FUTURE is like a cup of tea 内びらきのドアからはいって左手側、四人掛けのテーブル席。なにかと話好きの客がカウンターの席に集まって、加えて満席になるほど繁盛しているわけでもないので店の隅に位置するそのテーブル席は長らくひとが座っていなかった。掃除は店を開ける前と閉めた後できっちりやっているから布張りのソファに埃が積もっているということはなかったけれど、好きに座ってと勧めてあそこを選ぶひとはそういない。
しかしながら遡ること二週間。そのテーブル席に座るひとが現れたのだ。
なにかと雨の日が多いと思われがちなこの国であるが実際には曇りであることがたいてい。降ったとしても傘のいらない小雨程度。しかしあの日はめずらしく前の夜から強い雨が降っていたと言うのにその人物はなにを考えていたのか頭からずぶ濡れになって店の軒先に立っていた。いつから雨宿りをしていたかはわからなかったが存在に気づいてしまった手前そのままにしておくのも気まずくてつい店のなかに引っ張りこんだ、というのが事の顛末。だいじょうぶですからとたどたどしい英語で断ろうとするのを勢いで遮りタオルを押し付けたのはさすがに強引だったと反省もしたけれど結果として赤毛のかれはいまやふつうに店の客になっている。はじめましてのときにサービスで出したクリームたっぷりのココアは二度目からはかたくなな拒否に合っていて、とても成人しているようには見えなかったのだが――――、東洋人の年齢はわからない。
かれが店に来たのは両手で事足りる回数だ。よほど隅の席が気に入ったらしく、いくらカウンターの席を勧めても首を横に振られてしまう。注文するのは店自慢のポークパイか、さっとつくれるきゅうりのサンドイッチ。べつに紅茶しかないわけではないのだがコーヒーのオーダーはなく、茶葉の指定はこれと言ってない代わりに淹れるところをやたら注意深く見られているのは気のせいではないだろう。変わったことをしているつもりはないのだがやはりグリーンティーとでは作法がちがうのかもしれない。注文以外の言葉を自分から発することは少なかったが老若を問わない常連客にからまれているところを見るかぎりわるい人間でないことはたしかだった。
話しかけられていないとき、かれは飽きもせずに窓の外を見ていた。
しかし、パイにフォークを立て、サンドイッチをかじり、カップを空にしてもかれが店にいるあいだに待ち人らしきが訪れたことはなかった。
主人である自分が言うのもなんだが正直のこの店はだれかと待ち合わせるには不向きだ。町のメインストリートからは一本はずれている上に近くにバス停はなく、ほかに目ぼしいものもない。そもそもこの町自体が郊外に当たるのだから当然というものだ。のどかで暮らしやすい、かれくらいの年ごろの子――こういった言い方をすると自分がたいへん年寄りっぽくていけないが――にとってはおもしろみに欠ける土地だ。
日本のハチが有名であるように、相手があるかもわからない――――未来が不確定だというのに平気な顔をしていられるのは東洋人独特の価値観なのだろうか。少々聞いてみたいような気もするが顔見知り程度であるカフェの主人にそのようなことをたずねられても戸惑うだけなのはわかっているからこれはただの思い付きだ。
そういうわけで例の席はすっかりかれの指定席という認識になっていた。
だから、今日のようにかれでないひとがそこに座っていると気になって仕方がない。
レモンパイをサーブしながらこっそりうかがえば先ほど見たときと変わらずミステリアスな雰囲気をもった女の子が出来のいい人形のようにすとんと収まっている。
人形と言えば、いつだったか人形作家を生業にしているという女性が寄ったことがあった。ここで彼女も例の席に座っていれば神秘めいていたのだが勧めずともカウンターの席で煙草とコーヒーを楽しんでいた。地元の人間以外が店に来ることは滅多とないせいもあって変にこまかいことをおぼえているのだが顔立ちやなにを話したのかはさっぱり思い出せない。
そういえば彼女も東洋人だったかと首をひねっていると女の子が不意にこちらを向いた。
ぱちんと、宝石めいたアーモンド形の目がまばたく。
どこかのアパルトメントらしい部屋で住人らしいふたりがくつろいでいる。
円いテーブルには、色ちがいでお揃いのマグカップ。
赤いブラウスを着た女の子はソファに乗りあげていたが不思議と行儀のわるい感じはなく、本をめくる振りをして赤毛のかれがフライパンを振るう背中を眺めているのがいかにも幸福そうだ。
――――見たのはひさしぶりだ。これがはじめてではないにも関わらずおまけのような眩暈はいつまで経っても慣れない。
ふたたび視線をやれば女の子はすでに目をそらしている。さらに言えばたったいま見えたばかりのしあわせそうな表情はその片鱗すら見当たらず、あまりにも自然な様子で脚を組むと不機嫌そうに大通りのほうをにらみつけていた。
言うまでもなく彼女とは初対面だ。ましてや赤毛のかれと連れ立っているところを見たことは一度もない。しかし先ほど浮かんだ像はたしかな事実に成るのだと経験上知っている。
澄ました様子の女の子に、かれとはどういった仲なのかをたずねるのは無粋と言うものだ。
からん、と。ドアに吊り下げたベルがそれらしい音をたてたのにはっとする。
条件反射で振り向いていらっしゃいと招いたのは新聞を小脇にかかえた初老の男性だ。もちろん顔なじみの客である。
男性は慣れた仕草でカウンター席の椅子を引けばいつものように注文を済ませると先に来て団欒していた面々と軽口を交わし合う。それから何気なく店内を見まわし、やはりと言うべきか例の駅に座る女の子を認めてひょいと片眉をはねさせた。
「おおい、いつもの燕はどうしたよ。とうとう愛想つかされたかあ?」
「ちょっと、冗談よしてよ。それに、かれだって毎日来るほど暇じゃあないんでしょう」
「なんだい。おれたちが暇人だってのか?」
「そう聞こえた?」
ほんの五分も前ならば男性のそれにコミュニケーションのひとつとして乗っかっていただろうがあんな白昼夢を見てしまえばとても無理だ。たとえ意識しているのがこちらだけとは言え、あんなにかわいらしいカップルの邪魔をするのはいくらなんでも気が引ける。
思わずちらりとすれば女の子はソーサーごとカップをもちあげたところで、しかしすでに空だったのか苛立たしげにそれらをテーブルに戻す。
男性の注文を手早く出してやって、女の子が好きそうな銘柄を選んであたらしく淹れる。なに食わぬ顔で缶をならべているが自分が楽しむように仕入れたちょっといいやつだ。
「おかわりはいかが?」
花に似た香りがする湯気の立つカップを空のそれと入れ替えればおどろいたように女の子が目を見ひらく。
「――いただくわ」
一瞬だけ迷う素振りを見せたのに冷めないうちにと再度うながせば女の子は観念するようにカップを取りあげる。ひと口し、ほうっと息をついたときには険しい表情がやわらいで、当たり前だがずっとキュートだ。
かわいい顔をしてかれもなかなかやるじゃないとますます年寄りくさいことを思う。
「その一杯はサービスね」
「ありがとう。……うん、とても美味しいです」
「それはよかった。ここには観光で?」
「いえ、ちょっと学校の課題があって……」
「フィールドワークってやつかしら。学生さんはたいへんねえ」
「まあ、そんなところです」
自分のころはどうだったろうかと思い出してみる。わざわざ取り立てるようなものではなかったけれど興味がなくてぼんやりしていることの多かった講義ほど成績はよかった。もちろんそれは《見える》というルール違反があってこそだから授業態度は反比例を描いていたのだけれど。
『おっかしいなあ。魔女って言うから若い女と思ったのに、やっぱり超能力者相手は分がわるいか。でも師父からの課題であの成金女に後れを取るのは癪だし……』
もう何年前のことかを数えるのがいやになる学生時代を振り返っているとティーカップで口もとを隠して女の子が何事かつぶやいた。うまく聞き取れなかったがおそらくは母国の言葉だろう。しかしこれを聞き返すのはマナー違反だろう。
話が切れたのをきっかけにしてカウンターの内側に戻ってほかの客の相手を始めると、しばらくもしないでまたドアのベルが鳴った。
「いらっしゃ、――あらっ」
「……どうも」
目が合うなり軽く頭を下げられる。赤毛のかれだ。なぜか今日は来ないものとばかり思っていたけれど女の子が先にいるのだからこういう未来もあって然るべきだろうと逆説的に納得した。
かれの目は当たり前のように自分の指定席へと向かう。そのまま相席していくものとばかり思いきや、釣られて視線で追いかければ女の子が紅茶をぐいーっと飲み干していた。
豪快なそれにまわりといっしょになって呆気に取られているあいだにカップを置くと同時に立ちあがる。そのまま置いておいてくれて構わないのにだれに倣ったのか食器をカウンターに運びがてら女の子がそれはもう完璧に微笑んだ。
「ごちそうさま。それで、ひとつ聞きたいのだけれど」
「なにかしら」
「今夜の天気が知りたいの」
「ああ、それなら――――今夜は晴れるでしょうね」
会計をする傍らで女の子のきれいな海色が細められた。
つづけて、新聞に書いてあったわよ、とすぐそこで聞き耳を立てている男性がわざとらしく顔を隠しているそれを指さす。生活するのに便利な白昼夢はあまり見ない。学生のころはたくさん見ていたが店を営むようになってからはそもそもの回数自体が減っている。
それもそうですね、と女の子。どこか不満そうにしているのは雨のほうがなにか都合がよかったのかもしれない。なんだかわるいことをした気になるが魔女でもなんでもない自分には天気をどうこうすることはできない。いや、魔女に天気をあやつる力があるのかは知らないけれど。
「またどうぞ」
だれに言うのと同じように声を掛けて女の子を送り出す。からんと鳴ったベルの音もいつもどおり。
ふと軒下に大雨の日と同じように夕焼けにも似た赤毛――ドアを開けただけですぐにまた外に出てしまったのだ。事前にどういうやり取りがあったのか、察せられた力関係にがんばれと応援しかできない――を見つけて懐かしんでいると押し出されるようにしてかれの背中が窓から見えた。どうやら女の子がかれ目掛けで飛びついたようだ。東洋人はシャイであるというイメージを覆す代表選手みたいにそのまま腕をからめて歩き出すのを窓越しに見送る。
けっきょく名前も知らないままだけれど、せっかく見えたのだ。あの部屋でのことがいつの日になるのかはわからない、しかしいずれの日には来る事実。ならば紅茶の一杯分くらいは彼らの未来があのとおりしあわせであるようにと、ささやかに。