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    這う掌のつめたくかなしく ヨダカ造反の第一報が届けられたのは、もはや王都を目前に控えた宿営地にて兵を休ませている時だった。

     遠征軍は十の小隊を単位に大隊とし、出発時と同じく三つの大隊に分かれて王都・バーゼンへの帰路を辿っていた。その最も先頭である大隊に、ヨダカを隊長とし、現在は代理として副長キラが指揮をとる隊が組み込まれている。
     大隊はこの地で一晩を過ごし、翌朝早くに出発して華々しく王都に凱旋する予定だった。
     定められた宿営地に夜営を組み、長の戦争を闘い抜いた隊の兵士にキラは労いの気持ちを込めて、一杯だけの制限つきで葡萄酒を振る舞っていた。大隊長から許可が下りているわけではない。隊の者にだけ、もちろんキラの独断だ。
     王軍を挙げての遠征に隊長が従軍しないなど異例のことで、ましてやヨダカは常勝の「赤い星」だ。必ず先発隊として従軍し、自ら戦塵を払って駆ける「われらの隊長」を誇りにしている兵士も多い。
     現在のヨダカの処遇を巡って囁かれる噂を含め、キラの指揮を内心快く思ってない者は当然いる。そのことはキラ自身も承知していた。
     そのせいかキラはこの遠征の間中、隊の兵士らの挙動に気を配り、ことあるごとに隊の兵士らに向かって言葉を掛けていた。
    ──……あるいは、王都に戻ってすぐに軍を辞することを決めているからなのか。
     ナギは夜営の隅にひっそりと座り、部下と陽気に軽口を叩きあうキラを眺めた。
     兵士らは互いに無事帰還することができることに昂揚し、ただ一杯の勝利の酒に酔う。ナギは視線を落とし、手元の本の表紙を軽く撫ぜた。
     ヨダカにしろ、キラにしろ、お世辞にも温和な気性とは言えない。訓練は厳しく規律を乱した者への処罰は苛烈だと同じ隊にいながらにして思う。しかし、戦場において常勝無敗の将は慕われるのが常だ。それが己の隊を指揮するとなれば尚更信頼は篤くなる。
     これらの部下を置いていく気持ちがナギには理解できない。
     それは置いていかれる方だからかもしれないし、「星」に憧れる心に同調しているからかもしれない。
    「一時とはいえ、お前に隊長が勤まるものか心配だよ」
     遠征に出る前にそう言ってキラは少しだけ笑った。
     官等低いとはいえバジの血筋のこと、ナギは隊ではキラと同じ副長格だ。しかし、それが名目だけでしかないのは自分でも知っているつもりだった。
     おそらく、ヨダカとキラが同時に抜けた隊は一時的にナギに任されることになろう。追って、軍の方から叙任についての命が下る。先発を切る隊、ましてやヨダカの抜けた隊の、指揮をナギがとれるわけがなかった。
     ヨダカの代わりなど、どこにもいない。
    ──「何をぐずぐずしている、続け!」
     大気を震わせる声がしたかと思うと、少女のような小さな背中が戦場に踊り出た。見る間に彼女の二回りはあろうかという敵が、その剣の前にあっけなく沈んでいった。
     返り血を浴びることを嫌いもせず、まるで草でも刈るように人を斬って戦場を駆け回ったあの姿。誰もが彼女に憧れた。
     それ以上にナギにとっては、家や身分や社会的なすべての拘束を超越したありようが羨ましくてならなかった。
     お前には、お前にふさわしい道があるのかもしれないよ、と平然と口にした彼女が怖いほど眩しかった。そんな道がたとえあったとしても、選ぶことができないことをナギは自覚していた。
    ──バジであることを、ヨダカの前でだけは忘れられた……。
     彼女は星だった。手に届かないことはわかっていた。
    ──手に入れることを望んだわけじゃない。
     ただ、眩しかったのだ。
     ずっと一緒に戦ってきたらしいキラとの関係を含め、憧れを込めてどこか遠くで眺めてきたように思う。それ以上の感情は、決してない。
     国王と関係ができたことを知った時に走った鋭い痛みもまた、憧れの産物だとナギは思っている。国王を愛したヨダカは次第に戦いに臆し、服が汚れるのさえ恐れるようになった。
     その姿を見ていられず、目をそらしたのはナギだった。我らの「星」を土足で踏みたくられた気分だった。
     それはキラとて似たようなものだったろう。しかし、キラが違ったのはどこまでもヨダカに対して親身であり続けたことだ。苛立ち腹をたてはしても、国王によって壊されていくヨダカの傍らで、常に彼女を支えようと努めてきたように見えた。
     大丈夫だと思っていたのは、そんなキラがヨダカの側にいるからだったのかもしれない。
     結局のところ、ナギにとってヨダカは「星」なのだ。彼女の心に触れることは決してかなわないのだ。それを知っている自分にまた微かに自己嫌悪を感じ、ナギはかぶりを振る。
     ヨダカのこれからのついて思いを巡らせつつ、夜営の中に何気なく視線をやった。兵士らが軽く酔いの回った頭で報償について語っている。
     ヨダカの妊娠についても、ヨダカと共に退役するであろうことも、兵士らには告げていない。キラがそう望んだからだ。
     ナギはふと、一人の男が夜営に飛び込んできたのに目を止めた。ついで男が隊の兵士であるのに気付く。彼は確かヨダカの元に置いてきた部下だ。彼の汚れた服と憔悴した顔に、嫌な予感が胸に湧き上がる。
     彼は焦りの浮かんだ視線をさ迷わせ、キラを発見するなり、副長、と叫んだ。
     キラは彼を認め、目を見開く。問うより先に、彼はキラの腕にすがった。
    「……副長、お逃げください! 隊長が、謀反の罪により追放となりました。陛下は副長にも疑いありとして審議にかけるおつもりです。王都に戻り次第、王軍はあなたを捕縛します。捕えられればバジのこと、濡衣を着せられ、ただでは済みますまい。今すぐここよりお逃げください」
     瞬間、夜営は水を打ったように静まりかえった。なに、と呟いたキラの声が隅にいてさえも聞こえた。
     耳障りな呼吸音をさせながら、彼は必死の形相で目を細める。小さくうなだれて言葉を落とした。
    「突然王軍とバジの私兵に囲まれ……、我々では力及ばず、申し訳ありません」
     キラはしばらく微動だにしなかった。兵士らは時が止まったように、息をつめてキラと彼とのやりとりを注視している。
    「……謀反、だと」
     ようやく口を開いたキラの声は低い。
    「そう、言ったな」
    「はい。……王を、たぶらかす者と。陛下のお怒りは激しく、隊長は、即日追放とあいなりました」
     座がさざめき、自然とキラに視線が集まった。
     キラは部下の動揺を知って知らずか、震える声で吐き捨てた。
    「……愚かな!」
     怒気を隠そうともせず、キラは頭をあげる。
    「ヨダカはどんな様子だった? どこへ追放された? 他の連中は?」
     男は力なく首を振った。
    「……分かりません。我々が組み伏されている間に隊長はどこへなりとも連れていかれました。他の部下も捕えられ、私のみがどうにか逃げることができました。あと、隊長は」
     男はそこで一度区切って、目線のみでキラをちらりと見上げた。
    「……隊長は、『陛下の子です』と叫んでおられました」
     今度こそ場にどよめきが広がった。
     キラはそれを止めようともしない。虚空を睨みすえた目は、やがてナギの上で止まった。
    「お前か」
     射るような視線にナギは言葉を飲み込んだ。
    「お前、が」
     低く呻き、まっすぐナギを目指して大股で歩く。兵士らは思わずキラに道を開けた。
     キラの足元で、音を立てて酒瓶が砕ける。その破片を踏みつけキラはナギに詰め寄った。
    「お前が、バジに漏らしたのか」
     キラはナギを目の前に見下ろし、襟首を掴みそのままナギを引き上げた。顔を近付ける。怒りよりも憎悪が勝ち、殺気さえ帯びた目がナギだけを映していた。
    「お前が、ヨダカを、売ったのか」
     思考が麻痺している。息がかかる程の距離で吐かれた「売る」という言葉に殴られたような衝撃を覚え、頭の奥がしびれた。
     違う、ととっさに反駁しようとして口を開き、言葉をなくして喘いだ。
    ──バジであるということはそういうことだ。
     バジとはそういう一族なのだ。
     謀反の疑いはヨダカとキラにはかけられているが、ナギの身には降りかからない。同じ隊、同じ役職、ほぼ同じ時間を共に過ごしているにも関わらず、ナギが排除されることはないのだ。ナギがどれほどバジを厭おうと、ナギ自身がバジである事実は変わらない。
     そのナギの逡巡を見て取ったか、キラは突き放すように手を離した。ナギは一瞬よろけて地面に手をつく。
     キラはすぐさま踵を返して厳しい声をあげた。
    「王都に戻る。支度をしろ」
    「副長!」
    「私は戻らねばならん。ヨダカの濡衣を晴らす」
     悲鳴じみた声が方々からあがった。
    「そんな、無謀な。そんなことバジが許すとお思いですか」
    「知るか。せめてヨダカの行方だけでも知らねばならない。反逆者として追われることが怖い者は残れ。隊長の無実を信じる者のみついてくればいい」
    「副長、いけません!」
     ナギは知らず立ち上がり、少し躊躇ってから、キラの骨ばった手首を掴む。話し掛けられることを拒んだ背中が振り向いた。
    「……なんだ」
     応じた声は冷ややかだった。
     ナギは唇を噛み締め、ぽつりと溢した。
    「……今は、無謀だ」
    「知ってる」
    「隊の部下を、危険に晒すのか」
     呟いて見つめると、キラは視線を反らした。ずるい物言いだと自分でも思う。
    「今、大隊から抜けるのは危険だ。命令違反として問われるだろう。そもそも王都に帰ったところで、おそらくバジの私兵が待ち構えている」
     ナギは自嘲めいて口にした。
    「バジに先に捕まればヨダカの濡衣を晴らすどころじゃなくなる。……夜明けを待って、大隊として帰ろう。バジでも王軍の将に直接手出しはできない。王都に戻ってすぐに自ら王に訴え出るんだ」
     そうです、と安堵したような声が兵士らの間から聞こえる。
     キラはナギの視線を仰ぎ、不快げに眉根を寄せた。しばらく沈黙した後、ナギの手を振り払う。
    「分かった。……明朝の出発を早めるよう大隊長に言ってくる」
     早口で言うと、再びふいと背を向けた。
     また引き止めるようなことはせず、こうべを上げたキラの背が夜営を出て行くのをナギは黙って見送った。今すぐにも駆け出したいだろうに、と音にせずに呟く。
     キラの怒りが自分の上から去ると、暗い不安が頭の奥を浸していく。どす黒い何かが胃の中でとぐろを巻いた。怒りとも恐れともつかない感情が喉元まで込み上げる。
    ──バジの、せいか。
     軍の有力者が王と親しくなることをバジは許すまい、とはキラに言われぬまでも予感はあった。予感しながらナギはヨダカから目を背け、何の手段も講じなかった。
     一瞬ののち、猛烈な自己嫌悪に駆られる。知らず握りしめた拳が震えた。
    ──ヨダカ。……ヨダカ。
     黙っていてさえ自分の心臓の音が響く。この暗い感情はバジへ向けたものか、自分へのものか。
     不意に見回せば、キラがいなくなり兵士らの緊張がほどけたらしい、遠慮がちな視線がちらちらと自分に向けられていることを悟った。
     唐突にそれまでのことが全くどうでも良くなった。脱力感に襲われて、深く呼吸をする。吐き出された息は熱かった。
     バジは、バジでしかない。その現実を変えうる力をナギはついぞ持ったことがなく、おそらくこれからもないのだろう。
    ──無力だ……。
     今はそれを自嘲する気力すらなかった。
     場の空気に耐え切れず、ナギは夜営を脱した。見上げた夜空には満天の星が光っていたが、ヨダカもキラもこの空を仰いでなどいないのだろう。

     翌朝、予定よりも二時間ほど早く宿営地を出発し、役所が動きだすころには王都に到着した。
     王都に入城するなり、城から派遣されたという数人の将軍が穏やかにキラの引渡しを要求し、キラもまた大人しくそれに従った。
     連行されていくキラを、ナギを始めとして兵士たちが打ち沈んだ面持ちで見送っていた。
     雨が降っている。
     打ち付けるほどの勢いはなく、静かに冷たい雨が降っている。
     小柄な影が雨の中を数人の男に囲まれ、引き摺られていく。彼女は力の限りもがき暴れて、男の腕に爪を立てた。抵抗も虚しく、太い手によって捕えられて押さえ付けられた指先が小さく震える。
    ──なんの真似だ、離せ。
     彼女が吠える。
     男らはそれに聞こえないふりをして彼女の手首に縄をかけた。かつて剣を握った手はすでに痩せ細ってまるで普通の女のよう、日を避けて白くなった手首に擦れて、赤く跡が残る。

     私が何をした。何かの間違いだ。陛下に謁見を。
     あなたにはその陛下より追放令が出ております。顔も見たくないと、審判を拒まれて。
     嘘だ間違いだあの人がそんなことを言うはずがない。
     あなたはもう将軍じゃない。謁見など望めると思うのか。

     彼女はその言葉が信じられず、目を大きく見開いた。
     その表情がおかしかったのか、男らは奇妙な声をあげて笑う。

     あんたはもう「星」じゃない。

     彼女は錯乱した頭で必死に考える。
     何故だ何故こんなことに謀反など嘘だ、こいつらは嘘をついている。そうだ、嘘を───あの人が私を追放するはずがない。

     嘘だ、お前たちの言うことは全部嘘だ。だって私の腹には子供がいる。

     男たちの顔から笑いが消える。
     勝ち誇って彼女は叫ぶ。

     これは陛下の子供だ。陛下と私の子供だ。

     男たちは一瞬目を見交わし、冷えた視線を彼女に投げた。

     ならば、なおさらいてもらっては困る。

     彼女は驚愕で言葉を失う。
     なぜだ、なぜ王子がいては困る。頭の奥で割鐘が鳴っている。
     ああ、こいつらは、バジの連中か。

     雨が降っている。
     打ち付けるほどの勢いはなく、静かに冷たい雨が降っている。
     雨の王都を、小柄な影が引き摺られていく。女は叫ぶ。
    ───陛下、陛下、どうして。これは、陛下の子供です。


     頬をゆるやかに撫でる風の気配がして目を覚ますと、視界が翳っているのに気が付いた。
     不審に思い目線を上げる。枕元、ちょうどナギの顔の真横に友人が立っていた。
    「大丈夫か? ずいぶんとうなされていたようだが」
     仮面の画家はナギを覗きこみ、歌うような調子で心配の言葉を口にした。ふざけた風に聞こえるのはその仮面が笑んでいるからだが、実際ふざけた男だと思う。
     ナギは今まで黙ってそこにいたらしい画家に、不機嫌な声で応じる。
    「インキュバスのような男だな……。一週間軟禁されてみろ、夢見だって悪くなるだろう」
    「そんなものかね」
     画家は笑う。仮面のせいではなく、本当に笑っているのだ。
     ナギは溜息をついて起き上がり、眠っている間にベッドから落とした本を拾いあげて塵を払った。午後の穏やかな日差しに瞬く。
     白の館にとどめ置かれて、今日で一週間になる。
     一体何を警戒したものか、バジの連中はキラの審判が終わるまでナギを軟禁することにしたらしかった。外出も用心という名の監視なしではままならない。手紙の類も、館の使用人かバジ家の連中を通さなければならないため、バジ以外との連絡手段はほぼ絶たれている。
     ヨダカの「謀反」にはバジ家が関わっていると告げているようなものだった。ヨダカやキラと同じ隊で従軍してきたナギにうろつかれては厄介なのだろう。
     ナギは自分のベッドに腰掛け、表情の読めない画家を見上げる。
    「……今日はどこから入ってきた?」
    「表から」
     画家はそう言って、ナギの背後で開け放された窓を指差す。柔らかな風がそよいでいた。
    「そこは一般的には裏庭というんだ」
    「外に向いてるならみんな表だろう」
     金属を揺らすような音を漏らし、画家が笑う。
    「……お前と話すと馬鹿にされている気分になる」
    「それはすまんな」
    「………。ところで、お前がやってきたということは、事態に進展があったのか」
     画家の相手を早々に諦め、本題に話を移した。
    「ああ、キラが釈放されそうだよ」
     画家は淡々と口にした。
    「本当か……」
     腰を浮かしかけたナギに画家は軽く頷いて、言穂を継いだ。
    「いくつかの証拠が、信用ならないものとして翻ったようだ」
     瞬間、ナギは安心して息をつきかけ、続いた言葉に凍りついた。
    「バジ派の役人がそう判断した」
    「……それは」
    「何らかの取引をしたんだろうね」
     取引、とナギは繰り返す。
    ──あのキラが、バジと?
     ひどく衝撃を受けていた。キラに裏切られたような感覚だ。衝撃の正体を探り当てると、ナギはかぶりをふって呻いた。
    ──キラは、妥協などしないと思っていた……。
     裏切ったなどと考えるのは身勝手に過ぎるだろうが、ヨダカのためならキラは名も権威も命すら捨てるだろうと、根拠もなくそんな風に思っていたらしかった。
     画家はそんなナギをただ眺めている。
    「……キラの様子は?」
    「さあ、さすがにそこまでは分からんね」
     画家は飄々と口にして、笑った。
    「いずれ審判が決したら会えるようになるだろうさ」
     そうだろうか、とナギは考える。キラはナギとの面会を拒否するかもしれない。
     ナギはバジ家の人間だ。キラはおそらく、バジを許さない。
     不意に自嘲したい気分になった。バジの動向でさえ、バジ家の自分よりも他人である画家の方が詳しい。画家とてバジの刺客ではあるが、皮肉なことだった。
    「どうした?」
     様子がおかしいことに気付いたのか、画家はナギを見下ろして問うた。
     ナギは視線を落とし、口の端に笑みを浮かべる。
    「私はこうして、飼い殺されていくんだな……」
     口を塞がれ耳を覆われ、両手両足を「バジ家」によって縛られて、そのまま一生を過ごすのだろう。
     バジでさえなかったら、などとは今さら口が裂けても言えなかった。ひどく自虐的になっているのを感じる。全身に鈍い倦怠が広がっていった。
    「それも分からんね。人間の一生など予測もできない方に転がっていくものだから」
     画家は呟いて笑い、片方の掌でナギの目元を覆った。
    「よっぽど夢見が悪かったらしいな」
    「……最悪だった」
     そうか、と画家は何が面白いのか笑った。つくづく魔物じみている。
     そのままナギは目を閉じて、ふと考える。キラが何の思惑もなくバジに膝を屈するとは思えなかった。少なくとも、ナギの知るキラはそういう性格ではない。
     キラと取引をしたことなど、バジの人間に聞いても認めないのは見えている。彼女に会って問うしかなかった。
     そしてあるいは、キラはヨダカの行方か身の安全なりを条件にしたのかもしれない。───そうであってほしいという願望に過ぎない。キラだけは容易に落ちることはないのだと、そう信じていたかったのだ。
     悟られないよう、ナギは薄く笑う。
     バジの手の中にいながらそんなことを考えている自分が一番滑稽だと、まるで他人事のように思った。
     軍指令部の門前で抜けるような青空を仰ぎ、陽光の眩しさにナギは目を細める。足を動かすのさえも億劫で、しばらくの間その場に立ち尽くした。
     ようやく白の館からの外出許可が出て、即刻ナギは王都に戻った。軟禁中も折に触れては気になっていた隊の様子を見に軍の訓練場に向かったところ、待ち構えていたかのように呼び出された。移動を言い渡されたのはついさっきのことだ。
     ナギにしては珍しく食い下がってみれば、ヨダカの隊は解隊されたという。全員別々の諸隊、異なる地域に配属され、すでに出発した後とのことだった。
     完膚なきまでにバジの勝利だった。ナギにできることなど、何一つとして残ってはいなかったのだ。
     ヨダカ追放の一報以来、幾度もナギを襲った無力感が今またナギを足元から突き崩した。いや、追放を知ってからではない───ヨダカが国王を愛し始めてから、ナギは絶え間なく無力感に打ちのめされてきた。
     いたたまれなくなって暝目する。太陽の残像が網膜に映って、不規則に蠢いた。
    ──これは、罰なのだろうか。
     思い、何のだと自分に問い返す。
    ──……あの時、ヨダカから逃げたことへの。
     遠征に出る前、会う機会はいくらもあった。しかし、顔を合わせることを恐れた。
     ナギにとって彼女は「星」だった。その輝きが褪せているのを確認するのを恐れ、彼女のためにしてやるべきことすらしないで、ナギは逃げたのだ。
    ──その結果がこれか?
     ナギは奥歯を噛み締めた。己が怠惰の結末はあまりにむごい。
     ヨダカの行方は誰に聞いても分からなかった。
     あるいは伏せられているのかと思ったが、真実誰も知らないのだ。ヨダカ追放の算段は水面下でつけられ、謀略に関わっているのは王と側近、そしてバジのみだったらしい。
     ヨダカ造反の一報を聞いたキラは愚かな、と口走ったが、バジの口車に乗せられて彼女を追放した王が改めて憎かった。
     普段は暗愚でもなく、かといって賢明とも言えぬような平凡な王だ。折りしも乱世に生まれついたが、臣下が強く働きかけてようやく遠征を決断するような性格で、周囲を譴責したことはほとんどないと聞く。
     その王がなぜヨダカを即日追放にしえたのか。バジの力もあったろうが、彼の内実はナギも知らない。また、知りたくもなかった。
     ヨダカ追放のついでに、バジ家は城から反バジ派の一掃をも企図しているらしい。これから一層、城はバジ派に占められ、王族派への締め付けが厳しくなるだろう。結局、ヨダカの追放は王族の首を絞めるだけでしかない。
     キラは現在、謀反には直接の関連なしと判断されたものの、領地の没収と官等一部剥奪、それに伴っての謹慎処分となっている。官等の一部剥奪はいわば格下げだが、そのためキラはこれまでの屋敷に住むことができず、バジ家が実質的にその身柄を預かっているらしい。
     バジの現次頭の領地である、副都エトニルス郊外の屋敷でキラは謹慎しているという。
     キラもバジの手に落ちたのか、という暗澹たる思いと、キラならば何か考えがあるのではないか、という希望がナギの中で拮抗していた。
     王都から副都まではさほど遠くもない。今、キラに会いに行かなければ、今度こそ本格的に自分を嫌いになりそうだとナギは思った。


    「奥にご案内致します」
     そう言って一礼したメイドの後をついて廊下を歩きながら、ナギは屋敷の様子を観察した。
     質素なものを好む武人のたちのキラにしては、意外な屋敷に住んでいるという印象を受けた。いささか年季は入っているものの、元来の豪奢な姿は容易に想像がつく。
     貴人の邸宅にしては小さいものだが、あるいは別荘などを買い取ったものなのだろうか。長い間放置されていた屋敷に突然人が住み始めたような、奇妙なよそよそしさを感じた。
     耳をすましても、聞こえるのは風の音ばかりだ。活気がないというよりも、人の気配そのものがない屋敷だった。
     郊外ということもあるが、屋敷そのものがどこか閑散としている。謹慎中の身では新たに使用人を雇い入れるにも、王都に気を遣わねばならないのかもしれなかった。
     唯一、メイドは王都でのキラの屋敷でも見た顔であるのが救いだった。せめて数人の供回りの者は連れてくることができたらしい。
     キラを取り巻くこの状況の中で、気心の知れた使用人が彼女の身近にいることに安堵する。
     それにしても、寂しい屋敷だと思う。数少ない使用人も謹慎中の主人を思い、息を詰めて勤めているのかもしれない。
     緋毛繊の廊下の窓には、木枯らしが揺れていた。

     メイドが木製の扉を前に、二回のノックののち、お連れしましたと中に向かって呼びかけた。
     ナギはそれを聞いてようやく、キラの居室に直接通されたのだと気付く。
     一瞬緊張したが、すぐに「入れ」というキラ独特の低い声が続いた。
    ──部下に命令、叱咤する時もいつもこの声だったな……。
     思うと、急に懐かしい気持ちになる。随分と昔のことのように感じられた。
     メイドの手によって扉が開けられると、正面に形ばかりなのか、灰のない暖炉が目に入る。その右側には黒光りする書棚が重々しく控え、反対側には潔癖なまでに白い壁を縦長に切り取った窓枠に寄り添って黒檀の机が置かれ、全体に落ち着いて飾り気のない印象から応接間というよりも貴人の書斎か勉強部屋のように見えた。窓の外には針のような木の枝が葉を落としている。
     キラは机に片肘をつき、客人を一顧だにせず窓の外を眺めていた。
    ──……痩せたな。
     雲間から差す弱い白光がかえってその顔に疲労の色を浮かびあがらせているのを見て、ナギは胸を突かれる。元より繊細な容貌ではあったが、戦場を駆けていた頃の漲るような気迫が削がれ、顔色は青白いまでに血の気がなかった。
     ヨダカの喪失がここまでさせたか、と思うと心が痛んだ。
     しかし一方で、考えていたよりも容易に対面が叶い、またキラがこうして静かな面持ちであるのを目にすると、おのずから安穏とした気持ちが広がっていく。
    ──やはりキラは、ヨダカの身の保証を得ているのか。
     しばらくして、キラはナギにふいと視線を向けた。メイドに下がるように命じる。
     扉の閉じる音が背後でして、部屋の中に二人残された。少しの間、静寂が下りる。
     ナギがどう切り出したものか言いあぐねていると、キラのほうから口を開いた。
    「久しいな。……といっても一ヶ月くらいか」
     口の端に笑みさえ浮かべて、キラは言う。
     そうだな、と応じ、ナギは奇妙な齟齬を感じた。それに戸惑いながら、書棚の前に足を進める。
    ──この、穏やかさは、何だ?
     何かがおかしい、考えながらやはりナギは口にはできなかった。書棚を見上げる。書名の上を目が滑っていく。
     キラはそのまま、微笑んで言葉を重ねた。
    「バジ家の館に留めおかれていると聞いていたが、晴れてお互い自由の身か」
     舌が貼り付いたように声が出てこなかった。ヨダカ追放の一報を受け、激昂した同じ人物とは思えなかった。
     まさか想像が的中しているなどとは考えたくない。
     彼女のほうを見ないナギをいぶかしんだか、キラは
    「ナギ、どうした?」
     と問う。その声の朗らかなことに絶句した。
    ──何が起きてる?
     憤怒をぶつけられ追い返されることくらいは予想していた、それならそれで構わないとさえ思っていた。バジはバジなのだから仕方がないと納得もしたろう。
     こうして何事もなかったかのように接されることは、考えてもみなかった。
    「……なぁ、ナギ」
     キラの声に、唐突に暗いものが混じる。
    「私は、双頭とも射落としてしまおうか、と思っているよ」
     思わずキラを振り向いた。笑っている。
     射るような目をしてナギを見つめながら、キラは笑っていた。
    「黒も、白も、どちらも一人残らず焼いてしまおう、と」
     ナギは言葉を失ったまま、息を殺してキラを見返す。
     キラは錯乱してなどいなかった。双頭の意は明らかだ。
    ──王家も、……バジも、ともに滅ぼす、と。
    「さあ、どうする? ナギ」
     キラはさらに笑みを深くする。ナギの腰に携えた剣を見遣った。
    「私は今、丸腰だよ。……その剣で私を殺すか」
     言外に、できるわけがないとの意味を含ませている。それを感じつつも、ナギはどうにか声を絞り出す。
    「……ヨダカ、は……」
    「故郷に帰った、と聞いたが」
     それがどうしたとでも言いたげな口ぶりに、ナギは唖然とした。
    「生きて……、いるのだろう?」
    「おそらくな」
    「ならば、なぜ……」
     なぜ、の後が続かなかった。
     黙りこんたナギを無表情に眺め、キラは顔を再び窓の外へと向ける。
    「……愚かな、女」
     キラはぽつりとこぼした。
    「何、が」
    ──何が起きてる? 何があった?
     キラの言葉からは、一切の感情が欠落していた。
    「愚かな女だ。あんな男に惚れ抜いて、あんな男のために、身を滅ぼした。……止めろと言ったのに」
     キラは幾度もヨダカをさとそうとし、その度に失敗していた。美しいが身なりを構わないヨダカに、王は妻や他の妾と毛色の違うものを感じているだけだと、傍で見ていれば明らかだった。
     しかしキラがそれを口にすれば、あるいは怒り、あるいは泣き出して、最後には物止みになって終わっていた。
    「見ていただろう。恋に狂ったあの女は、……これ以上ないほど、醜かった」
     キラが笑った気配がして、ナギは瞠目する。
    「愚かな女、醜い女。どこへなりとも行って、ふさわしい死を迎えればいい」
    「……もう、止めろ」
     ナギが呻くと、それに退屈そうに視線を遣って、キラは笑う。───慄然とした。
    「あの醜悪な姿を、お前だって見ていたはずだろう。その愚かさと醜さに見合うように、不様に野垂れ死ねばいいのさ。似合いの結末だ」
    「やめろ……」
     同じ言葉を呟き、知らずナギはキラへ一歩踏み出した。キラは気にした様子もない。
     これ以上は聞きたくなかった。耳を塞いでしまいたかったが、キラの瞳がそれを許さない。
    「無実の罪を着せられ追放され、それでなお生き長らえるのだって、武人として意地汚くて醜いことじゃないのか。……あの女は、死ぬくらいのことも満足にできないのか」
     キラは口元だけで笑い、一語一語区切るように発音した。
    「──ああ、きたない。なんて、穢くて、愚かな、女」
    ───やめろ。
     自分の声がどこか遠くで反響した。
     やめろと再び喘いでふと目蓋を開くと、驚いたキラの顔が、下にある。机の上に両手をつき、キラを見下ろしている自分がいた。
     衝撃でだろう、襟がはだけて白い喉元があらわになる。痩せて、細い首だった。
     私を殺すか、と笑ったキラの声が耳元でよみがえる。
     突然ふってわいた衝動を止められなかった。
     ナギは両手をキラの首筋に滑らせる。
     両手の指で難無く一周してしまう、細い、美しい、紛れもなく女の首だ。指に少しずつ力を込める。髪で遮られてキラの顔は見えなかったが、小さく呻くのが聞こえた。
     掌に脈動と温みを感じる。これが自分の手によって失われる瞬間を、ナギはいまだ知らない。
     意識して指先で喉を抉る。後頭部を机に押し付けて、上から徐々に体重を掛けた。
     指先から伝わる脈動と自分の鼓動が重なり、奇妙に心地良かった。まるで同じ心臓を共有しているようだ。この掌で指先で二つの身体が繋って、同じ血が二人に流れているようだ。馬鹿な想像に喉だけで笑う。
     この掌の脈動が絶えたら自分も死ぬだろうか、それならそれで悪くないかもしれない、そう思う。
     その時だった。
     白い掌がナギの手に添えられる。キラの白い指の先がナギの手を掴んだと思うと、爪を立てた。微かな痛み、見れば手の甲に血が滲んでいる。
     キラが血と同じくらい赤い唇で、にいと笑った。
     一瞬、ナギは我に返った。
     怯んだのを見逃さず、キラはナギの胸元を突き飛ばす。勢いのままナギは背中をしたたか書棚に打ちつけ、よろめいた。唐突に部屋の中に音が溢れ、書棚がきしみ本が盛大に落ちていく音がする。
     自分の呼吸が身体の中で無闇に響いた。ふらつく足元の均衡をとろうと背中の書棚に寄りかかると、指先に木の手触りがした。眩暈はおさまらず、書棚を頼りにくずおれた。
    ──……今、私は何をした?
     己ながら信じがたい気持ちでいた。しかし、掌には確かに感触が残っている。
     混乱する思考を必死でまとめようとしていると、顎の下に冷たい感触が当てられた。視線を落とし、そして柄までたどっていく。キラの白い手が無造作に剣を握り、刃がナギの喉元に突きつけられていた。
     顎に添って当てられた刃に促され、ナギは顔を上げる。
     キラがいつの間にナギの剣を奪っていたのか、ナギには見当も付かなかった。
    「自分の剣を抜かれたことも気付かないとは、情けないね」
     キラはそう言って笑った。まったくだ、とナギは力なく笑う。
    「それでは私どころか誰ひとりとして殺せないよ。殺せないということは、救えないということだ」
     微笑むキラを仰ぎ、ナギは静かに目を伏せた。
     彼女はさだめしうつくしく堕ちていくのだろう、とそう思う。
     自分はどうなのだろう、きっと彼女のように堕ちていくことはできないのだろう。自嘲することすらできないほどはっきりと予感し、呆然とする。
     キラはナギの喉元に剣を突きつけるのを止め、今度はその剣を愉しげに眺めている。
     キラに爪を立てられた皮膚の上では、傷から零れた血が丸く凝っていた。
    ユバ Link Message Mute
    2019/11/20 11:50:52

    這う掌のつめたくかなしく

    ヨダカが追放されてからのナギとキラ #緑川ゆき #緋色の椅子

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