旅先にて アンジョルラスはぽすんとベッドに腰掛けて一言、
「疲れたな」
と言った。
彼がそんなことを言うのは滅多にない。グランテールは思わずアンジョルラスを見た。
「ん?」
アンジョルラスは首を傾げる。彼の下瞼に影が落ちていた。さらさらと流れる金糸の髪も心なしか草臥れている。
グランテールはアンジョルラスに歩み寄った。右手で顔に触れると彼は笑う。すり、と親指で頬を撫でた。
「どうかしたのか?」
「……なんでもないよ。今日は早めに風呂に入って休もう」
「うん」
グランテールの手の中でくすくすと笑うアンジョルラスの呼気がくすぐったかった。
東京は不思議な街だった。日本のグランテールとアンジョルラスたちに案内してもらいながら、何度も感嘆の声をあげた。
昨日までは日光にいて、リョカンと呼ばれるホテルに泊まった。日本建築も珍しければ出される料理も変わっていて面白かった。
今日からは東京、交通の便の良い駅の近くのホテルだ。
アンジョルラスのシャワーの音を聞きながらグランテールは荷物を開いた。日本らしいものを買うなら日光のほうがいいかも、と日本のアンジョルラスに言われた通り、既にお土産でいっぱいだ。そして多分、これからもお土産は増えるだろう。
でも、みんなに色々買っていきたいしなあ。
グランテールは頭を悩ませながら着替えを取り出す。寝間着は持ってこなくても大丈夫だと言われていたので、最低限のものしかない。
ガチャリと音がして洗面所のドアが開く。ほかほかと湯気に包まれたアンジョルラスが現れた。
「あ、グランテール」
アンジョルラスは微笑んだ。グランテールの心臓が跳ねる。アンジョルラスが着ているのは、リョカンですっかり慣れたユカタというものだ。日本では下着や寝間着として、こういった簡単なキモノを着るらしい。
何しろ簡単なものなので首周りが緩く開いていて、グランテールは目線のやり場に困る。アンジョルラスのほてった肌が艶めかしい。
「汗を流すとほっとするよ」
「そ、そうか」
グランテールがなんとか返すと、アンジョルラスはふわりと笑う。もう目尻が下がってとろんとしている。眠いらしい。
アンジョルラスはペタペタとスリッパの音をさせてグランテールの横を通り過ぎた。石鹸の良い匂いがする。
そのままアンジョルラスがベッドに倒れ込むに及んで、グランテールははっとした。
「アンジョルラス、髪は乾かさないのか?」
振り返ると、やはりアンジョルラスの髪の毛は濡れて枕の上に散らばっている。
「かみ……?」
不思議そうな、輪郭の溶けた声が返ってくる。
「乾かしたりしないのか?」
アンジョルラスは顔を上げ、グランテールを見てゆっくりと頷いた。
「……風邪、引かないか?」
「……かぜ」
首を傾げるアンジョルラスはとても幼く見えた。
結局グランテールは、眠たげなアンジョルラスを起こすと鏡台の前に座らせた。
ほわほわとしたアンジョルラスの話を聞くと、どうも普段から髪を乾かす習慣がないらしい。……確かにどちらかの家に泊まるときもアンジョルラスは髪を拭いたきりで、乾かしていた記憶はない。もっとも泊まるときは大体、その、そうなるので、定かではないが。
ここで風邪を引くと大変だから、と言ったグランテールの言葉に納得したのだろう、アンジョルラスはなんとか体を起こした。
グランテールはホテルに備え付けらしいドライヤーを取り出すとコンセントにセットする。他人の髪を乾かすなんてやったことがない。しかし、言い出した手前、やらねばならない。
「アンジョルラス」
「……?」
「熱かったり、痛かったりしたら言ってくれ。その、慣れてないから」
言うと、アンジョルラスはふふ、と笑う。
「美容師さんみたいだな」
「………」
そうだったらどんなに良かっただろう。
ええっと、確かあんまり熱すぎても髪の毛が傷むんじゃなかったか。アンジョルラスのこの綺麗な髪の毛を自分が乾かすのだと思うと緊張する。
グランテールはアンジョルラスの背後に回ると、まずタオルで軽く髪の毛の水気を拭き取った。アンジョルラスが自分でも拭いていたのか、それほどタオルが濡れる感触はしない。
次にアンジョルラスの髪の毛を櫛で漉いていく。引っかかるところがほとんどない。時々少し絡まる感じがしたときは、その髪の束を持ち上げて丁寧に漉いていった。鏡越しにアンジョルラスの様子を伺うと、彼は目を閉じてうつらうつらしている。痛くないなら大丈夫だ。
かち、と軽い音を立ててドライヤーのスイッチを入れる。温風が吹き出すが思いの外静かだ。そっとアンジョルラスの髪を束にして持ち上げながら乾かしていく。アンジョルラスのまぶたはやはり重たげだ。
「眠い?」
「ん……」
こくりと頷くアンジョルラスにグランテールは微笑んだ。
「眠かったら寝ていてもいいよ」
「……ん」
微かに口の端を上げるアンジョルラスが可愛かった。
水を含んだアンジョルラスの髪は黄金の塊のようで、仄明るい照明の中でも光を集めて輝いている。艶やかな手触りは触れるだけで心地よかった。手櫛で漉いてやりながら風を入れるとふわりと石鹸の匂いと、アンジョルラスの香りがする。
グランテールは心臓がことこと音を立てるのを無視して、作業に没頭するよう努めた。髪の毛を引っ張ることがないよう、できる限り満遍なく温風が当たるよう、かつ地肌にあまり当てないように努力した。こんなにも真面目に髪を乾かしたのは生まれて初めてだ。段々汗をかいてきた。
細心の注意を払っていたつもりだが、ふとグランテールの指がアンジョルラスの耳に触れる。アンジョルラスの肩がはねた。
「ご、ごめん……」
グランテールが謝りながら鏡越しにアンジョルラスを見ると、彼は顔を真っ赤にしてグランテールを見返した。グランテールと目が合ったとわかると不意に逸らす。
「大丈夫だ……」
「本当に?」
グランテールが慌ててアンジョルラスを覗き込むと、彼は首を振ってうつむいてしまった。
「大丈夫だ。だから、……続けてくれ」
アンジョルラスがぽつりと言う。グランテールは首を傾げながらまたドライヤーのスイッチを入れた。
後頭部の髪の毛を持ち上げてうなじのあたりを乾かす。アンジョルラスの肌もしっとりと汗をかいていて、おかしな気分になりそうだった。
ふとアンジョルラスの首が動いた。グランテールはスイッチを切る。
「ごめん、熱かった?」
いや、とアンジョルラスは笑った。
「真剣にやってくれてるんだなと思ったんだ」
「……見てたのか?」
「うん」
ふふ、とアンジョルラスは鏡越しにグランテールを見つめて笑う。
どきりとして、今度はグランテールのほうが目を逸らした。ドライヤーのスイッチを再び入れる。
「ひどいな、笑うなんて」
「どうして?」
「真面目にやってるのに」
「だから、嬉しかったんだ」
ね?と不意にアンジョルラスが上を向いて、立ったままでいるグランテールと直接目を合わせた。うっすらと赤い頬を黄金色の髪の毛が覆っている。青い瞳にけだるげに涙の膜が張って、きらきらと光っている。
グランテールはアンジョルラスの髪の毛にからめた手をそっと解いた。人差し指と中指でアンジョルラスの顎に触れる。アンジョルラスは微笑んでまぶたを閉じた。二人の間に閉じ込められた空気があたたかい。
口づけすると、いつもよりもずっとアンジョルラスの肌の香りを感じた。そのまま顔を離す。アンジョルラスが名残惜しそうに見上げた。
「……君は疲れてるだろう?」
言うと、アンジョルラスはグランテールの掌に頬を押し当てる。
「うん。でも……」
アンジョルラスの腕が背中に回っていることに、グランテールは引き寄せられるまで気が付かなかった。
「……一回なら、ね」
耳元で囁かれてはもう駄目だった。グランテールはドライヤーを放り出した。
座っているアンジョルラスを救いあげるように抱きかかえると、アンジョルラスはグランテールに捕まりながら、くすくすと笑っていた。