クラディルちゃんがお家帰るはなし 無事に『やり直しの世界』で再会を果たしたクラッドとディールは、今、二人揃ってその大きな邸宅を目の前にしている。
以前ならば――こうして二人が転生のチャンスを手に入れる前のことだ――この場所に帰ってこようなどとは微塵も思わなかったことだろう。そもそも、帰れる場所ですらなくなっていたのだが。
世界の時間が巻き戻されるまで、そこは大いなる惨劇の舞台とされていた。屋敷内のほぼすべての人々が命を落とし、かつ犯人は不明、事件は迷宮入りとなった。
しかし一箇所の分岐点が修正された現在では、そこはただの住居として存在するありふれた建造物でしかない。
魔族長セルフィが住まう邸宅に比べれば小さいものではあるが、吹き溜まりの街にあるどんな建造物よりも大きなそれは、ディールにとって、すでにそこへ足を踏み入れることが試練の第一歩であるように感じられた。
そんなディールのとなりで、家を出てからさほど時間は経っていないにも関わらず、クラッドはどこか懐かしげに邸宅を眺めていた。記憶を取り戻し、この場所を離れていた本来の空白を思い返しているのだろう。罪の意識に胸を痛めているのか、それともそれほどでもないのか。表情から窺い知ることはできないが、少なくともクラッドはそういう人間である。それに、表情を読むことができなくとも、ディールには大体のことはわかっていた。それもすべて、クラッド本人の口から聞いたことだ。
ここへの旅路の途中、列車の中で途端にクラッドは身の上話を始めた。自身の生い立ちであるとか、両親がどういう人だとか。きょうだいがどうのだとか、最初はほんの些細なこと。順を追って、その話は深刻になっていった。そして最後に語られたのは、自身が如何にして、家族を殺したのか。
クラッドの話を聞いている間、ディールは終始口を噤んでいた。そして、その話が終わり、またクラッドが全く関係のない話を始めるまで、ずっと。
ディールはそこで聞いたことを、おそらくこの先忘れることはないだろう。そしてその内容について、言い及ぶこともない。彼がどうしてそんな話を自身にしたのか――それがよく理解できていたからだ。
クラッドの放つ言葉の意味を細かく咀嚼する間もなく、一字一句が確固たる事実としてディールの記憶に刻みつけられたのだった。
数時間前の事を回視しながらその横顔を眺めていると、邸宅を見上げたままのクラッドが静かに声を上げる。
「怖い?」
「……大丈夫」
強がっていることなど見透かされているだろうが、あえてディールはそう答えた。するとクラッドは少し笑い、視線を彼の方へと向けた。
「とても大丈夫そうには見えないけど?」
「う、うるさいな……」
たじろぐディールの不安を察してか、その頭に手を置くと、クラッドはさらさらと撫でた。
「大丈夫だよ。……俺も怖い」
「……うん」
「と言ってもまあ、俺の場合はディールのそれとは別物だけど。またひょんなことから手が出てしまうんじゃないか――ってね。正直かなりビビってる」
ヘラヘラと笑ってはいるが、本心からの言葉だということは明確だった。
「もし俺がまた道を踏み外しそうになったら、その時は――」
「よろしくしないから」
「ええっ!? なんで!」
先を読まれ、肩透かしを食らったようにつんのめるクラッドに、ディールは至極真面目な顔で返答してみせる。
「その時なんて絶対に来ないからだよ。もう、クラッドは道を踏み外したりはしない。そうだろ?」
「う……ま、まあ……そうだね……そうならいいんだけど」
「そうするの」
「……はい」
普段は弱気めなディールだが、時々こうして強気に出る事がある。その瞬間のディールにクラッドは弱く――同時に、かなり惚れている。その為いつものように軽口で逃げることはできず、素直に頷いてしまったのだった。
「はー、ほんと君のそういうところすごい嫌いだよ」
言葉では裏腹なことを呟きつつ、クラッドは正門の呼び鈴を鳴らした。間もなく門が開き、それと同時に玄関の扉が開いたかと思うと、そこから小柄な女性が勢いよく飛び出してきた。
「めんどくさい」
「え」
ボソリと愚痴をこぼしたクラッドに何事かと問う間もなく、その女性が二人の前で立ち止まり、嬉しそうに胸の前で両手を合わせた。
「おかえりなさいクラッド! お母さん、電話もらってから楽しみで楽しみで……貴方達が玄関まで歩いてくるの、待っていられなくって!」
走ってきちゃった、と満面の笑みで話す女性にうんざりとした表情を返しながらも、クラッドはとりあえず挨拶を済ませる。
「母さんただいま。……早速だけど、こちらが電話で話したレオ・ベルネット。ディール、こっちは母のアイリーン」
「初めましてレオくん、クラッドのお嫁さんね! どうもはじめまして!」
クラッドの母、アイリーンからキラキラとした瞳を向けられ、ディールは変な汗を背中に感じながら小声で問う。
「……クラッドくん」
「ん? なに」
「君、まさか僕のこと」
「うん。お嫁さんって伝えた」
悪びれもなく言ってのける彼に文句を言ってやりたい気分だが、生憎今はそんなことをしてはいられない。馬鹿じゃないの、という言葉はひとまず飲み込み、ディールはアイリーンに向き直る。
「れ、レオです……よろしくお願いします」
「……えい!」
「ぶあ!?」
掛け声とともに強く抱きしめられ、思わずディールはおかしな声を上げる。そんな彼にお構いなしに、アイリーンは随分と気分がいい様子だ。
「可愛いー! クラッドがお嫁さんを連れてくるって言うから一体どんな子かしらと思っていたけれど、こんなに可愛い子だなんて……お母さん嬉しいわ!」
「あ、あの」
「黒い髪も瞳の色もとっても綺麗ね」
「く、クラッドー」
情けない声で助けを求めると、当の本人は実の母親に向かって、大層な嫉妬心を宿した視線を突き刺していた。強めの力で母親からディールを引き剥がすと、子供のようにはしゃぐ母を窘める。
「母さん、そのくらいにしときなよ」
「ご、ごめんなさい……そうよね。ごめんねレオくん、私嬉しくってつい。遠いところから来てくれたんだもの、まずはゆっくり休ませてあげないとね」
「そうそう、話なんてその後でいくらでもできるんだからさ」
そう言うと、クラッドは玄関で戸惑った表情を浮かべ硬直している使用人を呼びつけると、数少ない手荷物を任せて自らも玄関へと向かう。その後ろ姿を追いながら、ディールはアイリーンを見る。
「あの、アイリーンさん、僕……」
「どうしたの?」
慈愛のこもった瞳に捉えられ、ディールは吐き出しかけた言葉を喉に詰まらせる。今更こんなことを聞くのは、逆に随分と失礼なのではないか、と。しかしそれでも、彼の母であるアイリーンの口から聞いて、自身を安心させたいと言う身勝手な思いがあった。
黙りこくるディールに、アイリーンは柔らかな声で言う。
「レオくん。クラッドのこと、どうか支えてあげてね」
「え……」
「ふふ。私は、レオくんが男の子でも気になんてしないわ。でもそういうことを気にしてしまう気持ちはとてもわかる。世界はまだまだ優しくなんてないもの。……だけどね、レオくん」
アイリーンはディールに視線を合わせ、優しく微笑む。
「私、クラッドが貴方を迎えたいって話してくれた時、とっても嬉しかったのよ」
「どうして、ですか」
「だってあのクラッドよ? 人間相手に根本的な興味を持てないあの子が、そこまで想うことができる相手を見つけられたんだもの。それが嬉しくないわけがないでしょう? それにね……今から言うこと、あの子には絶対内緒よ?」
そこまで言うと、アイリーンは身を屈め、ディールに耳打ちをする。その内容を最後まで聞くと、ディールは赤くなった顔を伏せた。
「あの子にとって、レオくんは運命の人なのよ」
にこにこと笑うアイリーンに、ディールはかろうじて一言だけ返す。
「茶化さないでください……」
「ふふ、そんなわけだから、貴方がちゃんとクラッドと再会できたこと、私としてもすごく嬉しいのよ。クラッドが貴方のことをディールと呼ぶのも、きっとそこに繋がっているんでしょう?」
問いかけるような口調であったが、彼女は確信しているのだろう、ディールからの返事を待つ事なく右手を差し出す。
「改めて、ようこそベルンハルト家へ! これからよろしくね、レオくん!」
「……はい」
おずおずと手をのばすと、アイリーンはギュッとその手を握り、もう一度笑った。
「それじゃあ、そろそろ行きましょうか。クラッドがムッスリしてるから」
彼女がちょいちょいと指差す先には、言い表した通りに不機嫌な表情のクラッドが立っていた。わかっていることとは言え、クラッドの嫉妬の強さに半ば呆れつつも、ディールは彼の元へ早歩きで向かった。そしてその姿を、アイリーンはそっと見守るのだった。
なれるまでは同室で、と言うことが決まった二人は、先に荷物が運び込まれていたクラッドの部屋に着くと、早速、というようにベッドに倒れ込んだ。流石に子供の身体では数時間の旅でも疲労が溜まるようで、ディールに至ってはそのギャップに感動すら覚えていた。
ディールが高級感のある柔らかいマットレスを堪能していると、クラッドが不意に口を開いた。
「さっき母さんと何話してたの?」
「ううん、別に。大したことじゃないよ」
「あ、そ」
そっけなく返事をすると、クラッドは体を起こし、大きく息を吐く。
「……あのさ」
「なに」
「……いや、やっぱ……いいや」
「? なんなのさ、言いなよ」
言い淀むクラッドに先を促すと、僅かの迷いの末、彼は言いにくそうに答える。
「その。どうしてあんな人を、……なんて、感じたりしたんじゃないかって。思ってさ」
「……はあ」
「語尾が上がらなかっただけ良かったと考えたくなる顔だね」
もうこの話は終わったはずだろ、と視線で訴える。クラッドは納得がいっていない様子だが、実にお互い様だ。口に出して言わないと、納得は出来ないのだ。不安になったその都度、何度でも、何度でも口にして、確認をしなければならない。
「確かに君のやったことは最低最悪で、君はどうしようもない屑だけどね?」
「当たり前だけどすごい言われようだ」
「そりゃそうだよ。殺人窃盗云々やらかしてきたんだろ。このくらいは我慢して」
「はい」
「でも、今日君が言ってくれたみたいに……その上で僕も……その」
「……」
「君のこと、愛してる、から」
先程は言わなかった言葉を絞り出すと、死にそうになりながらもずっと合わせていたクラッドとの視線を勢いよく逸して下を向いた。たった一言のハードルが高すぎて、越えたあとの反動がとてつもない。こんな言葉を軽々と口に出す、むしろもはや口癖のように扱うクラッドの精神を疑いたくもなる。もっとも、今や彼も、ディールに対してその言葉を冗談として扱えやしないだろうが。
何故か一言も言葉を発しないクラッドに不安になり、
ディールが顔を上げると、そこにはまるで空気を読んでいないニヤついた表情を浮かべる彼がいた。
「いやあ、ディールは本当に最高だな」
「――っ!? お、お前――!!」
嵌められたことに気づいたディールは、真っ赤になった顔を隠そうともせずに枕でクラッドを殴りつける。
「だってまだ一回も聞いたことなかったから!! 俺ばっかりは不公平だろー」
「うるさいうるさーい!!」
休む暇なく叩き込まれる枕を腕で制しながら、クラッドはディールの腕を掴む。驚いて身を引こうとするが、バランスを崩しそのままクラッドもろともベッドへ沈み込んだ。尚も抵抗を試みるディールを、クラッドは笑いながら挑発する。
「力で俺に敵うかな~?」
「夜迷い羊をなめるなー!!」
「ちょ、ま、大人げない!!」
クラッドがディールの上に覆いかぶさり自重で押し潰すと、ようやくディールも観念したのか、大人しく身体の力を抜いた。
「くそ……成長したら覚えてなよ……」
「なにそれちょっと怖いよ。何するつもり?」
「君の大好きなディールの顔で、君がやったように耳元で囁いてやる」
「バッ……」
まさかの発言に、クラッドは思わず自らの口を手で塞ぐ。
「馬っ鹿それ俺にとっちゃ抱いてくださいって言われてるようなもんだぞ。流石にそんなの責任取れないからな」
「いいよ。それで」
「……いいの?」
「いいよ」
「……ど、どうしよう。突然の許容に心がついていかねえ……」
クラッドはディールの髪を掻き上げ、左目を重点に置き彼の顔を覗き込む。
「じゃあ、せっかくだからいい景色見せてもらおうかな」
「……今はまだ倫理に背かない程度でね」
「難しいこと言うなぁ。じゃあとりあえずこれだけ。いや、これから……かな?」
そう言い、クラッドはディールに口付ける。二人にしてみれば浅いものだったが、これ以上はディールの言う『倫理』では許されてはいないのだろう。何度か軽く触れ合ってからクラッドが身体を起こすと、何故かディールはなんとも言えない表情で彼を睨んでいた。
「え、なに。俺なんか悪いことした?」
「いや……」
ディールはゆっくりと身体を起こすと、ふいとそっぽを向く。
「クラッド」
「うん?」
「……早く大人になって」
耳まで赤く染めて吐き出されたその言葉に、クラッドはひどい眩暈を覚えるのだった。