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    青白いふしあはせの犬よ。 目を覚ますと、満点の星空が見えた。六月にしては冷えた風が火照った頬を撫でる。他の連中はどこへ行ったのか。グランテールは一人、路地の隙間、家々の影から空を仰ぐ。壁に頭だけ凭せ掛ける。吐いた息は熱くまだ酒気が残っていた。路地は湿って、一年中同じ臭いがする。無人の庇の合間から星影を望む。上空は澄んで雨の影はない。
     まるであの憐れな女が連れ去っていったようだ。ふと思って、グランテールは苦笑する。自分らしくもない。
     らしくもなさで言えばアンジョルラスも同じだった。息絶えたエポニーヌを前に青い目を落とし、ただ一言「神に召された」と口にした。アンジョルラスは、革命に犠牲は付き物だ、神の無力を正すのだと傲慢に言って憚らない。その彼がまるで一個の信仰者のように口にした言葉は、おのずから学生達の姿勢を正し、バリケードの中は粛然とした空気に包まれた。雨の中、マリウスに抱えられた彼女のための葬列だった。
     アンジョルラスとはそういう男だった。言葉一つ、仕草一つでその場を支配する。一見端整で上品な容姿の内に逆巻く激情と、煌く理性の刃。舌鋒鋭く時勢を批判するときさえ、彼の口から発せられるならば音楽だった。冷ややかで皮肉屋だが、彼の言葉に熱い血潮が通うことは疑いなかった。理想主義者だったが、突き放すことはしなかった。
     仲間たちは流動的で、誰かが出たり入ったりすることは自由だった。それはこの仲間の性質上、非常に危険なことだったが、アンジョルラスはそれを許した。誰が止めても同じことだった。理想と志を共にするのならば参加は自由だ、と彼は言った。彼は常にそういう甘いところがあった。
     アンジョルラスの視線が学生たちに据えられるとき、誰もがあらゆるお喋りを止めて彼を見つめた。彼は命令はしなかった。ここに階級はなかった。彼は皆と一緒に語り、皆と一緒に歌い、騒ぎ、飲んだ。しかしどれほど乱れても生来の端整さが失われないのも彼の不思議なところだった。
     彼は聖職者のように厳かにエポニーヌを見つめた後、悼むように目を伏せた。アンジョルラスの言葉で彼女は雨の当たらない屋内に移された。葬列は静かに散会し、後には弟のガブローシュとマリウスが残された。
     憐れな女だった。彼女が心からマリウスを愛していたことを、マリウス以外の皆が知っていた。そうでなければどうしてこんな危険な場所にまで追ってくるだろうか。彼女の一途な愛にマリウスは気づかなかった。マリウスは自分から誰かを愛したことがなかったからだ。
     エポニーヌ、憐れな女──お前もまた、彼女を憐れんだのだろう、アンジョルラス。報われない愛を注ぐ彼女を。
     マリウスは幾度も仲間たちの元を離れ、そして帰ってきた。ポナパルティズムを奉ずる彼は、根本的にアンジョルラスらの理念とは合わなかった。マリウスは良くも悪くも、大切に育てられた資産家の子息だった。急進的なものは好まない。かつ実家を捨てるほどには非情になれないのだった。情に流され、絆される。資産家の子は仲間たちに幾人もいた。アンジョルラスもその一人だ。しかし、マリウスほど優柔不断で鈍感な男もいなかった。
     マリウスの存在を疑問視する仲間の声を抑えてきたのはアンジョルラスだった。志を共にするのならば参加すればいい。どの道、復古王政を除かねばならない点において我々は一致している、とそう言った。
     マリウスに対してアンジョルラスは特に広い慈悲をもって遇していると思ったのは間違いだったか。あの冷ややかで熱い男の心のどの部分にマリウスが触れたのか、グランテールには理解できなかった。
     アンジョルラスが国家以外のことで心を波立たせるのは、マリウスのことだけだった。アンジョルラスは、苛立ちのような、同病相哀れむような、独特の色合いを帯びた瞳でマリウスを眺めていた。
     あの日、いつものように酒場で理想を語り合って騒ぐ仲間たちの元に駆けてきたマリウスは、普段は蒼白の頬を朱に染めて、恋をしたんだ、と笑った。瞬間、アンジョルラスの瞳に嵐が巻き起こり、即座に仲間という仮面に覆い隠された。
     思わずグランテールはマリウスを煽った。マリウスが恋情を吐露するたびに横目でアンジョルラスを伺い、アンジョルラスに睨まれる。嬉しかった。
     だって、僕にはあんな顔してくれないんだから、仕方がないでしょ。
     とうとう、アンジョルラスはマリウスとグランテールの間に割って入るように座り、その場を無理やり収めてしまった。グランテールはアンジョルラスに正面から見つめられると弱い。アンジョルラスはそれを知っているのだろう。
     ずるい男だ、と思う。アンジョルラスは自分を知っている。他人の心を鮮やかに掌握する手腕、才覚、志のまっすぐさ、どれを取っても英雄たる条件を満たしている。しかしグランテールは、それらのものでアンジョルラスに惹きつけられているわけではなかった。
     アンジョルラスが意図している自己の外にあるもの、時折零れ落ちる繊細さ、去来する迷いや、脆さに瞼が揺れるとき、グランテールの心はより彼に近づきたいと願うのだ。
     まるであの星を掴むようなものだな、そう思い、グランテールは空に手を伸ばす。天蓋に瞬く星は平気な顔でグランテールを見下ろしている。
     その時だった。
    「何をしている」
     視界に金髪が揺れた。
     グランテールは目を丸くする。指先が空を掻いた。
     星空を背景にして、アンジョルラスの青い目がグランテールを覗き込んでいる。
     グランテールは笑った。
    「起こしてくれないのか?」
     アンジョルラスは呆れたように息をつく。手を差し出してはくれなかった。
    「酔っ払いが」
    「そうとも、僕は酔っ払いさ」
     グランテールは笑みを深くして起き上がり、壁に背を凭れた。天上の星よりも輝く僕たちの熾天使よ。
    「飲まなかったのか」
     銃口をぶらさげたままグランテールを通り過ぎるアンジョルラスの背中に向かって声をかける。
    「みんながお前みたいに寝ていたら見張りがいなくなるからな」
     珍しく応答があった。これは上々だ。
    「手厳しいな。それで首尾は?」
    「来ない」
    「だろうね」
     多数の軍勢に対してバリケードは少数だ。威嚇の意味もあったであろう夜襲も一度失敗している以上、夜が明けるまで攻撃はないと判断していい。
    「……味方も?」
     問えば無言で返された。これもグランテールには予想できていたことだった。
     人間は皆、自分が一番可愛い。どれほど政治に怒ろうと行動に移す者は極めて少ない。ましてやこの国の民衆は短期間で施政府が変わることに慣れてしまった。慣性は恐ろしい。民衆の情熱に突き動かされた革命は惰性になり、やがて頭上を行き過ぎる嵐に変わる。民衆は首を竦め家に引きこもって、嵐が過ぎるのを待つだけだ。革命で何が変わったのか。何一つ変わりはしなかった。相変わらず一部の人間が富を独占している。理想はいずれ四肢を巡って毒に変わる。期待は内側から身を腐らせる。高邁な理想の刃は血と脂肪で濁り、錆びついて、もはや誰も手に取らない。それが全てだった。
     早すぎたのか、遅すぎたのか。グランテールはアンジョルラスの背中を眺める。時勢さえ味方するなら、きっと彼は国の英雄になれたろう。
    「アンジョルラス……」
     沈黙が怖くなって名前を呼ぶ。ふと彼が笑う気配がした。
    「逃げたいなら逃げろ」
     アンジョルラスはグランテールを顧みる。口の端を歪めていた。
    「君には託す理想がないのだろう。蜂起は失敗すれば即ち死だ。いたずらに命をかけるべきじゃない」
     淡々と言う。煤で汚れた金髪が星の光を受けて輝く。一年中同じ、饐えた臭いのする路地で、そこだけがきらきらと煌いている。
    「逃げないよ」
     グランテールは語調を強め、アンジョルラスを見上げた。端整な容貌もさすがに憔悴の色が濃く、それが返って苦い影を落として心惹かれた。
     アンジョルラスがグランテールを見据え、目を眇めた。彼の瞳はどんな悲惨に巡り合おうとも煙ることはないのだろう。改めて、美しい男だとグランテールは思う。
     グランテールは昔から我が強かった。何にでも理屈が勝ち、疑わないということができなかった。益にならない思考は身食いと同義だ。身体中を食い潰す毒虫だ。グランテールの前にあらゆる理想は意味をなさない。高邁な思想も時を経れば劣化し、あるいは略奪者の名目に堕するだろう。理想だけを奉じて生きていけるほど人間は清くあれない。人間が生きるということは日々美しさから離れることをいう。テオグニスの悲歌に曰く、人間にとって一番良いのはこの世に生を享けないこと、しかし生まれてしまったからには次善の策として速やかに死ぬのが良い。分かっていても尚、グランテールは諦め切れないのだ。
     言葉を失うほど美しいものの前でだけ、グランテールは思考を忘れることができる。
    「逃げないよ……。だって、君がいる」
     酔いに任せて口にした。アンジョルラスは返事をしなかった。それでいい。元より返事を期待したわけではなかった。
     アンジョルラスは小さく息を落とす。
    「……馬鹿だな」
     驚いて彼を見返す。金髪が緩く揺れた。
    「そんなことで捨てていい命ではないだろうに」
     グランテールは瞠目し、やがて喉の奥で笑った。
    「そんなことでか。じゃあ聞くが、この世には命をかけるだけのものがあるのか。命を捨てるほどの価値のあるものなんてどこにある。国家? 何十年と政情が不安定なおかげでこの国の血肉はとっくに腐ってるよ。理想? 無知蒙昧な連中には分かりゃしない。民衆? 十年一日の如く自分の腹が満たせりゃ満足、行き着くところはパンとサーカスのデカダンスだ、それが偉大なる民衆だ。いつの世も人は安きに流れる。自由を求めれば必ず秩序は崩壊する。秩序なしには美しい理想も人道もない……」
    「黙れ、グランテール」
     アンジョルラスは吐き捨てる。その美しい目に軽蔑がありありと浮かんでいるのを見て、グランテールは哄笑した。
    「なあ、アンジョルラス、分かるだろう。僕は何物をも信じない。何物にも意味を見出さない」
    「自分にでさえもな」
     アンジョルラスは冷ややかに口にする。
    「安易な絶望に溺れて高みから見下ろして、お前は満足か」
     ガラス球のように青い瞳の奥に一条燃える炎がある。凄絶で畏ろしいような気がするのに、潰える前の劫火の光にも似て儚くて美しい。彼のように生きられたならば幸せだろう。疑う余地のない理想を持つ。その理想のために身を滅ぼす。
     多くの人間は凡人だ。仕方がないと言い訳をしながら、あり合わせの物で満足しようとする。先の革命の戦士たちも理想のために再び戦う勇気もなく、老いて死んでいったではないか。最も勇気あるものは最も早くに死ぬという、歴史の転換点における法則を踏まえればそれも無理からぬことなのかもしれない。
     何かを信じきって疑わず、世俗のあらゆるものを絶って身を投じることができる。それも一種の才能だ。文字通り神が与えた贈り物だろう。疑いを知らない人間こそ地上で最も幸福で、最も美しい。
     吸い込まれるようにアンジョルラスの目を見返して思う。自分は、救われたいのだろうか。それとも罰されたいのだろうか。分からない。何も分からない。信仰と恋は同じだという。グランテールは信仰を持たない。何ものをも信じない。信仰を持たない以上、この感情は恋などではありえない。ならばアンジョルラスに惹かれて止まない、グランテールのこの感情は何か。分からなかった。
     彼が失われるだろうことを想像して苦しくなる一方で、美しく散華する姿も見たいと思う。被虐と嗜虐の狭間にあって、ただ近くにいたかった。
    「アンジョルラス……」
     グランテールは小さく呼んだ。彼は一瞬不審な顔をして傍に寄ってくる。一度でも徹底的に言葉で打ち据えた者は信用すべきではないのに、そういうところが甘いと思う。
    「どうした」
     アンジョルラスは気遣う声で言った。グランテールは微笑みを浮かべて彼を見上げる。せめて今だけは清らかなふりをしていたかった。
    「アンジョルラス。なぁ……、僕を傍にいさせてくれ」
     言うと、アンジョルラスは口の端を歪めて笑った。伸ばされた腕がふいと離れていく。
    「言うに事欠いて……」
     小さく呟かれた声には冷笑の響きさえあった。本人にでさえ意識されなかったであろうその色をグランテールは確かに聞き取った。想われる者の冷酷さがじわりとグランテールを締め付け、同時に甘美な棘になる。
    「信じないのか」
     背を向けたアンジョルラスに追い縋って彼の腕を掴む。ああ、どうか、振り向いて。
    「信じないのか、アンジョルラス……」
     震える声は湿った路地に滲んでいく。吐いた呼気は熱かった。頭の中で溶岩が煮えて、グランテールを笑う。
     グランテールは知っている。アンジョルラスは振り向かない。この哀切さを彼はかほども感じない。縋らずにおれないのは想う者の傲慢さだ。そうだ傲慢だ、グランテールはただ一点、アンジョルラスへの思いのみにおいて存在を許されようとしている。アンジョルラスの高潔はそれを許さないだろう。そういうアンジョルラスだから惹かれたのだ。
     悲しみは酔えるけれど惨めなのはやりきれないわ。いつだったかエポニーヌはそう自嘲した。
    「出て行け」
     アンジョルラスははっきりとそう言った。振り払われないのをいいことに、グランテールはアンジョルラスの腕を強く掻き寄せる。視界が歪む。奥歯が鳴った、呼吸が苦しい。吐きそうだ。
     知っている。彼は振り向かない。絆される程度の男ならグランテールは惹かれなかった。全部、全部、分かっているのだ。
    「信じてくれ……」
     搾り出した言葉は語尾が滲んで消えた。
     信じてくれ、それだけでいい、僕にはお前だけ。どこぞの三文小説のような言い回しが脳裏に映る。まるで陳腐だ、こんな陳腐な言葉でどうして彼への思いが語られ得よう、だのに何故こんな言葉しか出ないのか。こんな、まるで恋人にかける囁きのような言葉など。
     アンジョルラスの腕に額を押し付けた。胸が、痛い。
    「……君だけなんだ、全部、このからだの神経の端に至るまで、全部が、君の傍にいたいと言うんだよ。君が僕を嫌っても、軽蔑しても、それでも君の傍でだけ、僕は安心することができるんだ」
     言葉をすべて吐き出して、彼の返答を待つ。目の奥がじんと痛む。泣きそうだった。
     アンジョルラスは地面に向かって小さく息を吐いた。グランテールの手を解いて、一歩踏み出す。二歩、三歩、その先も。
     アンジョルラスは振り向かなかった。
     分かっていたことだった。失望するのも傲慢なのだろう。思うとまた涙がこみ上げた。馬鹿みたいだ。
     背中を再び壁に預けた。アンジョルラスはもう路地にはいない。空を仰いだ。星が輝いて明るい夜だった。濡れた路地の地面が冷たい。おそらく服も汚れているだろう。
     惨めだと改めて思った。グランテールだけが必死で、グランテールだけが望んでいる。
     アンジョルラスはグランテールの憧れだった。焦がれて止まぬ星だった。こうあれたらという願いの塊だった。言葉では強がりながら、それでも怯えて、手を伸ばさずにはいられなかった。
    「……好きだ……」
     口からこぼれ出たら、同時に目尻から涙があふれた。これは恋情だ。少なくとも、恋情に極めて近い何かだ。一度決壊すると次々に涙が湧き出す。こめかみを伝って熱い雫が伝い落ちる。
     グランテールは何者をも信じない。自分も、他人も、神もだ。ただアンジョルラスだけを信じる。あの残酷な、愛しい熾天使。
     信じないかもしれないけれど、僕は君に出会ってようやく、生きることができるようになったんだよ。
     グランテールは空を仰いだ。庇の合間から見える星は鮮やかに煌いていた。
    ユバ Link Message Mute
    2019/11/27 10:32:34

    青白いふしあはせの犬よ。

    グランテールがアンジョルラスに縋って泣く話。
    タイトルは萩原朔太郎から

    #レ・ミゼラブル #アンジョルラス #グランテール

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