大学から帰る道すがら、並んで歩く彼の片頬がぷくっと膨れていた。
間食をしない彼には珍しいことだ。中に含まれている甘いかたまりのことを思うと、走の口にもじゅわっと甘さが湧いてくる気がした。のんびりと竹青荘へ帰るお供に昔懐かしい飴玉はよく似合う。彼の行動は不思議といつだって絵になる。
ハイジさん飴食べてるんですね、と言おうとして、見たままを告げてどうするんだと思い口をつぐんだ。
いくつになっても、うまく人と会話が続けられる気がしない。我ながら、口下手という言葉では言い訳がきかないざまに内心ため息をついた。
知らず知らず自分の口内を舌でいじる。飴をなめてざらついたようにしわくちゃになる口の粘膜の感触を想像した。好きな人の、口の中。甘い粘膜に吸い付きたくて、胸がどきどきする。
「何見てるんだ」
飴玉より大きくて透明な瞳がこちらを見ていた。
大きな飴玉が口に入っているせいで舌足らずになっているのがかわいらしい。
「何味ですか」
「ん?」
「飴」
ほっぺたを指でつつきたいのを精一杯やせ我慢してそう問うと、膨らみはもう片方の頬に移動して「黒飴」という答えが返ってきた。
何か言葉を返そうと息を吸い込んだとき、ハイジがポケットを急に探った。着信があったらしい。走のほうをちょっと拝むようなジェスチャーをして電話に出る。
別に、会話の途中で電話に出られることなんてなんでもない。ただ、そんな彼の姿がひどく大人びて見えて、妙にむずむずした。
「はい、清瀬です」
愛想よくしゃべっているハイジを見るのは嫌いではない。なんとなくぎゅっと口を閉じ、鼻で息をしながら待つ。穏やかな日差しの下、ハイジの髪の毛がきらきらと光っていた。よく晴れた日の夕方、からりとした空気が心地良かった。
「ええと、それはですね、あの」
ぼうっと眺めていたら、急にあごのあたりを触られた。びっくりしてハイジの顔を見る。口角があがっている。何かたくらんでいるときの顔だ。
ハイジは携帯を持っていないほうの手をおもむろに口に入れ、親指と人差し指で飴をつまみ出すと唾液が糸引くそれをためらいなく走の唇に押し込んだ。
「っ」
抵抗する間もなかった。
「明日全員分提出しますので、よろしくお願いします」
ぬるい飴玉はしびれるように甘かった。ハイジはしゃべりながらなおも指を突き付ける。
正解が分からぬままその指を口に含むと、ハイジの瞳が楽しそうに揺らめいた。甘さでべたついた指先をそっとしゃぶる。爪のまわりを舌先でていねいになめてやると、ハイジはくすぐったそうにまばたきをした。長いまつ毛が見えない風を起こす。
「失礼します」
電話を切ったハイジは「すまんすまん」とまったくすまなさそうではない顔で言った。走の口の飴玉は小さくなり、少し力をこめれば噛み砕けそうだ。
「びっくりしました」
「うまくしゃべれなくってな。地面に吐き捨てるわけにもいかないだろう」
「俺はゴミ箱じゃありません」
「ひとの指をなめて、猫みたいだったな。ぺろぺろと」
「それは、そっちが……!」
ハイジはしばらく黙ってから急に笑い出した。
「おかしいと思わないか、俺たち」
俺たちじゃなくてあんただけです、と言いたいのをぐっと飲みこむ。
「人がねぶった飴玉を回し食いさせられたことに抗議するのが通常の神経だと思わないか? きみは自分がゴミ箱扱いされたことに怒っているが、俺のツバまみれの飴を食わされたというパワハラ行為には何も言ってこないんだな」
ひどい言い草だ。飴の最後のかけらを舌ですりつぶし、ついにただの甘い気配だけが走の口に残った。
「別にそれは何とも思わないです」
「……はっきり言うじゃないか」
「でも改めてそう言われたらなんか腹立ってきました」
ハイジの両肩を強くつかんでこっちを向かせた。驚いたハイジの両の瞳がぱっちりと大きく見開いた。吸い込まれそうで一瞬気圧される。
知ったことか。
歯がぶつかりそうな勢いで口づけてやった。刹那、ハイジの体がびくんと一度大きく震えた。
唇は柔らかくてあたたかくて、甘かった。
「急に何をしてるんだ」
抱きすくめられたハイジが腕の中で言った。静かな抑えた声だった。
「……俺なんか何もできやしないって思ってたでしょう」
「思ってないよ」
「ハイジさんは俺のことを軽く見てるから、そんなことするんです」
ハイジの口から甘い匂いがする。きっと自分の口からも同じ匂いがしている。甘さの奥にある生き物の匂いが恋しい。みずみずしい細胞が放つ彼自身の匂いを胸いっぱいに吸い込みたい。走の喉仏が一度ごくりと大きく動いた。
「俺だって、大人の男です」
もう一度、今度は強く口づけた。苦しげにあいた唇のすきま。
(不用心ですよ、ハイジさん)
じゅっと音が出るくらい強く吸い上げた。
ぬるい唾液の味がして、走は脳天から冷たいものが下りてくるような感覚を覚えた。興奮しているのに冷えている。征服欲だ、と気が付くと、今度は後頭部がかっと熱くなった。
「痛っ」
舌先を思いきり噛まれて、唇を離した。
「バカだな」
吐き捨てるようにハイジが言う。下を向いた耳たぶが赤かった。夕焼けのせいではなかった。自分の頬が熱くなるのが分かる。なんてことをしてしまったのか。考える前に体が動く、また悪い癖が出た。
先に歩き出したハイジをあわてて追った。飴でもない、汗でもない、ハイジだけの匂いがふわりとした。
「……すみません」
「何が」
「調子に乗りました」
「いいよ別に」
噛まれた舌が痛む。走は口の中でぺろぺろとせわしなく舌を動かした。しみる噛み傷の奥、かすかに錆びた血の味がする。
「きみと俺はまだまだ難しいな」
「……何がですか?」
「もう少し落ち着かなくてはだめだ」
「どういうことですか」
ハイジがきっとこちらを見た。怒っているような、泣き出しそうなような、変な顔をしていた。
「ハイジさん?」
「……こんなことで動揺するようではいけないってことだ」
早口で吐き捨てるように言い、さっさと歩を速めた。
(動揺? 動揺って、どきどきすることだっけ)
とっさにハイジの手を取った。ひんやり冷たかった。緊張すると、どくどくと鳴る心臓と反比例するように手は冷たくかじかむものだ。
(ハイジさん……)
走の胸がきゅっとなった。冷えたハイジの手を引き寄せてやわらかく握る。自分の熱をそっと分け合えるように。
「こうしていてもいいですか」
「嫌だと言ってもするんだろう」
そうだと答える代わりにほんの少しだけ体を寄せた。
恋は難しい。だけど彼と一緒なら、難しさにのたうち回るのも悪くない。
竹青荘まで、あと少し。