rhythm of the rain 深夜の路地は一面の水たまりだった。
夕立は夜がふけていくにつれてどしゃぶりの雨に変わったらしく、大きな雨粒が叩き付けるように降りつづく。
closed のネオンサインが掲げられた店のまえには、この大雨で帰れずにいる客がたまっている。あるいは呆然と空を見上げ、あるいは携帯を取り出して連絡を取ろうとしていた。この時間に一体だれを呼ぶというのかしら。
「…ばかね」
妙はひっそりと、蛍光灯の切れかけた薄暗いロッカールームの窓から呟いた。ここのロッカーはキャストの女の子専用だから、誰にきかれてもかまわない。もう誰もいやしないのだけど。
なんだか分からない茶色い染みのついたクリーム色の壁の、ずいぶんと高い位置に小さな窓がとりつけられている。上にレバーを押し上げて開ける回転式の窓で、ようやく首が通るくらいの大きさしかない。世間一般の女の子よりも背の高い妙でなければ、外を眺めるのも開けることもできないだろう。キャストに届くかどうか、ということさえ考えなく設計したらしい。しかも、開けるのにはかなりの力がいる。
妙は息をはいて、一つだけ空けっぱなしのロッカーを足で閉めた。だれも見ちゃいない。キャストの子がどしゃぶりの雨にあせって、急いで閉めたんだろう。このロッカーはいいかげんに立てつけが悪いから、きちんと閉めないと勢いで開いてしまう。
うちに帰ったら、化粧を落としてお風呂に入って、あぁ、この様子だと帰る途中で服が汚れるだろうから、洗濯もしなきゃいけない。泥は油分が高いから、すぐに落とさないと染みになってしまう。
妙はうんざりして溜め息をついた。疲れているけど、オンナを売りにするバイトである以上、オンナを怠けるわけにはいかない。いっそボーイにタクシーを呼んでもらおうかと思ったが、タクシーに付けた分は月末に給料から引かれることになっている。それを思うと、タクシーもためらわれた。
うちに、そんな余裕があるわけないわね。
門下生のいない道場を保ちつづけるには、お金なんかいくらあっても足りない。建物は使われてこそ生きるのだと、よくわかった。
どんなに手入れしたって、さびれていくもの。
妙はそなえつけの大きな鏡台の前で立ち止まる。使われすぎたビニール椅子が、破れて黄色い綿がはみだしているのが鏡にうつっている。それと、激しい雨に叩き付けられる窓も。
ばかみたいね。
だれにでもなく言って、鏡をチェックする。店用の派手な化粧は落として、ナチュラルメイクにかえている。多くの女の子は、メイクを変えたってその商売は一般人にわかってしまうらしい。あの子―――アネだって、そう。
なんとなく、にじむのだ。そのふるまいや口許から、おりたたまれた、年並み以上に世なれしたような雰囲気が。熟れすぎて腐りかけた果実にも似た、あの匂い。
自分ではよく分からなかった。
しかし、道場の近所の人にそんな空気を見てとったことはないから、自分の場合はそう顕著でもないらしい。
だいたい、100パーセントのキャストともまた違うし。
だから何だというわけじゃない。ちょっと鏡を見て思っただけ―――
いつまでこの生活をつづけるの、とどこからか声がした。深入りする前に辞めて、どこかの道場の息子とでも結婚したら。
そうね、家に婿入りしてくれるならね。そんな人がいないなら、結婚なんかしないでいつまでもこの生活をするわ。
水商売の女の結婚なんか、ボーイかヤクザか、同じ世界の男とだ。それなら、しないほうがましだろう。道場が守れないくらいならオールドミスで結構―――あるいは、独立してママになるのも悪くない。そのほうが私には合ってるかもね。
妙はそんなことを考えて、一人で笑った。乾いた笑いになる。私、酔ってる。いつか店を持つという空想は楽しい。しかし、道場を立て直せたらという夢のほうがずっと楽しかった。江戸一の道場になって結野アナがレポーターとして取材に来たところでノックの音がして、振り向くとボーイだった。お妙さん、帰らないんすか、と聞かれ興ざめして、鏡の前に置いていたカバンをひっつかんで、ロッカールームを出た。
あの子には―――弟には、こんなことは考えてほしくないわ。
あの子はもう家ではない居場所を見つけてしまっているんだから。
彼が本当は何者であるか、知らない。それでも、あの子は迷わずに駆けていくんだろう、彼の元へ。
そういう引力めいたものが彼にはあるらしい。それが強さなのか、それともそれ以外のものなのかは分からない。
狭い従業員用の廊下から、通用口に出た。冷えた金属製のドアノブをそっと回すと、ごお、と雨の音が吹き込んだ。
服の裾がまくれる。すぐに足元はぐしょ濡れになった。妙は顔をしかめる。秋の雨は、痛いくらいにつめたい。
目の前で地面に叩きつける豪雨を眺め、どんどん水を吸った裾から昇る寒気に妙は不機嫌になる。仕方なくかがんで草履を脱いだ。片手にカバンを持ち、片手に草履をぶら下げる。この時間にこの天気ではどうせ誰も見はしないだろうから裾も気にしない。
妙はカバンを持ち直すと、雨の中を走り出した。ばしゃばしゃと跳ねる水たまりは、ふくらはぎまで埋めてしまう。水面に煙草の吸殻が浮いているのが目に入ったが、冷たい水が足の指の間に流れる感覚が奇妙に心地よくて、ハイになった。雨の夜の視界は白っぽくて、不思議な明るさにみちている。スナック街のネオンに、水滴がきらきら光ってまぶしい。色彩があんまり鮮やかで万華鏡のようにめまぐるしく転変するものだから、走るのも忘れそうだった。
きもちいい。
普段、はだしで外の、水の中を歩くなんかしないものだから、いけないことをしているような気がしてきもちいいんだろう。
太もものあたりまで跳ねた水で濡れたような感じがしたが、この豪雨ではいまさらだろう。むしろ、全身びしょぬれになってしまったらいい。
ネオンばかりの通りをいっきに駆け抜け、笑い出したい気持ちでまた路地裏に飛びこんだ。水はけの悪い路地裏は、水たまりどころか川みたいになっていた。足をとられて転んでしまいそう。通りに戻ろうかしら。でも、楽しい。
その時、だった。おたえちゃ~ん、と呼ぶ声―――聞きなれた、嫌らしいねばつくような調子のだみ声がした。一気に背筋が冷えて、正気に返る。
路地裏の真っ直ぐ前に、常連の客がいた。赤ら顔でしまりもなく太って、みにくい。妙は心の中で舌打ちをした。嫌な男に会ってしまった。こいつはいかにも性欲むきだしというふうで、いちいち身体に触ろうとするものだからキャストの女の子受けが、非常に悪い。もちろん皆、顔には出さないで適当にあしらってはいるんだけど。
どうして、こんな時にこの男と会うのかしら。
「何やってんの~?」
変に歌うような節をつけて言って、そいつはざばざばと路地裏の川を渡ってこっちにやって来る。こういう時は、行動が早いらしい。気持ち悪い―――なれなれしくて下心を隠そうともしない。閉店までうちの店で飲んでいたから、かなり酔っているはずだ。
「…帰るところですよ」
かろうじて微笑む。
「本当?じゃあさ、付き合わない?アフターとかさぁ…」
男は妙の近くまで来ると、にやにや笑って猫なで声で手を延ばした。芋虫のような指をとらえて、ぞっとした。
「いえ、もう帰るので」
思わず身をひいて、その手を逃れる。
「そんなこと言わないでさぁ、服だって乾かさないと、風邪ひくよぉ」
酔っている。呂律がまわっていない上に、目が座り始めていた。―――触らないで。
いつものように男を投げ飛ばそうとした瞬間に、その手が妙の二の腕をつかんだ。その感触に怖気がはしる。
「ちょっとくらい付き合ったって、減らねえだろうがよぉ」
気取ってんじゃねえよ、キャバ嬢が、と吐き捨てるように言った。酒臭い息が顔にかかる。
「いくらだよ」
一晩いくらだって聞いてんだよぉ、と嘲笑される。無理やり腰に回された手をほどこうともがくが、成功しない。雨で体温をうばわれているから、身体がうまく動かないのだろう。その上、びしょぬれの服が手足にからみついて重たい。男の右手が身体をねっとりとなでまわす。胸からお腹、腰、さらにもっと下―――を芋虫のような指が這い回った。
「離して」
どうにか男を睨みつける。男は下卑た声をあげてわらった。この、下衆が。
身体中が怒りで沸騰している。溶岩のようなものが喉元をぐるぐると回っている。息ができないくらい苦しい。目頭がつんとあつくなる。手すら振りほどけない自分が情けなくていまいましい。いらだちがつのって、泣きだしそうだった。
「水の滴る、いい女ってなぁ」
男は何がおかしいのか、げらげらと笑った。こんな男にいいようにされるなんて、そう思うものの、身体の自由は完全に奪われている。この体力で、この巨体から逃れるのは難しい、と武道の経験からもわかる。
「行こうぜ、ホテルならまだ開いてる…」
耳元でそう囁かれたときだった。急に身体に回されていた腕がほどける。それどころか、ぴったりとくっついていた男の体温がなくなる。
何?いった、い…
妙は振り返って、言葉をなくした。男が水の中にぶったおれている。そのまま窒息死すればいいわ、そんなことを思う。
「大丈夫ですか、お妙さん」
男の向こう、に立って近藤は言った。鞘をつけたままの刀を片手に、この豪雨のなか傘もさせない狭い路地裏で、まっすぐに妙を見つめている。
妙は知らず、視線をはずした。いつもと変わらない、この馬鹿正直な瞳がいたたまれない。大丈夫です、と答えた声がものすごくぎこちなくなって、自分でも、ああやってしまった、と思った。
これで、大丈夫なんて思わないだろう。こんな形で―――この男に、こんな顔を見せてしまうなんて。妙は歯を噛みしめた。なにより自分が腹立たしい。
しかし次に聞こえた言葉は予想外だった。
「…なら、良かった」
妙は目を見開いた。ばしゃん、という音がして水の上に波紋が広がった。男をまたぐようにして、近藤は妙の傍に立った。隊服の革靴も黒い足元も水につかっている。
見上げた先の、その目のやわらかな光に、妙は言葉を失う。信じられない、この馬鹿正直さ。これでよく生きてこれたものね、そう思って、彼の下で働く副長を思い出した。ああそう、それで―――。
「送ります」
「結構です」
私、いつもどんなふうにこの人に接していた?だめだ、思い出せない。
「…市民の安全を守るのが、我々の役目です」
放たれた言葉はどこまでも真摯で誠実なばかりで、それがかえって態度を硬化させるのだとこの人は気付いているんだろうか。店のお酒に毒でも盛って殺してやりたいと、本気で思う。
黙り込んでしまった妙に向かって、お妙さん、と言葉が投げかけられる。
瞬間、妙は虚脱した。すべてを放りなげたいというよりは、すべてがもう、どうでもいいことのように思えた。送りたいなら、送ればいいわ、勝手に―――でも私は、優しい女だった覚えはない。だからどうしたというの?
だから、あの副長は私が嫌いなのよ。
同じ傘の中で、妙は近藤と並んで歩いた。この雨では傘なんて役に立っているとは思えなかったが、近藤の傘だった。妙は変わらずはだしで、いつものこの男なら抱え上げるくらいは平気でしそうなものだが、そうしない辺り、この男なりに考えてはいるのかもしれない。
ざあざあと、絶えず雨は降りつづいていた。いつもの家路が、今日はやけに遠い。
どうして会ってしまったのだろう。できたら、会いたくなかった。ぼんやりと妙は思う。
この男はいつだって、変わらなかった。出会ってからこれまでも一度だって妙に対して変わらずに好きだと言いつづけた。そうして多分、これからも変わらないのだろう。なぜだか聞きたい気もしたが、それは彼が愚かだからなのかもしれない。
恋愛に正しさなどないと、そんな簡単なことをこの男は知らない。そこが彼の落ち度だと思う。
肩がかすかに彼の腕と触れていて、そこから熱が伝わった。同じ傘の中だから、息遣いすらも共有できそうな気がする。汗と、整髪料の匂いがする。人にはそれぞれに独特の匂いがあるという。―――これは、近藤本人の匂い、なのだろうか。
自分とは異なる人間が今ここにいて、彼を自分とを隔てるのは服のみに過ぎないのだと意識した。肩から伝わる体温が聞こえる吐息が、それを証明している。
少しだけ自分が身体を動かせば、すべての関係が変わってしまうのだろう。けれど、それをしてやる気はさらさらない。あるいは彼からでも良いのだけれど、彼は決してそれをしないだろう。恋愛に正しい答えなんかないのに。
もう家が近くになってきた。ふ、と傘から空を仰ぐと黒い雲が東の方から薄くなりつつあるのに気付いた。まだらになった雲の一部が白く光っている。もうすぐ夜が明ける。この男は、私を送ったら寝ないで任務に戻るのだろう。
―――本当に、馬鹿なんだわ。
馬鹿だ、この人―――、こんな、スナックで働く女のために。
「お妙さん」
急に呼ばれ、妙は斜めから彼の顔を見た。こんな至近距離から見るのも初めてかもしれない。いや、この男がこんなに長い時間黙っていたことの方が珍しい、そう思う。
「…あなたが危険なときにやってきて、あなたを助けてその上であなたに迫るのは、卑怯だなんて」
言って、妙を見下ろした。
「そんな、トシみたいなかっこいいことは俺にはできません」
――あ、…失敗、した。目を、逸らしたらよかったのに。
「あなたが好きです」
妙は息をのんだ。
あぁ、本当にさっき、目をそらしておけばよかった。心の底から後悔する。
「あなたが、好きです」
知ってるわ、そんなこと。もう何度も聞いたし。
「…あなた、が、好きです」
分かったから、そんな目で見ないで。
好きです。愛しています。俺にはあなたが必要です。誰よりもあなたを大切にします。―――お妙さん。
うるさい…、本当に陳腐で使い古された言葉しか思いつかないのね。
―――やっぱりあなた、って、馬鹿。
声もでない。身動きもできやしなかった。―――もう、無理。
「お妙さん」
盛大な音をたてて、傘が水の中に落ちた。好きです、再びそう口にして近藤は妙にその身を寄せた。妙は瞠目する。あたたかい。肌、が――触れている。
抱きしめられている、というよりも、腕を回して触れられているという感覚に近い。近藤は手に力を入れていなかったから。妙はただ立っているだけだった。そんな、おそるおそる繊細なガラス細工を扱うようにしなくたって、壊れる女じゃない。それを誰より知っているはずのこの男は、そんなふうに妙を抱きしめた。
「…あなたが好きです…」
冷えた身体に、近藤の熱がじわじわと伝わっている。あたたかい、ではなく、熱い。これは、自分自身の熱も上がっているのだろうか。
――…もう、何なの、この人、は――。どうして、こんな思いをさせるの。
流されかかっている自分を自覚して、唇をかみしめた。私が、そんな簡単に落ちる女だと思うの?
どうにか手をあげて、近藤の身体を押しかえした。それほど力を入れていなかったから、すぐに離れる。ひやりとした空気と冷たい雨を感じた。
「…あなたの気持ちくらい、知っています」
かろうじて発した声は、思った以上にしっかりしていた。それに励まされ、言葉をつづける。
「…だけど、私がそれに応えることはありません」
近藤の目をしっかりと見返した。
「いつ死ぬか分からない男に、本気になるような馬鹿な女じゃありませんから」
ぎょっとしたみたいな顔をする近藤に、妙は思わず笑った。ゆっくりと微笑みを浮かべる。
「…私が欲しいのなら、あなたが私の元に来ればいい。真選組を、あなたは私のために捨てられるんですか?」
あの仲間たちを、積み重ねた日々を、そうして得られた地位をや信頼を、すべてなげうつというのなら、望みがないわけじゃない。私のために、彼らを――あの副長も、親愛の情を寄せるすべての隊士も――裏切ることができる?それなら考えてあげましょうか。
近藤は唖然とし、次に真剣に考え込みはじめた。彼がもともとない頭をしぼって、数時間後にやっと出てくるであろう答えを、妙はもう知っている。
本当に、馬鹿正直な人。
―――どうせ、あなたはあの仲間たちを捨てることなんてできないわ。そうしてきっと、私をあきらめることも出来ないんでしょうね。
選ぶことのできない大切なものを、あなたは笑って全て抱え込む。
妙は水たまりから傘を拾い上げた。いまだ雨のなかで頭をかかえる近藤に一瞥を加えると、傘をさして歩き始める。―――馬鹿は風邪をひかないものだわ。
その真摯さが、誠実さが、おおらかさが、きっとあなたの周りの人を惹きつけているんでしょう。
妙は笑い、傘の下からきらきらと光る青空が広がっていくのを眺めた。これで雨は終わりね。今日は洗濯日和になりそう。
ありがとう―――今日こそきっと、いい日になるわ。