be my baby「…いっそ、彼女をさらっちまやいいんでさァ」
総悟はしれっとした顔をしてかたわらまでやってきて、おれの耳元でぽつりと呟いた。―――お前、それ、稽古のときに言うか?普通。いや、こいつの場合、絶対にわざとだな。
道場には曇り空から落ちた白い光がうすく微かに蹲って、その影をいくつもの裸足の足が踏み荒らしていた。風通しの悪くはない道場も、思わず顔をしかめたくなるような熱気と汗臭さにまみれている。―――まぁ、こんだけの男が一箇所で修練してんだから当然か…。板張りの床がゆれて、地鳴りのように気合が響く。その声に紛れて、今の囁きはたぶん、おれにしか聞こえなかったろう。
おれは怒鳴りたいのを我慢し、隊士らに適当にやってろ、と指示を出した。総悟のS星の王子的熱血(いや、流血)指導に半死半生の彼らに聞こえたかどうか、までは分からねえが。
そのまま総悟をの肘をつかんで、だんだんだん、と、足音も高く道場の端まで連れていく。壁際で、振り向きざまに睨みつけた。その笑顔を見て、思わず顔がひきつった。…時々、本気で殺意がわくんですけど、このがき。
「てめえ、何が言いたい…?」
問うと、総悟は、だからさらえばいいんじゃないですかィ、と返した。
「そんで、姿消してくだせぇ。そしたら俺は副長でさァ」
「結局そこか、テメー」
「もちろんそうでさァ、ばかマヨラ」
「うるせえ、マヨを馬鹿にすんな」
「あんたをばかにしてんでさァ」
「本気でシメるぞ」
「受けてたちますぜ。一万倍返しにしてやりまさぁ」
じりじりと暗雲が立ち込めてきた時だった。―――ひょい、と近藤さんが道場に顔を出して、笑う。その出した顔が、問題なんだが。
「おぉ、やってるなー」
一瞬、道場が静まり返った。それが局長だと気付くのに数秒、さらに疑問を口に出さずにしまいこむまでが数秒―――なんで、あんたはその状態で道場なんか来るんだ。もともとあんまねぇ威厳がいっそうねぇよ。
おそらく、ついさっきかその辺りに、あの妙って女にぶん殴られるなり、放り投げられるなり、地面に叩きつけられるなりしたんだろう。―――だから、止めとけって、あんなに言ったろうが…。
「あーあ、やられてますねィ」
妙に楽しそうだな、そう口にしようとすると、
「あんたと近藤さん、足して2で割ったらちょうど良くなりそうですねィ」
……は、とおれは間抜けにも聞き返した。総悟は心の底から呆れたような顔をして、おれを手の甲で押しのけて稽古に戻ろうとし、ふと、おれの肩の影になるような場所で立ち止まった。
「あんた、とうとう姫さんに手を出しやしたねィ」
また独り言のように呟きやがった。総悟の顔は見えない。―――こいつ、どこまで知ってんだよ?
彼女、に触れられるようになったのはつい最近で、誰にも感づかれちゃいねぇと、思ってた。
「最近、城に行く暇なんか無いんじゃないですかィ」
総悟の声は低く、感情を読みとることはできなかった。注意して聞いていないと、響き渡る掛け声にかき消されちまう程度の、ささやき。
「…"次"は、ありやせんぜィ」
そんなことをひややかに言ってのけ、総悟はすたすたと稽古に戻っていく。その背中を見送ってから目をふせ、仕方がないので壁に背を預けて煙草をくわえた―――あの人と、同じことを繰り返したら、って、こと、か?
分かって、る、さ。――あの子に触れた、あの瞬間に、あの女のことも頭をかすめたから。
その、ずるさ、というよりも汚さも愚かしさも、たぶんおれは知っていて、それによってさえ止められなかった自分の衝動も知っていた。感情には色もかたちもないけれど、それは今も確かにおれを支配していて、時に抗いがたい衝動を引き起こして、おれをかき乱し、苦しめる。
おれは基本的に過ぎたことを後悔したりなんかは、しない。しかし、目の前にあるものにためらったり、迷ったりは、しちまうみたいなんだよな。だからいつも、口に出すべき言葉と、口には出さないで心の中で思って済ませてしまうべき言葉とを、区別しちまう。まぁ、実際いい年だから、そのくらいの分別はなけりゃ困るんだが。―――だけど、そうしているうちに、なくしたり、忘れちまってるもんも、きっと、あるんだろう。
うらやましいな、と、近藤さんについても総悟についても思い、道場をひっそりと抜け出しながらそんなことを考える自分に、少し笑った。