クレイドル・イン・ザ・ヘブン 夜の底、静寂は唐突に訪れた。
怒号、悲鳴、意味をなさない叫びと物が壊される音、打ち砕かれる音が全部一緒になったと思ったら、いつのまにか夜の闇に吸い込まれていた。
私は純粋にその扉の向こうで何が起きているのか知りたくて、ドアノブに手を延ばした。
喉に心臓があるみたいに、自分の鼓動が体に響いた。
私はそもそも、自分がどこにいるのかすら分かっていなかった。
ただ確かなのは、ここが住み慣れた園でないことだけだった。
私が扉を開けるまでもなかった。
ノブに指が触れようとした時、それが心臓よりも大きな音を立てて回った。夜の闇に切れ間が出来て、一筋の光が扉の隙間から差し込んだ。
その扉が開け放たれた時、懐中電灯の光で目がくらんだ。
ようやく立ち直って見上げると、彼と視線が合った。
とてもきれいなひとだ、と思った。
その頃私は幼かったけれど、いや幼かったからこそ、美というものに対してはひどく敏感だった。
彼はそれまで私が出会った人々の中で最も美しい完全な存在だった。今でも彼ほど美しい者にお目にかかったことはないだろう。
―――不思議なことに、私は彼の目鼻立ちを今はっきりと思い出せない。
眉や口など一瞬の表情や伏せた目の静けさは今さっき見てきたように想像できるのに、全体まで思い浮かべようとすると散漫になる。
あの頃、私は幼かった。ただひどく心動かされ、美しいと思ったことだけは覚えているのだ。
彼は一瞬驚いたように目を見開いて、次に言った。
「おいで」
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私が彼らと過ごしたのは七歳から十歳までのたった三年間だった。
彼らは何者だったのだろう。離れてみて初めて気付いた、私はほとんどと言って良いほど彼らのことを知らない。
私は彼が好きだった。彼らが好きだった。
思えば、彼らが私にとって最初の家族と呼べるのかもしれない。
そう考えるとふと奇妙な気がした。
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彼が私の手を引いてその屋敷を出た時、門の外に立っていた男が私と彼とを交互に見比べた。彼はその初老の男に有無を言わせず口を開いた。
「連れていく。長尾は?」
「まだ。…連れていくとは?」
門扉の前には車が止めてあった。私は分からないように彼をそっと窺った。冷静そのものの顔が怖かった。
そのままの意味だが、と彼が言った時、背中に轟音を感じた。熱風にたたらを踏んで私が思わず振り返ると、屋敷の二階の窓から炎が吹き出していた。
幼い私でさえ違和感を感じる程おかしな家だった。
規模のわりに窓が異様に少なく小さい。いくつかの窓は炎によって内側から打ち破られてはいたが、目張りがしてあったらしい。裂けた目張りの向こうで火が屋敷の中を嘗め尽くす様子が見て取れた。
黒々とした稜線を背後に火に呑まれる屋敷の上には、満天の星空が広がっていた。
やがて屋敷の裏手から一人、若い男が出てくると、彼は一方的に二人に向かって行くぞ、と命令した。後部座席に私を押し込み、その隣に彼は座った。
前の座席に座った二人の、物問いたげな目線を無視して彼は私に聞いた。
「お前、名前は?」
その時、私は先程屋敷で目にした光景に震えていた。
ほんの一瞬だったが、襖に飛び散っていたのは血ではなかったか。襖に掛けられた指先はすでに力なく、その向こうに垣間見えた畳には赤黒い液体がたまってはいなかったか。車内にはどことはなしに鉄錆のような匂いが染み付いている。
しかし、宵闇に光る彼の瞳はその恐怖を遥かに越えた。
闇の昏さをそのまま映したようなその目を、純粋にきれいだと思った。
「香奈」
私は自分でもそうと意識しないままに、自分が呼ばれていた名を口にしていた。
カナ、と彼は呟いて、私にその大きな手を延べた。
知らず身をすくませたが、その手は予想外に私の頭に載せられた。髪を撫ぜられる感触がした。
「カナ。…怖かったろう。悪かった」
そっと視線を上げて彼を仰ぐと、彼の目は少しだけ微笑んでいるように見えた。
「…しばらくおやすみ」
耳朶から滑り込んだ低い声はゆっくりと私の四肢にしみわたって、ある瞬間に満ちた。
彼の瞳を見返した私はなぜだかひどく安心させられ、彼の手のひらの重みを頭に感じながら急速に眠りに沈んでいった。
意識がふと浮上すると、私は見知らぬ匂いに気がついた。
いつもの洗剤の香りでも自分の汗でもない匂いに違和感を覚えて、私はまぶたを開けた。
肌触りのいい白いシーツと枕、微かに花の香のする薄い若苗色のタオルケットが首元まで覆う。
シーツの上に溜まった臙脂色の光を追いかけて起き上がると、ベランダに続く窓の向こうで海に夕日が沈みかけていた。五センチほど開いた窓から風がそよいで、潮の匂いが漂っていた。
私はベッドから下りて裸足でひんやりしたフローリングの床を歩き、窓をそっと押し開けた。思ったよりも広いベランダには黒い鉄の柵が設けられて、海岸から水平線まで一望できた。
おおきなまるい太陽が、海に溶け出している。
平たいオレンジ色の硝子でできた太陽が、熱で溶けて紺碧の海ににじむ。海に溶けた太陽は冷やされて小さな硝子の粒となり、波の動きに浮きつ沈みつしては輝く。
前に園のみんなで海に来たときもこんな綺麗な夕日は見ることができなかった。
私は柵を握りしめて、じっと海を見つめていた。
こうしてベランダに立っているとまるで空中に浮いているみたいな気分がした。
今考えれば、あのベランダがそれほど高い場所にあったとは思われない。地上、地下合わせても三階の高さしかない家だったはずだ。
けれど幼い私にとって、その光景はとても印象に残っていた。
海に溶け出した太陽の粒が輝くたび、海が燃えているみたいだと思っていた。
雲もなく晴れた空、星がまたたき夜の藍が迫って、あらがう昼の染める紫、最後に太陽はじりじりと燃え尽きて海に溶ける。
昨晩の屋敷は今頃灰になっているだろう。周囲の森林も巻き込んで山火事になったかもしれなかった。
それども物の燃える様子は単純に美しい。
人が死のうが燃えようが、きれいなものはきれいだ。
随分と長い間、そこでそうしていたろうか。
気づいた時には、すでに夕日の残滓が空の端に微かに見えるばかりになっていた。
海岸線に張り出して灯台があるのか、墨を流したように黒い海に心細い光が投げかけられている。その波の吸い込まれそうな色に既視感があって、思い返してみれば彼の瞳によく似ていた。
彼の目は闇だった。白い顔に穿たれたふたつの洞だった。
純粋な光は存在しがたいが、闇はいつもそれそのものの色をして曇りない。闇は無垢だ。
純真な子供というものがいるとすればそれは闇だ。どこかに悲哀を覗かせる、悟ったような黒く澄んだ美しさ、老人に似て否なる子供の目こそ底無しの闇。
今はそういうことなのだろうと思っている。私がその目を失ったがゆえに、彼は私に興味を持たなくなったのだろうか。
私が魅入られたように海面を見つめていると、胸の下に腕を回され、足が浮いた。腹に全体重がかかって苦しかったが、どうにか首を巡らして私を抱えあげる人間を確かめた。
私と彼の後に屋敷から出てきた若い男だった。一重の下がった、柔和な顔立ちをしていて子供の私にはどこか馴染みやすい。
男は私と目が合うなりにこりと笑った。
「おはよう、カナちゃん」
男は私にそう言って、膝の下に片手を入れて私を抱きなおした。その状態で、ベランダから私が寝かせられていた部屋の中に入っていく。
「あんまり見ていると、引かれるよ」
冗談ともつかない声で呟いて、男は再び私をベッドの縁に座らせた。電灯ひとつ付いていなかったが、夜の近付く薄暗い中でも男にはそこが分かるようだった。
男は私を座らせたあと、自分はその前にしゃがみこんだ。私を覗き込むように見上げて笑う。
「カナちゃん、でいいんだったね」
私がひとつ頷くと、男は自己紹介をした。
「昨日会ったんだけど、覚えてるかな。僕は長尾、もう一人運転している人がいただろう?あの人は澤田さんというんだ。君はしばらくここで暮らすことになる」
私がまた首を縦に振ると、長尾は一瞬目を丸くした。
「君は当たり前のように頷くんだね。…まあいい、いくつか説明があるからよく聞いていて」
長尾はそのまま続けた。
「まず第一に、この家は夕方に一日が始まって朝に終わる。別に昼に起きて悪いってことじゃないけど、僕しかいないよ」
私は内心で首をひねった。つまり夜更かしも昼寝も自由ということらしい。
「次に、僕たちについて聞いてはいけない。第三に、他の子供に会いたいと言ってはいけない。禁止するのはこの二つだけだ。あとは好きにしていい。…何か質問は?」
長尾の口調は文句を挟ませる余地がなかった。私は不審に思いながらも、彼のことをあえて口にすることにした。
「あの人はなんていうんですか?あの、私を連れてきた人」
長尾はふわりと不思議な笑みを浮かべた。
「…直接聞いてみるといいと思うよ」
僕たちはあの人って呼んでるけど、と長尾は付け加えた。その"僕たち"は、長尾と澤田をさすことは容易に想像がついた。
長尾はその微笑を口元に貼り付けたまま、私の右手を握って立ち上がった。
「そろそろ起きてるだろうしね」
長尾は私をベッドから下ろし、勝手知ったるという風で暗い部屋を先に歩いた。私はまろぶように長尾についていく。
起きてるって、誰が?
考えながら、私は悟っていた。起きているのは、彼だ。
この家は明らかに年長の澤田や、私に諭すような言葉を話す長尾ではなく、彼を中心にして動いているのだ、と。
今まで私がいたのは中二階とも言える部屋だったらしく、ドアを開けるとすぐ天井に白いプロペラが緩慢に回っているのが見えた。短い螺旋階段を降りるとすぐに広い空間が広がった。
穏やかな間接照明が灯るような部屋だった。天井から吊るされたランプシェードの影が、白一色の壁面と床に落ちている。
微かに潮と花の香りが漂う中で彼はソファーに座り、膝頭に肘をついてテーブルの上を注視して考え込んでいた。
口元を覆った掌は骨ばっていて大きく、長い指が美しかった。
彼がふと視線を上げたとき、心臓が跳ね上がるのを感じた。思わず長尾の手を握り返してしまう。
彼はそんな私を見て、片方の眉を上げてわずかに微苦笑を浮かべる。同時に右上でくつくつと笑う声が聞こえた。
「…長尾、お前なにか吹き込んだのか?」
「とんでもない」
長尾が即答すると、彼は考え事を放棄したらしく、小さく息をついて腰を上げた。
彼が私の前まで歩いてくると長尾は手を放し、私を軽く彼に押し出した。
彼はそのまま私の背中に腕を回し、私をソファーまでいざなった。彼がさっきまで見つめていたテーブルの上には、日本地図が広げられてあった。肩と肩甲骨の間に氷のような手を感じながら、私は彼に従った。
彼の白いワイシャツが私の鼻先をかすめた。彼は無臭だった。何の匂いもしない。生きている人間なら誰もが持っている、その人間特有の匂いさえしなかった。
汗も動物らしい生臭い香りもしない、生者の匂いがしないのが彼という人間だった。
再びソファーに座った彼に抱き上げられて、私は彼の太腿の傍らに膝をついた。彼の掌はいまだに私の腕をつかんでいた。
私はソファーの背もたれに左手をかけ、彼とまともに向かい合った。
底の無い闇が私を覗き込んでいる。
彼は私の顔をしばらく眺めると、私の額にかかる髪を冷たい指先でかきあげた。私は恥ずかしくなってつい目を伏せてしまう。
「よく眠れた?カナ」
乾いた低音が優しく鼓膜を震わせた。少しかすれたその声に、私はより一層顔を上げられなくなる。いたたまれなくなって視線をさまよわせていたら、視界の端にソファーの背もたれが映った。淡い色の更紗調で、肌触りがしっとりと冷たい。
その時、彼がふと私の頬に手を置いて私を自分のほうに向かせた。
闇よりも深い闇、夜の間に枝葉を伸ばして花咲く夢の色。
「カナ、お前はなぜあそこにいた」
私はぎゅっと拳を握りしめた。
「あなたこそ、誰なの」
それは抗いがたい、闇の誘惑へのせめてもの抵抗だった。私が彼から逃れられないことは最初から分かっていた。私は彼をきれいだと思ってしまったのだから。
彼はそれを問われたことはいかにも予想外だという表情を一瞬浮かべて、次に私をまじまじと見つめた。しばらく逡巡するような素振りをしてから言う。
「…そうだな…。ケイ、と呼べばいい。それで分かる」
彼が言った言葉はまるで、ケイという名前が実名ではないかのようだった。実際、そうだったのだろう。そもそも、彼に戸籍があったのかさえ定かではなかったのだ。
ケイ、いう響きはけい、というただのあだ名のようでもあったし、Kという暗号名のような雰囲気さえ漂わせていた。今考えてみると、Kが一番彼が口にした意義に近いような気がする。
ケイはあまり自分のことを語りたがらない人だった。誰に話そうとも理解されまいというような諦念が常にどこかにあったのだろう。
ケイは自分の呼び名を示すと、今度は私の番だといいたげに視線でうながした。私は仕方なく口を開いた。
「私に親はいません。いるのかもしれないけど、知りません」
そう、と応じたケイの声は一層低かった。
「…園のブランコで遊んでて、気付いたらあの部屋にいました」
私はその時、意図的に嘘をついた。
気付いたら、ではない。私はその時、園から私が連れ去られた経緯を克明に思い出していた。
私は一人で遊んでいた。園で一番仲が良かったまきちゃんと喧嘩したのだ。絶対に謝ったりしない、そう考えて一人でブランコを漕いでいた。
私たちが暮らしていた園は、東北の日本海に面した、人口十万人程度の田舎町にあった。近隣の市や町の、いわゆる親と暮らせない事情のある子が預けられている施設だった。
夕暮れの園の公園には子供が少なかった。もうすぐ夕飯だからすでに屋内にいる子が多かったのだろう。昼間にプールで遊んだこともあって、大抵の子供は寝ていたのかもしれない。
ブランコの前には滑り台が設置されており、ちょうどブランコを上まで漕ぐと滑り台の下の砂場がよく見えた。私はまきちゃんと違ってあまり運動が得意ではなかったから、普段は上のほうまで漕いだりすることはなかった。
その時も私ははじめ、のんびりとブランコをこいでいた。意地を張ったものの、やはり寂しかった。
子供は本能的に残酷なもので、あえてその人間を決定的に傷つける言葉を選んで口にしたりする。
まきちゃんが私に言ったのは、お父さんやお母さんが一度も会いに来たことがない癖に、だった。私は言い返せない自分が悔しくて情けなくて、涙を飲み込もうと思い切り地を蹴って胸をそらした。
前のほうにふわりと浮き上がる。視界が一気に広がって、風がひゅうと耳元で通りすぎた。西日に染まった田舎町の風景がよく見えた。
あの頃、私は子供だったからなおさら自分の置かれている状況を理解していた。私は、よほどのことがなければこの施設を出て行けない。ましてやこの町を出て行くことは不可能だ。まきちゃんみたいに、隣の県に親戚がいる子とは違う。
冷静に考えれば、まきちゃんとて私とそう環境に違いはないことが理解できたはすだった。あの頃、私は子供だった。
一度上がったら、今度は落ちる。ひゅうひゅうと音がして、私の乗ったブランコが下に落ちていく。
落ちたら再び胸をそらして、上がる。ふわり、ひゅうひゅう。落ちる。ひゅうひゅう。
どんどん上がった時の高度は高くなっていたが、私はこぐのを止めなかった。怖かったけれど、まきちゃんとの二人乗りならこの位は軽く上がっていた。
滑り台と同じくらいの高さまで上がって、ふわりと一瞬視界が停止し、今にも落ちようとした瞬間。
「見ぃーつっけた」
耳元で、同じ歳くらいの女の子の楽しそうな声がした。
腰から首筋まで、背中に悪寒が走ったのが分かった。もちろんまきちゃんの声じゃありえない。だって、こんな高さで誰が耳元で囁けるっていうの!?
私は泣きそうになって、目をぎゅっとつぶった。ブランコを止めたいと心底願った。それでもあの落下の独特の浮遊感が背中から全身を覆っていく。
ひゅうひゅう。ひゅうひゅう。落ちる。ひゅうひゅう。
その時私は気付いてしまった。足首をうんと伸ばしても、素足を夕方の風が過ぎていくばかりだ。
おかしい。
なんで、いつまでも足が地面につかないの。なんでずっとひゅうひゅうっていってるの。
その時、明らかに正気じゃない、鼓膜が破れそうなほど大きな笑い声が耳元で爆発して、私は気を失った。
そうして、目が覚めたときには私はあの屋敷にいた。
あれがどういうことなのかは今も分からない。
公園には他にも子供がいたはずだが、彼らは気付かなかったのだろうか。私は目立たない子供だった。いつもまきちゃんの後ろに隠れているような性格だったから、子供たちは私がいなくなったことを気にもしなかったかもしれない。
うつむいてしまった私の目元を、ケイは親指でぬぐった。私はそれに従って顔をあげる。
曇りない闇の双眸が、光を反射して濡れたように輝いていた。
「一緒においで。…一人は、さびしいだろう?」
ケイは口の端を持ち上げて、静かに微笑んだ。
それは私が初めて見た、彼のはっきりした笑顔だった。