君の綴る物語
文字を追うことが好きだ。その先で何が起こるかわからない。できれば幸せになってほしいと思う。だがそうならなかったとしても、仕方ない。人生なんてそんなものだ。時にそういう日もある。
想像してみる。とびきり幸せな結末と、そうなる過程と。この先に一体何が起きるのだろう。このページを捲った先に。
ふわふわとした風が視界を遮ったので、彼女は頬杖を突き直し、組んでた足も一緒に上下を入れ替えた。やや腰も痛い。ずっと同じ体勢だったからだろう。一度そういうのが気になると、集中力が途切れてしまうからダメだ。同時にバラバラと風でページが捲れる。
「あっ」
彼女が押さえる前に、正面から別の大きな手が伸びてきて本の真ん中に置かれる。
「え?」
白地に、インコの羽のような鮮やかな色の籠手。爪は美しく、丸く整えられていた。
「薙刀、巴形だ。銘も逸話も持たぬ、物語なき巴形の集まり。それが俺だ」
モノクルと、陽に透ける髪。それから明るく濃いピンクの瞳。一見してみれば凛として目鼻立ちの整った女性モデルのような顔をした相手を、彼女が辛うじて男性だとわかったのは先に声を聴いたからだ。低く、落ち着いた語調だった。
「と、もえがた?」
「ああ。今日からよろしく頼む、主。見ていたのはこの頁だ」
ぺらぺらとその手は風に遊ばれる前のページを開いてくれる。ずんと立ち上がったその薙刀は、鍛刀時間を終え優に一時間も彼女が本から顔を上げるのをただ前に控えて待っていたらしい。
「主、何か困っていることはないか。欲しいものはないか。あれば俺に言うといい」
「巴、丁度、よかった! その本、それ取ってほしいです、巴!」
「あいわかった。あれだな」
上背のある巴形はひょいと背伸びをすることもなく彼女の指さした本を手に取る。一番上の棚にあるそれは彼女には届かなかった。巴はもう片方の手も本に添えて彼女に差し出す。
「これだな」
「ありがとう巴。助かりました」
「これからも何か困れば俺を呼べ。今からそれを読むのか」
「うん。仕事もするから、一緒に執務室に行きましょう」
「あいわかった」
他の刀なら、きっと彼女が書庫にいるのを見つけただけでちょっとしたお小言を漏らしただろう。けれど巴はそんなことしない。彼女が行こうと言えば行くし、取ってほしいと言えば取るし、仕事をしようと言えばそうしようと答える。
巴形というその薙刀は、自分で言ったように特定の銘や逸話を持つことのない刀剣らしい。また神格も高くヒトとしての意識が薄い。それゆえにやや言動や行動が幼子のようなのかもしれないと彼女は思ったりもする。
彼女が記入した報告書を横に流せば、巴は上から下まできっちり確認して他のものと端を合わせた。巴は非常に几帳面である。
「近侍の仕事にも慣れてきましたね、巴」
「ああ。役に立てることも増えたはずだ。俺に何でも言ってくれ」
「ありがとう」
来たばかりの刀剣は、皆一様に最初は近侍になる。それは彼女が様子を見るためであり、なるべく早めに本丸に馴染んでもらうためでもある。
「練度は……これからまた徐々に上げていってもらわなきゃいけないけど他に何か困ってることはありますか?」
彼女がそう聞けば、巴はこてんと首を傾げた。
「俺がか? 特にはない」
「そうですか」
まだ困っていることにも気づかないのかもしれない。徐々に、じわじわと不足しているものにも気づいてもらう他なさそうだ。
「じゃあ少し休憩してていいですよ。本丸で好きに過ごしていいし、時間があれば散歩したりとか、万屋に行く子もいるみたいです。今日の仕事は一段落しましたから」
「そうか、あいわかった」
彼女が見た範囲では……巴形は前の主もいないためか本丸内で特段親しくしている刀剣がいないようだった。もちろん同じ刀種の岩融だとか、近侍をしたがるへし切長谷部だとか、一方的に話しかけられていることは多い。けれど自分から何かすることはない上に、やはり色んなものが希薄なのか何をしても興味深そうに見るだけで、積極的に手を出すようなところがない。
だから空き時間でも作れば、趣味なり何なり見つけられるのではないかとちょっと思っては見たのだが……。
「……どこも行くところない、でしょうか?」
あいわかったと返事をしてから、巴は一切動いていない。彼女が本を読む背後にずっと控えている。
「俺は主のような小柄なものが使いやすいよう作られた薙刀だ。主が必要なときのため、こうして控えているのがいいと思ったのだが、違っただろうか。俺はこうした傍仕えが向いているのだが」
「そうですかあ……」
大真面目な顔でそう言われては、なんだか追い出すのも忍びない。とは言え、じっとそこにいられるのも落ち着かない。
どうしたものかと彼女は机の上に開いた本のページをなんとなく指で弄る。巴はちらりと視線だけその手に向けてきた。
「主はいつも書物を読んでいるな。物語が好きなのか」
カチと音を立てて、巴がモノクルを直す。鎖が僅かに鳴った。
「え、あ、はい、割と何でも。怖いのも、面白いのも。一番はすっきり幸せに終わるのが好きですが」
「うむ、主が好きなものならば覚えておこう」
彼女がページを捲るのを、巴は右から左に同じように目で追った。やはり小さい子や、動物のようだと彼女は思った。しかしじっとそこにいられるより、会話があったほうがこちらもやりやすい。彼女は巴を手招きして、自分の隣に座布団を置いた。膝を進めた巴が「失礼する」と前置いてからそこに座る。
「私は現世から、呼ばれてここに来たんですが。昔からとても本が好きでした。だから歴史が危ないだとか、そういうことは事実より物語しか想像しかできませんでしたが……それに勝ち負けとか、あまり得意じゃないので」
歴史の授業は好きだった。けれど彼女が興味を抱いたのは史実ではなく、そこから派生した物語。創作の多い世界でしか、彼女は歴史を想像できない。だから審神者の召集があったとき、彼女は自己の適性を本当に疑った。
「ふむ、主は元より神職や武家のものだったわけではない、と言うことだな」
「そう。がっかりしました?」
「いいや。俺も典礼用だからな。しかし、そういう理由で戦場に来たのならば、不都合が多いのではないか。勝手が違うだろう」
確かに、傍仕えが向いていると自分で言うだけあって気遣い上手だ。彼女はくすりと笑って首を振る。
「いいえ、全然。慣れないことはまだ多いけど、皆色んな話を聞かせてくれるから、私も退屈しないし寂しかったことなんかもありません。だからある意味よかったなって思ってるくらいです。家の本は読み飽きたところでしたし」
長い長い歴史の、彼女は教科書でしか知らない戦いや人物の人となりや、出来事を直に見てきた刀剣男士たちの語ってくれる話は、彼女にしてみれば垂涎ものの面白さであった。不謹慎かもしれないが、彼女はそれを楽しんでいる。そして同時に、これらがなくなってほしくないとも思う。だからというわけではないが、歴史を守りたいとも。
「そうか。俺にも主に語って聞かせることのできる物語があればよかったのだが」
あ、とページに視線を落としていた彼女は顔を上げる。今のは巴に対して不躾だった。
「ごめんなさい」
そう言えば、彼女同様本に目をやっていた巴も顔をこちらに向ける。
「どうした? 主が謝ることは何もないと俺は思うが」
「……そう、ですか」
傷つく心も、巴はまだ持っていないのだろうか。
再び揃って本を見つめながら、彼女は考える。今の一言も、巴にとっては感傷や希望ではなく、ただ「そうであればよりよかった」という事実でしかないのだろうか。そうすれば、「主」がもっと喜んでくれただろうという、ただの。
それはなんと……なんと、乏しくさもしいことだろう。
「巴も読みますか?」
不意に彼女の口をついて出たのはそんな言葉だった。
「読む、物語をか? 兵書なら読んだほうが良いかと思い目を通したが」
巴は不思議そうにして首を傾げる。そうだ、本、と彼女は繰り返した。
「そう、うん、そうしましょう。他にやりたいことがないなら」
もしかしたら、本を読んだら、物語にたくさん触れたら、巴も想像力だとか感情だとかもっと豊かになるかもしれない。彼女は巴の大きな手を両手で掴んで引いた。
「最初は絵本とかの方がいいかもしれません、きっと読みやすいですし」
「えほん、絵巻と何が違うのだろう」
「大体一緒だと思います、ほら、行きましょう」
書庫に彼女の持ち込んだ絵本があるはずだ。執務室から書庫に逆戻りして、彼女はそれを探した。低い段にしまったはずだと膝を突き、ずりずりと進む。巴も同じようにして屈んでついてきた。
「あった、これとか面白いですよ」
一冊引き抜いて彼女は巴に見せる。巴はモノクルをまた直した。
「これは幼いものに向けた本ではないのか」
「絵本は大人になってから読んだら面白さがわかるものが多いんですよ。あとこれと、これと」
彼女が本をいくらか引き抜くと、巴がすぐに受け取って自分で抱える。とりあえず五、六冊を選んで執務室に戻る。彼女と巴は向かい合って座って畳に本を広げた。
「好きなのから読んでみてください」
「うん、あいわかった」
巴は手近なところにあった熊の表紙のものを取る。大判のそれを開き、ぱら、ぱらと捲り……そして閉じた。
「読んだ」
「……ちょっと早くないですか、わからないところとかは? それ海外の本で」
「いや、わからぬ文字はなかった。きちんと読めたと思うぞ」
スンとした顔のままで巴が言うので、彼女は段々と雲行きの怪しさに気づく。いや、読み書きに問題がないことが知れたのはいいことだろうけれど。
「か、感想は?」
流石に何かあるだろう。彼女の問いに、巴は本を再度開く。
「この熊は迂闊だな」
ずるりと彼女は滑った。
「う、うかつ」
「よく食べるのは獣としてよいことだが、知人の玄関を塞ぐのは良くないと思った。食べる量を制限しなくてはならない。それから熊は熊だ、雲ではない」
なるほど、なるほどなるほど!
彼女は頭を抱えたくなったが、まあいい。何も感じていないわけではないのはわかった。
「わか、わかりました。巴、今度はもうちょっと楽しんでみましょう」
「楽しんで、なるほど」
「たぶんだけど……巴は今、文字をただ読んだだけなんじゃないですか?」
文字を文字として読んだだけ。それは「読む」という動作としては合っているが、「本を読む」のには些か物足りない。
「間違っているのだろうか。俺はこの熊の物語を読んだつもりだったのだが」
「合ってます、内容的には。でも、そうですね……あ、そうだ、じゃあこれ読んで聞かせてください」
音読ならば、もう少し余韻や行間を楽しめるのではないだろうか。つらつらと読み上げるだけでは違うのだとわかりやすいのでは。彼女は姿勢を正して話を聞く体勢になった。
「読む、これを。主にか」
「はい。私にこれがどういう話なのか、わかるように聞かせてください」
「あいわかった。では」
もう一度最初のページを開いた巴が絵本を読み始める。読み始めたのだが、やはりどうにも駄目だ。説明書だとか報告書だとか、そういうものを聞かされている気分になってくる。読み方が淡々としすぎてなんだか絵本の熊が図鑑の写真のように見えてきた。実はふわふわのぬいぐるみなんかじゃなく、獰猛なツキノワグマとかじゃないだろうか。やや迂闊な。
「読めた。どうだっただろうか」
「うーん……」
どう教えるのがいい。悩んで彼女は仕方なく別な絵本を手に取った。一度迂闊な熊から離れよう。
「じゃあ今度は私が読みます、巴は聞いていて」
「あいわかった」
彼女は少しだけ考え、手近にあった布で表紙を隠した。絵本は本来挿絵を楽しむものだが、今日だけ。
音読を始めると、巴はピシリと伸ばした背筋をこちらに少しだけ傾けた。素直で、まっさらだから聞いてと言われた以上真剣にそうするつもりでいるのだ。好みに合うと、いやとりあえずは本を好きになってくれるといいのだが。
「……このお手手にちょうどいい手袋ください」
読み進め、彼女がそう言った途端、巴が僅かに目を見開いた。何か言うかと思ったが、巴は口を噤んでいる。
「……ほんとうに人間はいいものかしらとお母さん狐は呟きました。おしまい」
パタンと絵本を閉じると、ぱちぱちと巴が瞬きをする。やや前のめりだった。
「……終わりか?」
「終わりです」
「狐はどうなる。母狐はこれから人間に対する考えを改めるのか」
「それはどうかな、書いてありません」
ほら、と彼女は巴に絵本を開いてみせる。本は本当に母狐が逡巡するところで終わるのだ。巴は困ったような、なんともいえない顔をしてそれを見た。
「嫌でした? この話」
反応が微妙すぎたので彼女は尋ねた。すると巴は首を振る。
「嫌、というのとは違う。ただ、この先が気になるのだ。狐の親子は冬を越して、それからどうするのだろう。子どもの狐が、また帽子屋に会いに行くことはあるのだろうか」
不思議そうに呟く巴に、彼女はほっと息をついた。これなら、きっとどんどん楽しくなる。
「巴、この本はここで終わりなんです」
「狐は終わりなのか」
「はい。でも終わってしまったから、これからどうなったかは、巴が自分で考えていいんですよ」
「俺が、自分で」
パチパチと巴が瞬きをする。彼女の膝に置かれた絵本に手を伸ばし、そこに描かれた狐の絵をなぞった。大きな指が、母狐の輪郭をなぞる。
「……春になり、狐は、親子で町へ降りたと思う」
「はい、それで?」
「言葉を交わしたかどうかはわからないが……帽子屋の元へ行き、顔を見せて、山へ戻る」
ああ、それはとても、優しくて温かな光景だ。彼女は目を閉じて巴の言葉を聴いた。狐の親子が二匹で、帽子屋の元へ。窓から覗き込んだのだろうか、また扉を叩いたのだろうか。それから山へ戻る二匹の後姿。緑色の、春の山。
「素敵な物語ですね」
素朴だけれど、綺麗な。そう返すと、巴はやはりじっと挿絵を見ていた。長く一度瞬きをして、「そうか」と一言呟く。
「今度は迂闊じゃないんですか」
食べ過ぎの熊は駄目だったのに、出す手を間違えた子狐はいいのか。彼女がからかい混じりに言うと巴は頷く。
「主の読む狐は、迂闊ではなかった。主は高い声も低い声も出せるのだな。冬の山が見えるようだった」
「読み方って大事なんですよ。今度音読するときは気をつけて。それにほら、一人で読むときは文字を読みながら絵を追うのも楽しいでしょう? 私が読むだけですと、どんな狐か巴の頭の中にしかいなかったでしょうし」
興味深そうに巴はもう一度頷く。絵本を手に取り、今度はゆっくり捲った。絵を上から下まで見ているようだ。
「ああ、俺の考えていた狐はこんなに目がくりくりではなかった」
「くりくりって」
「なるほど、本とはこんなにも面白い。学ぶことばかりだ」
しげしげと巴が持ってきた本を代わる代わる持つので、彼女は嬉しくなって笑う。
「そうでしょう? 書庫の本は好きに読んでください」
「ああ、そうしよう。俺の知らない物語がまだまだたくさんあるようだ」
相変わらずの無表情だが、巴は何度も瞬きをして本を見ている。
「主、困っていることはないか」
食後に本を読んでいると、巴の声がした。彼女は栞に手を伸ばしつつ返事をする。
「ん、ちょっと待って、今気になるところなので。ここだけ読んだら仕事に戻りますから」
「……ああ、その本ならば俺もこの間読んだところだ。犯人は」
「あーーーーっ!」
慌てて叫び声を上げた。何てことを言うのだ。凄まじい速さで彼女は本を伏せて机に置くと、巴の口を手で押さえた。
「と、巴、それはだめ。先に読んでてもそれだけは絶対言っちゃだめです」
「いけない。何故だろうか、いつも読んだ本の感想は言っていたはずだが」
「犯人だけは駄目、言った相手によっては殺されかねません、絶対駄目」
いいですか、と念を押せば流石の巴も慄いたようで頷く。
「生死に関わる問題なのか、あいわかった。決して言わぬ」
「うん、うん、そうして」
巴はかなり本を読むようになった。最初は絵本ばかりだったのが、段々と彼女のように色々なものに手を伸ばすようになり、読む速度が早いのもあって今では彼女の読んでいないものにも手をつけている。
それと同時に、前より本丸の刀たちとも話すようになった。好奇心旺盛な子どもの形を取った短刀たちが、巴に絵本の読み聞かせを強請ったり、手にしている本で会話が広がったりする。主である彼女が本を好むからか、この本丸の刀剣たちは比較的読書家だった。
「歌仙が言う和歌はまだ理解するのに時間がかかるが、和泉守や獅子王が好む冒険譚はおれも面白いと思う。加州は写真の多い本を見せてくれた」
「雑誌でしょうか、清光は確かファッション誌か何か毎月買ってましたし。巴もたくさん本を読むようになりましたね」
うんと大きく巴は首を縦に振った。
「だがやはり俺は絵本が一番楽しい。最初に手に取ったからだろうか」
「そうですか……よかった」
シンプルに、それはとても嬉しいことだ。巴に何か楽しいと思えることが出来た。安堵して微笑む。よかった。
けれど巴は一転、僅かに緩んだそれからまたスンとした表情に戻る。
「だが主、読む本がなくなった」
「え?」
なくなった、まさかあの書庫の本を読みつくしたというのか。
「ひとしきり読んだはずだ。端から順に手にしたから間違いない」
「えっ、あの量を?」
そ、それは……予想だにしていなかった。彼女は呆気に取られて持っていた本を取り落とす。
「そ、れはその、えーっと」
「新しい物語はもうないのだろうか」
「いや、まだたくさんありますよ。ありますけど、取り寄せないと」
兵書以外の本は、頼んだら直ぐに届く通販とは別ルートで発注しなくてはならない。私物や雑費とみなされる為である。政府なのでその辺りやはり厳しい。だから本を取り寄せること自体は可能であっても、日数がややかかる。
「そうか」
ぽんと歯切れよく巴は言ったものの、目に見えてシュンとした。せっかく楽しくなってきたところなのに、あれではなんだか忍びない。
「あっそ、うだ! 書いたらどうですか、自分の物語」
苦し紛れにあたりを見渡し、文机の上にあった手帖を取る。まっさらなものだし、これは巴にあげても問題ない。まとめて買うと安くなる文具セットに入っていたのだが、和綴じで開きづらかったのもあってそのままになっていたのだ。題字も書けるし丁度よい。
巴は首を傾げて、彼女が差し出した手帖をしげしげと見る。ぱらぱらと捲ったページはまだ白い。
「物語を、俺が自分でか」
「そうです。モノが語るから物語なんでしょう? 丁度いいじゃないですか」
それに少し、気になっていた。以前「俺にも語って聞かせる物語があればよかった」と言っていた巴のことを。別にそれは持って生まれたものでなくてもいいのではないだろうか。これから、作るものでも。
「ほら、物語を拡充するのに自分で綴ったって問題ないですよね? 日記にならないように注意してください」
「……なるほど」
「絵本のほうは、私が選んで発注しておきます。それまで、というわけじゃないですけど。どうでしょう?」
巴は懐を探って、矢立を取り出す。筆の先を墨に浸すと、表紙に『巴形薙刀物語』と書いた。細い、女性のような筆跡だが流麗で芯が通っている。
「どうだろうか」
「……割とまんまですが、いいと思います、わかりやすくて」
「物語の最初はなんと書いたらいいだろう」
一ページ捲った巴が言う。
書き出しは重要だ。それを聞いただけでなんの物語なのかわかる話だってある。うーんと彼女と巴は二人して首を捻った。
「何、がいいでしょう」
「難しいな。だがわかりやすいほうがいいのなら」
巴は筆ですらすらと文を書く。
「巴形薙刀は、主の本丸に顕現した刀剣男士です」
「……本当にまんまですね」
身も蓋もないというか、わかりやすいかわりに捻りもない。しかし巴は最初が書ければ弾みがついたのか、続きをそのまま記す。
「巴形薙刀の主は、物語が好きで、巴形薙刀が顕現したときも物語を読んでいました。ずっと顔を上げずにそうしていたので、巴形薙刀は、きっとそれは良いものなのだろうと、思いました」
「……」
自分を形作るものがないというのは、どういう気持ちなのだろうか。
彼女にはわからない。だがそれもそのはず、彼女にはここに肉体があり、心があり、生命がある。平たく言ってしまえばここで生きて、死んだら終わり。この形のまま生まれてきて、そうして死ぬ。
彼女は彼女と言う名の個で、それ以上でもそれ以下でもない。
「ふわふわしているって言ったらいいのかな、お前はどう思う?」
「どう、と言われてもな。俺は俺でしかない」
平家物語と土蜘蛛と橋姫と、以前自身の持つ逸話と歴史を語ってくれた髭切と膝丸の言葉を思い出す。
「僕たちも名前と、逸話と、多く持つからね。結構存在がふわふわしているんだよ。依り代もたくさんだしね」
「まあ……そうだな。俺だと、兄者だといわれる刀は多くある。それのどれが真でどれが偽か。判ずるのは俺たちではない。俺たちをそういうものだと定めたのは君たちヒトだ」
「難しいですね。多くても良くないということですか?」
彼女が問えば、二振は首を傾げた。胡坐をかいた髭切がひらひらと手を振った。
「良い悪い、で話すのは難しいかな。ただ、そのふわふわした感じを君たちの作った物語が支えて形を与えてくれてることは確かだよ」
「形を」
「そう。あちらこちらに散らばってたくさんの名前になったものを、まとめて繋いで一つにする。そうして僕らの形にする。それが君たちの言う、物語なんだと思うよ、僕はね」
それに対して膝丸のほうはやや考えたようだったが、まあ結局はそれに頷いた。兄と比べて、膝丸のほうがやや理屈っぽい。だから言葉を捜したようだ。
「枠組みと言うのは正しいかも知れないな。依り代の刀がひとつでない以上、それを合わせて流し込むための型がいる。それが恐らく物語なのだ」
「おお、いい表現だね弟。そうそう、結局は、弟の言うように僕らの枠組みなんだよね、形を取るための、僕らが僕らでいるための」
個が個であるための枠、形。それが物語、銘。
でも、銘も逸話も持たぬ存在の集まり……。
「巴、何か物語に書けるようなことをしに行きましょうか」
彼女は巴の手を取って言った。有り体を書き綴っていた巴は顔をあげる。
「物語に書けるようなこと、とは」
「いや、それだと日誌になるような気がしたので。ちょっと出掛けてみましょう。ほら、絵本の狐だって町に出たし、熊だって台風や嵐に流されたりしましたよ」
出掛けるのだって、料理のしようによっては物語や日記になるだろうが、それはそれ。とにかく何か一つでも、逸話になりそうな話を。巴は引っ張られるままに立ち上がる。懐に矢立と手帖だけしまった。
「出掛ける、どこまで」
「そ、うですね」
思いつきで言ってはみたものの、どうしたものか。彼女は首を捻り、外では鳥の鳴く声がしたりして……。
「巴、馬には乗れますか?」
高い場所だからか空気が澄んでいる。彼女は馬上でうーんと背伸びをした。
「ありがとうございます、初めて乗った割には快適でした」
「ああ、俺は馬上用でもあるからな。馬とは縁がある」
彼女の背後で手綱を握る巴形はやや得意げに言った。けれど確かに巴形の手綱捌きは見事なもので、馬を怯えさせることなく彼女を乗せてこの山を登ってきた。ここは本丸からも見える山の中腹である。
「主、山に来たかったのか?」
「来たいと言うか、ピクニックって季節ではないですけど、こういう開けた場所なら何か楽しいこともできるんじゃないかと思いまして」
先に馬から降りた巴が、彼女に手を伸ばし腰を抱えて地面に下ろす。抱き上げられるのがやや気恥ずかしいが、巴のほうは顔色一つ変えずかつ丁寧にそうしてくれていたので彼女も努めて普通を装った。
「ぴくにっく……ああ、よくねずみやうさぎがしていたな。菓子や弁当を持って山や野原に出かけていく行為だ」
「ふふ、そうですね、それですよ」
急に思いついたものだから大層なものは用意できなかったが、一応軽食は持ってきている。馬の揺れが心配だったが、きっと問題ないだろう。
安っぽい絵柄のビニールシートの上に、巴は行儀よく正座した。あのブーツを脱ぐのだけ少し苦労して、長いそれはへたりとして傍に置かれている。小さめのバスケットを開けると、サンドイッチやプチトマトなんかのどことなくピクニックらしいものが詰められていて厨当番だった燭台切と堀川に感謝した。
「はい、どうぞ。いただきます」
「いただきます」
天気が良いお陰で長閑な日和だった。巴の大きな体にはやや小さいサンドイッチにクスリとする。本丸にいると、いつも何かしらの物音がするものだがここは静かだ。
「さて、何をしましょう」
ひとしきり軽食を食べた後、彼女と巴は向き合った。ビニールシートは薄いため、少し土でひやりとする。
「ぴくにっく、というのものは」
「はい」
さて、何を言い出すだろう。巴の様子を伺ってみる。以前だったら、きっと巴は彼女がしようと言ったことに特に何の疑問も抱かず従っただろう。けれど今なら違うはずだ。今の巴なら何と言うのだろう。
「おにごっこをしたり、かくれんぼをするものだと本で読んだ」
ピチピチと小鳥の鳴く声が聞こえる。
おにごっことかくれんぼか……。
「それは、二人ではちょっと、厳しいかもしれないですね」
「……そうか」
いや、いやしかし。彼女はきょろきょろとあたりを見渡した。
「シロツメクサとか咲いてたらあの、花冠とか作ったんですけど」
「はなかんむり」
「あれですよく、絵本とかで女の子が頭に」
そう言えば巴はああと頷く。理解してくれたらしい。絵本の効果は絶大だ。
「物吉にどこに咲いているのか聞くべきでしたね」
「物吉貞宗がどうしたんだ」
「よくくれるんですよ、四葉のクローバー」
「四つ葉だと特別なのだろうか」
「幸運のお守りって言われてますね」
靴を履いてビニールシートから降りる。巴も同様に立とうとしたのだが、あの長いブーツを通さねばならない。
「かくれんぼだけでもやってみましょうか」
「うむ、あいわかった」
「巴それ履いてる間に隠れますね、あんまり遠くには行きませんから」
脱ぐときに五分ほどかかったから、隠れるにはちょうどいいだろう。とはいえ山に入って迷いたくもなく、隠れる場所はおのずと限られてくる。ビニールシートを敷いた開けた野原からそう離れることなく、彼女は茂みの陰に座り込んだ。
「主、もういいか」
遠くから声が聞こえ、「もういいよ」とだけ答えた。巴形は偵察値はそう低くなかったはずだが。あまり伺い見るのもと思い、彼女は野原に背を向けたまま膝を抱える。
「主」
カツとあのヒールの音が微かにする。歩き回って探しているらしい。もう少し範囲を指定するべきだっただろうか。
「主、どこだ、主」
淡々とした声で探す巴を想像して、なんとなく彼女はふふふと笑ってしまう。背の高い巴からは屈んでいる自分は完全に死角になるはずだ。主、主と声だけ聞こえる巴は一体どこを探しているのだろう。かくれんぼでヒントを出すときはどうするのであったか。
がさごそと葉を掻き分ける音だけが聞こえる。やや遠い。やはりこちらは見えていないらしい。ここは率直に手掛かりを与えるのが一番だろうか。
「こっちですよー」
声だけ挙げてみた。これで気付くかどうか。しかし一瞬がさごそという音が止んだのちに、真っ直ぐにヒールの音が近づいてくる。
「主、見つけたぞ」
ずぼっと上から体を掴まれ、いとも容易く持ち上げられる。ヒントを与えたらこんなにすぐ終わってしまうとは。
「見つかりました。耳がいいんですね」
「主の声だったからだろう。俺は聞き間違えたりしない。しかし、主の姿が見えず探さねばならないのはやや心許ない、交代だ」
抱き上げた彼女を、巴は下に下ろす。今度は彼女が探す番ということだろう。
「待つのは十でいいですか」
「ああ、十数えてくれ」
くるりと巴に背を向ける。巴のあの身長と体格を隠せるところがあるのだろうか。それに白くて山に紛れづらい着物でもある。
「じゅー、う。もういいですかー」
なるべくゆっくり数えたつもりではある。「いいぞ」と返事が聞こえた。あまり遠くないような。振り返ってみる。
……見間違えでなければ正面の木の幹の後ろに白い袖とインコ色の羽が見える。立っているだけではないのか。
「巴、見えてますよ」
「隠れたつもりだったのだが」
「丸見えです」
「そうか。俺にかくれんぼは向いていないということがわかった」
おやつを食べ、お茶を飲み、せっかく広い野原なのだからと草の生えている場所に転がってみる。巴が「主はこの敷物の上に」と言ってくれたがそれは遠慮した。本丸にいると、こんな風に大の字に寝転がることもない。
「気持ちいいですねえ」
「ああ、空が高い」
その返答を聞いて、彼女は微笑んだ。空が高い、確かに。ただその言葉を巴から聞くことができたのが嬉しいのだ。
「冬ならこう、手足を動かしたりしてみたんですが」
「その行為には何の意味があるのだろうか」
「雪が積もった上に寝っ転がって、こう手足を動かすとですね。起き上がったとき天使の形に見えると」
「ほう。雪が積もっていなくとも、俺から見れば主はそのように見えるはずだ。だが雪が積もったら試したい」
「んっ?」
真顔でものすごいことを言うものだ。彼女は苦笑しつつ、その高い空を見上げた。天気が良くてよかった。あまり雲もなく、ただ青い空。
巴は暫く彼女が言ったように腕と足を閉じたり開いたりしていた。雪が積もっていれば。だがまだそれには遠そうである。季節が巡ったころ、本丸の庭ででも試すのがいいだろう。本丸の庭ならば、ある程度こちらの都合で調節が利くものだし。
「物語には書けそうですか?」
彼女が問えば、巴は隣でこくりと頷く。日記にならないといいが。
「だが主、俺は思い違いをしていたのかもしれない」
ふと、巴が口にした。その眼はまだ空に向けられたままである。彼女は体を起こして巴を見る。濃いピンク色をした瞳は空色を映して僅かに紫になる。
「思い違い? 何をです」
「俺は、銘も逸話も持たぬ俺までもが補充戦力として呼ばれたのだと思った。だが少し、違う気がするのだ。俺が呼ばれた、本当の理由は」
巴の手足は彼女よりもずっと大きく、腕や足を動かしていたせいか周囲の草が薙がれている。ふわふわの、羽が付いた衣装。それから頭の上に置かれた長い得物。あれが巴形薙刀本体。
本当は、武器なのだ。
「こうして、戦以外のことをするのが楽しい。もっと物語を読みたいと思う、主に教えてほしいと思う。だからこういった日々が、いつまでも続けば良いと思う。そのために、歴史を守り、主の生きる毎日を守らねばならぬと思う。そう考え、感じるためのこの体なのではないだろうか。名もなき薙刀だった俺が、主を得て、物語を綴る。俺はそのために」
名もなき武器から、「巴形薙刀」へ。体を得て、心を得て、たった一振の刀へと。
「だから俺は、ここに呼ばれたのだなと思う」
巴はそう、言い切った。整えられた髪が緩やかな風に揺れる。
彼女は堪らなくなって、ずりずりと少し巴に寄りそれからまた転がった。ふわふわの羽が頬に当たる。温かかった。
「主、風が冷たいか」
「ううん、平気です。頼んだ本、きっと来週には届きますから。一緒に読みましょうね」
「ああ。……この間、熊が大きな洋菓子を作っている本を読んだ」
「熊?」
思い出したように巴が言ったので、彼女は考えを巡らせた。どの熊だろう。
「あの迂闊な熊ではない。別な熊だが。丸く、大きな洋菓子だった」
「ああ! ホールケーキですね、たぶん」
「熊は友の女の熊と食べていた。主も好きならば俺が作ろうと思う」
「ふふ、じゃあ一緒に食べましょうね」
日が暮れる前に帰ろうと、彼女と巴は片付けをした。バスケットとビニールシートと、馬の後ろに積んだところで巴を見れば、矢立と手帖を持って立ち尽くしている。
「巴、帰りますよ」
「ああ」
「どうかしましたか?」
やや背伸びをして覗き込めば、もう手帖に書き込んでいる。日記になっていないか少し読んでみたが、それは文章の途中で尻切れトンボに終わっていた。
「書ききってから行きますか。忘れてしまっても困りますから」
「いや、構わない」
「どうして。さっきからその体勢のままですよ?」
言葉が見つからないのだろうか。文章を書こうとしているなら、そういう時もあるだろう。それはいいことだ。巴の心が言葉を多く必要とする程度に豊かになったということである。ならば余計に、ぴったりのものが見つかるまで一緒に待つのだけれど。
彼女が黙ってそれを見ていると、巴は一度手帖を閉じようとし……だがそれも迷ってやめた。
「俺はおそらく、この続きを書くのが嫌なのだ」
「嫌? どうしてです」
手帖にもう一度目をやれば、それはちょうど寝転がって話をしているあたりが書き留めてあった。巴形薙刀は、主と地面に寝そべり、色々な話をしました。そして。やはりどこか説明口調だが、十分だと思うけれど。
しかし巴は僅かに眉間に皺をよせ、彼女のほうを見て言う。
「俺は今日、とても楽しかった。それはもうここに書いてしまった。明日、今日より楽しくなかったらどうしたらいいのだろう。そこで終わってしまったら、今日が最上の日なら、ここで終えるのが最も良いのではないだろうか。そうすれば、主の好きな幸せな物語で俺の物語は終わる。主に語って聞かせるのなら、これが一番いいのではないだろうか」
今日が、一番。
山の高い空気がさらさらと木々の間を渡っていった。澄んだ風は彼女と巴の間を通り抜け、それから上へ上へと山頂を目指して行ってしまう。あの風はどこまで届くのだろう。
「……巴、それは誰にもわかりません」
今日が最もいい日なのだろうか、またある時はこの辛い日は人生のどん底で、それともまだ下があるのだろうか。
それは誰にもわからない。わかったのなら、どんなにか楽だろう。人生の最上の幸せの日と、不幸と。頂点で物語を終えられるなら、幸せなままでページを閉じることができるなら、それは幸福なのかもしれないが。
「そうは、いかないんです。この文章の終わりまでは、幸せだった人も。次の段落では泣いているかも。物語は、そういうものなんです」
だから読者である彼女は願うことしかできない。想像することしかできない。できれば幸せに終わるといいと、物語の誰かの毎日が、今日は辛くとも明日は明るい日であればいいと。
「でも、幸いなことにその物語の作者は巴です。自分のいいようにできる」
「俺のいいように」
「はい。悲しいことも、辛いことも、明るいほうへ持っていくことができるんです。今日はだめだった、でも明日はきっといいことがあるでしょう。そんな風に書けば、きっと」
幸せな結末へと、自分で。如何様にだって描くことができる。その筆を持った手で、明日を書ける。
「ですから、気にしないで明日のことを書けばいいんですよ。大丈夫、今日より楽しいことなんてこれからもっとずっとたくさんあって、いつか今日を忘れてしまうくらいでしょうから。細かく書いて、あとで読み返せるようにしましょう」
そう言えば、巴は筆をもう一度握り直した。乾いてしまったらしい先を墨に浸し、紙に乗せる。
「……それは惜しい。詳細に書き留めておこう。巴形薙刀はかくれんぼに向いていませんでした」
「そうそう、それがいいです」
手帖が、もしかしたら一冊では足りないかもしれない。
結局彼女と巴は陽が傾いて空が紫になるまでそうして今日あったことを書き留めた。帰ったころにはすっかり夜で、怒られた。それも書いておこうと、巴は手帖を取り出したので、彼女は肩を竦めて笑った。
「主、では行ってくる。困ったことがあっても俺が戻るまでしばし待て」
「あ、もう出陣ですか、行ってらっしゃい」
新しい合戦場が見つかったらしい。彼女の本丸も出陣を命じられたため、彼女は巴を編成した。もうだいぶ練度も上がっていたし、戦場にも慣れてきたころだ。問題ないだろう。
「巴なら大丈夫だろうと思っていますが……それでも気を付けて行ってきてくださいね。新しい場所で何があるかわかりませんし」
「あいわかった」
「あ、それから」
彼女が背伸びをしようとすると、巴のほうが身を屈める。せっかく耳を寄せてくれたので、彼女は内緒話をするように口元に手を当てた。
「注文した本が届きましたから、戻ったら読みましょう」
そう言えば、巴はうんと一つ大きく頷く。
「では、行ってくる」
「はい、気を付けて」
ふわ、ふわとあの羽飾りが揺れる。一度だけ巴が振り返ったので、彼女はまた手を振った。頭を屈めて鴨居をくぐり、渡っていく後姿を眺める。少し多めに本を頼んでおいたから、これで巴も暫く退屈はしないはず。
でも推理小説だけは少し抜いておこうか。彼女はそんな風に思って、いたのだが。
「巴が帰ってこられないってどういうことですか!」
出陣した部隊が戻ってきたものの、巴だけを残してきたと報告があった。何でも敵を振りきれず、巴が殿を務めたらしい。負傷した刀剣を手入れ部屋に運びながら、バタバタとした中で通信端末をいじるこんのすけに彼女は聞く。
「新しい合戦場で、座標の接続が不安定なのです! 帰還までこの回線が持つかどうか、そもそも巴形薙刀様が敵を振りきれなかった場合、こちらとあちらが繋がったままでは」
「だからって巴を残すわけにはいかないです、なんとか、なんとかならないんですか!」
編成が悪かったのだろうか。敵の想定が甘かった、一体何が原因で。混戦しかけた思考を振り切る。慌ててはだめだ、冷静になって、とにかく巴を戻さなくては。
しかしどうやって。今まで勝ち負けや戦績に対する認識が弱かった。彼女はそれをこんな時になって痛烈に感じた。一定の成績を出し続けてはいたが、固執できなかった。覚悟が足りなかった。すべて彼女の責だ。
「わたしの、せいですね」
戦いが、想像の範囲を出なかった。平均の結果を出していれば責任を果たしているつもりになっていたのだ。切迫感も現実味も何も足りていなかった。
ここは、戦場なのだ。
「私が、想像に逃げたから」
その結果、巴を犠牲にするというのか。
何かしなければならないのに、何も浮かばない。一体どうしたらいいのだ。座り込んで、エラー音を立て始めたこんのすけの操作画面を見る。ああ、だめだ、どうしたらいい。
考えなければ、想像しなければ。何か明るいほうへ、いや、違う現実を。考えて、考えなければ。
「主、ここかな」
出陣部隊の中で、比較的軽傷だった髭切がきょろきょろとしながらやってくる。衣服に乱れや汚れは見えたが、負傷は軽度だった。
「髭、切、どうしました」
「ごめんね、僕が残るって言ったんだけど。彼がね、俺のほうが攻撃の範囲が広いからってそれから」
髭切は手にしていた何かを彼女に差し出す。視線を下げて、彼女は息を呑む。
「君に渡してくれって言っていた」
「これって」
それは巴の手帖だった。いつも懐に入れていたから、少しよれたそれ。
「出陣前にね、矢立で何か書き付けていたから。気になって見せてくれるかいって頼んだら快く開いてくれた。今日、巴形薙刀は新しい戦場への出陣を命じられた。主の第一の刀としての命だ。とても嬉しい、役に立とうと思った。そう書いていた」
髭切の柔らかな声は巴とは似ていない。けれど髭切が読み上げる巴の文字は、不思議と彼の声に聞こえる。低く、落ち着いた語調。やや平坦で、感情は少し見えづらくて。
「日記かいって聞いたらね、彼は俺の物語なんだと言っていたよ。主が書けとくれた、俺の物語なんだって。戻ったらまた新たな活躍を書くのだってね。でも君に最後を書いてほしいと、言伝を預かっているんだ」
「最後……?」
傷ついた指で、髭切は矢立を差し出してくる。ページを開いて、巴の文の後を示した。
「巴形薙刀は、最後まで立派に戦いましたって。彼、君に書いてほしいんだって」
そんな。
そんなことを、今書けと言うのか、自分に。墨汁が浸された筆が向けられる。彼女は首を振った。
「いやです」
「でもね、それだけはって巴形の頼みなんだ。頼むよ、主」
引っ込めようとした手に、髭切がそれを握らせる。有無を言わせなかった。頼むよと言いながら、それ以外はさせまいと筆を取らせる。開かれたページには、巴の文章が端にあるだけであとは白い。
「嫌、嫌だ、そんなの書きたくありません。いやです、髭切」
「でも、それが彼の物語だったんだとしたら?」
物語、巴の?
彼女が目に涙をためて何も言えないでいても、髭切は続けた。兄者、ここにと膝丸が駆け込んでくる。だが髭切は振り返らない。手だけで膝丸を制する。
「僕が鬼を斬ったように、弟が蜘蛛を斬ったように。君がここで幸せに生きるために彼は戦った。それが彼の物語だったんだとしたら。彼はやっと自分が欲しがっていた物語を得たんだとしたら。巴形の望んだ物語は、君にしか書けないんだよ。だからここに書いて、それが巴形薙刀の物語だから。巴形薙刀を形作るものだから」
物語、それが、巴を形作る。
指先が震える。エラー音が大きくなっていた。もう画面を見ることもできない。墨が紙に、垂れてしまう。せっかく巴が美しく綴っていた物語を汚してしまう。明るいほうへと描き出そうとしていた、物語を。
描き出そうとしていた……?
「書く……」
彼女はぽつりと、呟いた。
ぱちぱちと脳裏で火花が爆ぜる。混戦しきっていた思考が急速に結びついて線を描き始めた。一直線にすべてが繋がる。想像の中で、全てが。
「どれが真でどれが偽か。判ずるのは俺たちではない。俺たちをそういうものだと定めたのは君たちヒトだ」
「結局は、弟の言うように僕らの枠組みなんだよね、形を取るための、僕らが僕らでいるための」
物語は、その刀を、形作るもの。
「主様っ、もう、持ちません、ご決断を!」
こんのすけの叫びが聞こえて、彼女は弾かれたように顔を上げた。手にしていた巴の手帖と筆を置く。これは後だ。代わりに、彼女は目の前にいた髭切の手と膝丸の手を握った。
「主?」
「……」
髭切はじっと琥珀色の瞳でこちらを見る。何を言うか待っている。だから彼女は口を開いた。
「髭切と、膝丸は、名前と勇敢な物語をたくさん持つ、強い刀です」
二振の手を握り締めて、彼女は呟く。そう、強い刀だ。だから負けない。負けないで戻ってくる。一言一句、しっかりと聞き取れるようにはっきりと口にする。
「だから巴形薙刀を連れて、帰ってきました。いいですか、『髭切と膝丸の二振は、本丸へと無事に帰ってきました。』」
彼女はもう一度繰り返した。パチパチと瞬きをした髭切が彼女の意図を汲んでその目を見開く。それから手を握り返した。にっこりと笑って髭切は答える。
「言うよりも、書いたほうがいいかもしれないよ」
「兄者? っいやそんな無茶な方法があるか?」
「あるよ、口伝より紙のほうがよく伝わるじゃないか、後に残るし」
膝丸も察したようで慌てて言う。けれど彼女は頷いて側にあった紙にそのままを書いた。
「……思い付きです。気休めかも、しれませんが」
髭切にその紙を渡すと、受け取った髭切はううんと首を振る。
「君は審神者、モノの心を励起する、僕たちの主。僕たちは刀剣男士。信じて待っておいで。きちんと書くんだよ」
「わかりました」
いい子と髭切は微笑んで弟の肩を叩く。最悪の場合、二振を犠牲にすることになる。けれどそれを彼女は頭から振り払った。そんなことにはならない。決して。そんなこと絶対に想像しない。
「主様……」
こんのすけが言う中で、彼女は巴の手帖を再び開いた。ここからは彼女がする仕事。彼女だけが、できることだ。だから口を開き、言葉を紡ぐ。
「巴、巴忘れたんですか? 私は一番、幸せに終わる話が好きなんです! 巴が帰ってこなかったら、このまま終わってしまう! このまま、巴だけ死んで終わる物語の、どこが幸せな話なの?」
筆を取る。彼女の筆記具では、この手帖に穴を開けてしまうのだ。だから仕方ない、多少書きづらくとも最後まで綴りぬいてみせる。
「巴形薙刀は、最後まで立派に戦いました」
でも、ここでピリオドなんて打ってやるものか。彼女は句点ではなく読点を書いた。
想像しろ、とびっきり幸せな展開を。明るく、力強く幸せへと向かう物語を。
よれた手帖を掴んで書きなぐる。字が汚いだとか今はそんなのどうだっていい。その結末があることが重要なのだ。
「力尽きて倒れそうに、なりましたが、巴形、薙刀は、まだ、主と約束したホールケーキを食べていません」
まだ、一緒にすると約束したことがある。
「一緒に読んだ、物語の、動物も、食べ物も、景色も、見ていません」
見たいと言っていた。キラキラの雪の世界を、桜の花が咲き乱れる小道を、夏の広く深い青を、秋のあの高い山の空を。世界中の物語に出てきた景色や建物、出てきた食べ物。行くことは叶わないだろうから、写真を用意すると約束したのだ。
「見たことのないものが、読んだことのない物語が、まだまだ、たくさんあるので」
筆圧で、墨が滲む。けれど掠れて書けなくなるよりいい。
「巴形薙刀は、ここに、帰ってこなくてはなりません」
そうだ、帰ってこなくてはならないのだ。
「明日は、晴れなので、帰った巴形薙刀は、主と、お菓子を食べるつもりです。読もうと思って、頼んだ本が、届き、ました。だから後で、一緒に読むのです」
それから、あとは。
雨が降っても雪が降っても、太陽が見えなくても星が見えなくても、真っ暗な夜も。ページを捲れば、明日が来ればきっといつかまたいい日が巡ってくる。そんな風に毎日過ごすのだ。そう書いたのだ。
「巴はここで私とこれから何年も何十年も何百年も元気に幸せに暮らすんです! そう書いたんだから帰ってきて! 巴!」
ああ、そうだ、きっと。こんな祈りだって物語には託されていた。彼女は、守らなくては。歴史が語り継いできた物語を、誰かの祈りと叫びを、彼女は正しく守っていかなくては。誰も捻じ曲げてはいけない、なかったことにしてはいけない。こんな悲しみも苦しみも、ひっくるめて全てが彼女の守るべき歴史。愛した物語。
やっとわかった、自分のすべきことが。だから帰ってきて、もう一度一緒に物語を綴ろう。そうしたら、どんな悪夢もバッドエンドも、描く未来は最高のハッピーエンドにして見せるから。
このたくさんの気持ちを、言葉を、あなたに伝えたい。
「あっ、主様、ご覧ください!」
ピコン、と軽やかな音を立てて。巴形薙刀、髭切、膝丸の三振の表示が帰城へと変わった。
高い空を鳥が飛んでいく。縁側を吹き抜けた風に、空の色に近いその髪が揺れるのを彼女は見た。
「起き上がれるようになったようで、何よりです」
声をかけると、巴はこちらを見る。手入れが終わったらしい。今日はタイマーをかけていたので、巴のほうを待たせることはなかった。一ページも、読み進めることはできなかったのだけれど。
「修復が完了した。主、すまなかった」
相変わらず淡々とした口調で、かつ無表情で巴は言う。彼女は巴の隣に座った。巴は手にあの手帖を持っている。枕上に彼女が置いておいたのだ。
「声が聞こえた」
庭を眺める巴が言う。彼女もそちらに視線はやらなかった。一応、怒っているのだということは示しておきたい。とんでもない遺言を残して、どういうつもりなのだ。
「声?」
「主が物語を読み聞かせてくれる声だ。俺が言った文章より多かった。良い、言霊だった」
訥々と巴は言う。反省しているかと言われれば、これは微妙そうだ。だがもういいことにしよう。ほうと彼女も息を吐く。これで、それなりに疲れている。
巴の言う通り、彼女が髭切や膝丸、巴に託したのは言霊だった。強く強く、祈って念じることで、かつ書き記して形を与えることでその通りにしようとした。物語を体よく利用したのである。そうしている間は夢中だったが、終えて見れば随分気力と体力と霊力を持っていかれて、彼女自身もへとへとになっていた。
だが、そうして責任を取らねばならなかったのだろうとも思う。
「私、また頑張ります。守るべきものがわかりましたから」
簡潔に、それだけ言う。口に出しておかねばならない。
これは自分自身に対する言霊だった。
果たさねばならない役目がある、責任がある。まだやはり、苦手なこともできないこともあるかもしれないけれど。彼女はそれでも明るい未来を思い描くことができる。
だからきっと、彼女は審神者になったのだ。
「では、俺もこの任を果たそう。主が困ったときは俺を呼べ」
低く、平坦な声で巴が言う。緩く微笑んで、彼女は頷いた。
「……そうします」
なぜならそう、願って綴ったのだから。これからもずっと、幸せに暮らすと。そのために帰ってきてほしいと。他でもない、巴に。
ほうと息を吐き、空を見上げる。隣の巴は膝に置いていた手帖を取り上げた。
「して、主、俺に教えてくれるか」
「何でしょう?」
「主の好きな幸せな物語と言うのは、最後になんと言って終わるものなのだ。最後の頁に今から書いておこう」
ぺらぺらと手帖の最後を捲って巴が言う。その顔は至極真面目で、本気以外のなんでもなかった。
今から終わらせてどうするのだ。くすくすとする彼女の笑いの意味が、巴にはやはりわからないようできょとんとする。まだまだ、終えてもらっては困るけれど、彼女は筆を取る大きな手を握って答えた。
「主と巴形薙刀は、それからずっと幸せに暮らしました」
めでたし、めでたし。