テイスティングノート(差分) 居たと思えばいなくなり、居ないと思えばそこにいる。自由気ままな赤色は、大仰な裾をはためかせ前を行く。
ただ、少しは後ろを顧みてほしいと、ガープは常々思っている。遊びに興じる貴族ならともかく、彼は魔皇だ。一歩進むたびに起きる波紋の、その影響は計り知れない。
今日もまた私用を言いつけられ、予定がいくつか潰れてしまった。大したものではないと言われれば、反論は出来なかったのだが。
それにしても……と息を呑む。広がる麦の金色と、空の青が二分する視界。境界に立つ緑のロウソクを目印にしなければ、今どこに立っているのかも見失いそうになる。話には聞いていたが、この土地がすべて、彼のものだというから驚きだ。
佇んでいた赤色が振り返り、影が笑ったように見えた。
「今年もよく実った。また良い酒が飲めそうだ」
「……それで、私にどのようなご用命を」
麦の生育を見せるために、わざわざ連れ出したとは思えない。畑仕事でも言いつけられるのだろうか。そんなことを思っていると、黒いガントレットが閃き、グラスを掲げる形を取った。
「貴様に酒の味を見てほしい」
この地の南端には、魔皇御用達の蒸留所がある。製造や管理はもちろん、信頼のおける職人に任せているが、希少な酒は出回る数も少ない。当然、口にする者も限られている。
ガープはその味を知っている一人だ。だからこそ、味が変わらないかを見ていてほしいという。
「本来ならば我が見ていたのだが……なにせ肉体が無いからな」
火の国への侵攻のさなか、魔皇は討たれた。そういうことになっている。こうして意思疎通こそ出来ているが、状態としては、死んだと言って相違ないだろう。対外的にも都合が良いと、彼自身も現状を汲んでいる。
ただ一つ不都合があるとすれば、こういう時だ。肩をすくめた魔皇に、しかし、とガープは言い淀む。
「私でよろしいのでしょうか?」
酒に関しては、好んでいるというほどではなく、専門的な知識があるわけでもない。そんな自分に、職人めいたことが出来るだろうか。
「やり方は貴様に任せる。話は通しておいたぞ」
魔皇には、はいとイエスしか通用しない。
将軍としての軍の運用、新しい主君の目付け役。あるいは彼は、難題を吹っ掛けるのを楽しんでいるのではないか。
また手の回らない日々になりそうだ。頭に浮かんだ予定に、端からため息の印をつけた。
翼を使うのは久しぶりで、すっかり息が上がってしまった。通された扉の先で、ゆらゆらと翼を畳みながら、ガープは深く頭を下げる。
忙しいととぼけていた魔皇も、ただ事ではない様子に、白紙の束をめくる手を止めている。
何事かといぶかしむ、その顔も今はよく見える。長く差し込む日の、境界を滲ませる髪と肌。影ではなく実体がある。聞いた通りだとすれば、職人を急がせた甲斐があったというものだ。
ソファの前にひざを折り、ラベルのない酒瓶を差し出した。
「今年の酒を、届けに参りました。……」
「……は? そのためにすっ飛んできたのか?
ハハ、貴様の冗談はやはり一味違うな」
ちょうどいい、休憩していけ。言われるままに、キャビネットからテイスト用のグラスを用意する。
ソファは一式並んでいるが、普段は当然、部屋の主しか使わない。無用にすら思える大きさは、斜め隣に腰掛けるたび、その境遇を思わせた。自分に足りないものがあるとすれば、埋まらないこの空間だ。いつか、彼がそんなことを言っていたのを思い出す。
掲げたグラスに瞳の赤が溶ける。数滴の水を加えた酒が、流れる髪の先に揺らぐ。聞き耳を立てるように息を潜めている彼に、つられて呼吸を忘れていた。
ふっと吐かれた「上出来だ」の一言に、肩の力がようやく抜けた。
「礼だ。貴様も飲むといい」
彼のあとを追って、少しずつ酒を含む。なにも加えなかった酒は、舌先に触れた重さのまま、のどの先まで味覚を均す。
胸元に熱が走った。触れるべきではない焦燥が、思考のフチをなぞるのを、息を吐いてやり過ごす。
「アレス様から伺いました。魔皇様が復活なされたと」
「……」
「そしてもう一度、御身を失われるおつもりだとも」
「……奴め、余計なことをしおって」
ひじ掛けを小突いた悪態とは裏腹に、その口元はほころんでいる。
空席となった魔皇の座には、アレスという新しい主君が灯っている。その陰に封じられていた力は、片鱗を見せた途端、形なく燃え上がった。魔皇が加えた器さえ溶かし、今も彼自身を呑もうとしている。
器を強固なものとするため、取り戻した力を使う。そのためなら再び肉体を失っても構わない。すでに決まっていた魔皇の答えを、しかしアレスは先に延ばした。
王の椅子は一つしかない。魔界の行く末さえ決める在り方を、自分たちだけで選ぶべきではないだろう。話にそう付け加えた面差しは、出会ったばかりの頃の、華奢なものとは違っていた。
「私はアレス様のご意向に従います」
「まったく……貴様を言いくるめるのが、一番骨が折れるというのに」
「承知はしておりますが」
「生意気な」
「それでこそ我が駒だ」。笑った口元は、その形のまま酒を含む。ゆっくりとまたたいた目が、どこか遠くに落ちた。
「貴様は変わらんな。この酒のように芯がある」
「……」
「我は……そもそも、スチルでしかなかったのか」
「ですが、酒の質を決めるのはスチルマンです」
煌国という理想を体現するための、理想そのものの姿。すべてを焼き尽くすという使命の元に、彼はあらゆる力を振るってきた。
だが、自分もまた有象無象と同じ、火種でしかなかった。気付いてしまったその一瞬、その身を別の火が焼いた。
立ち昇る喪失。その向こうに垣間見た、アレスという火。彼が燃えている限り、この理想も消えることはない。だからこそ、すべて注ぐのもいとわないのだと、執着の残りを飲み干した。
「それで、貴様の本意は?」
「見送れること自体が幸運である。そう、心得ております」
「……それは誰の受け売りだ?」
立ち上がった魔皇の、そでの先がタイをつかむ。のぞき込んできた赤の向こうに、煌国には溶けなかった、氷の色を思い出す。
迷えること、それ自体が英知である。最後に廊下ですれ違った横顔は、受け取ったものへの感謝を告げた。
「ありえん。我は幻影でもつかまされているのか?」
「……」
「聞き分けの良い貴様など、夢でも見られぬというのに」
「……。
アレス様はお変わりになった。私も変わるべきでしょう」
今なら思う。弟子を見送れたのも、自分を変えたものがあったからこそだと。
一度目は魔皇を、二度目は弟子を手放した。残された酒は、変わらず香りを留めている。手の熱が伝わるたび、立ち昇る思いは複雑に絡み、形容しがたくなっていく。
のどの先に留まっている、甘さにすら似た感覚は、今しか言葉に出来ないだろう。だがその記述は必要のないものだ。胸の内にでも書き溜めておけばいい。そう結論を携えてここに来た。
「なにもかも取り越し苦労だったか」と、空のグラスは笑い声に揺れている。一度失われ、取り戻した理想は、同じようで確かに形を変えていた。それは皆が同じなのだろう。かたどる器が変わったなら、注ぐ理想もまた舌触りを変える。
ただひとつ、変わらないものがあるとしたら。口元に運ぶたび、浮かんでは消えていた確かな思いを、脳裏に書き留める。
「我が英知のすべてを持って、御身の復活に尽力いたします」
「我を復元するか。……面白い、出来るものならやってみろ」
「この生涯を賭けて、必ず」