ノスフェラトゥ こつ、こつ、こつ、と音は続いていた。
このところ毎晩だった。樫の木のドアは硬く響いて、訪問者の存在を知らせていた。
私は机に向かい、その音が聞こえないふりをしていた。視界いっぱいに広がる文字列に没入しているとやがて音は聞こえなくなる。いつもそうだった。
机の上には無数の本が積まれていた。一度も開かれずに埋まっているものもあれば、開きっぱなしにして癖がついたものもある。言語は様々だ。ドイツ語、ラテン語、英語、アラビア語、それらを照らしてランプの明かりがじりじりと揺れる。夜の明かりの中で見る異国の文字は面妖さを増して、私を惑わせる。
こつ、こつ、こつ、こつ。
ドアを叩く音は続いている。樫は他の木材と比べ乾燥しにくく、硬いため加工に向かないという大きな欠点がある。しかし、その特徴を最も生かした使い道がひとつあるのだ。──棺桶だ。
この部屋を訪う者は少ない。かつては若い助手が一人、私の身の回りの世話や雑用をするため出入りしたものだが、今となっては皆無に等しい。元より人に馴染めず孤老の境遇だ。
こつ、こつ、こつ、こつ。
音は続いている。一定のリズム、しかし確かに《ドアの向こうにいるもの》の意志を感じさせる微妙なぶれが私の神経をざらつかせた。なぜ今更、という思いを飲み下す。
考えてはいけない。私は無視をしなければならない。
《それ》は招待されなければ訪問することはできない。その定説をいとも簡単に覆したものこそ、今そのドアの向こうにいるのだから。
不意に音が止んだ。私は息をつく。掌に汗が滲んで、手繰ったページが歪んでいた。机から体を離すとあちこちが軋む。強張った筋肉をほぐすように首を回した。
「やれやれ。この年になると机に座ってるのも疲れる」
誰にともなく呟いて私は椅子を引いた。そのときだった。
こつ、こつ。
私は一瞬呼吸を止めてドアを省みた。口の中がからからに乾いていた。
「……誰だ」
ああ、とうとう応じてしまった。私は暗澹たる気持ちで考えている。この応答にどんな意味があるのか。
ドアの向こうはしばらく静かになった。しかし《それ》はまだ存在する。呼吸もせず、鼓動も体温も持たず、鏡に写らない、だが意志を持って行動する《それ》。
「……プロフェッサー・アブロンシウス」
囁くような声が耳殻を撫でた。独特の抑揚を持つその声は、初めて会ったときとなんら変わらない。囁くように、歌うように──私はまぶたを閉じた。思い出す。雪深いトランシルヴァニアで過ごした忌まわしくも慕わしく、いまだ私の心を揺さぶらずにおれない夜のことを。
「入るがいい。あなたは私の招待がなくても入れるはずだ」
喉の奥から搾り出した声はしわがれていた。目がドアに吸いつけられたように、視界を動かすことができなかった。