
身寄りもなく天涯孤独なのはルカもセツも一緒だったけれど、ルカはセツよりもずっと一人だった。誰にも頼らない、頼れない―――それがどうしてなのか、あの頃には分からなかったけれど。
――ああ、ルカ。……どうしたらいい?
どうすれば、あなたは幸せになってくれる?
そんなことを考え出すと、どうしても、いたたまれない気持ちになる―――たえきれなくなって、セツは手を延ばした。毛布ごとルカを抱き締める。
「……セツ?」
ルカの驚いたような声が聞こえた。くぐもったその声に、セツはルカの首の後ろで指先をにぎった。
「笑わないよ」
笑ったりなんかしないよ、と繰り返して、セツはルカの肩に顔を埋めた。自分の吐いた息の熱さに、また胸が痛くなる。
ああ、ルカ、どうしたらいいのかなんか、分からないよ。こんなに誰かを大切におもうなんてこと、きっとこれからもない。この感情を愛しいと呼ばないで、ほかになんと呼べる?
「セツ、どうしたの…?」
とまどったような、苦笑まじりの子供をあやすような声が少し後ろのほうから聞こえて、セツは腕の力を緩めた。
母さんが死んだよ、とただそれだけを言って、ルカは泣かなかった。
セツさえいればそれでいいと―――そう笑ったあなたの思いを、あの頃は知らず。
ルカはなにを考えたのか、セツの背をぽんぽん、と優しく叩いた。
「ごめん、驚かせた――」
あ、やっぱりこども扱い。
「ほんとに、ただの夢なんだ。だけどすごく怖かったから、セツの顔が見たくなっただけなんだよ」
「……それだけで、こんなに冷たくなるまで外にいたのか?」
セツは身をはなして、ルカの顔をのぞきこんだ。ルカは微笑う。
「セツは、どうする?この村が燃えたら」
一瞬ぎょっとして、セツは眉をひそめた。見返すルカの目は真剣だった。
「燃えたら、か。うん、きっと、」
浮かんだそのままをセツは口にする
「まず、村のみんなを助けなきゃな。ええっと、まず大人に、いや、まっすぐ村長に知らせたほうがいいのか、この場合」
「……大声でたくさんの人に知らせるのが最初だね。火事があったらまず叫べっていうから」
頭を抱えたセツに助け舟を出して、ルカはセツにそっと笑いかけた。
―――そうだね……。そうしよう、二人で。
あの時の一言が、いつまでも耳にこびりついて離れない。
ルカはあの夜、どんな気持ちで窓の外に立っていたのだろう。体がひえて冷たくなってしまうまで、冬の星空の下で何を思っていたのだろう。
あれはきっと、もうすでにナギと出会った後だったに違いない。だからこそ彼は――あんなにも、怯えたのだ。
「さむ……」
セツはひとりごちて、窓枠を握りしめた。
今頃はルカもこの星を眺めているだろうか、それともベッドの中でゆっくりと眠っているだろうか。
ひとり、ただひとり、はるかに空を仰いでなければいい…。一人じゃなければ、それでいい。
考えながら、セツは少し笑った。
――彼の傍にはきっとあの人がいてくれる。
もしかしたら誰より彼を理解し、彼を思い、その忠信ゆえに身動きもできなくなってしまったあの人が。
――そうしていつか私達のところに会いにきてくれたら、と思うのは贅沢な望みだろうか。
セツは息をついて、音を立てないように気をつけながら窓を閉じた。その瞬間、唐突に静寂を意識する。
床に落ちた影を目の端にとらえながら、ガラス越しに空を見た。
――ルカ、私は一人じゃないよ。一人で泣いたりなんかしていないよ。
同じようにあなたの帰りを待つ人がいる。あなたが、出会わせてくれた、同じ記憶を持つ人が。
考えながら、セツはぎゅっと口の端を上げた。それだけ長いこと立っていたような気もしなかったが、吐いた息もすでに色がつかなくなっている。ルカならきっと呆れた顔をする、そう思ってつい笑みがこぼれた。
私はもう大丈夫だよ、ルカ。
――あの日々はすでに遠くなってしまったけれど。
小さな合図も、もう決して見逃さない。二人でなら、ともに越えていくことができると―――そう信じている。