蝶を夢む その絵を総悟が持ち込んだとき、おれは呪いなんか信じちゃいなかった。
でかいネタになるんじゃねえですかい、と笑った奴に、馬鹿いえ、と返したのはおれだ。
それを所有したがために気が触れたり、不審な死を遂げる、そんな馬鹿なことがあってたまるかよ、と、そんなふうに思ってた、のに。
――…彼女を目にした瞬間に、心を奪われた。
今なら分かる。死んだ者たちはみな、彼女を愛していたのだ、と。愛するがあまり、正気でいることができなかったのだと。
土方は微苦笑を浮かべ、壁に立てかけた目の前のカンバスを見下ろした。
暗闇に、畳に置いたカンテラの炎が硝子越しに揺れて、ゆらゆらと照らされた彼女は、もはや生きているようにしか思えなかった。それだけ奇妙な、肉迫するような現実味が彼女にはあった。――ただの油彩画でしかないはずの彼女が今にも立ち上がって、こちらにやってくるのではないかと考えて、自分に呆れた。
彼女にこの手で触れることができたら、どんな犠牲すら払えるかもな―――と、そんな言葉が浮かんで、笑えた。
いかれてんな、おれも。考えながら、畳に座ったままカンバスの周囲に広がった布を取り上げた。彼女にかけてやろうとして、気づく。
さっきから、この絵を彼女、としか呼んでいない。
思わず息をつめて、彼女を見つめた。
赤と黒を幾重にも塗り重ねたような背景の中、真紅の長椅子にもたれることなく、背筋をのばして座っている少女。藍友禅に蝶が舞う膝の上に、まっしろい手が重ねられている。
白い額に落ちかかる髪と瞳は烏の濡れ羽色、唇は鮮やかに赤く、静かに、嬉しげに微笑んでいる。
いかにも、こちらが旧知の仲のような気分にさせる微笑―――いや、それは好いた男に向ける視線に近かった。
まだ、髪が指先に触れるだけでも胸の鼓動が高まるような、そういう関係の相手に向ける視線だった。
画家は、この絵を抱いたままで死んでいた。
生涯、日本では評価されることなく、パリの片隅のアパートで冷たくなっているのを画家仲間が見つけた。まだ三十二歳の若さだったが、アルコールと阿片に犯された死体はまるで老人のようだったという。
彼が死んで三十余年がたった。彼はようやく故国で評価されるようになり、一部で熱狂的な蒐集家が現れるまでになった。
彼の遺作であるこの絵は天井を知らず値が上がった。
しかし、この絵は"遺作"とは呼べない、というのが蒐集家たちのもっぱらの意見だった。彼女の表現は、まだ彼が二十代前半の頃のものらしい。
彼は確かにこの絵に異常なまでに執着し、一生手放さなかった。それこそ死の瞬間にまで共にいようとした絵だった。
だが、晩年の彼はこの絵に一切筆を加えていない。
なぜなら、彼は最期には幾何学模様としか思えないような絵を鮮やかな色彩で描いていた。あくまで具象の延長としてのその表現は、どこかしら均衡を欠いた―――晩年の彼は、精神的に常に不安定だったという。
彼が彼女を描いたと思われる二十代前半は、彼が最も輝いていた時期だった。パリの画壇での彼の評判は上々で、彼の絵は描いたそばから、決して高くはないがそれなり以上の値で売れた。
サロンで唯一の東洋人であり、おりしもジャポニスム最後の輝きのただなかに彼はいた。
彼の周囲には、今の画壇を変えていこうとする意欲的な若い画家が集まった。彼らは画壇の周縁ではあったが、勢いがあり、活気があった。旧弊な絵画の常識を打ち破り西洋画の新しい道を模索するために、貪欲に東洋から吸収しようとする連中が、彼の友人となった。
だが、それも長くは続かなかった。
画壇は移り気に彼の次を探し出し、彼はそれに気づかなかった。絵が売れなくなり、酒量が目に見えて増え、彼から吸収するものがなくなった若い画家たちは去っていった。
その頃から彼は精神の均衡を欠き、麻薬に手を出すようになった。
描く絵に統一性が失われ、画壇に酷評され、いっそう彼の荒廃に拍車がかかった。
彼がパリの片隅の小さい汚いアパートで死んだ時、画家仲間がそれを見つけたのもほとんど幸運といってよかった。
曲りなりも小さな葬式が出せたときも、参列者はまばらだったという。彼は今もパリ郊外の共同墓地に眠っている。
彼は孤独だった。
ひたすらに彼は孤独だった。
彼にあったのは、画家としての矜持と、そして彼女だけだった。
寺の次男として生まれた彼は、勘当されるように家を出て十代のうちにパリへ渡り、日本には帰ってこなかった。
彼女のモデルは誰だったのか―――それが日本の画壇の彼にまつわる中心的な話題だった。
絵の裏書には、彼の筆跡で「そよ 拾六才」と読める。だが、当時のパリにそよと名乗る、友禅を着た少女がいたとは考えにくい。
土方は彼の郷里の信州に行き、彼を知っている者を訪ね歩いた。
なかば寺が支配する村で、彼の話題はタブーのようだった。
しかし渋々ながらも村人が話してくれたことから分かったのは、彼にまつわる女性だった。
彼の母は、彼を産み落とした時に死んでいた。彼は母の命を犠牲にして生まれたのだ。
彼の二つ上の姉は、彼が十四の年、見合いを前に村の寺男と駆け落ちし、崖で足を滑らして落ちて死んだ。その二人の死体を発見したのは彼だという。
そして彼の幼馴染―――彼女は十二の年に労咳で死んでいる。
彼女は没落した士族の娘だった。
御一新前は石取りの旗本、文明開化の世に事業を起こして失敗し、借金苦から逃れるために東京から逃げてきた一家の一人娘だった。
元があまり体の丈夫な家系ではなかったらしい。村に来たときには彼女は寝たり起きたりの生活だった。
何しろ事情が事情だからあまり大きな顔をしては住めない。一家は寺の持っていた土地を借りてひっそりと畑を耕して暮らしていた。
その娘に、彼はたびたび会いに行っていたらしい。
父母は彼女が人目に触れることを嫌がったが、自然と娘の容貌が並みなものでないのは噂に立った。母の容姿が村の中で優れて美しかったこともあって、その娘はいかほどかと人の口に上る。彼はそれを聞いて、彼女に会いにいったのかもしれない。
彼女の父母も寺には頭が上がらない身だから、見てみぬふりをしていたのだろうか。
おそらくこのわずか十二で死んだ少女が、絵のモデルだろう、と土方は見ている。
この絵の少女は、死んだ幼馴染の成長した姿の想像なのだ。それに十六で駆け落ちして死んだ姉の姿が交差している。
彼の人生にはこの三人のほかに、深い関わりを持った女性は存在しなかった。
産褥の中で死んだ母、崖から落ちた姉、労咳で死んだ少女。
―――彼にまつわる女性は、常に血にまみれ、死の暗い影を負っている。
彼はきっと、少年特有の純粋さと激しさで幼馴染を愛したのだろう。
そうでなければどうして、青年になっても彼女の幻影に付きまとわれることがあっただろう。
絵の中の少女はひっそりと、まるで密かに思う相手に微笑うような視線を向ける。
それはまるで見ている者を少年に引き戻すよう―――そしてまるで誘うよう。
彼女がまとうのは、血の香りと死の影だ。赤い椅子に座った少女の、着物の蝶が羽ばたく。―――蝶は死者の魂を乗せる生き物だ。
この絵を見た者を揺り動かすのは、絵に込められた死への遥かな憧憬だ。
描かれた時からこの世の者ではない少女。この世ならぬ美しい少女。この世にあってはならぬ美しさをもつ少女。
彼女は破滅を予感させるがゆえに、よりあざやかに嫣然と微笑む。
画家は彼女を描いてしまったがゆえに、老人のように醜くなって死なねばならなかったのだ。
彼女を描いてしまった以上、彼の画家としてのすべてはそこで終わってしまった。至上の美を描ききってしまった彼に、他に表現するものがあるはずがない。
そして至上の美であるからには、彼は彼女を手放すことが出来なかった。
彼が悲惨な終末を迎えることは、彼女を描いた瞬間に決定していたのだ。
そしてまた、彼女を所有した多くの男たちもそうだったのだろう。
彼らは彼女を愛し、愛するあまりに狂気へと堕ちていった。
だが、おれは思う。
――彼女は、本当にそれを望んでいるのか?
自分を愛した男たちが死にゆくこと、狂気へと向かうことが彼女の望みなのだろうか?
「なぁ、そよ…」
土方はじっと少女をのぞきこんだ。
「…さびしく、ないのか?」
この小さなカンバスの中、ただ一人。男たちが死んでいく様子を眺める。
画家以上の孤独を、彼女は味わっているのではないだろうか。そして、その悲劇を招いているのが自分ならどれほどつらいだろう。
指先が、カンバスの上の彼女の輪郭をなぞる。
ざらざらした手触りと、微かに爪がひっかかる音―――彼女は、決して絵の中から出てはこれない。
どれほど触れたくても、彼女には届かない。彼女が心の底から助けを求めていても、手をのばしてやることもできない。
「…遠い…」
呟いて、指を彼女から離した。座り込んで、視線を落とす。こんなにも、遠い。
そのとき、ふとした炎の加減でか―――、一瞬、彼女の頬に影が縦にできた。
頬を伝うような筆の流れは、涙のようだった。
それが土方に決意をさせた。
―――運命とは言わせねえよ。
そんなことを考えて、思わず笑った。そうやってしか彼女が救われないなら、やってみたってたぶん構わねぇだろ。
運命なんざ知ったことじゃねえしな。もし運命があるんなら、おれは運命に勝ってやる、から。
…だから、泣くな。そうやって、微笑んだままで、すべてを諦めたみたいに―――なかないでくれ。
おれは勝手なのかもしれねえな。…いや、勝手だから、か。
誰にも、なんにも言わないでおれは行く。同情も哀悼もいらねえ。
土方はカンバスの縁を両手の指先でおさえた。
そっと顔を伏せて、小さく息を吐いた。胸にかかる息が熱い。自然に手に力が入って、指先が白くなる。視線を上げると、彼女と目があった。
その赤い唇が少しだけ開いて―――笑ったように見えた。
「アレ?なんか一人足りなくない?」
片手に綿飴、片手にリンゴ飴とかわいいものを持った銀髪が言って、三人の動きが止まる。
「土方さんですかい?今日は朝からいねえんでさぁ」
「そーそー。あの目付き怖いの」
「総悟もか?実はおれも探してたんだが」
「別におれはいねえほうがいいんで」
「おれも副長に原稿もってこうとしたら、いないんですよ」
五分話したくらいじゃもう二度と思い出せないくらいの地味顔書生風の男がたこ焼きを食べつつ言う。
「山崎、お前食べるか話すかどっちかにしなせえ」
「別に祭にこないのは驚きませんが、どうしたんでしょうね?」
同じくらい地味なメガネがそう口にすると、いや、と返す声がある。
「アイツはあれで祭好きなんだがな」
「おーぐし君なんてどうでもいいアル。それよりもっと前行かないと花火見えないね」
腕をひっぱられた銀髪が、わかったって、しっかし遠くから見る花火のがオツなんだぜ分かってねえなーガキは、と、言いながら、仕方なく人波をかき分けていく。メガネもその後を追った。
「花火って」
ぽつりと残された金髪が言う。
「…なんで夏なんですかねィ」
「そうだなぁ…」
隣に立った厳つい男がぼんやりと夜空を見上げた。
「戻ってくるから、じゃないかと思うんだが」
「死人がですかい?」
金髪が目を丸くして彼を見つめた。
「花火って、人間に似てるだろう。ああいう生き方は悪くないんじゃないか、とな」
ひゅう、と、空を翔る音がある。金髪は、合点したように少し笑った。
「そうかもしれやせんねィ…」
その言葉にかぶさるように、どん、と鼓膜が破れるほどの音がして、夜空がまぶしくなった。
赤と青とオレンジが、中心から広がって一瞬。ゆっくりと形を崩しながら落ちて、ふ、と気づいたら消える。
「近藤さんらしいや」
金髪は小さく呟いて夜空を仰いだ。
暗闇に白く淡くけぶるばかりで、花火はもう、天蓋の隅にも見えなかった。