黄金の道♈
九月に入り、欧州のあちこちから戻って来るバカンス組を、白羊宮の権能の一つである門番として私は出迎えた。
こちらの「おかえりなさい」の声で、同僚たちは手土産の菓子折りをつぎつぎに置いていく。(バカンスを含み)多くても年3回の登庁も、皆順応しきって流れるような手つきで。かといって義理ということでもなさそうだ。有難く受けとるその一つ一つは私に、というより育ち盛りの弟子のために選ばれた菓子ばかりだから。実際、美味そうに頬張る弟子の姿というものは自分のこと以上に嬉しく感じる。
果たして私のこれも同僚達は見通して、土産のうちに入れているのだろうが。
(今夜も星がよく見える……)
「ムウはま、今年は館の掃除するんでふか?」
白羊宮の敷地内にある居住で先ほどから土産物の菓子を頬張っている弟子の聞きとりにくい問いに、窓外の夜模様を眺めながら私は頷いて答えた。
「吹さらしで今ごろ埃だらけだろうから」
「だったら……うぅっ!」
菓子を急いで飲み込んだ途端、顔色を変えた弟子に、私は黙って冷茶を差しだした。表情豊かな弟子の顔は何度見ても飽きないから私はあえて注意しない。しかし冷茶を飲んで喉のつかえが取れた弟子は意外な提案をしてきて、私の目を瞠らせた。
夏休みを終えた同僚がすべて戻ってきたことを見届けて、聖域の気配が地に足をつける頃。
私と貴鬼は昨年同様に休暇を使って、ジャミールの館の大掃除を始めた。今回は大掛かりに。全ての家具を外に出しながら、だ。
残った最後の椅子を持って出た貴鬼には、外で家具を拭かせた。後で磨くつもりの銀食器や小物類を大きな包みに纏めたのもやはり外に。がらんと音が鳴りそうな館一階の、天井から床までを見回した。
そうだ、昨年はシャカがここにきて、一泊してから三人で帰ったのだ。標高数千メートルにもなる、この館に好んでくるような人間はシャカぐらいのものだろう(シャカでさえ私は意外に思ったものだが)
〝今年も行くのかね?〟と先日シャカに聞かれて答えた際に、やはり今年も来たいと言ってきた。ジャミールを避暑地とでも考えているのか。彼にはギリシャの晩夏にさしこむ影の下が、ちょうどいいぐらいだと思うのだが。
一方で自発的な外出は、よほどのことでもない限り……のシャカなのだ。任務外で誰かと行動を共にする時におぼえる新鮮さは、おそらく私一人のものではない。
「まあいいか」
疎かになっていた掃除の意識を呼び戻す。
おおよその滞在期間は知らせたからこの掃除が終わる頃、勝手に来るだろう。
客人が来ると判っているので寝具と食料の準備もいつもの倍、数日をかけて綺麗にした部屋を最後に一度見回した私は、黄金聖闘士引退後に宿を営むのも悪くないと思った。それにしても、と館の壁をひと撫でしてみた。
他の人間の目では捉えられない砂の粒子が指をくすぐってくる。ジャミールの建物と牡羊座の黄金聖闘士の間だけにある、磁石のような感覚共有。
「生きているこの館では不憫で出来ないな」
付き合いの長い相棒に笑みがこぼれた。
バカンスと言っても掃除のための数日間は聖域に日帰りだ。夜は持ち帰った荷物(金属製は特に)を磨いて手入れをする。これも昨年と同じに。と、横で木彫りの小さな置物を拭いている弟子に声をかける。
「貴鬼、お前は客人をいつ招待するんだ?」
「明日でもいいですか?」
「フフ…構わないよ」
花が咲いたような表情、とは貴鬼のこれを言うのだろう。
「貴鬼、お前の大事な客だ。明日は一緒に来るといい。私は先に行っているから」
「はい、ムウ様!…あ、シャカもオイラが連れていきましょうか?」
「いや、〝あれ〟は一度来ているし、好きな時に来るよう伝えてある」
シャカって〝あれ〟なんだぁ…と貴鬼が小さく呟いた。
-私がシャカをあれ、とまで呼ぶのには理由がある。同僚以上の〝わけありの関係〟になってずいぶん経つ。二人だけの知るところで弟子はもちろん、他の誰にも気付かれてはいない(はずな)のだが-
「さて、お前のその置物で小物の掃除も終わりだな」
「あっ、もうちょっとでこれ終わりますから!!」
私は明日ジャミールへ持っていく大袋に他のすべてを詰め込み始めた。貴鬼の手元は心が急いてか、木彫りの置物を落としそうな勢いで……落としている。明日を待ちきれない心境もあるのだろう、素直さは変わらない。この子の作る穏やかな空気を吸っていたからか、椅子に掛けるなり欠伸が出た。
私も少し、明日が楽しみなのかもしれない。
翌日、宮の戸締りを貴鬼に任せて、日も昇らないうちに白羊宮を後にした。
貴鬼も数年の後には牡羊座の黄金聖闘士に就く歳になる。ある程度のことは安心して任せられるようになっていた。
通い慣れたジャミールへはテレポーテーションを使う。数分後にはジャミールで、磨いた銀食器や置物を元どおりに並べていた。仕上げに乾いた布でひと拭き済ませてから、工具を持ってある場所へと向かった。
私が向かったのは、ジャミールからふた山ほど離れた谷。
周囲は背の低い草が敷き詰められた緩やかな斜面で、古い小屋がぽつねんと建っている。氷河が溶けて出来た湖をものぞめる風光明媚な一帯だ。人気のないこのような場所は自然こそが支配者だ、それが気に入りでもある。
聖域を離れていたうちの数年間、私の生活はヤクたちと共にあり、夏期の餌場として見つけたここに小屋をしつらえた。幼い貴鬼を二、三度連れて来たこともある。食料を持ち込んで寝泊りして過ごしたものだ。
ジャミールの館と違って、自力で木材や石材を使って立てた小屋の佇まいは、今では頼りなく感じる。一方で、力強い生活をしていた頃の記憶を蘇らせてきた。
「さてと」だが感傷に耽ている場合ではない。
私は持って来た工具類を広げて小屋の修繕に取り掛かり、それは日が高くなるまで続いた。
「こんなものかな」
サイコキネシスを少々用いた修繕がざっと終わった所で点検し、手をはたいて小屋を見上げた。短時間にしては上出来だ。
貴鬼からの連絡はないが、そろそろ戻って支度を始めなければ、客人を待たせてしまいかねない。
持ち物を纏めてジャミールに戻り、湯浴みで埃を流した。
(……ムウ様、貴鬼です)
服を着替え終わると同時に弟子からのテレパシーが届いた。茶をすする暇も無い。
髪を梳きながら私は、第六感を解放して返事をする。
(貴鬼か、今どの辺りに?)
(言われた通り北側の山道を通って…あと三十分位かなぁ)
(判った、今日は天気も良いから景色を楽しんで来なさい)
(あ、それでわざわざ北を選んだんですか!さすがムウ様~)
(フフ…待っていますよ)
テレパシーを絶った。これでは落ち着いて髪を整えている暇もないぞ。普段なら充分乾かしてから結う髪は梳かすだけにした。
水を張った小鍋をかまどに置いて火をかけ、それとは別の鍋と保存容器をいくつか持って館を出た。一番近くの麓の町までテレポートを使って向かい、顔馴染みの食堂で三人分の温かい料理を持ってきた鍋容器に入れて貰う。
ジャミールは標高が高いため料理の時間がかかってしまい、一から自分で作るのでは間に合わない。本来、歩いて下れば町までは数日かかり、これらの料理も冷めるどころか痛んでしまうのだが。テレポートを使う時に限り、標高差数千メートルはスープの冷めない距離だった。有事でもなければおいそれと使う手では無いのだが…。
「今回は特別だ」
見えない誰かに言い訳するような独り言が出た。
館に帰ると湯はまだ沸いていなかった。計算通り。
持ち帰った料理を皿に盛ってテーブルに並べる。
「よし…」
出かけた間に半乾きになっていた髪は、花油をつけてから乾かして結う。それでようやく落ち着けた気がした。
火の番をしながら二人の到着を待った。周囲からは優雅と評される、私の現実の姿。
弟子の声が館の外で響いたのはそれから五分もしない内。
「ムウ様~、オイラのお客様、お連れしました!」
私は外に出て大きな客人をゆったりとした動作と笑顔で迎えた。
「遠路遥々…良くいらっしゃいました、アルデバラン」
「はっはっは!アリエス殿、お出迎え感謝する」
もう一人の客人であるシャカの事はすっかり忘れていた。
ジャミールの館の前でムウは貴鬼と共にアルデバランを歓迎した。
「ここがジャミールか…ムウが十三年間、隠れ住んでいたという」
「ええ、そうですよ。殺風景で何もない所ですが」
「そうでも…」
とアルデバランは言いかけて続きを飲み込んでしまう。周り一面、ゴツゴツとした大小の岩が転がるだけの全くの殺風景だった。少し気まずくなったのを、空の青さがあるじゃないか、と笑って誤魔化した。こんな場所で七歳のムウが一人で生きていたのを想像すると、日頃から孤児院で子供達と接しているアルデバランの胸は少し痛んだが、これもまた彼らしさであろう。
「このまま立ち話も何ですから。どうぞ中に」
微塵もわだかまりのないムウから、貴鬼との二人道中について尋ねられるうちに、アルデバランの心はすぐ晴れやかになった。
「途中までテレポートを使ったとはいえ、それなりに歩いたのでしょう?」
「ん?そうでもないぞ。貴鬼は過保護なくらい、俺に楽させてくれたのでな」
「それは良かった。でもお腹は空くでしょうから、早速食事を」
館の一階、ダイニングの椅子にかけるよう促されたのにアルデバランは従った。
何となしに見回した部屋の全体は、非常にエスニックな内装だった。この辺り、つまりチベットに縁の深い調度品や飾りが多く、中でも大きなヤクの頭骨の壁飾りは生々しく強烈な存在感を放っていた。ところで部屋全体は食べ物の良い香りに包まれ、一歩踏み入れた時よりアルデバランの食欲は刺激され続けている。テーブルの上には、彼には見慣れない郷土料理が三人分並べられていた。何の肉か、とても旨そうだ。
「冷めないうちにどうぞ」
アルデバランは遠慮なくフォークを手に取った。(箸文化の無い彼のために用意されたものである)話は腹ごしらえをしてから、と言わんばかりに貴鬼も箸を持った。朝から何も食べていないムウも少し嬉しそうな表情で料理の入った器に箸を延ばした、その時。
「私を置いてそれはあまりではないかね」
和やかな今の場にそぐわない凛とした声が響いた。ムウは目を丸くして、次に「あっ」と小さな声を出して館の入り口を振り返った。
そこには忘れ去られていたもう一人の客、微かに首を傾げたシャカが閉眼の無表情のまま立っていた。
一瞬の沈黙の後、ムウは椅子を引いて立ち上がる。
「勝手な事を、一言知らせてくれれば」
「きみらを驚かせようと思ったのだが…逆に私が驚かされている」
ムウに迎え入れられたシャカは顔にこそ出ないものの、館に入るなり、自分ではない先客の存在に気付いて内心驚いた。
「そりゃあ俺も同感だが…まさかシャカとここで会うとはなぁ!」
アルデバランも、思い出したかのように立ち上がりシャカに近づいた。その横にはちゃっかり蒸し餃子を頬張った貴鬼が口をモゴモゴさせている。
「い、いつ来るか判らなかったのでまだ知らせていなかったのですよ」
挨拶を交わす二人を尻目に、ムウは忘れていたかまどの湯で入れた茶を四人分、テーブルに置いた。椅子を足して一同改めて向かい合い席に着く。シャカはさも当然、という顔でムウの横に座った。
「シャカ、きみの分は準備していないから私のを半分にしよう」
「うむ、量としては丁度良い位だ」
「きみが小食で助かった」
「………」
アルデバランは初めて目にする二人の光景を興味深く眺めていた。が、思い出したように口を挟んだ。
「そう言えばムウとシャカは昔から仲が良かったな」
「ほーはんへふか(そーなんですか)?」
「ああ、やっぱり出身が近いせいだろうが」
「フフ…では他の皆も同じように考えていたんでしょうね」
「そうかもしれんなぁ。何しろお前さん達は昔から独特の雰囲気があったもんだ」
こうして和やかな雰囲気で食事が進み始めたのだが。
「おい、シャカ」
アルデバランが料理を口にしかけたシャカに声をかけた。
「何かね…?」
「お前さん、肉は平気なのか?」
どうやら目の前のシャカと自分のイメージするシャカとの間で齟齬が生じたらしい。
「きみは私を厳格な仏教徒だと思っているのだろうね」
シャカは肉料理を口の中に放って見せた。アルデバランの疑問は、シャカにとって日常茶飯の部類のものだった。途端にムウは二人のやりとりが可笑しくなり咀嚼中の口元を手で隠した。そしてモモ(チベットの蒸し餃子)を飲み込んでからシャカの代わりに口を開いた。
「アルデバラン、よく考えてもみなさい。神に最も近いと称されて、それを否定すらしない男が、人の教えに従い続けると思いますか?」
「それも…そうだな」
ムウは皮肉めいた言い回しでアルデバランの疑問を解消した。貴鬼も楽しそうに話に乗って来る。
「近くの村も仏教だけど肉食べてるよー」
「ほぅ…仏教にも色々あるんだなぁ」
「そういう事です。この辺りの人は肉を食べても不殺は守っていますよ」
「確かにこんな標高じゃ肉でも食わんと野垂れ死にそうだ。…ん?」
「どうしたんです、アルデバラン?」
「いや…肉を食うためには屠殺しなきゃなるまいと思ってなぁ」
アルデバランの中に生まれた新たな疑問に今度はシャカが答えた。
「至極当然の疑問だが。自分で殺せないとなると…きみならどうするかね?」
「そりゃあ…肉屋に買いに行くしかないだろ」
「だが彼らは自分達の家畜を食べているぞ」
「ううむ…検討つかんな」
なかなか良い方法が思い浮かばない様子のアルデバランを認めてシャカが答えた。
「異教徒が代行するのだよ」
「おお…なるほどなあ」
「ムウ、きみも敬虔な仏教徒ではないのなら自分で絞めるのではないかね」
無論という顔でムウは頷いた。
「今はしていないが、昔は私も家畜を持っていたからな。そこの壁に掛けてあるヤクの骨は私が飼っていた最後の一頭のものだ。」
「えっ、ムウ様自分で殺してたんだ…!」
その場面を見た事のない貴鬼が驚いて顔を上げたのに対し、ムウは目を細めた。
「見ていて楽しいものでもないでしょう」
「そりゃ、そうだけど…」
「子供の頃は手に職も無かったですから。村に行って〝それ〟で肉を分けて貰ったものです」
そんな師匠の姿は想像した事もなかったのだろう。貴鬼は食べることも忘れてぽかんとした様子だ。アルデバランも先ほどから視界の端に入っていたヤクの頭骨とムウを交互に見た。
「何です二人共変な顔をして。暴れさせると肉の質が落ちますし一瞬で終わらせないと動物も苦しみます。これは老師に教わった方法なんですが…」
何が気に障ったのか、むきになって説明を始めたムウの話をよそに、
「…貴鬼…お前、師匠孝行してやれよ」
アルデバランは優雅に見えた牡羊の認識を内心で改めながら、やはり複雑な心境そうな顔をしている弟子にこっそり耳打ちした。
そ知らぬ顔で黙々と食べていたシャカは、饒舌なムウの分け前に箸を伸ばしていた。
楽しい(?)昼食のあとムウは用事のついで、弟子と二人の客を連れて近くの村に出かける事にした。
家を出る前に何やら怪しい小袋に薄い外套のようなものを持つムウ。
それには全く気にならない様子の貴鬼。
ここに来てからというもの、目に映る光景の全てが珍しいアルデバランは、細かい所にも気付いて興味津々といった感じだ。
「貴鬼、今日はそう時間も無い。近くまでテレポートで向かうぞ」
「はい、ムウ様!」
貴鬼は自分の客の傍らに立ってその逞しい片腕を掴んだ。「ん?」とアルデバランが返すまでも無く二人の姿が消えた。
クスッ、とムウは笑った。
「アルデバランが来るのが余程楽しみだったようだ」
「ああ、それで…弟子の客人だったという事か」
彼がここにいる理由に合点がいったシャカも微笑み、ムウは無言で頷いた。アルデバランがいつまで黄金聖闘士でいるか判らないが、自分の後継として貴鬼が牡羊座の聖衣を賜った日に、彼が隣宮にいてくれたらどんなに頼もしいだろうと思う。
(そう言えばアルデバランの弟子の話は聞いた事が無いな…)
この数日中に聞き出そうと考えていたムウだが、何か言いたそうな気配を感じてすぐ隣を見る。
二人にとって久々の、水入らずの時間だった。ムウは揶揄う様な流し目を送って囁いた。
「フフ…この数分でも遅れたら不審に思われるかな」
「忘れ物をしたとでも言えば良いだろう」
「この私が?耄碌するにはさすがに早過ぎる」
さっさと行くぞ、とシャカの袈裟を軽く引っ張った。
「今だけだ」
ムウは懐かしい言葉を耳にして小さな声で笑い出し、シャカの手が楽しげに自分に触れるのを見逃してやった。少しの後、そんな二人の姿も消えてジャミールに爽やかな風だけが吹き残った。
村の近く、人気の無い場所に先行した二人の気配を感じたムウはシャカと共に降り立った。
「すぐ来ると思ったのにムウ様遅いじゃないですか」
「憚りだったんだよ…シャカが」
「それならしょうがないか、シャカいっぱい食べてたもんね!」
「………」
理由が判れば貴鬼の不満も落ち着くだろうと、シャカは無言で流した。
「ああそうだ、シャカにこれを」
「ん?」
ムウは思い出したように彼の背後に廻り、懐から細長い布を取り出してシャカの顔に目隠しするように巻いた。更に綺麗な金髪も横に流して束ね、最後に持っていたフード付の薄い外套をかけた。
「何だね?これは」
「きみは色々と派手だから。厄除けのようなものさ」
それから四人は和やかに話しながら、とある村に辿り着いた。
厳しい自然と長い年月、共生してきたのだと判る石積みの家並み。周囲の麦畑は収穫の時期らしく、麦刈りをしている牧歌的な風景が広がっていた。村の入口が見えた頃、一行に気付いた子供達が何人か駆け寄って来た。最初は余所者のアルデバランとシャカを凝視していたが、顔馴染みのムウが自分の友人だと伝えるとすぐ明るい表情になった。そしてやはり見知った顔で歳の近い貴鬼に寄ってたかり、もみくちゃにしながら村に連れて行った。呆気に取られていたアルデバランは、辺りが静かになってから豪快に笑い出した。
「ハッハッハ!まるで玩具だな」
「フフ、毎度の事なんですよ。シャカ、きみもああなりたければさっき身に付けたものを外すと良い」
「…遠慮しておこう」
三人も貴鬼の後に続いて村に入った。
♉
村に入ると最初に、ムウは俺達を先導して村長に目通りした。俺と…シャカもか。俺達二人は現地の言葉はさっぱりだ。後ろで黙って座っていただけだが、どうやら歓迎してくれているようだ。人や建物の見た目は違っても俺の地元の村と変わらんな、と考えていたら、ムウに弟子の様子を見て来るよう頼まれたのでその場を後にした。
村長の家から出るとすぐ、服から髪までボサボサになった貴鬼を見つけた。あれからずっと子供達の相手をしていたのは明らかだ。貴鬼は俺に気付くなり、息も絶え絶えの体で助けを求めて来た。
「さすがの貴鬼もこのざまか、ハッハッハッ」
「はぁ~疲れた…久しぶりだからってはしゃぎ過ぎなんだよアイツら」
「お前に会えて嬉しかったんだろうよ」
「ヘヘン、ここではオイラ兄貴分だからね!」
俺が通っている孤児院に時々貴鬼を連れて行くが、そこでも子供達の頼れる兄貴って感じだ。まだ未熟ながら牡羊座の片鱗を見た気がして微笑ましい。
「ムウ様とシャカは?」 聞かれてさっきの建物を親指で刺した。
「あの二人はまだあの中よ。俺はお前さんの世話役らしい」
「逆でしょ、アルデバランはここの言葉喋れないんだから」
そうだった。一本取られたと笑っていたが、さてこれからどうすれば良いのやら。
「ムウ様にはお客を働かせるなって言われてるから…オイラの畑仕事でも見ててよ!」
「おお、村の手伝いか。」
「この村小さいだろ、今の時期になると人手が足りなくなるんだよ」
「何なら俺だって手伝うぞ」
俺は肘を曲げて上腕二等筋を見せた。
「そんなに働きたいなら…アルデバランにはピッタリな仕事があるよ」
言うなり貴鬼はニタァと不気味な笑みを浮かべた。
「おいおい、あまり引っ張ってくれるな」
参ったな。
貴鬼の言う俺に〝ピッタリな仕事〟とは子供達の相手だった。この村では俺のような大男が珍しいのか、 子供から大人までもがまじまじと見てきたがそんな事は慣れっこだった。少し子供達の相手をしたら俺が怖くないと判ったからか、次から次へと木登りのように〝俺を〟登り始めた。刈り取られた麦畑の片隅でデカい案山子と化した俺に群がる子供達は小鳥ってところか。言葉が通じなくても遊びでコミュニケーションがとれるのは良いが、これじゃ俺まで貴鬼のようにボサボサの鳥の巣にされてしまう。
子供達から熱烈な歓迎を受ける俺から少し離れた所で、貴鬼は真面目に麦刈りをしていた。鋭い、とはとても言えない年季の入った鎌でもってザクザクと器用に刈っていく。たまに「あいてっ」と聞こえるのは麦の葉や茎で手を切っているのかもしれん。
それでも麦穂を見る目は輝いて俺には楽しそうに見える。
「疲れたら代わってやるぞ、貴鬼」
「へへっ、その手には乗りませんよーだ!」
やれやれ、俺は客じゃなかったのか?一つため息をついたら思い出したので聞いた。
「これ(麦刈り)を手伝わんのか?ムウは」
「ムウ様は別のお仕事があるのさ。ここでオイラは兄貴だけど、ムウ様は〝先生〟だからね!」
「先生?」思いがけない単語に変な声が出た。
「やあやあ先生、お久しぶりですな」
「こんにちは、ツェリンさん。体の具合はどうですか?」
「以前見てもらった所はすっかり。ところが一昨日行商中に転んでしまって足をやっちまいました」
「私が診て差し上げますよ」
ムウはシャカの手を引いて初老の村人の家を尋ねた。この土地の言葉は喋れないシャカだが、少しだけなら聞き取る事が出来る。
どうやらムウはこの村で医者のような役をしてきたらしい。
(ほう、これも手に職…というものかな)
ツェリンという名を持つ村人と会話を楽しむムウの後ろでシャカは静かに座っていた。ジャミールの館から持ち出した小袋の中身は薬の類で、それを使って無償で手当てをした。彼がこの村で〝先生〟と呼ばれる理由を、共に行動するシャカは理解した。そうやって薬の処方が必要な村人の家を数件、ムウはシャカの手を引いて回った。目隠しをして喋る事の出来ないシャカの事を村人に聞かれるたびに「私が診ている患者で、家に置いておけないので連れてきた」とムウが答えた。
回診が終わった二人はアルデバランと貴鬼の様子を見に行く事にした。
村から少し離れた場所にある麦畑は、傾いた日が一層の黄金色へと染めて美しかった。
その黄金に続く道を二人は歩いていた。
「きみが医者の免許を持っているとはね」
「持っている訳ないだろう」
「これは驚いた、無免許か」
「書物から学んだ雑学程度の簡単な治療だ。老師に教えて頂いた漢方と合わせて処方するだけで、さすがに外科はしない」
ジャミールで〝自分が生き延びるために〟身に付けたのだろう、とシャカは察した。
「インドでも珍しくないだろう、辺境の村には医者がいない。もっともこの村の人はその辺りの草を薬に使うがね」私はたまに薬を届けるだけだ、とムウは言った。
「なるほど。まあ私は気分が良いがね、きみが先生であるここでは、堂々と手を繋いでも怪しまれない」
シャカはムウの手をやんわり握り返した。
「らしくない、こんな事で恋人気取りか?」
「きみこそ何をとぼけているのだ」
〝気取るもなにも事実だろう〟とムウには聞こえた。
「…………」
間が空いた、と感じてシャカは微笑んだ。ムウが呆れるか赤面しているのだ。
「手を引いて歩かないときみが怪しまれるから」
「判っている。私は嬉しいと伝えたいだけだ」
ムウは再び無言になった。
♉
その頃。
子供達が村へ帰って役目から開放された俺は、やはり麦刈りが終わって腰を下ろした貴鬼と剥げた畑の脇で話をしていた。
「この村は働き者ばかりだな」遠くの方でまだ作業をしている村人達に目をやる。
「昔からさ。近くに町も店も無いから食べ物は大事だし」
「毎年来るのか?」
「この時期はね!今はムウ様も忙しいから去年もオイラ一人で手伝ったんだ」
「そりゃあ…貴鬼も働き者だな」
貴鬼の頭をクシャッと撫でた。麦刈りで髪に紛れ込んだ麦の葉がはらはらと落ちた。聖戦から何年経ったのか…この子は随分成長した気がする。
「だがお前が黄金聖闘士になったら手伝いに来られなくなるんじゃないか?」
「うーん…それはオイラも気になったんだけど」(もうそんな事まで考えるようになったか、これは牡羊座の世代交代もいよいよじゃないのか?)「なんか他の黄金聖闘士見てるとさ、夏に結構休めてるじゃん。オイラはこの時期に休み貰おうかなって」
夏休みという言い方には苦笑したが、自分の休暇を人のために使いたい、と考えるこの子の優しさは殊勝そのものだ。
「お前が黄金聖闘士になったらムウは」
「えっ?」
「どうするんだろうなあ…白羊宮に留まるとは思えん」
「……そうだね」
おっとこれはまずい話を振ったかな。少し悲しそうにも見えたが、貴鬼は顔を上げて微笑った。
「そうだねでも…オイラ、ムウ様が生きててくれるならそれでも平気だよ」
「ほお、なるほどなぁ」俺は頬杖を付いた。そう言えばこの子は聖戦で一度失っていたんだもんなぁ、親同然の師を。生きている今が、いつでも会いに行ける事がどれだけ幸福な事かを理解したのだ。
「…俺もお前みたいなのを弟子に欲しいなあ」
「え?!オイラがいいの?」
「今からでも遅くない、俺の弟子になるか?」
「げぇーっ、嫌だよそんなの!」
「ハッハッハ!お前は牡羊の星を背負っとるしそうもいかんか」
だが俺は物心ついた時から暮らして来た家族が、人生で道を分かつ時の言いようのない喪失感を思い出していた。貴鬼は二回、ゆくゆくは三回ムウとの別れを経験するのか。
(ちと酷よのう、お前の師匠は)
俺はなんだか鼻の下がむず痒くなって、指で擦った。
「何を話してるんです?」
「おぉ?!」
背後から当の師の声が聞こえて俺は飛び上がりそうになった。
「貴方ともあろう人が人の弟子を引き抜こうとするとは」
アルデバランが振り返ると腕を組んで剣呑な表情のムウ。その後方にはシャカがおまけのように立っていた。
「驚かせるなよ、ムウ…ひょっとして全部筒抜けか?」
「たまたま低い声で〝俺の弟子になるか?〟と聞こえたのですよ」
全部聞かれた訳ではないからか、アルデバランは安堵の溜息をついた。
「気にしなくていいぞ、冗談だからな」
「そうでなくては本当に冗談では済まなくなります」
まったくもう!と、一息吐いたらムウはいつもの表情に戻って辺りを見回した。
「貴鬼、手伝いは終わらせたのですか?」
「それはそれはもうバッチリ!」
「俺も見張っていたがよく働いていたぞ」
「どれ、手を見せてみなさい」
貴鬼は疲れも見せず立ち上がる。ムウの前で両手を広げて見せた。先程アルデバランが気にした通り、貴鬼の左手は切り傷だらけだ。鎌を使っていた効き手である右手もマメが何箇所か潰れていた。しかしそれを見たムウは満足そうに頷いた。
「横着しないで頑張りましたね。帰ったら治しましょう」
そして持っていた消毒薬と傷薬を塗って布で巻いてやった。小宇宙で治療はせず、ここでは一般人として振舞う事を心がけている様だ。
「アルデバラン、貴方はどうです。どこか悪い所は?」
心当たりが全く無いアルデバランは首を横に振った。
「そう、それは良かった。貴鬼に手伝わされずに済んだんですね」
「まぁ……子守りはあったがな」
「なるほど、それでその髪ですか」フフッとムウが笑う。いつもは後ろに流して綺麗に整えられているアルデバランの髪はバラバラに広がっていた。
「二人ともお疲れ様でした。夕食は村でご馳走を頂くことになっています。戻りましょう」
四人は日が沈んで薄暗くなってきた灯りの無い道を辿って村に戻った。
自分の影を踏むようにぴょんぴょん跳ねていた貴鬼が、振り返ってムウとシャカを見た。
「ムウ様、いつまでシャカの手を繋いでるんですか?」
「村を出るまで、ですよ」
すると珍しくシャカが口を挟んだ。
「貴鬼、妬いているならきみも反対の手を繋いだらいい」
「オイラはいいよ、もう子供じゃないからね!」
少し後ろを歩くアルデバランは三人を見て笑った。
「ハッハッハ、お前さんら本当に仲がいいなあ」
それぞれの距離を持って歩く四人の影が、砂利道に細く伸びて映った。