What you never know 年明けの喧騒もとっくにすぎた江戸の街は、ぽっかりと穴があいたみたいで、なんだかさみしい感じがした。
数日前までうすく刷いたように積もってきれいだった雪も、今はぐずぐずにとけて、水たまりにたまっていた。うすぐもりの道を歩く人にも元気がない。
空白、だ、まるで、春がくるまでの季節のながい休暇みたい。
暖房のきいたくるまの後部座席で、窓の外を流れてく景色をみながら、神楽はふとおもう。窓ガラスは水滴がついて、白くくもっていた。それを手でこすって外を見やすいようにしても、自分の吐いた息で、すぐにまたくもってしまう。ガラスにあてた指先がかじかんで、ちょっとくやしい気がした。
「別れる準備くらいはしとくんだな」
運転席の土方は、いきなり突き放したような声で言った。
準備は早いに越したことは、ない。お前がどんなふうに思ってたとしたって、あの子は姫なんだから、と。
とっさに何も返せなくて、運転席のほうをみた。私のいる、斜め後ろの角度から土方の顔が少しだけわずかに見えて、その、彼の顔にはどんな感情も読み取れなくて、それがかえって言葉を失わせる。
――なんで、と口をついて出そうになった声を飲み込んで、少し考えて、そよちゃんはそよちゃんある、と、それだけを答えた。
このながい休暇が終われば春になって、春になればみんなでお花見。今年もアネゴがかわいそうな卵を作ってくるのかもしれない。
春になった江戸のにぎやかさを、あの子は知らない。窓ガラスから伝わるこのじんわりとした冷たさも、皆で白くなった息を笑うことも、雪道でつなぐ手の暖かさも、彼女は分からない。
沈黙した車のなかで、助手席の総悟がぽつりと言った。
―――あんたは、どうなんでさぁ。
しゃく、と音がして彼女の赤いくちびるからしずくが落ちた。
小さくてきれいな、形のいいくちだとおもう。紅をのせてなくてもいつもしっとりと赤い。
りんごを差したくろもじを果汁が伝って、彼女のピンク色の小さな爪の先がぬれた。白い人指し指の腹まで流れて、どこかいまいましいような気がした。
最初に会った時もそんなことを考えた、と思い出す。赤い唇の女なんか万屋の界隈では珍しくない。白く塗った顔に濃いアイメイク、厚めのくちびるが熟れたようにつやつやと光る女。
―――だけど、彼女はちがった、んだとりんごを食べる彼女を見ながらぼんやりとおもう。
あのとき、彼女のまわりだけは時間の流れ方が変わっていたから。たからものを見つけたような感じがした。
何かを負う―――時間というものを負うことが彼女をそうさせていることなんか知りもしなかったけれど。
一緒にいれば優しさが伝わってきて、やわらかい、暖かい気持ちになって、そんな友だちなんか今までいなかった。定春は友だちだけどこんな気持ちにはならなかった。――だから、そよちゃんは特別、なんだ、私にとって。
なんとなく彼女を見ていると、地球に来たばかりのころの、なんにも知らない自分を思い出した。だけどあの頃、銀ちゃんに出会う前の私には護りたいものなんかなかった。
わたし、ずるいんです、と微笑んだ彼女は、自分から城に帰っていくことを選んだ。
みんな自分の護りたいものを護るんだと、やり方はどうであれそうやって生きていくことを、私はもう知ってしまっている。
城の彼女の部屋のなかは真冬なのにほっこりと暖かく、広い座敷の障子は閉ざされていた。床の間の脇の、たがいちがいに板を渡した棚の上に白梅が飾られて、そこにあかりとりの光が落ちていた。
枝にちいさくついた梅のはなびらに光が映って、きらきらと明るいのを、ただぼんやりと見つめていた。
この子は、いつまでこうしていられるのだろうと、おもう―――別れる準備、という言葉が、頭のなかでくりかえし響いた。なんども何度も――飽きることもなく。
じゅんび―――別れる、準備。それは誰のための?
「…女王さん?」
光を映した黒目がちの目が揺れて、じっとこっちを見ているのが分かる。どうかしたんですか、と、心配気に言われて、首をふって笑う。
「なんでもないアル。次はなんの話が聞きたいネ」
彼女は少し考えたあと、首をかしげていたずらっぽく笑った。さらさらと音がするように、肩から長い髪が落ちて瞬く。
「…沖田さんのこと、聞いてもいいですか?」
反射的に、は、と間抜けな声が出そうになっておさえた。――なんでわざわざ、アイツの話なんかするアル。
「…そんなこと聞いてどうするネ」
そよちゃんは何がおかしいのか、くすくすと袂を口に当てて笑っている。
「なんとなく、です」
「…なんとなく?」
「ええ、なんとなく、女王さんが沖田さんのことどう話すのかなって」
ふふ、とそよちゃんは16歳のかおで言う。
「……土方のことじゃなくて?」
ちょっとした逆襲のつもりでそう応えると、とたんにそよちゃんはうつむいて、反対に袂がつぅっと上がって、
「それも、…あとで聞けたらいいな、なんて…」
そんなことを言うものだから、土方死ね、と、かなり本気で思った。
襖一枚へだてた向こうでは、くすくすと話す声が続いていた。あの年代の少女ってのは本当に話がつきないもんだな――あの二人の場合、普段離れているから、っていうのがあるんだろうが。
柱に体重を預けて、だらしなく脚をひらいて座り込んで、腕は両脇に落としていた。ちらっと時計を見ると、チャイナを城に連れてきてから2時間しかたってないことに内心おどろく。日暮れまであと3時間このままなのかと考えて、うんざりした気分になった。やれやれ―――いつも護衛してる時には感じないんだが、な。思うと、自分で笑えた。
彼女が――姫さんが、どうしても会いたいのだと言って、チャイナを城に連れてきていた。しかし実際にそう言ったのは総悟で、おれじゃない。おれはあの二人を、会わせたくなかった。
―――あんなことを、言うつもりはなかった。
思って、またおかしいと感じた。事実を言っただけだ。あの子は姫で本来はおれやチャイナには縁がない。もう、本当は会わないほうがいいのだ、互いのためにも。会えばそれだけ情がうつるんだからな。
思わずため息をついて、天井をあおいだ。木目が歪んで人の目のようにも川の流れのようにも見えた。本当は分かっているのだ、あの時自分が感じていたことも、自分が何をしたいのかも。
けれど、それを選択する気ははじめから無い。
あの子はこの広い城で、一日中なにをして過ごしていたのだろう。退屈していたのだろうか、辟易していたのだろうか、ぬるま湯のような日常の中で――あぁ、まただ、もう考えないほうがいい、そう思うのに。隣の座敷とは反対の静けさに、どんどん思考を引きずられる。
あの時、排水溝の脇ではんぱに溶けて水たまりに広がった雪を見て、どうしようもなく胸がむかついた。車の排気ガスに薄汚れて崩れかけ、醜い実体を伴ったまま水たまりに沈み込むそれが、思い切れない何かのようで。思わず視線を逸らした時、別れる準備、という実際は口に出したくもない言葉を口にしていた。
結局はやつあたりだな、と結論を出すと、我ながら下を向いて苦笑するしかない。だから自分を抑えるように、別れる準備、なんて言ったのか――ばかだな。
この年になってもまだ、おれは人や物に当たる以外の発散の仕方を知らないでいる。感情を押し殺すことはできても、逃がすことができないからなんだろう。
むりやり押さえつけた感情がどれ程あとをひくのかも、それでかつて自分を愛してくれた人を傷つけたことも、自分で分かっているつもりなのに、な。
不自然にたわめられた感情や衝動は少しずつ歪んだかたちでからみあい、やがておれの中に奇妙な捩れを作っていった。それでも良かった、近藤さんがいて真選組があるなら、いくらでも泥をかぶる。
それ以外の大切な誰かなどいらない。おれは誰にも何も残さない。たとえ死んだ後でも、真選組のほかには。
隊士の中にも家族を持つ者がいないわけじゃない。だが、おれには必要ない。例えそのことがおれの中の捩れを加速させていくのだとしても。
おれたちが追う志士とおれたちの間には本質的に違いなどない。同じヤクザ者だ。結局は、澱んだ水の中で這いまわってようやく生きていける。いつ死ぬか分かったものでもないし、今は金の問題はなくとも、いつ上の連中に放り出されるかもしれない。その程度の存在だ。
だが、それがどうした?おれたちはみんな、ただの歯車の人生なんだぜ、どれだけ上にいったとしても。
だからこそ思う――――おれに近藤さんがいてくれて良かった、と。重要なのは自分自身の手で作り上げたもので、それ以外には何の価値もない。少なくともおれは価値を見出さない。近藤さんと共に作り上げた真選組だけが、おれの生きる価値を支えてくれる。
「…なんで」
ぽつりと総悟が発した声によっておれの思考は打ち切られる。なんか、嫌な予感がするんだよな。
「あ?」
「なんであの時、答えなかったんでさぁ」
こいつは、妙な時に妙なかたちで勘がいい。
「あんたはもう、別れる準備が終わってるっていうんですかい」
おれがしばらくどう答えたものかと考えていると、総悟がそう続けた。まったく―――本当に、なんだっていうんだ。
「何を、今さら。別れる準備もなにも、仕事だろ」
何でもないふうを装って言うと、あきれた、というように息を吐いた。
我ながら、ずるい大人になったもんだな、と思って小さく苦笑した。仕事を言い訳に、あの子のことをはぐらかそうとするなんてな。
だけどもう、引き返せないんだよ。
そんな、誰かを愛しいと思う資格は、若い頃に置いてきてしまった。そういうおれは、さびしい大人なんだろうか?
それでもいい、おれには真選組がある。
―――たった一つでも捨てられないものがあるなら、どこまでも走っていってやる。
「なんであの時、答えなかったんでさぁ」
おれがその言葉を口にした瞬間、奴の動きが止まるのが分かった。
ただ、止まったというだけ――強張ったり身を硬くしたりとかじゃない、少し止まって相手の言葉に注意を傾けて咀嚼しているふりをしている。
そうして土方は落としていた視線を上げて、しばらく探るようにおれの顔を眺めた。この男は時々こういう目をする――油断なく相手の考えを読もうとするような、それでいて自分を晒すことはしない、他人とあくまで距離を置こうとする目だ。上辺だけの静かさを浮かべた、昔は絶対にしなかった種類の、すっかり分別を覚えた大人の男の表情。
「…あんたはもう、別れる準備が終わってるって言うんですかい」
軽く苛ついて、おれは言葉を重ねる。土方を表情を変えない。そのままの静かな表情で返した。
「何を、今さら。…別れる準備もなにも、仕事だろ」
そう言って、小さく息をついて再び視線を落とした。あぁ、だから、とおれは思った。
この男はいつも、慎重に言葉を選ぶ。そうとは気づかせない範囲で、決定的におれを傷つけることのないように。
いつから気づいたんだったか、―――結局のところはそうして近藤さんと一緒におれを見てるんだってこと、自分よりも若い人間を見るように、おれを見ていた。決しておれと同じ立ち位置には下りてはこない。
近藤さんと、あの人と、同じ場所からおれを見ている。
あの人が死んで、おれは一時的に隊を抜けて故郷に帰った。
唯一の肉親を亡くしたおれを気に掛けた近藤さんは、隊の仕事を片付けて一日遅れで故郷に戻ってきた。
喪主として姉を弔った。久しぶりに帰った故郷の人たちは優しく、葬儀など万事に手を回してくれた。若くして胸を病んで死んだあの人を悼む声は多かった。
近藤さんがおれの上司として、また、昔からあの人を知っている者として弔辞を述べた。土方は葬儀に来なかった。
それをどうこう言うつもりは、もうなかった。―――疲れていた、色々な感情がぐるぐると頭の中を過ぎ去って、けばけばしい色をした衝動が全部ぶちまけられてぐちゃぐちゃに混ざり合って、あの時初めて精神も刀のように毀れるのだと知った。心もまた、毀れて、何も感じなくなるんだと。
ひっそりと小さな葬儀を終えて、新たに小さな骨壷が沖田家の墓に納まったあと、ほとんど偶然にその短冊を見つけた。
遺品の整理をしながら、姉の書見台の引き出しの底にそっとしまわれていた。その古い短冊の筆跡は恐ろしいほどの癖字で、見間違えるはずがなかった。
おれが動きを止めてしまったことに気づいた近藤さんがおれの手元をのぞき込んで、やっぱり見慣れた字だということを認めたのか、ぽんと軽くおれの肩に手を置いた。
本当は分かってたはずだった、あの人があの男を好きだったことも、あの男もまた、彼女を大切に思ってたことも。
だから彼女がそれを大事に取っておいた理由もなんとなく分かる気がした。
―――あの人は、はじめからすべてを許していたんだ、と。
そしてそれは、自分のまるで予想もつかない場所で通じ合っていたのだと。
その瞬間、くやしい、と思った。肺をぎゅっと力任せにつかまれたみたいに痛くて苦しくて、息もできやしない――どうしようもない、ほど、喉をせりあがる、叫びによく似たものが、頭の中で反響していた。こんな…、いたたまれないことなんか、ない。
決して届きはしない、あの場所に、おれは行けない。
人は二度死ぬという、初めは肉体の死、次は忘れられることの死、それなら彼女には二度目の死は決して来ない。
気づいたとき、おれは泣いていた―――近藤さんが、ずっと傍にいてくれた。体を丸めて泣くおれの背を、隣でずっとさすってくれていた。
あの時初めて、おれは姉の死を受け入れた。
受け入れた、なんてかっこいいものじゃない、やっと、理解した。あの人とおれとは違う存在で、土方とおれも違う存在で、だから姉ではないあの人がいてもおかしくない。だけどあの人は、もういない。
机の底に、この小さな短冊を沈めていたあの人は、もういないんだ、と。
あの短冊をおれは今も持っている、もう握りしめてぐしゃぐしゃになってしまったけれど。屯所の部屋の、押入れの風呂敷包みのなかに閉まったままのはずだ。
別れる、準備、なんて言葉を口にしたのは、あんたの中にあの人の存在があるからなんじゃないんですかい。もういないあの人を傷つけたことか、失って傷ついたことか、が、あんたに根を下ろしているからか――?
おれにはあんたが分からない。おれとあんたは別の人間だから、聞かなければ分からない。
あんたは、あの人を愛していた、そして今、姫さんを愛そうとしているんじゃないんですかい。
でもあんたは分かってない――あの人がずっとあの短冊を持ってたことだって、あんたは知らない。
「仕事だから、いつ会えなくなってもいいってわけですかい」
聞くと、土方はお前な、と返した。
「仕事っていうのはそういうもんだろうが」
「…たとえその、仕事の相手を好きになったとしても?」
土方は一瞬、ぎょっとしたような顔をして、すぐに、お前、と言った。
「おれじゃない、あんたのことでさ」
できるだけ、自然な声になるように努力した。
「姫さんが好きなんじゃないんですかい」
一瞬、時間が止まったような気がした。自分自身が発した言葉が羽のようにふわりと耳朶に入り込んで、ゆらゆらと肺の中を揺れて、ぽと、と胃の底に落ちた。
――あの人がいた昔にはもう決して帰れない、それならせめて、あの人が願うだろうことを叶えてあげたいと思う、その気持ちは間違いだろうか。
あの人は、少女のように純粋な人だった。誰かを憎むよりも幸せを祈る人だった。幸せを祈ることで自分も幸せになれるんだと知っている人だった。――だから、あの人へのせめてものはなむけに代えて。
「もしもあんたが、傷つけることや失うことを恐れて、自分から手を放そうとするんなら、おれはあんたを許さない」
おれは土方の目を見つめていた。驚いた、ということをそのまま表している目の色をしていて、それがなんだかおかしかった。
これくらいの意地悪ならきっと、許されるだろう―――もう、遠い場所に、いるんだけど。
なぁ土方さん、きっといつか、あんたはおれがこんなことを言った意味を知ることになるだろう。その時は、あの人を失った痛みは跡しか残っていないとしても。おれ自身もまた、いなくなっていたとしても。
冬の夕暮れの凍みる空に夏の流れ去る風がふと止んだときに、秋が生命の呼吸を静かにとめる中でも、何度でも繰り返し思い出せばいい、今この瞬間、この世にいないあの人の影が優しくまぶたの上に揺らぐのを。
驚くほど早く時間が過ぎて、空がむらさきとオレンジと青との綺麗なグラデーションを作るようになって、私たちの会話は少し途絶えがちになった。
次はいつ会えるのか分からない――そんなことを確かに自覚していたからなんだろう、私たちは開け放たれた障子のほうに向けて座って、ぽつぽつと、何気ない、どうでもいい話をしていた。そのうちにそよちゃんが、女王さん、と呟くように言った。
「何ある?」
「あのね、」
「うん」
そよちゃんはちょっとだけこっちを向いていたので、私もちょっとだけ彼女に視線を向けた。白い頬が夕日でオレンジ色になっていて、前髪がきらきら光っていた。光ってるのは前髪だけじゃなくて、瞳もまっすぐこっちを見ていて、とても綺麗だ、と思った。
「…神楽ちゃん、って呼んでもいいですか?」
いまさらそんなことを真剣な顔で聞くから、私は思わず笑ってしまって、そのすぐあとでなんとなく理解して、なんだか切ない気分になった。だから、できるだけ彼女をまっすぐに見返して、笑顔で頷いた。
そよちゃんは、ぱっと花が咲いたみたいに笑って、神楽ちゃん、と呼んだ。
「何?」
「神楽ちゃん。…神楽ちゃん」
彼女がとても嬉しそうに私の名前を呼ぶので、なんだか照れくさくなったけどなんとなく私も真似してそよちゃんの名前を呼んだ。
「そよちゃん」
「神楽ちゃん」
「そよちゃん」
そうして、二人で顔を見合わせて、くすくすと笑った。ずっとこうしていられればいいのに、なんて頭を掠めたけど、会えなくても大丈夫だ、と、そんな気がした。
だって、会えなくても、友達は友達ね。離れて壊れちゃうようなのは、本物の友情じゃないある。そう考えて、思いついた。
「そよちゃん、私たち何か交換するある!」
そよちゃんは分からなかったらしく、え?と首を傾げた。
「そよちゃんが私の何かを持って、私がそよちゃんの何かをいつも持ってればいいね。そしたらいつも一緒ある」
そよちゃんは段々と意味が分かってきたらしく、それが完全に飲み込めたと同時に、にっこりと破顔した。
おれと土方がチャイナを迎えに姫さんの座敷に行くと、チャイナはなぜか髪をまとめなおしている最中だった。
「…何やってんでさぁ」
チャイナが減らず口を叩く前に、姫さんが、秘密です、と言いながらチャイナと視線を交わして笑った。
「女どうしの秘密ね。知りたい奴はエッチある」
チャイナはにやーと笑いながら言い、くだらねえ、と思ったおれは、
「誰が知ろうってんでさ」
と言い返した。どうして女ってのは"女どうしの秘密"が好きなのか。そのくせ、秘密をしゃべりたがるのも女なんで――と考えつつ、この二人にはそれは当てはまらないような気がした。
「んなもんどうでもいい、行くぞ」
土方はいかにも面倒そうに言ってチャイナをうながした。ふ、と姫さんがさみしげな表情をした。でもチャイナが彼女をのぞき込んで、またね、と笑うと、微笑んでそれに応じた。
おれにはその顔がどうしてもどこか無理して笑ってるように見えて、横目で土方を盗み見た。一瞬、だけ、かすかに眉をひそめた――もしかすると、こうなることを予測してたから、チャイナを連れてきたくなかったのかもしれない、と、思った。
その時、ふ、とチャイナが姫さんに顔を寄せた。こつんと小さな音がして、二人の小さな額があわさった―――昔、あの人が熱を出したおれにやってくれたみたいな。
「大丈夫ネ」
目を見開いた姫さんに、チャイナは額をくっつけたままで言う。
「大丈夫、ネ。だって私たち、同じ空のしたにいるヨ。同じほしのうえにいて、同じ季節のなかにいるよ。同じ街にいて、同じ風を聞いて、同じ温度を感じて、おんなじお日さま見てる。」
夕焼けの光が落ちる畳のうえに、二人の小さい影が重なっていた。ささやくような声は、それでも確信に満ちていたから、おれにもちゃんと聞こえている。
「だから、大丈夫。…たとえ、離れていても」
そよちゃんの名前はいつだって私に届いているから。さびしいときは空を見上げて。
そう言うと、にやり、と、チャイナは笑った。
「それにね、いつか必ず、そよちゃんも私の名前を聞くね。私、歌舞伎町の女王だから、きっといつか、お城にまで名前とどろかせてみせるアル」
姫さんの顔は少し影になっていたけれど、ぐっと目を凝らしたような真剣な表情で間近のチャイナを見つめて、――額を自分からつけるようにして、うん、と言ってわらった。とても嬉しそうで幸せそうで、おれはそんなふうに姫さんが年相応の笑い方をするのを初めて見た。
少女らしい感傷に満ちた、幼い、稚い約束だと笑ってしまうのは簡単かもしれない。なぜだかおれはそうしたくなかった。そうするには、あんまりにも二人の姿には影がなくて澄み切っていて、きれいで、胸が痛くなるような光景だった。
いつか、彼女たちは思い出すんだろう、この約束を――そして夕暮れの空を何度でも見上げるんだろう。
あの人もそうだった、飽きることも諦めることもしない、しなやかな強さを、彼女たちはいつも持っていた。―――どうしてああも、少女は強いのだろうか。
少女とは子どもの延長でもなければ大人への段階でもない、少女という、べつの生きものなんだ、と、こんなときに思う。
「――…大丈夫、です」
姫さんは柔らかい声で言って、額を離し、チャイナに向かってにっこりと笑った。そうして、そのままおれたちにも笑いかけた。きれいな笑顔だった。
「行ってください。…城に夜が来る前に」
江戸は夕暮れにそまって、茜色の空ではターミナルがオレンジの光を反射してまぶしかった。
城から帰る車内では誰も口を開かなかった。ただエンジンのうねりが体に響いた。今ごろ、姫さんは一人であの座敷の中に座ってるんだろうか。さっきまでチャイナと二人でいた、あの部屋で。
窓の外を、子供たちの急ぎ足がすぎていった。あぁ、家に帰るんだろう。
―――こういう時に、なんとなく、遠くに来たんだってことを実感するんでさ。
土方さんが運転する車は街を抜けて、この時間帯で一番空いている海沿いの道路に出ようとしていた。とりあえずはチャイナを送り届けるっていうのが旦那との約束だった。
その時、斜め後ろから、がん、という音がして車体が揺れた。
「…土方、車止めるね」
振り向くとチャイナが思い切り運転席の座席を蹴っていた。土方が、てめェ、と呟いて後ろを見ようとした瞬間、
「いーから止めるネ。じゃなきゃ、車ごとぶっ壊すある」
「…脅迫かよ」
「そうヨ。早く止めて、車から降りるある」
チャイナの顔は逆光でよく見えなかったが、何かに怒ってることは分かる。むしろ、憤っている、のほうが近いかもしれない。
「おい、チャイナ…」
おれの言葉はあっさりチャイナに叩き落された。
「私はそよちゃんのことで土方に話があるネ」
それでなんとなく納得した。これは止めるどころか―――いい機会になるかもしれない。
隣で土方がうんざりした、とでもいうようにため息をついたのが聞こえて、どこか頭の芯が冷えた。
車が埠頭に乗り入れて、タイヤの音が少し静かになる。潮風にさらされて、本来カラフルなはずのペンキがはげかけた鉄製のコンテナが規則的に並んでいた。車はそのコンテナの間を縫って、少し広いところに止まった。海のうえでは、水平線に沈んでいく夕日を映して、あわいオレンジ色の光路ができていた。
土方が車のドアを乱暴にしめた拍子に車体が揺れる。おれが助手席を降りると、すでに奴は反対側のボンネットに寄りかかっていた。煙草に火をつけながらチャイナに視線をやる。
「…で、なんだよ」
チャイナは怖いくらい土方をぎゅっと目を凝らして見つめていて、まるで、そうすれば心が読めると思っているみたいだった。
おれはただ、二人を眺めながら、土方から目を逸らさないでいようと思った。
「土方。…お前、そよちゃんの気持ち知ってるダロ」
口に出した言葉は、疑問のかたちをとっていたが疑問ではなかった。
「お前、は、知ってて、知らないフリしてるネ」
土方はそれほど驚く感じではなかった。あぁ、なんだ、という感じ――腹立たしいくらい、いつもと変わらない。
その様子を見ているとつい、この男は本当にあの人を愛してたんだろうか、と、そんなことを思ってしまう。あの人がかわいそうだ―――そしてそれ以上に、姫さんはかわいそうだ。
「もし…、そうやって期待もたせておけば言うことを聞いて扱いやすいからとかでそうしてるんなら、私はお前を許さないある」
チャイナはいっきにそこまで言って、土方の目の前にまで寄った。どん、という音と一緒に運転席の窓が震えた。
「そんな理由なら、私、お前のこと殺してやる!」
窓ガラスを殴った手がふるえていて、は、と息をついたのがこっちまで聞こえた。オレンジ色の光に照らされて、チャイナの顔にこい陰影が落ちる。
――なんで、お前のほうが泣きそうなかおしてんでさ…。
二人のむこうで、光のつぶが水の上にきらきら輝いてまぶしかった。夕日を反射する車体がかすかにあたたかい。土方の煙草の火が、藍のせまる空に浮き上がる。
ちり、と一瞬、その火が燃えて、逆光でかげったその表情が見えた。
「…くだらねえ」
土方は右手に煙草をもって煙とともにそう吐き出すと、平然とチャイナに背を向けた。
「姫さんがどう思ってようと、仕事は仕事だ。仕事には分ってものがあんだろ」
ガキのたわごとに付き合ってる暇なんざねぇんだよ、と言い残して土方はすたすた埠頭をあとにする。
チャイナが奴を追おうとしているのが分かったので、とっさに走ってその手首をつかんだ。桃色の髪がぱっと振り向いておれをねめつけた。
「落ち着きなせえ。…忘れ物を、取りに行くんでさ」
もうあんな遠いところに行ってらァ、と、声に出さないでつぶやいた。
わすれもの、とチャイナが言って、まだ飲み込めていないのか、おれをまじまじ見返した。
「土方さんは、城に…姫さんのとこに忘れ物をしたんでさ」
あーあ、なんでおれは奴をかばってやるのかねィ、と、自分で自分の行動にあきれた。
「…わすれもの…」
もう一度チャイナは繰り返すと、土方の背を目で探した。おれはその背を眺めて、まったく、なァ、と思った。
「あの男はいつも言葉の足りない人だから」
おれはそう口にして、チャイナの腕を離した。まったく―――なんで結局、こうなるんだか。
「…腐れ縁、ってやつあるか」
チャイナがおれに向かってそうに言うので、まぁ、付き合いが長いのは確かでさ、と言うだけにした。
「"知れば迷い、知らねば迷わぬ恋の道"、ってね」
ふ、と、思わず海の上に視線を泳がせた。光の粒はもう青と白に変わりつつある。おんなじ、光なのに、どうして同じではないのか――。
「あの男が、姉上に贈った俳句でさぁ」
あの人の机に大切にしまわれていた短冊に、書き付けてあった句。もうあの人に会わないと決めた土方が、たぶん最後に贈った言葉。
互いにもう、思い切るって決めてんのに馬鹿みてえじゃないですかい。――でも、あの人は何より大事にとっておいた。
それが、土方とあの人の関係のすべてのような気がした。
だから何だというわけじゃない、そういうものだった、と―――それだけ。
チャイナは何を思っているのか、おれの顔を見て、ふ、と海のほうを向いて歩き出した。
「…難しいネ、ひとが、ひとを想うのは」
チャイナが珍しく静かな声で言ったので、おれもそのまんまの調子で返してしまった。
「…それは、天人だって同じだろィ」
チャイナの顔は、もうおれの場所からは見えない。それでなんとなく、おれも海のほうに歩いていく。
「―…そーかもしれないある」
埠頭には汚れたモーターボートが、鉄ワイヤーの縒り合わせたものでようやく物揚場に止まっていた。いつ使われたものかももう分からない、中には雨水とへどろの混ざったものが溜まっていて、時々波の動きで船そのものが上下する。
チャイナは物揚場に立ってボートを見下ろすと、またぐようにしてボートの縁に飛び乗った。また大きく船体が揺れた。チャイナは構うようすもなく、水平線に平行に両腕を上げながら舳先を歩く。
「…危ねーぞ」
「平気ネ、こんなの」
だって私、夜兎アル、と、言いかけた瞬間大きくチャイナの体が向こう側に傾いだ。おれは思わず手を伸ばして、傘の先をつかむ。
――だから言わんこっちゃねえんで。そう口にしようとしてチャイナを見ると、大きく目を見開いた彼女と視線が合った。
あ、タイミング、逃した…。
そのまま目を逸らしてしまって、おれは傘をつかんだ手をどうしようもなくなった。どうしようもないから、おれは落ちるなよ、と言い、チャイナは分かってるネ、とだけ言った。あーあ、かっわいくねえ。
そろそろと船の縁を歩くチャイナにあわせて、おれも物揚場の端を、ワイヤーに引っかからないようにゆっくり歩いた。当然傘はつかんだままで、我ながら、なにやってんのかわかんねえ。
なんとなく足元を見ると、コンクリートにおれとチャイナの影が重なっていた。二人の間に、傘の影はできない。
横を見ると、チャイナは今度は縁から足を滑らさないように、集中してあるいてるみたいだった。逆光の横顔―――夕日に細い髪の毛がすけていた。
あの二人、今ごろ何やってんだか、と、そんなことを考えた。
あの男はどんなふうに言って姫さんに会いにいくんだろうか。
人生は出会いと別れの連続なんてよく言うけど、本当は少し違うんだろう。出会いの中にも濃度のこい出会いが会って、たった一つのある別れが、人生に決定的な影を落としてしまうことだってある。
人が他人に見せてる顔なんて一つじゃないし、離れればそれだけ、心の距離、みたいなものが遠くなる。――だけど、どこか、で―――心のどこかで、呼んでるようにしか思えないような時だって、ある。そんなふうにして、出会ったものを失っても、残るものは必ずある、と、思う。
それが例え、傷でしかなくても、痛みしか残らなくても―――なんにも残らないよりは、きっとずっとましでさ。