髭剃りは現地で買え 旅をすれば人生が変わる、などというのはあまりに短絡的な考えだというのがドラルクの持論だ。何かと便利になった現代ならなおのこと。海を越え国境を越え辿り着いた異郷の地で自分の人生には波一つ立てずぬくぬくと楽しんでから五体満足のまま帰ってくることはそう難しくない。
他でもないドラルク自身がまさにその手合いだ。これまで御真祖様に連れられて随分あちこち行ったが、それで何か成長した手応えは一つもない。旅先には毎度ホイホイ別荘が建つ上に過保護なドラウスがついているのだからさもありなん。ジョンと出会った南米行きは例外と言えなくもないが、あの旅を経てドラルクが学びを得たのはひとえにジョンが追いかけてきたからに他ならない。もしもジョンの勇気がなければ、今でも独りよがりな保身を愛と思い込んだ青二才のままだっただろうとしみじみ思う。生き方を大きく変えるような旅をしたと言えるのはむしろジョンのほうだが、それにしたって旅が成長を促したのではなく、彼の成長が旅を求めたのだ。
結局、旅によって人生変わる変わらないは本人次第というわけである。変わるべき者は四畳半のワンルームでも大転回を迎えるだろうし、そうでない者はインドで河に浸かろうがアメリカでヒッチハイクしようが停滞したままだろう。
緑豊かな南の島、さんさんと降り注ぐ太陽と咲き乱れる花々が眩しい。遠い潮騒と風の音がさやかに耳をくすぐる中、ロナルドがぽつりとつぶやいた。
「一度行ってみたい場所がある」
ドラルクが続きを促そうと覗き込んだ瞳は、空と海の色を映し込んで前を向いたままだ。
「ほう……おいそこモルフォ蝶いるぞ! 走れ走れ」
「えっどこ!?」
ロナルドがガチャガチャとコントローラーを操作する。珍しく仕事も締め切りもない夜のゲームタイム、多忙な個人事業主が束の間のバカンスに選んだのは、天下のヌンテンドー製4.5GBの夢の島だった。
テレビ画面の中ではロナルドそっくりな二頭身のアバターが植生のイカれた森でせっせとどうぶつを集めたり虫を捕まえたりと忙しい。その頭上に広がるのは梅雨入りした今夜の新横浜とは対照的な抜けるような青空。本来はリアルタイムに連動しているゲームだが、ロナルドが「夜遅くにみんなの家入るのって遠慮する」と言ったのをきっかけにドラルクが本体設定をいじってやったのだ。
そんな折のことだったので、ドラルクはてっきりロナルドがイベント限定マップに行きたがっているのかと思ったのだがどうもそうではないらしい。
「ほら、このゲームって通信した時に他の人の島の名前も見えるじゃん? 色んな人が島にそこの名前つけててさ。よっぽどいい場所なんだろうな、いつか行けたらいいなって」
「そんなに行きたいならいつかと言わずさっさと行けばいいだろう。それとも飛行機も飛ばないような奥地なのかね?」
「さぁ、調べたりとか全然してねぇし。名前だけ知ってて何となくいいなって思ってるくらいで……多分ヨーロッパ? とかだし」
まぁ縁がねぇよなとロナルドは長い睫毛を伏せる。憧れにどこか諦めを滲ませた表情に、ドラルクは顔を顰めた。何を一人で勝手にしんみりしてるやら。ロナルドと来たらいつもこうなのだ。色々な憧れを勝手に自分とは縁遠いと一人決めしてしまう。
いつだったかギターを弾けるようになりたいと言い出した時もそうだった。フーン君ゴリラの割に器用だしやってみたら?と答えたドラルクは即座に殺され、できない理由と一緒にさんざんこねくり回された。成り行きでポールダンスを覚えるくせにギターは諦める感性がドラルクには理解できないが、押し入れの奥に真っ赤なストラトキャスターがいかにも黒歴史ですとばかりにしまいこんであるのは知っているので次の脱稿ハイの時に渡してみようと決めている。
それよりもドラルクが気に入らないのは、ロナルドが自分との関係を変えるにあたっても同じような諦めを見せたところだ。明らかに気がある素振りを見せる癖に一人でもじもじうだうだ考え込んで、どうせ可能性ないし今のままで良いなどと周囲にこぼしていたことは記憶に新しい。そのままいけば弱気な若者の初恋は赤いギターと同じ道を辿っていただろうが、ドラルクはギターと違って知性と感性を備えた主体であるので、仕舞い込まれてしまう前に自らロナルドに手を差し伸べてやった。梅雨入り前に生活の新たな一ページが開いたのはひとえに自分の慈悲深さのおかげであるとドラルクは自負している。一般的には焦れたとも言う。
「だったら調べてみればいいだけだろう。その麗しの地はなんというんだね」
私も知っている場所だったらアドバイスくらいできるよと告げると、フィールドの木を無心に揺さぶっていたロナルドが目を丸くしてドラルクに向き直る。やや躊躇いがちに唇が開き、その地の名を告げた。
「ランゲルハンス島ってんだけど」
「おい本気か若造」
出し抜けにコミカルな打楽器の音が響いた。テレビ画面に視線を戻すとロナルドのアバターがハチに追い回されている。慌ててコントローラーを持ち直すが時すでに遅し。ハチの猛攻が去ると共に気の抜けたBGMが流れ、画面がブラックアウトした。
ランゲルハンス島とは膵臓にある内分泌腺だ。日本語では膵島という。インスリンやその他重要なホルモンを分泌する器官で、命名の由来は発見者であるドイツ人の名前だがよく地名と勘違いされている。ロナルドが見たのはそのあるあるネタを引っかけたユーザーの仕業だろう。いかにもゲーマー好みの洒落である。
「というわけでランゲルハンス島は君が考えるような素敵なリゾート地ではない。しかしよくもまぁこんな使い古されたネタに引っかかるもんだ。ッフフ、島名つけた人が知ったらきっと手叩いて喜ぶぞ」
「喜んでんのはテメェだろ! ウェーン俺の夢を返せ!」
「ファーー私のせいじゃないし人前で言って恥をかかずに済んだ分むしろ感謝すべきでは? まぁ強いて言うなら君のランゲルハンス島はいい所かもな、健康的な意味で。御真祖様に頼んで『自分の目で確かめる日帰り体内ツアー〜君の膵島に行きたい〜』でもやるかね」
「ヒット作っぽく言うんじゃねぇ!あとじいさんなら本当にやりねないからやめろ! にしてもマジか……どっかねぇかないい所。この際国内でもいい」
真実を知ってもまだ未練がありそうな様子のロナルドはコントローラーを放り出し、スマホに「旅行 楽しい」とまるで意味をなさない検索ワードを打ち込み始めた。
「にしても君、なんで急に旅行なんて行きたがるんだね?」
この若者は仕事がないと何をしたらいいのか分からないと本人も言う通り、原稿の現実逃避にダラダラすることはできても自分でやりたいことを見つけるのはてんで下手くそなタチである。見当違いだったにせよ、こうしてやりたいことをはっきり言い出すのは珍しい。
「別にはっきりした理由とかねぇけど……俺ら付き合ってんじゃん?」
「そうだな。君がどうしてもと言うから」
「それはテメェもだろ!?」
そうじゃなくて、とロナルドがやや声を落として切り出す。
「ちょっと前まではお前とこ、恋人になるとか考えらんなかったけど、なんでか今はそうなってるだろ? もしかして、自分が相応しいと思ってなくても手が届くものって意外とあんのかなって。そんなら他にも知らない所行ったり、新しいことしてみようかな、的な……」
はにかみ混じりに語られたロナルドの主張は理屈が通るようで通らない。その飛躍がいかにも初々しい。自分との恋でほんの少し強気になった若者を前にドラルクの胸に愛しさと面白さが込み上げ、後者が勝ったので指差して笑うことにした。
「アッハッハッハ自分探しする大学生みたいなことを言いよる」
「二百年モラトリアムおじさんに言われたくねぇよ!」
「まぁしかしなんだ、遊びに行きたいだけでもないというわけか。新しいことがしたい、ねぇ……」
旅行がしたいと聞いたとき、ドラルクはドラウスに頼んでトランシルヴァニアの城に連れて行こうかと考えていたのだ。それなりに知った顔ぶれの中で安心安全なバカンスを楽しませて、ちょっとしたお土産とともに帰ってくればいいだろうと。その方がドラルクも楽だ。けれど、いま目の前の若者に必要な旅はそれとは少し違う気がした。
「気が変わった!」
ドラルクはマントを翻し立ち上がった。スマホを取り落としたロナルドににうるせぇと殺されたがそんなことでは止まらない。
「今日からボルンガを拠点にして十日間のヨーロッパ旅行を敢行する!」
「今日から!? 俺じゃあるまいし」
「自覚があるなら直しなさいよ」
ボルンガなら何故か新横浜空港から三十分で着く上に日本語も通じやすい。何より一度行ったことがあるから海外初心者のロナルドでもなんとかなるだろう。とりあえずヨーロッパまで行ってしまって、そこからぶらり気ままに旅してみようという算段だ。
「いや仕事とかどうすんだよ!」
「依頼予約はしばらく入ってないだろう。このまま休業のお知らせを出そう」
「でも、他に長く休んでる奴いないし……」
「じゃあ君が先駆者になればいい。私と一緒に旅行して、帰って来たらみんなに土産話でもしてやりたまえ」
「ハァ!? さんざん留守にした挙句そんなことしたら完全に煽りじゃねぇか」
喚くロナルドの眼前に、そこだよ君、と白手袋の指先が突きつけられた。
「誰かが羨ましがったらその人にも休暇を勧めるのさ。仕事の穴は俺が埋めると約束してね」
常にフルメンバーがいる前提で働くより、遊びにせよ急用にせよ誰かが居なくても動ける体制を整えるべきなのだ、今こそ働き方改革だと就労経験のない吸血鬼が言い募る。
「そもそも新横浜の退治人は働きすぎなんだよ。吸対やらVRCやら専門機関がコンビニ並みの近さにあるんだぞ? 君が休んだくらいで平和が揺らぐならこの街の行政機能は終わっとる」
「治安は既にクソ悪いけどな。まぁ梅雨で退治は減ってきてるし、タイミングとしてはアリ、なのかも……?」
心が傾き始めた様子のロナルドの肩に頭をもたせかけながらドラルクは誘惑を続ける。
「で、どうする? ドイツでビールとソーセージ禁止グルメツアーとかする? フランスで虫取りでもいいぞ」
「遊び方がクソゲーじゃねぇか! 何が楽しくてそんな王道外しみたいなことしなきゃなんねーんだよ! いやおしゃれな名所とか行くのも結構勇気いるけどさぁ、回りきれる気もしねぇし……」
「クソゲーなものか! ドイツの酒はビールだけじゃない、生産量は多くないが甘口の高級ワイン作りが盛んだぞ」
「そ、そうなのか?」
「そうとも。フランスにしても君は勝手にパリと決めつけてるんだろうが、お好みによっては自然豊かな南の方で羽を伸ばすのも良いだろう。ファーブル昆虫記は読んだことあるかね?」
「おう、ガキの頃けっこう好きだったわ」
「彼の研究は南仏で行われていたんだ。田園豊かなアビニョンにコルシカ島。見どころは他にも色々あるけれど、とくにコルシカは海が美しい!」
事実は小説より奇なりではないけど、あれよりもっと鮮やかな海を見に行こうじゃないか、とテレビ画面を指さした。
「まぁ今のはあくまで喩えだがね。要するに旅行なんて好きなところで好きに過ごせばいいんだよ。スタンプラリーじゃないんだから」
「そう言われるといけそうな気がしてきたな……まぁ、お前と一緒なら詳しそうだし」
「あ、言っとくが私は色んな国に行っても宿でゴロゴロしてたタイプだから市街地や観光地の土地勘は一切ないぞ」
そこんとこヨロシク、と言い終えないうちにドラルクの脳天にチョップが落ちる。
「はぁ!? ってことはお前、あれだけ偉そうに講釈垂れといて全然使えねぇんじゃん!」
「当たり前だ! 私が向こうにいた頃は今よりずっとキナ臭かったんだぞ。外国の知らん街を歩けたのなんて強くて単独行動できるごく一部の強いやつだけだ。っていうか身近な海外出身者がみんな都合の良い通訳兼ガイドになると思うなよ!?」
私以外にやったら嫌われるやつだからな!と捲し立てると、剣幕に押されたのかロナルドははっきりしない唸りを発した。ややあってきまり悪そうに口を開いて曰く
「……ってことは、お前は俺のこと嫌いにならねぇの?」
「君だんだん図々しくなってきたな!」
卑屈に振る舞われるのも気に入らないが、言葉尻を都合よく捉えられるのもそれはそれで腹が立つ。かと言ってあながち否定もできずドラルクは歯噛みした。
「でも、そっか。海外なんて別世界みたいに思ってたけど、行こうと思えば行けるんだよな」
そうとも、とドラルクは気を取り直し、歌うように畳み掛ける。
「どこへ行ったって吸血鬼がいて人がいて、変な奴もいるのは新横と変わらん。まぁ、行ったらきっと愉快な目やひどい目にあうだろうな。いつも通り、一緒にだ」
一緒に、を強調しながらロナルドの目を覗き込む。緊張した面持ちの恋人に挑発的な笑みを向け、顎についと指を添えて仕上げにかかった。
「それとも、頼れる誰かに手取り足取りお守りしてもらわなくっちゃあ、怖くてとても行かれないかい?」
「そ……」
ロナルド君はやや躊躇った様子だったが、やがて意を結したようにドラルクの目を真っ直ぐ見返した。
「……んなことねぇよ上等だ! 行ったらぁ海外、待ってろヨーロッパ!」
拳を握って立ち上がった様子はさながらひとりでお使いできるもんと踏ん張る幼児のごとし。頼もしいね、とドラルクは笑う。
「よし決まりだ! ジョン、それを食べ終わったらすぐ入れそうな旅行保険を探してくれるかな?」
「ヌッヌー!」
カゴベッドでごろごろしていた使い魔はおやつの最後の一口を頬張ると、ドラルクのパソコンをてきぱき操作しはじめた。簿記を持っているマジロの仕事に間違いはないだろう。その間にドラルクは最重要人と交渉を進める。
「もしもしフクマさん? 突然ですがロナルド君を取材旅行に行かせませんか? ええ、今から十日ほど。ロナルドウォー戦記ヨーロッパ編です。パソコンは持たせますから」
「海外ロケですか、良いですね。舞台が変わると読者も盛り上がると思いますよ」
横からロナルドが口を挟む間もなく、素晴らしい原稿をお待ちしていますと言い残してフクマの電話が切れた。
「あっあっあーー!! おいバカ、まだ心の準備が」
「整うまで待っとったらいつまでも出発できんわ! せめてもの情けだ、旅券の手配まではやっといてやる。君は鞄にパンツと財布とパスポートを突っ込みたまえ。あとパソコン忘れるなよ」
新横浜空港からボルンガ行きのチケットを予約し、愛用しているボストンバックで荷造りを済ませる。ギルドに連絡を入れ終えたロナルドを見ると細々した日用品を持ち出そうとしていたのでいらんいらん現地で買えとせっついた。一時間もしないうちににっぴきそれぞれ支度が整い、メビヤツ、キンデメ、死のゲームに慌ただしく行ってきますを告げてビルを出た。雨上がりの匂いがする道を弾む足取りで行く。
「そうだ。現地での過ごし方だが、好きに過ごせとは言っても一人で出歩くのが心細いからって私が起きるまでホテルで籠城するのはナシだぞ」
「えっ!? いや別にテメーがいなくても全然平気だけど、なんで……?」
まさにそうするつもりでしたと言わんばかりの表情にドラルクはやっぱりなとため息をつく。
「バカンスは楽しんでなんぼだ。本気でホテルを満喫したいなら構わんが、君は動き回るのが好きだろう? それを言葉が分からんから恥をかきたくないとかケチな理由で控えるのは私の美学に反する」
「なんで遊びに行くのにスパルタ式なんだよ!」
既に半泣きのロナルドをまぁまぁと宥めながらドラルクは続ける。
「日が沈んだら私も表に出るよ。君が昼間に見つけた場所へ行っても、私が夜に行きたい場所を訪れても良い。知らない街をまともに観光するのはこれが初めてになるな」
私もちゃんと心細い思いをするからこれならフェアだろうと問い掛ければ、ロナルドは口を尖らせつつも頷いた。
リスクを冒して新たな世界と出会うことに価値がある、などという暑苦しい理屈は本来ドラルクの趣味ではない。しかしこの町に来てからそんな文句は今更だ。どうせ碌な目に遭わないのなら、大きな舞台に出て楽しんでしまえばいい。
君と出会ってから私は毎日が旅だ、せいぜい同じ目に遭うといい。胸の中でひとりごちて、吸血鬼は旅行鞄を抱え直した。