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  • うめみや Link 人気作品アーカイブ入り (2022/07/13)
    2022/07/10 16:59:00

    俳優パロド

    #ロナドラ

    more...
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    しおり
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    しおり
    俳優パロド 鮮烈なデビュー、なんて煽り文句がある。多くは鳴り物入りでデビューした新人の煽りに使われるような文句だけれども、確かに彼や彼女らの初舞台の華々しさったらない。ドラマでも舞台でも、その日は一番の化粧をして、緊張でガチガチになったり浮き足立って夢見心地になったりして、夢にまで見た世界への一歩を踏み出す。うん、素晴らしいことだ。なんて鮮やかで刺激的なんだろうと、何度もデビューの瞬間を見てきた今でも思う。
     けれども一方で、頭のどこかの冷め切った部分では「この人はいつまでこの輝きを保っていられるのかな」とも思う。
     人の容姿は衰える。いくら強烈な美貌や個性であったって、経年劣化には耐えられない。芸能とは、舞台とは、魂を燃やして身体をすり減らす世界だと、そう僕は教わった。元から衰えかけていた自分の容姿が、この時ばかりはありがたかった。僕は芝居の方に集中できたから。
     輝かんばかりの光を放っていた瞳が疲労と利権で曇り、溌剌としていた表情がプライドと傲慢さに塗れていく。ここ十数年、「鮮烈なデビュー」を飾った新人たちの、そんなところばかりを見てきた。僕もまた先輩役者たちのように、まあ、そんなもんだろうと、澱が溜まっていくばかりの業界の現状を、他人の顔をして諦念まじりに眺めていた。
     しかし彼ばかりは違った。
     彼のデビューこそは「鮮烈」と称するにふさわしいものだった。
     モデル上がりの俳優だという彼は、確かに美しい顔立ちと均整の取れた至高の肉体を持っていた。けれども彼の真なる価値は、そんなところにはない。何より僕を惹きつけて止まなかったのは、キラキラと、夏の日差しのように煌めくアイスブルーの瞳の輝きだった。
     初めて彼を見たのはテレビ画面越しだった。滅多に見ないテレビの電源をつけたのは、知り合いの脚本家が連続ドラマのシナリオを担当することになったのだと聞いていたからだ。彼の話は実に面白い、僕好みのものばかりだったから、放送日を指折り数えて楽しみにしていた。何やら番組欄では「絶世のイケメン俳優、ドラマ初出演にして初主演!」なんて煽りがついていたような気がするが、僕の記憶には残っていない。後から父や祖父に聞いて、彼にそんな煽り文句がついていたのだと知ったくらいだ。
     だからこそ、演じる俳優や女優に気を取られていなかったからこそ、画面越しに彼と目が合った時の衝撃は凄まじいものだった。いや、身体に電流が走るとはまさにこのこと、全く参考になった。
     女優に向かって、エキストラに向かって、俳優に向かって、笑い、怒り、とぼけて落ち込んでみせる。仕草は素人臭さが抜け切らずぎこちないが、脚本はその点も演出として上手く昇華してしまっていた。仕草はともかく動きは軽やかで、彼が何を喋っていても視線が吸い寄せられる。華があるとは、ああいうことを言うんだろう。
     気がつけばかぶりつくようにしてテレビモニターに見入っていた僕は、流行りのアイドル(多分)がエンディング曲を歌い始めたところで、ようやく正気を取り戻した。慌ててクレジット欄で彼の名前を探すが、うっかり見過ごしてしまったらしい。流し見て脚本を楽しむだけのつもりでいたから録画もしていない。焦ってスマホに手を伸ばし、ちょうど脚本家として画面に名前が流れているところだった業ちゃんに電話をかけた。
    「おうドラちゃん、お疲れ! この時間に電話してきたってことは、観てくれたんだろ?」
    「もちろんだよ業ちゃん! 初っ端から本当に面白い……いや、それは当然なんだけれど、ちょっと聞きたくって」
    「うん? 何を」
    「えっと、この主演の男の子……銀髪のカツラかな? それにブルーの……」
    「おお、ロナルド君な! あれ地毛だとよ、目もカラコンなしで……いやあ、画面越しでも迫力あったなあ!」
    「ロナルド、君」
     ロナルド君、それが彼の名前か。たったの一瞥、それも画面越しで私の胸をぶち抜いた君。
     いいなあ、と言葉が口をついて飛び出した。誰に聞かれるものでもないけれど、咄嗟に口を覆ってしまう。そのままちらりとテレビ画面に視線を戻して、その中にもう一度彼の余韻を探そうとした。
     いいなあ、ロナルド君。とっても素敵だ。役者どころか、今まで出会った人の中に、彼ほど強烈で美しい人はいなかった。まさに鮮烈、まさに衝撃、太陽のような輝きを持つ子。
    「……一緒に芝居ができたらな」
     思わず呟いた自分の言葉に苦笑する。いけない、素敵な人を見たらいつも同じ舞台に立つ夢想をしてしまう。僕のような二流……いや三流役者ごときが、こんな煌びやかな俳優と同じ板に上がるだなんておこがましい。

     気がつけばもう遅い時間だ。明日は朝から打ち合わせと、そのままいつもの劇団メンバーで稽古がある。僕は今回も脇役だけれども、小道具の製作や衣装も担当しているから、のんびりとはしていられない。素敵なものを見た幸福な気持ちのまま眠りについてしまおうとベッドに潜り込んで、やっぱりちょっとだけ気になって、スマホで彼の名前を検索する。調べれば調べるほど、彼の優れた容姿、俳優としての勢いなんかが情報として目に飛び込んできて、乙女のように胸が高鳴る。これではすっかり彼のファンだ。歳下のイケメン俳優に夢中になる芝居が趣味のおじさんなんて、どうしようもないなと笑みが溢れる。
     それでも──もし何かの間違いで、僕とロナルド君が同じ舞台に上がることがあるのならば。
     その時は、僕の知りうる限り最高の演出家と脚本家を呼んで、夢のように踊るように、この世の楽しさばかりを集めた舞台にするのに。

    「ショット……俺はもう駄目かもしれねえ……」
    「ハイハイハイ」
    「お、俺……俺の演技はまるで生ゴミ……! かかしの方がよっぽど良い演技をする……!」
    「かかしは喋らねえけど」
    「うっうっ……! こ、こんなんじゃ今日もドラさんとのシーンなんて撮れねえ……またNG連発して慰められ………………アリ」
    「ナシだよ馬鹿! おーいサテっちゃん、このイケメンそっち持ってって」
    「うーん、こっちにもいらねえ」
    「おおん俺はいらない子……無用の人……ただただ顔がいいだけの男……」
    「それはそう」
    「間違っちゃいない」
    「最後までフォロー入れろよなあ!!」
     ガバッと顔を上げた拍子に、肩にかけていた赤いジャケットが床に落ちた。慌てて拾い上げて埃を払う。衣装のジャケットの中でも防水になっているのはこれだけだから、下手に汚したらこれからの撮影に支障をきたす。すでに袖口は綻びかけていた。あーあ、また衣装さんに直してもらわないと……いや、衣装さんでなくても、ドラさんならちょちょいと直してくれちゃうんだろう。
    「う……ドラさん…………好きだ……」
    「オッ発作か?」
    「結婚してほしい……」
    「ウノする? 半田君も一時間くらい間あるだろ」
    「え、いいんですかロナルドさん放っておいて」
     俺たちと同じく休憩に入った半田君を輪に入れて、ショットたちは薄情にもカードゲームを始めようとしていた。ふん、いいさ別に……俺は俺でドラさんを愛でるのに忙しいから……。
    「はぁ……ドラさん……きれい……」
    「いいか半田君、ああやってオフショットと称して隠し撮りをするようになっちゃ駄目だ」
    「着替えてる途中のやつとかあるからな、絶対いかがわしい用途だかんな」
    「イケメン俳優が台無し」
    「普通にお巡りさん案件では?」
    「こら! 聞こえてんぞ外野!」
    「聞かせてんだアホ。いい加減にしねえとドラルクさん呼んで……」
     その瞬間、楽屋の扉が開いて、ドラルクさんその人がひょっこりと顔を出した。今日もあといくつか撮影が残っているのか、二本の角のようになっている特徴的な髪型も、痩身をすっぽり覆うマントも身につけたままだった。
    「えーと、ご歓談中失礼するね……?」
    「いえ、お疲れ様ですドラさん! 休憩ですか? 俺たちちょうどお茶淹れようって話になってたんです、よかったらドラさんも……あっ冷蔵庫に衣装さんが差し入れてくれたマカロンあるんですよ、召し上がってください。ピスタチオお好きですか? ウノします?」
    「別人……」
     すっくと立ち上がってドラさんを部屋に招き入れようとする俺を見て、半田君が呟いた。いいかい半田君、男にはね、なりふり構っていられない瞬間が結構あるんだ。ダブル主演でべったり共演しておきながらプライベートではほとんど関わらせてくれない歳上の役者さんとどうにかお近づきになる瞬間とか。
     ドラさんは眉尻を下げてはにかんでいる。「ショット君にサテツ君、半田君なんて、僕みたいなおじさんがお邪魔する部屋じゃないなあ」と困ったように笑うのがハチャメチャかわいい。これ以上俺をときめかせないでほしい。
    「いや、今度撮る僕らのシーンについて軽く打ち合わせしておきたくて来たんだけど……ロナルド君忙しそうだし、出直すよ」
    「いいえ!! 全然暇ですよ!! 暇すぎて足が勝手にスクワットをしちゃうくらい!!」
    「足は勝手にスクワットしねえよ」
    「スクワットのスの気配もなかったのに何を」
    「あは、さすが若人は体力が違うなあ……」
    「ああっ! 若干引きながら出ていかないでドラさん……!」
     願い虚しく、ドラさんは小声で「お邪魔しました」と言って扉を閉めてしまった。がっくり項垂れる俺の背中に、ショットやサテツは容赦なく「普通に気持ち悪い言動だと思う」「芸人にでもなんのか」などという言葉を浴びせかける。
    「うるせえやい……お前らに俺の気持ちが分かってたまるか……」
    「気になる人にアピールしたくて筋トレ見せつけちゃう奴の気持ちとか、心底分かりたくねえよ」
    「あの、普通にご飯に誘ったりメールしたりするんじゃ駄目なんですか?」
    「あっ半田君バカ!」
    「…………聞いてくれるのか、半田君」
     ウノの手札を片手に俺を見下ろしていた半田君は、ようやく自分の失言に気付いたらしく青ざめた。逃さねえぞ、あと一時間は休憩あるって知ってるんだから。
    「あれはそう、煙のような雲がうっすらと空全体を覆っていた午後……めちゃくちゃ紫外線強そうで日焼け止め塗らないとまたマネージャーに殺されるんだろうなと俺が慌ててテレビ局へ駆け込んだ日……」
    「こいつ出会い編から始める気だぞ! ウノ!」
    「うわー、逃げて半田君! ドロツー」
    「うわー最悪だー! はいドロツー」
    「お前らマジ嫌い」
     俺の話を何度も聞かされている二人はともかく、後輩の半田君までもがこの塩対応とはちょっと泣ける。けれども俺はめげないぞ、なんとしてでもドラさんとお近づきになってお付き合いまで漕ぎつけてやるからな。

     今でこそドラさん、ドラルクという役者だけでなくその個人にメロメロな俺だが、絶賛撮影中のドラマ「吸血鬼すぐ死ぬ」で共演するまで、その名前すら聞いたことがなかった。元々モデルをやっていた俺は、俳優としてデビューする話が出てきた時も、演技とか芝居とか、舞台にも大して興味を抱けなかった。尊敬する兄貴も勧めるし、何よりフクマさん……俺をスカウトしてここまで面倒を見てくれてきたマネージャーの黒い圧に耐えかねて、どうにか首を縦に振ったのだ。
     言われるがまま、イメージ映像だの映画の脇役だのにちょこちょこと起用してもらってるうち、ドラマの主演の話が舞い込んできた。こんな生半可な気持ちの素人にいきなり連ドラの主演なんか務まるものかと恐々としていたが、割となんとかなってしまった。脚本で描かれている主人公が素の俺に近かったせいもあるんだろう。今ならあれはわざわざ俺に寄せて描かれていたんだということくらいは分かる。返す返すフクマさんや事務所の人たちには頭が上がらない。
     こんなもんか、と拍子抜けしていたところに、今度はやれネット配信ドラマだの、少女漫画の実写映画化だのといった撮影がどしどし舞い込んできた。俺はしばらくの間、日課だった筋トレの時間を睡眠に回してまでスケジュールをこなさなければならなかった。
     色々な役をもらってこなしてきたけれど、正直なところ俺は自分の演技が良いのか悪いのかすら分からなかった。エゴサをして引っかかってくるのは「ロナ様マジ顔がいい」とか「この顔がほしい」とか、とにかく容姿に関係することばかり。原作少女漫画を読みながら、なるほどこのキラキラした顔を再現するために自分は呼ばれてるんだなあと、変に納得してしまった。
     だから、俳優なんて長く続けるつもりはなかった。事務所も本気で俺に俳優としてのキャリアを求めている風ではなかった。唯一フクマさんだけは、「演技の勉強をしてみませんか」と言ってくれたが、俺は恐怖で半笑いになりながらも、その提案を断ってしまった。
     「吸血鬼すぐ死ぬ」の話が来たのは、そんな折だった。
     脚本は俺のドラマデビューの時にもお世話になった、あのゴーグルの人。今回は監督も兼ねるのだという。断る理由もないのでとりあえず打ち合わせにと向かったテレビ局の会議室で、ドラルクさんは一人、ひっそりと行儀良く座っていた。
     すらっと伸びた背筋が美しい。スマートな四肢をブラインド越しの陽光が柔らかく照らしていたのが印象的だ。くっきりと彫りの深い顔立ちに落ちる影に思わずぼうっと見入っていたら、ドラルクさんは俺の視線に気がついて慌てて立ち上がった。
    「ええと……ロナルドさんですね。僕はドラルクです、どうぞよろしく」
    「あ、へ、あっども……」
     青白くて骨張ったドラルクさんの手に、へどもどしながらどうにか手汗でびっちょりした手を差し出したところで、監督と数名のスタッフが入室してきて、打ち合わせメンバーが全員揃った。そこからは真面目に仕事の話をしていたつもりだが、とにかく「吸血鬼すぐ死ぬ」は俺が今まで経験してきたドラマとは全く違っていた。
     驚いたことに、脚本ができていないという。期日に間に合わなかったんじゃなくて、「どんな話になるかはキャスト次第だと思ってんだよ」と、監督は目の奥を光らせて言った。
    「設定はある。世界観もある。撮るのはドタバタコメディーでもしっとり人情ドラマでも構わない」
    「え、でも……俺、そういうの初めてで……」
    「おう、思うように演じてくれればいいさ。大筋は決まってるから、そこにロナルド君とドラちゃん、他の役者の解釈も入れて……」
    「思うようにって……」
     さて困った、俺は決していい加減に仕事をしてきたつもりはないが、演じるということを真剣にやってきた自負もない。いきなり「好きにやれ」と言われたって、与えられた役の解釈も、ストーリーへの理解も覚束ない。今まではずっと「イケメン俳優」を求められてきて、現場で指示されるままを懸命にこなしてきただけだ。冷や汗をかき始めた俺とは対照的に、隣のドラルクさんは顎に指をやって何やら考え込んでいる様子だった。……そもそもダブル主演というのもよく分からない。もう一人の主演だというドラルクさんは何を考えているのか、気になってちらりと隣を見ると、パチンと目があって表情が一瞬ふわりと緩んだ。
    「……なるほど、業ちゃんのやりたいことはとても面白そうだ。僕からいくつか提案をしてもいいかな?」
    「うんうん、言ってやってくれ」
    「まずは短い話をいくつか書いてくれない? 僕とロナルドさんの絡みはもちろん、他のキャストも話がついているなら」
    「ああ、ワークショップ形式で役者間のコミュニケーションを……」
    「この設定なら特殊メイクやCGも使うんだろうけれど、ストーリーを魅せるなら……」
    「そうだな、CGはここのスタジオに任せようと思ってて……」
    「……」
     目の前で繰り広げられる、プロの打ち合わせ! という雰囲気に早々についていけなくなった俺は、ぽかんと間抜け面を晒して二人のやりとりを見ていた。脚本家兼監督は著名な人なのだとは聞いていたが、このドラルクさんは何者なんだろう。やり取りから察するに監督とは顔見知りらしいが、俺が知らないだけで有名な俳優さんなのか?
     二人の話に同じく置いていかれた風のスタッフを伺い見ると、彼らの表情も俺と似たり寄ったりだった。「この人、一体何者?」という困惑がありありと顔に現れている。
     けれども俺も一応主演なのだ、いつまでも蚊帳の外でぼけっとしていていいはずはない。どうにか話に加わろうと再び視線を監督とドラルクさんに戻すと、二人は俺を上から下まで舐め回すように見ていた。えっ何?
    「うーん……どうだろう業ちゃん、本人が良いって言えばの話だけど」
    「俺としてはめちゃくちゃ面白いと思うんだがなあ……彼のキャリアを思うとちょっと」
    「でも、面白いのが一番じゃない?」
    「……それはそう! よっしゃやろうぜドラちゃん!」
    「もちろんさ業ちゃん! ……というわけでロナルドさん」
    「えっ!? あ、お、はい!」
     ドラルクさんが、それはもう楽しそうに満面の笑みを浮かべる。えっこの人なんかかわいいな……と思ってしまった俺は、今から考えればあの瞬間に惚れていたんだと思う。ドラルクさんは何の飾り気もない笑顔一つで、俺の胸の真ん中をぎゅんと鷲掴みにしてしまった。突然の衝撃に俺が戸惑う間もなく、ドラルクさんは笑顔のまま続ける。この一言が、いやドラルクさんとの出会いそのものが、俺のその後の運命をひっくり返したのだ。
    「カメラの前で全裸になる覚悟はおありかね?」
    「………………えっ!?」

    「……以上が『俺とドラさんとの運命の邂逅編〜五月の風に寄せて〜』だぜ」
    「サブタイがダサすぎませんか?」
     半田君は面倒くさそうな顔をして一番大きなツッコミどころをスルーしてきた。まあ撮影が続いたこの三日間、出会えば俺に語られ続けてこの反応だから、この子はめちゃくちゃ優しい子だと思う。服とか買ってあげたいな、いらねえかな。
    「半田君……困ったことがあれば俺に言えよな……」
    「急に何? 現在進行形で困ってるというか……全裸のまま横で休憩するのやめてほしい……」
    「仕方ないだろ、この後野球拳の回だから、どこ行っても皆脱いでるし」
    「うわ……地獄……俺、退治人じゃなくてよかった……」
    「いや半田君の役も中々クレイジーだぞ」
     俺と同じく全裸に前張りでスタンバイしていたショットが、俺たちの会話に割り込んできた。なけなしの羞恥心からか、衣装のマントを被っている。撮影が始まった頃は、いくら男同士とはいえ裸のままで顔を突き合わせるのが気まずすぎて、お互い楽屋だのロケバスだのに引きこもってコートを着込んでいたはずが、下半身すっぽんぽんにTシャツ一枚で共に過ごせるようになったのはいつからだったか。
    「ちょうどよかった、今から『俺とドラさんの愛の日々編〜手作り弁当を添えて〜』が始まるところだったんだけど」
    「演目みたいになってませんか!? 俺もう付き合いきれませんよ!」
    「まあまあまあ、今度欲しいって言ってた靴プレゼントするからさあ」
    「愛の日々って、あれだろ、お前の不摂生を見かねたドラさんが打ち合わせの度に弁当作ってきてくれるようになったってあれだろ」
    「それです!」
    「あー、ロナルドさんロケ弁以外も何か食べてると思ったら……もしかして毎回ドラルクさんに作ってもらってるんですか?」
    「土下座して頼み込んだもんな」
    「へへっ……」
    「照れるところじゃねえんだよ」

     笑いあり涙あり全裸あり、男も女も衣装着てる時間のが短いぜ上等! のコンセプトの元開始されようとしていた撮影は、俺だけじゃなく何人かの出演者が「せめて体を絞る期間がほしい」と懇願したため、数ヶ月の猶予が与えられた。俺といえば、ドラさんの前で脱ぐことになったパニックでしばらく他の撮影でもポカミスをやらかしていた。
     「吸血鬼すぐ死ぬ」の撮影前といえば、仕事の忙しさにかまけて筋トレをサボりだすようになって久しかった。初回の打ち合わせが終わって帰宅した後、数ヶ月ぶりに鏡の前で見た自分の体は、記憶よりもずっと貧相に見えた。吸血鬼退治人のロナルドは肉体派、運動神経抜群、打ち合わせで出てきた言葉を反芻して一人唸る。
     もっとこう、見るからにマッチョな肉体を目指すべきではなかろうか。ジムにも通って、全体的にビルドアップして……ドラさんの前で脱ぐことになったから、どうせなら完璧なプロポーションをお披露目したいとか、決してそんなことを考えていたわけではない。俺は真面目に、与えられた役柄のことを考えて鏡の前で様々なポーズを取っていただけだ。どの角度から見れば一番セクシーかとか、そんなの全然研究してない。
     ところが、俺の肉体改造は思うように進まなかった。撮影の合間を縫ってジムに通い、自宅でのトレーニングも欠かさなかったのに、全然見た目に変化がない。せめてモチベになるような一言がほしいなと思った俺は、何度目かのワークショップの際、するすると体重を落としていた(本気で心配するレベルで痩せていくから俺は泣きそうだった)ドラさんにそのことを洩らした。そのころにはドラさんとも大分打ち解けて、「ロナルド君」と呼んでもらえるようになっていたし、ご飯や飲みの誘いはのらりくらりとかわされていたが、役作りのためと称してハグをしても許される程度の間になっていた。ちなみに作中のロナルドとドラルクが抱き合うシーンはない。
     弱音に対して、俺は精々「そんなことないよ、頑張ってるだろ」とか「時間がかかるものなんだし、一緒に頑張ろうよ」とか、そういう台詞を期待していた。何だかんだと優しいドラさんのことだから、自分より年若い俳優のメンタルが弱っていたら優しく慰めてくれるだろうという打算があった。具体的なアドバイスがなくとも惚れた相手の一言でどうとでもなる、俺は元来そんな男だった。
     しかし実際のドラさんは違った。「ふうん、ちょっと失礼」と言うや否や、俺のTシャツを捲り上げて、するすると腹や胸にあのほっそい、枝のような、それでいて艶かしい指でもって触れてきたのだ! 叫んで逃げ出さなかった俺は偉い。
    「ん……筋肉質なんだけど、なんかこう、硬いな……」
    「ぁ……ひゃぇ……ひ……」
    「……ロナルド君、食事はどうしてる? ちゃんと食べてるのかい」
    「ぇ、あ、食……食べてます……お弁当とか……野菜とか……」
    「…………君、筋肉が何でできてるか知ってる?」
    「え? ぷ、プロテイン……?」
    「……うん、そう、なるほど……んー……」
    「アッアッ、あの、ドラさ、おへそほじるのやめてぇ……!」
     ドラさんは瞑目して俺の話を聞いちゃいない。そろそろマジでやめてもらわないと俺は色々と大変なことになる、具体的に言うと今日はアクション含めたワークショップだったから軽装なわけで、もっと言えば下半身の防御力は皆無に等しく……頑張れ俺の理性! 高校の部室の匂いとか思い出せ! 汗と泥と汗と……あっよしよしいい感じにげんなりしてきた。夏場とか最悪だったな。
    「ふう……ロナルド君、体作りは一に食事、二に食事だよ。ビタミンもいいけれど、手っ取り早く肉を増やしたいのなら食べないと」
    「え、でも、あんまり体重増えると事務所に怒られ……」
    「……なに、芝居を舐めてる? 役作りのためと言わなかったかい?」
    「ひえっ」
     ドラさんが急に底冷えのする目で睨みあげてきた。普段が温厚で表情も柔らかい分、真顔になられると怖い。
    「きちんと三食食べてる? カロリー計算は? タンパク質はどれほど?」
    「え、あ、えっと」
    「……君そういうの向いてなさそうだもんな。マネージャーとか彼女さんとか、誰でもいいから食事管理してもらった方がいいよ」
    「かっ彼女なんかいません!!」
     聞き捨てならない言葉に、思わず食ってかかるように否定してしまった。ドラさんは大きな目をよりいっそう見開いて、ふいと視線を逸らした。
    「あー……地雷だったかい、ごめん」
    「いやあの、地雷とかじゃないんですけど」
    「いやほんと……さして親しくもないくせにプライベートに踏み込んでくるおっさんとか最低だな……本当にごめん……いやすみません。以後はきちんと適切な距離を保ちますね」
    「ああっドラさん! 心の距離遠ざけないでドラさん……!」
    「本当にすみません、あの、僕向こうで台詞の確認してくるので」
    「待って待って待って! 俺真剣に悩んでてっあと二ヶ月もしたら撮影始まっちゃうし! 衣装合わせまでにどうにか体型決めておかないといけないしっ!」
    「ううん……」
    「あの、ほんと、マジで困ってて……体型管理できてるドラさん尊敬してるし……! ど、どうにかいい方法ないですか!?」
     骨張った、最早女の子かってくらい華奢な肩を掴んでがくがく揺さぶると、悩んでいたらしいドラさんはようやく目を開いてこちらを見てくれた。それでもなお気まずそうに視線を逸らしていたが、やがて観念したのか俺と目を合わせた。へちょんと下がり切った眉毛がかわいい。
    「あの……嫌なら嫌とはっきり言ってほしいんだけれど、本当に」
    「全然嫌じゃないです、ありがとうございます!」
    「待ってまだ何も言ってない」
    「ドラさんが俺のために考えてくれたことならなんでもオッケーです!」
    「君なにその危険な思考!? 若者怖い!」
    「ああっ! 物理的に遠のいていかないでドラさん……!」
    「いやだからってゼロ距離はおかしいだろ……はあ……」
     ぐいぐいと俺の顔を押しのけたドラさんは、おもむろにスマホを取り出すとメッセージアプリのコードを表示させた。えっドラさんの個人的な連絡先……? ついに、ついに教えてくれるの……!? 感動して涙が出そうになっている俺にドン引きしたような目を向けて、ドラさんは俺にもさっさと同じアプリを起動するよう促した。
    「……分かる限りでいいから、その日の食事内容とかトレーニング内容をこれで僕に報告して。まあ、僕は見ての通りガリだから説得力ないかもだけれど……一応パーソナルトレーナーやってたこともあるから、民間だけど資格も……」
    「えっドラさんが俺の生活諸々を管理……!?」
    「諸々じゃない! トレーニングについては引き続きジムのインストラクターさんにお世話になってよ。私にできるのは、まあ、食事のアドバイス……とか」
    「いいんですか!」
    「う……おっさんに管理のような真似されるの、嫌じゃない?」
    「全然! むしろもっと管理してくれていいというか、おはようからおやすみまで俺の生活を見守ってほしいというか」
    「なに? 君駄目人間なの? こんなに綺麗な顔なのに……」
     先程みたいに遠のいていこうとするドラさんの両手をがっちり掴んで、俺は元気よく「よろしくお願いします!」と叫んだ。

    「──かくして俺の生活はドラさんにおはようのメッセージを送るところから始まり、おやすみのメッセージ送ることで終わるようになり、大半を未読スルーさ今に至るというわけ」
    「そんで、わざと三食カップラとか一日一食とかいう生活をして、ブチ切れたドラルクさんがロナルドに飯を作ってきてくれるようになったわけ」
     まさか弁当まで作ってもらえると思っていなかった俺はちょっと面食らってしまった。今まで付き合ってきた彼女の中にも、勝手に弁当を作って現場まで持ってきちゃう子はいたが、流石にそれとはわけが違う。正直、勝手に作ってこられる弁当ほど迷惑なものはなかった。善意である分余計に扱いづらい。嘘でも「美味しかったよ、ありがとう」って言わなきゃいけないし。
     ところがドラさんの弁当は違った。「食べてくれると嬉しいな」なんて謙遜は皆無、「君、昨日も一昨日もあんなひっどい食事内容で、まさか今日もそのロケ弁で昼を済ませるつもりじゃないだろうな」という圧と共に手渡された弁当は、その時のドラさんの顔面の恐ろしさと反比例して、彩り豊かで美味だった。いや、掛け値なしにあんな美味い弁当食ったことはない。生姜の効いたからあげが俺の胃袋をがっつり掴んできたのだ。褒めるつもりで「三食このからあげがいいです!」と言ったら、数時間口をきいてもらえなかった。
    「今では間食までドラさんが計算して作ってくれるんだ……今日の撮影後は焼きドーナツ」
    「嫌だなあ、リアルにダメ男な先輩……事務所移ろうかな……」
    「いやでもほんと、ドラさんの飯美味いから、絶対食わせたくないけど美味いから! おかげで筋肉量も増えて、ご覧この腹斜筋!」
    「うわエグ」
     半田君に腹筋たちを自慢していると、ふと背後に気配を感じた。慌てて振り向くと、そこには全身を衣装のマントですっぽり覆ったドラさんがいた。
    「君たち、その格好でよく冷えないねえ」
    「お疲れ様ですドラさん! ドラさんは冷えますか? 温かい飲み物もらってきましょうか? 白湯でいいんでしたか」
    「や、いいよ私すぐに撮影だし……すぐ死ぬから脱いでる時間も短いし」
    「脱……えっ!? それ裸マント!?」
    「え、そうだけど」
    「なんて格好でウロウロしてるんですかドラさん! スタッフに呼ばれるまでバスで待っててくださいよ!!」
    「全裸の君に言われたくないな!?」
     僕、拳くんと会うの久しぶりなんだよ、ちょっと話そうって昨日電話したのに、となおも言い募るドラさんの背を押してロケバスに放り込む。あぶねえ、裸マントのドラさんなんて、どこぞの誰かが新しい性癖の扉を開けちゃったらどうするんだ。
     俺はそのままバスの前で仁王立ちして、バスから出ようとするドラさんを阻止する役に徹することにした。バスに乗り込もうとするスタッフや、他の役者への牽制も忘れない。このバスには今裸のドラさんが乗ってるんだからな、迂闊に近づくなよ!
    「……ドラルクさんって、ずっと舞台で芝居やってたんですよね。舞台役者って脱ぐのにあんな抵抗ないもんなんですか?」
    「さあ、俺もこの撮影以外でドラルクさんの芝居見たことねえし……でも役作りとか徹底してるよな」
     ショットと半田君の声を聞きながら、そういえば俺もドラさんの舞台を観に行ったことがないなと思い至った。ドラさんが所属している劇団はそこまで大きいものではなくて、公演も毎月あるわけではない。その中でもドラさんが出演するのは稀らしいから、俺もあの人の芝居はこのドラマのものでしか知らない。
     いつかドラさんの、吸血鬼ドラルク以外の演技も見てみたい。一人芝居なんてのもできちゃうんじゃないだろうか、あの人は。それはものすごく素敵な舞台に違いない。ドラさんの、ドラさんによる、ドラさんだけの舞台──そんなものがあればいいのに! その時には絶対に、最前どセンターは俺のものだ。誰にも譲ってなるものか。

     ドラマの撮影は順調に進み、俺は番宣のためバラエティ番組にも出ることが増えた。「吸血鬼すぐ死ぬ」の撮影は体力とか気力とか精神力とか、あと喉とか、色々根こそぎ持っていかれるから割と疲れる。本当はダブル主演だからドラさんにも同じような話が来るはずだが、番組での扱いやすさからか、お呼ばれするのは専ら俺の方だ。組み立てられた雛壇の上、笑いどころが微妙な芸人の話に相槌を打つのも慣れたもの。
     番組の宣伝をしようとすれば、華やかな女優さんやアナウンサーさんがまず俺の肉体を褒める。そうなんですよ見てください、ドラさんに育ててもらった筋肉なんですよ! ……と言えるはずもないから、無難に「めちゃくちゃ筋トレ頑張ったんですよー」というエピソードにまとめてしまう。
     本当は無限に自慢したいことがある。「退治人ロナルドと吸血鬼ドラルク」をドラさんと二人で作り上げていった過程、初めて自分から監督に意見したこと、初めてカメラの前でケツを晒したこと、すね毛を生やせと無茶な指示があったこと。スタッフやカメラマン、他の俳優さんたちが撮ってくれたオフショットも大量にある。
     撮影はまだ終わっていないけれど、宣伝のために語れば語るほど、俺は寂しさに囚われていた。「吸血鬼すぐ死ぬ」の製作チームも、当然全ての撮影が終われば解散となる。ドラさんともきっとそこでお別れだ。彼は引き続き舞台へ、俺はまたイケメン俳優として……いや、場合によってはイロモノ俳優になってしまうかもだが。
    「……ロナルドさんは、このドラマにすっごく力を入れてるんですね」
    「えっ?」
    「色々と初挑戦なんでしょう? いやあ、役の幅も広がるでしょうねえ!」
    「まずは放送日、そしてロナルドさんの今後ますますの活躍から、目が離せませんね!」
    「……はは、いやあ、光栄です。でも! 『吸死』は絶対面白い話になるので! ぜひご覧ください〜」

     お疲れ様でした、ありがとうございました、皆そんなことを口々に言いながらスタジオから捌けていく。俺も司会のアナウンサーと大物芸人にこれでもかというくらい頭を下げて、スタジオのセットを横切る際もペコペコと小さく頭を下げながら通っていく。俺は今日、上手く喋れていただろうか。最近はずっと「吸血鬼すぐ死ぬ」の撮影でしかカメラの前に立たなかったから、自分がどういう振る舞いをするキャラだったか忘れかけていた。
     収録が押すこともなく予定通りの時間に終わった。さて今日は他に何かあったかとフクマさんに管理してもらっているスケジュールのアプリを開くと、もう今日の分の仕事はないようだった。ううん、久しぶりに暇な夜だ。誰かを誘って飯でも行こうかな? サテツ君やショットあたりなら空いてるか、半田君はメンズ雑誌の撮影って聞いたからやめておこう。ヒナちゃんは……もうすぐライブだって言ってた。あの子も、アイドルなのに体張るなあ。
    「まあ別に一人でも……うん?」
     廊下の突き当たりを曲がっていった後ろ姿には見覚えがある。ドキドキと高鳴る胸を押さえて一気に駆け抜けると、曲がった先にはやはりよく知った背中があった。
    「……ドラさん!」
    「ん……うん? あれ、ロナルド君」
     振り返ったドラさんは久しぶりにすっぴんだった。会うのがいつも「吸血鬼すぐ死ぬ」の撮影現場だというのもり、前髪があるのはレアだしちょっと幼く見えて好きだ。ドラさんの所属する劇団や事務所の公式アカウントには、「吸血鬼すぐ死ぬ」以外に出演の情報がなかったはずだけれど、もしかして取材でもあったんだろうか。可及的速やかにその情報を入手して媒体を確保しておきたいんだが。
    「ドラさんも収録か撮影だったんですか? それとも取材? 発刊いつです?」
    「え、いや、僕はお使いで来ただけ。うちの若手にアクロバットが得意な子がいるんだけれど、特撮に出るとかなんとかで」
    「へえ、アクロバットってすごいな」
    「君もやればできちゃいそうだけどね」
     そう言ってドラさんはいたずらっぽく笑う。そりゃもちろん、ちょっと体重増えたけれども撮影で動きまくってるから、やろうと思えば多分できる。
    「今度やってみない? 吸血鬼の攻撃をバク転で避けるとか」
    「……あっ撮影で!? そりゃまあ、ええと、アクションありならアラネア編くらいしか……」
    「ドラルクを殺す時とかさ、ロナルド君体柔らかいし、旋風脚とかできそうじゃない? カポエイラの動きもなかなかアクロバティックだろう」
    「うーんどうだろう、ロナルドの暴力って拳だし……」
    「ソファに座ってる時にシャイニング・ウィザードで殺してよ」
    「えーそれは…………面白い」
     ドラさんの後ろで数人がぎょっとした顔で振り返る。そこでようやく、ここはテレビ局の廊下で、日常会話の中では殺すだの暴力だのといった言葉は普通使わないのだと思い出した。俺もなかなか「吸血鬼すぐ死ぬ」に毒されているんじゃないだろうか。
    「ドラさん、その話今日中にもっと詰めますか?」
    「……あ、ああ、ごめん、忙しかったよね? わざわざ声をかけてくれたのに引き止めてしまって……」
    「いえ、撮影はもう済んだので帰るだけです。今から誰か誘って飯でもって……」
     そこでちらりとドラさんを見る。飲みも食事も断られっぱなしだが、今日はどうだろう? 下心はあれど、演技の話をしたいっていうのは本当だし、いやでも流石に無理かな……昨日も朝から三回断られたしな……。昼食もおやつも夕食も断られたもんな……。
     帰ってから電話で打ち合わせができればいい方だな、とばかり思っていたから、ドラさんの「誰も誘ってないなら僕と行く?」という言葉に反応するのが遅れてしまった。僕と行く? 行くってどこに……えっドラさんと?
    「…………ドラさんと飯!?」
    「や、やっぱり駄目? さすがに馴れ馴れしい? そりゃ僕はおっさんだし、減量で胃も弱ってるから一緒に食事をしても楽しくはないだろうけれど……」
    「いえ!! 行きます!! 個室あるところでぜひ!!」
    「あ、うん」
    「嬉しいです!! 明日地球が滅んでもいいです!! ありがとうございます!!」
    「地球が滅ぶのはちょっと……」
    「ああっ! 心閉ざさないでドラさん……!」
     最近気付いたが、ドラさんがこうして心閉ざして後ずさるのは、そういう遊びなのだ。その証拠に、楽しそうにウフウフと笑っている。ドラさんが笑……笑っている……俺は涙が出そう。
    「僕の知り合いの店でいい? 完全個室じゃなくてブースって感じだけど、色々と融通は効くから」
    「はい! ドラさんが行くならどこへでも!」
    「んは、だからそう……そういう、君……ンフフ」
     ドラさんはさもおかしそうに「君、そういう役も合いそうだね」と笑った。純粋な俺の本音をそのまま垂れ流しているだけだが、どうやらそういうキャラ付けに見えているらしい。それでドラさんが笑ってくれるならなんでもいい。道化に見えてもいいし、イロモノ扱いされてもいい。それで、「吸血鬼すぐ死ぬ」が終わっても、またドラマや舞台で共演できるなら……。
    「……」
    「ロナルド君?」
    「あ、いえ、すみません。俺今日はマネージャーに送ってもらって来てて……タクシー呼びます?」
    「僕、車出すよ」
    「ドラさんと車内で二人っきり!?」
    「段々君の言動が不安になってきたな……」
     このまま順調に撮影が終わったとして、俺たちが再会する道はあるんだろうか。俺がドラさんを好きなのは、このまま面白エピソードとして彼の思い出になってしまうんだろうか。……もし俺が舞台俳優に転向すれば、ドラさんは俺のことを忘れないでいてくれる? 俺に、そんなポテンシャルはあるのか?
     演技について、演出について、あれこれと言い合いながら演じることの面白さを初めて知った。どう演じるべきか、この人物ならどんな気持ちになるのか、そんなことを話す度に俳優という職業の難しさを思い知らされた。
     どこかへ電話をかけながら少し先を歩くドラさんを見て、俺は改めて奇跡的な現状を思った。あの監督が俺を再びキャスティングしてくれなければ、恐らく俺はこの人のことを知らないまま、顔だけはいいなんて評価を下された俳優として、中途半端な形で芸能界を去っていたんだろう。
     話す中でよく分かってきたが、ドラさんは多分根っからの役者で、演じることを誰よりも真剣に楽しんでいる。俺がつまらない演技しかできない、演ずることを軽んじてきた人間だと知られれば、軽蔑されるんじゃないだろうか。俺は何よりそれが怖い。もっと俳優として勉強していきたい、良い演技だと言われるようになりたいという気持ちも、ひょっとするとドラさんに評価されたいという下心なのかもしれない。
    「……中坊かよ」
     好きな人に振り向いてもらいたいから頑張るなんて、子どもかと自分に言いたくなる。部活や勉強ならまだしも、仕事だぞ。それで食っていけなくて泣いてる人だっているのに、なんてお気楽なんだ。
     ドラさんには、「吸血鬼すぐ死ぬ」の撮影が終わってまで俺と会う理由がない。電話やメールで繋がっている必要もない。ならばせめてその撮影期間中だけでも、彼と最高の時間を作り上げる努力をしよう。「吸血鬼退治人ロナルド」と「吸血鬼ドラルク」として、誰よりも楽しんでみせようじゃないか。

     ……なんてことをね、考えていました。「こうしてドラさんと飯を食ってる、この瞬間はほとんど奇跡みたいなもん」だと、ちょっとセンチメンタルにもなっていました。
    「それでねぇ、へへ……その時の、音響さんがぁ」
    「うん、うん」
    「こう…………音先なのに、間違って、板付きだと思って」
    「うん、ドラさんちょっと」
    「僕はぐーっと、こう、ぎゅっと……つまみをねぇ、ぎゅっと」
    「いたたたたドラさん痛、あの、それ俺の乳首」
    「あっはは! …………新人の女優さんも……ゲネでよかったねえ……」
    「ドラさん、ねえ、すりすりするのもちょっと、あの、それ俺の乳首……」
     最早一人で喋って一人で笑い続けるドラさんに、飲んでいないはずの俺まで頭が痛くなってきた。センチメンタルのセの字も残さずどこかへ吹っ飛んでいって、後に残ったのはへべれけの酔っ払いとその酔っ払いに惚れてる俺。心の中は嵐、言いようのない感情がごうごうと吹き荒れている。この人がこんなに酒に弱いなんて、どうして誰も教えてくれなかったんだ……。

     ドラさんの知り合いが経営しているというレストラン・バーは、住宅街の一角にひっそりと佇んでいた。デカデカと看板が掲げられているわけでもなく、外観も落ち着いている。生い茂るツタが店内の明かりをぼんやりと透かして、隠れ家系とはこういう感じなのかと思った。
     店主は元劇団員だとかで、奥まったテーブル席に案内されて辺りを見回すと、色褪せた台本なんかが棚に並んでいた。デートでもないと寄り付かないような雰囲気に、俺はすっかり縮こまってしまっていたが、サクサク注文を(俺の分まで)決めたドラさんが「僕的に映える死に方を考えてみたんだけど」と身を乗り出してきたので、一瞬でそちらへ意識を持っていかれた。
     映える死に方ってなんだとか、男は黙って爆発とか、正しいライダーキックとはどうあるべきかとか。吸血鬼退治人という設定があってすぐに、ドラさんは格闘技について調べたと言う。退治人というくらいだから激しいアクションがあるのだろうと考えたらしい。荒事のイメージのないドラさんの口からプロレスの技名が出る度、そわそわと落ち着かなかった。
     創作フレンチに舌鼓を打ち、明日がオフなら飲んでたなと思っていたら「いいワイン入ってるんだよ」と店の主人がボトルを持ってきてくれた。「僕、今日車なんだよ」「いつもみたいに置いていけばいいよ」「えーどうしよっかな」なんて気安いやり取りが目の前で交わされ、気付けばドラさんは赤い液体が揺れるグラスを片手にご機嫌、手酌でぐいぐい飲み続け、あれよあれよという間に立派な酔っ払いになっていた。
     一本目まではよかった。ドラさんも正気が残っていて、最近俺が出たバラエティ番組を見ただとか、誰との絡みが面白かっただとか、はっきりと喋ってくれた。二本目を開けたばかりのときも、ちょっと血色が良くなってるな、酔っているなあと思えるばかりで、話している内容もまともだし受け答えにも理性があった。
     雲行きが怪しくなってきたのは二本目の途中、俺が「吸血鬼退治人ロナルド」をやるようになってからクローゼット内のスキニーパンツの尻を三本も破いた話をしだした時だ。画像を見たドラさんは見たことがないくらい大口を開けて笑ってくれた。そもそも俺がこの体型を手に入れたのはドラさんのおかげで、それを「服の上からでも分かるくらい鍛えた成果出てるもんな」と笑い続けるのが嬉しくて、「触ってみます?」と言ってしまった。いつも通り「え、別にいい……」とドン引きされるものとばかり思っていたのに「いいの?」と顔を輝かせた時点で、俺は察するべきだった。
     隣に座り直したドラさんは、俺の二の腕をさすりながらワインを飲み、腹筋の溝を撫でながらチーズを食み、胸筋に指を突っ込んで「うわ谷間」と言いながらまたワインを飲んだ。
    「…………ど、ドラさん、もしかして俺の体を肴にして飲んでません?」
    「んー……バレた……? いやこんなの初めて触らせてもらったから。……嫌だった?」
    「嫌じゃない!!」
    「わーい」
     わーいってなんだわーいて! 俺が激情をやり過ごしている間にドラさんは三本目のワインを開け、そうして徐々に様子がおかしくなっていった。言動が完全に酔っ払いのそれになり、同じ話を何度も繰り返し、俺の乳首を執拗に捏ね回すようになった。嘘、ドラさんって酔ったら人の乳首を捏ね回すようになるの……? 絶対打ち上げとか行ってほしくない。
     想い人が無防備な姿を晒しながら乳を揉んでくる。話の内容もいよいよ聞き取れなくなってきて、かろうじて「バリウムの美味しい飲み方」という言葉を拾い上げることができた。マジで何の話してるのか分かんねえよ。
    「お二人とも、そろそろ」
    「えっあっ……ウワこんな時間! ドラさん、ドラさん起きてください、気をしっかり」
    「んん…………鎖国っ」
    「えーんなんで俺の乳を寄せるの!」
    「わははドラちゃんめちゃくちゃ酔ってるなあ!」
    「なにぃ、僕が酔わないって、君よく知ってるだろぉ」
    「そうだなあ、よく飲み歩いたもんな」
    「ハーモニカ横丁のボトルを飲み尽くそうって、言っただろぉ」
    「うん、それで路地裏をゲロの海にしたな」
     店主は俺にドラさんを抱えるように指示をして、慣れた手つきでジャケットを着せた。「お会計はもう貰ってるから」と言われてとりあえず店を追い出されたのはいいが、さてどうしたものか。
    「……ドラさん、タクシー呼びましたからね。一人で乗れそう?」
    「ん……ロナルド君、ついてこないの」
    「えっ」
    「僕の部屋」
    「えっ!?」
    「こないの?」
     えっいいんですかそんな、えっ? ドラさんは「吸血鬼退治人ロナルド」とただの俺をごっちゃにしていないだろうか、「退治人ロナルド」はどこまでもお人好し、善の塊みたいな人柄だけれども、俺は違う。そんな発言、ドラさん本人はそのつもりはなくたって、どこまでも自分に都合がいいように解釈してしまう。しかも男同士だから、ドラマのダブル主演だから、週刊誌にすっぱ抜かれる可能性も限りなく低い。
     ……けれども、駄目だ。こんなのは駄目だ。
    「……怒りますよドラさん」
    「んー……? おこってるの?」
    「俺みたいに、軟派な、ろくでもない男に、そんなこと言っちゃ駄目です」
    「うーん……んん……なんで?」
    「なんでって……え、もしかしてドラさん、そういう……? 酔ってこういうこと、よくやってるんですか!?」
    「しっけいな、僕は酔わない」
    「酔っ払いは皆そう言うんですよ!」
    「僕は、酔ってないし……君だから言うのに、ロナルド君」
     ドラさんの目が真っ直ぐに俺を見据えて、知らずのうちに呼吸が止まる。ごくりと唾を飲む音がやけに大きく聞こえた。ドラさんは酔っていて、誰かと勘違いでもしていないと、普段ならこんなこと俺には言わないはずで……。
    「……タクシー、来たみたい」
    「あ……」
    「いこう」
     配車されたタクシーにふらふらと近づいていったドラさんはそのまま後部座席の奥に座り、ちらりと俺を見上げた。その視線に操られるようにして、俺もタクシーに乗り込む。運転手のおっちゃんが何か言いたげに俺を見た気がしたが、結局必要最低限のこと以外は口にせず、車は静かに走り出した。

    「単身者向けのマンションでねえ、僕はいいっていったのに、父が買ってきて」
    「は、はは……デッカ……」
    「なんか、いろいろ……セキュリティ面とか言ってたんだけど……忘れちゃったね」
    「へえ……あ、ドラさんのお父さんってやっぱり役者ですか? 俺不勉強だから……」
    「いや社長」
    「……社長!?」
    「でね、これがエレベーター」
    「え、まあそうですね……? え、社長ってどこの」
    「これがね、ボタン。こうやって押すんだよ」
    「はい、知ってます」
    「え……ロナルド君知ってるの……!?」
    「なんで愕然としてるんですか!?」
     店先で乗り込んだタクシーが止まったのは、一目で高級だと知れるような高層マンションの前だった。カードどころか財布を丸ごと運転手に渡してタクシーから降りたドラさんを、俺もおっちゃんも慌てて追いかけた。
     俺がついてくるのが当然という顔で広々としたロビーを横切ったドラさんは、終始ご機嫌でずっと喋り続けている。俺はもう、童貞に戻ったのかというくらいこのシチュエーションにドギマギしてしまって、必要以上に辺りを見回して、なぜか消火器が目に入るたびに指差し確認をしていた。
     しかし、エレベーターに乗った途端ドラさんは全く喋らなくなってしまった。「ドラさん見て、ボタンですよ」「俺これ押せるんですよ、ほら」と懸命に話しかけるも、ぼんやりとした目で俺の挙動を見守るばかり。そんな様子がいたたまれなくて、俺もつい口を閉ざしてしまう。こんな緊張感を持ってエレベーターに乗ることは、後にも先にもないに違いない。
     軽やかな音と共に振動が止まり、滑るようにして扉が開く。無言で歩みを進めるドラさんの後ろを、俺も黙って着いていく。ドア、消火器、照明、ドラさんの後頭部、いつの間にか手元に鍵が、消火器……。
     ドラさんがある一室の前でピタリと止まった。俺は部屋番号に素早く目を通し、一生この数字を忘れるものかと脳に刻み込んだ。
    「……ここ、僕の部屋」
    「……あの、本当に」
    「おかえり〜!」
    「ああっ! ドラさん迷いがない……!」
     慣れた手つきで鍵穴に鍵を差し込んで、ドラさんはさっさと解錠してドアノブに手をかけた。いややっぱり待ってくれ、こんな、その辺の遊びと変わらないきっかけでこの人と……えっでもドラさんがそういうつもりだったら、本気になってる俺が面倒くさすぎないか? 俺としては本気で……だからといってここで断る選択肢なんかないけれど、正直心も体もいつぶりか分かんねえほど興奮して臨戦態勢だけど、ワンナイトで済まされたら立ち直れないぞ!?
    「……ッドラさん、あの!」
    「じゃ、おやすみ」
    「えっ」
     俺が逡巡している間に扉を開けたドラさんは、するりと中へ入ってそのまま扉を閉めた。……えっ?
    「ちょ、え、ドラさん」
    「ん……どちら様……?」
    「ロナルドです!! あの、ドラさん、ドラルクさん、ちょっとお話があるんですけど!!」
    「んんん〜……知り合いでも、夜中に訪ねてくる人はお断りしてるから……」
    「えっ!? 俺たちさっきまで一緒に……えっ嘘、マジ?」
    「……」
     時間のことも失念してドアをドンドン叩くが、ドラさんからのレスポンスはない。それでもと粘っているうちに、顔を覗かせたお隣さんが不審者を見るような目で「どうかされました……?」と尋ねてきたので、俺は撤退を余儀なくされた。
     マンションを出ると、先程俺たちを送り届けてくれたタクシーのおっちゃんが一服しているところだった。とぼとぼ出てきた俺を見てちょっと驚いた顔をしたが、何を思ったのか、俺に向かって手招きをしてくる。
    「吸うかい」
    「……ども」
     差し出された煙草を一本もらい、俺たちは揃って静かな空を見上げる。電灯の明かりがやけに目に染みる夜だった……。

     君と踊るのは、どうしてこんなに楽しいんだろう。
     君が踏み出した一歩分を僕が下がる。僕が踏み出した一歩分は君がターンで華麗にかわす。顔の横に突き出された拳に思わず笑顔になって、お返しとばかりに両手を広げれば、それに応えるかのように大きな口が開いて、舌の付け根だって見えそう。
     我々に喝采を送ろう。なんて素晴らしい夜だこと!
     打ち鳴らすタンバリンと力強い足音が作る愉快なグルーヴが、狭い室内を空間ごと揺らす。鼓膜を揺らすのは派手な電子音と打楽器だのに、これは歓喜の歌だと脳が誤認している。歌うしかない、踊るしかないのだ。激しいステップにふくらはぎが攣りそうになっても、振り上げた腕が嫌な振動を背骨に伝えてきても。この夜は僕たちだけのもので、僕たちだけがこの世界で、このまま夜明けまで、夜が明けても、それから──
    「…………カーット! 二人とも最っ高!」
    「ロナルドさんとドラルクさん、クランクアップです!」
    「……あ」
     いつの間にかスタジオに響いていた音楽は鳴り止んでいた。
     ああ、撮影だったのねと思い出すと、途端に疲労の波が襲ってくる。僕はすっかり息が上がって、ゼイゼイと背中で呼吸をしていた。対するロナルド君は流石の若さで、元気よく「ありがとうございました!」と挨拶を返している。どうにか片手を上げて謝意を示すので精一杯の僕とは大違い。裸の胸が大きく上下して、健康的な肌の上をつるりと汗が流れていく。新陳代謝がすっごいなとその様を眺めていると、不躾な視線に気付いたらしいロナルド君がタオルを受け取りながら照れ臭そうに笑った。
    「あの、俺、汗臭くなかったですか? 大丈夫?」
    「あ、うん、全然。というかごめんね、じろじろ見ちゃってたね。立派なセクハラだわ」
    「いえお構いなく!! むしろもっと見てくれて構いませんよ!! 何せこの筋肉を育てたのはドラさんなので!!」
    「僕、こんな子育てた覚えないなあ……」
    「ああっ! 最後の最後で引かないでドラさん……!」
    「あは」
     あーあ、君ともっと踊っていたかった。そんな本音を隠していつものように軽口を叩き合えば、僕たちはこれからも良き隣人でいられるような気がした。……いや隣人は厚かましいな、良き他人同士でいられるだろう。これで、僕のわがままがきっかけで始まった茶番劇も終幕だ。
     新進気鋭のイケメン俳優であったロナルド君。本当は事務所もこのままイケメン路線で推していくところだったという。それを無理やり捻じ曲げたのは僕だ。
     僕の父はテレビ局のスポンサーにもなっている、上場企業の取締役だった。祖父は引退しているものの、いまだに業界だけではなく政界へのパイプも太い。幼い頃から当然のように「次期社長」として勝手に期待され、忖度されてきたものだけれど、生憎僕にはそんな気が一切なかった。
     社長の息子、なんていう肩書きの義務に応えない代わりに、僕の方からも何かを要求することはない。幸いにも両親は仕事人間で僕なんかにかまけている時間はなく、義務教育の終了と同時に家族として過ごすこともぱったりなくなった。高校、大学と進学した先の学費や生活費については、昔から勝手に自分名義の口座に振込まれていた金を使ってきた。金があるというのは助かった。おかげで学生時代から演劇三昧、ろくに就職もせずこの歳までぬくぬく暮らしてきた。愛情については、どうだろう、あまり自信がない。両親、特に父から愛される道理はなかったから、まあ過干渉よりも無関心の方が愛になりうる場合もある、と思っていた。
     だから、僕が父や祖父にロナルド君の起用をお願いした時、意外なほど張り切られて驚いたのだ。父からの定期的な生存確認の電話口で、下心を隠しもせず「一緒に演じてみたい俳優を見つけたんですよ」と言ったら、三日後には莫大な予算とスタッフチームが組まれていた。しかも監督には僕も馴染みの業ちゃんが起用され、音楽や照明にも舞台でお世話になった顔がいくつもあった。どう見ても僕のためにあつらえられた舞台だった。
     次の生存確認は電話ではなく直接訪問で行われた。数年ぶりに見た実父の顔に謎の感動を覚えていると、「ドラマは、上手くできそうか」と、辿々しい口調で尋ねられた。どうしてそんなことを聞くのだろうと、これまた不思議の感に打たれていたせいで、何と答えたか覚えていない。それきり父からの連絡はなかったが、「吸血鬼すぐ死ぬ」の撮影チームは着々と動き出していた。
     ロナルド君と初めて顔を合わせた時の衝撃は、画面越しほどではなかった。いや実際のロナルド君の方が何倍も格好良くて、綺麗な顔をしていたのは違いない。本当に目の保養になる子で、僕に時間を操る能力があったなら、数日は彼の顔を眺めまわしていたと思う。
     溌剌とした声は表情はドラマで見たそのままだったけれども、知らない人間との打ち合わせで緊張していたのか、大きな体を縮こめるようにして部屋に入ってきた。目も眩むほど美しい顔を盛大に赤らめて、私の握手に応えてくれた。打ち合わせが始まっても、おじさん同士の与太話を挟みながら繰り広げられる話に必死に食いついてきて、一生懸命だった。売れっ子らしい傲慢さは見えず、またイケメン俳優ともてはやされている真っ最中の若者に特有の鼻につく感もなく、これは僕にとって大いに意外なことだった。画面越しで見ていた時よりも、ずっと彼のことを気に入ってしまった。
     そんなロナルド君と作り上げた「吸血鬼すぐ死ぬ」の世界は、本当に面白くて楽しかった。吸血鬼退治人と高等吸血鬼として、互いに遠慮なく感情をぶつけ合うのは、いつの間にか演じることを超越してしまっていたと思う。ロナルドとドラルクをやるのがあまりに面白くて、おポンチ吸血鬼に振り回される夜々が楽しすぎて──だから、クランクアップのコールと同時に、僕の中で一つの世界が終わってしまった。
     芝居をするとは、限られた空間に一つの世界を練り上げることだ。国立劇場でも、一間しかないギャラリースペースでも、そこを舞台と呼ぶのならば、やることに変わりはない。
     そうして舞台は必ず幕が引かれる。舞台の上に世界を練り上げ、その物語を終わらせるまでが役者の務めだ。僕は今まで、そうやっていくつもの世界を創りあげ、終わらせてきたつもりだ。役を演じるとはそういうことだと理解していたはずだった。そのはずなのに、いつの間にか「吸血鬼すぐ死ぬ」は、ロナルド君と演じる物語は、僕の世界そのものになってしまっていた。
     最終日の撮影後、僕は車の中から父に電話をかけた。時刻はてっぺん近く、勤め人ならば寝ているだろうと思ったのに、父は三コール目で電話に出た。
    『……ドラルクか。どうかしたのか』
    「父さん、遅くにすみません。……いえね、大した用事ではなくて」
    『ああ』
    「……今日、『吸死』がクランクアップしまして」
    『そうか、それは……おめでとう、なんだろうな』
    「ええ。それで、父さん」
    『……』
    「……僕に、経営を教えてほしくて」
    『…………うちでか』
    「はい。……いやどうだろう、別の会社の方がいいのかな。……分かりません。どうすべきですかね」
    『……お前がいいのなら、来月からでも来るといい』
    「はい……分かりました」
     それから二言、三言言葉を交わして電話を切った。嘆息して背もたれに身を預けると、駐車場の非常出口が点滅しているのが見えた。そういえば「ロナルド退治人事務所」の事務机上のデスクライトも、もうすぐ切れそうなんだっけ。撮影でもあまりつける機会がなかったから放置されていたけれど、きっとロナルドなら──そこまで考えて苦笑した。とっくに舞台の幕は降りているというのに。
    「……さて、あんまり舞台に長く立ちすぎたかな」
     高校演劇から換算するならば、二十年を越えている。夢を長く見すぎてしまったかもしれない。

    「えー、僭越ながら吸血鬼を代表してですね、この吸血鬼野球拳大好きが乾杯の音頭を」
    「ちんたら長い挨拶してんじゃねーぞおしゃれハゲー!」
    「イエーイかんぱーい! マイクロビキニにかんぱーい!」
    「えっ僕ですか!?」
    「お前らマジ、マジでそういうことする!」
     どっと笑い声が起こって、結局乾杯の音頭はないまま「吸血鬼すぐ死ぬ」の打ち上げが始まってしまった。打ち上げといっても正式なものではなく、会場だけを借りて料理や酒を持ち寄った、ホームパーティーに近いものだ。参加者は主だったキャストくらいで、人数も多くない。
     僕もキャスト欄の末席に名を連ねていたものだから、こうしてお呼びがかかった。ほとんど一緒に収録をしていたロナルド君はもちろん、同じ吸血鬼役として撮影日が重なることが多かった拳ちゃんや謎に現場へ顔を出しにきていたヨシダ……今は芸名ヨルマだったかな、彼らも打ち上げに参加している。
    「しっかし吸血鬼役、平均年齢たけえな」
    「もうみんなおっさんだな……マナブ君大変だったろ」
    「あの子もなー、気ィ遣いだから」
     テーブルは複数出していたけれども、自然と若者グループと僕らおっさんのグループに分かれてしまった。あっちのテーブルには肉とか肉とか茶色い肉とか、こっちのテーブルには内臓に優しそうな料理ばかりがならんでいる。油物もたれちゃうもんね。
    「ドラルク飲まねえの?」
    「あー、じゃあちょっといただこうかな。そっちの、葵さんが持ってきてたポン酒? 辛め?」
    「刺身と合うぜこれ」
    「ドラさんッッッ!」
    「うわびっくりした」
     なぜか向こうできゃっきゃと飲み食いしていたはずのロナルド君がすっ飛んできた。若者のテーブルからは「またロナルド」「安定のロナルド」「今のうちにからあげ全部食っちまえ」なんて言葉が聞こえて……いや邪魔、僕の真ん前に立たれると邪魔なんだけど、ロナルド君……。
    「ど、どうしたのロナルド君……」
    「え、あ、その」
    「ロナルドちょっとごめんな、ドラルクにコップ……」
    「あ!? こ、これ俺がいただいても!?」
    「えっ僕の……」
    「すんません! すんません! いただきます!」
    「僕の純米吟醸……」
    「……かっっっら!?」
     ロナルド君が口元を押さえて顔を真っ赤にしている。普段飲まない人からすると、随分辛口だったらしい。それでもコップに入った分はどうにか飲み切った。
    「何してんだ君……」
    「今時イッキは流行らねえ……と言いたいところだが拳ちゃんそういうの大好き! ほれロナルド、口直しにこっちのワインも」
    「ぅえ、いや、俺は別に」
    「あ、じゃあ僕そっちを」
    「いただきます!!」
    「僕のマセット……」
     目の前に差し出されたグラスがまた掻っ攫われた。何がしたいんだとロナルド君を見上げれば、思いの外必死な顔をしていたので呆れてしまう。
    「うぷ……あの、拳さん……」
    「次ビールでいい?」
    「いや、別にこっちへ飲みに来たわけじゃ」
    「じゃドラルクにあげちゃお」
    「エーンいただきます!」
     皆がまたわっと盛り上がる。ロナルド君の奇行はこれに限ったものではないが、何も僕のお酒を取らなくったっていいじゃないか……。サテツ君とショット君なんか動画を撮り始めている。ヒナイチちゃんやマリアちゃんは苦笑しているけれども、この面子ならいざという時誰かが止めてくれるだろう。
     しかたなくロナルド君の泣き顔を拝みながらカナッペをつまんでいたが、どうも口寂しい。そっと席を外して喫煙ルームへ行くと、先に喧騒から抜け出していたヨルマがいた。どちらからともなく、ぽつりぽつりと「吸血鬼すぐ死ぬ」で再会するまでにあった出来事の話をし始める。ヨルマも、僕と同じく舞台を中心に。活動していたはずだ。まさかテレビドラマの現場で再会するとは思いもしなかった。
    「最後に演ったの、十年前だっけ」
    「そうそう、お前が取り立てのヤクザで、僕が文学青年」
    「懐かしい! そういやあの時カズサ君っていただろ、ヒナイチちゃんってあの子の妹らしいよ」
    「えーっ! マジか! いつの間にか結婚してたな彼」
    「そりゃそうだ、十年だよ」
     ヨルマの横顔をちらりと見れば、「Y談おじさん」の役に向けて明るく染め直した髪の中にちらほらと白いものが混じっていた。輪郭だって、昔はもっとシャープだったように思う。良かった舞台は昨日のことのように思い出せるけれども、僕たちは確実に時を歩んでいる。
    「……潮時かしら」
     いつからか頭の中でぼんやりと形を成していたものが、ぽとりと溢れる。ヨルマはちょっと目を瞠って、すぐにいつもの食えない笑顔を浮かべた。
    「いくつになっても、お前が一番こだわると思ってたけど」
    「いやあ、こだわってるんじゃなくて、それくらいしかできることがなかっただけさ」
    「一生芝居で飯食ってくって言ってなかった?」
    「それ多分ヨモさんだよ」
    「……劇団抜けるの」
    「僕みたいなおっさん、いても邪魔だろ」
    「衣装なり小道具なり作れば? ドラルク器用だし、評判いいんだから……指導で残るとか」
    「未練がましくてみっともないじゃない」
     ヨルマは押し黙ってしまった。多少刺々しい言い方だったかもしれない思い直し、取り繕うように笑って見せると、ますます嫌な顔をされた。しかし、役者を辞めるのも劇団を抜けるのも僕の中では決まってしまったことだ。それこそ役者を志した子どものころから決めていたことなのだから。

     大企業の経営者の家に産まれた一人息子。教養のある両親と祖父母、身近にあった文学や芸術、当然のようにグランドピアノが置いてある広い家。家庭教師に塾と学ぶ機会も与えられ、幼児のころから同じ生活レベルの友人に囲まれていた。今思っても、なんと恵まれた子どもだったんだろう。
     僕はそこで、毎日退屈だった。
     与えられるものを享受する日々はつまらなかった。本もゲームも音楽も服も、僕が望む前に、おおよそ全て用意されていた。ろくに何かを望んだこともない子どもに、父は「やってみたい習い事でもないのか」と頻繁に尋ね、何かしらに興味を持つことを強要した。興味を持つことを強いられるのならば、それもまた与えられた趣味でしかない。
     苦し紛れに選んだピアノも、ついでのように始めたバイオリンも、容易く人並みのレベルにたどり着いた。けれどもそれまでだ。子ども心にも、面白いとか、楽しいとか思ったことは一度もなかった。一曲をミスなく演奏し終えていくら拍手を送られようと、得意すらなかった。
     学校に通うようになってもそれは同じだった。鬼ごっこ、缶蹴り、縄跳び、鉄棒、追いかけっこ……僕は実際どれも人並みで、時々成功して時々失敗する。そこに勝利の喜びもなければ敗北の屈辱もない。ああ勝ったな、負けたなというだけで──勝敗の事実以上の、何を見出せばよかったのだろう。
     思えば、子どもの僕は何かをやり遂げるという感覚が分からなかったのかもしれない。やり遂げるとは最後まで突き詰めるということで、では最後まで突き詰めるとはどういうことなのか? ピアノを練習しながら、隠れんぼで廊下の隅にうずくまりながら、「ところでこれの最後とは何だろう」と、そればかりを考えていた。勉強もスポーツも、一つ目標を果たせばすぐに次がある。子どもの僕には、多少の努力ですぐに達成できるような目標すらも、すでに用意されているものとしか思えなかった。何かを達成した時、「頑張ったね」と言う大人がすぐに僕の頭上を、次の目標を見据えているのにもうんざりしたものだ。
     人生とは、こうして目の前にぶら下げられた何かを掴んでは次を追い、掴んでは次を追いかける、タスクにまみれたもののように思えた。工場で組み立てられる車のように、適切な時期に適切なものが与えられ、勝手に僕という人間が組み立てられていく。そんなものか、と思った。退屈だけれども、仕方がない。与えられるものを突っぱねるほどの反骨心や情熱は、あいにく持ち得なかった。そんなものを与えられた覚えはなかった。
     祖父と演劇を観に行ったのは、中学生の時だった。
     特段著名な劇団の公演であるとか、シェイクスピアの戯曲のように有名な作品であるとかいうわけではなかったように記憶している。いつものようにふらりとやってきた祖父が、「暇ならお爺ちゃんと遊ぼう」と言って、三十席ほどしかない地下劇場に僕を連れて行った。
     演目名どころか、劇団の名前も主演俳優の名前も覚えていない。おぼろげにどういうストーリーだったのかしか覚えていない。
     確か、女の子の一生を描いた話だった。幼少期、家族との別れ、上手くいかない友人関係、次第に異性に依存していき、とうとう再生不可能なところまで堕ち切った……かと思いきや、予想外の出来事、芸能事務所のマネージャーに才能を見出された彼女は、人生で初めて生きがいなるものを獲得し、トップスターとして舞台に君臨する。しかし全国ツアーの最終日、狂信的なファンがステージ上の彼女目掛けて突進、その手に握られていたナイフに深く貫かれ、眩いステージで一身にスポットライトを浴びながら、彼女は絶命する……。華々しくも短く散ってしまった女の子が、悲劇のヒロインになって初めて人生に満足できた話。
     僕はそれを観てしばらく呆然としていた。隣の祖父に促されるまで、席を立つのも忘れていた。
    「どうだった?」
     祖父にそう聞かれて、僕はなんと答えたのか分からない。その後もちょくちょく観劇に連れて行ってくれたから、多分よかったですとか、面白かったですとか答えたんだと思う。実際には、よかったとか面白かったでは済まない。当時中学生の僕の中では、大嵐が吹き荒れていた。
     眩いほどの照明の中、満足気に瞳を閉じた舞台女優。真っ暗な舞台の上で寝そべって、拍手喝采を浴びていたであろう彼女。僕は、彼女が羨ましかった。あの舞台にはきちんと終わりがあって、しかも彼女はそれを満足感と共に見事に掴み取って見せた。
     僕も終わりを掴み取りたい。この手で世界を閉じる瞬間を得てみたい。
     気がつけば僕は舞台演劇にのめり込んでいた。高校演劇に始まり、それだけに満足できず一般の劇団のオーディションを受けてみたり、路上でパフォーマンスとして、朗読劇や一人芝居をしてみたりした。けれども不思議なことに、僕はそれまでのようにすぐ飽きることができなかった。脳裏にはいつでもあの舞台女優の満足気な表情があって、僕はあの、最高の瞬間を迎えて終わるのだと固く決意していた。
     最高の瞬間とは、どこまでも僕の主観であった。公演が成功しても、客席を満席にした舞台でも、大御所俳優からお墨付きをいただいた演技でも、それは訪れなかった。
     僕が舞台を続けてきたのは、つまりそれだけだ。もちろん舞台を、芝居を愛してはいるが、それはいつか僕が掴み取りたいと願う最高の瞬間のためだった。
     ロナルド君と「吸血鬼すぐ死ぬ」のドラマを演ることになったときも、いつもと同じように期待した。二、三時間で済んでしまう舞台と、時間をかけて撮り進めるテレビドラマの撮影とでは勝手が違ったが、誰かと一緒に世界を練り上げるというのは同じだった。ロナルド君は僕が今まで見てきたモデルや俳優の中でも飛び抜けて美しく、彼を主役とした物語はどんなに見応えがあるだろうと、わくわくしていた。
     彼を実際目にするまで、業ちゃんが提案したダブル主演、コメディ調のドラマは、彼に向かないと思っていた。ところが初めてロナルド君を発見した、あの画面越しの瞳の輝きは、実際目の当たりにしてみるとずっと純真な光を宿していた。業ちゃんの説明に戸惑い、揺らぐその輝きを見て、僕はこのきれいな男の子と作り上げるトンチキ世界に夢を見た。ファンタジーでなければ恋愛でもない、日常ものと言うには刺激が多すぎる。業ちゃんの撮りたい「魔都シンヨコ」、僕とロナルド君とでそれを演じ切ることができれば、それはきっと最高なのではないか。
     果たしてそれは本当だった。「吸血鬼退治人ロナルド」と「吸血鬼ドラルク」の日常は、どこを切り取っても最高に面白く、初めはロナルド君をいかに引き立たせる画面にするかと考えていた監督も、そのうち「彼は隅っこにいても面白いな」なんて言い出す始末。いやあ、楽しかった。いつまでも楽しかった。
     一つ誤算だったのは、「吸血鬼退治人ロナルド」と「吸血鬼ドラルク」を演る以上に、ロナルド君と「吸血鬼すぐ死ぬ」をどう演るか、と考え合うことが楽しかったことだ。彼の感性、アイディア、素直な反応、どれをとっても新鮮で面白く、僕が驚かされることもままあった。
     舞台としての魅せ方は知っていても画面としては今ひとつ分かっていない僕と、絵になる瞬間は意識できても演技には自信がないロナルド君。互いに手探りで「魔都シンヨコ」を作り上げていくのは当然大変だった。しかし、苦労をすることすら面白い。そういうのは、初めてだった。同じように世界観の構成が難しくて苦労した舞台はいくつもあったはずなのに、どうしたことだろう。
     答えはクランクアップの前日に気付いてしまった。撮影終了後、別れ際のロナルド君に「最後まで頑張りましょうね!」と言われた時だ。このドラマの撮影が終わるということは、僕とロナルド君はまた関わりのない他人同士になることだ。終わったら嫌だなあ、と思った。 ──彼と離れるのが耐えがたい。
     僕は愕然とした。いつの間にか、ロナルド君といること自体が僕にとって「最高の瞬間」になっていた! 彼の見せる仕草に一つ一つが、言葉の一々が、とんでもなく魅力的なものになっていた。「吸血鬼すぐ死ぬ」の撮影が終了すれば、この「最高の瞬間」は二度と訪れない。僕は、舞台を降りなければならない。

     いつの間にかヨルマは喫煙ルームから姿を消していた。僕も短くなった煙草をもみ消して、ひょいと会場を覗き込む。中途半端に食べ散らかされた料理たち、あちこちに転がるグラス、意識のない男たちは死屍累々という言葉がぴったりだ。
    「あ、ドラルクさん……これどうしましょう」
    「うーん……ヒナイチちゃんたちは帰っていいよ。マリアちゃん、女性陣を頼めるかい?」
    「りょーかいです! ドラさん素面なんスねえ」
    「なんかロナルド君に邪魔されたから……」
    「ロナ君ならそこに転がってますよ、ほら」
     拳ちゃんに腕を巻き付けられた状態で床に転がったロナルド君は、かろうじて意識があるらしく、僕が近づくと「助けて……」とうめいた。うーんイケメンも形なし、ロナルド君のこういうところがたまらなく面白いな。
    「ロナルド君、立てる?」
    「う、腕が……腕が……」
    「ほら拳ちゃん、腕……うわ、完全に潰れてる」
     見渡せばほとんどが熟睡しているようだった。こりゃ全員を起こして家まで送るのは無理だなと判断して、何人かのマネージャーに連絡を入れた。幸い会場は明日の昼まで借りている。最悪このまま寝かせておいても問題はないはずだ。
    「じゃあ意識ある人だけ送るけど……って、残ってるのロナルド君だけ?」
    「んー……ヨルマさんが起こして、何人か連行してった、ような」
    「じゃあ僕らだけで帰っちゃおうか」
     ロナルド君はちらりと床に転がる先輩俳優たちを見下ろしたが、先ほどまで自分が受けていた理不尽を思い出したのか「まあいいか」と頷いた。
     送ると言っても、僕も今日は飲むつもりでいたから、車は置いてきた。タクシーを呼ぼうとしたらロナルド君に「酔い覚ましに歩きたい」と言われ、駅まで二人で歩いて帰ることにした。
    「あ、ドラさん見てください、歩行者専用ボタン!」
    「え、うん、そうだね」
    「へへ、俺ボタン押せるんですよ!」
    「うん? うーん……そっかあ、よかったねえ」
    「えへへ、すごいでしょ」
    「すごいすごい」
     ロナルド君は随分酔っているようだが足取りはしっかりしている。なぜかボタンを押すところを執拗に見せつけようとするのをやんわり引き留めて、月夜を見上げてながら歩く。「魔都シンヨコ」にもこんな夜があったのかもしれないという考えが頭をよぎって、自分の未練がましさに少しうんざりした。
    「ドラさん、終わっちゃいましたねえ、吸死」
    「やっと終わったねえ、ロナルド君お疲れ様」
    「俺、前貼りしたの初めてです」
    「実は僕も初めて」
    「えっ! 俺たちおそろい!?」
    「なんか嫌だなそのおそろい」
    「ドラさんならもうやってそうだと思ったのに」
    「僕に対して何を思ってるのそれ!?」
     酔ったロナルド君は、初めこそ順調に歩いてくれていたが、次第にテンションが上がってきたのか酔っ払いの本性を表してきた。むしろ会場にいた時のほうがまともだった。
     右へ左へ蛇行を繰り返すロナルド君は、足下が覚束ないというより何にでも興味を持って近づいていっちゃう子どものようだ。蜘蛛の巣の前でじっと佇んだり、床置きの看板の文字を指でなぞったり、何か見つける度に立ち止まるから、駅までそう遠くないはずなのにまったく進めない。うひゃひゃ、と楽し気に笑っていられるのは酔っ払いの特権だ。僕は酔った時のことをあまり覚えていないタイプだから、ぼんやりと楽しかった記憶しか残らないけれども。
    「君が酔って電柱に登るタイプじゃなくてよかったなあ」
    「んー……登れますよ!」
    「やめてやめて、引き留められないからさすがにそれは」
    「逆立ちとかできますよ!」
    「ああっロナルド君酔うとものすごい行動的だな……! いい子だから大人しく着いてきてよ、ねっ」
    「はいっ!」
    「いや正座じゃなくて、いい子なんだけど」
    「ドラさんっ! ありがとうございましたっ!」
    「それじゃ土下座なんだよロナルド君」
     ぺこりと上体を折り曲げたロナルド君の腕を引いて立ち上がらせると、なぜかそのままぎゅっと抱きしめられた。普通に酒臭い、自分が飲んでない時には結構気になるものだな。
    「……ロナルド君、歩」
    「俺、ドラさんと演技できて、めちゃくちゃ楽しかったです!」
    「聞いちゃいないな」
    「いや、今言っておかないとって思って」
    「あ、ちょっと覚めてきた?」
    「俺ドラさんのおかげで、演技が楽しいものなんだなって思えるようになりました」
    「……うん、それは良かった」
     身を離してロナルド君の顔を覗き込めば、多少正気が戻っているようだった。良かった、僕らはこれで最後だろうに、別れ際が酔っていて記憶にない状態だったらさすがに寂しい。嬉しそうに演じる喜びを語るロナルド君が眩しくて、僕は少し目を細めた。
    「君の成長のきっかけになれたのなら、光栄なことだ」
    「はい、俺今まであんまり演技とか興味なくて……あっ適当にやってたとか、そういうんじゃないんですけど!」
    「うんうん、まあ、君素人に近かったし」
    「うっ……で、でも、俺今度ドラさんと共演する時までに、絶対めちゃくちゃ勉強しますから!」
     ロナルド君の言葉に、僕は瞬きを一つ返した。今度共演する時まで、それって次があるって話じゃないの。君に望んでいいことなのか。
    「……」
    「相棒もいいけど、友人にもなりたいし、上司と部下もいいなあ! 全然知らない赤の他人でも楽しいですよ、多分、ドラさんとなら」
    「……僕は、君とはこれぎりだと思ってた。君はまたいろんなドラマに出て、僕はテレビには……」
    「? なんでですか、また一緒にドラマやりましょうよ、楽しかったんだから! 俺もっと良い演技ができるように頑張りますよ、もっと楽しくなりますよ!」
    「もっと? 今より?」
    「今よりずっと!」
    「……そっか」
     君との最高の瞬間は、更新されるのか。君はもっと進化してくれるのか。次も、その次も望んでいいのか。目から鱗が落ちたようだ。僕はてっきり、芝居の幕と共に自分の一つの世界が終わったものだと思っていたけれど、そうではなかった。ロナルド君とはまだこれから、始まったばかりだったのだ。彼がそう望んでくれるなら、勝手な幕引きなんかしていられない。
     駅前のロータリーで拾ったタクシーにロナルド君を押し込み、去って行く後ろ姿を見届けた。ふとスマホを見るとヨルマや拳ちゃんからメッセージが来ている。彼らの、次の公演についてだった。
     少し迷って、そのまま父に電話をかけた。今日も遅い時間だが──父は三コール目で出た。
    『どうした、ドラルク』
    「すみません、父さん、夜分に……ごめんなさい、あの先日の話なんですが……ええと……」
    『……なあ、昔お前がギャラリーでやってた……ドラルクが間男役の芝居、あったろ』
    「え? ええと……ああ、はい。あったけど」
    『あれな、良かったよ。面白かった』
    「え……」
    『父さん、お前の演技が結構好きなんだ。……だから気にするな』
    「……はい」
    『次も、その次も楽しみにしてるから』
    「はい、父さん」
     電話を切って顔を起こすと、頬が濡れているのに気がついた。年甲斐もなく流れた涙に恥ずかしくなって、慌てて両手で拭う。
     演じるとは、芝居をするとは、限られた空間に世界を練り上げることだ。舞台の上に世界を練り上げ、その物語を終わらせるまでが役者の務めだ。だから役者の満足とは、舞台と共に終わるはずだと思っていた。舞台の裏側にまでその満足が及んでいることを、僕は二十年以上知らないままでいた。舞台は終わるが、その裏側で僕自身の生活は続いていく。二つを切り離す必要は最初からなかったのだ。僕の幸福はいつでも舞台と共にあった。
    「……なるほど、歌いたくなっちゃうな」
     誰もいない夜道にスキップをして、電柱に身を寄せて、大袈裟に空を仰いでみる。次、次、次がある。ロナルド君と、皆と、踊り続けて構わない。僕は演じるのが好きなのだ。恥ずかしながら今知った!

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