雨垂れる桜 仕事を片付け、今日はもう休もうと本殿から居室のある離れに向かおうと障子を開けた時、雨が降っていることを初めて知った。踏み出そうと上げた足を地につける。
(……慧は、寝かしつけた)
私は一歩引いて目の前の障子を閉めた。振り返ると、正面の御神体に映る私。障子にもたれ、座り込んだ。ひやりと背を撫でる外の空気に寒気がする。雨が大地を打つ音を聞きながら目を閉じると、微かに森と土の匂いがした。
昔からこうするのが好きだった。
雨垂れの音を聞いている間は、本当に静かだ。普段は煩く喋る死人も雨の日ばかりは口を閉じ、参拝客が少ない為、『敵』の襲撃でもない限り急に仕事に駆り出されることも無い。ただ、雨粒が音を立てるばかりで他は静まり返っている。その空間に身を置くのが好きだった。
(夕焼けに染まる空を見ることができないのは、少し残念だけれど)
それでも私はそれなりに、雨の日を気に入っているようだ。雨音に身を浸す。それだけで心が凪ぐ。
暫くすると、雨音の中にこちらに向かってくる足音を見つける。動くことはない。この、わざと軽く音を立てる歩き方は棘君だろう。障子の向こうから、愛しい声が降ってくる。
「……おい、夕?居るのか?」
少しした後、近くの障子を開ける音がする。
「夕?……ったく、こんなところで何してるんだ」
「いい雨の夜だね、棘君」
「そうだな、こんな日はすぐに寝てしまうに限る。行くぞ」
棘君には寝たふりなどばれていたようで、特に反応もなく流されてしまった。少しのつまらなさを感じる。棘君は立ち上がろうとしない私の手を握り、起立を促した。
手を繋いで夫婦二人、廊下を歩く。ふと横を見ると、雨の幕の向こうで桜が袖に雪を散らせているのが見える。今年の桜は、この雨で花を落としてしまうだろう。桜里邸の桜はすぐにまた咲き誇るだろうが、あれは桜領の領主のみに許された神の祝福に近い。神の庭である此処でも、桜は散るのみだ。消えゆく雪のように。人の命のように。
気が付けば、棘君と並んで雨垂れの桜を見ている。
「棘君の父様のお墓はどこ?」
棘君はいぶかしげにこちらを向く。
「突然、どういう風の吹き回しだ?」
「結婚のご挨拶をしていないな、と思って。お会いしてみたいなあ。ああ、棘君も話したい?通訳するよ」
「お前な……」
棘君は、『見えない』人だ。幽霊の存在を信じているかもわからない。ただ、私の語る情報だけは信じてくれる。
「行きたい、と思った時にはもう行けないから」
棘君に軽く寄り掛かると、胸元の鏡がちらと光った。棘君も私も、いつ死ぬかも知れない身の上だ。たとえ明日突然、鬼との和平が成ったとしても、既に各々拭えないほど血を浴びている。安寧は無いだろう。
「お前がしおらしいと不気味だな……」
「ふふ、今どんな気持ち?」
きっと私は、棘君より先に死ぬ。歳の差もあるが、私は鏡が無ければ徒人だ。
桜は雨が降っただけで散ってしまう。しかし、鳥に突かれて落ちるよりは、ずっと幸せな死に方に思えた。
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霧氷さん宅 棘刺綺さんお借りしました