雨と爪紅 心の傾きはままならないものだ。
たった今爪紅を直しおわった両手を眺め、加州清光は深く息をついた。紅の扱いは慣れたものだったが、筆を手にしている間はつい息を詰めてしまう。はみ出しも斑もないことを確認すると、加州はわざと満足気な顔を作って道具箱の蓋を閉じた。顕現して長い身だ。筆だけでなく、自分の機嫌をとるのにも慣れている。
今日は非番だった。だからこうしてゆっくりと爪紅を直していられる余裕がある。とはいえこんな日でも慌ただしく出陣しなければならなくなることはあるから、加州が使っているのは速乾性の優れた品だったが、それでも乾くまでは手先を使う仕事はできない。待つ間に何をしていようかと辺りを見渡すと、襖を開け放した続きの間の向こう、今まさに盛りの庭の桜が目についた。今日は雨空だが、外につながる雨戸と障子を開けていても身に沁みるような寒さはない。ぬるい空気を纏わりつかせながら立ち上がり縁側に移動する。縁側に腰かけ、敷石の上の下駄を足で引き寄せて履いてみたが、そこから立ち上がる気にならない。座ったまま枝ぶりを見上げる。庇のすぐそばまで枝を伸ばした桜は、雨粒の重みに少し揺らされてはらはらと花弁を落としていた。花見をする前に散ってしまうかもしれない、と残念がりそうな面々をぼんやり思い浮かべる。毎年変わらずに咲く花に一喜一憂してしまうのだから難儀だ。心は些細なことでくるくると変化してしまう。今日の加州のこの沈んだ気分だって、きっかけは本当に些細なことだったのだ。主の予定が変わってお茶の約束が延期になった、それだけ。それだけのことでも小さな躓きのもとになってしまうし、その上にこの雨だ。気分を持ち上げたくて精一杯身だしなみを整えているが、見せたい相手も出払っている。恨めしい水滴は、地面に落ちると爪先で跳ねてすこしくすぐったかった。
ふいに庭木の向こうに鮮やかな赤が現れた。そちらへ目を向けると、どうやら誰かの傘のようだった。雨の日にわざわざ庭を散策しているものがいるのだろうか。物好きだな、と思う。加州は雨が苦手だった。戦場なら足場が悪くなるし、そうでなければ髪や服を気にしてしまう。人の姿であってもついつい錆の心配もする。そういった理由からか雨は憂鬱なものという印象だった。今だって濡れた緑が鮮やかなこの庭に何となく情趣を感じてはいるものの、自分が濡れてしまうのは御免被りたいところだ。傘を目で追っているとそれは次第にこちらへ近づいてくる。傘の主は濃鼠の羽織を着た大般若長光だった。無彩色の着物の下に傘と同じ赤色の襟と袖が覗いていて、はっと目を引く出で立ちだ。それは庭を歩くだけにしては随分気合の入った格好に思えた。そういう加州も今は気に入りの着物を身に着けているのだが。
「やあ。」
大般若は加州を認めて声をかけ、敷石を踏んで加州の目の前までやってくる。
「大般若。庭を見てたの?雨なのに。」
「雨だからこそ見られる景色もあると思ってね、加州もそうじゃないのかい?」
「まあね。でも俺は濡れたくないから。」
「そうか。いいものだけどね。」
軒下に入って傘をたたむ様子を見ながら、加州は気になったことを尋ねてみた。
「その恰好はどうしたの?」
「おや。何かおかしいかい?」
「いや、決まってるけど、誰かに会うのかなって。」
「はは。美しいものに向き合うときはこちらも相応の装いをしないとね。」
へえ、そういうもんか、と曖昧に頷く。長船派の刀剣男士が身だしなみに気を遣うことはよく知っているが、彼らの見た目を整えることへのモチベーションは加州のそれとは異なるように感じる。
「でもやっぱり、俺は人の手で作られた美しい物を愛でるのが向いているかな……あんたとかね。」
「すぐそういうこと言うなあ。ま、でもありがとね。」
今でこそ彼のこういった軽薄とも取れる言動にも慣れてしまったが、知り合った当初は加州もいちいち照れさせられたり呆れさせられたりしたものだ。ほんとさ、とくだけた調子で笑う大般若を軽く睨んで見せると、大般若はするりと加州の右手を取って言った。
「その爪だって今日塗りなおしたものだろう。」
「えっ。」
目を見開く加州に、大般若がにい、と唇の端を持ち上げる。
「よく手入れされているものはわかるものだよ。」
何故わかったのだろうかと自由になった右手を見つめていると大般若が続けた。
「あんたは美しいし、そのための努力もしているんだ。胸を張っていればいいのさ」
加州は顔を上げた。その言葉はすとんと胸に落ち、同時に大般若の賛辞を軽く受け流したことが悔やまれた。
加州を見下ろしている大般若の髪に桜の花弁がひとひら乗るのを見届けながら、弁明のように口を開く。
「あー、せっかくこっちの棟まで来たし、お茶でもする?」
「おや、いいのかい?それじゃ、あがってくよ。」
加州が丁寧な所作で下駄を脱ぎ室内に入ると、大般若も傘を縁側に立てかけて後に続く。
気に入りの着物を着ていてよかったと思った。大般若はいつでも真面目に美を愛しているのだ。庭が見える席で、きちんと手順通りに淹れたお茶を出そう、と決める。いつもは菓子鉢に乱雑に入っている茶菓子だって今日は可愛い皿に盛ろう。お茶の支度をあれこれと考え始めると、大般若が「ご機嫌だね。」と笑いかけた。「俺のお節介が過ぎたかな。」
全くその通りだ、と加州は苦笑する。大般若のお節介のおかげで可愛い着物も爪紅も沈んだ気分のままでは見られなくなってしまった。こんなに簡単に浮き立つのだから、やはり心というものはままならない。