とあるツアーの朝の話 ホテルに着き、荷解きをするボブの背中に向かって僕は話しかけた。
「ボビー、この間の曲だけどさ、」
「うん?」
ボブは首だけを巡らせて応える。
僕は二種類のメロディを鼻歌で歌ってみせた。
「今のだとこれだけど、こっちのほうが良くないかな」
ボブはしばらく静止して考える。くるん、とこっちを振り向いた彼はもう仕事中の顔をしていた。
「待って、紙を出す」
「うん」
僕はホテルのソファに座る。ボブは上着の内ポケットからノートとペンを取り出した。
「ここの部分だろう?」
ボブは僕の前に腰かけるなりテーブルの上にノートを滑らせた。
「そう」
「今のままだとストレートすぎる?」
「僕は、そう思う」
ボブは僕の目を覗き込んだ。爪の先で音符に合わせてテーブルを弾き、小さくメロディを口ずさむ。
「……どうかな……。君が歌うと変わるかな。もう一度歌ってほしい」
「わかった」
僕は言われた通りにする。
これは僕とボビーの間でしばしば起こること。僕達の会話のほとんどすべてが音楽に関することだ。たまにビジネスやプライベートのことを話すけれど、本当にごく稀なこと。彼の話し方は洗練されていて、引き際をよくわかっている。それでいい。僕は少なくとも、彼が最高に信頼のおける相手だということを知っている。
それで、僕達の会話のほぼすべてを占める音楽について。彼は曲を作る。彼はまず作った曲を、最初に僕に見せる。そしてどう思うか聞いてくる。僕は大概、いいんじゃないかと答える。こういったことは日常の中でよくあった。例えばツアーの移動中の飛行機の中とか車の中、ホテルだとか。だから僕達はだいたい二人で行動していた。そのほうが都合が良かったからだ。
僕が了承した曲を、次にトミーとニックに見せる。特にニックはハーモニーの天才だ、彼のアレンジに任せておけばまず間違いない。
こうして四人の手を経た曲がボブ・クルーという試験官の前に出されるというわけだ。
「……フランキー。君の言いたいことはわかる。だけど、ここでうねりが来るとこの音が際立たないと思うんだ」
「この音?」
「うん」
「じゃあ、こうしたら?」
僕は再びボブの前で歌う。彼は耳を傾ける。
二人してああでもない、こうでもないと熱中して、時間を忘れていた。気が付くと空が白んでいる。
「……ねえ、今何時?」
訊くと、ボブは時計を見て目を丸くする。
「朝だ」
「信じられない」
僕達は二人してソファーに寄りかかり天を仰いだ。
「ニックに合わせて昼過ぎ出発にしてなきゃとんでもないことになってたかも」
「違いないな」
破って丸めたノートの切れ端がテーブルの上に散乱している。
「……どうする?」
「ある程度は固まったし、……あとは二人に相談かな」
「賛成。僕らはもう頭動かないよ」
「本当に」
寝ていないというのは恐ろしい。僕達はけたけた笑いながらそれぞれベッドに入った。
幸いすぐに眠りが訪れ、僕はそれに身を任せた。目覚めたときのことなんて、考えてやしなかった。
フランキーとボブが、降りてこない。
俺とトミーはホテルのロビーでエレベーターを見つめていた。次こそ乗っていると思うのだが、やはり違う。
俺は顔をしかめる。おい、時間は合ってるのか。そうトミーに聞こうとすると、奴はロビーに座っている女に声をかけにいっていた。
俺が奴の腕を掴んで連れ戻すと、トミーは迷惑そうな顔をする。
「……っんだよ、いてえ」
「時間は合ってるんだろうな」
「あいつらのこと? 間違いないぜ、ロビーに昼の一時半。さっき電話も来たろ?」
ツアーのスタッフから、いつごろ空港に着きそうか確認の電話が入っていた。まだホテルだと告げると驚かれたが、なるべくはやく出るように、と言い渡されてしまった。
「じゃあ何で降りて来ない」
「知らねえよ、俺に聞くな」
トミーは俺の手を振り払う。こういったことは初めてだ。
「そんな苛つくんなら部屋に電話入れて貰やいいじゃねえか」
「……そうだな」
俺は脱力する。そうだった、こいつはこういうやつだった。あてにしてはいけない。
俺はトミーの言った通り、二人の部屋に電話をしてもらう。しかし、出ない。
「なんだぁ?」
「わからん。だが……」
こうなると、もう直接出向くしかなくなる。もし何か緊急の事態が起きていたらということも考えるとそれが最善だろう。
俺とトミーは、フランキーとボブの部屋に赴いた。予想はしていたことだが、ドアベルを鳴らしても出ない。何度かベルを鳴らすうちに、不安な気分になってくる。
「フランキー、ボブ!」
俺がドアの前で声を上げると、トミーが舌打ちをした。次の瞬間、どん、と派手な音を立ててトミーはドアを殴る。
「おい、さっさと開けやがれ!」
「トミー……!」
「あ?」
俺はドアが壊れそうで気が気ではない。
そのときだった。ドアの向こうでバタバタと慌ただしい気配がする。ばん、とさっきトミーが殴ったとき以上の音を立ててドアを開けたのは、なんとボブだった。
そのボブが、なんというか今となっては中々見られない、というのも昔は俺とボブが同室の部屋割りが多かったからなんだが、つまりどう好意的に解釈しても起き抜けの状態だった。髪には寝ぐせがついているし、服だってまだ寝間着のままだ。
「え……今……」
まだ頭が動かないらしい、ボブが茫然としている。
「もう出発の時間だぜ、坊や」
トミーも一目見て状況を理解したのか、ボブを押しのけてずかずかと部屋に入っていく。
「おい、フランキー、起きろ!」
「……! トミー!?」
哀れにも布団を引っぺがされたフランキーが、寝間着で転がり出てくる。そして俺の姿を認めて目を丸くした。ああ、そうだ。俺はきっかり正午に起きる。俺が起きて、支度を整えた上でここにいるということはつまり、そういうことだ。
「……、ごめん!」
フランキーは悲鳴のように叫んだ。
「謝罪はいい、さっさと着替えろ!」
トミーが言う。なんでこいつはフランキーの前でだけ真人間ぶるのだろう。
「おい、ボビー、起きてるか」
まだ茫然としているボブに言うと、彼はどんよりした目で俺を見る。
「起きてるけど、驚いているし、自分に失望している……」
ああ、おまえはそうだろうな……。
「あーあ、優秀なボビーがついていながらこんなこととはな」
トミーは厭味ったらしく言うと、ソファにどっかりと腰かける。珍しくボビーより優位に立てるものだから嬉しいのだろう。
「……今回はたまたまだし、練習にも碌に来ないやつに言われたくない」
「なんだと」
ボビー、おまえやっぱりちょっと寝ぼけてるぞ。いつもならもっとうまくかわしてるぞ。
一触即発の空気になった二人のところに、フランキーが駆け込んでくる。
「ボビー、次バスルーム使って!」
「わかった」
ボブがさっとその場から離れると、フランキーは少し安堵した顔。
そのままなんとかトランクに荷物をしまい、俺たちは慌ててホテルを後にした。
空港についたのは出発の7分前、ぎりぎりすぎる到着だった。そのフライトの最中、俺とトミーは新しい曲についての相談を受けるのだが、それはまた別の話。