僕は君のご飯でいたい 神に愛された人間は早く逝くという。なるほど、彼は間違いなくその類の人間だったのだろう。
蜜色の髪が白い額を覆う。ふっくらと滑らかな輪郭を描く薔薇の頬、細く伸びた鼻筋、薄い唇は紅を差していなくても赤く、その意志の強さを示すようにきゅっと結ばれている。何より印象的だったのはその目だった。
空色の瞳は透き通るようで、何も映していないかのような、あるいは全てを知っているような目をしていた。
普段は湖畔のごとく静まり返ったその瞳の奥に炎が燃え盛るとき、誰も逆らうことができなかった。
彼の名前はアンジョルラス。僕の、革命の天使だった。
「それで、僕はできるって言ったんだ。あんな木の箱なんて跳べるに決まってる」
僕の肩よりも下のほうから憤ったような声が聞こえる。
「だから走って、跳んだ。本当ならもっと軽々跳べているはずなんだ。ちゃんと、力さえ戻っていれば」
彼は蜜色の髪を揺らして僕を振り仰いだ。
「おい、グランテール、聞いてるのか」
「はーい、聞いてるよ」
「嘘つくな」
彼は瞳の奥に炎を燃やし、僕をじとっと見つめる。
「だいたい、君が昨日飲んでさえいなければこんなことにはならなかったんだぞ」
「……それについては反省してる」
「本当か?」
彼は顔を顰めて、およそ姿に似つかわしくない深い溜息をついた。
彼の現在の外見年齢は十歳、実年齢は本人も分からないらしい。法的手続き上は僕の弟──こんなに似ていない兄弟も珍しい、と面と向かって言われさえする。僕は笑顔を貼り付けて両親の再婚で、と答えることにしているが、内心はハラハラしている。
隣にいる彼が何か言い出さないかと──例えば、いわく、「当たり前だ。僕とグランテールは種族が違う」だとか。いわく、「僕が人間なんかに似てる訳がない」だとか。
以前、彼がこのように言って、相手を面食らわせたことがある。子供の言うことだから、と相手が取り合わないから救われたが、僕は大いに冷や汗をかいた。また彼にとっては子供扱いが一層腹立たしいらしい。クラスメイトと比べて背も小さいほうだから尚更だろう。
今日だって同級生にからかわれて出来ると啖呵を切ったは良いが、結局は〈貧血〉で倒れてしまったらしい。無理もない。昨日は僕のせいで彼は〈ご飯〉を飲むことができなかったのだから。
「反省してるよ。今日は飲んでない」
「感心だ」
「家についたらご飯にしよう」
「ん」
彼は頷いて、ぴょこんと鞄を持つ手を跳ねさせる。そういう振る舞いをすると、彼は本当に愛らしい人間の子供のようだ。
彼は前世から変わらず美しかった。神の造り給うた完全なる美、愛の天使クピドを彫り上げた大理石のようだった。
僕は彼を連れて自宅の門をくぐり、閂を掛ける。そうしないと散歩中の犬が自宅玄関前まで入り込んで、吠え掛かるのだ。おそらく彼の存在を察知するからだろう。
狼は支配下におけるが、飼い犬はまるで駄目らしい。野良犬や野犬ならいける、とのことだが、残念ながら現代の都会の住宅事情では狼にも野犬にも縁がない。
ポケットから家の鍵を取り出して、錠を開ける。彼はじいっと僕の手元を見つめていた。
彼は、いや彼の種族は、招待されない限りはその家に入ることができない。彼はここに住んでいるのだから別に勝手に出入りして構わないのだが、僕がいるときは僕に鍵を開けさせる。あくまで居候というつもりなのかもしれない。
仮住まいじゃなくて、ずっとここで暮らしてほしいんだけどな。
僕はそんなことを思いながら玄関に入り、彼のためにドアを開け、そして、閉めた。
瞬間、彼の細い腕が僕の首に巻きついた。彼の腰を抱きとめると、僕は次を待った。
ぷつり、と首筋の皮膚が破られる。痛みは一瞬、あとは不思議な安寧があるばかりだ。彼の身体は見かけ通り華奢だ。簡単に腕を回せてしまう。それなのに僕の首にしがみつく力は強大で僅かな動きさえ封じ込められてしまう。
蜜色の髪が鼻先で揺れている。君の石鹸も君の服を洗う洗剤も僕と同じものなのに、どうして君からはこんなに良い匂いがするのだろう。絹糸のような髪が傾きかけた日の光にさざめく。
僕は君の腰に回した自分の腕の力が弱くなっていくのを感じていた。少し眠い。ああ、貧血を起こしている。
現世の君は自分でも覚えていないくらい長生きをしていて、だから太陽が出ていても活動できる力があるのだという。あれほど鮮烈に短い生涯を生ききった君に、今度は永遠の命が与えられたのだから神も粋なことをする。
僕の肩口で蜜色が揺れた。
「……はあっ」
彼が顔をあげる。まだ僕の首にしがみついたままだ。
「……もう大丈夫?」
そう聞いてやろうとして、思いのほか自分の声が弱弱しいのに気がついた。これはなかなか、結構な貧血だ。
「……グランテール、また嘘をついたな」
彼は足をぶらぶらさせて、降りたい、と意志表示をする。僕が少し屈むと、彼の爪先が床についた。
「酒の味がする。また飲んだだろう」
「……ばれちゃった?」
「当たり前だ。僕は酒が嫌いなんだ」
不機嫌そうにとがらせた口元に、ぎらりと牙がのぞく。
「今日はまだ一杯しか飲んでないからセーフかなって……」
「セーフじゃない!」
彼はじだんだを踏んだ。白く光る牙と裏腹に彼の顔は耳まで真っ赤だ。
彼は酒が嫌いなのではない。弱いのだ。
「ごめん」
顔を赤くして怒る彼があんまり可愛くて、僕はつい笑ってしまう。彼は両腕を組み、顎を上げて思い切り僕を睨み付けた。
「グランテール、君は本当にどうしようもない男だな!」
前世でも今生でも、僕が君に出会ったのはきっと、神の采配なのだと思う。いずれのときも僕は何も持たない凡人として、君に全てを捧げるために生まれたのだ。
ねえアンジョルラス。僕がずっと君の傍にいるから、だから君も僕の傍にいてくれないかな? このまま一生、僕は君のご飯でいたい。
そうやってプロポーズする勇気は、僕にはまだない。