イラストを魅せる。護る。究極のイラストSNS。

GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

  • 1 / 1
    しおり
    1 / 1
    しおり
    白桂の夜 水音が響いていた。函養山の中を流れた水が岩窟の間を縫い、驍宗の足元に流れる。
     目を覚まし、驍宗は中空を眺めた。ここに閉じ込められてから時間の感覚を失わないよう昼夜を数えて過ごしていたが、不意に分からなくなるときがある。例えばこうして浅い眠りから覚めた後は自分がどれだけ寝ていたのかを考える。見上げると天井に抜けた穴は仄かに明るい。
     白く淡い光が天井にぽっかりと浮かんでいる。月の夜だった。
     岩壁を背にして眠ることにもそのうち慣れた。軍人であればどんな環境でも睡眠を取る訓練を受けている。反面、どれだけ深く眠っていてもすぐ目覚めることができるのだから、頭の芯のほうでは休めていないのかもしれない。
     驍宗は両腕で膝を抱え、遥か天井を見上げる。道具を使って岩を掘り、あの穴に向けて少しずつ登れるようになっていた。しかし深い洞窟の中、月のない夜や荒天の日は無明の闇になる。太陽が差している間しか作業はできず、従って一日数歩を進めるのが限界だった。
     気が遠くなるほど地道な作業だったが、驍宗は毎日飽きることなく続けた。生き延びること、そして一日でもはやく脱出することが自分が民のためにできる唯一のことだからだ。
     民のため、と思い驍宗は苦く笑った。自分は民のために何一つできていない。しようとして、ここに閉じ込められてしまった。申し訳がない、とも思う。自分を頂く民にも、自分を選んだ天にも、選んでくれた泰麒にも済まない思いがした。
     麾下はどうしているだろうか。自分がいない間の戴の荒廃を食い止めるために戦ってくれていることは想像がついた。苦労をかける、とそんな一言では済ませられない。
     阿選は──何を思って、叛いたのだろうか。
     浅い眠りの中で驍宗は夢を見ていた。随分昔の夢だ。

     軍学から大学に進んで間もなくのころだったと思う。驍宗は大学で修養する傍らで兵卒も務めていた。兵卒は配属された先の隊でまず雑用からやらされる。これはどんな出自でも同じだ。監督役は一つ上の兵卒で、驍宗の監督役には驍宗よりも一代前に軍学を出た安施という先輩だった。
     後輩に対して指導するのだから少しは親切にしそうなものだが、安施は違った。とかく驍宗につらく当たった。雑用には訓練で使う道具の作成も含まれる。その出来上がりが疎かだと言っては幾度もやり直しを命じられ、作り直せば遅いと詰られ、慣れて手際が良くなるとずるをしていると責められる。一事が万事その調子だった。
     要するにいびられていたのだろう。あのころはそれが分からず、驍宗は安施の無茶な命令のひとつひとつを真剣にこなした。
     驍宗はその日の訓練後も一人残され、安施に叱責されていた。
     その日は特に、驍宗が安施の弓を壊したとまで疑われた。確かに三日前に安施の弓を整備したのは驍宗だったが、その後は指定の倉に置き手を触れていない。しかし安施は驍宗の言い分など聞き入れない。今日使うときに壊れていて使えなかった、お前のせいで恥をかかされた、と驍宗を詰る。
     驍宗は参っていた。まったく身に覚えのないことだから謝ろうにも謝れない。だが安施は謝罪を要求し、態度が悪いと責める。
    「何をしている」
     突然、安施と驍宗に声がかけられる。見れば一人の軍人が訓練場に戻ってきていた。
    「今日はもう休めと言われたはずだが」
    「阿選様」
     安施は急に媚び諂うように笑みを浮かべた。
     彼が、阿選か。驍宗は驚いてその男を見た。驍宗は軍学のころから何度も人から言われた。いわく、阿選のようだと。
     年は驍宗の七つか八つ上だったはずだ。驍宗と同じように軍学から推挙されて大学へ進み、今年晴れて旅帥となった人物だった。軍学から大学に進む者は珍しくないが、入営にあたって旅帥からというのは極めて稀だ。それだけの才を認められたのだろう。
     阿選の成績は極めて優秀、余人をして大学始まって以来の秀才と言わしめた。その阿選に似ていると言われて悪い気はしない。驍宗は勉学、修練ともに一歩一歩の積み重ねを惜しんだことはなかったが、阿選と比肩されるならなお一層の努力が必要だと思えた。顔も知らない彼と競っているような、引っ張られているような感じがいつもしていた。
     いずれ軍の中で会えるのではと思っていたが、こんなにはやく邂逅できるとは。
     阿選は怜悧な印象のある、痩せた男だった。決して軍の中で際立った体格ではないだろう。それもまた驍宗に親しいものを感じさせた。
    「私の弓を壊されまして、叱っていたところです。訓練用とはいえ武具を雑に扱うなどあってはならないことです」
     安施は阿選にそう説明した。驍宗は初めて安施に怒りを感じる。自分ではない、と何度言っても聞き入れてくれない。
    「そうか。……その弓を見せてみろ」
     阿選は安施から弓を受け取り、検分する。
    「弦を張ったのはお前か」
     阿選に言われて、驍宗は頷く。三日前、驍宗が整備して弦を張り直した。
    「それで今日は使っていない?」
     阿選は安施を見る。
    「ええ。使う前に中仕掛けが壊れているのに気がついて。まったくなんてことをしてくれたのだ」
     安施は忌々しそうに驍宗を睨んだ。阿選は溜息をつく。
    「彼ではない。弦輪は新しいが使われた跡がある。三日前に弦を張り直してから誰かが使ったんだ」
     阿選は笑い、安施に弓を返した。
    「おおかた他の兵士が間違えて使ったんじゃないか? 壊して返すのは問題だが、誰がやったかはとてもじゃないが分からないだろう。一括に管理していれば間違いはままあることだ、幸い修理で済みそうだしな」
     訓練用の武具は消耗品だ。壊れることもよくあった。しかし扱いが粗雑で壊れたとあれば当然良い顔はされない。
     はあ、と安施は弓を受け取って曖昧に笑う。
    「さあ、今日はもう終わりだ。明日も訓練はあるぞ、はやく休んだほうがいい」
     阿選の言葉に、安施はそそくさと帰っていった。
    「ありがとうございました」
     驍宗は阿選に向き直って礼を言った。助かったと思う。阿選が現れなければ身に覚えがないことで処罰を受けねばならなかった。
    「君はああいう手合いへの処理を覚えたほうがいいだろうな。これからも腐るほど現れる」
     阿選は少し笑う。驍宗は目を見開いた。
    「では、わざとだと?」
    「可能性はある。彼は酒を飲んだときに尚更たちが悪い。酔って武器を振り回す癖がある」
     自分が酔って壊したものを驍宗のせいにする。そうすれば確かに安施自身は叱責を免れることができるのだろうが、あそこまで執拗に驍宗を詰るのは不可解だった。
    「……分からないか。さぞかしやつも妬ましいのだろうな」
     阿選は面白そうに驍宗を見る。驍宗は驚いた。
    「私をご存知で?」
    「今年、私を凌ぐ成績で軍学を出た者がいると聞いた」
     凌ぐなどとは言えない。科目によってはとても阿選の残した成績に敵わなかったものもある。
     だがこの数年、阿選に比べられるほどの成績を残したものは驍宗以外はない。阿選に続く者があるとすればそれは自分であろうと驍宗は思っていた。
    「光栄です」
     そう返すと、阿選は少し目を開いてから笑った。
    「驍宗、嫉妬で足を引かれぬよう気をつけろ。足並みを揃えることが苦痛でも兵卒にはそれが必要なときもある。周囲に合わせて手を抜け。余った時間で自分をより一層高めればいい」
     全力で事に当たるのは地位を得てからでいい。うまくやれ。
     阿選は驍宗にそう言った。驍宗は正直なところ、拍子抜けした。阿選であれば分かってくれると思っていたが、このように月並みなことを言われると思わなかった。
     その後、驍宗が大学を出るまで阿選に再び会うことはなかった。阿選は周囲の期待に応えて破格のはやさで師帥になり、驍宗もまた阿選を二年上回って大学を出て旅帥になった。
     年を追うごとに阿選の言葉の意味が分かってきていた。驍宗はあまりに抜きんで過ぎていた。それは人によっては恐ろしくも映るらしい。英雄か、さもなければ災禍になるか。後者の可能性が高い、と囁かれた。傲慢であるとか不遜であるとか驍宗を貶す言葉は枚挙に暇がない。
     英雄か災禍か、それは驍宗自身にも分からない。自分は前者であると、身を律して行いを正していけば己は必ず戴のためになると信じているしかない。
     驍宗が瑞州師中軍将軍となった年、阿選は禁軍中軍将軍となった。追いついた、と思った。もちろん州師将軍と禁軍将軍では雲泥の差があるが、瑞州侯は戴の台輔だ。ゆえに瑞州師は時に禁軍に隣接する。
     阿選を追い越すことはまだできていない。しかし、かつては追いかけ、一兵卒であったころに驍宗の将来を見通した男に驍宗はようやく肩を並べたのだった。

     阿選は穏和だ、と言われていた。規律を重んじ、人品に優れて政治向きの才覚もあり、軍を率いれば常勝、それも短期で勝利を得る。敵の扱いも仁があることで有名だった。
     だが驍宗の見たところ、阿選が最も優れているのは人を使うことだった。周旋の才があり、人の心の動きを掌握する。軍略においても兵を動かす前に人を使って周到な準備を進め、敵方を割って撹乱、あるいは内紛を狙う。ゆえに実際に軍を出したときはもう勝敗はついている。戦闘自体が少ないので敵味方問わず犠牲も少なかった。
     おそらくこの謀反も以前から準備されていたものだろう。阿選が動き出したときには既に驍宗は負けている。阿選の叛く意志にも不審な点にも勘付いていながら文州におびき寄せられた。烏衡程度であればなんとかなるだろう、と侮り函養山に赴いた。一に延帝、ニに驍宗とも言われた剣の腕を恃みにしすぎた、のだと思いたい。
     顧みてみれば驍宗の驕りさえも、阿選の計略のうちに組み込まれていたのだろう。分からないのは、驍宗を函養山の底に押し込めた後に阿選から音沙汰がないことだった。
     目を覚ましてからしばらくの間は体を癒やしながら阿選の次の刺客に警戒していた。驍宗は死んでいない。白雉は落ちていない。続く刺客があってしかるべきで、手負いの驍宗にはそれを防ぐ方法は皆無だった。にも関わらず捨て置かれた。
     理由は分からない。驍宗の今の状況で推察できることはほとんどなかった。ましてや阿選の心なぞもっと分からない。
     驍宗は、ここまでの状況になっても不思議と阿選を恨むだとか憎むだとかの気持ちは起きなかった。武人は憎くて敵を殺すのではない。相手が生きていれば自分が殺されるから、自分が殺される前に相手を殺すのだ。おそらく阿選もそうなのだと思う。驍宗が生きていては自分が生きていけないから、先に驍宗を殺そうとした。
     驍宗の何が阿選をそこまで怒らせたのか、驍宗には分からない。
    ──「うまくやる」ことはやはり苦手らしい。
     先王の御世だった。阿選と驍宗はともに禁軍を預り、双璧と呼ばれた。
     奢侈に傾く驕王の税は過酷で、地方官が命令に従わない。地方官に理があるのは明らかだった。軍をもって誅伐を命ぜられたとき、驍宗は不本意ながらそれに従おうとした。
     そのとき、阿選が目に入った。
     阿選は世間の評判通りの穏和なだけの人物ではない。それは初対面から明らかだった。だが道を弁えているという意味では驍宗より優れていると思っていた。人心を掴むことがうまいのは、ひとえに人をよく見ているからだ。人をよく見ているから、取るべき道が分かるのだろう。
     その阿選が、下された命を道に悖ると知りながら従う驍宗を見たときにどう思うだろうか。阿選の見透かす視線にぶつかったときに、きっと自分は蔑まれると思った。それだけは耐えられない。衝動的に職を辞した。それなりに努力を積み重ねて得た地位も名誉も、麾下のことさえその衝動の前には頭から消えていた。
     驍宗は自分を聖人君子だとは思わない。聖人君子であれば傾く朝を衝動で投げ捨てることはしない。多少は他人よりましな点があるとすれば、聖人君子でない自分を律して道に悖るまいとする意志を持つことなのだと思う。
     驕王の前を辞して白圭宮を早足で歩いていると、驍宗の麾下が取りすがった。
    「今ならばまだ主上も事を穏便に収めてくださいます。お戻りになってください」
    「嫌だ」
     にべもない。実際、驍宗は怒っていた。
    「お前たちは自由に身を処せ。私はもう将軍ではない、仙籍もいらぬ」
    「驍宗様!」
     悲鳴を上げる麾下を一顧だにせずに出ていこうとした、そのときだった。
    「驍宗」
     呼ばれて、驍宗は振り返る。阿選が追いついてきていた。
     麾下は水を打ったように静かになった。このころには驍宗と阿選は好敵手ということになっていた。
    「行くあてはあるのか」
     やはり止めないか。
    「国を離れて色々と見てみたいものがある。戴を頼む」
     それを聞いた阿選は苦笑した。
    「相変わらず処世の下手な男だ」
     驍宗は破顔する。不甲斐ない、見下げ果てた男よと評されるよりも余程ましだった。
     その後、結局巌趙と共に黄海に入り朱氏に徒弟入りした。驕王に請われて朝に戻るまで黄海で過ごした。
     帰国したとき、年単位で戴を離れていたにも関わらず以前と同じ禁軍左軍将軍に復職できたことに驚いた。もちろん驕王はそれを前提に驍宗の帰国を願ったのだが、朝の形も麾下も先日戴を出ていったが如く変化がない。
    「もう一方の禁軍将軍のためだろうね」
    「英章がそんなことを言うとはな。旗幟でも替える気になったか」
     驍宗は薄く笑った。はじめ、英章が驍宗の配下になったときは相当にぶつかり、麾下となった後も阿選など物の数にあらずという態度を取っていた。その英章の言いようは意外だった。
    「勝手な主人に呆れて旗幟を替えたいのは山々だが、違う」
     驍宗が朝を去った後の麾下は苦労したらしい。まず麾下の出世がぱったりと止まった。驍宗が責を追う形で職を辞したため、驕王は麾下の職を解くことはしなかったがあえて引き上げてやる必要性も感じなかったのだろう。
     また、朝の中でも阿選とも驍宗とも旗幟を明らかにしなかった者、つまり風向き次第でどちらにもすり寄る者たちは驍宗の麾下を冷遇し始める。驍宗がいなくなった以上は阿選につくというわけだ。
     かくして阿選の周りに俄かに人が集まり始めた。あるとき、阿選におもねろうとしたのだろう、阿選の目の前で驍宗を悪しざまに言う者がいた。運悪くそこに驍宗の麾下が居合わせる。
     国を捨てた薄情者よ、不忠の臣よ、そもそもが不遜で鼻もちならない。だいたいそのようなことを言っていたという。驍宗は苦笑する。反論のしようがない。驍宗は元来、毀誉褒貶が激しい男だった。
    「臥信が我慢ならぬと声を上げようとしたんだ。しかしそれを飲み込むほど強い叱責が飛んだ」
    ──黙れ。理は驍宗のほうにある。
    「それが阿選だったと?」
    「そう。それで我々も思ったわけだ、あれは人物だとね」
     阿選の怒りを買った件の者はそのまま遠ざけられ、閑職に追いやられた。阿選らしからぬ激しいやり方だった。
     驍宗の麾下が阿選に一目置くようになった傍らで、阿選の麾下も、驍宗とその麾下に対して一線を引きつつも不便のないように取り計らってくれたという。阿選の態度を受けて麾下もそれに倣ったのだろう。
    「……なるほどな……」
     驍宗は応じて、息を吐いた。正直に言って嬉しかった。阿選ならば驕王ではなく驍宗に理があると判断してくれると思っていたし、現にそうだった。同時にあのとき迷わず職を辞することにしたのはなぜだったのか、分かってしまった。
     傾きかけた朝でも、阿選が目を光らせていれば決定的な過ちは犯さない。驕王は失道しようとしていたが、阿選がいれば王朝の沈下を遅らせることができる。専横を企む佞臣がいたとしても阿選が重しになり、それらの者たちの権限は限定的に留まるだろう。
     それが分かっていたから驍宗は平気で鴻基を離れることができたのだ。阿選と肩を並べているなどど思い上がりも甚だしい。
    ──私は阿選のようにはなれない。
     阿選のように人とうまくやり、処世をしていくことができない。人の心を掴むことも、人を思いやることも不得手だった。黄海が心地よかったのはそのためでもあるのだ。人の中で生きるのが難しいなら、いっそ人など碌にいないような場所のほうが気楽だった。
    ──結果として今はひとり、函養山の底にいるのだが。
     思い、驍宗は笑った。驍宗が特別、孤独に強いというわけではないだろう。多分、孤独を感じにくいのだ。人の中でうまくやるのが苦手だから、一人のほうが楽というだけだ。
     驍宗は自信家で、不遜であるとよく言われた。一歩一歩自力で前へと進んできたから、自分の手で何でも掴める気がした。唯一敵わないかもしれないと思ったのが、阿選のように人の中でうまくやることができない点だった。王にとってそれは決定的な欠失になるのだろうか。
     黄旗が上がってすぐ、驍宗は阿選を訪ねて昇山に誘った。官吏たちは阿選か驍宗かと、寄ると触ると喧しい。この時期に見苦しい内輪揉めなどしている場合ではないのは明白だ。しかし阿選は、将軍が二人して欠ければ国に迷惑がかかる、と断った。
    「何も二人して行かずとも、一人が行けば官吏たちは固唾を飲んでその結果を見守るしかない。派閥争いは収まるだろう」
     言われてみれば確かにその通りだった。一人が昇山してしまえばとりあえずの仮朝は治まるだろう。阿選のほうが遥かに人の心の動きを読んでいる。
     蓬山に昇ったのはそれなりに自分に恃むところがあったからだ。だから泰麒に「中日まで御無事で」と言われたときはさすがに堪えた。
     昇山者の中で、乍将軍ではない、と噂が広まった。驍宗ではない、それなら阿選か。
     阿選かもしれない、と驍宗も思った。王は神だが、王が治める国は人のものだ。王は人の中に在るものだ。だから人の中でうまくやれない驍宗は王にふさわしくないのかもしれない。
    「驍宗殿は王師の将軍なのですからまたお会いできますね」
     蓬山を下るため当時承州将軍であった李斎に挨拶に行く途中、戴の幼い黒麒に行き合った。泰麒は時折驍宗に怯えるふうを見せるが、計都に会いにくるうちに驍宗のことも好いてくれたらしい。
    「仙籍を返上し、戴を出る所存」
     即答した。大きな目を丸くした後、みるみるしょげていく泰麒は忍びないが、翻すつもりはなかった。
    ──私は恥をかくことに慣れていない。
    ──どこまで落ちぶれても、盗っ人にはなりたくないものだ。
     泰麒に言ったことも、麾下に語ったことも嘘ではない。だが真実を余さず伝えているかといえば否となる。
     英雄か、災禍か。驍宗は王ではないのだから前者ではないのだろう。だとすれば後者か。分からないでもない、と思った。驍宗には敵が多かった。それでなくても、朝を二分するほど王にと嘱望された将軍など新王にとっては厄介だろう。
     驍宗は人の中でうまくやれない。驍宗の存在は新しい王朝にとって災禍になる。そうなる前に戴を出てしまうのが良いと思った。何より驍宗の自尊心が戴に残ることを許さない。
     結果として、泰麒は驍宗を選んだ。今となってみれば、驍宗は自分以外の他の誰をも泰王として認めることはできなかったのだろう。
     実際に王となってみて、驍宗の何が変わったというわけではない。だが泰麒を見る目は確かに変わった。稚くいかにも頼りなげな風情は保護を必要としていたし、それは民の実情を映しているように思われた。荒れ果てた戴は王を──驍宗を必要としていた。
     僕は不完全な麒麟なんです。恥じ入るような幼い声が耳の底に蘇る。使令を持たず転変もできない、だから女仙は僕を心配するんです。
     麒麟は普通、最初から麒麟として生まれる。王はただ人として生まれ天命により王となるが、麒麟は違う。しかし泰麒は胎果だ。実ってすぐに流された。こちらに帰ってきたときは病んだ状態だったという。
     それでも泰麒は麒麟だ。追い詰められてのこととはいえ黄海で饕餮を下すところを目の当たりにし、驍宗は泰麒に畏れを抱いた。不完全だと己を責める幼い麒麟は、底に恐ろしい力を秘めている。
     王も同じなのだと思う。不完全な麒麟の選ぶ王が同じく不完全ということはあるのだろうか。驍宗は人を使うことが苦手で、人の心を掴むことができない。驍宗についてくる信望はいずれも驍宗の行動の結果に伴うものであって、驍宗自身についているものではない。驍宗は人の中でうまくやれない。それでも、驍宗が王だ。
     驍宗が正常に位にいないことで戴に何が起きているのかは幽囚の身である驍宗には知り得ない。だが古来から王が政を投げ出した国は漏れなく荒廃し、王は失道した。故意ではないにせよ驍宗は現在、政を執れていない。戴は驍宗の記憶にあるよりももっと荒れて民は困窮しているだろう。
     おそらく他にも驍宗が王であることによって、虜囚の身になっても王であり続けることによってもたらされる不幸があるのだろう。天命に選ばれた王にはそれだけの力がある。
     飄風の王だと言われた。朝を革めるに早すぎると言われた。苛烈すぎるとも。結果を急いている自覚はあった。阿選ならばこんなことはなかった、という声もあった。
    ──私は阿選ではない。
     驍宗は驍宗その人でしかなかった。だからこそ思う。
    ──何が、お前を奔らせた?
     記憶の中の阿選に問いかける。ずっと問い続けてきた。答えは出ない。だが問い続けなければならない。そういう気がしている。
     なぜなら驍宗は王だからだ。王はそれだけの力を持ち、責任を持つ。人を慮ることが不得手でも、分からないからといって投げ出すことは許されない。一歩ずつでもいい、決して歩みを止めてはならない。考え続けなければならない。
     謀反を思い立っても、実際に行動するまでには心理的な距離があるはずだ。あれほど道を弁えた男が大逆を理解しないとは思えない。しかし阿選は踏み込んだのだ。その理由に、王位の在りかではなく驍宗自身が深く関わっているような気がする。
     驍宗は天井に抜けた穴を仰いだ。白く淡い光が岸壁を照らす。
    「阿選。……お前は何に囚われたのだ」


     露台には風が吹いている。月の夜、六寝から北を臨む。眼下に広がる鱗のような雲海が白い光を溜めて漂う。
     鴻基の遥か北に瑶山はある。瑶山には一部凌雲山となっているところがあり、そこから函養山に連なる。驍宗は函養山の底に封じ込められている。驍宗の生死は、大逆を画策した阿選にさえも手が届かない場所にある。
     驍宗はいつしか墓標から蘇ってくる。それは確信に近かった。神籍にある驍宗の寿命は限りなく永遠に近い。驍宗が死ぬとすれば回復不能の怪我を負ったときだが、驍宗が落盤に巻き込まれて死んだとしても、その日から阿選が歪めた天の条理は正常に動き始め、阿選は破滅する。それは明日かもしれないし今日かもしれない。仙籍にある阿選の寿命もまたあってないようなものだ。だから驍宗が生きていても死んでいても、阿選が怯える日々は永遠に繰り返される。
    ──簒奪者。
     身の内から糾弾する声がする。その声はもはや無視できないほどの大きさとなり阿選を苛む。
     阿選の叛逆を知らぬ者などない朝で、阿選は仮王を名乗る。だが他の誰よりも阿選が、自分が玉座を穢していることを知っている。
    ──簒奪者。
     本当は自分が王にならなくても良かったのかもしれないと阿選は思う。
     もし阿選でなくても、驍宗以外であれば誰でも良かった。例え自分よりも客観的に劣った者だとしても、天命を受けた王であれば阿選は仕えることができただろう。ただ、絶対に驍宗であってはならなかったのだ。
    ──簒奪者。
     驍宗が王となり、光と影、裏と表は確定した。驍宗は真であり、阿選は偽だ。それはもう覆らない。天によって裏書きされてしまった。
     驍宗に仕えることに屈辱を感じたわけではない、と思う。驍宗によって自分の存在が掻き消される恐怖があった。驍宗の持つ光輝は天の、あるいは泰麒によって保証されたものだ。
     恐怖は阿選が驍宗を函養山の底に囚えても続いた。むしろ目の前にはいないからこそ驍宗の影が思考に貼り付き剥がれない。
     おそらく驍宗が登極した時点で戴を出てしまえば良かったのだと思う。だが阿選の自尊心が戴を出ることを許さなかった。
    ──簒奪者。
     今や戴には民の阿選への怨嗟の声が満ちる。戴をこの窮状に追いやったのは誰か、民は知っている。
     できることなら永久にあの男と肩を並べていたかった。さすが阿選、さすが驍宗、と共に称え合い、競っていたかった。光輝の王の穢い影になどなりたくはなかった。
     阿選は露台から雲海を見下ろす。やがて来たる日に何を思うか、阿選はまだ知らない。

    ユバ Link Message Mute
    2019/11/27 10:49:29

    白桂の夜

    人気作品アーカイブ入り (2019/12/06)

    驍宗から見た阿選という男の話です。殺されかけておいて「阿選を怒らせている」で済ますの!?って思ったので書きました。

    小野主上の他の作品に「運命を違える双子」(血縁的双子、占星術的双子)のモチーフが表れますが、もしかすると驍宗と阿選は精神的双子だったのかな

    #十二国記 #白銀の墟_玄の月 #驍宗 #阿選

    more...
    作者が共有を許可していません Love ステキと思ったらハートを送ろう!ログイン不要です。ログインするとハートをカスタマイズできます。
    200 reply
    転載
    NG
    クレジット非表示
    NG
    商用利用
    NG
    改変
    NG
    ライセンス改変
    NG
    保存閲覧
    NG
    URLの共有
    NG
    模写・トレース
    NG
  • CONNECT この作品とコネクトしている作品