ベッドひとつぶんの世界 サンクチュアリ、深夜。
ダリルは静まり返った廊下を歩きながら深い溜め息を落とす。
疲労が蓄積した体は重い。フェンスの外で戦い、物を調達し、常に気を張っていたのだから疲れるのは当然だ。共に行動するのが信頼し合う仲間ではなく憎しみを抱く救世主たちであれば精神的疲労も濃い。
明日も、明後日も、その後もずっとダリルは救世主として働き続ける。
それにうんざりすることさえ忘れるほどに生きていくことに必死だった。
疲れを引きずりながら歩くダリルは自室の前を通り過ぎる。自室という名の私物置き場に用はない。
ダリルが足を止めたのは自室の隣にある部屋。鍵のかかっていない部屋のドアをゆっくりと開け、音を立てないよう静かに中に滑り込む。
部屋の中にはシングルベッドが一つあり、そこに横になって目を閉じているのはダリルにとって最も大切な人であるリックだ。
ダリルがベッドに近づくとリックはまつ毛を震わせながら目を開ける。
「……おかえり、ダリル。」
そう言ってリックは微笑んだ。
その笑みに釣られるようにダリルも笑みを浮かべてリックの額にキスを落とす。
「起こして悪かった。遅かったから心配しただろ?ウォーカーのせいで予定より時間がかかって……」
「こうして帰ってきてくれたならいいんだ。ケガはしてないか?」
ダリルは心配そうな顔をするリックの頬に触れながら安心させるために言葉を紡ぐ。
「かすり傷もねぇよ。」
その言葉に安心したようにリックが息を吐き出した。
そして頬に触れたままのダリルの手に自分の手を重ねながら目を閉じる。体温を確かめるように目を閉じるリックを見つめながらダリルはベッドに横になった。
狭いベッドを分け合って眠りにつくのはいつものこと。ダリルにとってリックの部屋が安らげる唯一の場所だ。
ダリルはリックの隣に横になると彼を抱き寄せてホッと息を吐く。
「汗臭くて悪い。シャワーは朝になってからにする。」
「疲れてるんだから仕方ない。それに、ダリルの匂いだから平気だ。」
「あんたの鼻、イカれてるぜ。」
呆れ混じりのダリルの言葉にリックが笑い、それを受けてダリルも笑う。
こうして言葉を交わして笑い合うことが今の二人にとっては何よりの幸せだった。大切な人が目の前にいることがどれほど尊いのかを噛みしめながら、二人は今夜も一つのベッドを分け合う。
「……すまないな、ダリル。」
ポツリと落とされた謝罪の言葉にダリルは眉根を寄せる。
リックが自分に謝罪する理由ならわかっていた。彼は毎日同じ理由でダリルに詫びるからだ。
「俺が外での仕事なのはニーガンが決めたことだろ。リックは悪くないって何回言えばわかる?」
「そうは言っても俺は中の仕事なのに……。ダリルと同じ仕事にしてほしいと頼んではいるんだが、なかなか許してくれない。」
そう言ってリックは溜め息を吐く。
ウォーカーの駆除や物資調達で外に出るダリルとは対照的にリックの仕事はニーガンの補佐だ。記録を付けたり、様々な報告を上げたり、時には身の回りの世話まですることもある。
リックの仕事の全てが建物の中で行うことなので外に出る必要がないのだ。
「俺もお前と一緒に外に出たい。そうすれば危険なことがあっても助けられるのに。」
絞り出すような声で呟いたリックはダリルの肩に目元を押しつけてきた。
泣いているのかもしれない、と思ったダリルはリックの背中を撫でてやる。
自分は安全な場所にいてダリルだけが危険な外に出るという状況にリックは苦しんでいた。離れていてはダリルの身に危険が迫っていても助けることができず、不安を抱えながら待つことしかできない。自分が手出しできない場所でダリルが命を落とすかもしれないということにリックは怯えているのだ。
それがニーガンの狙いなのだとダリルは気づいている。そして、恐らくリックも。
大切な者を自分の手で守ることができない状況に苦しむ姿を楽しむためにリックを外に出さないのだから、懇願したところでニーガンが耳を貸すはずもない。それでも「自分も外で活動させてほしい」と頼まずにいられないリックがいじらしかった。
ダリルはリックの髪に口付けながら囁く。
「あんたが帰りを待ってるとわかってるから俺は何が何でも帰ってくる。どんな手を使っても生き延びる。」
「……ああ、信じているよ。」
「あんたを一人になんてしねぇ。死ぬ時は一緒だ。」
ダリルはリックを強く抱きしめる。そうすると縋るように背中にリックの腕が回された。
リックの温もりを感じながらダリルは過去に思いを馳せる。
───あれはアレクサンドリアの徴収に連れて行かれて何度目のことだったろうか?
「お前が俺の部下として働くならダリルを解放してやるぞ。どうする、リック?」
下卑た笑みを浮かべながらリックに問うニーガンを殴ってやりたい。
そう望んでも、その行為の代償を支払うのは自分以外の誰かだと思うとダリルの体は動いてくれなかった。
ニーガンと向かい合うリックの背中を食い入るように見つめながら「頼むから頷いてくれるな」と願うものの、その願いに反してリックは首を縦に振る。近くにいたカールが悲鳴に近い声で父を呼んでも彼が振り向くことはない。
アレクサンドリアの皆の怒りを気にすることのない男はリックの肩を馴れ馴れしく抱いて周囲に向かって宣言する。
「交渉成立だ!リックはたった今から俺の部下になった。まとめ役がいなくなって不安だろうが、徴収量を軽くしてやるから何とかなるだろ?さあ、リック、俺たちの家に帰るぞ。」
項垂れるリックを連れて行こうとするニーガンに向かってダリルは叫ぶ。
「ニーガン、俺がお前の部下になる!だからリックを連れて行くのはやめろ!リックが俺の身代わりになる必要なんてねぇんだ!」
ダリルの叫びを聞いたニーガンは呆れたように溜め息を吐き、緩く首を横に振った。
「おいおい、何か勘違いしてないか?お前も部下にしたいが、俺はリックを部下にしたいんだ。お前の身代わりなんかじゃないぞ。俺は欲しいものを手に入れるために交渉しただけだ。」
ニーガンの回答を聞き、何を言ってもリックが解放されることはないのだとダリルは悟る。
このままではリック一人だけが連れて行かれてしまう。愛する子どもたちや仲間たちから引き離され、憎い男の部下として一人きりで生きていかなければならない。
そしてリックが自分たちの前に姿を見せることは二度とないだろう。
会えなくなる、リックに。
「──俺も連れて行け。」
「何?」
ニーガンが訝しげに眉根を寄せた。それに構わずダリルは言葉を続ける。
「リックと一緒に俺も部下になる。だから俺も連れて行け。」
目を丸くするニーガンの横でリックが「そんな必要はない」と必死に訴える姿が目に映る。
その姿を見つめるダリルから周囲の音が遠ざかり、認識できるのはリックだけとなった。
離れられるわけがない。誰よりも必要で大切な存在と離れて耐えられるわけがなかった。
地獄の底へ堕ちていくのだとしても、切り裂かれるような痛みに苦しむのだとしても、自分たち以外の全てが敵になるのだとしても、ダリルはリックと離れたくなかった。
「いいだろう、ダリル。」
不意に聞こえてきたニーガンの声にダリルは意識をそちらへ向ける。
意外にも真摯な眼差しが向けられていることを不思議に思いながらも目は逸らさない。
「お前たち二人とも部下にしよう。俺にとっては最高の結果だな。」
ニーガンが決定を告げた瞬間、自分を呼ぶ仲間たちの悲痛な声が聞こえた。
視界の中にいるリックが苦しげに顔を歪めながら「ダリル、だめだ」と訴えてきた。
それでも「リックと離れない」という決意が揺らぐことは少しもなかった。
ダリルは自分たちの運命が変わった日を思いながら、「自分の選択は間違っていたのだろうか?」と考える。
ダリルがいる以上、リックはサンクチュアリから逃げ出すことはできない。自ら命を断つことによって自身とダリルをニーガンから解放することは可能かもしれないが、それを実行に移すことはできない。
なぜなら、リックが死ねばダリルが生きる意味を失うからだ。
ダリルはリックと共に生きるために自らニーガンの部下になったのだから、リックを失えば生きていくことができない。自暴自棄になった末に辿る結末がどのようなものになるかはダリル自身にも容易に想像できた。それ故にリックはニーガンに縛りつけられて逃れることができないのだ。
自分は間違えたのだろうか、と改めて自身に問いかけながらダリルはリックを抱きしめる腕に力を込める。
強くもあり弱くもある男を一人にしたくなかった。
一人きりで夜を過ごし、恋しさと寂しさによる涙を流させたくなかった。
殺したいほど憎い相手と向き合い、孤独に戦う姿を想像するだけで胸が痛かった。
リックと離れて生きる自分を思い描くことがどうしてもできなかった。
自分の選択が間違いなのだとしても、大勢を不幸にしたのだとしても、ダリルはリックと離れられない。この腕の中の温もりを手放せば凍え死んでしまう。
「ダリル……すまない。」
小さな声で謝るリックの顔は見えない。
「お前に全てを……大切な人たちを手放させてすまない。」
「そんなことない。一番大切なものは腕の中にある。」
それに、全てを手放させたのは自分も同じだ。
ダリルはその言葉を飲み込んでもう一度リックの髪に口付ける。
互いに相手以外の全てを手放した。
相手を失うことに怯えながら抱きしめ合って夜を明かす日々に終わりはない。
小さなベッドの上で身を寄せ合うことが最大にして唯一の幸福。
広くて狭い、この世界。
二人ぼっちで生きていく。
快晴の空の下、ニーガンは巨大な建物を出て悠然と歩く。
徴収や巡回に出発する部下たちを見送るのは珍しいことではない。皆を激励するのは指揮官の大切な仕事だ。
部下たちに声をかけながら歩くニーガンの視界の端に、ある二人の男の姿が入り込む。
「今日の場所はウォーカーの群れが通ることが少なくないらしい。ダリル、無理はしないでくれ。」
「ああ、わかってる。リックも気をつけろよ。」
「俺は大丈夫だ。外に出ることはないから。」
「そりゃそうだが……まあ、行ってくる。絶対に帰ってくるからな。」
「待ってる。……気をつけて。」
そんなやり取りが風に乗ってニーガンの耳に届いた。
手を取り合って互いの無事を祈る二人は深く愛し合う恋人同士のようだ。そのような関係でないことは何となく察しているが、二人の間に存在する絆は強い。
周りの目など気にならないほどに自分たちの世界に入り込んでる二人を眺めながらニーガンは笑みを浮かべた。その笑みが嘲笑ではなく、哀れみと慈しみの混ざり合ったものであることを知る者は誰一人としていない。
「リックと共に部下になるから自分も連れて行け」と申し出た時のダリルの目を見た時、ニーガンの心に湧いたのは純粋な驚きだった。
心身共に追い詰めても屈しなかった男がリックのために己の部下になることを受け入れたことに驚き、迷いのない真っ直ぐな目に狼狽える自分がいることにも驚く。
ダリルがリックを愛しているのだと察するのは難しいことではない。憎しみを目で語る男は愛も目で語る男だった。
その愛が友情なのか、家族愛なのか、恋心なのか。それは定かではなく、答えを出す必要もない。
その真っ直ぐな愛はとても美しい。
それだけで十分だ、とニーガンは思ったのだ。
「おーい、そろそろ出発するぞ!」
他の部下の掛け声によって意識を目の前の現実に戻したニーガンはお馴染みの笑みを貼り付けて二人に近づく。
ニーガンが近づくとダリルは威嚇するように睨みつけてきて、リックは表情を曇らせながら目を伏せた。
「出発だとよ、ダリル。イチャつくのは帰ってきてからにしろ。」
そう言ってリックの腕を掴んで引き寄せればダリルの眉間に刻まれたしわが深くなる。
「毎日毎日、勘弁してくれ。これじゃあ俺が恋人同士を引き裂く悪者みたいだ。それは違うだろ?」
「……言われなくても行く。」
ダリルはもう一度ニーガンを睨んでから自分のバイクに向かって歩いていった。その後ろ姿を視線で追いかけるリックの顔は憂いを帯びている。
その横顔を見つめながら、ニーガンはリックという男を心の底から哀れに思う。
自身がダリルを縛り、自らもダリルに縛られ、その現状を変えられないことに苦しむ姿は哀れだ。自分の存在が大切な相手を苦しみに縛りつけていることを自覚しながらも、自分が死ねば相手の魂も死ぬと知っているため自らの死による解放も望めない。
愛情が深いからこそ、彼らは決して救われない。
「ニーガン、俺もダリルと同じ仕事を与えてほしい。」
こちらに顔を向けたリックの眼差しは真剣なものだ。
同じ言葉を数え切れないほど言われてきたが、こればかりは許可できない。ダリルの身を案じる時のリックの憂い顔は誰よりも美しく、ニーガンの一番のお気に入りだからだ。
ニーガンが首を横に振ればリックの表情が苦悩に歪む。
「逃げたりしない。約束する。だから──」
「お前は俺の補佐をするのが仕事だ。俺の傍にいなくて仕事ができるのか?」
その問いにリックは黙って俯く。
きっと泣きそうな顔をしているのだろう、と予想してニーガンは微かに苦笑した。
そんな二人を余所に部下たちの乗った車やバイクが次から次へと外へ出ていく。その中には当然ながらダリルの姿もあり、寄越された視線に殺気が含まれているのを感じながらもニーガンは余裕の笑みを浮かべる。
リックがダリルの身を案じるように、ダリルもリックの身を案じているのだとリックは気づいていない。自分のいない間にリックが殺されるのではないかと不安なのだ。
部下たちが出ていくのを見届けた後、ニーガンはリックの肩を叩いてから建物に足を向ける。
「今日も俺のサポートを頼むぞ、補佐官殿。」
それに応える声はない。
愛するからこそ離れられない。
互いに縛られ、相手を不幸にするとわかっていても離れられない二人は哀れだ。
彼らの愛は悲劇的で、そしてとても美しい。
この腐れ切った世界で奇跡的なまでに美しく哀しい愛の形。
それに気づき、密かに愛でるのは自分だけでいい。
彼らの愛し合う姿こそが何よりの献上品だと知るのも、自分一人だけでいい。
ニーガンの後ろから足音が響く。すっかり聞き慣れたその音にニーガンは小さく笑みを浮かべた。
さあ、今日はどんな表情を見せてくれるのだろう?
芸術品を愛でる愛好家のような気分でニーガンは口笛を吹いた。
End