これから正義の話をしよう モントルィユは寂れた街だったという。
かつては農業で栄えたが、大革命以後は飢饉と疫病が続き、荒廃した。しかしそれも過去の話だ。
市庁舎に火事が起き、誰かが叫んだ。「俺の子供が中にいる!」
寸時の静寂のあと、誰もが息を呑んで市庁舎を見上げた。業火はとうに建物全体を包み、消し止めるよりも燃え尽きるのを待つ方がはやいのは明白だった。
「俺の子供だ、俺の子供……」
茫然と呻く男に誰も応える者はなかった。
諦めろ、と誰がそんな残酷なことを言えただろう? 老婆が神の名を呼んで夜空を仰いだ。星のない空を炎が舐めていく。
瞬間、炎の前に躍り出る影があった。その影は見る間に燃え盛る市庁舎に飛び込んだ。市庁舎を取り囲んだ人々は騒然とした。
あれは誰だ。街の誰がいない?
応える者はいなかった。街の住人たちの無事は確認されていた。
では誰が? 街の人が固唾を呑んで見守る中、炎の中から子供を抱えた男が走り出た。市庁舎の前で子供を抱いたまましゃがみこんだ男に、住人たちはありったけの水をかけて、快哉を叫んだ。
「あんたは聖者だ!」
その男はマドレーヌ氏と名乗った。マドレーヌ氏はパリへの旅の途中でモントルィユに寄り、業火の中から縁もゆかりもない子供を救い出したのだった。
子供を救われた役人はそのまま立ち去ろうとするマドレーヌ氏を引き止め、火傷の治療という名目で無理やり街の病院に入院させた。
この一件で有名になった勇気ある聖者を、街の名士や聖職者はこぞって見舞った。病院の前には民衆がすずなりになって、かの勇者を一目でも見ようとした。
これでは仕事にならないと音をあげたのは病院のほうで、それなら、とまたもや立ち去ろうとするマドレーヌ氏をさらに街の人は引き止めた。
そうして彼は民衆に請われてこの街に根を下ろし、事業を立ち上げた。その事業は見事に成功し、モントルィユは再び栄えだした。
その彼が再三請われてようやく市長に落ち着き、産業は復興し、福祉は充実して、このあたりでも有数の都市になりつつあった。神が遣わした方だと民衆は噂していた。
これらはジャベールが市庁舎に向かう馬車の中で聞いたことだった。もちろん事前の資料であらましは読んでいたが、こうして街の人から直接聞くと、マドレーヌ氏がどれほど慕われているかがよくわかった。
あんなに金持ちなのに、ちっとも自分の身なりを構いなさらない。役人連中もそれでは示しがつかないと言って説得するのに、自分の身なりや生活に使うぶんのわずかなお金さえ、貧しい者にやってしまう。
市長がそんなだから役人も私腹を肥やすようなのはやりにくくなってるし、街の小金持ちもマドレーヌ氏の人気にあやかって慈善事業を起こすようになった。
こんなに良い街はない、と御者は言った。市長ほど素晴らしい方はいない、優しくて控えめで、けれど決断力はおありになる。
「だからねえ警部さん。あんたは暇になるかもしれないよ。だってこの街じゃ悪人もやりにくかろうよ」
そう言う御者に、ジャベールは笑った。
「そうだといいんだがな」
そうしてジャベールがこの街に着任したのが少し前のことだ。
福祉と慈善事業の充実した街は確かに平和だった。貧困からくる犯罪を最小限にすることができるので、ジャベールがかつて見てきた街の中でもずば抜けて治安が良い。
市長は噂通りの男で、万事控えめだった。ただし福祉政策についてはやや強引に意見を通すことがある。それがまた民衆には受けが良い。
役人の中には面白くない者もいるようだが、表立って言う者はいなかった。市長の民衆からの人気は絶大だったし、彼が街からいなくなれば街はまた寂れるだろう。それが予測できる程度に、この街はマドレーヌ氏の人望で回っていた。
市長は常に公平であった。 便宜をはかってやることはあったが、必ず万人に利益を与えた。懐柔されない代わりに、一方に偏ることは決してなかった。
ジャベールは市長のそういうところが好きだった。孤児や病人に優しく、伝染病の患者も臆さず見舞った。
フェアで道徳心が厚い、こういう人間が街を治めるなら街は平和になるはずだと思った。
だが一つだけ、ジャベールには気にかかることがあった。
市長は小さな住居に住み、歩いて市庁舎に向かった。毎朝、隣人や街の人に挨拶し、途中、公園の前に溜まる貧しい者たちに施しをする。
もはや日課であるらしいそれに遭遇したとき、ジャベールは見た。
市長から施しを受けるための列の最後に並び、彼の前で戦争で足をなくしたと泣いた男が、市長が公園から立ち去った後で何食わぬ顔でそのまま歩きだしたのだ。
気に入らない。
福祉や慈善というものはそうやってただ乗りするものを含めてやっていかねばならないのが現実だ。それはそれとして、ジャベールが最も気に入らないのは、市長がわかっていてその男に施しをしている節があるということだった。
ある朝、いつものように公園の前でその男に施しを与えた市長の背中にジャベールは声をかけた。
「ムッシュウ」
市長は普段通りに振り返り、ジャベールを見て少し目を丸くする。小さく帽子を上げた。
「君か。おはよう」
「おはようございます」
ジャベールはあえて市長に並ぶ。
「一つ、報告というほどのものでもないのですが、お話したいことがありまして」
「ああ」
促す市長の目を見つめる。
「あなたが最後に施しをした男は、あなたを騙っています。本当は怪我などしてはいない」
市長はジャベールから目をそらす。
「そのことか」
「やはり知ってらしたのですね」
市長は答えず、公園の木を見上げる。深緑の隙間に覗く赤い実を、鳥が啄んでいる。
「なぜあの男に施しを与えるのですか。あの男はいわば詐欺師だ」
つい詰問をする口調になった。市長はちらりとジャベールに視線をやる。帽子のせいでその表情はわからなかった。
「彼にも事情があるのかもしれないよ」
「詐欺師の事情を斟酌する必要がありますか」
市長は黙った。ジャベールはそのまま続けた。
「貧しい者、飢えている者は救わねばなりません。しかし人を騙し、不当に利益を得ている者を許せば正しさが崩壊します」
市長は応えない。
「市長。正しき者のために、正しき者であってください」
それはジャベールなりの信頼の表明でもあった。そのとき、不意に市長が口を開いた。
「彼もまた、貧しさからそうしたのだと思うよ」
まだわかってくれないのか。
「貧しくとも正しく生きる者はいます。貧しさから人を騙るような連中と、正しく生きる者と、同じく扱うわけにはいかないでしょう」
それは不公平です、とジャベールは言った。フェアネスという点において、この市長ほど明確に理解する人はそうはいないだろう。
「そうかもしれないね」
そう市長は言って、ジャベールのほうを見る。
「けれど、必ずしも正しさだけで生きていけるほど人は強くない」
「強さの問題ではありません」
咄嗟に反駁し、ジャベールは気付いた。市長に対する態度ではない。
「……失礼しました。差し出がましいことを」
恥じ入って視線を落とす。市長はジャベールを眺めて、また空を仰いだ。
「貧しさには多くの種類がある、と私は思う。金銭的な貧しさや、精神的な貧しさ、縋るものを持たない人間は弱い。貧しさから人を騙す者、犯罪に走る者を、私は憐れむ……」
優しすぎるとジャベールは思ったが、過分なことなので口にしなかった。
「それらすべてを救うことを目指すのが私のような者が市長になった意義かもしれない、と思うよ」
無謀に見えるかい、と市長は静かに問う。
「……私にそれを聞きますか」
答えることができないので無礼を承知で聞き返すと、市長は少しだけ微笑む。
「……君のような人も、この街には必要だよ」
「そうだといいのですが」
市長はジャベールの肩を軽く叩く。
「行こうか。もうすぐ始業だ」
「ええ」
ジャベールは市長と並んで歩きだした。モントルィユの朝が動きはじめていた。