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    月無夜 目覚めたときに見たものは、よく知っている天井だった。
     阿選は臥牀から身を起こす。これは夢だろうか。では、どちらが?
     六寝に兵士が踏み込んできたとき、阿選は抵抗しなかった。刑場から驍宗が逃げ出したときに予感がして、少しずつその予感は正しいのだと立証されていった。
     江州の漕溝城に禁軍の旗が立ち、王師からの脱走者は相次ぎ、見る間に阿選軍は減っていく。江州を軍で囲んでも、そもそも兵卒の士気が低い。州師の寄せ集めに過ぎず、忠誠心は薄く、敵とするのは禁軍だ。本来であれば主上と仰ぐべき存在を向こうに回して士気の上がるはずもない。街道を閉ざしても閉ざしても、そこを守る兵卒に戦う気がなければ意味がない。
     阿選は鴻基の城門を閉じ籠城したが、以前に泰麒の進言により気まぐれに義倉を開けていたため鴻基の民全てを養うには圧倒的に貯えが足りなかった。民は飢える──飢えた民に施してやったのもやはり驍宗だった。民を哀れんだ兵卒は城門を開き、禁軍を迎え入れる。慈悲深い泰王は歓呼でもって民に迎えられた。泰王の前に賊軍の兵は自ら武器を置き、王に従う。
     その王は阿選ではありえなかった。
     白圭宮に禁軍が入り、阿選は自分は死ぬのだと思った。いつしか琅燦の姿も王宮から消えていた。
     静かな諦念と絶望だけがあった。阿選は盗人で終わる。とうの昔に分かっていた。計略を動かしたそのときから阿選の破滅は始まっていた。
    ──天への復讐など適うわけがない。
     分かっていても踏み込まずにおれなかった。驍宗を選んだ天意が憎かった。天意の具現化ともいえる幼い泰麒に剣を振り上げたときに阿選にあったのは驍宗に対するよりも純粋な憎悪だった。民の手によって驍宗を屠ろうと考えついたとき、阿選は嗤った。最も確実に泰麒を──天を出し抜き、復讐を遂げられると思ったからだ。
     だから阿選は討たれる。正当な王を妬み位を盗んだ偽王、大逆を犯した簒奪者、あげく無辜の民を虐殺した。阿選は稀代の大罪人として名を残すのだろう。驍宗の治世が続く限り、あるいはもっと長きに渡り憎まれ、侮蔑されていくのだろう。
     それが天を出し抜こうとした者にふさわしい報いなのだと思う。
     禁軍の兵士に捕らえられて李斎の前に引きずり出された。その場で首を刎ねられるものだと思っていたが、どうやら裁きがあるらしい。阿選は自嘲した。
    ──死罪以外などあるだろうか。
     あるいは刑死でも構わない。阿選が正頼にしたことを思えばそれも当然だった。
     両手を戒められ、冷たく頑強な圜土に入れられたところまでは確かだった、はずだ。
     それがなぜ、また六寝にいる?
     しばらく茫然としていると、不意に気配がして阿選は振り返った。奚が目を見張る。知った顔だった。阿選は次蟾を使っていることを隠して置くため、傀儡と化した者達を六寝に集めた。それらが潰れて木偶になると当然人が足りなくなる。だから時折、治朝の下働きから六寝に人を出させた。彼女はそのうちの一人だった。
    「お目覚めですね」
     奚は微笑む。
    「どこか気になるところはありませんか? その、もしかすると後遺症があるかもしれないと」
    「後遺症?」
     阿選は眉を顰める。奚が怯えたように身を竦めた。彼女が何を言っているのか分からない。
    「琅燦が言ったんだ。瘴気の影響は残るかもしれんとな」
     戸口に印象的な白髪が見えた。驍宗は阿選を眺めて笑う。
    「久しいな、阿選」
     驍宗はそのまま奚を下がらせて、戸口に寄りかかる。
    「お前が眠っていたのが丸七日間だな。その間に王宮の妖魔退治をして瘴気を払い、ようやく住めるようになったのがこの二日だ。人はまだ少ないが戴は貧しい。こんなものだろう」
     阿選は驍宗を見つめた。状況を鑑みるに阿選をここに運ばせたのは驍宗だろう。だがその意図が掴めない。
    「阿選。私はお前を殺すつもりはない」
     驍宗はその紅の目で笑う。
    「だが放免するわけにもいかない。お前を仙籍から外し、鴻基を追放する。これは決定であってもう覆らない」
    「なぜ私を殺さない?」
     これは最初に出てきた疑問だった。自分がなぜ生きているのか分からない。生かす理由がない。
    「元禁軍右軍将軍阿選は討たれたことになっている。その中で敢えてお前を殺す理由を私は見出せない」
    「討たれた……?」
    「白圭宮に禁軍が入り、偽王は捕らえられ処刑された。そういうことになっているんだ。だからお前には新しい名前が与えられる」
    「お前がそうしたのだろう。なぜだ」
     阿選は硬い声で問う。驍宗は苦笑した。
    「私が、そうしたかったからだな」
    「答えになっていない」
     問い詰められた驍宗は苦笑を深くする。
    「そうとしか答えようがないんだ。知っての通り、私はあまり言葉がうまくない。偽王は討たれるべきだ。だがそれがお前である必要はないと思う。お前は王になりたかったわけではないのだろう?」
     息が止まるかと思った。驍宗は阿選のその反応を見て、戸口から一歩踏み出す。
    「お前は王に成り代わりたいわけではなかった。とすればこれはお前と私の私闘であって、王としての私がお前に死を下すいわれはない」
    「私はお前を殺そうとした。お前から位を盗んで王を騙り、その名の下に非道を成したがそれでもか」
    「後半はお前に責がある。だから仙籍から削る。前半は、お前は最初は私を殺すつもりではなかったと琅燦から聞いたが」
    「……そうだな」
     琅燦は元より驍宗の臣下であって、阿選に対する侮蔑を隠さなかった。驍宗もおおよそのことは聞いているだろう。
     驍宗はもう一歩を踏み出した。
    「本当に私を殺すつもりであれば、お前は烏衡のような者は使わない。刑場に出されたときはもう駄目かと思ったが、民に糾弾されて死ぬならそれで構わないと思っていた。戴に新しい王が立つだけだ。……お前は、お前自身が道から外れていることをよく知っていたはずだ」
     阿選は答えられなかった。
    「これは私闘だ。お前が私を殺すつもりはなかったように、私もお前を殺さない。それでもお前が私を許せないというのなら」
     受けて立つ、と驍宗は言った。


     鴻基を渡る風に冷気が含まれてきていた。戴には再び冬が巡ってこようとしている。世界の極北に位置する戴の冬は長く厳しい。建物は一様に雪に覆われて大地は芯から凍りつき、民は草の根さえも掘り返せない。しかし白圭宮の役人たちの顔は明るかった。
     王宮に正式な主が戻って冬を迎えるのは七年ぶりになる。漕溝城に王旗、麒麟旗が立ったとき、白圭宮は真実、偽王の城になった。それを忸怩たる思いで眺めた官吏も多かったのだろう。
     驍宗は秋のうちに白圭宮に戻りたがった。冬の間の民の生死を分けるのは秋にどれだけ準備ができるかによる。秋の間に食物と火種、炭か鴻慈をどれだけ確保できるか。できなければ民には即ち餓死か凍死が待っている。冬になってからでは遅い。氷に閉ざされる前に、先王の搾取と偽王の支配で疲弊した民に施しを与えなければならない。驍宗が号令をかければ州城はそれぞれ義倉を開くだろう。しかし戴の各州公には病んだ者たちが含まれている。彼らを含め地方官に問答無用に倉を開けさせるためには、天意に選ばれた王だけが用いることができる御璽をもって命ずるのが手っ取り早い。その御璽を驍宗は白圭宮に置いてきていたのだ。
     驍宗は先陣をきって白圭宮の妖魔を狩ると、琅燦を始めとする黄朱の者達に王宮を清めさせた。病んでいない役人が王宮にどれだけ残っているか分からなかったから、漕溝城と瑞州から主だった官吏も引き連れてきていた。見る間に朝は整った。かつては性急すぎると言われた驍宗だったが、今は明らかにその性急さが必要とされていた。
     品堅はその変化を複雑な気持ちで眺めていた。民のためには喜ぶべきことなのだと分かっている。だが、どこか遠い。
     数カ月前まで王宮は重苦しい空気に満ちていた。張運らを始めとして自らの権勢を拡大することにしか興味を持たない愚物や烏衡のような下劣で手段を選ばない士卒が我が物顔で王宮を闊歩した。
     品堅は大声で主張こそしないが彼らを嫌っていた。阿選の麾下にあった者で彼らを嫌わなかった者はいないと思う。元々が品行の良い軍隊だった。規律正しく、命令を遵守し、捕虜の扱いにも慈悲をもって当たる。阿選がそのような軍隊を作ったのだ。
     だが張運や烏衡の専横を許したのもまた阿選だ。そもそもが阿選が叛いたとき、品堅は耳を疑った。麾下は誰ひとりとしてその計略を阿選から知らされていなかった。
     何より品堅は驍宗と共に文州に向かったのだ。驍宗の姿が見えなくなり、混乱し、動揺して彼を探した。土匪に弑されたとなったときも、せめてご遺骸だけでも連れ帰ろうと山を総ざらいした。品堅にとっての主公は阿選だったが、驍宗は王であり、王を失うことは戴の民にとって悲劇でしかない。
     亡骸さえも見つけられず失意のまま鴻基に戻り、阿選が謀反を起こしたことを知った。
     品堅は苦しんだ。他の麾下と同様に、あるいはそれ以上に苦しかった。何も知らされないまま謀反に加担させられた。品堅は阿選の信頼を得るには満たないということなのだろうと思った。品堅は驕王の治世下においては別の将軍の麾下だった。阿選の生え抜きの麾下ではない。その上、自分が他の麾下に比べて劣るということを分かっている。地味だが堅実、でも何かが足りない。一般的な評価を理解している。だから仕方がない、しかし、と思う気持ちは止められなかった。
     大逆は大罪であり、民に対する裏切りだ。主公がそれを理解していないはずがなく、踏み込んだ限りはそうせずにはいられない理由があるのだと思った。以前に帰泉が口にした、あのとき既に驍宗が失道していたとしたら、という言葉に縋りたくなったのはそのためだ。馬鹿馬鹿しい、と今ならば思う。
     驍宗は在位半年にして阿選に追い落とされた。何もすることもなく姿を消したのだ。失道しようもない。
     そんな馬鹿馬鹿しい考えさえも尤もらしく聞こえるほど、品堅は阿選を信じていたかったのだ。信じていたかったのは即ち、疑念があったからだ。
     なぜ知らせてくれなかった。なぜ烏衡のような輩を重用し、麾下を遠ざける。阿選の麾下は多かれ少かれ、それらを疑問を押し殺して六年を過ごしてきた。その上、阿選から下される命令は非道に過ぎた。反民が逃げ込んだといえばその里ごと焼き払う。女子供でも容赦しない。ずっと良心の呵責と阿選への疑問に苦しみながら従っていた品堅の心を、決定的に阿選から離したのは帰泉の死だった。
     品堅の麾下であったはずの帰泉は阿選に呼ばれてから様子がおかしくなった。不安に思いながら馬州に派遣されるのを見送って、そのまま死んだと聞かされた。
    ──阿選は帰泉の魂魄を奪った。
     阿選の元に呼ばれた者がおかしくなることには気付いていた。妙にうつろになり、やがて碌な反応も返さなくなる。何かの術や薬を使っているのだろうとは思っていた。それを、阿選はあろうことか帰泉に使ったのだ。魂のない傀儡にして戦場に送り、骸のひとつも帰らなかった。
     品堅の麾下であるということは阿選の麾下でもあるということだ。帰泉は阿選を慕っていた。阿選を尊崇していたし、簒奪がいよいよ明らかになってもその思いには微塵も陰りがなかった。帰泉は阿選に呼ばれたとき何の疑問も持っていなかったろう。ようやく阿選のために働けると喜んでさえいたかもしれない。
     阿選は麾下の信望すら分かっていなかったのだ。品堅が信頼されていないのではない、阿選は麾下の思いのどれひとつとしてまともに受け取っていなかった。
     品堅は阿選とまではいかなくとも、部下のために自らの行いを律し、彼らを守り励ましてきたつもりだった。大した取り柄のない品堅の、唯一誇れるところがあるとすれば忠実で心根の良い部下たちの存在だった。
     それでも品堅は最後まで踏ん切りがつかなかった。取り立ててもらった恩もあり、まだ多くの友も義理も阿選軍に残っている。行方を断ち李斎らと合流していた友尚ほどには阿選に見切りをつけることができなかった。しかし鴻基になだれ込んでくる英章軍を見たときに腹が決まった。
     泰麒が転変して驍宗に跪くのを見たとき、やはりと思った。あの残虐な刑場に罠と知っていても駆けつけた驍宗の麾下は愚かなのだと思う。しかし心情の上ではそちらに傾いていた。おそらく品堅の麾下も同じだったのだろう。
    「窮寇を守り鴻基を脱出させる」
     王師でありながら品堅が宣言したとき、士卒の中に一斉に安堵が広がった。多くの者が阿選に与えられる命令に、そして帰泉らの死に納得していなかったのだと思う。
     そうしてまた品堅は瑞州師に戻ってきた。今度は正式な王である驍宗の意向だった。
     阿選は首を刎ねられるだろうと品堅は思っていた。それがあの男のなしたことの報いだ。しかしそうはならなかった。
     品堅は燕朝を仰いだ。雲海に阻まれて建物の影も見えないが、阿選はいまだあの場所にいる。
     阿選が生きていることを知っているのは驍宗の麾下の将軍と師帥、品堅、友尚らの元阿選の麾下の一部だけだ。
     阿選を殺さない、と聞いたとき品堅は耳を疑った。なぜだという思いが強かった。阿選は逆賊だ。玉座を盗み、非道に民を誅殺して里を焼いた。実行したのは品堅ら士卒だが、命令したのは阿選だ。卑怯な物言いだと思うが、兵は命じられたらその命令の是非を問えない。
     命令とはいえ、反民がいると言われて向かった先でその情報の正誤を確かめもせずに隣人を殺し里を焼くとき、品堅は自分の喉が焼かれているようだった。焼けていくのは自分の妻の、子供の命だという気がした。人間の肉の焼ける匂いが鼻の奥にしみついて離れない。これは非道だ、と思った。非道ですらない、外道の行いだ。
     なぜこんなことをさせる、と阿選に問いたかった。だが阿選は麾下を遠ざけて六寝から出てこない。品堅の主公は元からこうだったのか。見誤っていたのか、阿選が変節したのか。炙られ続けた品堅の良心は阿選を見限ったときにやっと安らいだ。ようやく終わるのだ、と思ったのに。
    ──阿選がなしたかったのは私闘だ。
     ゆえに王命をもって死を下すことはしない、と驍宗は漕溝城で言った。
    「何故だ、と俺は主上に訊いたんだ」
     友尚は言った。
    「……訊いた、とは」
    「そのままの意味だ。霜元らを見てて、真似したくなったんだ」
     目を瞬く品堅の前で友尚は笑う。
     元より霜元を含め驍宗の麾下は驍宗に遠慮がない。先王の時代は驍宗の麾下と一定の距離を置くようにしていたから気付かなかったが、漕溝城に入ってからは行動を共にすることが増えて分かった。何しろ州公城なので、王の在所としては手狭だ。だから自然と驍宗自身やその麾下と同じ空間にいた。
     驍宗はある程度身体が癒えると、自ら前線にいることを選んだ。普通、王は王宮にいて戦場とは縁遠い。王は命じるだけ、実際に戦場に向かい命のやり取りをするのは士卒の仕事だ。しかし驍宗はそうしなかった。驍宗の麾下は気が気でなかったようだが、剣の腕の話をされると主張を引っ込めざるを得ない。今も驍宗は戴随一の剣の遣い手だからだ。
     驍宗の兵卒からの人気は絶大だった。それだけ阿選の命に反感を抱いていた者が多い証左でもあるが、王が自分たちと寝食を共にして前線にいるというのは独特の高揚感と忠誠心を齎すらしい。白圭宮に戻ってからも王に向ける兵からの視線は変わらない。現在の王師、禁軍は品堅の記憶にある限り最も強く、最も王を慕っている。
     それは品堅とて同じだった。驍宗が登極する前から同じ軍人だという共感はあったし、漕溝城に入ってからは近くで声を掛けられることも稀ではなかった。
     阿選を見限り、驍宗についた。それに対する罪悪感が希薄なのも驍宗に対して親しみを持っているからなのだと品堅は自分で思っていた。
     驍宗は怜悧で道を弁えてはいるが自信家で傲慢、やや独善的で強引に過ぎる。驍宗が王位に着く前の一般的な評価はこのようなものだったろう。王になってからもそれほど変わらなかった、と思う。実際その通りなのだが、麾下は必ずしも驍宗の強引さに黙って従っているだけではなかった。特に驍宗生え抜きの麾下ほどそうだ。王に対して辛辣とも思える言葉を投げかけるので、品堅ははらはらした。
     驍宗は麾下の意見を受け止めてから、さらりと流す。どうであろうと結局自分の思う通りにしてしまうのだが、麾下の言葉を捨て置かない。時にはその意見を一部取り入れることもある。麾下もそれを分かっているから、とにかく言いたいだけ言う、というような気風があった。
    「白圭宮に戻ったら気軽に喋るようなお方じゃないなと改めて思ったが。漕溝城にいる間はなんだか可能な気がしたんだな、主上もそれを望んでおられるような感じがしたし」
     よほど信じられないという顔を品堅がしていたのだろう、友尚は付け足した。
     漕溝城にいる間、驍宗は確かに誰かと話している時間が多かった。政務や軍事の話が多かったように思うが、不意に品堅やその麾下の家族の話などを訊かれることもあった。
     驍宗は函養山の奥深くに六年も幽閉され、誰とも話さなかったという。あそこにいたのかと歯噛みした。当時、品堅の捜索した目と鼻の先にいたのだ。
     かつて他を圧するほどの覇気を纏い、苛烈な威容さえあった驍宗は六年の間に雰囲気が変わった。柔らかくなった、とでもいうのだろうか。
    「なぜ阿選を殺さない、俺たちのような阿選の元の麾下に遠慮するようならそれは筋違いだと言うと、主上は笑っておられた」
     友尚は苦笑する。
    「そして『阿選が死ぬべきだというのは義憤か、私怨か』と問われた。俺は何も返せなかったよ」
     品堅は目を見開く。
     阿選の非道は許されるべきではない。大逆は大罪だ。民に対する裏切りだ。その上、更に阿選は罪を重ねた。反民があるときけば草の根すら残らないほど丸ごと滅ぼした。凄惨な誅殺を繰り返し、里を焼き、戴には浮民や荒民が溢れた。誅伐を加えられた里は丸ごと焼かれたため里木も枯れた。二度と卵果を実らせることはなく、子供の声が聞こえることがない。それはすなわちその里の未来がないということだ。戴全土にこうして廃墟となった里がある。雪が解けると道々に現れる骸は本来であれば暖かい家の中で冬を越せるはずだった。それを誰にも看取られず、悼まれることもなく、路傍に亡骸を晒す。それら全部、阿選の罪だ。
     これは義憤だ、と思う。正当な怒りだ。品堅は軍人として禄を食む。仙であるから病にかかることもなく、余程の怪我でもなければ死ぬこともない。民よりも良い暮らしをして飢えることも凍えることもない。だからこそ民を思い、民を守る義務がある。
     阿選は義務を擲った。のみならず苛烈なまでに民を殺した。そしてあろうことか驍宗を、戴の正当な王を刑場に引きずり出し、民の投げる礫によって驍宗を弑そうとした。戴の民に泰王を殺させる。驍宗は神籍にあり、なまじのことでは死なない。息絶えるまでに相当な時間がかかることも、その間ずっと民の憎悪と暴力を受け続けることも予想できた。このほどの残酷があるだろうか。
     八つ裂きにしても足りないほど阿選を憎んでいる者が戴の国土には五万といるだろう。この白圭宮にも。だからこそ、阿選が生きていることは一部の者以外には伏せられている。
    「俺は阿選を許せない。この手で討ってやりたいとさえ思っている。だがそこに私怨が含まれていないかと言われたら、正直いって自信がない」
     友尚は言って、佩いた剣の柄をそっと握る。
    「品堅も思ったことがあるはずだ。なぜこんな非道な命令を下すのだ、と。阿選軍は品行の良い軍だった。俺たちはそれを誇っていた。主である阿選の徳は高く有能で、無敗の将だった。ある時点まで、阿選は俺たちの自慢の主だった」
     品堅は頷く。そう確かに、驍宗ではなく阿選を主とすることに、品堅ら麾下は自慢に思っていた。
    「俺たちは非道な命令になど従いたくなかった。誰しも自分を正しい側だと思いたい。道に背きたくない。でも俺たちは従わざるを得ない。それが士卒だからだ。そして結果として阿選に加担し、多くの非道をなした」
     品堅は小さく呻いて視線を落とした。その通りだ。本当は従いたくなかった。途中から明らかに阿選は常軌を逸し始めた。麾下は命令を非道だと知りながら従った。
    「俺は阿選を恨んでいる。俺にあんなことをさせた阿選を、あんな命令を下した阿選を憎んでいる。阿選は麾下を信用せず、妖魔を使って魂を奪いただの人形にした。阿選は俺の誇りを踏み躙り、朋友も何もかも根こそぎ奪っていったんだ」
     恵棟は文州公を任ぜられ、文州に派遣される途中で魂魄を抜かれた。文州に着いたときにはもはや病んでいたという。恵棟は元は阿選の幕僚だった。友尚と軍に入った時期も近く、揃って阿選の麾下に入ったらしい。友尚が磊落なら恵棟は明敏、印象こそ違えど仲が良かったと記憶している。
     病んだ者はもう元の人格には戻らない。軽度であれば治せるらしいが、恵棟は手遅れだった。たぶん、帰泉も同じだったのだろう。戦場で死ななくとも傀儡になった時点で彼の人格は死んでいる。
    「阿選の麾下にいた者の恨みを、主上は見透かされている」
     品堅は呟いた。友尚は首肯する。
    「そういうことだ。確かに阿選の首が刎ねられたならば俺はすっきりするだろう。快哉さえ叫ぶかもしれん。逆賊は討たれ、俺たちは逆賊に騙された被害者でいられる」
    「それではいけない、ということか……」
    「ああ。俺たちは、俺たちの罪を直視しなければならない。俺たちは阿選を止められなかった。たとえ大逆を知らされていなかったとしてもだ、六年もあった。その六年の間に、多くの民が死んだ。阿選と俺たちが殺したんだ」
     品堅は拳を握りしめた。口の中が苦い。自らの罪を直視することは痛みを伴う。
    「……それで主上は阿選を殺さないのだろうか。我々に罪を自覚させるために?」
     言うと、友尚は首を捻った。
    「分からん」
    「分からん?」
    「そうかとも思ったが、なんとなく違うような気もする。そもそも、阿選を生かすでは自分の麾下も納得しないことをご存じだろう」
     ああ、と品堅は頷いた。
    「正頼殿か」
    「そうだ。普通、仲間があんな目に遭えば相手を憎むだろう。凄惨極まりない様子だったからな」
     国帑を隠匿した、といって阿選は正頼の口を割らせるために拷問にかけた。この六年の間に、拷問は自白を強要するためのものから、ただ痛めつけることを目的とするものにすり替わった。
     正頼の、目を覆うような酷い惨状を見たとき品堅はどこかでそれを知っていたような気がした。王宮の中、あの暗く陰鬱な空気の中に微かに含まれる酸鼻の気配で──事情を知る軍人であれば察していただろう。人は血に酔う。残虐に酔う。自ら律して止める者がなければ拷問は必ず苛辣なものになっていく。品堅は分かっていて、目を逸らし続けていたのだ。
     正頼の状態を見ても、驍宗の麾下は誰も品堅らを咎めない。反民と追われながら、匿われた里を焼かれながら生き延びてきた者たちだ。品堅や友尚の麾下としての行動にある種の共感もあるのだろう。だが品堅らは阿選に加担して罪を重ねたことを自覚しなければならない。
    「……もしかすると、私情なのかもしれない」
     友尚はぽつりと呟いた。
    「俺たちが阿選を恨むのが私怨であるように、主上もまた、私情で阿選を生かしたいのかもしれない」
    「主上は阿選を許しておられるのか?」
     品堅が驚いて訊くと、いや、友尚は笑って手を振った。
    「忘れてくれ。なんとなくそうかもしれんと思ったが、たぶんただの勘違いだ」
     おそらく俺たち程度には分からない主上のお考えがあるのだろう、と友尚は言った。その明瞭でさっぱりした口調が妙に驍宗の麾下に似ていて、品堅は苦笑した。
     友尚は霜元と旧知の間柄だ。霜元との気安さも加わって、驍宗の麾下に馴染むのも早かった。
    ──私とは違う。
     杉登は元は巌趙の麾下だった。驍宗が復位した今も品堅の元に残って品堅を立ててよく勤めてくれている。ありがたいと思う。杉登の働きもあって驍宗の麾下との距離も少しずつ縮まってきている。
     品堅は皋門を抜けて白圭宮を出た。鴻基の街で炭を購い、わずかばかりだが金銭も併せて包み、街を歩いた。街路を歩き、鴻基の外れまで来ると小さな民居がある。
     今は帰泉の老母がひとり暮らしている家だった。
     窓辺に風が吹いている。潮の匂いを含む風に微かな冷たさが混ざる。雲海の上は鴻基の街よりは暖かいが、風が季節を運んでくる。
     阿選は臥牀からまんじりともせずに窓を見つめる。
    ──また冬が来る。
     鴻基の北に文州はある。驍宗を文州は函養山に幽閉し、小寝から北を眺めるのが癖になってしまった。六寝の北に後宮はある。その一部である小寝からは広がる園林の向こうに雲海が臨めた。冬が来るたび阿選は指折り数えた。いつ戻るか、あるいはある日突然白雉が落ちるか。
    「随分顔色が良くなったようじゃないか」
     不意に声をかけられる。視線を巡らすと琅燦がいた。最近は見ていなかったが、相変わらずどこから六寝に入ってきているのか分からない。
    「最初に妖魔を貸し出すときに言ったはずだよ。呪符をもってしても瘴気は防げない。妖魔を用いるのは一時的にしないと、妖魔が妖魔を呼び瘴気が溜まる。瘴気は人を狂わせると」
     琅燦が阿選を嘲笑った。
    「制御もできないくせに妖魔を使うからこうなる。愚かだな」
     阿選に妖魔を使う方法を囁いたのは琅燦だ。その後も阿選を嗤いながら自由に妖魔を使わせた。
     ある時期まで確かに、阿選には乗っ取られていく自覚があった。次蟾を防ぐための呪符を持っていたし思考そのものは明瞭だった。だから大丈夫だと思いこんでいた。思考に暗い色が過るとき、一時的な気の迷いだ、魔が刺したのだと自分に言い聞かせるうちに精神は変質していった。より暴力的で、より悪辣なほうへと。
     妖魔が集まれば瘴気を出す。妖魔に支配された人間も同じく瘴気を吐き出す。阿選は傀儡となった者を六寝に集めた。その結果、阿選自身が瘴気に取り込まれた。
     禁軍に囚われて六寝で再び目を覚ましたとき、久しぶりに阿選の思考には清明なものが戻ってきていた。
    「私は破滅した。これでお前は満足か?」
     阿選は琅燦に訊いた。琅燦は笑う。
    「あんたにはもう飽きたし、興味もない。でもそうだね、この結果には満足している。世にも珍しい人を殺傷する麒麟も見れたし驍宗様も本来あるべき場所に戻れた。それなりに面白い実験だったよ」
     阿選は琅燦から目を逸した。阿選は全てを失ったが、琅燦にとっては単なる退屈しのぎに過ぎない。
    「命を拾ったこと、驍宗様に感謝するがいい。驍宗様に言われなければあんたを助けるつもりなんかなかった」
    「頼んでなどいない」
     琅燦は臥牀の上に足を投げ出して座る。
    「あんたはそうだろうね。あんたはずっと驍宗様に殺されたがっていたから」
    「……何」
    「分からないの? あんたは驍宗様に嫉妬していた。自分よりも驍宗様が上だと認めることができなかった。と、同時にあんたは驍宗様より下になる自分を許せなかった。あんたは驍宗様を目の前から消したかったし、驍宗様に殺されたかった」
     琅燦は阿選を指差して笑う。
    「驍宗様を越えたいなら驍宗様を凌ぐ善政を敷くしかないのにそうしなかったのは何のため? あんたはずっと破滅したかった、それは天によってではなく驍宗様の手が良かった。驍宗様に喰われて終わりたかったんだろう」
     殺されたいと思ったことなどなかった。むしろ驍宗に自分の存在を掻き消される恐怖があった。驍宗は阿選を相手にしてなどいない、阿選が多くの存在を歯牙にもかけなかったように。そうして阿選を取るに足りないものに貶す驍宗が憎かった。恐怖を克服するには驍宗の存在を目の前から消すしかなく、憎悪がそれを後押しした。
    「嫉妬は自分のものだと思っていたものが不当に奪われたと思うから生まれる。あんたは驍宗様と自分が相似形だと思いたかった。だからあんたは驍宗様と同じように王になろうとした。だがあんたには天意がない。あんたは驍宗様のようにはなれない。それが分かると、あんたは王位を投げ捨てた。傷跡の瘡蓋を剥がすように驍宗様なら絶対にしないことを繰り返した。あんたと驍宗様はよく似ていたから、驍宗様なら絶対にしないこともよく分かっていたんだ。そうして非道の豺虎に成り果てたあんたが驍宗様と同化するには、もう驍宗様に殺されるしかない。なんにせよ巻き込まれた戴の民には甚だ迷惑な話だ」
     琅燦は阿選を見下して吐き捨てた。
    「私はあんたを侮蔑しているが、私の主人は驍宗様だ。驍宗様はあんたとは違う。本質を見失ったりなどしない。だからあんたを生かす。……忌々しいことだがね」


    ──あの時、計画通り驍宗を虜囚にできていたらどうなっていただろうか。
     烏衡が驍宗を殺さず捕らえて阿選の元に連れてきていたら。おそらくあそこまで躍起になって驍宗の面影を消そうとはしなかった。驍宗に味方する者たちを徹底的に粛清することも反民の逃げ込んだ里をまるごと焼くこともしなかった、と思う。驍宗が阿選の手の中に落ちていたら、阿選はある程度は気が済んでいたように思う。
     仮王となった阿選の周囲では、驍宗ならもっとうまくやった、驍宗ならもっと早くやったに違いないという声が絶えず聞こえたが、もし驍宗が阿選の手の中で虜囚になっていたならば、それで溜飲を下げられていただろう。
     しかしそうはならなかった。驍宗は謀反を企図した阿選の手さえも届かない函養山の底に閉じ込められた。阿選は驍宗の面影を意識し恐れ、いずれ訪れる破滅の気配に怯えた。怯えるあまり、阿選はやり過ぎた。やり過ぎたことに気付いたとき、阿選が感じたのは虚脱と底のない絶望だった。
     道を踏み外した阿選にあるのは無明の闇だけだ。驍宗の紛い物と言われることすらもはやない。追憶の中の光輝の王、無謬の王の驍宗に対して、阿選の手は血に塗れすぎた。
     お前自身が道から外れていることをよく知っていたはずだ、という驍宗の言葉は正しい。だから阿選には、いまだ驍宗が阿選を生かす意味が分からない。瘴気で病んだ体が戻るまでは六寝で休養し、治癒後は仙籍を返上し鴻基を出ることになっている。
    ──それで気が済まない者もいるだろうに。
     阿選は今も仙の身だ。回復は早いはずだが、寒気が燕朝に及んでくるに至って体調は一進一退を繰り返している。今朝は比較的良いほうで、寝台を抜けて歩くことができる。
     阿選は目覚めて以降、驍宗と顔を合わせていなかった。言葉を交わすのは医官と最初に出会った奚くらいだ。つまりはあれから捨て置かれている。
     六寝の中は閑散としていた。阿選が主であったころより遥かに警護も奄奚も少ない。おそらく阿選が生きて六寝にいることを知られないためなのだろうと思う。
     驍宗は早くに後正寝を出て、夜遅くに帰る。驍宗のことだ、朝を整えるのは早かったろうが、元より朝の始まりは困難が多い。先の鳴蝕と阿選の行った驍宗麾下の粛清により信用できる臣下、官吏もかなりの数が失われている。驍宗が目を通して決裁しなければならない事項は多いはずだ。
     阿選が寝付いているときは構わない。だがこうして中途半端に体調が良いときが一番困った。時間を持て余し、清明になった頭で過去を顧みて自分の罪を数えた。途中までは確かに踏み込む自覚はあったのだ。どこで箍が外れたのかは定かではないが、外道に堕ちたのは理解できていた。
     琅燦の言う破滅を望んでいたというのは事実かもしれない。破滅が眼前で口を開いている頃はまだ良かった。今は表面では安穏として、その実じわじわと煮られているような心地だった。他ならぬ驍宗の言葉によって命の保証だけはされている。だが未来はない。無明の闇の中で行く先もなくひとり。
     阿選は自嘲する。成程これが、お前の与える罰か。
     榻に座りあてどなく思考を彷徨わせていると、気配を感じて顔を上げた。
    「……邪魔をしてもいいか」
     驍宗だった。思わず阿選は立ち上がる。
    「好きにしたらいい。お前の城だ」
     言いながら窓辺を離れ、部屋に入ってくる驍宗の目を避けて机に寄った。
     驍宗はしばらく部屋の中心に立っていたが、やがて大股で窓に近付き榻に腰を降ろす。
    「……まだ朝の終わる時間ではないと思うが」
     沈黙に耐えかねて阿選が言った。
    「ああ。もう少し続けるつもりだったが、きりが良いところまで決裁したところで、……蒿里に追い出された」
     驍宗は苦笑する。
    「自分も死罪には肯しえないが、基本的には私の一存で生かしているのだからきちんと説明をしろと切々と理を説かれて返せなかった。まさかあの蒿里が、こんな風に成長するとは予想外だったな」
     驍宗は阿選を見上げる。
    「相当やりあったと聞いたが?」
    「……麒麟らしくない麒麟だ。したたかで肝が座っている」
     だろう、と驍宗は笑った。
    「お前と話さなければならないとは思っていた。今日は体調もいいと聞いたしな。座ればどうだ」
     驍宗に促され、阿選は戸口近くの椅子に落ち着いた。
    「お前を生かしたのは私の一存だ。どうしても納得できなかったから」
    「納得?」
    「函養山から出て、お前が何をしたのかを聞いた。そして阿選という男が分からなくなった。私が知るお前は誰より道を弁えた男だった。簒奪はまだいい、私の何かが我慢ならなかったのだろうから。だがその後の行動が分からない」
     我慢ならなかったのではない。そもそも阿選が勝手に驍宗に勝手に敵愾心を抱き、勝手に憎悪したのだ。多くの有象無象が阿選に対してそうであったように。
    「簒奪を許すのか」
    「いや、そうじゃない」
     驍宗は首を振った。
    「簒奪は大罪だ。天命を受けた王から位を盗むのは道に悖る。お前がそれを分かっていなかったはずがない。……いや」
     驍宗は俯いて右手でがしがしと髪を混ぜる。
    「そういうことではない、どう言えばいいのか……。お前は怒っていたんだろう。私が王位にあることも許せないくらい我慢ならなかったのだろう。……たぶん、私が怒らせたんだと思う」
     驍宗は息を吐いて顔を上げる。
    「……昔からよくあったんだ。私のほうはうまくやっているつもりで、いつの間にか相手を怒らせている。私の言動か行動かは分からないが、何かが相手の逆鱗に触れているらしい。原因が分かれば謝りようもあるが自覚がないから始末に負えない。相手に原因を聞けばなお怒らせて、気付けば縁を切られている」
    「……私がそれだと?」
    「違うのか?」
     全く違う。言おうと思ったが、驍宗は視線を逸した。
    「これだから私の麾下は癖のある奴しか残らない。函養山から出た後も再会直後は皆が泣いて喜んでくれるが、段々文句が出てくるらしい。蒿里も驍宗様は言葉が足りないと散々に言うし、霜元に至っては毎回言い忘れたことがないか確認してくる。何も言わないまま失踪したことをまだ怒っているんだ、霜元は」
    「函養山から出た? 掘り返されたのではなく?」 
    「ん? ……ああ、自力で出た。騶虞を見つけて捕えて騎獣にした」
     阿選は呆れた。
    「私はお前の生存能力を侮っていたようだな……」
    「どうとでもなると思った。現に私はどうとでもしてきた」
     驍宗は笑い、肩越しに雲海を見る。
    「私はお前が叛くことを知っていたと思う。理由は分からなかったが、必ず叛くといつのまにか飲み込んでいた」
    「……ああ」
     驍宗の麾下はおろか阿選の麾下の誰も察することがなかった謀反を、驍宗本人は飲み込んでいた。そして阿選は、驍宗が知っていることも分かっていたように思う。謀反の気配を察していても驍宗は罠に飛び込んできた。阿選がそうするよう仕向けた。
    「また怒らせたか、と思ったんだ。何が原因かは分からない。そしてお前は叛いた。私が予想していた通りに」
     驍宗は窓に向き直ると窓枠に肘をついた。
    「函養山に閉じ込められた直後はさすがに落ち込んだ。烏衡程度にやられた自分が情けなくてな。驕っていたのだろうと」
    「……烏衡に賓満をつけてやった」
    「の、ようだな」
     驍宗が阿選の謀反を察していようと、妖魔を使うところまでは予想し得ないだろうと思っていた。阿選は琅燦から大量の妖魔を借り受け、呪器と呪符で操った。
    「私が罠にかかったのは分かった。お前が裏にいるのだろうとも思った。だがどうしてもお前が叛く理由が分からなかった」
    「単に、自分が王になりたかったからではないのか。王であるお前に嫉妬して」
    「嫉妬ではない。嫉妬であれば奪った王位を擲つわけがない」
     阿選は苦く笑う。あの麒麟と同じことを言う。
    「そもそも嫉妬というものは自分のものが不当に奪われたと思うから起きる。奪われたものが奪うものよりも上位にあることは稀だろう。上にあるものは下のものには嫉妬しない」
     驍宗は自分の肘に顎を埋めた。蹲った虎のようだ。
    「私は一度だってお前に勝てたと思ったことがない。だから、嫉妬ではないと感じている」
     阿選は目を見開く。今、驍宗は何と言った。
    「だが王になったのはお前だ。……私ではなく」
    「人より優れているから王に選ばれるわけではない。昇山したときは当然自分は他の人間よりは優れていると思っていたが、どうもそういうことではないらしい」
     驍宗の背中が苦笑する。
    「私が登極したばかりのころ、景台輔が自分はこの方は王には向かないと分かりながら王に選んだと仰っていた。それで山から出てきたら慶の王は代わっていた。確かに、人より優れていて王に相応しい者だけが王になるのだったら在位が極端に短い王がいることの説明がつかない。麒麟は王気を見るという、だが実際はそんなものだ」
     阿選は茫然としていた。驍宗の言うことが事実だとしたら、今までの阿選の煩悶はなんだったのか。
    「……それはもっと早く知りたかったな……」
    「知っていれば叛かなかったか?」
    「それは、……分からない」
     正直に言うと、驍宗は声をあげて笑う。身を起こすと雲海の向こうを見た。
    「私が王に選ばれたのは、私の持つ何かがそのときの戴に必要だと天に見做されたからなのだと思う。多少は人よりはましなのだろうが、それは人より優れているだとか、人より道を弁えているだとかではないのだろう。……悔しいことだが」

     一度だってお前に勝てたと思ったことがない、と驍宗は言った。
     阿選は、まず驍宗が阿選と競っていた意識があったことに驚いた。阿選ばかりが勝手に敵愾心を燃やしていたのだと思った瞬間の、身が震えるような羞恥と屈辱感、自己に対する嫌悪と怒りをまだ覚えている。
    ──琅燦の言う通りだったか。
     驕王は奢侈に傾いたが、自分の趣向に応える人間を政に重用することはなかった。ゆえにある程度の抑制はあったし、阿選はよく驕王の命令に従い、麾下の言葉を聞いた。驍宗の目からは、阿選はそれなりにましな人間に見えていたということだろう。
     今更それが分かったところで、何にもなりはしない。
     阿選は驕王の歓心を競い、驍宗はどちらがましな人間であるかを競った。より高い地位を、名声を得さえすれば驍宗に勝てると思っていた。結果、阿選は実体のないものに振り回されて盗人になり、最後には外道に堕ちたのだ。
     虚しい、と思う。もはや何もかもが虚しい、無明の闇。
     阿選は小寝を出た。ここにはいたくない。だがほかにどこにも行けない。行くあてがなく、待つ人もいない。
     庭院を抜け、回廊を歩いた。いくつか門楼を過ぎ墻壁を抜けたところで角を曲がってくる人の気配がした。
    「友尚……?」
     阿選を認め、友尚はその場で立ち竦む。
     阿選が「討たれた」ことになる前、友尚は函養山に幽閉されている驍宗を掘り返すため烏衡を伴い文州に向かい、戻ってこなかった。率いていた三旅ともども消えた。後に、窮寇──驍宗麾下と合流し、旗幟を変えたと知った。
     友尚は阿選にとって最も信頼できる麾下と言って良かった。だから裏切りには衝撃を受けたし、憤りさえ感じた。
     友尚だけではない。阿選の治世の末期には、ほとんどの麾下が離散していた。残ったのは己の利益のみをを守ろうとする佞臣と傀儡だけだった。
     元々阿選の麾下だった者たちがどうしているのは驍宗からは聞いていなかったが、なるほど下った者たちはかつてと同等程度の地位は与えられているのだろう。友尚の服装からそれが知れた。
     ではいつの間にか六寝を出ていたのか。六寝は長大な壁によって区切られているが、いくつか抜け道がある。以前泰麒が使った裏道のほかにも色々とあることは知っていたが、今阿選が通ってきた場所もそうなのだろう。
     友尚は蒼白の顔をして阿選を見つめた。幽霊でも見たかのようだなと阿選が思っていると、友尚の息が乱れて彼の手が剣の柄にかかる。
    ──偽王を討つか。
     友尚が阿選を斬ろうとしているのは明白だった。友尚ならばこの距離で仕損じることはあるまい。
     阿選には抵抗するための武器もなければ気力もなかった。いずれ来る衝撃を待っていると、不意に冷え冷えとした殺気が消える。友尚は剣の柄から手を放し、俯いて息を吐いた。
    「斬らないのか」
    「斬られたいのですか」
     阿選が訊くと、すかさず返ってきた。阿選は薄く笑う。
    「燕朝を血で汚すわけにはいかない。ようやく本来の姿に戻ったのですから」
     友尚はそう呟くと踵を返した。
    「お戻りください。六寝を離れればあなたは討たれる。あなたを生かしているのは主上の温情ひとつだ」
     硬い声で吐き捨てて歩き出す友尚に、阿選は自嘲する。
    「……お前も私を憎んでいるのだな……」
     ひとりごちたその声が聞こえたのか、友尚が振り返った。
    「どうして憎まないでいられるとお思いですか。あなたは麾下である我々を裏切った。我々を遠ざけ、非道な命令を下し、我々の誇りを踏み躙った。それだけじゃない、忘れたとは言わせない。あんたは……麾下の魂魄を抜いて、人形にして使った!」
     恵棟のことだと分かった。友尚は恵棟と親しかったはずだ。
    「あんたが主上から玉座を盗んで六年の間、俺たちはずっと我慢してきた。敵対勢力の除外も反民の粛清もずっとおかしいと思ってた。それでも黙ってあんたに従っていたのはなんでだと思う? 俺たちはあんたを信じてた。ずっと信じていたかったんだ。あんたは俺たちの主公だから──自慢の主だったから」
     友尚の言葉から敬語が落ちていた。友尚は迸るように続ける。
    「あんたはある時点まで、確かに俺たちの自慢の主だった。徳高く有能、常勝無敗で、周囲に対して優しく温情ある将だった。俺たちは掛け値なしに主上ではなくあんたこそが王にふさわしいと思っていたよ。それが贔屓目であったとしてもだ、俺たちの目にはあんた以上の主公なんかいなかったからだ。だが、あんたは俺たちを微塵も信じてやしなかったんだ。一人で大逆を決めて一人で実行した。おまけに使ったのは烏衡なぞという下衆だった、麾下である俺たちではなく」
     阿選は目を見開いた。
    「天意ある王から玉座を盗む、大逆は大罪だ。あんたの意志を知れば俺たちは必ず止めたろう。そんな罪人に主公を落とし込みたくないからだ。だが大罪であるからこそ、俺を使ってほしかった。あんたを説得させてほしかったし、説得されたかった。そうしなければならぬと──理なんてなくていい、情でいい、あんたに掻き口説かれたかった。だがあんたは、何も言わずに俺たちから離れたんだ」
     麾下を信じていなかったわけではない。阿選は自分がやろうとしていることは大罪だと分かっていた。だからこそ麾下を巻き込みたくなかった。大罪であればこそ、麾下に同じ罪を背負わせるわけにはいかなかった。麾下に説得されたくなかったし、麾下の手を汚させたくなかったから、烏衡という卑劣な下郎を使った。
    「麾下とはそもそも愚かなんだ。主に一言『仕方がなかった』と言われれば納得する。あんたに説得されたら俺はきっと従った。あんたに頼まれたら、それしかないのだと掻き口説かれたら、たぶん友を討つことだってしたと思う。相当に心理的な抵抗はあるだろうが。でもあんたは何も言わなかった。俺たちに同じ罪を背負うことさえさせてくれなかった」
     友尚は自嘲する。
    「あんたは俺に、函養山を掘り抜くのに土匪をもって当たらせ、用が済めば殺せと命じた。かつてのあんたなら絶対に取らない、心から侮蔑したような策だと思う。あんたがそれだけ変節したのか、それとも俺の見る目が曇ってたのかは知らないが、あんたは俺が一命を賭して従うべき主ではなくなった。恵棟も同じだったんだろう。あんたは恵棟が裏切り台輔についたと思ったんだろうが、それは違う。あんたが、俺たちを裏切ったんだ」
     あんたは、と友尚は阿選を見据えた。
    「簒奪を決めてから一度も、自分の麾下の気持ちを考えたことがなかったんだろう。俺たちはずっとあんたに必要とされるときを待っていた。再びあんたの近くで、あんたと共に国と民に仕えるときを待っていたんだ。でもそんなときは来なかった。あんたは王位を捨て国を捨て民を捨て、麾下を棄てた。今となってはあんたは卑怯な盗人で、俺の朋友の仇だ」
     友尚は再び阿選に背を向ける。
    「俺はあんたを殺してやりたいほど恨んでいるし、憎んでいる。俺があんたを斬らなかったのは、主上がそれを望まないからだ」
     阿選は遠ざかる友尚の背を見つめて項垂れる。一言も発することができなかった。
    ──麾下は、情によって主に繋がれる。
     かつての阿選は分かっていたはずだった。禁軍に阿選ありと言われ、最も温情ある主と麾下に謳われた。驕王治世下ではともに武勇で名高かったが、驍宗はその威風によって知られ、阿選はその芳情によって知られた。──いつだって、兵卒に慕われるのは阿選のほうだった。
    「……私はそんなことさえも忘れていた……」
     阿選の呟きは誰にも聞かれることなく、風に流されて消えていった。
     それから数日、阿選は寝込んだ。多くの夢を見たが、ほぼ全てが悪夢だった。殺す夢、殺される夢、生きながら焼かれる夢、斬り刻まれる夢、それらは阿選自身が他人に対して行ってきたことだ。
     瘴気に囚われた人間を解放するのは困難だ、とどこかで聞こえた。瘴気は神経の隅々まで行き渡り、四肢を巡り魂魄に根を這って人を蝕む。──お前は生涯、悪夢に魘され続けるんだよ。琅燦の嗤う声がした。
     目覚めると、燕朝の園林に薄く霜が張っていた。炉に火が入っていても窓辺や戸口にはじわりと刺すような寒気がある。雲海は暗く陰鬱な色をしていた。
     戴の長く苦しい冬がすぐそこまで来ている。驍宗は手を尽くしているのだろうが、この冬も凍死者や餓死者が出るだろう。位を盗んだ阿選が政を擲ち、戴の唯一の産業といえる玉の産出による富も一部の者の手に落ちている。阿選の罪はあまりにも大きい。
     阿選は自らの手を見つめる。寝込んでいたことが嘘のようだった。今は阿選の腕は正常に動き足も動かすことができる。だから、やることは決まっていた。
     その夜遅く、阿選は後正寝を訪ねた。既に休む支度をしていたのだろう、驍宗は驚いて阿選を迎えた。
     入ると広い部屋の中に明かりが一つしかない。
    「暗くはないのか」
     阿選の問いに驍宗は苦笑する。
    「いや、このほうがいいんだ。六年の間に目が弱ったらしくてな、普段は皆に合わせて明るくしているが自分一人ならこのほうがいい。落ち着かないなら明かりを持ってこさせるが」
     そういえば、確かに驍宗には目を細める癖が増えていた。阿選が謀反を起こす前にはなかったものだ。
    「いや、構わない。言うべきことがあると思ったから来ただけだ」
     驍宗は意外そうに阿選を見た。
    「……なんだ」
    「憑き物が落ちたような顔をしている」
     阿選は苦く笑った。
    「憑き物か。違いない」
     驍宗は破顔する。
    「酒でも持ってこさせよう」
     驍宗は奚を呼び、簡単な酒肴を用意させた。異例なことなのか、奚が戸惑うのが手に取るように分かる。
    「いいのか?」
    「お前のような男が夜中に人を訪ねるのだから珍しいことを重ねても良いだろう」
    「殺そうとしておいて今更礼儀も何もなかろう」
    「なるほどな」
     驍宗は含み笑いをする。
    「私は今のお前のほうが面白いと思うが」
    「それは……複雑だな……」
    「そんなものか」
     卓に酒の用意がされ、阿選は驍宗の前に座る。
    「話というのは?」
     驍宗に訊かれ、阿選は頷く。
    「お前は、玉座を簒奪した後の私の行動が分からないと言ったな」
    「分からない。私の知る阿選という男の像と一致しない。だが、事実としてお前の成した非道がある。蒿里や麾下の言うこと、戴のあちこちにある廃墟となった里──轍囲は真実、何も残っていなかったな」
    「そうだろうな……」
    「私の知るお前は、誰より道を弁えた男だった。そのお前がなぜあんなことをしたのか。瘴気で理解できるような気もしたが」
    「それは違う」
     阿選は言下に否定した。
    「瘴気の影響がないとは言わない。だが、途中までは確かに私が道を敷き、傀儡を使って非道に走らせた。私が政を放棄した後も誅殺が続いていることを知っていた。だから、それらは全部、間違いなく私の罪だ」
    「では改めて問おう。なぜあんなことをした?」
     阿選は自嘲する。
    「お前を恐れた。正確には、お前の面影を」
     驍宗は眉を顰めた。驍宗には分かるまい、と思う。
    「大逆も、その後の誅殺も全て同じ線の上にあることだ。今思えばもう少しやりようがあったし、謀反をしないでいられる方法もあったと思う。……だが私は、おそらく何度繰り返しても同じことをするだろう。そうするしかなかったのだ、あのときの私には」
    「……分からないな」
    「お前は私がはじめから悪辣な人間であったと思わないのか」
    「ありえない」
     驍宗ははっきりと言った。
    「それはどうしてだ」
    「……お前はそういう男ではないと、私が信じているから、だな」
     驍宗は苦笑する。
    「私が見誤っていたと言いたいのか?」
    「では驍宗、言い方を変えよう。私は天命を受けた正当な王を玉座から追い落とし簒奪した。これだけでも充分な大罪だが、非道に民を誅殺し無用の苦しみを与えた。償いきれぬ罪がある。元来、武人は勝てば相手を殺し、負ければ殺されるものだろう。実際、私は捕えたお前を処刑しようとした。だから今、私を殺すのはお前の権利だ。違うか」
    「……まるで死罪になりたいかのようだな」
    「道に悖るということを話しているだけだ」
     阿選は言うと、盃を干した。驍宗は、道か、と少し笑う。
    「そもそも道とは何なのだろうな。はっきりとこうするのが正しいと線が引いてあるわけじゃない、そうであれば誰も間違わない。王が誤てば失道するが、それを行えば失道すると天が囁いてくれるわけじゃない。明白にこれは違う、と思う場所があるだけだ。王になってみればもう少し見えてくるかと思ったが違うようだ」
    「……取るべき理想、王にとっては理想の政治だろうな」
    「そうだな。……私にはお前が、道がはっきりと見えている男に思えていた」
    「そうではなかったということだ」
     阿選は淡々と言った。道が見えていればこんなことはしない。
     驍宗は自分で自分の盃に酒を注ぐ。
    「驕王の治世下で私が野に下ったときのことを覚えているか」
     阿選は苦いものを飲み下した。さり気なく応じる。
    「覚えているが、どうした」
    「あれで私は片や道を弁えた将と誉めそやされ、片や不忠の臣と罵られた。だが私はあのとき、必ずしも自分自身で判断して驕王の命令を拒んだのではなかった」
     驍宗は阿選を見る。
    「一瞬、惰性で命令に従おうとしたんだ。そのときお前が私を見ていた。耐えられない、と思った。驕王の勘気よりも、お前に侮蔑されることのほうが私には何倍も耐え難かったんだ。なかば衝動だったが、それで職を辞した」
     阿選は瞠目した。
    「侮蔑……、なぜだ? 私はあのとき驕王の命令に従って功を立てていた」
     例えその命令に理がなくとも、阿選は拒むことなく出撃してきた。
    「俺だってそうするつもりだった。お前に負けたくなかったから。それに士卒だからな、本来であれば命令は拒めない。でも俺はそんなことより、不本意な命令で功を立て、その程度の男かとお前に思われることのほうがずっと嫌だった」
     驍宗は苦笑する。
    「だから要は自尊心だったんだが、思っていたよりも周りの反応が大きくて言い出しにくくなって、今日まで来てしまった」
     反応が大きいも何も、禁軍左軍将軍が王の命令を拒んで野に下るなどざらに聞くことではない。
    「その後、黄海で妖獣を狩るようになって、これはこれで悪くない生活だなと思った。一時は本気で旌券を割って朱氏になろうかと考えていたんだ」
     驍宗は笑った。
    「奢侈に傾く朝の中で、お前は流されることなく規律を守る品行正しい軍隊を作っていた。王宮の回廊をお前がやってくると官吏は襟を正し、お前が通ったあとは凛列とした空気が残った。お前は言葉にせず風紀を糺す将軍だった。……私は、お前の前に立つのに恥ずかしくない男でありたかったんだと思う」
     阿選はあのとき、驍宗が功を投げ捨てたと思った。驍宗ははなから阿選と競っているつもりなどなく、阿選など歯牙にもかけていないのだと思って、羞恥と自己嫌悪とともに驍宗への憎悪が生まれた。
    「お前の数々の非道を知っても、お前はそういう男ではないと信じたいのは過去の自分の判断に関わるからだ。お前の見透かす視線によって、私は不本意な命令に従わずに済んだから」
    「それは……大した我儘だ」
     阿選が言うと、驍宗は声をあげて笑う。
    「そう、我儘だ。私情でお前を生かしている」
     阿選は沈黙する。迷った末に口に出した。
    「お前は、私を憎まないのか。私が作った刑場は残虐だった。八年前、お前が位を盗み、それからの民の苦難は全てお前のせいだったということにする。謝罪という名目で拘束したお前を引き出し、配下に民を煽動させてお前に投石させる。お前の身は神籍にある。だから容易には死なない。処刑は凄惨なものになると予想できた。そうなるように、私が仕向けた」
     阿選は驍宗を憎悪し、天意の具現たる泰麒を憎悪した。同様に驍宗の国である戴そのものが憎かったし、驍宗を忘れぬ民もまた憎かった。だからあれはそれら全てへの復讐だった。阿選の憎悪と悪意が結集したような刑場だった。あれだけの憎悪を向けられて恬淡としていられる驍宗の心根が分からない。
     そうだな、と驍宗は少し考える。
    「それの、何がいけない?」
     阿選は言葉の意味が飲み込めなかった。
    「八年前、登極すべきはお前だった、私が位を盗んだ、八年間の民の苦難は全て私のせいだ、ということになって何がいけない? 私は蒿里に選ばれた。だがその後、戴のために何もできなかった。何の結果も残していない。民のために何も為せていない。そんな王がいてもいいのだろうか」
     驍宗は盃を置いた。
    「王は無能であってはいけない。何もできない王など存在してはいけないんだ。天は失道という形で私から天意を取り上げることはしなかったが、本来であれば六年も政を放棄している王などとっくに失道している。民が怒るのも当然だ、という気がする」
    「それは、……お前のせいではない。私がお前を函養山に閉じ込めたからだろう」
    「そんな事情は民には関係がない。事実として私は民を放置した。だから民が私をいらないというなら、いらないのだ。民が私を打擲して殺したいというならそうされるべきだと思った」
    「私が仕向けたんだ」
    「同じことだ」
     驍宗は笑う。
    「できることなら蒿里が無事であるようにとは思ったが。あれが無事であれば戴はまた次の王が立つ。今度は無能ではない、きちんと政を執れる王が」
     分からない、と今度は阿選が言った。
    「お前は王になりたくてなったのだろう。なぜそこまで自分を突き放す必要がある」
    「……私は、二度蒿里に振られている。一度目は昇山者として、二度目は登極後に。王気というものは麒麟にも実際よく分からないらしいな。二度目のとき、蒿里は親しかった景台輔に相談し、景台輔は延王と延台輔に助力を願い、麒麟が額ずくことができるのは王にだけだと示した」
    「……振られた……?」
    「うん。あまり言いたくはなかったが」
     驍宗は苦笑して続ける。盃を舐める。
    「私があまり執着がないように見えるとしたらそのためだろう。蒿里に選ばれたときは浮かれたが、あると思った天意が実はないかもしれない、となった。天意のない王は王ではない。さすがに少し落ち込んだな。結局は私が王だということになったのだが。……しかし、民のために何も為せない王などいてはいけないんだ」
     驍宗は視線を落とした。
    「民が私をいらないというのなら死んでもいいと思った。だが、私の麾下は莫迦が多くてな。自分の死を覚悟に助けにきた。完全なる私情でな。有難いのか呆れるべきなのか、未だに分からん」
     阿選は自分の憎悪のために民を煽動し、驍宗は王であるがゆえに民の意に添い死んでいこうとした。この精神の差はどこでついたのか。あるいは始めからあったのか。阿選には分からない。だが確かに天は驍宗を選び、彼に奇蹟を施し続けた──あの絶望的な墓石の下から、阿選の作り出した憎悪の刑場から、驍宗が玉座に還れるようにと。
     不意に明かりが消える。驍宗が、暗いな、と言った。
    「つけるか」
    「いや、……構わない」
     驍宗の問いに阿選はそう答えた。窓から細い月がのぞき、仄かに光が差し込んでいる。薄い明かりの中でも驍宗の白銀の髪と紅の瞳は目についた。
    「……莫迦はお前もだ、驍宗。私を生かす、などと」
     ぽつりとこぼす。そうかもしれん、と驍宗は笑う。
    「道義的に見て、私は生きるべきではない。職を預かる者として、人として、私は明らかに道を外した」
    「そうなのだろうな」
    「それでもお前は私を生かすという。今も私を信じるという」
    「ああ」
    「罪と恥にまみれた命だ。償いきれぬ……」
     阿選の声が震えた。自分の為してきたことが改めて重くのしかかる。
     薄闇の中、驍宗の紅い目が静かに見ていた。
    「お前の命を贖おう。……どこへでもゆけ」
     阿選は苦く笑って顔を覆う。
    「負けたよ、驍宗……」


     早晩出立すると言うと、驍宗は翌日には下官を寄越して新しい戸籍についての説明を受けた。
     阿選は仙ではなくなり、鴻基を追放となる。一度鴻基の城門を出たら後は二度と帰ることは罷りならない。阿選の罪に対して、あまりにも軽すぎる処罰だと言わねばならない。
     旌券を受け取り、旅支度を整える。元より大して荷物などない。謀反を起こしたときに阿選は皆捨ててしまった。治朝に与えられていた自邸にもあれから碌に帰っていないから自邸ごと捨てたようなものだ。
     治朝には阿選の顔を知る者が多い。夜陰に紛れ騎獣で鴻基を渡ることになった。尤も、禁軍の兵卒にも脱走者は多く、鴻基の外にも少数だが阿選を知る者はいるだろう。おそらく阿選は一生命を狙われることになる。それだけのことをしてきた。
     元禁軍右軍将軍、驕王の朝ではこの人ありと謳われ、驍宗とともに双璧とも竜虎とも言われた。しかしこれからは、罪が阿選の象徴となる。不思議なことに、それが自らが選び取った末に手元に残ったものだと思うと、何かに駆り立てられるように求めた栄誉や名声よりも遥かに心が安らいだ。
     夜が更けて定刻になり、六寝を出る。驍宗はまだ戻っていなかったので言付けを頼んだ。人目を忍んで厩に向かうと、待つ影があった。
     影は阿選を認めると一礼した。品堅だった。簒奪後に阿選が王師の将軍に任じた。
    「鴻基の外までお送りします」
    「お前が……?」
    「恨み言のひとつも言いたいだろう、と主上が仰られて」
    「……そうだな、聞こう。私は何を言われてもおかしくない」
     いえ、と品堅は首を振った。
    「友尚がおおよそのことを言ってくれたようですから」
    「そうか……」
     品堅は驕王の治世下では別の将軍の麾下だった。彼が戦死し、阿選の下に配属された。実直で堅実、出過ぎたことを決してしない男だった。
     阿選は品堅を伴い路門を出た。月のない夜だった。闇に紛れて空を駆け、鴻基を抜ける。
     見下ろすと懐かしい街並みだった。路に灯る明かりが風に揺れて、過ぎゆく人も多く賑やかだ。
    ──もう二度と見ることもない。
     阿選が最後に鴻基を歩いたのはもう八年以上も前だろう。友尚ら麾下が時折、身を窶して鴻基で遊んでいることは知っていた。たまたま治朝を出ていくときの彼らに会って、流れでそのまま一緒に降りて酒を飲んだ。
     阿選と麾下との仲は良いほうだった、と思う。麾下は主公を慕うが、その関係は様々だ。職務上の緊張感を失うことを警戒し、あえて距離を置く将もいる。しかし阿選は違った。親身になり、掬い上げ、励まして麾下と並んで歩く主だった。
    ──だからこそ巻き込めないと思った。
     それが結果として麾下を傷つけ、それを知るごとに阿選は彼らを遠ざけた。麾下と噛み合わなくなり互いに不信を育て、それでも忠誠を尽くそうとした彼らの期待を阿選は裏切った。
     鴻基の外、ひとけのない街道を選んで降り立った。騎獣の隣で品堅は一礼する。彼の仕事はこれまでということなのだろう。
    「品堅。私がこんなことを言えた義理ではないのは承知の上だが、頼みがある」
     品堅は困惑した。
    「私はもうお前の主公ではないし、お前もごめんだろう。だからこれは厚かましい頼みなのだと思う。だが、話だけでも聞いてほしい。帰泉や恵棟、他にも私が傷付けた麾下がいると思う。彼らや彼らの遺された家族を気にかけてやってくれないだろうか」
     阿選は品堅を見つめる。街道の外れは暗く寂しい。
    「この後に及んで虫のいい話だと思う。私はお前たちの期待に背いただけではなく、お前たちの信望すべてを裏切った。私は恨まれて当然のことをしたし、お前には私を恨む権利がある。だからこれは命令ではなく、頼みなんだ」
    「なぜ……」
     品堅は言葉をこぼした。
    「なぜそれを、私に頼むのです」
     彼は阿選を凝視していた。
    「お前は実直で、些か不器用な男だ。だが、だからこそ人を気にかけ、人に誠実だ。決して一方に偏ることはせず、じっくりと時間をかけて人を見て、人に寄り添う。そういうお前にならば頼めると思った」
     品堅は黙った。やはり駄目だろうか。
    「……承知いたしました」
     長い沈黙の後、品堅は頷いた。阿選は息をつく。
    「ありがとう」
     阿選は騎獣を品堅に渡すと、街道へ踏み出した。ここから先は徒歩になる。行く先は決めていなかった。元より行くあてなどどこにもない。
    「……道中の御無事をお祈りしております」
     阿選の背中に向かって声がかけられる。阿選は驚いて振り向いた。品堅が頭を下げている。
    「……品堅……」
     呼ぶが、彼は顔を上げなかった。
     品堅は部下を大事にする男だった。その品堅の下から帰泉を盗って魂魄を奪い傀儡にしたのは他ならぬ阿選だ。傀儡にした上で帰泉を馬州に派遣し、二度と帰らなかった。許されるはずがない。阿選は許されるはずがない罪をあまりに多く重ねすぎた。
     阿選は品堅を見下ろした。
    「……ありがとう」
     阿選は迷った末に礼だけを口に出した。詫びは品堅が受け取るまいと思う。詫びは許しを請うことであり、許されるとは相手に自分の罪の一部を背負わせることだ。この後に及んで麾下にそんなものを背負わせるわけにはいかない。
     品堅は動かなかった。
     阿選は最後に鴻基を振り仰ぐ。白い石柱を幾重も立てたかのような巨大な山が無明の闇を背景に聳えている。急峻な岩肌に続くその頂上は途中で雲に遮られて見ることは能わない。
     雪深く雲の多い戴において、王と宰輔が住まう鴻基は唯一の晴れ間、宮城は一穴の蒼天であるという。
    ──お前の治世が少しでも長く、幸福なものであるように祈ろう。

     その後、どこかで旌券を割ったのか、彼の行方は杳として知れない。
    ユバ Link Message Mute
    2019/12/03 21:07:56

    月無夜

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    本編後、阿選が生きている話。本編で描写がないということは阿選が必ずしも死んだとは限らないなと思いました。強めの幻覚。 #十二国記 #白銀の墟_玄の月 #阿選 #驍宗

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