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GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

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    しおり
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    しおり
    ある夜の夢 街道をはずれ、鬱蒼とした森の中を歩く男がいる。夜の森を照らすのはおぼろな月明かりだけ、獣道をゆくにはいかにも頼りない。事実、男は時折木の根につまずいてはその幹につかまり、かろうじて我が身を支えていた。
     枯れ枝を踏みしだく音は規則的に続いていたが、男の足は重い。まつわりつくような湿気が一層手足を縛る。血と泥に塗れた服が、長い外套の内で固まっている。
     かそけくような虫の声を、男の吐息が掻き消した。濃厚な草いきれが肺に満ちる。深緑の葉を充分に茂らせた枝が男の視界を埋めた。
     男はようよう左手を挙げ、眼前の枝を払う。枝はきしむような音を立て、弾みをつけて男の外套を奪った。外套の下から現れたのは燃えるような赤い髪、面差しはやつれて疲労の色が濃く、唇はひび割れ血が滲んでいる。土気色の顔の中で瞳ばかりが炯々と輝いていた。
     男は荒い息の下で舌打ちをすると、再び左手で枝に触れる。
     男にはとうに右手がない。壊死したものを自ら斬り落としたのだ。男は何の感慨もなく己の右半身を見下ろす。
     もはや守るべきものはなく、利き腕を失ったことも男にとって重きをなさない。それでも男が歩き続けなければならないのは、ある封書の為だった。
    ――主の手紙。
     男はそれを届ける為に、主の故郷に向かわなければならないのだった。


     柔らな小雨の降り続く朝だった。
     人もまばらな田舎町の小さな通りを、男は緩慢な足取りで歩いている。
     店の軒先は暗く、町全体が未だ夢から覚めやらぬ様だった。男は手元の古書を気にしながらも、口元には微かに笑みが浮かんでいる。曇り空を仰ぐと、少しばかり長めの黒髪が肩に触れた。
    ――雨は嫌いではない。
     照る日は旅をする男には眩しすぎ、風に巻き上がる砂埃には辟易する。
     その点、雨は穏やかだ。特にこのように静かに濡れそぼつ朝は、五感が冴える一方で心が凪ぐ。大地から自ずと湧き上がる香りも、全ての音を吸収する雨の静寂も好きだった。空から落ちてくる雨粒を見ていると、逆に自分が浮かんでいくような心地がする。
     ふと、男は身を強張らせた。
     背筋から嫌な気配が這いのぼる。古書を注意深く懐にしまいこみ、周辺にすばやく視線を走らせた。早朝の街中に人影はないように見える。
     ゆるゆると腰に下げた剣に手を掛けた。
    ――囲まれた、か。
     男はそうひとりごちて、口の端を上げた。
    ――バジもしつこいな。
     その時、路地裏や色鮮やかな看板の陰から次々と何者かが現れた。
     皆、既に剣を抜いている。まだ表情にあどけなさの残る者、壮年を過ぎようとしている者、それぞれであったが手練であることは佇まいで知れた。
    ――今度ばかりは駄目かもしれないな。
     さしたる確証もなくそんなことを思い、男は鞘を払う。
     正面の髭面の男が口を開いた。
    「バジ家次頭、ナギか」
     男は皮肉気に笑う。
    「昔は、ね」
     その言葉を合図に、彼らは一斉に飛びかかった。
     ナギは左右の剣を突っ切ってかわす。正面の男の剣を受け止めた。それと同時に押し流し、脇に逃れて走る。
     バジの刺客とまともに戦って勝てるとは思えない。
     追え、と叫ぶ声が聞こえた。足元で水溜りがはねる。逃げるには無用の剣を鞘に収めた。適当な角を曲がり、路地へと駆ける。背後の足音が続く。
     暗い路地に湿ったような空気、饐えた臭いが鼻を突いた。どこからか水滴が額に落ちて流れ、ナギは左目を瞑る。
    ――まだ死にたくはないな。
     そう考えて自嘲めいた笑みを漏らした。より一層足を速める。
     積極的に生きたいという理由は存在しない。怯懦であろうと構わなかった。どこに向かうか分からぬままに曲がり、ひたすらに走る。背中に汗がにじんだ。
     不意に目の前が明るくなる。唐突に現れた光の洪水に、ナギは目を細めた。
     小雨の日特有の白い光の溢れた世界の中、人々の喧騒に瞠目する。一際通る声は客を呼ばう。薄汚れた天幕の内に色もけざやかな果物が人の群れから垣間見えた。
    ――市場か。
     ナギはそう得心すると雑踏に紛れる。
     人々の目は店先に集まっている。この騒然とした中では刺客らもナギを見つけられまい。もし可能であったとしても、この場所で剣を振りかざすことはできないはずだ。
     悟られぬようわずかに目線を遣ると、やはり彼らは市場の前に惑っている様子だった。
     ナギは小さく息をつく。人の流れに身を任せた。
     バジで現在権力を握る連中は、ナギが目を掛け、あるいは後ろ暗い策略の為に手を組んだこともある者たちだ。バジを捨てたナギなどもはや邪魔でしかない。
     その思考は手に取るように分かる。バジを最も嫌い、厭うていたからこそナギは最もバジらしい人間であることができたのだ。
    ――だが、もうどうでもいい。
     とうにナギはバジを捨てた。ルカリアに負けたのなら、バジである必要はどこにもない。
     ナギは視線を上げた。
     田舎町といえども市場は活気に満ち、人々の顔は生気に溢れている。赤ら顔の店主は汗を滴らせながら音高く掌を打ち、痩身の嗄れ声の男と気難しげな初老の男が競っていた。
     ナギのことを気にかける者はない。
     何者でもないということは幸せなことだとナギは思う。だからこそ、気まぐれに旅の目的地をニオルズにしたのかもしれない。


     燃えるように赤い髪をした男は抜き身の剣を左手に、獣道を歩み続けていた。
     枯葉が足の裏で短い悲鳴を上げて砕ける。
     男は大儀そうに左腕を挙げては、視界を遮る枝葉を薙いだ。木々が揺れ、大振りの枝が男の顔をかすめて落ちる。頬に新たな掻き傷が生まれ、血が滲んだ。
     鳥が甲高く鳴きながら羽音と共に遠ざかっていく。つんざくようなその声に、男は表情を歪めた。
     呼吸を整えることもせず、知らず前のめりになる身体の下から幾重にも重なった木々を見据える。全身が鉛のように重く、一歩ごとに右肩から激痛が走った。もはや意識すらも朦朧として昼夜の区別も曖昧、深緑は男にのしかかるように空を覆う。
     それでも男は歩き続けなければならない。手紙を預かった瞬間に、それ以外の選択肢は消滅している。
    ――ルカリア様。
     男は音に出さず主の名を呟いた。
     彼は国王の妾腹にして最後の王族、玉座の簒奪を狙うバジ家に対して唯一の王位継承権を有していた。
    ――虚しい抵抗でしかなかったか。
     時代の趨勢は人為の及ばない所にある。王族はとうに恨みを買いすぎ、嫡流は絶えて久しかった。ひとり主と仰ぐべき人物は病魔にとりつかれていた。
     王朝の終焉は近づきつつあった。時代は王族を見放したのだ。男もそれを悟らぬほど愚かではなかった。だからこそ、男は滅び行く王族を守りたかった。
    ――せめて、拾ってもらった私くらいは、……と。
     血縁もなく、己の腕ばかりを頼って生きてきた寄る辺のない身、一介の傭兵に過ぎない男に並々ならぬ情をかけ、王族の将来までも託してくれた。先代国王には報いきれない恩がある。
     それだけに、時勢を操り王族の命を次々と奪ったバジ家が憎かった。
    ――そのバジにみすみす椅子を明け渡すことだけはできなかった。
     先代国王の望みがあり、恩があった。
     しかし、忠誠の名を借りたバジ家への憎悪が、あの頃、同じ村へと男を駆り立てたのだ。
    ――……憎悪だけだったのかも、しれない。
     男は自らの行いを省みて、思う。さもなければ、どうして『ルカリア』の身代わりなぞ許せたろう。
     もっと生きられる『ルカリア』が王都に行くべきではないのか、そう主は言った。
     彼の命はもはや長くはなかった。
     全てをあげるから、この名を背負ってはくれないだろうか――その声はいつしか震えていた。主の勁いもののたわめられた瞳がにじむ。
     男は一言も発することができなかった。
     ただ、馬鹿な、としか思えなかった。何と愚かな、子供の発想だと感じた。
     その時ようやく、彼が大切な幼馴染を村に残し、橋の下の友人を供に選んだ理由を悟る。大人びているとはいえ、主は未だ一国を背負うにいとけない年齢だ。
     その幼さで、死と対峙しなければならないのは、どれ程に酷なことだろう。身代わりさえも考えざるを得なかった彼のその心が哀れだった。
    ――あの時はたぶんまだ迷っておられた……。
     主は以後も何事もなかったように旅を続けた。
     男もまた、主が決断することを、あるいは自分が決断を迫ってしまうことを恐れて尋ねはしなかった。
    ――ルカリアの望むように。
     先代国王の言葉に甘え、怠惰に逃げていたのだと思う。男は微笑した。
    ――私は卑怯だ……。
     あの旅の日々、彼と向き合うべきは男だった。一言も漏らさず耳を傾け、真摯に応えるべきだった。それが出来たのは、おそらく男だけだったはずだ。
     彼は、生まれた時から一人だったのかもしれない。誰かに頼り、甘えることを知らぬままに育ってしまったのだ。無条件に彼を愛し、抱き締める腕があったなら違う未来があっただろう。彼が万人に優しく柔和だったのは、誰にも期待をしないからだ。誰かに甘えて、寄りかかることを知らない。
     彼は幼馴染の少女にも、友人にも病を明かさなかった。
     ただ、彼は子供だった。彼にとって病は一人では抱えきれぬ重荷だったろう。
     男がそのことに気付いた時、全ては遅すぎた。
     主の背から胸を貫いた切っ先を目にして男はそれを悔やんだ。―――否、己の怠惰が招いた結果だった。その報いはあまりに大きい。
     為すべきことをしなかった男にとって、主の叫びに従うのが、精一杯の償いだった。
     言葉もなく、男は主に背を向けた。彼の元に駆け寄ろうと腕の中でもがく少年をなかば引きずるように走った。頭の中では熱く溶岩がたぎっていた。溢れた溶岩が視界を染める。薄暗い森に、ちらちらと炎が揺れている。あの日の青空の残滓が辺々に漂う。
    ――守れなかった。……守れなかった。
     その事実から目を背けるように、男は振り返ることなく逃げた。
     主は見透かしていたのかもしれない、そう思う。
    ――いつか、我々のもとへ帰ってこられた時のためにも。
     きっと生きている、そう信じて揺るがない少年に男は言い放った。帰ってくる可能性は幾ばくもないと分かっていた。
     あの方の望むことだからと繰り言のように自分に囁きながら、詭弁ばかりを弄していた。
     いつからだろう。王室を守ることは、バジ家に椅子を渡さないことに成り果てていた。男は苦く笑った。微笑の下に何を隠してきたかなど、自分では直視してはならない。
     男はふと面を上げた。
     湿った風に、麦の匂いが混じる。暗い森の終わりが見えた気がした。丘を越えれば、ニオルズが近い筈だ。遠い日の記憶をたぐって思う。
     もはや遠い過去になってしまったあの日、男の主となるべき少年は麦の束を両手に抱え、畦道を運んでいた。
     バジ家に気取られぬよう捜索する必要があったため、彼が故郷に留まっているかどうかも定かではないまま男はニオルズに来ていた。
     聞いていた通りのつややかな黒い髪、強い光を宿した印象的な瞳―――彼を目にした瞬間の、込み上げるような愛しさを忘れない。
     彼の存在そのものが、男にとっては希望だった。
     あの日、世界は美しかった。大きな橋の架かる小さな村は貧しかったが、村人の情は厚く、のどかで時間がゆるやかに流れる村だった。
     目を閉じれば、記憶はあまりに鮮明だった。男の生涯のうちで、最も美しい思い出だ。手を伸ばせば届くのではないかと思うのに、こうも今は遠い。
     男は、左手の剣を苦労して鞘に収める。震える手で懐に触れた。かさり、と微かに紙の音がする。
     男の最後の使命は、この手紙をニオルズの村長に届けることだ。

     崩れ落ちる王城からどのように脱出したのだろう。気付けば、傷を負った主を抱えてバーゼン近郊の深林をさまよっていた。既に右手は感覚を失っていたから、深手なのは分かっていた。
    ――カズナ、さん。
     ルカリアはとうに意識を手放していると思われた。そのルカリアに名を呼ばれ、カズナは足を止めた。存外に明瞭な声であったことに安堵する。
     ルカリアの怪我は酷く、それ以上に憔悴の色が濃かった。ルカリアはその勁い深緑の目でカズナを見返した。
    ――……降ろしてください。
     カズナは肯き、草地の上にルカリアの身を横たえる。
    ――水を。
     探してきます、そう言おうとするとルカリアはわずかに首を横に振った。彼の口元には微笑があった。
    ――……いいんです。
     カズナは瞠目した。良いはずはない。
     二、三年と言ったものを五年持った。城からもどうにか脱出できた。ならば、未だ彼の命運は尽きていない。怪我の手当てと療養によって、彼は快癒しうるのではないか。少なくともあの瞬間、カズナはそう信じた。
     反駁しかけたカズナを、ルカリアは遮った。
    ――そういうことではないんです。
     ルカリアはかつてと同じように微笑う。
    ――……手紙を、届けてほしいんです。

     今も思うことがある。
     どこから間違っていたのだろう。何を間違えていたのだろう。
     願ったのは、正しさではなかった。
     では、私は何を望んでいたのだろう。
     カズナは笑う。もはや、詮無いことだと分かっている。
     深緑の森が開けていく。昼の終わり、木の葉が黄昏の光にきらめいた。
     大気が暖かみを帯び、乾燥した風が頬をなぜる。天蓋はなかばまで藍色に沈み、丘の向こうには微かに夕陽の輝きが残っていた。山端は朱に彩られ、たなびく雲は夜を映して空に溶ける。
     カズナは丘の上からニオルズを見下ろした。
     小さな村は既に夜の淵に沈みつつある。薄闇の漂う村に少しずつ明かりが灯されていった。村のはずれ、山端の輪郭が水面にきらめく川を、大きな橋が跨いでいるのが目に留まる。
     五年前と変わることのない風景だった。
     王朝の変遷など、市井の人々の生活にはほとんど関係がない。王都で誰が生きようが死のうが、人々はいつもと同じ暮らしを営んでいく。彼らにとってそんなことはどうでもいい、自らの幸せや自分の子の幸せ、あるいは隣人の幸せこそが大切なのだ。
     当たり前のことだ。カズナはそんな当然のことに立ち尽くす。
     ルカリアが帰ることを望んだ場所に、カズナは今いるのかもしれなかった。ふと、あの少女のことを思う。
     彼女はこの村に帰っているのだろうか、そう考えた。カズナが椅子取りに巻き込んでしまったあの少年も一緒なのだろうか。―――どちらかと言えば、会いたくなかった。
    ――手紙を渡せば旅は終わる。
     その後のことをカズナは考えていなかった。手紙がどんな内容のものであるかに関わりなく、カズナは命令に従わなければならない。
    ――例え、中身が白紙であろうとも。
     思い、カズナは丘を下り始めた。軽く眩暈がする。もう心身ともに限界に近い。
    ――あの方は、無事だろうか。
     カズナは、ルカリアを医者の元に預けてきた。彼を置いていくことを躊躇うカズナに、ルカリア自身がそう主張したのだ。医者は退役した軍医であり、カズナが最も信頼に値すると考える者の一人だった。
     夕陽はもう見えなくなろうとしている。もはや西の山端が微かに明るいばかりだ。
     勾配の緩い斜面にカズナの影が長く伸びている。目が霞み、大地が揺れて見えた。カズナは頭に立ち込める霧を懸命に振り払う。村に着いたなら、手近なところで村長宅を聞かねばなるまい。この時間なら、料理屋か酒場辺りだろうか。
    ――旅が、終わる。
     最後のお願いです、とルカリアは手紙を渡して言った。あれは、暗に帰ってくるなと言ったのだろう。
     あの瞬間のルカリアを思い出すとき、カズナは知らず、王座はやはり重かったのだろうかと考える。だとしたら、自分は彼を玉座に縛るだけの存在であったのかもしれない。
    ――大切なものを置いてきた。
     そうルカリアは言ったという。彼は本当は常に、セツの元へ帰ることを望んでいたに違いない。
     足首が痛み、全身が軋んだ。村の埃っぽい町並みが見える。
     夕餉の香りが一帯に漂った。町並みもまた、五年前と変わっていない。農道を均したしたような通りに、大きくはない商店が連なっている。陳列されているものも、表に出された看板も張り紙に至るまで同じような気さえする。
     町並みのはずれ程、大きな酒場があるものだ。微かに果実酒が匂う。
     通りの左側の手前、こうこうと灯った松明が軒先に下がり古ぼけた木の扉を照らし出した。
     カズナはその扉に左手を掛けて押す。途端に溢れ出した喧騒にカズナは瞠目した。
     濃厚な酒と料理の香りが充満している。店内の明るさに目を眇めた。汗臭い人いきれに一瞬圧倒されて呆然とする。
     この時期は麦の刈り入れの頃だったと思い当たると、カズナはようやく少し息をついた。農閑期の直前、最も忙しい時期なのだろう。故に酒場は繁盛する。
     カズナは人を掻き分けるようにしてカウンターに近寄る。
     カウンターの内、黙然とタオルを片手にグラスを磨く男がいた。
     短く刈り込んだ頭に白いものが混じる、目付きの剣呑な男だ。口元に刻まれた皺の深さが一筋縄ではいかない人柄を物語っていた。時折店員が男に話しかけては指示を仰ぎ、彼は言葉少なに応じてやっている。彼が店主なのだろう。
     ふと、その男がカズナを気に留める。見慣れぬみすぼらしい風体のカズナを胡乱気に眺めた。
     カズナはカウンターの人の間隙に自らの身体を押し入れる。
    「……お聞きしたいことがあるのですが」
     カズナは随分と久しぶりに口をきいたような心地がした。
     微かに声が掠れている。
    「こちらの村長のお宅は、どちらでしょうか」
     カズナに応じたのは、店主ではなかった。
    「あんたはなんだ?」
     周囲の客が不審がるような声を上げる。元より余所者が珍しい村だ、ふと店内が静まった。カズナに視線が集まる。
    「……村長に、用があるのです」
     カズナは答えあぐね、そうとだけ口にした。店主が眉をひそめる。
    「……用?」
     店内がわずかにざわつき始めた。
    ――まずいかもしれない。
     酒が回っている連中も多い。案の定、背後から鋭い声が上がった。
    「怪しいな。何者だ」
     誰何する声が重なる。怪しい者に村長の家を教えるわけにはいかん、そのような声も聞こえた。
    「怪しい者ではありません」
     酔った男が掴み掛からんばかりにカズナに迫る。
    「では、まず名を」
     名乗れ、と男が言葉を荒げたその時だった。
    「その男は、私の知人だ」
     カウンターの端から、静かな声が割って入る。カズナは驚いてそちらに視線を走らせ、声の主を探す。
     ニオルズにカズナの知己があろう筈もなかった。どこかで聞いたような、そう思う。
    「だから、離してやってくれないか」
     そう言って、彼は笑いながら立ち上がる。カズナは息を呑んだ。
     忘れようもない――バジ家次頭、ナギの姿がそこにあった。
     出鼻を挫かれ、店内には一様に困惑した空気が流れていた。振り上げた拳の落としどころに困ったか、意味もなくカズナとナギと見比べる。
    「あんたの?」
     店主は眉根を寄せていぶかしむようにナギを見遣った。
     ナギは平然と笑う。
    「そう。……私の、古い知人なんだ」
     店主はしばらくナギを注視していたが、ふと視線を落として息を吐いた。
    「分かった。上へ」
    「ありがとう」
     ナギはそう言って笑い、カズナを促す。瞬間、カズナは我に返った。
    ――どういうことだ?
     唖然とするカズナを知ってか知らずか、ナギは酔客の中を振り返りもせずに進む。酒場で問えることでもなく、カズナはやむを得ずその後を追った。眩暈はひどくなっていく一方だったが、ナギの前で醜態はさらせまい。
     ナギは迷いのない様子でカウンターの影に歩み寄った。隠れるように造られているらしい階段にカズナはようやく気付く。
     どうやらこの酒場には二階以上があるらしい。街の外れにあることから、宿屋も兼ねているのかもしれない。
     カズナは狭い階段の半ば程で、かろうじてナギに追いついた。階下の賑わいは遠い。
    「……一体、何をしている」
     カズナは薄暗い中、ナギの背に低く問うた。階段に明かりはなく、カズナのはるか後方から微かに酒場の明かりが差すばかりだ。
     ナギは含み笑って、肩越しに応じる。
    「助けてやったのに、随分な言い様だ」
     冗談ではない、そんな言葉が喉元に迫った。
    「なぜ、ニオルズに」
     ナギは見返ることもなく、さあね、と応じる。足元で板張りの階段が軋んだ。
     カズナは外套の中で左腕を伸ばす。
    「答えろ。でなければ…」
     斬る、そう言い捨てた。ナギが微かに笑う気配がする。
    「さすがは、赤髪のカズナだな」
    「ふざけるな」
    「ふざけてなどいないさ。ただ、今さら死んだところで構いはしない」
     まあ、とナギは付け加える。
    「生きている限り、命は惜しいがね」
     カズナは沈黙し、やがて吐き捨てた。
    「――……勝手な」
     ナギは笑う。
    「勝手は承知さ」
    「あなたの為にどれ程の人間が死んだか分かっているのか」
    「知らないわけではないな」
     まるで他人事のようにナギは言ってのけ、最後の段に足を掛けた。カズナはその背を見上げる。
     ナギの行動は理解に苦しむことばかりだ。彼は椅子を放棄したとどこかで聞いた、その彼がどうしてニオルズにいるのだろう。
    ――王族を次々と手をかけてまで、欲しかった椅子であろうに。
     カズナは剣を握り締めた。バジ家には積もる程の恨みがある。
     バジ家の次頭、ナギは、カズナが知る中で最もバジ的な人間と言って良かった。
     ナギはカズナに背を向けたまま、廊下の奥へと歩を進める。幾つかの扉を通り過ぎ、端のドアの前で足を止めた。慣れた風に懐から鍵を取り出すと古びた錠に差し込む。
    「私の部屋だ」
     言って、ナギはカズナを振り返って笑った。
    「聞きたいことがあるんだろう」
     カズナは瞠目し、わずかに逡巡する。違うとは言えない。
     ナギは薄く笑っている。状況を楽しんでいる風情さえあった。
    「なぜ」
     心を決めるより先に、口から言葉がこぼれる。
    「私を助けたのです」
     ナギは笑い、ドアの取っ手を押した。
    「難しい質問だ」
     扉の正面、大きな張り出し窓が目に立った。白っぽいカーテンは引かれていない。その前には本を一冊載せただけのテーブルと、真紅の布張りの椅子が備え付けられている。
     未だ夕暮れの余韻が残る夜空が窓枠に四角く切り取られていた。
     部屋は右の方に長い造りらしく、右奥には古い文机が壁に添うように置かれている。部屋に足を踏み入れると、右の手前に寝台が目に入った。
     総じて、簡素な部屋だった。ナギの物と言えば、本くらいしか見当たらないせいもあるだろう。調度はそれぞれに年代を感じさせたが、手入れが行き届いている印象を受けた。
    「古いし、主も愛想がないが、悪くない宿だ。飯もうまいしね」
     ナギは言って、カズナに椅子を勧めた。
     カズナは部屋の中心で微動だにせず、張り出し窓に腰掛けるナギを見つめる。
    「なぜ私を助けた。……ニオルズにいるのはどうしてだ」
     ナギは笑った。
    「ただの気まぐれさ」
     カズナは間髪を入れず尋ねる。
    「狙いは」
    「ない」
    「真実を」
    「だからそう言っている」
    「……それを信じろと?」
    「それはそっちの勝手だな」
     静寂がこだました。
     ナギの頭の上、夜空には爪のような月が横たわっている。床に輪郭のぼやけたナギの影が落ちる。
     カズナは再び口を開いた。
    「……私はあなたを憎んでいる」
    「だろうな」
     ナギは涼しい顔で返す。
    「その私を、部屋に招きいれた意図は」
     ふと、ナギは笑った。
    「殺すかい? 私を」
    「……できないとでも?」
     いや、と呟いて、ナギは口元を歪める。
    「憎しみ程、強い原動力はないさ。――……憎みきる強ささえ、あればね」
     ナギは目を落とし、微笑った。
    「その意味では、やはりヨダカもキラも、強かったな」
    「何を…」
     言っているのだ、という言葉はナギによって遮られる。
    「ヨダカは息子に憎悪を植え付け、キラがそれを昇華した。全てを壊してみせるなど、他の誰にもできなかったろう」
     ナギはカズナを仰いで笑った。
    「ルカリアはどうした?」
    「生きていますよ。残念ながらね」
     ナギは、ほう、と言って微笑を浮かべる。
    「……それは、良かった」
     カズナは眉を寄せた。
    「良かった、と?」
     棘を含んだ口調に気付いてか、ナギは笑う。
    「私は、彼女たちのように強くはないからね」
     ナギは虚空を見上げた。
     弱い月明かりに、空中の塵が瞬いている。
    「半分はあの男の血でも、ヨダカの息子だ」
     静かな声が、低く暗闇にたゆたって溶けていく。
    「私は自分の為したことを後悔はしていない。……ただ、時々思う。違う出会い方をすれば、違う結果があったかもしれない」
     ナギは視線を床に落とした。
    「全ては、終わったことだ」
     カズナはナギの瞳を捕らえる。
     カズナにとっては、何一つ終わってなどいなかった。
    「なぜ、王にならなかった」
    「意味がないからさ」
     ナギは笑う。
    「ルカリアは私より先に椅子にたどり着いたのだろう?」
    「……身代わりを知っていたのか」
    「まあね」
     ナギはそのまま言穂を継いだ。
    「ルカリアに負けたならば、何もかも無意味だ。椅子も、王家も、バジもね。だから、捨てた。私にはもう、名前すら必要ないよ」
     ナギは穏やかに微笑む。カズナをつと、見遣った。
    「ヨダカ、という名を聞いたことは?」
    「……先代国王から、一度だけ」
     ナギは口の端を持ち上げる。
    「何と?」
     カズナは知らず、目を伏せた。
    「強い人だったと。眩しい位に強い女だった、と」
    「そうか……」
     カズナはしばし躊躇い、結局言わずにはおれなかった。
    「……決して許されることはないだろう、とも」
     ナギは一瞬目を見開き、そして微笑った。
    「――愚かだったな、あの男も」
     カズナはしばらく黙した後、声を落として呟いた。
    「……そうだな」
     これはこれは、とナギは戯けたように笑う。
    「肯定するとは、予想外だ」
    「……否定はしない」
     先代国王はあまりに愚かで、不器用だった。多くの恨みを買いすぎた。
    ――それでも私は、あの方を見捨てることができない。
    「だが、何一つ持たなかった私に、何かを与えてくれた人だ」
    「……そうか」
     先代国王に出会えたことは、幸せだったと今でも思う。
    「彼らは、元気かな」
    「彼ら?」
     ナギは微笑む。
    「セツと、身代わりをやっていたあの子」
    「……さあ…」
     首を巡らして、ナギは窓の外を見た。横顔に影が落ちる。
    「セツを見ると、あの頃のヨダカを思い出すよ。真っ直ぐで、揺るぎない」
     彼女は、ルカリアが生きていることを信じていた。サキもまた、僅かな迷いはあれど同様だった。
    ――私は、信じ続けることができなかった……。
     その上、自分さえもごまかした。
     しかし彼らは、常に己が信じるものに忠実で、自分に正直に駆け抜けていった。
    「……あの子の育った村だ。良い村だと、今なら思える」
     月はいつの間にか中天に昇っていた。白い光が村にも、部屋の中にも平等に降り注いでいる。
    「私は、ヨダカを不幸だったとばかり思っていた。しかし、本当のところは当人にしか分からないものだ」
     ナギは微笑んでいた。
    「……少なくとも、彼女は一人ではなかった。ルカリアという息子がいた。
    ―― 一瞬でも、彼女に安らぎがなかったとは、誰にも言えない。
     ナギは半ば囁くように言った。
    「そう、信じることにした。幼い息子や、その幼馴染、あるいは路傍の花にも、目元を和ませた瞬間が必ずあったとね」
     カズナは視線を縫い止められたように、ナギから目を離すことができなかった。真に解放された者の横顔だった。
     羨望にも似た感情が惹起されつつあることに気付く。
     その時、ふと何かが視界を掠めた。カズナはそれに目を奪われる。夜空に、月の他にも光を放つものがある。星にしては低い。それは緩慢に拡大し、山の輪郭を形作っていく。
     カズナは瞠目する。とっさに窓に近寄った。
    「……あれを」
     言葉はわずかにかすれている。ナギは怪訝そうにカズナを仰いだ。
    「山です。向こうの山に――火が」
     ナギは言葉を呑む。今も、確実に光はその長さを延ばしている。
     馬鹿な、とナギは口走った。
     カズナは呆然と山を見つめる。その足で歩いてきたから分かる、この辺りは山火事が自然に発生するとは考えにくい地形をしている。
    ――ならば、あの火は。
    「……バジだ」
     ナギは乾いた声で呟いた。
    「そうとしか、考えられない。おおかた、私とお前とが何か企てているとでも思ったんだろう」
    「まさか」
     ナギはカズナをねめつける。
    「他に考えられるか。私一人だったら、刺客をやって片付けるさ」
     そう言って顔を顰め、張り出し窓を降り立った。
    「行くぞ」
     カズナはナギを注視する。
    「止めに行く、と?」
    「あの子たちの帰る村が灰になってもいいのか?」
     ナギはカズナを押しのけようとし、目を見開いた。
    「お前、利き腕を…」
     カズナは悟られぬように唇を噛む。
    「……左腕でも、戦える」
     ナギのその目を見返し、一拍を置いて言い放った。
    「私は赤髪のカズナですから」
     酒場は変わらぬ賑わいを極めていた。まだ異常に気付いた風の者はいない。
     カズナは階段を駆け下り、酔客を掻き分けて戸口へと急ぐ。気持ちばかりが逸り、微かに苛立ちさえも覚える。
     彼らの村が、今まさに燃え落ちようとしているのだ。しかし彼らが危険にうといのは当然のことなのかもしれない。
    ――むしろ喜ばしいことなのだろう。
     それ程にこの村は平和だったのだ。そう思い直し、ナギを見返る。ナギはおもむろにカウンターに近付くと、懐に手を差し入れる。店主を呼んだ。
    「しばらく出る。戻ってこなかったら、これで」
     言って、無造作に拳大の麻袋をカウンターの上に置く。袋の中で金貨がこすれあう音がした。
     その重さのありそうな音に、店主は眉を顰めてナギを見遣った。皿を磨く手を止める。
    「どういう…」
     その時だった。戸口が力任せに開け放たれ、切迫した声が響き渡る。
    「山火事だ! 北の山に火が入った!」
     酒場は一瞬、水を打ったように静まり返った。
     声の主はまだ若い、二十歳位だろうか、蒼白の顔で荒い呼吸を吐き出す。
    「誰か、手を……、男手が必要なんだ」
     彼は静けさに臆したのか、一呼吸をおいてそう口にした。カズナはナギと視線を交わす。
     瞬間、酒場は騒然となった。なぜこの時期に、ありえない、そう言う声が入り乱れ、人の波となって戸口へと動く。人々は押し合いながら一つの塊のように出口を求める。
     汗臭さと酒の匂いがより一層近くなり、カズナは眉根を寄せた。息を詰めて人の流れに身を任せ、時が過ぎ去るのを待つ。視界が揺れ、混乱した多くの声が深奥で鳴り響いて、微かに吐き気を覚えた。

     ふと胸を圧迫する力が緩み、カズナは僅かに面を上げる。
     戸口から押し出された先には宵闇があった。夜空には今にも消え入りそうな細い月と、先刻よりも広がったかのように見える炎が山端を彩る。通りには幾人もの人々が立ち並び、呆然と夜空を仰いでいた。
     火はその勢力を目に見えて拡大し続けている。
     耳に聞こえる程の風が吹きつけ、焦げ臭い香りが鼻についた。折からの北風に煽られ、炎は緩やかに斜面を下り村へと近付いている。
     水だ、そう誰かが口走った。
    「とにかく、水を準備して……あの火にぶっかけりゃどうにでもなる」
     上ずった声にぱらぱらと同意する者が現れる。どの顔も皆一様に白く、引きつったような言葉が続いた。
    「そんなたくさんの水なんざ、どこにあるってんだ」
    「井戸だよ!村中の井戸から……」
    「それをどうやって運ぶんだ? 村の者全員でリレーしたって追い付く早さじゃねえ!」
     集団において引き起こされる興奮は、煮えたぎる湯に似ている。カズナも幾度か戦場で経験していた。急激に熱されて臨界点を迎えた湯が溢れかえるように、集団の気分というものは容易に箍が外れるのだ。
     そして今、ここでそれが起きようとしていた。
    「……うるせえな」
     低く掠れた、しかし確かに怒気を含んだ叱声が飛んだ。
     省みたその場所には、髪に白いものの混じる初老の男――酒場の店主は戸口を背に、水を注がれたように静まった通りを睥睨する。
    「大の男が集まってみっともねえ。誰か消防団の連中に知らせたか? 村長と村方もだ。ぎゃあぎゃあ騒いでどうにかなるもんでもないだろ。消防の指示がなきゃ動きようがねえよ」
     店主の肩越しに松明が揺らいだ。我に返った一人の男が駆け出した。
    「俺、村長の家に行ってきます」
     何人かがその後を追って走っていく。
     いつの間にか傍らにいたらしい、ナギが笑う気配がした。
    「只者じゃないな」
    ――平和だった、ということ。
     そのことは、人間の行動を制限する。平和な日常が崩れることを、その崩壊を認めることを拒むのだ。
     人は誰しも幸福の内に生きていたい。安穏と変わらぬ日常を暮らし、決して特別ではない存在として過ごすことを幸せとするなら、ルカリアはこの村で幸福だったろう。
     彼が真実帰りたかったのは、セツと共にいたニオルズでの日々だったのではないだろうか。
     身内に影を飼いながらも幸福に暮らしたあの日々に、自らの病を悟るその前に――ちょうど、カズナが叶わぬ願いと知りながら、ルカリアと出会ったあの瞬間を思うように――彼は還りたかったのかもしれない。
    ――思いはいつでも、あの場所に還る。
     その場所は常に、ニオルズだった。
     カズナにとっても、ルカリアにとっても、また、おそらくセツやサキにとっても、ニオルズは還る場所だった。
     カズナは左手を握り締める。もはや椅子は燃え尽きた。しかし、ニオルズだけは燃えてはならない。ニオルズが灰になってしまったら、どこに思いは還ればいいというのか。
     セツやサキに、もう二度と会うことはないだろう。
     それでも、せめてもの償いに代えて何かを残してやりたかった。
    「北だけで済むと?」
     低く囁くように、カズナはそう口にした。
    「バジのことだ、それはないだろうな」
     ナギは淡々と言ってのける。
     カズナはナギを見遣った。
    「私はあなたを信用できない」
     だが、とカズナは続ける。こうしている今も、確実に炎は広がっている。
    「……せめてこの村くらいは、守りたい」
     ナギはカズナを見返して、笑う。
    「利害は一致したな」
     そうだな、とカズナは答えた。
     片腕の自分が、どれ程にバジの刺客に立ち向かえるかは分からない。しかし、奇妙な自負があった。負けるわけがない、そう思っている自分に気付く。
    ――お互いに、バジの手は知り尽くしている。
     敵を十二分に知る者同士こそ、共に戦うには理想的であると経験が告げていた。
    「私は西へ」
    「ああ」
     その言葉と同時に、カズナはナギに背を向けた。
     通りにはもはや休む支度を整えた人々が寄り集まって、不安げに空を見上げては互いに顔を見合わせている。先刻よりも人は増えたようだ。
     カズナは彼らの間隙を縫うように通りを西へと走る。すでに広がった炎は、彼らを信じるしかない。しかし、火が付けられようとするものを防ぐことは可能だろう。
    ――還る場所を、守るために。


     薄明の山道を、カズナは息もつけずに駆け上がっていた。
     とうに限界は超えているのだろうが、身体は急いて心ばかりが先走る。村へと下りる時感じた疲労は消えていた。
     腐植土に踏み込んだ足は沈むことなく落葉を蹴り上げる。
    ――守りたい。
     息が途切れ、激しく咳き込んだ。胸を締め上げられたかのような切迫感がある。溶岩のような血が体中を駆け巡った。鼓動が頭に響く。耳鳴りのようにこびりついて離れない。
    ――守りたい。
     右肩が悲鳴を上げていた。振動のたびに熱を持った痛みが伝わる。
    ――それでも、消せない思いがある。
     意のままにまらない身体が煩わしかった。全身が泥土に呑まれている気がする。昔ならもっと俊敏に走れたものを、そう考えずには居られなかった。
    ――赤髪のカズナと呼ばれた頃なら。
     いつ誰がそのように呼び始めたのかは分からない。気がつけば、赤髪の後ろにいれば死なないという風評が立っていた。
    ――……後ろなど、見たことはなかったが。
     唯一の身寄りも失い、食うに詰めて国王軍に入ったのはまだ十にも満たぬ頃だったろう。折りしも乱世、剣もろくに握れない子供が戦場を生き延びたのは不思議なことだ。
     若い傭兵らの中で一際幼いのが目に付いたのか、キラに声を掛けられてその隊に配属され、あとは図らずも転がるように名を上げた。
    ――そういえば、聞いたことがあったな。
     あれは訓練の休憩中のことだったろうか、キラになぜ自分を呼んだのかと問うたことがあった。
     キラは笑い、小さな身体で振り返ることもせずに敵に突っ込んでいく姿が面白かったからだと答えた。
    ――赤い髪が、まるで赤い星のように見えたのさ。
     だからだよ、そう言ってキラは笑った。
     随分と立ってから、かつて赤い星と呼ばれた軍人がいたこと、その女性とキラは親しかったらしいことを知った。その時は、戦死でもしたのだろうかと思っていた。
     それから程なくして弟子が一人前の兵士になるのを見届けるようにキラは突然に国王軍を辞し、官等低いバジの息子も同様にして退役したとどこかで聞いた。
    ――あの頃は、むしろ目立たない位だった。
     やがて親類、果ては王族までも手に掛けるようになると誰が予想できたろう。
     偽の『ルカリア』を連れ帰り、『ルカリア』に差し向けられた刺客を送ったのはキラであると感づいた時、ようやく二人の接点が『ヨダカ』であると悟った。
     ただ、疑念を確信にかえるだけの証拠がなかったのだ。
     少なくともキラは、『ルカリア』が本物ではないことを知っていたはずだ。それでも沈黙を保つ、その事実がかえって不気味ですらあった。
     もしキラが本気で王家の崩壊を企てているならば、彼女は酷く慎重に細心の注意を払って動くだろう。
     そして、いざことを起こすとなれば一瞬、それが彼女の戦い方なのだと理解していた。
    ――まさか、師と対立することになるとはね。
     厄介な相手だと、そう思ったことを覚えている。
     カズナは煙で白く濁った夜空を見上げた。
     山際は鈍い赤白色、煤が飛んでいるのか目が痛む。ただでさえ四方から火が付けられるものを、北風が村に吹き降ろしては広がるのも早かろう。状況は充分に逼迫していた。猶予はない。
     カズナの前を迷いのない目で駆けていった、あの少女を育てた村の力を信じている。そう、カズナに出来ることなど常に、多くはなかった。
     ふと、人の気配を感じ得て、山道を省みる。―――振り下ろされた刃を受け止めた。
     くたびれた茶色の外套を纏った頑強な男が、その身長ほどもありそうな大刀に力を加えている。カズナは剣をしばらく研いでもいないことを唐突に思い出した。
     あとは背後に一人ずつ、全部で三人というのは妥当なところかもしれない。このような暗殺に使う刺客の選択をバジは間違えないだろう。散々そうやって辛酸を舐めさせられてきたのだが、その敵と今は同じ目的を持って戦っているのは奇妙な気がした。
     不思議と冷静な心持だった。頭の芯が冴えている。
     大刀の重さを流し、そのまま斜めから斬り下ろした。
     同時に視界を遮っていた枝葉も音を立てて地に落ちる。踵を返すと横様に払う。その拍子に目の前に切先が飛んだ。骨を斬ったような感触があった。くぐもったうめき声に、人がくずおれる音が重なる。血を逃れて飛び退き、背後の敵に肘を打って応える。
    ――まずは、一人。
     倒れた男を跨ぎ越し、もう一人に左腕を下ろした。押し返した力はわずかに弱い。
    ――勝てる。
     あの頃、命は惜しかったが人生を惜しんではいなかった。今も、人生は惜しくはない。一身を捨てて仕えるべきものを、カズナは失った。もはや、自分は何かを守りうるのだという確認にすら近いのかもしれなかった。
     剣が軋み、刃がこぼれる。徐々に押して、ふと力を抜いた。相手の体勢が崩れる。一息に胸を斬りはらった。すぐに剣を返して、付きをかわす。
     目前に抜けた切先を叩き、最後の一人に迫った。男は瞠目した後、即座に立て直しカズナの剣を受ける。拮抗してその時、自分の息が上がっていることを知った。
     まずい相手を最後に回してしまったかもしれない。
    ――余裕はない、か。
     思い、膝でみぞおちを蹴りあげた。相手の喉元から声が漏れる。
    ――この村を、灰にするわけにはいかないんでね。
     反射でうずくまろうとした男の背を見下ろし、左腕を振り上げた。
     最後の一人を足元に、カズナは息を吐いた。その傍らに剣を突き刺し体重を支える。
     肺から呼気が洩れていた。大地が揺れて見える。頭の中を溶岩が暴れ狂っているようだった。吐き気までして、とっさに地に膝を着いた。自分が倒した相手が視界の端に入り、知らず目をそらす。
    ――ナギは……?
     かろうじて顔を上げ、東の空に目を凝らす。暗いな、と思って視界が狭くなっていることに気付く。
     東から狼煙のように、細い煙がたなびいている。
     カズナは目を見開いた。鉛のような体を叱咤して立ち上がる。
    ――この村だけは、守らなくては。


     ナギは襲い来る刃を逃れ、闇に紛れて木陰に身を潜めていた。刺客の下葉を踏みしめる音に耳をそばだてる。残りは二人、四人いたうちの半分を片付けたところで力が尽きた。
     見上げると、北の山際は煙って赤みを増し、薄暮の空を思わせた。
     風が冷たく木々をなぶり、汗と泥に塗れた全身が凍えるように寒い。灰を吸い込んだ喉が痛かった。
     自らの呼吸が酷く大きく響き、彼らの足音を掻き消してしまいそうだった。吐息の熱さに驚きつつも、同時に安堵する。
     まだ生きてるかと思う自分がおかしかった。汗の滲む掌で剣を抱え直し、足元とおぼしい辺りに視線を注ぐ。つまさきが痛んでいた。
    ――さて、どうすべきか……。
     積極的に生きたいとも思っていないが、殺されてやる気もまたない。
     微かに足をずらした拍子に、枝の折れる音が真下から聞こえた。
    ――まずい。
     足音が近くなった。息を殺す。鳥の声が甲高く尾を引いて消えていく。
    ――仕方ないな。
     ナギは相手の歩数を計った。向こうも夜陰に疑心暗鬼になっているはずだ。
     バジの刺客に勝てるとは万に一つも考えられない。ナギは瞑目し、一つだけ息をついた。
    ―― ヨダカ……。
     何を思い、彼女がこの村で過ごしたかなど知るよしもない。ただ、幸せであれと望む。
     無理にでも手を引いて駆けるべきだった日へも、彼女と向き合って語り合うべきだった瞬間にも、もはや戻れはしないのだ。どれ程に悔やもうと時はただ流れ去っていく。
     弔いというものは、生きている者のために必要なのだという。
    ――もう、逃げ飽きたよ。
     ナギは剣の柄を握って、木陰から踊り出た。
     長く延びた枝葉をくぐり抜け剣を振るう。向こうもまた諸刃の剣をナギに振り上げた。刺客のそれが知った顔であることに、笑う。
     随分と久しいがナギの顔は覚えていたらしい。
     剣を交すと、相手と自分との力量の差が歴然とした。力も技術も向こうの方が数段上のようだ。
     それを悟るとナギは身をかわした。
     途端につきだされた切っ先にわずかに胸を斬られる。木の根に足を執られ、幹に手をついて体を翻す。その瞬間、右手に激痛が走った。知らず声が漏れる。
     剣が地に落ちる音が遠く耳に届いた。足は敵のいない方向に駆け出す。
     後ろから肩を捕まれる。そのまま山道に引きずり倒された。
     一瞬、呼吸もできずに肺から咳き込む。視線を戻すと、更夜を焦がした空を背後に、男がナギを上から見下ろしていた。笑っている。
     だろうな、かつての主なのだから、そう思う。
     男が振り上げた刃が一閃するのをナギはただ眺めていた。
     絵を見ているようだ。これが当然の結末なのだろう。
    ――これで、終わりか。
     多くの罪を犯した、悪くはない人生だったように感じた。
     ナギは目を閉じた。
    ――地獄ならきっと、ヨダカに会えるさ。
     冷たい風が頬を撫でた。
     全身を重い倦怠感が支配していた。息苦しくなり、ナギは目蓋をあげた。どうやら息も止めていたらしい。薄く開けた目に、人影が映る。先刻の男ではなかった。
    「……カズナ?」
     思いのほか、締りのない調子になる。山際の明るさを背に受け、その燃えるような髪が顔の輪郭を赤くにじませて輝いていた。
     ナギは呆然と彼を仰ぐ。
     カズナの足元には剣を握り締めたままの男が事切れていた。
    ――どうして。
     問うより早く、カズナが無表情で口を開く。
    「あなたに借りを作るのは、ごめんです」
     ナギは目を見開いた。
    「……貸したつもりもなかったが」
     ようやく口をきいて、ひどく喉が乾いていることに気が付いた。
    「あなたにはなくても。私は嫌なんです」
     カズナは呟くように言って、視線を落とす。
    「ここまでに一人倒した。後は?」
    「……いや。それで最後だろう」
     そうか、と呟くカズナを眺めて、ナギは顔を伏せた。分からないように静かに笑う。
    ――礼は言えないな……。
     カズナはそれを受け取らないだろうという予感がした。
    「何をしているんです」
     カズナはそう問いかけて続ける。
    「山を降りましょう。東にも火を付けられたようだ。我々では使い物にならないでしょう。……村に知らせなければ」
     ナギは目を丸くし、思わずカズナを見つめた。
     カズナはその様子に眉をひそめる。
    「……何です」
    「――いや」
     ナギは地面に手をついてどうにか立ち上がった。
     いつのまにか二人称になっていることに、カズナ自身が気付いていないらしかった。

     後ろ指を差されることになら慣れているんだがな、と心中でこぼした。
     自らもそれだけのことをしてきたという自覚はある。さして興味もないが、周囲からすれば己は悪なのだろうと思っていた。
     煤の降る中を、カズナと並んで山道を歩き出した。赤髪のカズナもさすがに憔悴しているようだ。
    ――……珍しいことも、あるものだ。
     目を伏せ、小さな溜息を一つ落とした。こういった扱いには、慣れない。
     夜更けながら明るい色をした空を見上げる。
    「……そういえば」
     下りながら、カズナが独り言のようにぽつりと口にした。
    「宿屋で出しただけの金を、よく持っていましたね」
    「バジにはずいぶん貢献したからね。多少失敬したところで構いはしないだろう」
    「……盗人たけだけしい、と言うと思うが」
    「仕方ないな。私は悪運は強いがバイタリティがないのには自信があるんだ」
     だからその位はしなければ行き倒れて死んでしまうよ、と笑うとカズナは呆れたように溜息をついた。
     下る山道が、少しは楽な気がした。
     村に下りると、大通りには怪我人が溢れていた。銘々座り込むなり仰向けに寝転ぶなりしていたが、見たところ重傷者はいない。
     火傷した手や足を地面に投げ出す男たちの中を、ありったけの布や消毒を抱えた女子供が走り回っていた。彼らは皆、煤と汗にまみれて汚れていたが、生気に満ちた顔をしている。
     村中総出で鎮火作業に当たっているのだろう。山際はもうだいぶ暗かった。
     良い村だ、とナギが感嘆したように呟いた。
     集団が危機を迎えれば、その共同体に属するすべての人間が力を出し合って対抗する。カズナもまた、そのようなものには縁がなかった。
     郷里はもはやおぼろにしか思い出せない。カズナは真実、あの街を捨てている。それを悔やんだことはない。
    ――もう、過ぎたことだ。
     しかし故郷を持たないがゆえに、椅子取りに執着した自分も知っている。
    「……遠いな」
     思わず口をついて出た言葉に、ナギが「ああ」と応じる。
     期待していなかった答えが返って来たことに驚いて傍らを見れば、ナギは涼しい顔で村人を観察していた。
     この村はおそらく、カズナやナギのいるべき場所ではないのだろう。立ち尽くして思い、カズナは苦笑した。
    「―――おい、あんたら」
     しゃがれ声を投げかけられ、カズナは視線をやった。
     低い場所から見上げる目にぶつかり、カズナはたじろぐ。通りに足を伸ばし弛緩した身体を休ませながら、店主が二人を眺めていた。ナギに向かって、戻ってきたじゃねえか、と毒づいた。
    「そのようだ」
     相変わらず、ナギは人を喰ったような言葉を返して笑う。
     店主は大儀そうに立ち上がった。
    「あんたらにも手当てがいりそうだ」
    「……必要ない」
     カズナがそう返事をすると、馬鹿いえ、と吐き捨てる声が聞こえた。
    「そこで休んでろ。医者ぐらいは呼んでやる」
     人の間隙を縫うようにして店主が消えると、カズナはナギと顔を見合わせた。
     これが普通というものなのかもしれなかった。


     ナギはカウンターの上の、グラスを持った手をぼんやりと見つめた。白い包帯が掌まで巻かれて眩しい。
     まだ生きている。
     そのことが単純に不思議でもあり、可笑しくもある。
    ――長生きはできないだろうと思ってたんだけどね……。
     自嘲するでもなく一人ごちると、小さく息をついた。
     人間の生死など案外分からないものだ。いや、分からないのは人の縁というものなのだろうか。
     戸口が静かに開かれる音がして、首を巡らしてみればカズナだった。白む空を背後にした赤い髪は暗く見えた。
     赤髪のカズナと呼ばれていた頃、後ろも顧みずに走っていく姿がまるで赤い星のようだった、と聞いたことがあった。あれはキラが言っていたのだったか。今となっては知れない。
     夜明け前と言っていい時間になっていたが、どこか浮き足だったような気配がしている。あの城が落ちた日のようだ、とそんなことを思う。
     一時は四方から村にまで火が回るかと思われたが、北の山林の一帯を焼いたのみで済んだようだ。火をつけたのがバジの刺客であったことを考えれば、随分被害が抑えられたというべきだろう。
     村人たちの素早い消火活動が功を奏し、被害は最小限に止められたのだ。正確な被害は今の段階では図れないが、これ以上二人が村にいるわけにいかないのは確かだ。
     再びぼんやりとグラスを眺めていると、カズナがカウンターに座る気配がした。ナギとはちょうど椅子一つぶんの距離があいている。
     ふと沈黙が流れ、カズナはおもむろに口を開いた。
    「……まだ質問の答えをもらっていない」
     何が、とナギは問い返す。
    「あなたは、なぜニオルズに来た」
    「……ただの気まぐれだ」
    「真面目に答えろ」
    「これが地なんだよ」
     言って、ナギは笑った。
    「ようやく、来れるようになったんだ」
     ナギが今までにニオルズに来たのは、ただ一回しかなかった。
     あの時ルカリアに出会ってしまった、だからこそ来れなかった。
    「私の一番大切だった人がここで眠っているのさ」
     だから来たんだよ、そう呟くとナギはカズナを見遣った。
    「そっちこそ、なぜここに?」
     カズナは逡巡する風を見せ、目を伏せた。
    「――……手紙を」
    「手紙?」
    「ルカリア様の手紙を、預かっているんです」
    「……誰宛ての?」
     聞いてから、おそらく答えまいと思った。カズナとはそういう男だ。
     カズナは傭兵上がりで先代国王に気に入られ、世話役にまでなった。よほど細心で注意深くなければ出来ることではないし、それゆえ揶揄を含めて「忠臣」と呼ばれた。
     しかし、その予想は次の瞬間裏切られた。
    「ここの、村長宛のものです。必ず届けてほしいとおっしゃって」
     そうか、と言った自分は間抜けな顔をしていたに違いない。
     その時、また戸口が開かれる音がした。店主が煤だらけの布を持って帰ってきたのだ。彼はこちらに気付くと疲労の色の濃い声で、
    「なんだ」
     と問うた。
     いや、とナギは気を取り直して言うと、カズナを見やる。
    「ここの村長だと?」
     カズナは一瞬目を見開き、躊躇った後に頷いた。
    「ええ、そう……。そうです」
     そこでカズナは店主に向き直る。わずかに言葉を探して、店主を見返した。
    「最初にもうかがいましたが、この村の村長にお会いしたいのです」
    「……何のために?」
    「主より、手紙をお預りしておりますので」
    「主……」
     店主は言葉を繰り返して、カズナをつくづくと眺める。
     薄汚れた風体の、流れ者じみた格好をしていることくらいはカズナも自覚していた。人目を忍んで息を潜めるようにニオルズまで旅をしてきて数ヶ月、まともに鏡も覗いていなかった。
    「村長ってのは、役職名かい、それとも個人かい」
     おもむろに店主は口を開いた。その意味が飲み込めず、カズナは問い返す。
    「……というと」
    「あんたの主とやらは、この村でもう三十年近くも村長をやってる爺さんに手紙を書いたのかってことだよ」
    「……主の意図は測りかねますが、おそらくそうでしょうね」
    「じゃあ、残念だったな」
     店主は煤だらけの布を置いて、カウンターに立った。素早く手をふくと、グラスを出して酒を注ぐ。カズナの前に琥珀色に満ちたグラスが置かれた。
    「その爺さんは、三週間前に死んだよ。今の村長は、今までの助役、まぁこれも爺さんだが、そいつがなってる」
     カズナは目を見開く。
     もしそれでも構わないというなら村長のところに案内するが、という店主の問いに、辛うじて首を振った。
    「……結構です。ありがとうございます」
    「あんたらには、世話になったようだからな」
     呟くようにそう言って、店主は奥に入っていく。
     カズナはそれを見届けてから、微かに自嘲めいたものを浮かべて俯いた。
     がらんどうの酒場の空間は静まり返って、塵ひとつ動く気配がなかった。建物の外か、異様なざわめきがどこか遠くで聞こえている。山火事の夜が明けようとしてるのだ。
     浮き足立った奇妙な夜に、カズナだけが取り残されていた。
    「――……カズナ」
     傍らで自分を呼ぶ声がして、カズナは我に返る。視線を上げると、椅子一つ隔てて、ナギがつまらなそうにグラスに目をやった。
    「平気か?」
    「……何がです」
     ナギが口を開きかけて、止めるのが分かった。それを最後に、不意に静寂が満ちる。
     耐えられなくなって、カズナは微笑った。
    「……少し、驚きました」
     だろうね、と応じる声がある。
     カズナは小さく息をついて、カウンターに両肘を置いた。軽く指先を組んで、そこに額をつける。視線がカウンターの木目の上をさまよった。
    「……まさかこの旅が、こんな終わりだとは思わなかった……」
     誰にともなく呟く。ふと、腹の底から笑いが込み上げてきた。
    ――まるで道化だな。
     彼の一番欲する場所から引き離し、望みもしない椅子取りの争いに放り込んだ。ろくに関係のない子どもまで巻き込んで、何が「忠臣」か。
     そして残されたのが、行き場のない紙切れ一枚だ。
     ルカリアはその紙切れをカズナに渡して、最後のお願いです、と言った。
    ――……帰って来るな、と。
     城は落ち、椅子は燃え尽きた。芝居は終わったのだ。何ひとつ残りはしなかった。カズナのその利き腕さえも。
     終わってみれば、カズナは舞台裏を全て知り抜きながら、結局は多くの登場人物たちの周囲をただ走り回っていただけのような気がした。
     その時、うなだれるカズナの耳に不思議な調子の言葉が響いた。
    「――…“余興はもう終わった!……あの役者どもは、すでに溶けてしまったのだ。”」
     ナギが笑ってこちらを見ている。彼はうたうように続けた。
    「“雲をいただく高い塔、きらびやかな宮殿、いかめしい伽藍、いやこの巨大な地球でさえ、もとより、ありとあらゆるものがやがては溶けて消える……。
    後には一片の霞すら残らない、 ……我々は、夢と同じ材料でできている。”」
     カズナはしばらく唖然とした後で、小さく息をつく。
    「……何の冗談だ、それは」
    「私の好きな芝居の台詞だよ。よく言ったものだと思わないか?」
     楽しそうに言うナギを横目に、カズナは悟られぬよう再び息を吐いた。
    ――夢と同じ材料で……か。
    「……芝居が好きなのか」
    「ああ、昔はよく観にいったよ。……芝居も音楽も、芸術に触れているときだけは、心から自由になれたからね」
     ナギは穏やかに笑う。
    「……たぶん私にとって、バジから自由にしてくれるものは全て永遠に憧れの対象なんだ」
    「“一番大切だった人”も?」
     ナギの先程の台詞を思い出して問うた。意外にも微かに逡巡するような気配がする。
    「……そう……たぶん、そうなんだろうね」
    「曖昧なんだな、自分のことなのに」
    「……人間、自分のことが一番分からないものだろう?」
    「……そうかもしれない」
     自分に照らし合わせ、カズナはナギを見返して笑った。
    「何より、今ここであなたと会話している自分が一番分からない」
    「なるほどね……」
     ナギはくつくつと忍び笑ってグラスをあおった。
     カズナは静かに視線を落とす。先刻の衝撃から少しずつ回復してきていた。
    ――……これで、いいのだろうか。
     これを旅の終わりとしてしまって、己は後悔しないのか。思うと、また曖昧模糊とした気分に取り巻かれる。
     行き場のないこの手紙をどうしたらいいのだろう。主の私信である以上、開くことは許されない。
     気付けば、己の前の置かれたグラスを握りしめていた。
    ――そもそも、これは本当に手紙なのか。
     ルカリアがあの状況で、どうして村長への手紙など用意できたろう。
     それではまるで城が落ちることを知っていたかのよう―――いや、落ちた城から自分が助け出されることを知っていたことになりはしないか。
     それはカズナが手紙を受け取って以来、目を逸らし続けてきた疑問だった。手紙が白紙である可能性は限りなく高かった。しかし、それでもカズナはニオルズを目指さなければならなかった。
     それが「ルカリア」の、かつてはカズナの希望そのものであった少年の、最後の願いだったのだ。
    「……カズナ」
     呼ばれてみると、ナギがこちらを向いて真面目な顔をしていた。
    「…なんですか」
    「その手紙、私がもらってやろうか」
    「……何に使うつもりです」
     思わず警戒して聞くと、ナギはひどいな、と眉を顰めた。
    「どうせ行き場がないんだろう。だったら、もらってやろうかと言うんだよ」
    「……結構ですよ」
    「どうして」
     聞かれて、特に理由が浮かばないことに驚く。
    「主のものですから、他人に渡すことは出来ません」
    「では、これからどうする?」
     カズナは瞠目した。
     ナギは片手をカウンターにつき、その上に顎をのせてカズナを注視する。ナギは解放されていると思った、その感覚は正しいのだろう。
     カズナは愕然とする。旅が終わった時のことを、カズナは何一つ考えていなかったのだ。先代国王が、そしてルカリアが、カズナにとっては全てだった。
    「……分かりません」
     言ってから、カズナは詰めた息を吐き出した。微苦笑を浮かべる。
    「――……けれど、帰ります」
    「……帰る……?ルカリアのところにか?」
    「ええ。私には、それだけしかありませんから」
     他に何もない以上は戻って叱られるしかないんです、と口にして微笑う。グラスの中で琥珀色が揺れて輝く。
    ――たとえ、疎ましがられたとしても。
     失われた利き腕は二度と戻っては来ない。
     帰った結果疎まれて、再びどこかへ遣られるのだとしても、ルカリアがどこかへ消えてしまったとしても、カズナは幾度でも同じ結論を出すだろう。考えずとも分かりきっている。
     それに、とカズナは苦く笑った。
    「……まだ、私はあの方ときちんと向き合ってはいないから」
     何がどこから間違っていたかなど、カズナには知るよしもない。
     ただ確かなのは、かつてカズナがルカリアと向かい合うことを避けたということと、それを酷く後悔したという事実だけだ。怠惰という罪を糊塗するために重ねた年月は重い。
    「……そうか」
     ナギは低くこぼした。カズナはそれを聞いてグラスに口をつけた。
     仇敵と憎んだ相手と、椅子ひとつ分の距離で飲み交わしている。それを考えると、やはり奇妙な夜としか言いようがなかった。ここがニオルズであることも、バジの刺客を倒したことも、出来すぎた舞台だ。まるで夢の中の出来事のようにも思える。
    「そっちこそ、これからどうするんです」
     夢なら夢として、カズナは軽く問いかけた。ナギは笑う。
    「まぁ、これまで通り旅を続けるさ。夜が明けたらニオルズを出るかな」
    「……刺客に追われてもか」
    「慣れてるよ。どうせ、どこかで野垂れ死ぬんだろう」
     他人事のように口にする。
    「……望むことは、もうないのか」
    「家も名前も、捨ててしまった。――あとはもう、誰も彼もが私のことを忘れてくれることだね」
    「……勝手だな」
    「そうだね」
     ナギは淡々と答えて笑う。
     今度は、おそらく本心からの言葉なのだろうという気がした。
     手元で琥珀色がきらめいている。外では人々の声が一際高く響いた。
     不意にナギが顔を上げる。肩ごしに背後を見返った。思わずその視線を追うと、彼が眩しげに目を細めるのが見えた。
    「――ああ、夜明けだ」
     その瞬間、予想外にある種の感情が頭をもたげたが、カズナは咄嗟にその考えを追い出した。
     酒場の戸口の隙間から、朝日がこぼれだしている。
    「……夜が明けたら?」
    「……ああ、そうだった」
     ナギはひとりごちるように言って、立ち上がった。そのまま軽く身体を伸ばす。
    「なんだか恐ろしく疲れる夜だったな」
     その言葉に、カズナは苦笑した。
    「店主が戻ってきたら私はもう出ることと……、ああ、そっちはどうする?」
     ナギはそこで初めて気付いたかのようにカズナに問いかける。
     いえ、とカズナは首を振った。酷く疲れていた。身じろぎすると節々が痛む。治療を受けて大分ましにはなったものの、右肩の鈍痛はどうしようもなかった。
     村の医者は、カズナの身体を見て顔をしかめた。元から古傷も多い。傭兵だと知れたろう。長居は出来ないが、今は少し休みたかった。
     ナギはそうか、と応じて片手を挙げる。カズナはその意を察し、残った左手を同じように挙げた。
    「……じゃあ」
    「ああ」
     ナギはそう言うと、カウンターの陰に姿を消す。とんとんと階段を登る音が規則正しく響いて、やがて止んだ。最後、わずかに名残惜しいような感じがしたが、気にしたことでもないだろう。
     夢から覚めたような気分だった。グラスに朝日が映り込んで美しい。
     もし縁があればまた会うのかもしれないが、もう一生会わないかもしれない。正直なところ、どちらでも良かった。良くなっていた。
     店主は戻ってくるだろうか。戻ってくるだろう。目蓋が重くなった。急速に眠気に襲われる。カウンターに腕を置いて伏せった。
     戻ってきたら、話をつけて一日部屋を貸してもらおう、そんなことを霞みがかった頭で考える。一旦眠って、起きたらすぐに王都へと引き返す。
    ――ルカリア様、今度は私が、あなたの元に帰ります。
     必ず、今度こそ、あの方の側を離れまい―――朦朧とした思考の片隅で、ルカリアと出会った日のことがよみがえった。
     「ルカリア」が希望そのものであった日だ。
    ――私は、ニオルズを守ることができたんです。……せめてこの村だけでも、守れたんです。
     思うと、唐突にルカリアに会いたくなった。どうかご無事で、と祈る。
     店主のがなり声が、どこか遠くで聞こえていた。
    ユバ Link Message Mute
    2019/11/20 11:28:52

    ある夜の夢

    本編後、カズナとナギがニオルズで出会う話。 #緑川ゆき #緋色の椅子

    参考
    W・シェイクスピア著、福田恒存訳『あらし』
    映画『リチャードを探して』

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