きみありて幸せ 第一章 夜斗編 第一話「世界は元は様々な種族が共生していたという。
ある日、天使が現れた。
天使はこの世界に住む如何なる種族とも違う、まさに異端者だった。
天使にはそもそも親がいない。どこでどのように産まれたのかも記録には残ってはいない。
ただ異端者である〖彼女〗の存在は忌むべきものであった。
我々の先祖は〖彼女〗を殺害した。
その瞬間から共生していたあらゆる種族は別れて集落を造り、違う種族同士が交流することを禁じあった。
〖彼女〗はまさに災いであり続けたのだ」
「昔々のお話。今となっては本当かどうか誰にもわからない。」
講義は終わった。
ざわざわと喧騒が広がりはじめ、数人の生徒たちが嬉しそうな足取りで教室を出ていく。
それを見遣って蒼い眼を和ませて
夜斗は笑みを浮かべた。
村でたった1つの教会の敷地内にある学校。
白い石造りのその古い建物の窓からの陽を浴びて夜斗の金の髪がより一層美しく輝いていた。
夜斗の見た目の年齢は14、5歳のように見えるが、この村の人間は総て長命の種。
故に、夜斗の実年齢も既に50近くになる。
子供たちを教会から送り出すと、誰もいなくなったのを見計らったように夜斗と似たような年頃の少年少女が現れた。
長い黒髪に
菫色の大きな瞳が可愛らしい女の子を
邑華、二人よりも少しばかり年上に見える青年を
緋巳斗といった。
その二人の姿を認めて、ふぅっと夜斗は溜息をついた。
開け放された窓から微かな風が吹いて心地よかった。
ある日の朝だった。
いつも通り夜斗は身支度を整え、教会の中を拭き清めるために裏手にある井戸へと向かった。
ただ今日は水を汲んだ後、何気なく井戸の側、教会裏にある林へと足を向けた。
何故そうしたのかは解らない。
けれども後々になって考えればそれはきっと天啓だったのだろうと思う。
林は裏庭の小道から続いていた。
林の中を10分程歩いたその先、木々に囲まれたその場所に人の姿が見えた。
どきり、とした。こんな場所に人がいるとは思いもよらなかったのだ。次いでその姿が傾いでいき、やがて見えなくなったのを視認して、気分が悪くて座り込んだのだろうかと思い至り、慌てて駆け寄る。
そして気づく。座り込んでいるのではない。木漏れ日の差す場所で一人の少女が横たわっていた。
柔らかそうな鳶色とびいろの短い髪の、四歳ほどの小さな女の子。
──見たことのない子どもだ
そう、思った。それが意味するのはこの子供が余所者、異端者であるということ。
そして、この村、いや世界の集落では余所者への処遇はただ一つと決まっている。
迷っている暇などなかった。
急いで抱き上げ、自室へと向かう。今は早朝で教会には夜斗しかいない。
不幸中の幸いだった。
「起きても泣いたり騒いだりしては駄目だよ。待っておいで、夜になったら村の外に出してあげる」
囁くように眠った子どもに告げる。
こんな子どもが山手にある教会近くの林まで人目につかずどうやってきたのか。初めて見る異端の子ども。
ベッドに寝せようとするとわずかに身じろぎした子どもにどきりとし、そうっと起こさないように降ろす。
この世界は狂っている。世界が狂っているから皆それに気付かない。それが彼らにとっては当たり前だからだ。
先程まで抱き上げていた体は温かかった。誰かに知られてしまえばその体温も消えてしまうだろう。
異端者への処遇はただ一つ。
「静かにしておいで。さもないと『殺されて』しまうよ?」
最後の言葉は自分自身に言い聞かせるように。
そう、事実世界は狂っているのだから。
子どもは昼近くになってようやく目を覚ました。
夜斗が危惧したように泣くことも騒ぐこともしなかったが、少女はきょとんと不思議そうに夜斗を見上げた。
「……あなた、だぁれ?」
「夜斗だよ。神学と歴史を教えている、この教会に住んでいる者だ。きみの名前は?どこから来た?」
無数に点在する村、町はそれぞれ離れた場所に集落を作っている。集落の外にも“道”と呼ばれるものもあるがそれらはいわゆる獣道だったり、整備されているものにいたっては村や町の近くにある山や海へとのびるごく限られたものだけだった。こんな女の子一人が来れる道ではなかったはずだ。それに、ここに辿り着くには人目のある村の中の道を通らなければならなかったはず。
少女は再びきょとんとした。
「わからないわ」
「……わからない?」
「うん」
「名前も?」
「うん」
予想外の返答だった。
これでは村の外に出してさようなら、という訳にはいかないだろう。
だからといって殺されるとわかっていながら誰かに渡す気にはなれない。
夜斗は一つ息を吐いて、子どもに言い聞かせる。
「よく聞いて。これから先、私と一緒のとき以外は外に出ないこと。外に出るときでも教会裏やそのすぐそばにある林しか行くことはできないこと。決して私以外の人に見つからないように静かにすること。きみを守るために、窮屈だろうけれども我慢をしてくれるかな?」
少女を守るためとはいえ、かなり酷な決まり事だったが、少女は首を傾げてふわりと微笑んだ。
「このベッドは夜斗の?」
「あぁ、そうだよ」
「夜斗のベッドに私を寝かせてくれたのね?ありがとう。わかったわ、私、夜斗以外の人に会わないわ。優しい夜斗を困らせたくはないもの」
その言葉にほっと息をついて礼を言う。
「では一緒に名前を考えようか」
「私の?」
「そう。きみにぴったりの名前を一緒に考えよう」
少女の名前は二人で考えに考えて『
柚葵』と決まった。
そうして月日は流れて、次の季節が廻ってきた。
父母が一年前に亡くなっていた夜斗にとって二番目にできた家族。それが柚葵だった。
次の季節に移っただけ、出会ってたった二ヶ月の間に柚葵は驚くほど成長した。外見こそ出会った時とさほど変わらなかったが、何もできなかった、何も知らなかった最初からは想像もつかないほど沢山のことを吸収し、覚えた。ツリ目気味なので一見するとそうは見えないが、少々ふんわりした雰囲気のおっとりした子だったことも夜斗は知った。
二人で暮らすことが互いに楽しくて当たり前なことに変化した頃、秘め事のように二人で夜中の裏庭を散策した。散策、というには狭すぎる場所だが、一日の多くを室内で過ごす柚葵には特別な時間で。
月光が照らす中、楽しそうに何も珍しくもないありふれた花や草を愛でる柚葵を見守っていたときだった。
柚葵の背中に羽根が見えたのだ。
羽根を持つ種族も村の外にはいるのだと聞いたことがあったし、文献でもその存在を知っていた。
だけれど、その羽根は文献にあるものとはどこか違っていて。それはむしろ他の種族というよりも――。
「天使……?」
振り返った柚葵がふわりと笑んだ。
あれから幾月かの時が流れた。
柚葵との出会いが不幸だったとは思わない、と後々になって夜斗は思う。
邑華と柚葵の出会いが悲劇の始まりだったのか、それともそれよりも前――夜斗と柚葵の出会いから既に始まっていたのか。
それでも夜斗にとっては柚葵との出会いは幸福以外の何物でもなかったのだ。
──例えそれが壊れゆくだけの幸福であっても。
柚葵と邑華の出会いは、夜斗と柚葵の出会いから4ヶ月後。夜斗が柚葵の羽根を見た僅か1ヶ月後のことだった。
いくら誰にも会わないという約束をしてくれたとはいえ、柚葵はまだ幼子で、他者に対する興味は年相応にあったのだ。教会で楽しそうに夜斗と喋る、邑華という『お姉さん』に記憶にない母親の面影を重ねたのか、柚葵はやけに邑華にこだわるようになった。
とうとう根負けした夜斗が邑華に会わせたのだ。
邑華は最初こそ驚きはしたものの、すぐに柚葵の存在を微笑って受け入れた。
むしろ邑華は「なんでもっと早くに教えなかったの!」と怒るほどで。
「誰の耳があるか知れないもの、それはわかるわ。でもね、夜斗。女の子一人を貴方だけで育てるなんて難しすぎるわよ。それにいずれ月のものが始まったらどうするの?対処できる?本を読めば何とかなると思ったら大間違いだし、貴方がそんな本を買い求めること自体、不審がられるわよ」
「つ……きっ……」
思わず赤面する夜斗に邑華もあまりにも年頃の女の子が言うには、はしたなかったと思い至り、ほんのりと顔を赤らめた。
「と、とにかくっ、女の子の協力者は必要よ!……緋巳斗にも言わないほうがいいわね。心配かけちゃうし。それから、と。よろしくね、柚葵」
そう微笑した姿は幼い柚葵の心をつかむには十分すぎて。
「邑華が私のお母さんで、夜斗は私のお父さんよ」
いつだったか、柚葵がよく言っていた。そう柚葵が無邪気に笑う度に邑華も夜斗も照れたように互いを見て笑う。
この幸せが続くことに何の疑問も抱かず、柚葵を真ん中に3人で手を繋いで。
ただ長命な種族と言われる邑華や夜斗とは違って、柚葵はそうではなかったようで。
悲劇は12年後に起こることになる。
──12年後。
夜斗や邑華は種族としての特性のため、ほとんど外見上の年齢が変わることはなかったが、柚葵は夜斗や邑華と同じくらいの外見年齢にまで成長した。
鳶色の短めのふんわり柔らかそうな髪と、ツリ目気味でしっかりしているように見えて少々危なっかしいほどにふんわりおっとりしていることに変わりはなかったけれど。
「夜斗!」
柚葵が突然抱き着いてきたため、夜斗はそのまま反射的に柚葵を抱え込むようにしたものの受け止め損ね、華奢な体を抱きしめたまま後ろ向きに倒れこんだ。
夜斗の背中に鈍い痛みが走る。思わず「いたた……」と情けない声を上げ、「どうしたの?」と腕の中の柚葵に問えば、柚葵はふんわりと幸せそうに笑って夜斗にしがみついた。
「夜斗……!邑華と会ってきたんでしょう?どうだった!?邑華、次はいつ来てくれるの?」
「柚葵、落ち着いて……。まずは何て言うのかな?」
そう言いながら柚葵を立たせる。
目を覗き込むようにすれば柚葵はにこりと花が咲くように笑った。
「夜斗!おかえりなさい!」
「ただいま。それにしても柚葵は昔から邑華が大好きだね」
「夜斗のことも大好きよ?だからね、夜斗。私、夜斗と邑華と3人でお昼寝したりしたいの。外へはね、行かなくてもいいの。夜斗と邑華と一緒にいれれば私は幸せだもの」
「柚葵……」
「だから夜斗も同じベッドで眠りましょう?」
一瞬ほだされかけたが、続いた言葉に我に返り夜斗は顔を赤らめた。
女性と同じベッドで眠れるわけがないし、一応自分は聖職者だ。
「……柚葵、何度も言うようだけれど私は男で、柚葵と邑華は女性だよ」
「でも小さい頃は夜斗一緒に寝てくれたわ。今だって時々一緒に寝てくれるじゃない」
あまりにも小さい頃から一緒に暮らしていたこともあり、柚葵の夜斗への信頼は絶対だ。
こんな風に言い募られると困ってしまう。
「だからね、それを卒業しないと。柚葵は今は私たちと同じくらいの年齢なのだから」
「だって!夜斗が好きなのだもの。駄目なの?」
「駄目、というか……。ね、柚葵?」
思わず小さく息を吐く。柚葵には悟られないように。
外見年齢が16、7歳の男女が何故こうして一緒に寝る寝ないで問答しなくてはならないのか、とも正直思う。思うが、その思いを飲み込んで、間違って傷つけてしまわないよう、かつ解ってもらえるように慎重に言葉を選ぶ。
そこに助け舟を出すように教会の外から聞き慣れた声がした。
「夜斗、私よ!」
「邑華!」
嬉しそうに声を小さく上げたのは柚葵で。
「静かにしているので2階の自室に邑華を連れてきてね」と無言で訴える柚葵に苦笑して本堂に降りていく。
用件は先程会った時に返しそびれた本と、邑華の母親から夜斗へ渡すよう頼まれた夕食の御裾分けだった。それを有り難く受け取ってから中へ入るよう促すと、邑華は勝手知ったる様子で2階の居住スペースへと向かう。
向かう途中で、夜斗の顔をちらりと見遣り溜息を吐いた。
「また柚葵と例の問答?」
「うん」
「いい加減にちゃんと断りなさいよ。多少傷つけてもいいじゃない。ただでさえ狭い世界で暮らしているのだもの。優しいだけの世界では柚葵のためにならないわ。柚葵だっていろんな感情を知らなきゃ」
「解ってるよ」
誰よりも大事にしたい、ほんの少しの傷もつけたくない。それはあくまで夜斗が願っていることで、柚葵自身が「傷つけられたくない、優しい感情しか知りたくない」と言ったことは一度もない。
仕事をしていることもあり、小さい頃から部屋で一人ぼっちでいさせることが多かった。ほかの子供のように外へ出かけて友達を作ることも許されず、自由を制限している。だからこそ夜斗や邑華を見た時の柚葵の喜びようは今も昔も変わらない。
けれど、そのことは柚葵を優しいだけの世界で生きさせることへの言い訳にはならないことなど夜斗にも解っていた。