紫煙国広がその近くを通ったのは偶然だった。喫煙所。そんなものがあることも忘れていた。
秋から冬への間の寒い日で、国広は出陣帰りの火照りを冷まそうと風通しのいい渡り廊下をぶらついていた。
木枯らしが国広の纏う布を揺らしていく。寒いが、気持ちの良い晴天だった。
ふいに気配もなく伸びてきた手に腕を掴まれて立ち止まった。こんな不躾なことをする刀を国広はひとふりしか知らない。
「……なんの用だ」
うろんげにたずねた声をまるで気にしないといった風に山姥切長義は国広の腕を引く。
「用というほどのものではないかな。ちょっと付き合いなよ」
この刀に「ちょっと」と言われてちょっとで済んだ試しがない。国広はよほど断ろうかと思ったが、断ればしつこく嫌味を言われることも簡単に予想できてしまった。一瞬悩んで、結局諦めた。下らない用ならそのとき考えればいい。
知っている。「山姥切長義との接し方のこつはある程度こちらが妥協すること」。
近頃俺は南泉に似てきてはいないか?と脳内でひとり問答したが、頭の中の南泉一文字は「あきらめろ」と首を振るだけだった。
「偽物くん、お前、なにか妙なことを考えたな?」
「写しは偽物ではない。別になにも」
言葉少なに否定する国広を長義はじっと見つめて「ふうん。まあいい」とつぶやいた。なにがいいのか国広にはまるでわからないが、この刀はときどき鋭いところがある。さして長くはない付き合い(ほとんどが不本意だが)で学んだ。
長義は国広の腕を掴んだままぐいぐいと引っ張っていこうとする。
「待て、どこへ行く」
「すぐそこだよ」
言われてたどり着いたのは喫煙所だった。庭の隅の目立たない場所。小さな四阿の中央に円柱状の灰皿が置かれている。
はて、こんな場所あっただろうか。不思議に思いながら見回していると「お前も吸う?」という質問と同時に目の前に銀色のシガレットケースが差し出された。
「いや、俺は吸わない」
「本歌の誘いを断るなんてつまらない写しだね」
断った国広に長義はボヤいて一本くわえると、ジッポーライターで火を点けた。
すぅ……と深く吸って、吐く。紫煙は風に流されすぐに消えていく。
国広は煙草を吸わない。正確に言えば吸いたくない。煙の臭いが苦手なのだ。だから思わずきいていた。
「それ、美味いのか?」
「美味くはないな。お前も吸ってみればいい」
「遠慮する」
「そうか。まあ、大人の楽しみだからね」
クスクスと笑う長義は明らかに国広をからかって楽しんでいる。国広は少々むっとして言った。
「子ども扱いするな」
「してないさ。子どもをこんな所に連れこまない」
「……用がないならもう行くぞ」
立ち去ろうとしたそのとき、長義の革手袋に包まれた片手が伸びてきて、国広はあごをとらえられた。
「なにを、うっ……」
真正面からふぅーっと煙草の煙を浴びせられて国広は咳きこんだ。
煙が目に染みる。涙目でケホケホと咳をする国広を、長義はうっそりとした笑顔を浮かべて見つめている。
「や、山姥切、なにをする……」
「そのボロ布の下、気づいてないと思ったのかな?偽物くんはさっさと手入れを受けてきなよ」
長義は最初に掴んだのとは反対の腕を示す。
「かすり傷だ。手入れをするほどでは、」
「俺の機嫌が悪くならないうちに行けと言っているんだよ」
長義は煙草をくわえたまま追い払うような仕草をした。顔は笑っているが声に怒気が現れている。
「さあ、行きなよお子様くん。いまなら逃してあげるから」
長義のただならぬ様子に気圧された国広はなにも言わずに駆け出した。逃げるようで癪だが、どうもそんな意地を張っている場合ではないようだと気づいたのだ。
手入れ部屋へと走りながら、国広は今更のように傷がうずきだすのを感じていた。
駆けていく国広のボロ布がひるがえる様をながめながら長義は紫煙を吐き出した。
「まったく、世話の焼ける写しだ」
吸って、吐いて、灰皿に灰を落とす。頭に昇った血もこれで冷めてくれればいいが。
出陣後の高ぶっている写しにあてられるなんて、自分もまだ青いのかもしれない。それにしても鈍い写しだ。
「はあ、さっぱり通じていないとは」
あの様子では煙草の煙を吹きかけられる意味など知らないだろう。
「わかっていたさ、そんなことは」
己の写しに駆け引きであっさり敗れるなんて。本歌の矜持に傷がつく。このことは胸にしまっておこう。
「本歌の誘いを断るなんて、本当につまらない写しだよ。偽物くん」
そうひとりつぶやいて、煙草を灰皿に捨てた。